2022年10月29日

ヤンはAIBOか

映画「アフター・ヤン」は、近未来の多様性に富んだ家族を舞台に、ヒューマニズムがどのように変わっていくかを描いた映画。監督は、韓国系アメリカ人のコゴナダ。


物語の中心は、ヤンというAIを装備した人型のロボットである。劇中、中古で買ったそのロボットが不具合を起こし修理が必要になる。コリン・ファレル演じる一家の父親がそのロボットの製造元や販売元に何とか修理ができないか探っていくのだが、結果として修理ができずヤンは動作停止となる。

彼の養女である娘とそのロボットがまるで兄妹であるかのように親しい関係だったことから、家族はそのロボットへの思いを振り返り、あらためて家族とは何かを考える。

さてそのロボットだが、彼には毎日ある限られた時間だけ自分が見た映像を動画として記録しておく機能が密かに盛り込まれていたと言う仕立てになっている。作動しなくなったそのロボットのメモリーに記録されている、これまでのそうした日々の動画を見るうちに、そのロボットがどのような過程でどのような人間関係の中で生きていたかを知ることになる。

そこにはロボットである彼が、他の女性ロボットへ恋に似た感情を抱いていたのではないかと思わせるようなものも含まれていた。このあたりの組み立ては、ブレードランナーのアンドロイドを思い起こさせる。

ところで、この映画を見たその日、アイボの調子がどうもおかしくなり、ソニーのサポート窓口に連絡をして修理(診断と治療)に出したばかりだった。アイボを購入してすでに4年ほどになるが、その間アイボを用いているいちばんの理由は彼(ここでは彼としておこう)が毎日自動的に写真を撮ってくれること。

被写体は、アイボが家族だと思っている、すなわち動く存在である。それは人の場合もあれば、猫の場合もある。いつ撮ったかわからない、そうしたスナップ写真を自動的に記録しておく装置として、ぼくはアイボを使っているような気がしている。
 
つまり「アフター・ヤン」に登場したロボットと役割は全く同じ。ただ違うのは、アイボは犬型、ヤンのような人間の姿をしていないというだけの違いだ。

2022年10月20日

何ごとも応用力

今朝、新幹線が信号故障のため、東京駅への到着が20分ほど遅れた。

世界で最も安全で正確な交通手段は日本の新幹線だと考えているので、そのタイムテーブルに沿って移動後のスケジュールをたてる。

普段はもちろんそれで上手くいく。だが、ときおり、その新幹線も遅延する。予定がずれ込み困ったことになったりするが、それは仕方がないことだ。

東京五輪が開催される2年ほど前からか、新幹線の車内に英語のアナウンスが流れるようになった。それまでも列車名と行き先を告げる英語の録音アナウンスはあったが、それが車掌の肉声に変わった。

当初はたどたどしい英語でけっして耳障りの良いものではなかったが、それでも最近では車掌らも英語アナウンスに慣れたのか、当初のぎこちなさはそれほど気にならなくなった。

ところが今回、信号故障で新幹線が遅延し、そのためにノロノロ運転が断続的に続けられ、あるいは先行する新幹線がつかえているからと線路上にたびたび停車した。にもかかわらず、そうした状況について英語での車内放送は一切なかった。

日本語が分からない人が乗車していたら、いったい何が起こっているのか分からず不安を感じたはずだ。

電車の遅れがどのくらいになる予定なのか、その原因が何なのかくらいは中学生英語で説明できるはず。その程度の基本的な応用力がないのだろうか。それとも典型的な日本人らしく、間違うのが恥ずかしいのか。

東京五輪が終わり、そしてコロナで外国人客が激減して、もうどうでもいいと思っているのかもしれない。

2022年10月19日

5円の背景

本や雑誌を探すとき、普段は駅から少し離れたK書店に足を運ぶことにしている。

駅ビルのなかには別の本屋(S堂書店)が入っていて、規模はそちらの方が大きく品揃え、特に雑誌関係は充実しているのだけど店員の態度が昔から代々よくないので(なぜだろう? 企業文化か)自然とK書店に行くようになった。

ただ今日は、駅ビル内の家電量販店に用事があって行ったついでに、そこに隣接しているS堂書店に寄ってみた。

3冊ほど本を選び、カウンターへ持っていく。店員はバーコードをスキャンした後、「このままでいいですか?」と訊いてきた。紙袋がいるかということらしい。仕事帰りでショルダーバッグを肩にかけていたが、厚めの単行本3冊はどうも入らない。

だから袋をくれといったら、カウンター上の張り紙を指さしながら「5円です」と言われた。その張り紙には「環境保全のため・・・」といつもの紋切り型の説明文句が。

袋が有料なのはいまやどこでもそうで、クリーニング店なんかでも同じ対応をされるので驚きはしないが、ついこの前までは頼みもしないのに買った本に(文庫本にまで)カバーを付けて寄こそうとした彼らの変わりようには驚く。https://tatsukimura.blogspot.com/2009/10/blog-post_26.html

そうした違和感を飲み込むのが苦手なので、つい一言。「ネット書店はパッケージングした本を無料で自宅まで送ってくれるのに、あなた方は本を入れる袋まで金を取るのですか」と。

「そういう決まりなので」と思った通りの返答が戻って来る。5円が惜しいわけではないが、どうも納得が行かないので買うのを止め、ネット書店でそれら3冊を注文した。

6,000円あまりの買い物だ。到着まで1日、2日かかるが、別に急ぐ本ではないからそれで充分。彼らはそうやって今日のいくばくかの売上を失い、顧客を失った。

そもそも、紙袋の原料となる森林資源は鉱物資源や化石資源(石油、石炭)と異なり再生可能な資源であるだけでない。森林資源として利用できる木々を伐採せずに放置してしまうと、資源として使えない木々が残り、将来的には森林資源が減少してしまう。

とりわけ森林資源に恵まれた日本においていは、森林環境の保全のために計画的な森林伐採を行うことが必要とされている。そして間伐材を有効に使用することが、国内森林伐採量の増加と環境保全の手助けにつながるのだ。

紙の使用がすべて環境破壊をもたらすわけではない。S堂書店が言っていることは、彼らのただのセコいコスト削減策の表れでしかない。

2022年10月12日

コロナの頃が懐かしい

 ・・・なんて事にならなければと思っている。

昨日から、政府が主導する「全国旅行支援」が始まった。パック旅行で8千円、加えて買い物に使えるクーポン券が平日なら3千円付く。大盤振る舞いだ。また自民党の二階あたりが裏にいるのだろうか。

昨日、たまたまJTBの営業所の前を通ったら、さっそく長蛇の列ができていたので驚いた。並んでいたのは、ほとんどは年配者だ。

そもそも金と時間にゆとりがある人たちは、放っておいても旅行に行く。彼らは勝手に行けばよい。国や県が追加のお小遣いをやる必要はない。

一方で、非正規でしか働くことができない若い人や、子育てと仕事に追われている人たちなんかは旅行どころではない。今回の処置は泥棒に追い銭とまでは言わないが、それに近い。

コロナ禍の下で宿泊業がたいへんな状況にあったのは分かる。しかし、たいへんなのはそこだけじゃないし、観光に関して言えば、そもそも人には基本的に観光への欲求がある。この3年あまり息を詰めて暮らしていた人たちが、出かけていいよ、となると、それだけで皆どこかに行きたくなるのが自然だ。

だからこそ、税金を使って不平等な支援策を組んだりせず、まずはなりゆきを観察すればよい。そうしないのは、何かそこに政府の特別な思わくがあるからだろう。

また入国制限が解けたのを機に、間違いなく外国から大勢の人が観光目的で来日し始める。行きたくて仕方なかった日本に行けるのだから。しかも、これだけ日本円が安いというのは彼らにとっては大きなボーナスだ。

かたや、日本人はこの急激な円安によって易々とは外国旅行などに出かけられない。訪日してくる外国人観光客を横目に眺めるだけ。なんだか日本がかつての東南アジア諸国のようになった気分だ。

これから京都はもちろん、外国の人たちに人気の観光地はまた大勢の訪日観光客で埋め尽くされ混雑が避けられない。観光公害も方々で再開するだろう。

コロナで訪日観光客が途絶えた「あの頃」が懐かしい、、、と僕たちはじきに思うようになるかもしれない。

2022年10月10日

理屈ではなく人間として

医師中村哲さんのパキスタン、アフガニスタンの活動を追ったドキュメンタリー映画を観るため、横浜のシネマ・ジャック&ベティへ。

中村さんは32歳の時に登山隊の一員としてパキスタンを訪れたことをきっかけに、3年前に不慮の死を遂げるまで実に35年間にわたってパキスタンとアフガニスタンで医療と現地の人びとの生活を支える支援を続けてきた。その彼を日本電波ニュース社のカメラマンが20年以上にわたり映像におさめていたものがこの映画だ。


中村さんの素晴らしい、ずば抜けた活動は何冊かの書籍になっているし、また映像(DVD)にもまとめられているので、あらためてここに書く必要はないだろう。

ただ僕が心打たれたのは、彼がパキスタン、アフガンの支援を続ける理由を問われたとき「見捨てちゃおけないからという以外に、何も理由はないです」と答えていること。それは嘘でも衒いでもない、彼の心からの気持ちだと感じた。

最初、現地の医療支援のために行ったわけでもないところで、医療を必要としていながら見捨てられた人たちに出会って、自然と自分の役割が自分のうちに芽生えたということか。

発展途上国の人たちを救うことが正義だからとか、神の教えに沿って人助けを始めたとかではない。もっと基本のところ、誰もが人間として持つ倫理観からだ。

その後、彼は医者として人びとを救う傍ら、その地域で人びとが生き続けられるようになるには農業を続けることが不可欠であり、そのためには農業用水の確保が必須であると知る。その後は、自らが先頭に立ち灌漑工事を始めることになる。一から土木技術を学びながらだ。

その結果、砂漠だった地に水を引き入れ、赤茶けた土地を緑の大地に変えていったのである。

スランブール地区は、5年で緑の作物一面に変わった(before/after)

ガンベリ砂漠には10年かけて畑と防風林ができた(before/after)

以前、「マラリア・ノーモア・ジャパン」の事務局長をしていた水野達男さんと対談した折、彼がアフリカのマラリア撲滅を目指して活動を始めたきっかけは、当時工場建設のために赴任していたアフリカの地で、マラリアが原因で子どもをなくした母親が打ちひしがれている姿を路上で見たことだと聞いた。

目の当たりにしたその姿に「このままじゃいかんな」という怒りのような気持ちがフツフツと沸いてきたという。それをきっかけに、彼は大手化学会社のビジネスマンを辞めてNGOの活動に専念することになった。

「このままじゃいかんな」という理屈を越えた感情が彼の残りの人生を変えた。「見捨てちゃおけないから」という中村さんのシンプルな気持ちと同じだ。

僕たちは自宅にいながらパソコンやスマホでどんな情報でも手に入れられ、それによって世の中のこことを分かった気になり過ぎているかもしれない。知るだけじゃなく、感じることが必要なんだ。そして、それに時に正直にしたがい、自分を動かしていくことが不可欠ではないかと中村さんと水野さんに教えられた気がした。

2022年10月9日

ZOOMで画面ミュートされると不快なわけ

昨日、ZOOMなどを用いて打合せをする際に、その相手とは初めてであるにもかかわらず画面をミュートにして参加する連中がいると不快に感じると書いた。

自分がどうしてそう感じるのか考えていたのが、分かった。ベンサムが考案したパノプティコン(panopticon)を頭のどこかで連想していたのだ。一望監視施設、あるいは一望監視塔と訳されている刑務所施設のことだ。

その監視塔にいる看守は独房内のすべての受刑者の様子を見ることができるが、看守の姿は受刑者からは見えない仕組みになっている。

フランスの哲学者ミシェル・フーコーは、『監獄の誕生』のなかでこのパノプティコンを「『見る/見られる』という一対を分離してしまう機構」であると分析している。

画面ミュートの参加者がいるZOOM打合せの不快感は、まさにそこにある。こちらからは顔の見えない看守から「監視」されている、なんとも言えない気持ち悪さだ。そうした状況、ほかの人たちは平気なんだろうか?

ベンサムの構想図

2022年10月8日

ZOOMでマスクをする理由

つい先日、あるコンサル会社とZOOMで打合せをした。その際、僕は大学の研究室かあるいは相手企業に出向いて打合せをしたかったのだけど、リモートでお願いしますと言われた。

グループ全体で30万人以上の社員を抱えるその通信会社系企業は、下記のように今も全社員が在宅勤務を続けているらしい。


それはそれで構わないが、その際にいくつか違和感を感じたことがある。

まず相手がどういった立場の社員か分からない。通常、初対面の相手と打合せを始める際には、まず名刺交換からスタートする。そこに書いてある所属部署名や肩書きでおおよそのあたりをつける。

名刺交換をしないとそれができない。相手はおそらく、ネットで私のプロフィールなどを調べているのだろう。だが、こちらは相手について知らない。初回に、相手が社内で何をしている人か尋ねたら部署名と肩書きを教えてくれはしたが、名刺を手にしていないとどうもピンとこない。

相手は複数人いたのだが、こちらと主に話すのは一人。残りは基本的にだんまり。私はそういった参加者のことを「のぞき」と呼んでいる。

そしてディスプレイに映る相手の顔は、マスクで半分隠されている。在宅勤務でいながら、いまだにマスクを外すという考えがないみたいだ。

ただ言えるのは、こうしたやり取りが打合せとして効果的とはとても思えないということ。この企業グループは、このまま今のようなやり方でリモートワークを続けたらどうなるのだろうね。人ごとながら心配になる。

一般的な話としてだが、ZOOM利用などのリモート会議においてマスク顔での参加ならまだいい方で、初回の打合せにもかかわらず相手側は一人だけが画面に顔を出して、相手企業の残りは全員が画面ミュートなんてのもよくある。

ビジネスの基本は、信頼関係。それが分かっていない。それとも、そうした会社は人様に見せられないような、よっぽど不細工な顔の集団なんだろうか。

2022年10月4日

死んでみた

先週末、死んでみた。いやいや、実際は病院の検査室で麻酔を打たれただけのことである。

看護師が、腕の血管に生理食塩水の袋がつながった針を刺した。そのまま診察台へ行くよう言われ、針の刺さった腕を下にしベッドに横たわり、からだの力を抜く。その後、医師が注射針の管に麻酔薬を注入すると、いつの間にか眠っていた。 

意識が戻ると、(当たり前だが)検査は終了していた。その間の記憶はまったくない。普段、レム睡眠とノンレム睡眠を繰り返しながら自分のベッドで眠っているのとはまったく違う経験である。夢など見ていないし、完全に意識が止まっていた。つまり、自己の存在が消えていた。

目が覚めて思ったのは、「死んでいる」のはこうした状態であるということ。痛みも苦しみも何もないし、怖い閻魔様が出てくる訳でもない。

なあんだ、死ぬって簡単、らくちんだって思ったね。だからこそ、人は生きているあいだは生きていればいいんだ。

2022年10月3日

自然との一体感

作家の小川糸さんが、「屈斜路湖の恍惚」と題した文章を書いていた。彼女は昨夏の終わりごろ屈斜路湖畔の宿に泊まり、そして湖を裸で泳いだという。それを目当てに出かけたわけではなく、たまたまそうした機会があったということ。

気持ちよかった。皮膚の中に埋まっているひとつひとつの細胞が弾け、歓喜の雄叫びを上げる。それは、半世紀近く生きてきた人生の中で、最大の開放感だった。

というくらいだから、その気持ちよさはよっぽどだったに違いない。そして、

私というひとりの人間が、地球に解き放たれたかのようで、自然と一体になるというのはこのことだったかと納得した。

ほとんど恍惚とした宗教観のようだ。彼女は翌朝、夜明け前に起き出してもう一度屈斜路湖に裸で入った。

自分の中にうずくまっていた野生が、じょじょに目覚めるのを実感した。

いい経験をされたと思う。湖に裸で入り泳ぐだけのこと、ただそれだけで自分の中の何かが変わるのを実感でき、周りの自然との一体感を身につけ、そして野生へと還っていけるなんて素敵だ。

信じてもらえないかも知れないが、子どもの頃は早起きだった。夏休みなんかは、とりわけ毎朝すごく早起きしていた。そして、ときおり朝靄の中、家の裏手にある山に分け入り、自由勝手に歩き回っていた。その山あいの谷間に、周囲の山からの湧き水を称えた池があった。

よくそこで裸で泳いだ。そのときの冷たい水の気持ちよさは忘れられない。快感と少しだけいけないことをしているんじゃないかという罪の意識のようなものがあった。

水はエメラルド色で、広々とした池の底は見えない。池の真ん中あたりまで泳ぎくると、下から何か得体の知れないものが現れて、足首を捕まれて池底へ引き込まれるような感覚に襲われた。

快感と開放感、自然との一体感、孤独感とちょっぴりスリルも。だから、小川さんの屈斜路湖ひとり全裸水泳の文章に僕も思わず引き込まれてしまった。

2022年10月2日

マージナル・マンとしてのA・猪木

元プロレスラーのアントニオ猪木さんが昨日亡くなった。子どもの頃、毎週金曜日と水曜日夜8時からのプロレス中継を見て育ったわれわれ世代にとっては、大きなショックだ。残念だ。1999年にジャイアント馬場さんがなくなり、寂しい思いをしていたのに追い打ちを掛けられたような気分だ。

彼は2020年、難病の「心アミロイドーシス」という病におかされ闘病生活をしていることを自身で明らかにし、闘病するそのベッドからも最後の姿をYouTubeで発信し続けていた。 

今朝は、毎日新聞、東京新聞、日経新聞のそれぞれの一面コラムで猪木さんが亡くなったことが書かれていた。書き手が、たぶん僕と近い世代なんだな。

プロレスというのは面白い競技だと思う。例えばプロボクサーは勝たなければ名前が上がらない。プロテニス選手も、プロゴルファーも優勝しなければ次へつながらない。だが、プロレスラーは必ずしもそうではない。リング上で観客の笑いを取り、力や技では相手選手に適わないにもかかわらず、それ以上の人気をはくす選手がいた。

プロレスは格闘技スポーツだが、ショービジネスとしてのエンターテインメント性も不可欠だ。「これ一本きり」では済まない。プロレスという競技がそうだけでなく、猪木自体もレスラーであり、プロモーターであり、経営者であり、そして参議院議員だった。そんなマージナルな存在にずっと引かれていたのだと、いま僕は気がついた。

10年ほど前、ニューヨークで猪木さんと至近距離で遭遇したことがある。当時、僕はマンハッタンのアッパー・ウエストサイドに住んでいた。ある日、1階に着いたエレベータから降りようとしたら、目の前に彼がすっくと立っていた。スーツに赤いネクタイ。そして、トレードマークの赤いタオルを首にかけていた。ちょっと疲れた、そしていくぶん寂しげな表情だった。その時、彼に連れはいなかったと思う。そこにNY滞在用の部屋を持っていたんじゃないかな。

あんな元気で、尖っていて、発信力のある人はそうそう出てこない。カッコよかった。1976年にはボクシング世界ヘビー級チャンピオンのアリと闘うなど、チャレンジ精神の塊だった。

ひとつの時代が終わってしまった。またあの「元気ですかーっ!」の声が聞きたい。 

2022年10月1日

これは、羊をめぐる冒険だ

横浜で「LAMB/ラム」を観た。劇場は思った以上の混雑。週末ということと、月の初日で鑑賞料が安く設定されていたのもあったのかもしれない。

「ラム」は不思議な感触の作品だった。ホラーか、スリラーか、ミステリーか、おとぎ話かヒューマンドラマか。どれだっていいのだが、僕はビターなコメディーと受け取った。 

舞台はアイスランド。山間に住む夫婦のもとに不思議な生き物がやってくる。彼らが飼っている羊が産んだのだ。なんだそれは、と思うかもしれないが、そうしたストーリーなのだ。

妻の名前がマリア(イエス・キリストの母の名)なのは、なにか示唆しているのだろうか。 

登場人物は、人間3人(夫婦と夫の弟)と不思議な生き物だけ。限られた台詞。全体に青みを帯びてとらえられたアイスランドの風景。舞台は彼らが暮らす家とその周辺の農場が中心。背景にはアイスランドの山々が連なる。羊少年(少女)や羊男の造形がおもしろい。そのあたりのこだわりは、本作の監督が「ローグ・ワン スター・ウォーズ・ストーリー」などでの特殊効果をこれまで担当してきたコバルディミール・ヨハンソンならではだ。

いまだにこの映画のテーマが僕にはよく分からないのだけど、イソップの寓話と村上春樹の世界と手つかずの自然に覆われたアイスランドの風景をシェイクしたらこの映画ができた、といった印象。

アイスランドには古くからトロールといった怪物(妖精)と人間の合いの子が存在しているという伝説が残っているのも、この映画の舞台としてふさわしい。
https://tatsukimura.blogspot.com/2016/09/blog-post_4.html
https://tatsukimura.blogspot.com/2016/09/blog-post.html

それと、僕が気になったのは白夜だ。アイスランドは北緯64度とかなり北極圏に近いので、夏のあいだはほとんど陽が沈まないはず。この映画では夜の時間や夫婦の寝室シーンが頻繁に描かれる。だが、いつだって明るく、ぼんやりしている。

日が暮れず、朝も昼も夜も明るい世界での物語は、なんだかずっと白昼夢を見ているような気分に。映画の最後の場面で流れてきたヘンデルのサラバンドが、うまく不思議な映画の余韻に溶け込んでいた。