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2025-03-08

赤いポストが消えていく

デンマークでは400年続いた書簡サービスが廃止され、今年6月から町中の郵便ポストも順次撤去されることになった。

BBCのサイトから

世界のなかでもとりわけデジタル化が進展しているデンマークでは、郵便局による手紙の取扱い数量が激減している。今世紀に入ってからは、14億通だったのが昨年度は1億1千万通と9割以上の減少である。

デンマークでの手紙の取扱量

また、デンマークでは現金を使う人はほとんどおらず、人々は運転免許証や健康保険証さえもスマートフォンで持ち歩くらしい。デジタル化できるものはすべてデジタルにしちゃえ、とばかりに社会システムを変革している様子が窺える。 

運転免許証にしても健康保険証にしても重くて持ち運びが大変といったものではなく、利用者側の日常のメリットはさほどない。一方で、すべての記録がデジタルで保管できるので為政者側にとってはさまざまなメリットが考えられる。

国民がそうしたこれまでの社会インフラのデジタル化の推進に歩調を合わせられるかは、政府がどれだけ信用されているかにかかっている。その点で翻って日本はどうか、ということに思いが行く。

それはさておき、町中から郵便ポストがなくなり、手紙を書くということが日常からきえていくことは寂しい気がする。電子メールですべてが置き換えられ、やがて手紙を書いたり受け取ったりしていたことすら人は忘れていくのだろうか。

日本でもやがて、と思わせるニュースである。

2025-03-04

入国時、手にしているパスポートは「輸入物」である

日本入国時、納税申告の対象がないにもかかわらず、なぜ税関の申告書を提出しなければならないのか、ということを書いた。 

空港の税関吏は、私にたいしてその根拠として関税法第67条をあげた。その条文は「貨物を輸出し、又は輸入しようとする者は、政令で定めるところにより、当該貨物の品名並びに数量及び価格(輸入貨物(特例申告貨物を除く。)については、課税標準となるべき数量及び価格)その他必要な事項を税関長に申告し、貨物につき必要な検査を経て、その許可を受けなければならない」というもの。


「貨物を輸出し、又は輸入しようとする者」の定義について東京税関に確認したところ、「すべての入国者」がそれに当たるという。入国者が手にしているものはすべて「輸入物」にあたるからだと。

なぜか。たとえスーツケースやバッグを持たず、手ぶらであってもである。すなわち、その時は入国時に身につけている物が「輸入物」とみなされるらしい。

服も着ず、靴も履かず、つまり全裸で入国したとしても(実際にありえないが)、日本に入国したということは、その手にはパスポートが握られているはずであり、そのパスポートが「輸入物」となる。 だから、すべての入国者が対象となる、というのが税関職員の説明だった。

なんという拡大解釈! 屁理屈だ。

そうであれば、「貨物を輸出し、又は輸入しようとする者」などと表現せずとも、「すべての入国者」と書けばよいではないか。が、そうはなっていない。

そもそも、いまでは入国時に税関の申告書を提出させる国は世界の中で極めて少数になりつつあり、その点は日本の税関も理解している。にもかかわらず、先述の関税法の解釈にとらわれて利用者視点の運用ができないでいるのが現実である。

顧客の声を聞かない日本のサービス企業はどうなるか

先月末、東南アジアの国々を少し回って帰国した。各地のホテルは行く先々でネットで探して予約、フライトもほぼ同様だ。便利な世の中になったものである。地上の移動はGrabを使い、実にスムーズでストレスもなかった。

そうしたホテルや航空会社、Grabなどに共通するのは、サービスを使った後、すぐにお礼メールとサービスへの評価と今後のサービス改善のためのアンケートを依頼してくること。

ところが、それらのなかで一つだけ例外があった。日本までのフライトで利用した日本の航空会社だ。とりわけ今回の利用時、さまざまな点でサービス提供に問題があり、その航空会社に伝えておきたいことが何点かあったにもかかわらず、フライト後にも何のコンタクトもしてこない。

本来、顧客の声を拾わなければサービスの改善も、新たなサービスの開発もできない。

その日本の航空会社は、サービス企業としての意識が絶対的に欠けているように感じた。実際その企業は、ここ数年で明らかにサービス品質が低下しており、これから数字の面での業績低下は避けられなくなるだろう。

2025-03-02

税関は何のために私たちに手間をかけさせるのか

日本に再入国するときのこと。

到着した空港で手荷物受取所のカルーセルからバッグをピックアップし、そのまま税関を通り抜けようとしたら、その手前で中華系の職員に「税関申告書」を準備してくださいと止められた(この人員配置は、中国からの訪日客が多いことへの対応だろう)。

私が、申告する物は何もないからと言ったら、全員が書かなくてはいけないと言われ、仕方なく例の黄色い縦長の用紙をもらって記入した。


その用紙を手に、税関職員にパスポートを見せるレーンで、なぜ申告する物がないにもかかわらずこうした書類を強要するのか訊ねてみた。

彼女は、私が渡した税関申告書の表面の上部を指して「ここの情報が大切なんです」と回答した。名前や住所、生年月日、パスポート番号、今回のフライトの出国地などをわれわれが記す部分だ。

だが、誰が入国したかの記録なら、パスポートの情報を入国管理のところで記録してあるはずであり、その説明はおかしい。と伝えて、納得のいく説明をくれるように求めていたら、やり取りを見ていた別の職員が僕の方にやってきた。

そのまま出国ゲート脇の詰め所(のような場所)に案内され、そこの男性職員が今度は税関の申告書を提出するのは法律で決まっているからだという。それはどういった法律かと問うと、「広辞苑」と見紛う分厚い本を持って来た。背表紙に「関税六法」と書いてあり、そこに収められた第六十七条に定められていると私に開いてみせた。

彼が示した条文を読んだが、理屈がオカシイ。

関税法第六十七条とは、以下の通りである。


ここでは「貨物を輸出し、又は輸入しようとする者は」という条件が付いている。つまり、その条件に当てはまらない者にはこの条文は適用されないはずだ。

彼にそう言ったら、少し困った顔をして黙ってしまった。すると、彼から少し離れてやり取りを見ていた別の職員がやおらこう切り出した。「申告する物がないと言う人も、申告書を書くことで申告する物があったことを思い出すことがありますから」と。

ええっ。リマインドのためかよ。人を馬鹿にしてないか。だったら、別の手段を考えてくれ。たとえば、申告忘れをしないようにとのメッセージの音声を手荷物受取所で流すとか、航空会社と協力して乗客の下船時にそうしたアナウンスをしてもらうとか。もっと効果のあるシンプルなやり方があるはずだろう。

もう少しスマートにやってくれよ。

中国繁体字が表示される違和感

アマゾン・キンドルで本を読んでいるとき、指先で特定の箇所にマークを付けることができる。紙の本で横線を引いたり、アンダーラインを引くのと同じ感覚だ。 

それらはアマゾンのサーバー内に記録され、あとで呼び出して読んだり、一覧をメールに添付して送ることができるという、なかなか便利な機能。マーキングするだけでなく、メモを付けておくこともできる。

先ほど、キンドルである本を読み終え、自分がハイライトしたものをメールで送って一覧を開いたところ、なんか変だ。句読法が日本のものではなく、中国の繁体字の表記の仕方(横書きの場合、句読点が下になく、中空に浮かんでいる)になっている。

また点と丸の打ち方だけでなく、漢字の書体も微妙に日本のものとは異なっている。

これはアマゾンが海外、おそらく中国にあるサーバーを利用しているからか。

自分がどんな本を読み、その本のどういった箇所にしるしをつけたかなんてことは明らかに個人情報であり、思想信条にも関すること。

それらが中国のサーバーに記録されてしまっているというのは、実に不愉快だ。なぜそうしているのかは彼らに回答してもらわなければ理由が分からないが、不信感は収まらない。

2025-03-01

意味のない大規模修繕工事が始まる

ひさしぶりに日本に帰国したら、斜め前に建つマンション全体が黒いネットで覆われていた。 

マンションの大規模修繕らしい。建物の周りに組まれた足場を行き来する職人たちの姿がネットを透かして見える。工事は、予定では3ヵ月かけておこなわれる。その間、なかに住んでいる人たちは紗のかかった目隠しをされているようなもので、さぞ迷惑なことだろう。

ところが、僕の住む集合住宅も大規模修繕に向けた話し合いが行われていて、来週あたりには管理業者の入札があるらしいことを知った。自身は部屋のオーナーではないので、何がどうなっているのかといった詳しい話が直接は届かず、知らなかった。そもそも外国にいたし。

予定だと、本年中に大規模改修の作業が始まることになりそうで、実に憂鬱な気分だ。

始まると、騒音がうるさい、ホコリっぽい、洗濯物が干せない、中を覗かれる(気がする)。何と言っても部屋からの景観がなくなり、日差しが注がなくなる。バルコニーに寝そべり本を読んだり酒を飲むことも出来なくなるのも辛い。

いいことは何一つ考えられない。そもそもマンションの大規模修繕ってのは、通常は外壁の洗浄と塗装が中心。つまり外面(そとづら)を塗り直すことで、建物を少しでもキレイに見せることに主眼が置かれている。歳とって顔の皺が増えたのを、これまで以上にファンデーションを厚く塗って隠そうとすることと同じ。

人間の体に例えるなら、その血管や神経に相当する給排水管や通信回線などを改修しなければ、日々の生活のクオリティには影響しないのだが。

外からの見栄えを良くすることで、マンションの資産価値の減少を保とうというのだろうが、その発想がどうにもみすぼらしくて嫌だ。そんなことが資産価値の向上に寄与するという社会の価値観がバカバカしい。

僕のように賃貸で住んでいる者にとっては、外壁をきれいにすることに意味はない。それどころか、そのことで今払っている月々の家賃を引き上げられたら泣きっ面に蜂だ。

一般的に修繕業者に支払う金額は、1戸あたり100万から125万円といったところらしい。5000万円の予算があれば宅配ボックスを増やすことで住民の利便性を高め、ルーフテラスを緑化して住み心地を良くし、さらにそこでバーベキューなんかできるようにしてもお釣りがしっかり残るのに。

しかも修繕工事費用は、多くがブラックボックス化されている。施工を行う業者によって、専門用語を多用した素人には分からない工事項目とそれらの金額を並び立てた工事見積もり書が作成される。それら業者にしてみれば、赤子の手を捻るようなものである。

工事業者や管理会社などの有象無象が結託し、住民の修繕積立金を吐き出させる仕組みである。痛みを受けるのは金を積み立てた住民だけ。しかも、ほとんどの場合、一般の住民はそうしたことを知る由もない。

大規模修繕工事なんてやめればいい。わざわざなんでそんなことやるんだろうと、つくづく思う。

2025-02-27

羨ましい仕事

世の中にこんなに愉しい仕事があるだろうか。

世界中を回りながら、各地の猫とふれあい、それらのニャンの映像を収めて番組にするという「岩合光昭の世界ネコ歩き」である。

番組に登場するのは動物カメラマンの岩合氏と各地の猫たち。それと、そうした猫らに関係する現地の人たち。

猫に演技をさせようとしても無理なわけで、番組に登場するのはまったくのところ自由で勝手気ままな猫たちである。ところが、そのニャンたちと彼は猫語で挨拶を交わし、ご機嫌を伺いながらカメラを向けると、猫たちは彼の意のままに動いてくれる(ように見える)。

いやまったく、どうして猫の動きを読んでそっちの方にカメラを向けることができるのか、いつも不思議に思っている。 

そして被写体として登場する猫たちを見ていると、猫はそこにいる人間たちの鏡だと感じる。別の言い方をすれば、その土地を映しているともいえる。不思議なものである。

撮影に際してはロケハンなどは綿密にやるのだろうけど、当然ながら予定通りの撮影などはあり得ず、現地ではその場その場での即興の動きを捉えていくのだろう。経験と直感の勝負だ。

苦労もあろうと思うが、そうした苦労ができるのが心底うらやましい。

NHKの番組サイトから

2025-02-14

「会社法人等番号」12桁と「法人番号」13桁

法務局の出張所に、ある法人の謄本を取りにいった。申請書類に当該法人の「会社法人等番号」を記入する欄があった。法人の登記簿に記された識別番号で12桁で構成されているものである。

先日、関連する用件で税務署に行ったおりには「法人番号」を書類に記入することを求められた。こちらは13桁で、会社法人等番号のあたまに1桁の数字が加えられたもの。

ややこしい。法務局の窓口スタッフに、この2つの数字にどういった違いがあるのか、どう使い分けているのかを尋ねてみた。

すると、会社法人等番号は法務局で使用しており、法人番号は国税庁が使用している、なぜこの2種が用いられているかは分からないので国税庁に訊ねて欲しいと。

それ以上の回答がないので、そのままそこを後にしたが、どうも釈然としない。というのは、おそらく国税庁に説明を求めたら、今度は同様に法務局に聞いて欲しいと言われるだろうと思ったから。堂々巡りだ。

法務局が設定している会社法人等番号という名称の、あほらしい無意味さ。「会社法人等」というのは、会社だけでなく他の法人も、という意味だろう。つまり、「法人」の一言で事足りる。要するに本来、会社法人等番号と法人番号という2つの呼び名の意味は同一であるにもかかわらず、管轄する省庁が違うので異なった名称を付けているわけだ。 

国は効率化を推進するためデジタル政府を目指すなどと何年か前に言っていたと思うが、役所はどこも自分たちの縄張り以外のことは知らぬ存ぜずで、われわれ国民をあいかわらず蚊帳の外に置いている。

法務局と国税庁が話し合ってこうした番号の設定の仕方を決めていれば、会社法人等番号と法人番号という似た2つの数字を使い分ける必要などなかったはずである。

2025-02-10

充電できなくなったらもう終わり、というのはいろんな意味で止めにしたい

僕たちはバッテリーで生きている。といっても、生身の体の中にバッテリーが埋め込まれているという意味ではもちろんない。

先日、電話の子機のバッテリーがへたって交換した。フルに充電してるはずなのに、話の途中で突然回線が切れることを経験したからだ。ハンディタイプの掃除機のバッテリーも交換した。

アマゾン・キンドルが起動しなくなった。死んだのはこれで何台目だろう。たぶん5台目か6台目か?

モーターなどの動作部品は仕込まれてないので、使えなくなるほとんどの理由はバッテリーだ。これまでずっとそうだった。リチウム電池が入っているんだろうけど、こちらは交換不能だから。

どうして交換できないのだろう。バッテリーが交換できなきゃ捨てるしかない。新品購入の費用だけでなく、環境面でも不満だ。

そんなことを考えていたら、スマートウォッチのバッテリーも弱ってきて、日中、気がつくと画面が消えているということがある。何とかしなくては。というか、これもバッテリーの交換が出来るわけではないので、処分するしかない。嗚呼、なんとかならないものか。

強欲な米国企業の買い換え促進策とはいえ、いい加減にしてほしいね。

以前使っていたことのあるシャープ製の携帯電話は、太陽光で充電ができた。クラムシェル(折りたたみ)式のもので、その蓋の部分に太陽光を電気に変えるシートが組み込まれていた。

キンドルは本体(画面)の裏面をつかってそうすべきだ。あるいは、純正をうたうカバーに太陽光シートを貼って本体が充電できるようにしてもらいたい。

身の回りのものの多くがバッテリーで動くようになっている。乾電池の交換ですめば楽でいいのだがそうではない。そのため、場合によってはモバイル・バッテリーとケーブルをバッグに入れて持ち歩かねばならなくなっている。

そして、本体のバッテリーがダメになれば、交換(買い換え)だ。こんなこと、いつまで続けされられるんだろう。そろそろ発想を変えてもいいんじゃないか。

2025-01-18

生成AIの説明能力

生成AIが仕事に急速に取り入れられていて、会議の議事録をまとめたり、販売データをもとにした報告用の資料などを作ってくれたりする。

AIは文章でも図表でも、たじろぐことも戸惑うこともなくあっという間に作成する。全能感を思わせるそのアウトプットのスピードにオフィスで働く人たちは感心し、手放せなくなる。

ただし、生成AIの回答にときおりギョッとさせられることも多い。たとえばデータの解釈だ。

見せかけの相関のなかには、いろいろと笑わせてくれるものがある。下記のグラフでは、2000年から2009年におけるマーガリンの一人当たり消費量と米国メイン州の離婚率のトレンドが相関係数0.99という強い関係にあることが示されている。

その理由を生成AIに説明させると、以下のように解釈する。

おそらく、マーガリンの使用量が減るにつれて、人間関係もギクシャクしなくなったのだろう。人工的なスプレッドがないため、カップルがお互いにバターを塗り合うことがなくなり、全体的な夫婦喧嘩の減少につながったのかもしれない。バターでないことが信じられない現実、それは夫婦関係の成功の秘訣なのだ。あるいは、マーガリンの消費量が減るにつれて、全体的なヌルヌル状態も減り、パートナーが結婚生活をうまくコントロールできないと感じるケースが減ったということも考えられる。

おもしろい。米国メイン州の夫婦はケンカをすると相手にバターを塗りつけようとするらしい。新説である(意味不明のところがあるが)。

ここまで解釈がぶっ飛んでいると、さすがに小学生でも変だと気づくけど、そうじゃないAI作成の文章で専門家でも見紛うものがネット上を中心にいくらでもある。人が書いたのものか、AIが書いたのものか、多くの場合、その判別がつかなくなっている。

結局、今のところは説明の内容をどう判断するかは人の知識と経験、常識に頼るしかない。

それこそ何でもAIに代わりに考えさせていると、ヒトの頭脳はあっという間に判断能力を失い、機械に乗っ取られてしまいそうだ。 

ついでに、生成AIに上記の説明に沿った画像を作成するよう命じたら、こんなのが出てきた。笑える。州の90パーセントが森林だというメイン州の雰囲気は確かに良く出てるかも。

バター版

マーガリン版

2025-01-07

年賀状は続く

日本郵便によると、今年の元旦の年賀状の枚数が昨年比で34パーセント減、3年前と比べて半数以下になったらしい。

ここ数年、毎年「今年で年賀状じまいします」という年賀状が増えた。面倒くさくなるんだろうな。そうやって、届く枚数も減っている。

それに呼応してこちらから出す年賀状の枚数も少なくなる。もうずいぶん前からだが、年賀状は手書きだ。表面の宛名書きも手書きだ。以前は年賀状ソフトで宛名を印刷していたけど、手書きしてもたいして時間がかかるわけじゃないから。

もう50年近く、年賀状だけでつながっている友人がいる。彼は、小中学校での同級生だった。高校は別の学校に進んだが、夏休みなんかは皆で集まって一緒に遊んでいた。

彼に会った最後の記憶は、彼が18になりすぐ免許をとったというので、彼の運転する車に小中学校時代の同級生たちと乗り込み、免許とり立ての危なっかしい運転で山道をぶっ飛ばしたこと。ガードレールもない田舎の山道で、死ぬかと思った。

高校を卒業し、彼は地元の電力会社に就職し、僕は大学に行くため東京へ出た。それきり会っていない。48年前のことである。

お互いまだ生きているが、もう昔の面影といったものはないかもしれない。けれど、年賀状のやり取りだけは今も続いている。会っても顔が分からないかもしれないし、会うこと自体ないかもしれないからこそ、年に一度の年賀状がお互いに必要な気がする。

顔は分からなくても、彼の筆跡は分かる。

2024-12-29

実感のないインチ表示はやめよう

インチ表示について考えてみる。インチキ表示ではないヨ。

手持ちのEブック(電子書籍)リーダーのバッテリーがへたってきたため、新しいものを買うことを考えている(バッテリーの交換修理サービスを提供しているところもあるようだが、僕のはモデルが古いため対象外)。

本を読むとき紙かディスプレイかというと、間違いなく紙の方が好きなのだが、海外へ行っているときはそうはいかない。電子ブックはとにかく持ち運びが便利。どこの国にいても、何語の本でもすぐに手に入れられるのですごく助かっている。手放せない。

電子書籍を読むのは、iPadのようなタブレットでもいいのだけど、kindleに代表されるEインクを用いたものの方が読みやすく、デバイスも軽くていい。

ということで、1台新調することにした。メーカーは複数ある。それぞれに機能や価格もいろいろ。大きさも複数の選択肢がある。6インチ、7インチ、8インチ、10.2インチといったぐあい。

ただそうした選択の際によく分からなくて困るのが、画面の大きさについてだ。インチの数が大きければ画面サイズが大きいのは分かるが、実際に手に取ったとき、どのくらいの画面の大きさなのかピンとこない。

電子ブックリーダーだけではない。スマホもタブレットも、デジカメのモニターも、テレビもすべてその大きさを示す単位として<インチ>が使われている。本来、インチは、主に米英で用いられている度量衡法であるヤード・ポンド法の単位である。

日本ではかつで尺貫法(長さは尺、容積は升、重さは貫)を用いていたのを1921年にメートル法(メートル、キログラム)を採用し、その後、尺貫法は1959年に廃止された。

そうやって古来用いていた尺貫法を廃止し、メートル法に移行しておきながら、なぜヤード・ポンド法の「インチ」を日本人が平気で使っているのか、なんとも不可解かつ不愉快である。

そもそも1インチが何センチかなんてことを、正確に知っている日本人がどのくらいいるのかね。100人のうち3〜5人くらいかなァ。それを知ってなければ、実際の長さを理解できないはず。正解は2.54センチ。

電子ブックリーダーのディスプレイやテレビ画面のサイズを示すのにインチが使われていることに抵抗感があるもうひとつの理由は、それらは画面の対角線の長さを示しているのであって、大きさ(画面サイズ)は表していない。

つまり、アスペクト比(画面の縦横比率)が違えばインチ数が同じでも画面の大きさは異なる。このように、現状用いられている単位は本当は分かりづらい単位なのである。

テレビやスマホ、電子ブックの画面サイズをイメージしたいときにイメージしたいのは対角線の長さではなく、その画面の大きさである面積。だとしたら、別の尺度が欲しい。

ひとつの考え方は平方センチだ。例えば32インチのワイド画面(16:9)テレビは、2,816平方センチ、64インチなら11,265平方センチになる。

うーん、これも慣れないと分かりづらい。ならば、皆が使い慣れているはがき(ポストカード)のサイズ(10センチx14.8センチ=148平方センチ)を1単位にしたらどうか。たとえば32インチのワイド画面テレビは19ps(postcards)、64インチのテレビはその4倍(2x2)の76psと表す。それぞれ、はがき19枚分、76枚分の大きさ(画面の広さ)の意味である。

この方がずっと分かりやすいと思うのだが、どうだろう。


2024-12-28

盗っ人にもプライバシー、なのか?

千葉県内の企業に賊が押し入って金庫などを持ち去ったというニュース。事務所内の防犯カメラに犯行の様子が映っていて、犯人が室内を物色したり、金庫を抱えて歩いている(!)映像が番組で公開されていた。

ところが、なぜか押し入った賊の顔が視聴者に分からないよう、わざわざボカシが入れてある。防犯カメラに記録された映像がオリジナル、つまり加工されたフェイクでなければそのまま使用すればいいはず。

そうすることで犯人逮捕につながるかもしれないのに、なぜ顔にボカシを入れるのだろう。犯人たちのプライバシー保護を重視してのこと? 

 
(TBSテレビ「報道特集」から)

局の視聴者センターに、犯人の顔にボカシを入れる理由を訊ねたが、担当の窓口の回答は「他のテレビ局もそうしている」とか「警察署の指名手配の犯人の張り紙には顔写真が出ている」など、ピントが完全にずれている。笑うしかない。結局、顔写真を出すことで犯人逮捕にも繋がるのではないか、とのこちらのコメントに「ではそう関係者に伝えておきます」でおわり。 

ただ、こうした映像処理は、警察などの捜査当局からの指示ではなく、テレビ局自体の判断で行っていることは確認できた。

残念ながら、これが今の日本のテレビ局の実状のようだ。

2024-12-15

3日かけてセーターを売りに来る

冬を控えてセーターを何枚か取り出した。これは、ペルーに行った折にクスコの町で買ったもの。

時期が8月だったので防寒など考えることなくペルーに出かけたのだが、現地は標高3400メートルの地。朝夕の冷え込みを甘く見ていた。

マルカパタという村に住む女性がベイビーアルパカの毛で編んだセーターは、なめらかな肌触りでとっても温かい。彼女は編み上がると歩いて3日かけてクスコの町へやってくるのだという。その距離は165キロだから、確かにそれくらいはかかる(東京から栃木県の那須あたりまでに匹敵する)。道中は3,000メートルを超える峠道である。 

マルタパカークスコ

マルタパカの村

マルタパカの村

僕は旅先で土産物を買うという習慣がない。理由は、旅をするときは荷物は最小限にしておきたいということと、土産物を選んで決めるというのが得意でなく、そして時間がもったいないと考えているからだ。

でもお土産ではなく、旅に必要なものを現地で調達することはよくあるし、それらは衣料品や小物、薬まで、旅から帰っても十二分に活用している。手に取るたびに旅の思い出が蘇り、懐かしい気持ちにしてくれる。

2024-12-14

シリアとライスプディングと豊島美術館

親子2代にわたる独裁政権によって国民に対する圧政が続いていたシリアのアサド政権が崩壊した。

アサド政権に抗する反政府活動は長年続いていたが、今回はシリア解放機構(HTS)率いる反政府勢力が一気にダマスカスに入城、政府省庁や刑務所、国営放送局などを陥落させた。

長年の願いだったのだろう、市民らが心からアサド政権の終焉を喜んでいる映像が伝わって来た。ここでも前大統領の像が市民によって引き倒され、人々が喝采と雄叫びを上げていたのが印象的である。

後ろ盾だったロシアがウクライナの戦線に軍事力を注力せざるを得なかった状況を捉え、電光石火の10日間の攻防で首都を制圧したわけだ。

アサド政権の元でのシリア経済は悲惨な状況だった。かつて日産60万バレルを超えていた石油の生産は設備の老朽化などのせいで20分の1の3万バレルまで落ち込んでいた。代わりに外貨を稼ぐ手立てとなっていたのが麻薬の製造といった始末だった。 

シリアの人たちと親しく付き合っていた時があった。1980年代前半、浜松町の竹芝桟橋近くのマンションに住んでいたとき、一時、同じマンションにシリア人が10人ほど暮らしていたのである。

ある日、建物の管理人室の前で何やら揉めている様子があり、たまたま通りがかって通訳のようなことをしてやったのが、彼らと知り合ったきっかけだった。それから、彼らが日本で暮らすうえでのちょっとしたことを求められてアドバイスするようになった。

彼らは田町のNEC本社で長期研修を受けるために来日していた、シリアから派遣された通信関係のエンジニアたちだった。日本語はおろか英語もままならない人たちもなかにいて、人ごとながら日本にいる間は仕事の面でも生活の面でもさぞ大変だったと思う。

ある週末のこと、部屋のドアをノックする音に扉を開けてみると、スカーフ(ヒジャブ)を被ったシリアの女性がふたり。たいていは相手に助けを求めるような何か困ったような顔をして現れるのだが、その日はなぜかニコニコしている。で、自分たちの部屋まで一緒に来てくれという。

彼女らについていくと、そこではシリア人たちが車座になって座っていた。研修が終わる日が近づいているのだという。そうした気持のゆとりも手伝ってか、僕にこれまでのお礼を言いたいというので招いてくれたのだ。

そこで彼らにライスプディングを饗された。といっても、その時はそれが何かまったく分からなかった。目の前に出された大皿には白いかたまりがこんもり盛り付けられていて、それを好きなだけ自分の皿に掬って食べるよう勧められた。

初めて食したライスプディングはとても甘く、さらにミルクの匂いのする米粒の食感に最初戸惑ったのを覚えている。

シリアのニュースを見る度、竹芝桟橋近くのマンションの小さな一室で車座になっていたシリアの人たちの顔を思い出す。

そして、瀬戸内海の豊島に帰郷した折、近くの豊島美術館まで朝の散歩に行ったときには、あのこんもりと大皿に盛られたライスプディングを思い出すのである。

豊島美術館

2024-12-03

石岡瑛子 I デザイン

最近の広告は面白くない。形だけ整えているだけで、表現としては死んでいるも同然。

まだ作り手の中には意欲を持ち、ビジネスの手段としての広告と表現物としての広告のせめぎ合いを買って出る志のある人もいるはず。しかし、企業(広告主)のなかからそうした度量と知性のある人間がいつの間にか消えてしまったようだ。

スマホのちっぽけな画面のなかですべてを満足させられてしまっているうちに、思考も視野も拡がりをなくしてしまったというのもある。

つまんねーなー、と思っていた矢先、石岡瑛子(1938-2012)の回顧展(石岡瑛子 I デザイン)が兵庫県立美術館で開催されているのを知り、なんとか会期の最終日に三宮の県立美術館へ足を運んだ。

彼女はグラフィック・デザイナー、アート・ディレクター、衣装デザイナー、プロダクション・デザイナーと、広告だけでなく書籍や雑誌の装丁、商品のパッケージデザイン、映画や舞台の衣装、同じく映画や舞台の舞台美術全般にわたる、アートに関しての幅広い実に多種多様な仕事をしている。
https://tatsukimura.blogspot.com/2012/07/mishima.html

そうした膨大な仕事量を沸き立つような熱量で精緻にかつ大胆に仕上げているクオリティの高さには目を見張る。

今回の展示品は60年代から80年代の広告と出版に関するものが多かった。さすがにパルコの一連の広告に添えられたコピーは今ではすっかり古くさいが、石岡のアート・ディレクションは今でも刺激的だ。






2024-11-27

気球で成層圏に行ける

風船から大型気球へ。そしてゴンドラから気密性キャビンへ。だけどやっている基本は同じ。

7年前にラジオ番組でインタビューした岩谷圭介さんが、テレビ番組に取り上げられていた。


ぼくはその後の彼の動向をまったく知らなかったのだけど、彼はその仕事を着実に発展させ、いまはベンチャー企業の経営者としてやっぱり宇宙を目指していることを知って嬉しくなった。

2017年に話をうかがったとき、彼は風船にカメラを載せて1万メートルの高度から宇宙の写真を撮っていると言っていたのが、いまはキャビンに人が乗り込み、2万メートルの高さまで飛ぶ。

静的浮力を持つヘリウムを使って空に向かう気球は、基本的には無音のはず。世界には宇宙観光の実現を目指すロケット・ベンチャーがいくつもあるが、無音の気球を使って宇宙へ上がっていく岩谷さんのプロジェクトが宇宙の神秘性をもっとも高めてくれるのは間違いない。楽しみである。

「木村達也 ビジネスの森」ゲスト 岩谷圭介さん<前編> 

2024-11-24

谷川俊太郎のすがすかしさ

谷川俊太郎さんは、1982年に芸術選奨文部大臣賞に選ばれたが、辞退した。彼は民間からの賞はたくさん受けているけど、国家からの褒章は何も受けていない。

日本芸術院会員にも推されたけど、それも辞退した。そんなことを誰にも話さず、相談もせず、まるで通りがかったスーパーの試食コーナーでソーセージか何か勧められ「ぼくはいいよ」と断るように。たぶんね。

谷川さんのすがすがしさは、そうした決して国家に依らない、自由ですっと立っている姿にあった。

国や都や県や、そうした「お上」から褒章めいたものを目の前にぶら下げられると、それだけで嬉嬉として尻尾をふる人が多いけど。

2024-11-22

Tシャツにジャケットは似合わない

先日なくなった谷川俊太郎さんは、いつもTシャツ姿だった。自宅でくつろぐ姿はもちろん、講演会などでも同様。Tシャツ以外ではスタンドカラーのシャツ、あるいはハイネック。ぼくは、彼がワイシャツのような普通の襟の付いたシャツを着ているのは見たことがない。


どういった考えがあったのかは知らない。聞いたことも、読んだことがないから。ただ、谷川さんにはTシャツがよく似合っていた。彼のその存在のあり方そのものだった。

ところでTシャツと云えばいつからだろうか、ジャケットの下に直接Tシャツを着る人たちが現れた。圧倒的に若い男性が多いように思う。あるいは、若さを気取っているそれほど若くない男たちも。

とりわけ、起業家を自称する男たちやネット系ビジネスの経営者たちは、まるで決まったようにジャケットの下はTシャツのインナーである。しかも足下を見るとストレートチップの革靴だったりして。スタイルというものがまるでないみっともなさである。

Tシャツの持つカジュアルさを若さを示す記号として使い、その一方でジャケットを着てビジネスマンとしての「きちんとさ」も年配者相手に示さなきゃという、どうにも中途半端な折衷思考だ。

何を着ようが人の勝手なんだけどね。ただ、ぼくには彼らの首すじあたりが汗臭く、昔から不潔に見えてしかたない。

スティーブ・ジョブズは黒のTシャツかタートルネック(スタンドカラー)が決まりだったが、決してその上にジャケットを羽織るなんてダサい着方はしなかった。

2024-11-20

谷川俊太郎さんが亡くなった


先週、谷川俊太郎さんが亡くなった。92歳。ひとは生まれ、ひとは死ぬ。いつかはと思っていたが、いつかはと思っていたが。5年ほど前、横浜で彼が話をするのを聞いたのが最後になった。

 
谷川俊太郎&武満徹「死んだ男の残したものは」