2022年12月27日

君はKFCを食べたか

学生時代からの友人であるシンガポール人のHから、日本人のクリスマスの過ごし方についての記事が送られてきた。

「クリスマスにKFCで食事をするという、日本人のこの習慣は本当なのか。実に面白い」と彼のコメントがついていた。

BBCのウェブサイトの記事だ。そこには、毎年、日本では360万もの家族がクリスマスにケンタッキー・フライド・チキンの店に押し寄せると紹介されている。

日本人はKFCが大好きらしく、クリスマス・シーズンには何週間も前から店を予約しておかねばならず、予約がないと何時間も彼らは列にならぶことになる、とも書いてある。

日本にある1100店あまりの中にはそうした店もあるのかも知れないが、それが一般的とは思えない。KFC1店あたり平均3300家族がクリスマスに訪れるというのは、誇張されてないか。

英国人にしてみれば、キリスト教徒ではない日本人が宗教的意味を考えることもなくクリスマスを単なる商業主義の行事にしているのが不可解、そして不愉快なんだろう。

彼らのそうした感情は分からないではないが、こう誇張して面白おかしく書きたてるようなものではないと思う、とHに返信しておいた。

2022年12月26日

おにぎりの形をした時計を買ったわけ

自動車ディーラーに行き、これからの季節に備えてタイヤをスタッドレスに替えてもらった。

ガレージで作業をしてもらっている間、いつもすぐ近くにある園芸店で買い物がてら時間を潰すことにしている。

その店の雑貨コーナーに展示していたおにぎりを逆さにしたような形の時計に目がとまり、面白いなと思い、つい購入した。

 
時計を探していたわけでもないのに、どうしてそれが気になって購入したのか自分でも分からなかったのだが、あとでその理由に気がついた。

ディーラーでタイヤ交換の受付を待っている間、テーブルの上にあったメーカー発行の冊子をめくっていたところ、そこにそのメーカーがかつて開発していたロータリー・エンジンの特集記事が掲載されていたのだ。

その独特のおにぎり型をしたエンジンのローターが無意識のうちに頭の片隅にあり、園芸店で時計に手を伸ばさせたのだろう。なるほどである。

2022年12月25日

Glass Onion

ネットフリックスで「グラス・オニオン」が公開されている。ばかばかしくも目が離せないジェットコースター気分が味わえる映画。

舞台はギリシャのとある島。イーロン・マスクをモデルとしている超富豪が所有するそのプライベート・アイランドへ8人の男女が招かれ巻き起こるさまざまな騒動が描かれている。

ストーリーの節々で使われる「アイテム」が気になる。FAX、昆布茶、ビートルズ、D・ボウイ、ヒュー・グラント、ヨー・ヨー・マ、セリーナ・ウィリアムズ、ジャージパンツ、iPad、Googleアラート、The Innovator's Dilemma、紙ナプキン、Disruption、そしてモナリザ。

世の中的にはもう終わってしまった通信機器と考えられているファクスが効果的に使われている。これはSNSやDXなんて考え方へのカウンターなんだろうが、この映画を観ていてファクスの面白さ、使い勝手をあらためて再確認した。 ファクス、いいじゃない。

そんな点も含め、この映画にはジョン・レノンが「グラス・オニオン」の歌詞に込めた諧謔と悪戯の精神がたっぷり込められている。

2022年12月23日

電子マネー時代に托鉢僧はどこへ行く

クリスマス気分で賑わう横浜。高島屋の前を通った際、托鉢をする坊さんを見かけた。新型コロナの感染拡大以来、そうした人は見かけたことがなかったので珍しかった。

2時間ほどのちに再度見かけた彼は、先ほどと寸分違わぬ場所に寸分違わぬ様子で立っていた。

脇にはキャリーバッグがある。どこから来たんだろうという興味がわき、幾ばくかの布施を喜捨し話しかけたところ、長野県の小布施町の臨済宗の寺からだという。

人々がスマホで支払いをするようになってきている今の時代に、托鉢で金を受け取れるのかどうか訊ねてみた。(余計なお世話だ)

彼は「お気持ちだけで」と応えた。それはそうなんだろうが、托鉢僧に紙幣を渡す通りがかりの人は多くないはず。実際、彼の持っていた器には紙幣はなく、100円玉と500円玉だけがそこにはあった。なぜか10円玉、50円玉は1枚もなかった。

・・・なんてことを考えながら帰宅後、托鉢について調べてみると、今日出会った坊さんはほぼ間違いなくニセ者だということが分かった。

まずは彼の装い、禅宗の僧が托鉢する際に身につける袈裟をまとっていなかった。着物の下にタートルネックのセーターを着込んでいた。読経をまったくしていなかった。そして、そもそも彼が言った臨済宗の寺は小布施町に存在しなかった。

この男は、何か理由があって托鉢僧を装って小遣い稼ぎ、あるいは生活費稼ぎをしていたのだろう。

騙されて金を渡してやったことになるが、寒風のなか立ち続けていたあの男には何か訳があったはずで、それを思うとそうしてやってよかったと思っている。

よく見ると、なりがおかしい。東京の合羽橋で買った托鉢セットだろう


ところで、お金が電子化されていく時代に托鉢僧が存在し続けるのか気になったことがきっかけだったのだが、托鉢はあくまで修行が目的の行為であることを考えれば、本来はお布施の有無など関係ないのだろう。つまり、本当の托鉢はなくならないってことだ。

今度は本物の托鉢僧にヒアリングしてみたい。でも、話しかけると修行の邪魔か。

2022年12月19日

瀬戸内海の豊島へ

日本中が大寒波に覆われた日、瀬戸内海をいくフェリーで豊島に渡った。さすがに風は冷たいが、空気が澄んでいて空はきれいだった。唯一無二の豊島美術館を訪れていた外国人観光客たちもこの寒さに口数が少ない。

2022年12月17日

Apple's Greatest Commercial

毎年12月3日は、国際障害者デー。障害者問題への理解促進、障害者が人間らしい生活を送る権利とその補助の確保を目的とした国際的な記念日だ。

それにタイミングを合わせてか、アップルが新しいコマーシャルを作った。「I am the greatest」と訴える音楽をバックにさまざまな障害者が登場する。どの障害者も活き活きしている。

仕事に向かう彼ら、化粧をする彼ら、クルマを運転する彼ら、アーティストとして作品作りに打ち込む彼ら、仲間と一緒に学校でチアリーディングをする彼ら、ステージで演奏する彼ら。

社会の中に溶け込んでいく障害者らの姿と、それをサポートするアップルのアプリ。障害者の姿を紹介するとともに、ボイスコントロールや音声認識、ドア検知などの最先端機能をうまく見る者に理解させている点でもよくできている。

歌の中で繰り返される「I am the greatest」は、モハメド・アリの言葉。そしてコマーシャルの最後のキメのメッセージ「I shook the world」も彼の言葉である。

2022年12月16日

日本国民の年収だけ上がらぬ理由

先日、ニュースから高齢者の年収について書いたが、それで思い出したのがOECDの調査による平均賃金の主要国比較である。

1990年からの推移をみると、日本はこの30年間ほぼフラット。その理由は、上の図を見れば推測できる。図に示された6つの国と比較すれば明らかだろうが、経済的にこの30年間成長していない。

日本は30年前から、つまりZ世代が生まれる前から経済的にはずーとその場で足踏みを続けている。その場で足踏みどころか、高度成長期を懐かしがって後ろを向いたままかもしれない。

ところで、国民一人当たりの名目GDPを見てみると、日本のそれは今年台湾に、来年韓国の後塵を拝するようなると予測されている(日本経済研究センターの昨日の発表)。アジアのなかで、日本はすでにシンガポールと香港に一人当たりGDPで抜かれている。

2021年の日本の一人当たりGDPは世界ランキングでは第27位。2000年のそれは(今では信じられないが)下図が示すとおり世界第2位だった。


経済指標のランキングで、われわれの社会や生活が急に変わるわけではない。ただ、僕が心配しているのは、お隣の韓国と台湾に抜かれることが日本人にどんなメンタルな面での影響を与えていくかだ。

かつて世界第2位の経済大国を謳歌し、「ジャパン・アズ・ナンバー・ワン」と称えられた国の自分たちが直面する<ダメになった自分たち>をどう受け入れて進んで行けるかである。

一番気を付けなければならないのは、経済指標の数字などではなく、アイデンティティと自信を失い、今以上に現状維持へのバイアスを強くしていく脆弱な日本国民の姿とその将来だ。雪崩を打って坂道を転がり落ちていく姿が浮かんでくる。

日銀が金融緩和策を継続することで円安が続き、こうした将来予想が一気に早まっている。

2022年12月14日

年収200万円の位置

昨日、厚生労働省が後期高齢者の医療保険料の引き上げ方針を決めた。

発表によると年収によって保険料が増加するタイミングが異なっている。年収211万円を越える人は2024年度からだが、年収211万円以下の人は1年だけ「猶予」措置がなされて2025年度からとなっている(年収80万円の人は増加額なし)。

気になったのは、「低所得者層は据え置き、年収200万円程度の中間層は負担増を一年猶予する」との説明。

年収200万円の人を国は「中間層」と考えているようだが、これって月収にすると17万円弱。これは、<すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する>と定めた憲法25条に適合しているのだろうか。

確かに最低限度は満たしているかもしれないが、真に健康的で文化的を長期的に営むことが可能になっているかは疑問だ。この年収を中間層だとして社会保障の負担増を押し付けるのは問題ではないのか。

2022年12月12日

やっと公開捜査へ

八王子で都立大の宮台真司が暴漢に襲われた件で、犯行から2週間過ぎてやっと犯人と思われる人物の写真が公開された。

公開された写真は、講義後の宮台が駐車場に向かう途中のカメラが捕らえた犯人とおぼしき男の画像だ。警視庁捜査一課によれば、身長が180〜190センチ、オレンジ色のニット帽を被り、黒っぽいジャンパーとズボンを身につけ、リュックサックを肩にマスクをしているとか。

これで犯人の糸口が見つかると警視庁は考えているのか。犯人の身長は犯行から2週間たってもかわらないけど、ニット帽もジャンパーもリュックもすでに処分されてるだろう。

自分たちの捜査が思うように進まず糸口がこのままでは見つけられないからと、やっと公開捜査に踏み切った。遅きに失している。適切な初動判断が行われなかった結果だ。

これで真犯人が見つかるのだろうか、実に心許ない。

2022年12月5日

アニー・エルノーの作品を映画化

映画『あのこと』は、2022年度のノーベル文学賞を受賞したフランスの作家、アニー・エルノーの自伝的小説 L'événement が原作。日本では「事件」という題名で出版されている。英語版はEvent。

先日の『アムステルダム』とは対照的にテーマとストーリーは極めてシンプル。1960年代のフランスで予期せぬ妊娠をした一人の女子大生が、いかにして堕胎をするかというのがすべて。

当時のフランスでは人工妊娠中絶は違法。本人だけでなく医師も、それを幇助した者も罰せられることになっていた。

未婚の母になれば学業を続けることは無理。自分が思い描いた将来は遠のいて行ってしまう。かといって医師らは罪に問われるのを避けるため中絶手術を拒む。彼女は、最後には自分自身で片を付けることになる。

この作品は、どうしようもなく痛かった映画。これほど身を固くして観た映画は他にちょっと思い出せない。

今年6月、米国において共和党支持者が半数以上を占める連邦最高裁が、それまで合憲としてきた人工妊娠中絶を違憲とした判決を行ったことを否が応でも思い出す。

この作品は焦点を中絶に絞ったうえで、法律が人の生き方を不条理に縛っていること、社会が個人を抑圧し、その自由と未来を奪う同調圧力に満ちていることをシンボリックに表している。省みられなければならない社会的規範はその他にもたくさんある、ということだろう。

本作でオードレイ・ディヴァン監督はベネチア映画祭金獅子賞を獲得した。

2022年12月4日

ロッテルダムでもよかった

映画『アムステルダム』は、錯綜するストーリーを負うだけでも大変だった。原作は1933年に米国で発覚した実際の政治陰謀事件を題材にしているとはいえ、日本では満州事変の勃発から2年後という90年ほど前の時代であり、正直言ってそうした背景にリアリティを持てなかった。

人種問題や富豪の腐敗、忍びこむファシズムの空気などを現代に結びつけて提示しようという意図もありそうだが、いかんせん話が入り組んでいる。重要な役回りの退役軍人の集まりなんてのも、日本とは状況が違う。

戦場で目を負傷して義眼をいれた主人公のクリスチャン・ベールは真面目に演じているのか、コメディタッチでやっているのか。全体的にエンターテイメント色を醸し出そうとしながらも入り組んだストーリーラインを観客に追わすことで、笑いが表から引けてしまっていた。

マイク・マイヤーズが出ているのを見られたのが収穫。


2022年12月3日

「朝の来ない夜はない」

これはある銀行の副頭取だった人物が、再建のために移った鉄道会社の経営者に就いた際に社内外で言っていた言葉とか。

よく耳にする言葉で、「いまは耐え忍ぼう、やがては希望の光が差してくる」と人を鼓舞するのにふさわしい言い回しだが、実際は必ずしもそうではない。

「More Very Finnish Problems」というペーパーバックをめくっていたら、When it's so dark you don't know whether you've overslept of underslept と題する文章が目に付いた。この本、ヘルシンキの空港で乗り継ぎの際に時間つぶしのためにキオスクで買った一冊。 

なぜフィンランドかというと、昨日、3年ぶりにフィンランドからサンタクロースがフィンエアーに乗って(トナカイではなく)成田空港に到着したニュースを見たからなのだけど。

毎日新聞社のサイトから

先の本によると、10月から3月までフィンランドの北部ラップランドでは日が昇らない。

そのためこの季節には、SAD(Seasonal Affective Disorder 季節性感情障害)に悩まされる人が多く発生する。うつ病のようなもの。症状としては、疲労感、睡眠過多、倦怠感、糖分欲求、悲壮感、罪悪感、自尊心の喪失、短気、社交の回避傾向などが現れる。

かなり深刻だ。だから、フィンランドに限らず、北欧諸国では長く暗い季節に自殺者が多く発生するんだろう。夜が過ぎてもいつまでたっても日が昇らないからだ。それも何ヶ月という期間にわたって。

「朝の来ない夜はない」が口癖の鉄道グループの経営者は、そうやって社員と自分を励ましているのだろうが、容易に朝がくるのを求めてしまうと症状はさらに悪化する。

何日も何ヶ月も日が昇らなくても平気の平左で生きていくしかないことだって、よくあるはなし。

そうした耐性が、これからの日本にも日本人にも強く求められるようになる。たとえ朝が来なくても、人は生きていかなければならない。気の利いた台詞は、時として状態を悪化させるだけである。

2022年11月30日

センスは技術、技術はセンス

俳句は技術だと俳人・夏井いつきは言う。

すぐみんな言うんだよ
「感性」とか「感覚」とか「センス」とか
それの部分がないとは言わないけど
でも言葉を組み立てていく作業というのは
もう単なる技術
技術は身につけられるんです

先日見たNHKの番組のなかでの彼女のコメント。その通りと膝を打った。俳句だけじゃない。詩も短歌も技術がいる。どれもセンスだけじゃだめだろう。

だけど、その技術を身につけられるかどうかは、センスのあるなしに左右される。

一方、経営はセンスだ。マーケティングもセンスだ。知識は基本的なところで必須だが、知識をいくらノー味噌に詰め込んでもセンスのない奴はやっぱりだめ。

だから、記憶力自慢の偏差値秀才が経営学をどれだけ学んでも、それだけでは優れた経営者にはなれない。輝くマーケターにもなれない。

もし知識と技術だけでいい経営やいいマーケティングができるなら、早晩、生身の人間はいらなくなるはず。だけど絶対そうはならない。だから面白い。

2022年11月25日

バイバイ、ネクタイ

昨日、誕生日だった。カッパ年齢で36歳になった。カッパ年齢は、わが家が用いている独特な年齢の数え方。https://tatsukimura.blogspot.com/2012/11/k46.html

毎年の誕生日には、その記念というか記録のひとつとして本を買うことにしている。その時その時に何を考えていたか、後で知ることができる。今年選んだのは、金子光晴とロレンツォ・ヴァッラと竹原潔。
 
同じ誕生日の著名人に、あの『エチカ』を書いたスピノザやアンリ・ロートレック、スコット・ジョプリンがいる。
 
わが師、スピノザ

昨日は、夕方からゼミ。学生たちがバースデーケーキを用意してくれていた。嬉しいね。クリームが温まらないよう、それまで冷蔵ケースに入れて大学のなかを持ち歩いていたらしい。
 
誕生日を迎えることと同様、時間の流れを感じたといえば、今朝がた洋服ダンスからセーターを何枚か取り出した折に、そこにかけられていたネクタイをすべて取り出して整理したこと。実は以前から、そろそろネクタイを片付けなければと思いながら、手を付けずにいた。

取り出し並べたネクタイは42本。これが多いのか少ないのか。一般的なネクタイの所有本数なんて聞いたことないので分からない。

ネクタイをしなくなってずいぶん久しい。そもそもが、僕はネクタイをするのが嫌いで企業勤めをやめ、大学研究者という個人商店稼業を始めたところがある。今ではネクタイをするのは年に数回あるかどうか。冠婚葬祭の時と大学の卒業式に参列する時くらい。
 
そうしたこともあり、冠婚葬祭時にするネクタイは別として、それ以外のネクタイをこの機に一気に処分しようと思った。ブランド物なんかもあったが、自分で選んだネクタイは1本もない。つまり、どのネクタイも誰かからもらったもの。それでも中には大剣の先が少しすり切れてるのもあって、「あー、このネクタイは気に入っててサラリーマン時代にはよくしていたなー」と思い起こさせるものもあった。

その時々で、といってもネクタイを日々締めていたのは遥かむかし、今から20年以上前のことだけど、その時の気分や携わっていた仕事がネクタイを手にしながら頭に浮かんでくるのは不思議だ。ネクタイ姿というのは、必ず鏡で見て確認する。そのときの自分の表情と一緒に。だからネクタイは「気分」と一緒に記憶されているんだろう。

もうネクタイをこんなにたくさん必要とすることはないだろうと、今回その半分余りを処分した。本当は20本も残しておく必要などなく、3本、いや1本だけ残しておけばそれで済むかもしれないが、そこまで踏ん切りが付かなかったということか。
 

来年の誕生日には、今年残したネクタイの数をまた半分にしよう。

2022年11月23日

替え玉受検から企業と大学の問題を考える

企業が行う採用試験のウェブテストを大学4年生の替え玉として受検したという電力会社の社員が逮捕された。

その男、ウェブテスト代行を掲げるサイトで「京都大学大学院卒/元外コン勤務/ウェブテ請負経験4年、1人で4000件以上、通過率95%以上・・・」と掲載していたが、外コンというのは外資系コンサルティングのことか。ウェブテとはウェブテストのことか。文字数の制限があるわけでもないのに妙に縮めて言うやつは、まず胡散くさい。

その容疑者の実績(?)は、4年間で4000件以上を替え玉したというからスゴイ。これだけ数をこなせば、間違いなくベテランだ。どうせテスト業者が作問する内容など似たり寄ったりだろうから、慣れてしまえば目をつむっていても解答できるに違いない。通過率95%は嘘じゃないかもしれない。

さらに驚いたのは、依頼した方の学生は企業23社のウェブテストを彼に替え玉させたこと。23社(あるいはそれ以上)も受けるんかい。たいへんだな〜。

企業での導入が始まって20年ほどになるらしい。今では上場企業の約8割がウェブテストを実施しているとか。

そして企業へのアンケートの結果によると、採用担当者の約6割がこの種のテストに関して不正行為の懸念があると回答しているが、彼らはSNS上にウェブ受検代行を謳うサイトが溢れているのも知っていながらそのやり方を延々と続けている。

テストを実施する理由を企業の担当者は、入社後の適切な配属のための貴重な情報などと言っているが、そうであれば採用後に行えばいい。

結局、問題を作成したり、その実施を請け負っている就職関連企業が儲けているだけのはなし。企業は恰好のカモになり、学生は不要で面倒な手間を負わされているのが実態だ。

人事部による4月の一括採用なんかやっているからだろうな。発想を変えて、人を必要としてる部署が人を募集する。「こんな奴が欲しい」ときちんと考えている現場担当者が候補者を選ぶようにすればいい。人事部門は面倒な手続き等のサポート業務を行う。そして採用後は、インターンとしてある一定期間その人物の働き方を見て、本採用の条件等を判断すればいい。

旧弊から抜け出せず、抜け出そうともせず、誰もがヘンだと感じながらぬるま湯から出ようとしない。採用する企業、採用されたい学生、その間で儲けようとする就職関連業者、学生につけ込むテスト代行者、どれもこれもだ。

えっ? 大学はどうなってるのかって? 

そうだね、そもそも企業がこうしたテストを大学卒業予定者に課すのは、大学の成績証明書の中身が社会で信用されていないから。

確かに大学の成績など信用できないのが、昔からの一般的な日本の現状だ。わが国の大学教育の構造的問題。そこを少しずつでも変えていかないことには始まらない。

2022年11月22日

リスキリングなんかで学びを閉ざすな

「リスキリング」って言葉が今話題らしい。用語としての「リスキリング」が文字通り意味するところは、スキルを再取得することなのかね。こうしたカタカナ言葉ってウサン臭さプンプンでいいね。

で、われらが岸田ソーリが目玉施策のひとつに掲げ、「今後5年間で1兆円を投資する」とか。つくづく何考えてるんだろうと思う。大人の学びは千差万別。だから実体があるかどうかなど関係なく何でもありになってしまい、そこに触手を伸ばす有象無象の業者による刈り取り場になる。

その1兆円、全国の小中学校の給食無料化や、介護施設で働く人たちへの所得補償に充ててくれたらいいのに。きちんとした給食は、子供たちの体だけでなく心も育てる大切なもの。日本の将来のために一番必要なことだから。

介護従事者への所得補償は、われわれの社会にとって不可欠な仕事であるにもかかわらず、全国の労働者が得ている所得に比較して低く抑えられ、しかも制度にがんじがらめにされ、またその仕事の特性から資本の論理がはたらかない領域だから。

需要と供給だけで介護ビジネスのすべての価格が決まるわけではないし、またそうなってはいけない。だから国の協力的介入が必要なのである。 

さてリスキリングだが、リスキリングをいま声高に叫んでいる人ほど、日々の中で学びから遠かった人たちが多い。大人になってからの学習や読書を少なくとも意識的にやって来なかった連中だ。

一方、リ・ス・キ・リ・ン・グ、だなんて力まなくても、僕の周囲のまとも人たちはみんないつだって学んでいる。日々の読書を楽しみ、新聞に目を通し、話題になっているトピックをもとに人と議論し、映画館や美術館、劇場に時間を見つけて足を運び、一日の終わりには日記と向き合い内省を忘れない。自分に求められる具体的な技能があると気づけば、金と時間を注いで集中的に身につけることをいとわない。

こうしたことは、当たり前のこと。彼らはみんな、何十年も前から変わらずそうした習慣を続けている。朝起きて歯を磨くのとおなじ。

いまさら国が「リスキリングが重要」だなんて、まるで「健康に気を付けましょう」とか「規則正しい生活をしましょう」などと言われているようで、まったくもって大きなお世話。

新聞などでは、リスキリングは必ず括弧付きで「学び直し」と表記されている。肝心なのは、<学び直し>(Re-skilling)じゃなく、<継続的学び>(Continuous Learning)なのだ。 

そもそもこの数年間、何かあるとイノベーション、イノベーションと叫んでいたのが、今ではリスキリングか。ずいぶんとスケール・ダウンしたもんだ。

2022年11月20日

語学は、たとえイイカゲンでも身を助ける。

見事な脚本、見事なストーリーだった。映画「ペルシャン・レッスン」。ナチスによる強制収容所を舞台に、主人公が生き延び、そこで何がなされたかを歴史の証人として語り継ぐことになる話はこれまでも数多く見てきたが、本作のようなサスペンス仕立ての映画は珍しい。

 
主人公のジルがドイツ兵に捕まり、他のユダヤ人と共にトラックに乗せられて森へ運ばれるところからストーリーは始まる。連れて行かれる先で、彼らはドイツ兵によって処刑されることになっていた。トラックの中で隣合わせた男から懇願されて、たまたまバッグに入っていたサンドイッチとペルシャ語の本を交換したことが彼を救うことになる。

他のユダヤ人が銃殺されるなか、その本を振りかざして自分はユダヤ人ではないと彼は主張する。ペルシャ人なのだと。そこにいた兵士が思い出したのは、収容所のコッホ大尉がペルシャ人を探していて兵士たちに褒美を与えることを約束していたことだった。

結果、彼はその場での銃殺を免れて収容所へ連行され、コッホ大尉に預けられる。そして毎日、囚人としての仕事の後、彼のオフィスでペルシャ語のレッスンをすることになる。コッホには、彼がナチに入党したことで仲違いした兄がテヘランにいるからだ。彼は戦争が終わったら自分もテヘランに行き、料理店を開きたいと思っている。

毎日、ジルはペルシャ語の単語をコッホに教える。勤勉なその大尉さんはそれをカードに書き、頭に叩き込んでいく。ジルはドイツ語に対応する新しいペルシャ語を「創造」する。彼は言う、「適当な言葉を創造するのはやさしい、問題はそれらを憶えることだ」。コッホに自分がペルシャ人でないことを悟られないためには、相手に教えた、何語でもない「いいかげんペルシャ語」 がペルシャ語ではないことがばれないようにしなければならない。

生き延びるために、綱渡りをするように日々ペルシャ語を「創作」していくジル。薄々そのウソに気づいている、コッホの部下のドイツ人兵士とのヒリヒリするやり取り。

冴えないひとりの男。ひょんなことから手にした運とその場その場の機転、秘めた度胸と仲間との友情が彼の命を救った。

千を超える言葉を創作し忘れないようにするためにジルが編み出した方法が秀逸で、しかも泣かせる。映画のラストで、収容所で行われた数々の人々の処刑の事実を明らかにすることにつながるのだから。

ナチスの親衛隊と言えば、理性のかけらもないロボットのような狂人集団のようなイメージがあったが、当然ながら、実際はひとりの男性看守をめぐる女同士の恋のさや当てのようなものがあったり、良くも悪くも人間くさい集団の姿が描かれているのがおもしろかった。

2022年11月19日

これまた、あまりに日本的な

先日、このブログで「日本製コロナワクチンは、どこへ行った?」という記事を書いたが、日本で新型コロナワクチンの開発が遅れているのは、開発元の製薬会社だけが原因ではないようだ。

ワクチン開発を進めていた塩野義製薬、第一三共、KMバイオロジクス(明治ホールディングス)の各社は、いずれも開発計画を見直し、延長した。またアンジェス社は、従来型ワクチンの開発自体を中止した。

その理由は、承認申請ができなくなったから。というのは、コロナ禍という未曽有の状況に対処するため、通常の申請とは異なり、治験の途中であっても安全性と有効性が推定できれば申請できる「緊急承認制度」の活用が推奨され、それにそって準備していたはずが、それができなくなったからだ。

厚生労働省が、製薬会社に対して第1〜第3段階の通常の治験手続きを終わらせたのちに申請するよう求めたのである。

なぜ方針転換がなされたのか。関係者によると、厚労省の役人が「緊急承認制度」で承認したワクチンによって万が一副作用などの被害が出て訴えられたら自分らが困る(責任を問われ、出世が止まる)と思ったから、というもの。

だから、ワクチンの有効性や必要とする症例数といった指標を何度にもわたり変更した。試験の追加も製薬会社に課した。

国産ワクチンを開発することで国民の命や健康に寄与することより、自分らが訴えられるかもしれない訴訟リスクを最小化する、あるいはリスクの完全排除が優先されたわけだ。

これはまた別の意味で、日本の国力の衰退の典型例のひとつである。

客にチップをはずまさせろ

長年にわたり髪を切ってもらっているOさんが自分の店を畳んで久しい。もうそれなりの歳だからで、今は昔からのお客さんの依頼があったときだけ美容師として働いている。

お客さんから依頼があると、知り合いの店の一画を借りて髪を切る。職人だから、はさみや櫛、カットケープなど自分の商売道具が入った袋を持ち運びさえすれば仕事ができる。

「包丁一本、サラシに巻いて」ではないが、道具さえあれば腕一本でどこでも、それこそ世界中どこででも仕事ができる人たちで、そうした連中をいつも尊敬してしまう。

人間の体に対してハサミという刃物を使う仕事だから、ロボットではそうそう代替できない。人の頭に髪の毛がある限り、われわれは彼らの世話になり続ける。

先日、彼に髪を切ってもらったあと、その日の次の予定まであまり時間がないなかで昼食を済ます必要があったため、髪を切ってもらった店の近くあったカレー屋に入った。大手のカレーチェーンだ。時間をかけずに食事をするのに向いている。

カウンター席は、1席ごとアクリルの板で仕切られている。コロナ感染防止のためだが、ニワトリのケージみたい。席に着くと目の前には小型のタッチパッドが置かれていて、それで注文する。カレーの種類と好みの辛さ、ご飯も盛り具合を選ぶくらいだから、簡単といえば簡単。

店にとっては、このコロナのタイミングでオペレーションを省力化したいのだ。客としてもスッと入って、パッと頼んで、サッと料理を出されて、ササッと平らげて、またスッと出て行くことができる。

ただ当然ながら、それ以外の外食の仕方もある。

これまた先日のこと、知り合いと4人で和食の店に入った。その日はメンバーの都合で早めの時間にということで集まり、われわれがその店の予約席に着いたときにはまだ先客はひと組もいなかった。

席に通されるや、案内してきた店員は「ご注文はこれでお願いします」とテーブルにおかれたタッチパッドを指さし立ち去った。2人ずつ向かい合わせに座ったテーブルに、10インチ程度のパッドが1枚。それで飲み物と料理を一覧した上で、人数分の注文をすることになっているようだ。

先の店員はというと、店の奥で他の店員とおしゃべりをしている。最初、パッドをくるくる回して向きを変えながら4人でメニューを見ていたが、当然ながらオジサンたちは自分らがやっていることがすぐに阿呆らしくなった。

おしゃべりに夢中になっている店員を呼びつけた。通常の(手に取れる)メニューを持って来るように言う。一瞬、嫌そうな顔を見せるが、軽く睨みつけると「わかりました」と言ってメニューを1冊持って来た。

客が4人テーブルについているのに、メニューを1冊しか持って来ない。こ店にはまだ他の客はひと組もいない。メニューが足らないはずはない。客に対する気遣いが足らないのだ。足らないのではなく、完全に欠落している。 

例の店員をまた呼んで、あと3冊すぐに持ってくるように言う。で、飲み物と料理の注文はパッドではなく、その者にすべて申しつけた。そもそもその時点で、誰かが注文用のパッドを掘り炬燵の下へ放り投げていたし。

最近の飲食店だけど、彼らは客商売のはずなのにそれほど客と話をしたくないのだろうか。不思議だ。メニューにある「板長の今日のお奨め」や「獲れたて鮮魚」についてパッド上でつまらない説明を読ませて、客の気持ちが動くと思っているのかね。

こっちが思わず注文せずにはいられないような生きのいい口上のひとつも聞かせてみろよ、というのは無理な注文なんだろうか。

そうしたサービス経験には、我々しっかりチップをはずんでやるんだけどね。

日本じゃ無理か。

2022年11月13日

関東大震災が起こって来年で100年

今日夕方、地震があった。震度3で結構揺れたが、幸いに長くは続かなかった。気象庁によると震源地は三重県南東沖。震源の深さは350km。地震の規模を示すマグニチュードは6.1だった。

震源地は東海エリアだったにもかかわらず、この地震での最大震度を記録したのは福島県と茨城県で震度4。

震源が100㎞程度より深い場所で発生した地震は深発地震と呼ばれ、沈み込むプレートに沿って地震波が伝わるために、震源の近くよりも震源から離れた場所の揺れが大きくなることがあるらしい。

これじゃあモグラ叩きみたいなもんで、深発地震が起こった場合、揺れというモグラがどこに顔を出すかわからないわけだ。

地震といえば、あの関東大震災が起こって来年で100年になる。その大震災が起こって2週間後、天変地異に見舞われ世の中が動転し、しっちゃかめっちゃかになっているのに乗じて甘粕正彦率いる憲兵隊に惨殺された伊藤野枝(享年28歳)についての本『村に火をつけ、白痴になれ』(岩波書店)を読んだ。

著者の栗原康はアナキズムの研究者らしいが、野枝とその愛人だった大杉栄を中心とする人間関係や、鬱屈とした時代の中で女性の自由な生き方が初めて日本に登場したころの社会の空気がいきいきと描かれている。

その文体は奔放で自由、というか、ある意味ハチャメチャ、乱暴。心底野枝に心酔し惚れていなければ書けないような文体なのだが、それにしても岩波書店がよくこの本をこの文体のままで出版したなと妙な感心をしてしまった。岩波も変わった。

日本では1920年に第1回の国勢調査が実施されており、当時の男性の平均寿命は42歳、女性は43歳だった。現在の平均寿命はそれぞれ81歳と87歳だから、当時は今のほぼ半分の寿命である。

それを知るとなんだか納得してしまうのだが、当時の人たちのその年齢に比べての成熟度には驚嘆する。いまでは「人生100年」が叫ばれているが、長けりゃいいってもんじゃないって事を野枝の人生をしると痛感する。

今のわれわれの生き方は、まるで安さだけが売りの居酒屋のハイボールのように、どうしようもないくらい薄味に思えてくる。

2022年11月11日

広告会社の経営者の発想はとても単純だ

広告業界世界最大手のWPP(英国)が日本での事業規模を向こう5年間で3倍にすると発表した。

同グループCEOのマーク・リードによれば「日本の消費者がデジタルに費やす時間は世界に比べて短い」とか。具体的には、「日本人の週あたりのネット利用時間は22時間38分、米国の46時間14分の半分以下」だそうだ。

だから、今後の日本の事業拡大を期待できると考えているのだろうが、このデータって本当だろうか? 週22時間38分なら、一日平均で3時間14分。そんなに普通の日本人がインターネットをやってるのだろうか。 米国人が平均一日6時間36分というのも信じられない。

いずれにせよ、国民のネット利用時間が長くなれば広告業のビジネスチャンスが拡大するというのは、今ではあまりにも発想が単純すぎる。

(追記)
国民生活時間調査(2020年度)の結果によれば、下図のように日本人のインターネット(+動画)利用時間は約1時間である。10代後半、20代が2時間を越えて他の世代に比べて長いが、それでも全体的にはテレビの視聴時間がいまだ圧倒的なのがわかる。


2022年11月6日

『写真はわからない』

『写真はわからない』は、カメラマンの小林紀晴が書いた優れた写真論である。

著者は写真は分からないというが、僕はこの本を読んで写真がわかった。もちろん全てがわかったわけではないけど、これまで写真について頭の中でモヤモヤしていたものが晴れたような気がしてすっきりした。

たとえば、写真は「窓」か「鏡」かという議論は、表現としての写真を見る際の明解な視点を与えてくれるし、写真に限らず多くの表現に共通している。だからか、これを読んで岡本太郎が芸術はうまくあってはならない、きれいであってはならない、心地よくあってはならないと言った意味がわかった。

著者がわからないと言っているのに、読者の僕がわかったと言っているのは、そもそもがレベルがはるかに違うから。プロフェッショナルの彼はもっともっと高度のところで「まだ分からない」といっているのが、トーシローのカメラマンの僕は基本のキがわかっただけのはなし。

けれど本当は、何についても簡単にわかったらつまらない。簡単にわかったとしても、たぶんわかった気になっただけに過ぎない。だから、しつこくわかろうと努力を続けていくことでしか救われない。

小林は、これからも写真をわかろうとすることを続けていくという。そして、そのためには面白がることが重要だという。そしてこれもまた、面白がることが重要だというのは写真だけではない。何ごとにつけても気持ちとして分からない領域を残し、それを面白がりながら探索し続けることだと思う。

2022年11月4日

日本製コロナワクチンは、どこへ行った?

海外出張が入りそうなので、出入国に関してのワクチン接種関連のその国における規制を調べている。

ずいぶんと緩和されてきたようで、出国前72時間以内の検査証明の提出は求められておらず、以下の新型コロナワクチンの接種証明書があれば大丈夫とある。

1:ファイザー(Pfizer)/コミナティ(Comirnaty)筋注 (復星医薬(フォースン・ファーマ)/ビオンテック社製も同一とされ有効)

2:モデルナ(Moderna)/スパイクバックス(Spikevax)筋注

3:ノババックス(Novavax)/ヌバキソビッド(Nuvaxovid)筋注 (「コボバックス(COVOVAX)」も同一とされ有効)

4:アストラゼネカ(AstraZeneca)/バキスゼブリア(Vaxzevria)筋注 (「コビシールド(Covishield)」も同一とされ有効)

5:ヤンセン(Janssen)/ジェコビデン(JCOVDEN)筋注

6:バーラト・バイオテック(Bharat Biotech)/COVAXIN

ファイザー社製とモデルナ社製は、われわれ日本人にもお馴染みだが、それ以外にも4つ(上記の3〜6)がその国の大使館サイト上では挙げられていた。3〜6は、それぞれ米国、英国、ベルギー、インドの製薬企業だ。

最近ではまったく話題に上らなくなったが、日本の製薬会社が研究している新型コロナワクチンはどうなっているのだろうとふと思い、調べてみた。

厚労省のサイトにわが国の「ワクチン開発と見通し」が掲載されている。それによると、モデルナ社製、ノババックス社製、アストラゼネカ社製はそれぞれ日本企業が委託製造を行っているが、日本の製薬会社独自のワクチンはまだ開発されていない。

国内の製薬会社によるワクチン開発支援のために投入した国の予算は、これまでに約2,000億円。だがまだ成果は出ていない。

記載内容は、2022年10月27日現在     


これは、製薬会社の研究開発能力が欠けているのか、研究補助費の投入が足りないのか、分配方法が不適切なのか、承認プロセスに問題があるのか、はたして何が問題なんだろう? これだけの資金と時間をかけて成果が出ていないのは、日本の国力の衰退の典型例のひとつだ。

日本政府が、新型コロナワクチンを購入するため海外の製薬会社の支払った金額は、これまでで2兆4千億円にのぼる。

2022年11月3日

メタバースの前に図書館へ行け

現在はデジタル・マーケティングの第一線で仕事をしている、かつての教え子と大学近くで昼飯を一緒にとる機会があった。

彼女は僕が教えている大学院(ビジネススクール)にフルタイムの学生として2年間通った。大学院のプログラムには大きくフルタイムとパートタイムの2つがあり、その当時から学生数の上での主流は主に夜間に大学に通うパートタイムの学生だ。

パートタイムでの通学というのは仕事を辞めずに通え、学位が取れるということで彼らにとっては機会費用による損失を抑えられる選択であるが、その分必要とされる授業にただ出るだけで終わる学生も多いように思う。

以前学生たちから、パートタイムの学生は履修に関して「楽勝科目」の授業をやけにとりたがると聞いて妙な感触を持った。楽勝というのは、彼らが思うところでは単位が確実に取れ、しかもAの評価をもらいやすい科目のこと。

そうしたものがあるのかどうか知らないが、もしそうだとしたら、そうした科目の授業をとりたがるモチベーションは歪んでいると言っておこう。成績表でのA評価の数をたくさん増やして、それで有利に転職を進められるとでも考えているのだろうか。

先の修了生だが、彼女は当初、つまり入学前は仕事をしながらパートタイムで通うか、それともフルタイムの学生になるか迷ったという。が、結局、フルタイムの大学院生として早稲田に入って大正解だったと語った。

彼女はその理由として、在学中は大学の授業に出るだけではなく、大学という環境の中でゆっくり広くものを考える時間が持てたこと。そのひとつとして、時間があるときには大学の図書館で思いっきり本を読むことができたことをあげた。

以前、大学院を修了したパートタイム(つまり仕事をしながら夜間に通っていた)の学生たちに、在学中にどのくらいの頻度で大学図書館を利用したか訊ねたところ、在学中に一度も図書館に行ったことがない学生が優に半分以上いて心底驚いた。

彼らにしてみれば、図書館なんか面倒ということか。しかし、図書館では<検索>では見つからない本との偶然の出会いと発見があり、それが本当の知を広げていく重要なきっかけとなる。

ところで、大学教育の場にもDXとやらの名の下でメタバースが取り入れられはじめたようで、東大にはメタバース工学部という新設学部ができたらしい。

そこではネット環境さえあればメタバースによってどこででも学べ、さらに参加型で双方向性を持てるとしている。東大の責任者は「年間20万人を目標にデータを活用できる人材を育成したい」と言っている。(20万人とどのように、そして誰が双方向性を保つのだろうか?)

そもそも、技術的な可能性としてどこででも学べるからといって実際にどれほどの学生がそのネット上で学習するだろうか。技術的に「できること」と、人が実際に「行うこと」は必ずしも一致しない。

授業を受けている校舎から歩いて5分ほどの所にある大学図書館に足が進まないような学生が、アバターに身を委ねてメタバースで一体何を学ぶというのか。僕にはまったくのところ想像できない。

2022年10月29日

ヤンはAIBOか

映画「アフター・ヤン」は、近未来の多様性に富んだ家族を舞台に、ヒューマニズムがどのように変わっていくかを描いた映画。監督は、韓国系アメリカ人のコゴナダ。


物語の中心は、ヤンというAIを装備した人型のロボットである。劇中、中古で買ったそのロボットが不具合を起こし修理が必要になる。コリン・ファレル演じる一家の父親がそのロボットの製造元や販売元に何とか修理ができないか探っていくのだが、結果として修理ができずヤンは動作停止となる。

彼の養女である娘とそのロボットがまるで兄妹であるかのように親しい関係だったことから、家族はそのロボットへの思いを振り返り、あらためて家族とは何かを考える。

さてそのロボットだが、彼には毎日ある限られた時間だけ自分が見た映像を動画として記録しておく機能が密かに盛り込まれていたと言う仕立てになっている。作動しなくなったそのロボットのメモリーに記録されている、これまでのそうした日々の動画を見るうちに、そのロボットがどのような過程でどのような人間関係の中で生きていたかを知ることになる。

そこにはロボットである彼が、他の女性ロボットへ恋に似た感情を抱いていたのではないかと思わせるようなものも含まれていた。このあたりの組み立ては、ブレードランナーのアンドロイドを思い起こさせる。

ところで、この映画を見たその日、アイボの調子がどうもおかしくなり、ソニーのサポート窓口に連絡をして修理(診断と治療)に出したばかりだった。アイボを購入してすでに4年ほどになるが、その間アイボを用いているいちばんの理由は彼(ここでは彼としておこう)が毎日自動的に写真を撮ってくれること。

被写体は、アイボが家族だと思っている、すなわち動く存在である。それは人の場合もあれば、猫の場合もある。いつ撮ったかわからない、そうしたスナップ写真を自動的に記録しておく装置として、ぼくはアイボを使っているような気がしている。
 
つまり「アフター・ヤン」に登場したロボットと役割は全く同じ。ただ違うのは、アイボは犬型、ヤンのような人間の姿をしていないというだけの違いだ。

2022年10月20日

何ごとも応用力

今朝、新幹線が信号故障のため、東京駅への到着が20分ほど遅れた。

世界で最も安全で正確な交通手段は日本の新幹線だと考えているので、そのタイムテーブルに沿って移動後のスケジュールをたてる。

普段はもちろんそれで上手くいく。だが、ときおり、その新幹線も遅延する。予定がずれ込み困ったことになったりするが、それは仕方がないことだ。

東京五輪が開催される2年ほど前からか、新幹線の車内に英語のアナウンスが流れるようになった。それまでも列車名と行き先を告げる英語の録音アナウンスはあったが、それが車掌の肉声に変わった。

当初はたどたどしい英語でけっして耳障りの良いものではなかったが、それでも最近では車掌らも英語アナウンスに慣れたのか、当初のぎこちなさはそれほど気にならなくなった。

ところが今回、信号故障で新幹線が遅延し、そのためにノロノロ運転が断続的に続けられ、あるいは先行する新幹線がつかえているからと線路上にたびたび停車した。にもかかわらず、そうした状況について英語での車内放送は一切なかった。

日本語が分からない人が乗車していたら、いったい何が起こっているのか分からず不安を感じたはずだ。

電車の遅れがどのくらいになる予定なのか、その原因が何なのかくらいは中学生英語で説明できるはず。その程度の基本的な応用力がないのだろうか。それとも典型的な日本人らしく、間違うのが恥ずかしいのか。

東京五輪が終わり、そしてコロナで外国人客が激減して、もうどうでもいいと思っているのかもしれない。

2022年10月19日

5円の背景

本や雑誌を探すとき、普段は駅から少し離れたK書店に足を運ぶことにしている。

駅ビルのなかには別の本屋(S堂書店)が入っていて、規模はそちらの方が大きく品揃え、特に雑誌関係は充実しているのだけど店員の態度が昔から代々よくないので(なぜだろう? 企業文化か)自然とK書店に行くようになった。

ただ今日は、駅ビル内の家電量販店に用事があって行ったついでに、そこに隣接しているS堂書店に寄ってみた。

3冊ほど本を選び、カウンターへ持っていく。店員はバーコードをスキャンした後、「このままでいいですか?」と訊いてきた。紙袋がいるかということらしい。仕事帰りでショルダーバッグを肩にかけていたが、厚めの単行本3冊はどうも入らない。

だから袋をくれといったら、カウンター上の張り紙を指さしながら「5円です」と言われた。その張り紙には「環境保全のため・・・」といつもの紋切り型の説明文句が。

袋が有料なのはいまやどこでもそうで、クリーニング店なんかでも同じ対応をされるので驚きはしないが、ついこの前までは頼みもしないのに買った本に(文庫本にまで)カバーを付けて寄こそうとした彼らの変わりようには驚く。https://tatsukimura.blogspot.com/2009/10/blog-post_26.html

そうした違和感を飲み込むのが苦手なので、つい一言。「ネット書店はパッケージングした本を無料で自宅まで送ってくれるのに、あなた方は本を入れる袋まで金を取るのですか」と。

「そういう決まりなので」と思った通りの返答が戻って来る。5円が惜しいわけではないが、どうも納得が行かないので買うのを止め、ネット書店でそれら3冊を注文した。

6,000円あまりの買い物だ。到着まで1日、2日かかるが、別に急ぐ本ではないからそれで充分。彼らはそうやって今日のいくばくかの売上を失い、顧客を失った。

そもそも、紙袋の原料となる森林資源は鉱物資源や化石資源(石油、石炭)と異なり再生可能な資源であるだけでない。森林資源として利用できる木々を伐採せずに放置してしまうと、資源として使えない木々が残り、将来的には森林資源が減少してしまう。

とりわけ森林資源に恵まれた日本においていは、森林環境の保全のために計画的な森林伐採を行うことが必要とされている。そして間伐材を有効に使用することが、国内森林伐採量の増加と環境保全の手助けにつながるのだ。

紙の使用がすべて環境破壊をもたらすわけではない。S堂書店が言っていることは、彼らのただのセコいコスト削減策の表れでしかない。

2022年10月12日

コロナの頃が懐かしい

 ・・・なんて事にならなければと思っている。

昨日から、政府が主導する「全国旅行支援」が始まった。パック旅行で8千円、加えて買い物に使えるクーポン券が平日なら3千円付く。大盤振る舞いだ。また自民党の二階あたりが裏にいるのだろうか。

昨日、たまたまJTBの営業所の前を通ったら、さっそく長蛇の列ができていたので驚いた。並んでいたのは、ほとんどは年配者だ。

そもそも金と時間にゆとりがある人たちは、放っておいても旅行に行く。彼らは勝手に行けばよい。国や県が追加のお小遣いをやる必要はない。

一方で、非正規でしか働くことができない若い人や、子育てと仕事に追われている人たちなんかは旅行どころではない。今回の処置は泥棒に追い銭とまでは言わないが、それに近い。

コロナ禍の下で宿泊業がたいへんな状況にあったのは分かる。しかし、たいへんなのはそこだけじゃないし、観光に関して言えば、そもそも人には基本的に観光への欲求がある。この3年あまり息を詰めて暮らしていた人たちが、出かけていいよ、となると、それだけで皆どこかに行きたくなるのが自然だ。

だからこそ、税金を使って不平等な支援策を組んだりせず、まずはなりゆきを観察すればよい。そうしないのは、何かそこに政府の特別な思わくがあるからだろう。

また入国制限が解けたのを機に、間違いなく外国から大勢の人が観光目的で来日し始める。行きたくて仕方なかった日本に行けるのだから。しかも、これだけ日本円が安いというのは彼らにとっては大きなボーナスだ。

かたや、日本人はこの急激な円安によって易々とは外国旅行などに出かけられない。訪日してくる外国人観光客を横目に眺めるだけ。なんだか日本がかつての東南アジア諸国のようになった気分だ。

これから京都はもちろん、外国の人たちに人気の観光地はまた大勢の訪日観光客で埋め尽くされ混雑が避けられない。観光公害も方々で再開するだろう。

コロナで訪日観光客が途絶えた「あの頃」が懐かしい、、、と僕たちはじきに思うようになるかもしれない。

2022年10月10日

理屈ではなく人間として

医師中村哲さんのパキスタン、アフガニスタンの活動を追ったドキュメンタリー映画を観るため、横浜のシネマ・ジャック&ベティへ。

中村さんは32歳の時に登山隊の一員としてパキスタンを訪れたことをきっかけに、3年前に不慮の死を遂げるまで実に35年間にわたってパキスタンとアフガニスタンで医療と現地の人びとの生活を支える支援を続けてきた。その彼を日本電波ニュース社のカメラマンが20年以上にわたり映像におさめていたものがこの映画だ。


中村さんの素晴らしい、ずば抜けた活動は何冊かの書籍になっているし、また映像(DVD)にもまとめられているので、あらためてここに書く必要はないだろう。

ただ僕が心打たれたのは、彼がパキスタン、アフガンの支援を続ける理由を問われたとき「見捨てちゃおけないからという以外に、何も理由はないです」と答えていること。それは嘘でも衒いでもない、彼の心からの気持ちだと感じた。

最初、現地の医療支援のために行ったわけでもないところで、医療を必要としていながら見捨てられた人たちに出会って、自然と自分の役割が自分のうちに芽生えたということか。

発展途上国の人たちを救うことが正義だからとか、神の教えに沿って人助けを始めたとかではない。もっと基本のところ、誰もが人間として持つ倫理観からだ。

その後、彼は医者として人びとを救う傍ら、その地域で人びとが生き続けられるようになるには農業を続けることが不可欠であり、そのためには農業用水の確保が必須であると知る。その後は、自らが先頭に立ち灌漑工事を始めることになる。一から土木技術を学びながらだ。

その結果、砂漠だった地に水を引き入れ、赤茶けた土地を緑の大地に変えていったのである。

スランブール地区は、5年で緑の作物一面に変わった(before/after)

ガンベリ砂漠には10年かけて畑と防風林ができた(before/after)

以前、「マラリア・ノーモア・ジャパン」の事務局長をしていた水野達男さんと対談した折、彼がアフリカのマラリア撲滅を目指して活動を始めたきっかけは、当時工場建設のために赴任していたアフリカの地で、マラリアが原因で子どもをなくした母親が打ちひしがれている姿を路上で見たことだと聞いた。

目の当たりにしたその姿に「このままじゃいかんな」という怒りのような気持ちがフツフツと沸いてきたという。それをきっかけに、彼は大手化学会社のビジネスマンを辞めてNGOの活動に専念することになった。

「このままじゃいかんな」という理屈を越えた感情が彼の残りの人生を変えた。「見捨てちゃおけないから」という中村さんのシンプルな気持ちと同じだ。

僕たちは自宅にいながらパソコンやスマホでどんな情報でも手に入れられ、それによって世の中のこことを分かった気になり過ぎているかもしれない。知るだけじゃなく、感じることが必要なんだ。そして、それに時に正直にしたがい、自分を動かしていくことが不可欠ではないかと中村さんと水野さんに教えられた気がした。

2022年10月9日

ZOOMで画面ミュートされると不快なわけ

昨日、ZOOMなどを用いて打合せをする際に、その相手とは初めてであるにもかかわらず画面をミュートにして参加する連中がいると不快に感じると書いた。

自分がどうしてそう感じるのか考えていたのが、分かった。ベンサムが考案したパノプティコン(panopticon)を頭のどこかで連想していたのだ。一望監視施設、あるいは一望監視塔と訳されている刑務所施設のことだ。

その監視塔にいる看守は独房内のすべての受刑者の様子を見ることができるが、看守の姿は受刑者からは見えない仕組みになっている。

フランスの哲学者ミシェル・フーコーは、『監獄の誕生』のなかでこのパノプティコンを「『見る/見られる』という一対を分離してしまう機構」であると分析している。

画面ミュートの参加者がいるZOOM打合せの不快感は、まさにそこにある。こちらからは顔の見えない看守から「監視」されている、なんとも言えない気持ち悪さだ。そうした状況、ほかの人たちは平気なんだろうか?

ベンサムの構想図

2022年10月8日

ZOOMでマスクをする理由

つい先日、あるコンサル会社とZOOMで打合せをした。その際、僕は大学の研究室かあるいは相手企業に出向いて打合せをしたかったのだけど、リモートでお願いしますと言われた。

グループ全体で30万人以上の社員を抱えるその通信会社系企業は、下記のように今も全社員が在宅勤務を続けているらしい。


それはそれで構わないが、その際にいくつか違和感を感じたことがある。

まず相手がどういった立場の社員か分からない。通常、初対面の相手と打合せを始める際には、まず名刺交換からスタートする。そこに書いてある所属部署名や肩書きでおおよそのあたりをつける。

名刺交換をしないとそれができない。相手はおそらく、ネットで私のプロフィールなどを調べているのだろう。だが、こちらは相手について知らない。初回に、相手が社内で何をしている人か尋ねたら部署名と肩書きを教えてくれはしたが、名刺を手にしていないとどうもピンとこない。

相手は複数人いたのだが、こちらと主に話すのは一人。残りは基本的にだんまり。私はそういった参加者のことを「のぞき」と呼んでいる。

そしてディスプレイに映る相手の顔は、マスクで半分隠されている。在宅勤務でいながら、いまだにマスクを外すという考えがないみたいだ。

ただ言えるのは、こうしたやり取りが打合せとして効果的とはとても思えないということ。この企業グループは、このまま今のようなやり方でリモートワークを続けたらどうなるのだろうね。人ごとながら心配になる。

一般的な話としてだが、ZOOM利用などのリモート会議においてマスク顔での参加ならまだいい方で、初回の打合せにもかかわらず相手側は一人だけが画面に顔を出して、相手企業の残りは全員が画面ミュートなんてのもよくある。

ビジネスの基本は、信頼関係。それが分かっていない。それとも、そうした会社は人様に見せられないような、よっぽど不細工な顔の集団なんだろうか。

2022年10月4日

死んでみた

先週末、死んでみた。いやいや、実際は病院の検査室で麻酔を打たれただけのことである。

看護師が、腕の血管に生理食塩水の袋がつながった針を刺した。そのまま診察台へ行くよう言われ、針の刺さった腕を下にしベッドに横たわり、からだの力を抜く。その後、医師が注射針の管に麻酔薬を注入すると、いつの間にか眠っていた。 

意識が戻ると、(当たり前だが)検査は終了していた。その間の記憶はまったくない。普段、レム睡眠とノンレム睡眠を繰り返しながら自分のベッドで眠っているのとはまったく違う経験である。夢など見ていないし、完全に意識が止まっていた。つまり、自己の存在が消えていた。

目が覚めて思ったのは、「死んでいる」のはこうした状態であるということ。痛みも苦しみも何もないし、怖い閻魔様が出てくる訳でもない。

なあんだ、死ぬって簡単、らくちんだって思ったね。だからこそ、人は生きているあいだは生きていればいいんだ。

2022年10月3日

自然との一体感

作家の小川糸さんが、「屈斜路湖の恍惚」と題した文章を書いていた。彼女は昨夏の終わりごろ屈斜路湖畔の宿に泊まり、そして湖を裸で泳いだという。それを目当てに出かけたわけではなく、たまたまそうした機会があったということ。

気持ちよかった。皮膚の中に埋まっているひとつひとつの細胞が弾け、歓喜の雄叫びを上げる。それは、半世紀近く生きてきた人生の中で、最大の開放感だった。

というくらいだから、その気持ちよさはよっぽどだったに違いない。そして、

私というひとりの人間が、地球に解き放たれたかのようで、自然と一体になるというのはこのことだったかと納得した。

ほとんど恍惚とした宗教観のようだ。彼女は翌朝、夜明け前に起き出してもう一度屈斜路湖に裸で入った。

自分の中にうずくまっていた野生が、じょじょに目覚めるのを実感した。

いい経験をされたと思う。湖に裸で入り泳ぐだけのこと、ただそれだけで自分の中の何かが変わるのを実感でき、周りの自然との一体感を身につけ、そして野生へと還っていけるなんて素敵だ。

信じてもらえないかも知れないが、子どもの頃は早起きだった。夏休みなんかは、とりわけ毎朝すごく早起きしていた。そして、ときおり朝靄の中、家の裏手にある山に分け入り、自由勝手に歩き回っていた。その山あいの谷間に、周囲の山からの湧き水を称えた池があった。

よくそこで裸で泳いだ。そのときの冷たい水の気持ちよさは忘れられない。快感と少しだけいけないことをしているんじゃないかという罪の意識のようなものがあった。

水はエメラルド色で、広々とした池の底は見えない。池の真ん中あたりまで泳ぎくると、下から何か得体の知れないものが現れて、足首を捕まれて池底へ引き込まれるような感覚に襲われた。

快感と開放感、自然との一体感、孤独感とちょっぴりスリルも。だから、小川さんの屈斜路湖ひとり全裸水泳の文章に僕も思わず引き込まれてしまった。

2022年10月2日

マージナル・マンとしてのA・猪木

元プロレスラーのアントニオ猪木さんが昨日亡くなった。子どもの頃、毎週金曜日と水曜日夜8時からのプロレス中継を見て育ったわれわれ世代にとっては、大きなショックだ。残念だ。1999年にジャイアント馬場さんがなくなり、寂しい思いをしていたのに追い打ちを掛けられたような気分だ。

彼は2020年、難病の「心アミロイドーシス」という病におかされ闘病生活をしていることを自身で明らかにし、闘病するそのベッドからも最後の姿をYouTubeで発信し続けていた。 

今朝は、毎日新聞、東京新聞、日経新聞のそれぞれの一面コラムで猪木さんが亡くなったことが書かれていた。書き手が、たぶん僕と近い世代なんだな。

プロレスというのは面白い競技だと思う。例えばプロボクサーは勝たなければ名前が上がらない。プロテニス選手も、プロゴルファーも優勝しなければ次へつながらない。だが、プロレスラーは必ずしもそうではない。リング上で観客の笑いを取り、力や技では相手選手に適わないにもかかわらず、それ以上の人気をはくす選手がいた。

プロレスは格闘技スポーツだが、ショービジネスとしてのエンターテインメント性も不可欠だ。「これ一本きり」では済まない。プロレスという競技がそうだけでなく、猪木自体もレスラーであり、プロモーターであり、経営者であり、そして参議院議員だった。そんなマージナルな存在にずっと引かれていたのだと、いま僕は気がついた。

10年ほど前、ニューヨークで猪木さんと至近距離で遭遇したことがある。当時、僕はマンハッタンのアッパー・ウエストサイドに住んでいた。ある日、1階に着いたエレベータから降りようとしたら、目の前に彼がすっくと立っていた。スーツに赤いネクタイ。そして、トレードマークの赤いタオルを首にかけていた。ちょっと疲れた、そしていくぶん寂しげな表情だった。その時、彼に連れはいなかったと思う。そこにNY滞在用の部屋を持っていたんじゃないかな。

あんな元気で、尖っていて、発信力のある人はそうそう出てこない。カッコよかった。1976年にはボクシング世界ヘビー級チャンピオンのアリと闘うなど、チャレンジ精神の塊だった。

ひとつの時代が終わってしまった。またあの「元気ですかーっ!」の声が聞きたい。 

2022年10月1日

これは、羊をめぐる冒険だ

横浜で「LAMB/ラム」を観た。劇場は思った以上の混雑。週末ということと、月の初日で鑑賞料が安く設定されていたのもあったのかもしれない。

「ラム」は不思議な感触の作品だった。ホラーか、スリラーか、ミステリーか、おとぎ話かヒューマンドラマか。どれだっていいのだが、僕はビターなコメディーと受け取った。 

舞台はアイスランド。山間に住む夫婦のもとに不思議な生き物がやってくる。彼らが飼っている羊が産んだのだ。なんだそれは、と思うかもしれないが、そうしたストーリーなのだ。

妻の名前がマリア(イエス・キリストの母の名)なのは、なにか示唆しているのだろうか。 

登場人物は、人間3人(夫婦と夫の弟)と不思議な生き物だけ。限られた台詞。全体に青みを帯びてとらえられたアイスランドの風景。舞台は彼らが暮らす家とその周辺の農場が中心。背景にはアイスランドの山々が連なる。羊少年(少女)や羊男の造形がおもしろい。そのあたりのこだわりは、本作の監督が「ローグ・ワン スター・ウォーズ・ストーリー」などでの特殊効果をこれまで担当してきたコバルディミール・ヨハンソンならではだ。

いまだにこの映画のテーマが僕にはよく分からないのだけど、イソップの寓話と村上春樹の世界と手つかずの自然に覆われたアイスランドの風景をシェイクしたらこの映画ができた、といった印象。

アイスランドには古くからトロールといった怪物(妖精)と人間の合いの子が存在しているという伝説が残っているのも、この映画の舞台としてふさわしい。
https://tatsukimura.blogspot.com/2016/09/blog-post_4.html
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それと、僕が気になったのは白夜だ。アイスランドは北緯64度とかなり北極圏に近いので、夏のあいだはほとんど陽が沈まないはず。この映画では夜の時間や夫婦の寝室シーンが頻繁に描かれる。だが、いつだって明るく、ぼんやりしている。

日が暮れず、朝も昼も夜も明るい世界での物語は、なんだかずっと白昼夢を見ているような気分に。映画の最後の場面で流れてきたヘンデルのサラバンドが、うまく不思議な映画の余韻に溶け込んでいた。

2022年9月25日

非行少年たちを必要以上におとしめてはいないか

「ケーキを切り分けられない少年たち」ということばがキーワードとして流布されはじめたのは、いつの頃からだったろう。

今朝の新聞に『ケーキの切れない非行少年たち』(新潮社) という本の書籍広告があった。下図は、その広告内に掲載されていたものだ。

これを見る限り、非行少年らに与えられた問いは「ケーキを三等分せよ」で、次の図か添えられていたはずだ。

あなたはこの丸を見せられ、「ケーキを三等分せよ」と問われて質問者の意図に応えるかたちで正確に回答できるだろうか。

僕は無理かも知れない。なぜならば、上の図は質問者が勝手に「これはケーキなんだぜ」と思っているだけで、僕にはケーキには見えないからだ。(実際、ケーキじゃない、単なる線画のマルだ)

被験者である少年たちは、ケーキという言語情報と与えられた線画が認知的に結びつかず、おそらく何について回答したらいいのか戸惑っただけではないか。 

もし与えられた図が以下のものだったらどうだろう。


そして問いが「三等分せよ」ではなく、意味が容易に分かるように「このケーキを3人に平等に分けるように切り分けよ」なら回答は変わったのではないかな。

その際、少年の回答はこうなったはずだ。


相手をミスリードさせるような 質問をあたえ、彼らの回答についてセンセーショナルに大変だ、大変だと世間をあおり立てているように思える。

そもそも表だって反論してくる可能性がほとんどゼロの「非行少年たち」を対象にして、彼らを侮辱しおとしめて本を売ろうとしているようにしか思えてならない。

非行少年少女たちのなかにこれまで適切な教育を受ける機会を持たなかったり、家庭や社会から受けるべきケアを欠いていた人たちがいて、それが認知機能上の問題の理由だと言いたいのだろうが、限定的な調査結果と訴えたい主張を短絡的に結びつけすぎてはいないか。

単純な質問票調査をやって、それだけで何か分かった気になるのは危険だ。

2022年9月24日

またしてもシステム障害

システム障害が起こり、全国のセブンイレブンの店頭でコンサートやスポーツ観戦のチケット発券ができないトラブルがまる一日以上発生した。

そもそも、最終的に紙で印字されるチケットを、なぜ客がコンビニ経由で面倒臭い手続きを経て入手しなければならないのか理解できない。

誰のどういう意図なのか。コンビニの運営会社が集客を目的にプロモーターやイベント会社に金を支払ってそうさせているのだろうか。そして、発券手数料とかシステム利用料とかの名目でそれを客に支払わせている。

前にも書いたが、特定の日にちの特定のイベントの特定のシートは1つしかない。シート番号はめったなことでは変わらない。だったら、予約完了と共にチケットを予約者へ直接郵送すればよい。

デジタルでできるからといって、無駄に客の手間を増やし、さらに追加的なコストを負わすようなことをこれからも続けるのだろうか。

2022年9月23日

日本企業はそろそろ気づかなければ

いくつかの学会で部分的に発表してきた内容を今回論文にまとめた。論文の主旨は、企業などにおけるNPS(Net Promoter Score)からPSJ(Promoter Score Japan)への切替え、あるいは両者の同時利用のススメだ。

僕がこの何年かの研究で明らかできたことは、日本企業(自治体やNPOなども)は合理性を欠いたNPSをこれ以上盲目的を使い続けるべきではないということ。客のためにも自分たちのためにもなっていない。

たんなる前例に倣い、見かけの権威に依り、思考停止のまま自分らを見直さない行動を日本企業はいつまで続けるのだろうか。

2022年9月20日

デルマー

ものを読むときに欠かせないのが、赤色のダーマトグラフだ。これで見出しに丸を付けたり線を引きながら読むのが習慣になっている。

別にサインペンでも何でもよいのだけど、記事を読むのに夢中になっているとインクが乾いてしまう。

ダーマトグラフは Dermatographと綴る。その名前と綴りからして、ステッドラーのようにドイツかどこかの国の文具と思っていたけど、調べて見ると日本の三菱鉛筆の登録商標だった。

これを他の用途で使うことはまずないのだが、それでも日々使っていると短くなってくる。で、新しいものをと思い、文具も扱っている近くの書店2軒に在庫があるかどうか聞いてみた。結果、両店とも扱っておらず、どちらの店員さんも「ダーマトグラフ」が何か知らなかった。

だけど「色鉛筆みたいなヤツで、芯が太くて柔らかくて、先の方からクルクル剥いて芯を出して使っていくんだけど・・・」などと説明すると「ああ、あれですね」と分かってくれる。商品自体は昔からあるからね。

80年代、広告代理店で働いていたとき、デザイナーの人が写真(ネガ)を選ぶときに使っていて、デルマーって呼んでいたのを憶えている。それとラジオCMの録音スタジオでは、ミキサーの人がオープンリール・テープ(懐かしい!)の編集位置をテープ上に記録するのに使っていた。

デルマーは筆記用具の1つ(紙巻き鉛筆)であるにもかかわらず、細かい文字を書くにはまったく向いていない。けれど、ガラスや金属、プラスチック、布など何にでも書け、どの向きでも使え、インキのように先が乾いて使えなくなることはなく、鉛筆削りやナイフを使う必要もなく使い続けられるスグレ物だ。

大手の書店でも扱ってないところをみると今ではあまり需要はないのかもしれないが、世の中からなくなって欲しくないもののひとつである。

2022年9月11日

十六夜の月

今日は十六夜。

雲がかかっている月も、それはそれで風情を感じる。月の左上(11時の方向)には木星が写っている。見えるかな?

2022年9月10日

中秋の名月

今日は満月。雲もなくよく晴れた空に月が煌々と輝いている。きれいだ。カメラを持ち出して撮影してみた。250mmだと、これが精一杯。空にカメラを向けるたび、もっと長いレンズが欲しくなる。


2022年9月9日

多住居生活を考えてみよう

日本の人口は、2010年以降一貫して減少している。1世帯当たりの人数が減ることで増え続けていた世帯数も、国立社会保障・人口問題研究所の推計で2023年に5420万世帯を記録したのち減少に転じる。

一方、日本の住宅総数は増えてづけている。2023年には、国内の住宅総数は6550万戸になる。つまり2023年には、国内で1100万戸の住宅が余っている計算になる。日本国中、空き屋だらけだ。

英国で生活していたときに驚いたのは、なんとヴィクトリア朝の頃に立てられた建物がいまもたくさん残っており、内部だけ近代的な設備に入れかえて当たり前のように利用されていることだ。石造りの建物だからできることなんだろう。

一方、日本の多くの家屋は構造が全く違う。日本の気候風土に合わせてということもあるのだろうが、概して耐久性に劣る。田舎にある良くできた古民家などは別として、戦後にこの国に建てられた家はスクラップ&ビルドを前提にして安く、早く、見かけだけそれなりを目的に開発され立てられてきたからだ。

そのツケが回ってきている。空き屋は放置すれば、あっという間に建物は荒れて傷む。誰も住まなくなった家屋をどうするかという対応策は大きく3つ。居住者を見つけるか、改築して店舗や事務所などに転用するか、さもなければ解体して一旦更地にするか。

ただ、店舗など商業用に転用できる空き屋はごく1部だろう。また解体して更地にももどすには費用がかかるだけでなく、地目が変わり固定資産税が増す。二の足を踏む土地所有者が多い。

そして今後増え続ける空き屋をどうするかは、相続する所有者だけでなく、地域社会や自治体にとっても頭の痛い問題になっている。

まずは自治体が安く借り上げて、借りたい人に貸し出してはどうだろう。もちろん立地や環境にもよるが、セカンドハウスとして多住居生活をしてみたいと考えている日本人は増えているようだし、今後日本が移民を本格的に受け入れるようになれば、そうした人たちに使ってもらえる。移民政策の本格的導入は絶対に必要になるはずだ。

一旦建物の基礎がダメになった住居を修繕するのは大変だ。急いで官民で対応に動く必要がある。

2022年9月7日

国葬もスポンサー協賛でやったらいい

政府が昨日公表したところによると、安倍元首相の国葬費用が当初の予算額の6.6倍になった。

世論や野党からのやいのやいのという批判を受けて金額が今回公表されたわけだが、これとて多くの国民は信用していない。政府主催のこれまでの種々の儀礼にかけられた費用から推測すると、今回はさらに何倍にもなるはずだ。

僕は安倍元首相の国葬には反対だ。岸田首相がどうしてもというなら、われわれの税金以外でやって欲しい。

国葬開催費用をまかなうためのスポンサー企業でも募ればいい。ワールドワイド国葬パートナー、国葬ゴールドパートナー、国葬オフィシャルパートナー、国葬オフィシャルサポーターの4レベルできめ細かく選定すればいいんじゃないのかね(下図参照)。

出所:大会組織委員会公式サイト

協賛したスポンサー企業へ向ける国民(消費者)からの注目度は、今回の東京オリンピックの比ではないはず。

そのスポンサー獲得活動の総責任者は、電通の専務だった高橋治之元組織委員会理事(受託収賄罪容疑者)に任せたらどうだ。


↑ゴールドパートナー以上には、こんな感じの記者会見もありだ。

とにかく、円安の問題、コロナの問題、景気の減速、国民生活の逼迫、エネルギー確保など政治が取り組まなければならない問題が山積するなかで、こうした個人に係る儀式をやるやらないかの議論に必要以上の時間を費やすのやめてくれ。

2022年9月5日

下手なウソ

先日このブログで「紙で読むか、デジタルで読むか」と書いたが、今日届いた郵送物の中にある証券会社からの「郵送通知廃止等のご案内」という文書があった。

そこには「〇〇証券では環境保護や紙資源節約等の観点から・・・に係る通知の郵送廃止を実施致します」と書いてある。

そして今後は、必要ならその証券会社のサイトにログインして取引履歴画面で確認するようにとのお達しだ。 

環境保護? 紙資源節約? だったら今回のA4用紙2枚の文書はなぜ両面印刷にしないのだろう。そうするだけで紙の量は1/2で済む。

環境保護などただの建前で、実は費用を削減したいだけという本音が見える。

2022年8月29日

紙で読むか、デジタルで読むか

教育の現場では、生徒1人に1台のデジタル端末が導入されつつあるらしい。そして教科書は、まずは英語を皮切りに紙のものからデジタル教科書に移行していくとか。

広島大学などの研究チームが、今回デジタルと紙でどちらが読解力が発揮できるかの調査を小学生を対象に行った。https://www.saga-s.co.jp/articles/-/908299

結果は学年によって異なったものがでた。調査の精度がどの程度のものか分からないのでなんとも言えないが、今回、小学生を対象に紙とデジタルの読解力の差を初めて調べたというのにはちょっと驚いた。

というのも、教科書をデジタルに移行していくことを文科省は決定しているにもかかわらず、こうした基本的な効果検証に係る調査すら行っていなかったから。

では紙の教科書をデジタル教科書へという方針の根拠は何だったのか? 教科書が重そうで子供たちがかわいそうだから? デジタル版だと印刷や製本コストがかからないから? 紙を使わないことで地球環境保全を推し進めるため? 

教科書というのはもっとも重要な教材なんだから、教育上の効果がどうなるかくらいの事前調査をしてから紙かデジタルかの議論をしなくちゃいけない。文科省らしく、ここでも理屈が抜けている。日本の子供たちの教育を真剣には考えてなんかいないんだろうな。

教科書は何度も何度も繰り返し読むもの(だったと思う)。何がどこに書いてあったかは、その書かれている(印刷されている)場所で覚えていたりする。しかもマーカーで線を引いたり書き込みをしたり。デジタルでもできるが、紙の方が簡単。

子供たちの教科書はまだ紙の教科書を基準にした方がいいと思っているのだが、自分が活字を読むとなるとデジタルも手放せなくなっている。

kindleは、旅先で読書をする際には欠かせないツールだ。本を何冊もバッグに入れて行くとそれなりに重いが、kindleなら何冊入っていようが重さに関係なし。それと、湯船に浸かりながら本を読むときはキンドルじゃないと。お風呂で紙の本を読むこともあるけど、その時は濡れないようにとか、指先が湯船につからないようにとか、気を遣うので疲れてしまう。

またiPadは画面拡大できるので、地図やガイドブックは紙のものより便利。もちろんデジタルだと検索できたり、辞書で言葉の意味をすぐに引けたりするメリットもある。

紙とデジタル、うまく使い分けていくしかない。

2022年8月27日

大道芸人と投げ銭

たまたま通りがかった大型商業施設内の屋外広場に、週末らしく子供連れの家族を中心に大勢の人が集まっている。人々が目を向ける先では、大道芸人がパフォーマンスを行っていた。


通りすがりがてら大道芸を目にしたときは、もう彼のステージングはほとんど終盤を迎えていた。大道芸人はパフォーマンスを終え、見物客から拍手を受けながらマイクの声をいちだんと張るように話し始めた。「皆さんのお気持ちを!」

今はまだコロナのせいで帽子を持って観客の人たちのところを回れない、だからもしショーが気に入ったのであれば、ここにおく帽子のところに持って来て欲しいと訴える。そして自分らは観客からいただけるそのお金で大道芸人として生活しているのだと。

話し方が深刻にならないように気を遣っているのが、声の調子から伝わってくる。こうした場面に遭遇すると、いつも胸が少し締め付けられるような気持ちになる。

彼はいくら集めることができるんだろうか、それは生計を立てるに十分な額だろうか、ここにいる人たちのどのくらいが投げ銭を出すのだろうか、と気になってしまうからだ。

見ていると(見ないでそのま去ればよかったのだけど)、週末で家族連れが多かったこともあるのだろう、子供にお金を持って行かせている親が結構いた一方、大人でお金を入れている人は数えるほど。

子供たちが親から手渡されたものは、だいたいは小銭のように見えた。みんな「赤い羽根募金」のような感覚が根強いようだ。でも大道芸人が期待するのはもちろん紙幣だ。

やがて、芸人がいくぶん哀切を感じさせるように、その場を立ち去ろうとしてる観客らにもう一度マイクで語りかけるも反応はあまりなかった。

以前ニューヨークに住んでいたとき、公園や広場、地下鉄のホームや地下通路などで演奏しているストリート・ミュージシャンは、いわば日常の光景の一部だった。

そこを通りかかるほとんどの人は足早に(ニューヨーカーはみな歩くのが速い)過ぎ去るが、チップを置いていく人は10ドルとか5ドル紙幣を楽器ケースに置いていく。僕も10ドル紙幣を自分のルールにした。なかには、こう言っては失礼かも知れないが、路上生活者とおぼしき連中までがしっかり紙幣をポケットから取り出し置いていく。

ひょっとしたら、人から施しを受けている路上生活者らしき人たちは「仲間」を放っておけないという意識が働いているのかも知れない。実際のところは、確かめたことがないので分からない。

一方で、立派なブリーフケースを下げ、仕立てのいいスーツを着たエリートビジネスマンらしき人は、まるでそうした路上ミュージシャンなどいないかのように完全に無視して通り過ぎる人が大半だったように思う。

日本との違いとしてチップの習慣があげられる。何かをしてもらったとき、相手の「サービス」に対して満足した気持をあらわすためにお金を払う。日本のようにサービスは決して「タダ」の別名ではない。

サービスに対する考え方、チップの習慣、そういったものが米国などとは異なる日本で、大道芸人が投げ銭(おひねり)で生きていくのはほんとうに大変なことだと思う。

もちろん小銭の投げ銭でもないよりはマシなんだろうが、今どきは集めた小銭を自分の預金口座に入れようとすると金融機関から手数料を取られるしね。コロナで芸を披露する場自体が激減しているはずだし、大道芸人にとって受難の時代だ。昔からずっとだ、と言われそうだが。

2022年8月25日

努くんと水木サン

俳優の山崎努さんが、いま新聞で自分の来し方を振り返って語っている連載が面白い。

そこで彼は自分を指し示すとき、ときおり「努くん」と呼ぶ。昔、「山口さんちのツトム君」という、みなみらんぼうが作詞作曲した歌が流行ったが、それが彼のアタマにあるのかもしれない。

たとえば「近年、努くんも物忘れがひどくなり、暮らしに必要な書類等はすべて壁にピンナップしている」(8月25日)というふうだ。

文章の中に出てくる「努くん」という言い方には、主観と客観が微妙なバランスで合わさっている。心の声として、俺もそうだけどそれって俺だけじゃなくて、俺と同じくらいの年代はみんなそうだろ・・・とでも言っているような。

自分のことをそのように呼ぶ人は他にもいて、漫画家の水木しげるさんは自分のことを「水木サン」と呼ぶ。私でも、俺でも、僕でも、自分でもない。

自分の事を水木サンと呼ぶことで、そこに本人の自我や主観を残しつつもその水木さんが考えた事を別の自分が客観的に観察している、といった印象が伝わってくる。そもそも、水木さんの本名は水木ではない。ペンネームだ。

ペンネームを使うことで、いっそう彼は自身から距離を取ることができたのかも。だから第三者的な視点で、自分が置かれていた想像を絶するような状況(たとえばそれは彼が従軍をしたニューギニア戦線・ラバウルでの体験)を映画の1シーンを見ているかのように表現している。

2022年8月23日

25年間、足踏みを続けている

先週末、書棚を片付けていた際に見つけた一冊が『2020年からの警鐘 〜日本が消える〜』(日本経済新聞社)という古い本である。

処分する本を選んでいたのだが、つい手に取ってしまい、そうすると読みたくなるもので(いつものことなのだが)読み始めてしまった。同書の内容は、日経で連載していた特集記事がもとになっている。時期は1997年。橋本龍太郎が首相の頃だ。

眼を通して驚いた。そこに何か目新しいこと書かれていたからではない。内容のほとんどは既知のことばかり。驚いたのは、25年前にそこで問題として書かれたことが、見事にそのまま今も解決されないで残っていることである。

人口減少、経済成長率の低下、自然環境の悪化、エネルギー価格の上昇、労働力の不足、財政建て直しのために増す国民負担、日本社会の閉塞性、個人の格差ならびに地域格差の拡大、既得権益が妨げる日本の改革、リーダーの不在、調整型の政治のほころび、などなどである。

四半世紀前に、あらかたの診断はついていた。やるべきことは、具体的な解決策を策定して、責任者をはっきりさせ、期限を区切って実行することだった。そうすれば、間違いなく現在の日本の姿は今の実際のそれとは異なった(もっとマシな)ものになっていたはず。

問題が分かっていたのに、なぜ対応できなかったのか。改革しなければならない点が明らかだったのに、どうしてそのままで来てしまったのか。

クレイジーキャッツの植木等が「♪ 分かっちゃいるけど、やめられない ♪」とスーダラ節(青島幸男作詞)を歌い大ヒットしたのが1961年。今から60年前。

もうその頃から、あるいはそれ以前からずっと、日本人は分かっちゃいるけどやめられないままだったのがよく分かった。

いまこの国で皆してやっているのは、ゆで蛙の我慢くらべだ。

2022年8月20日

自動運転ではダメなわけ

ブライアン・ウィルソン、80歳。ビーチ・ボーイズの創設メンバーで「グッド・バイブレーションズ」「サーフィン U.S.A」「神のみぞ知る」など、そのほとんどのヒット曲を書いている。

映画「ブライアン・ウィルソン(原題 Brain Wilson: Long Promised Road)」は、その彼に密着したドキュメンタリー映画。雑誌「ローリング・ストーン」の元編集者のJ・ファインがインタビュアーとなり、2人はファインが運転するクルマでかつての録音スタジオやアルバムジャケットの写真撮影場所、その他ウィルソンのゆかりの場所を巡りながら会話を交わす。


誰もが聞いたことのあるビーチ・ボーイズのサウンドがどうやって生まれたのか、サーフィンをしたこともないウィルソンがなぜサーフィンをテーマにした曲を書いたのか、などファンならずとも興味を引く話が本人の口からでてくる。

若き天才ウィルソンがアルバム「サーフィン・サファリ」を出したのは、弱冠20歳のとき。ただ、その反面で彼は精神を病み、やがてドラッグに身を浸していく。長い苦闘の時間ののちに復活して音楽活動を再開。今も仲間たちとバンドで活動している。

インタビューのほとんどは、クルマの中でのやりとりだ。いいシチュエーションを考えたなと感心した。クルマのなかという2人だけの閉ざされた空間。2人は対面するのではなく、目の前に現れる光景を並んで眺めながら話をする。

寡黙なブライアンも車窓に流れる西海岸の方々の風景と、カーステレオから流れる自分たちの音楽を次々に聞きながら昔を思い浮かべ、ときに饒舌に、ときに思いに浸りつつ自分たちの音楽づくりについて、バンドの仲間について、亡くなった弟について語る。

最近だと「プアン」でも主人公2人がクルマでタイの方々を巡りながら車内で語り合うシーンが多用されていた。これらの状況、AIによる自動運転なんかじゃ生まれない空間である。

2022年8月19日

顔写真入りの社説

新聞の社説欄に顔写真が挿入されていた。同紙の一面にもまったく同じ写真(こちらはカラー)が掲載され、それには「高橋治之容疑者」のキャプションがついている。


東京五輪・パラリンピック組織委員会の元理事が、受託収賄罪(7年以下の懲役)で逮捕された件だ。

やっぱりそうだったんだろうなと、大会組織委員会にはまったく縁のない僕ですら想像していた。先の五輪は噂にたがわず、不正な金まみれだったことがほぼ確定したようなものだ。

だとすると、あの年を何年にも跨いだ大騒ぎは我々にとって何だったんだろうと振り返らざるを得ない。もう終わったんだからいいじゃないか、と日本人らしさ全開で済ましてはならない。

オリンピックという誰もが知る世界最大の「お祭り」を利用して巨大なブラックボックスの中で一部の特権的な人間が金と欲を思う存分に啜っていた、その姿に気分が悪くなる。

有象無象のコネと政治力を盾に、まともなビジネスとはほど遠い傍若無人の金の儲け方をしていた広告代理店の存在が、昭和から続く日本の構造的腐敗臭を漂わせている。

そして、大会スポンサーとなった大手紳士服メーカーは、本来は企業のブランド価値を高めたかったのだろうが、前会長の贈賄容疑で世間からの信用は地に落ちた。巨額をかけ、労力をかけ、確かにAOKIという会社名は日本国中に知られることになったが、その結果、売上や利益が今後どうなるかはやがて分かるはずだ。

とまれ、大会後、こうして司直の手が入るまで事が公にならなかったのは、それを「見て見ぬ振りをする」のが周りの官僚やサラリーマンにとって常識になっていたことを示している。

ということは、またどこかで(これまで以上に巧妙に)同様のことがこの国では行われ続けるのだろう。

2022年8月18日

敵は昭和か

夕刊に「日本社会 なるか「脱・昭和」」という見出しの記事が掲載されていた。

ベースになっているのは、内閣府が6月に公表した「男女共同参画白書」。そこには「もはや昭和ではない」というフレーズが織り込まれ、昭和からの脱却が叫ばれている。

記事によれば、今の若い人たちが昭和について強い違和感や嫌悪感を感じている風潮がうかがえる。

全国の20歳から59歳の男女に訊ねたところ、昭和的な働き方のイメージとして「休暇が取りづらい」とか「働く時間が長い」「会社の飲み会は必ず参加しなければならない」「残業が評価される」「社内の飲み会が多い」といったものが挙げられた(下図参照)。

 
 
これらすべて、組織の中に蔓延しているネガティブな姿として取り上げられている様子だが、これらをただ昭和的だと言ってるだけでは何の問題の解決にもなりはしない。
 
休暇が取りづらいのであれば、どうすれば休暇を取りやすくできるかをまず自分で考える必要があるはず。そして何よりも、休暇を取りたければ取ればいいだけだ(これはあなたの権利だ)。
 
働く時間が長いと不満があるのであれば、どうすれは働く時間を短くできるか考えて、それを実行するために動くこと(これはあなたの義務だ)。
 
会社の飲み会は必ず参加しなければならない、ということに関しては、それが本当かどうか冷静に考えること。勝手にそう思い込んでいるだけじゃないのか。あるいは、周りとただ同調しているだけではないのか(これはあなたの習性だ)。
 
残業が評価されるとあるが、残業したくないのであれば残業しなければいい。それだけだ(これはあなたの自由だ)。
 
社内の飲み会が多い、ということに対する不満については、参加したくないものには参加しないのが一番だと言っておこう(これはあなたの勝手だ)。
 
人は自分の思い通りにいかない時、何か理由となる敵を探す。だが、それは言い訳できる状況を欲してるに過ぎない。
 
上司が昭和アタマで嫌だと思ってるだけでは何も変わらないよ。自分が嫌なことは、なぜそれが嫌か相手に伝え、嫌な事はやらないようにすること。なんとしてでもだ。相手が変わってくれないからとないものねだりを続けるだけでは、それは昭和のおじさんと何も変わらない。 
 
「脱・昭和」を真に求めるなら、昭和生まれの人に変化をもとめるだけでなく、彼らを他山の石としながら平成の意地を見せる時ではないのかな。

2022年8月17日

カセットに残された声とともに

映画「長崎の郵便配達」では、長崎の今の町並みやいくつかの行事が魅力的に描かれる。以前、友人を訪ねてその街を訪れた時のことを思い出す。

ファットマンと呼ばれれるプルトニウムを使用した原爆が長崎に投下されて77年。この映画の主人公の一人は、16歳の時にその原爆で被爆し、背中一面に大やけどを負ったかつての若い郵便配達人、谷口稜曄(すみてる)さん。治療のため1年9か月にわたり、うつぶせのままで病院のベッドに横たわっていた。胸に褥瘡ができた。

その後、彼は郵便配達の仕事を続けながら、一方では原爆被害を世界に示すひとつのシンボルとされ、また彼自身もその使命のようなものを深く受け入れて死ぬまで生きた。 

その彼と、旅の途中の長崎で出会った英国の作家、ピーター・タウンゼント。第二次大戦中は英国空軍の軍人だった彼は、戦争被害者に強い関心を抱いていたことから谷口と知り合い、友人として交わることなる。やがてタウンゼントは、谷口のことを「The Postman of Nagasaki」というノンフィクション小説に書く。

タウンゼントを信頼していた谷口はその本の復刊を強く望み、そのことをこの映画の監督である川瀬美香が知る。復刊を欲する理由を、谷口は「許せないからだよ」と語ったという。いまだ世界に核兵器が無数に配備され、唯一の被爆国である日本は核拡散防止条約にも核兵器禁止条約にも参加していない。

川瀬が二人の交流を核に映画を制作しようと計画している最中に、谷口が亡くなった。

その後見つかった、タウンゼントが吹き込んだ10本のカセットテープをもとに映画はその娘イザベルを追って進行する。家族と暮らすパリから父親の足跡をたどって長崎を訪れた娘をカメラが追う。道しるべは、それら取材テープに残された父親が残したメッセージだ。

今はなき2人の男性の友情と信頼だけでなく。27年前になくなった父親を娘が再発見する物語にもなっている。

濱口竜介監督の「ドライブ・マイ・カー」が広島の街を丁寧に描いていたように、この映画では長崎が魅力的に描かれている。長崎の街は静かで美しい。ただそこに暮らす人たちは、深い悲しみを底に秘めているようにも見えた。お盆の時期、精霊流しが行われる頃の長崎の風景だからかもしれない。

映画を見終わって、僕も映画のなかに登場するのと同じ赤い自転車に乗って家路を急いだ。

2022年8月15日

タイのカクテルは、甘いか苦いか

映画「プアン」の監督、バズ・ブーンビリヤはタイ映画界の新鋭と呼ばれているらしい。そして僕はタイ人監督の映画をこれまで観たことがない(おそらく)。ではこれは観なくてはと出かけた。


前評判では、方々で「ウォン・カーウェイが才能に惚れてプロデュース・・・」なんて惹句があちこちで流れていたが、そんなことは関係なし。確かにそうしたプロモーションもうまかったんだろう。本作はタイではたいそう人気を博したらしい。

映画のトーンは、かつての日テレ日曜夜8時の学園青春ものである。プロットの中心は、2人の若者と1人の女。時間と場所の流れのなかでの三角関係。そんなどこにでもあるシチュエーションを、年代物のBMWやカセットテープの音楽(キャット・スティーブンス!)、ラジオDJなど気の利いた小道具でカラフルに組み立ててみせたサービス精神は買っていい。 

元々ニューヨークで知り合った2人の男。バンコクに戻った一方の男(ウード)が白血病で余命宣告を受ける。その彼は、今もニューヨークでバーを経営するボスに電話をする。死ぬ前に元カノを訪ねたいので運転手を頼みたいと。そして2人は、バンコクを基点にウードの父親の形見である70年代ものだと思える白いBMWでウードの昔の3人の彼女を訪ねて回る。 

昔の女との再会と別れが、ウードにとっての人生の惜別として描かれる。ヒロイズムに浸る若者の思い上がりと自己憐憫が甘酸っぱい感傷を感じさせるのは、世界共通なのだろう。ただ、ウードが本当は気にしていたのは、ボスがNYでかつて一緒に暮らしていた女、プリムだった。 

ウードとバズの両者が関わりを持っていたプリムは腕のいいバーテンダー。シェーカーを振る姿が様になっている。バズも自分のバーでシェーカーを振る。映画には気の利いた名前がつけられたオリジナルのカクテルがいくつも出てくる。

ウードの3人の元カノ、過去と未来、バンコクやチェンマイなどタイの街とニューヨーク、余命の限られたウードと未来を見つめるボス。これらがシャカシャカシャカといい音を立ててシェイクされ、いくつもの色鮮やかなカクテルとなってグラスに注がれる。

ところでここまで洒落のめすなら、映画の公開タイトルは「プアン」(タイ語で友だちの意味)というあまりに明らか過ぎるタイトルではなく、原題である「One for the Road 」(旅立ちの前の最後の一杯の意)にした方がよかった。

2022年8月14日

死と自己責任

横浜みなとみらいの映画館で「PLAN75」を観た。 早川千絵監督の初の長編映画である。

近い将来日本はこうなるかもしれないという、日本の高齢化社会の一面が描かれている。プラン75とは国の設定した制度で、満75歳以上になると申込ができる<安楽死>のための仕組みだ。

この映画で思い出すのは、1973年に公開されたリチャード・フライシャー監督の「ソイレント・グリーン」だ。舞台は2022年(今だ!)のニューヨーク。人口の急激な増加によって種々の資源は枯渇し、人々の間での格差が急拡大している。たとえば、肉や野菜を普通に食べることができるのは富める者だけで、そうでない人たちはプランクトンから作られるソイレント・グリーンと呼ばれるある種の加工食品を主食にする。

人口のさらなる拡大を抑制するため、そして貧しい人たちを日々の苦しさから救うためと称して「ホーム」と呼ばれる公営の安楽死施設が街には設けられ、そのホームでは死を選んだ高齢者たちが緑に包まれた草原や一面に広がる大海原といった映像に取り囲まれ、ベートーベンの田園交響曲が流れるなか静かな死を迎える。その後、死体は密かに工場に運ばれ・・・というものだった。

さて「PLAN75」では、倍賞千恵子さん演じるミチという78歳の女性は慎ましやかな一人暮らしを続けていたが、その年齢を理由にあるとき急に仕事を失ってしまう。その年齢ゆえに希望するような職に就くことができず思い悩む彼女。

ある時、何度電話をしても電話に応答しないかつての職場の同僚のアパートを訪ねた時、彼女はその友人が家の中で台所のテーブルにうっぷしたまま突然死しているのを発見する。明日の自分かも知れないと考えるミチ。それをきっかけに、彼女はプラン75に参加する決心をする。

映画の中で流れる、政府が作ったのであろうプラン75のCMがなかなかよくできている。人は生まれてくることは自分で決めることはできないけれど。自分の人生に幕を引く決定は自分でできるのだからとそのプランに申し込んだという女性が、おだやかな口調でにこやかに語る。実際にこんなCMが作られるかもしれないなと思わせる。

プラン75は義務ではなく、国民が該当する年齢を超えたときに自らの意思で選ぶことができる制度だ。それは緻密な計画をもとに策定され、巧妙に推奨することで人の心をその方向に徐々に押しやっていく。どうするかを選ぶのは国民であって、国が作った「姥捨て山」ではないとする、そこがポイントであり、そこが残酷だ。

現実問題として、国にしてみれば歳をとり生産性を期待できず、ただ国費支出の対象でしかない貧しい国民らは国の負担でしかなくなる。プラン75は、国家として対応が迫られた日本が考えつきそうなアイデアのひとつだ。

そうした時に我々が取るべき道は、どういったものだろう。まずは、こうした安楽死を自分で選択し一生を終えることは、現実に有り得るかもしれない。

もう一つは、国が高齢者らの面倒をみることができず、またみること拒否している以上、われわれ個人が周りの人に援助を求め、人の助けを受けながら生きていくことである。これまで人々は、その程度の違いこそあれ、年老いて社会的弱者になったときには家族や周りの人たちに頼り、その人たちからの力添えを受けながら残りの人生を過ごしていた人が多かったはずだ。

ただ、家族や周りの人に迷惑をかけるくらいなら一人でおとなしく死んでいった方がいい、と考える「自己責任」感をある頃からすり込まれるようになっているのも事実。それが日本人の一つのエートスになっていっているように思う。つくづく人のいい日本人たち。だからこそ、国はプラン75を実行することができる。

2022年8月13日

「それでも日本より借金は少ない」

ボリス・ジョンソンが7月に辞任し、その後任を決める英国与党保守党選の選挙活動でトラス外相が大差でリードしている。

トンデモ首相だったジョンソン
 
議員投票の段階では、彼女ではなくスナク前財務相がずっとリードしていたが、トラスが自分が就任したらその日から減税を実施するとブチ上げて巻き返した。 国民保険料や法人税減税、光熱費に含まれる税の凍結などだ。

そうした英国民への大盤振る舞いだが、財源はどうするのか。テレビ討論の際に司会者から問われると、彼女は「それでも日本やカナダより少ない」と英国はまだ健全なレベルなので心配ないと強調。

今後英国だけでなく世界のいろんな国で、国民からの支持を得たい候補者が「減税」を強調するに違いない、日本を引き合いに出して。日本を見ろ、それに比べればまだまだ俺たちは健全だというわけだ。ある種のモラルハザードが広がっていく。

2022年8月12日

朝の新しい仕事

今朝、お隣のドアに張り紙を見つけた。小学1年生のケイタ君が書いたものだ。

家族でお盆で帰省するのだろうか。その間、朝顔の水やりを代わりにお願いしますというメッセージだ。彼がベランダで育てていたはずの鉢が2つ、水がいっぱいに入ったじょうろと一緒に玄関前の廊下におかれていた。 

お安い御用だ。たくさん花が咲くといいね。

2022年8月11日

財政的幼児虐待

「国の借金」が6月末時点で1,255兆億円を越えた。国債や借入金、政府短期証券の残高は、日本の全人口で割って1人1,000万円では収まらなくなっている。

つまり今の赤ちゃんらは、自分が生まれた時からそうした借金を背負わされているということで、それは「財政的幼児(児童)虐待」と呼ばれる。尋常でない名称だが、そのくらい深刻な状況だということだ。

コロナ対策や東日本大震災への援助、復興のための予算が必要で国債を大量に発行してるのは理解できる。しかし政府は、その後なんでもかんでも国債を発行し、それを中央銀行に引き受けさせれば済むと考えているようにしか見えない。

調子よく引用するMMT(現代貨幣理論)を言い訳にして、国債を打出の小槌と考えている。下図は2001年と2021年の債務残高(GDP比率)を日本と他国で比較したものだ。国名の右の%は、この20年間でどのくらい経済成長したかの数値である。


日本は20年前(東日本大震災もコロナもまだ発生していない)、既に国の借金はGDP比150%と先進国でダントツだったわけだが、それが今では250%を越える。

それだけの借金をしながら、経済成長率は20年たってもわずか12%にとどまっている。経済政策の面だけから云えば、日本は発展性のないことに延々と金を借金して注ぎ、そしてその考えを改める姿勢もない。財務省によると、本年末に国の借金は1,411兆4,000億円まで増える。1人当たり1,130万円強だ。

虐待の度合は、ますます強化され続ける。「こんな国にどうして生まれてしまったのか」と子供たちが将来恨み言を吐くようにならなければよいと願う。

顔写真など不要

第2次岸田改造内閣が昨日発足した。今朝の新聞の第1面に20人の顔写真が並んでいた。どの省の大臣に誰が任命されたかなど、正直言うともう関心はない。

ただ、朝食をとりながら新聞を眺める習慣があるので、それらの写真が目に入ってくるとメシがまずくなるので困る。後ろの方の紙面に掲載を移してもらえないものだろうか。

ところで、前の内閣(第2次岸田内閣)は昨年11月10日から昨日までの9ヵ月だった。今度の内閣で何をやるか掲げる前に、まずは昨日までの内閣でそれぞれの大臣が何をどう成し遂げたのかを示す「成績簿」を公表してもらえないか。

われわれ国民は誰が大臣になるかではなく、その人物が何をやり遂げてくれるかに期待しているのだから。

ちなみに、第1次岸田内閣は昨年10月4日から同11月10日の38日間だった。日本の憲政史上もっとも短い内閣だった。38日間でも大臣だった政治家は、元大臣となる。

だが、実際はそうした期間で大臣としての自分なりの政策を考え実行することなど不可能。自分が担当する分野に関して正確な状況を理解するだけでも、それなりの時間はかかるはずだ。

大臣に誰がなったかなど(もちろん顔写真も)、実質どうでもいい。

2022年8月9日

君は「ビジネスパーソン」か?

20代、30代が中心を占める社会人大学院生が自分らをどう見ているか、あるクラスで学生らへのアンケート項目に「あなたを示す言葉として、以下のどれが最もフィットしていると思いますか? 1つだけ選択してください」という設問を入れてみた。

結果、62人中58名の回答(回答率94%)で一番多かったのが「ビジネスパーソン」の27.6%。続いて「会社員」25.9%、「ビジネスマン」20.7%、「サラリーマン」8.6%、「ビジネスウーマン」6.9%の順だった。

 
自分のことを「ビジネスなんたら」と答えた人の割合は、都合55.2%で半数を超えている。これって一般社会といささか、いや、かなり違っているんじゃないかという印象を受けた。

そこで、組織で働く人を示す「会社員」「サラリーマンまたはOL」「ビジネスマンまたはビジネスウーマン」「ビジネスパーソン」がメディアでどのように使われているか、ためしに朝日新聞のデータベースを用いて2000年から2021年までの年度ごとの掲載頻度の割合を調べた。

 
上図は結果をグラフ化したもの。黄色い部分を指す「会社員」が9割を占める。企業組織で働く者の一般的名称は、会社員と推測してよさそうだ。

ただこれでは先の学生らが自分はそうだといった「ビジネスパーソン」の姿がまったく見えないので、「会社員」を除いて図にしてみたらこうなった。


「サラリーマンまたはOL」(グレー)が8割以上を占める。続いて「ビジネスマンまたはビジネスウーマン」(オレンジ)。ここ数年になってやっと「ビジネスパーソン」(青)がちょこっと現れてきた。

日本語でも看護婦を看護師に、保母さんを保育士さんにというように性差を示さない用語に呼び変える流れのなかで、ビジネスマンがビジネスパーソンと呼ばれるようになってきたのだろう。

そもそもビジネスマンって何か。オックスフォード英語辞典によれば、businessman (businesswoman, business person) とは、a man(woman, person) who works in business, especially at a high levelとある。またケンブリッジ英語辞典では、some one who works in  business, usually having an important job と示されている。

本来の意味は、「実業(ビジネス)に携わる人で、特に経営者層」である。

実態とイメージの乖離だ。

2022年8月8日

何とかしようとすれば、何とかできるはず

新型コロナの感染が始まって以来受診していなかった市のガン検診を受診することにした。

市のサイトで、対象となる医療機関を調べ予約の電話をしたところ、検査日の予約をするためにまず来院して欲しいと言われた。窓口で問診票に記入してから実際の検査日の予約ができるとか。

事務的な手続きなのでネット上で済ませられるはずだと思いながらも、仕方ないので病院まで出向いた。今回、検診を受けることにしたガンは4種。そしたら病院の窓口で問診票が挟まれたクリップボードを4つ渡された。

それぞれ胃や肺などの検査用の問診票なのだが、それら4つすべて最初に名前、住所、連絡先、生年月日、年齢、性別を記入する欄がある。で、これまでの病歴や現在治療を受けている病気などの記入欄が続く。

なぜ名前や住所などの記入が1つで済まないのか看護師に訊ねると、「それぞれ担当機関がちがうんです」と。

解決法はそれほど難しくはないと思う。受診者は数年に1回しか利用しないからそのままになっているんだろうけど、なんとかした方がいい。

2022年8月7日

自由民主党が党名変更を決定

旧統一教会との関係を指摘された政治家らが記者会見などで示す、誠実さの欠片もない受け答えにゲンナリとさせられる。聞いていると蒸し暑さが増してくる。自民党を中心とする数々の国会議員、なかには現役の防衛大臣や環境大臣、さらには国家公安委員長までいる。

政治家としての身分を守るための言い逃れに、平気で国民のまえでウソをつける人たちである。安倍元首相以来、この国ではウソをつくことが一層軽くなった。 

そうした政治家の胡散臭さ満載の姿を小さな時から見て育った日本の若者たちが、今の政治も政治家も信用せず、やがて選挙権者になっても投票所に行かない理由がわかるような気がする。

ウソと言えば、電通の元常務で五輪組織委員会の理事だった人物が受託収賄罪で捜査をうけているが、それでつい昨年だったにもかかわらずすっかり記憶から消えかかっていた東京オリンピックをにわかに思い出した。

オリンピック実施に当たって、当時の菅首相は何と言ったか。開催の大義として、こともあろうか「人類が新型コロナを克服した証として」と表明した。明らかにウソ八百だった。

コロナ克服どころか、WTOによれば今の日本はこの2週間続けて新型コロナの感染者数が世界最多を記録している。

ところで岸田首相は、来週の内閣改造に合わせて党名を自由民主党から自由統一党へ変更すると決めたらしい。 ウソ

2022年8月6日

彼女の詐欺より、美の基準の方が気になる

寝屋川市の女性市議が、コロナ禍で収益が減った福祉・医療関係施設向けの公的融資を利用し、仲介を装って施設側に融資を受けさせ手数料を詐取したとして逮捕された。

その詐欺の経緯などは報道されているとおりだが、僕が気になったのは「美し過ぎる市議」というメディアでの表現。

美しいかどうかは個人の主観だけど、あの程度で「美しすぎる」と言われたのでは全国の他の女性市議に失礼じゃないのかね。

そもそもこうした報道の根底には、議員になろうなんて女性が美人であるはずがない、という記者たちのお粗末な偏見がある。

メディアに携わる人たちは、そうした紋切り型の魯鈍な表現をいい加減にあらためるべきだ。

2022年8月5日

「インバウンド」は、遠い記憶に

2002年、政府の閣議決定をもとに国土交通省がグローバル観光戦略を立ち上げた。そして「ビジット・ジャパン・キャンペーン」の名の下で、海外から観光客を呼び込む活動が国を挙げて開始されたのが2003年だった。

かつて世界を席巻した半導体産業など日本の製造業はすでに見る影もなく、政府は外貨を稼ぐ最後の砦として観光産業に目を付けたわけだ。

しかしその後、訪日客数は10年間さほど伸びず、2012年頃まで日本を訪れる外国人観光客は多くてせいぜい年間800万人(フランスの10分の1)ほどだった。その後、とうとう外務省が中国人へのビザ発給要件を徐々に緩めるのにしたがって、その数は急上昇。つまり、増えた訪日客のおおかたは中国人観光客だった。

銀座の中央通りに中国人観光客を乗せた観光バスが何台も停車し、大勢の客が銀座の街に一挙に買い物に繰り出していた風景がいまでは懐かしいほどだ。

そして2019年に訪日客は3200万人弱を記録したが、2020年初頭からの新型コロナウイルス感染拡大で2020年は410万人、2021年は25万人にまで激減した。 

JNTOのデータを元に作成

政府は第7次とも呼ばれる感染拡大に半分目をつむり、「社会経済活動」にいかに国民を仕向けようかと考えている。

夢よもう一度ではないが、コロナが定常化したあかつきには、また「インバウンド」と呼ばれた外国からの観光客誘致策を検討していることだろう。

だが、それはかなり難しい。今のような感じで円安が進んでも難しいと僕は見ている。その理由のひとつは、場所によっては40度を越え、熱帯ともいえる日本の夏の暑さだ。

中国などアジア諸国からの観光客は知らないが、欧米人が夏のバカンスシーズンを利用してこの殺人的暑さの国にはるばる観光に来るとは考えられない。

実際、ヨーロッパでは人びとの旅行行動に顕著な変化が現れている。日本の猛暑のことを言ったが、暑いのは日本だけではない。英国で歴史上初めて40度を超える気温を記録したなど、各地がヒートウェイブに襲われている。

そのため人びとは、暑いローマではなく、比較的涼しいストックホルムやコペンハーゲンを選ぶ。暑さで避けられるようになったのは、なにもイタリアだけではない。スペイン、ポルトガル、ギリシア、フランスといった著名な観光地が軒並み敬遠される傾向がでている。

だが、「暑さ」ゆえに観光の目的地から外されるようになったローマの最高気温は華氏100度、つまり摂氏38度弱。確かに涼しくはないが、日本よりマシ。夏のバケーション・シーズンに、高温多湿の日本に観光にくる欧米人はいない。

春や秋といった過ごしやすい季節はあるが、それらの時期に訪れるのは中国や韓国といった近隣諸国からの短期の観光客だけ。

一般の日本人は、円安で海外旅行に出かけづらくなる一方、海外から観光旅行客を呼び込むのもこれまでのようには行かなくなるのがこれからの日本だ。

2022年8月4日

賀来満夫は、まだいたのか

日本では第7次の感染拡大が止まらない。医療現場は逼迫し、治療を受けようとしても対応がままならなくなっている。高齢陽性者の介護の現場もこれまでになく疲弊している。

 
NHKのニュースを見ていたら、東京感染症対策センター(東京 i CDC)座長だという賀来満夫が、またまたまた感染拡大防止についてもっともらしいことを都の会議で語っていた。正確には誰かが書いたのであろう原稿を始終読んでいただけなのだが。

ところでこのおっさん、2020年3月に新型コロナの感染について、新聞のインタビューでこんなことを語っている。

「SARSは2002年11月に確認され、ピークは03年3~4月で同7月に終息宣言が出た。その例を考えると、今回は19年12月に始まったことから、20年4~5月がピークで、8月まで続くと推測する」

2年前の3月6日の記事
 
何言っているんだろう。「その例を考えると」って、類推の仕方が根本的に間違っている。いまも勝手な思い込みをもとに医療行政をミスリードしているんだろうか。

参照:https://tatsukimura.blogspot.com/2020/03/blog-post_5.html