たまたま通りがかった大型商業施設内の屋外広場に、週末らしく子供連れの家族を中心に大勢の人が集まっている。人々が目を向ける先では、大道芸人がパフォーマンスを行っていた。
通りすがりがてら大道芸を目にしたときは、もう彼のステージングはほとんど終盤を迎えていた。大道芸人はパフォーマンスを終え、見物客から拍手を受けながらマイクの声をいちだんと張るように話し始めた。「皆さんのお気持ちを!」
今はまだコロナのせいで帽子を持って観客の人たちのところを回れない、だからもしショーが気に入ったのであれば、ここにおく帽子のところに持って来て欲しいと訴える。そして自分らは観客からいただけるそのお金で大道芸人として生活しているのだと。
話し方が深刻にならないように気を遣っているのが、声の調子から伝わってくる。こうした場面に遭遇すると、いつも胸が少し締め付けられるような気持ちになる。
彼はいくら集めることができるんだろうか、それは生計を立てるに十分な額だろうか、ここにいる人たちのどのくらいが投げ銭を出すのだろうか、と気になってしまうからだ。
見ていると(見ないでそのま去ればよかったのだけど)、週末で家族連れが多かったこともあるのだろう、子供にお金を持って行かせている親が結構いた一方、大人でお金を入れている人は数えるほど。
子供たちが親から手渡されたものは、だいたいは小銭のように見えた。みんな「赤い羽根募金」のような感覚が根強いようだ。でも大道芸人が期待するのはもちろん紙幣だ。
やがて、芸人がいくぶん哀切を感じさせるように、その場を立ち去ろうとしてる観客らにもう一度マイクで語りかけるも反応はあまりなかった。
以前ニューヨークに住んでいたとき、公園や広場、地下鉄のホームや地下通路などで演奏しているストリート・ミュージシャンは、いわば日常の光景の一部だった。
そこを通りかかるほとんどの人は足早に(ニューヨーカーはみな歩くのが速い)過ぎ去るが、チップを置いていく人は10ドルとか5ドル紙幣を楽器ケースに置いていく。僕も10ドル紙幣を自分のルールにした。なかには、こう言っては失礼かも知れないが、路上生活者とおぼしき連中までがしっかり紙幣をポケットから取り出し置いていく。
ひょっとしたら、人から施しを受けている路上生活者らしき人たちは「仲間」を放っておけないという意識が働いているのかも知れない。実際のところは、確かめたことがないので分からない。
一方で、立派なブリーフケースを下げ、仕立てのいいスーツを着たエリートビジネスマンらしき人は、まるでそうした路上ミュージシャンなどいないかのように完全に無視して通り過ぎる人が大半だったように思う。
日本との違いとしてチップの習慣があげられる。何かをしてもらったとき、相手の「サービス」に対して満足した気持をあらわすためにお金を払う。日本のようにサービスは決して「タダ」の別名ではない。
サービスに対する考え方、チップの習慣、そういったものが米国などとは異なる日本で、大道芸人が投げ銭(おひねり)で生きていくのはほんとうに大変なことだと思う。
もちろん小銭の投げ銭でもないよりはマシなんだろうが、今どきは集めた小銭を自分の預金口座に入れようとすると金融機関から手数料を取られるしね。コロナで芸を披露する場自体が激減しているはずだし、大道芸人にとって受難の時代だ。昔からずっとだ、と言われそうだが。