2015年1月31日

都市で生きるか、地方で生きるか


今朝のFM NACK5「木村達也 ビジネスの森」は、先週に引き続き『地方消滅』(中公新書)を出版された、元総務大臣で現在は日本創成会議座長の増田寛也さんを番組ゲストにお招きした。


増田さんら日本創成会議のメンバーは、東京一極集中を是正し地方を活性化するための施策として、東名阪の3大圏を除いた人口20万人以上の61都市を「地方中枢拠点都市」とする構想を打ち出している。それらを各地域ブロックの拠点とし、若い人たちに働く場を提供していくための機能を持たせるという発想である。

だが、そうした「上から」の施策だけで継続的な人の移動や定着ができるはずはない。多くの若い人たちが、自分の価値観をもとに大都市以外の場での生活を選び、そこで楽しみながら長く生きていける環境をどうつくるか。その環境には、社会インフラや職場だけではなく、周囲の人々の意識も含まれるだろう。

Uターンはもちろん、IターンやJターンと云われている形で地方都市に向かう人たちを迎え入れ、自然な形で支援の手をさしのべる雰囲気が大切な気がする。これもまた、多様性への理解がカギになる。

地方を消滅させないためではなく、地方で生きる方が楽しく豊かだから、という状況が作られていかなければ。 

今朝の一曲は、ジョン・デンバーのTake Me Home, Country Roads。



2015年1月20日

ロビン・ウィリアムズのナレーション

先日のブログでも書いた『嫌われる勇気』をきっかけに、昨年亡くなったロビン・ウィリアムズについて少し調べていたら、彼がナレーションをしている『いまを生きる』を連想させる Apple iPad Air の90秒のCMを見つけた。

http://business.time.com/2014/01/13/apples-latest-ad-is-probably-going-to-give-you-chills/

素晴らしい!

2015年1月18日

38年ぶりの声

日曜日の午後、突然(電話はいつも突然だ)、高校時代の同級生から電話がかかってきた。

地元で暮らす彼女と話すのは、高校卒業以来はじめてのこと。何年か前まで年賀状をやりとしていたので、その年賀状に印刷してあった僕の電話番号をとっておいてくれたのだろう。

懐かしい岡山弁のその声は、古い木造校舎の端っこにあった部室で放課後にとりとめのない話をしていたときとあまり変わっていないように感じた。声の印象って、歳に関係なく変わらないものなんだ! 彼女からは、いまは4人の子どもたちも巣立ち、やっと少し肩の荷がおりたというような話を聞いた。

来年の正月、高校の同窓会を同期全体でやるから来てね、というのが電話の用件。来年、卒業後39年になる。誰が言い出したのか知らないが、初めての同窓会だ。彼女と話をしているうちに、すっかり忘れていた当時のことや同級生、先生たちの顔が浮かんでくるから不思議なものだ。

僕が通ったのは田舎の県立高校だったが、当時一学年450人、9クラスで、ひとクラス50人だったのを思い出した。教室の前から後ろまでぎっしり生徒の机が並んでいた教室の風景が頭をかすめる。いつも教室は汗臭かった。

いまの「高校」も汗臭いのだろうか・・・

2015年1月17日

今を生きろ

今朝の「木村達也 ビジネスの森」のゲストは、先週に引き続き『嫌われる勇気』(ダイヤモンド社)の著者・岸見一郎さん。


今を真剣に、そして他者貢献を忘れることなく、全力で生きることこそが大切と、アドラーの考え方をベースに岸見先生はおっしゃる。

深刻に生きるのではない、真剣に生きる。人生はゲームだ、その時を楽しめ、失敗しても命まで取られることはない。

アドラーは、人生をエネルゲイア的に「今をいきろ」と唱える。エネルゲイアはキーネシスと対でアリストテレスによって提唱された「運動」についての考え。キーネシスとは、目的地に最短距離でたどり着くことを目的とした運動。一方、エネルゲイアの方は、いま行っていること自体に価値を見いだす運動。

前者は、アウトプットや結果が重視されるような活動があげられるのだろう。効率性が優先される。後者では、プロセスそのものに力点が置かれる。効率性は関係なく、その瞬間に充実感を感じられるかどうかだけが意味を持つ。

う〜ん、確かにぼくたちが日々行っている行為(運動)も、エネルゲイア的なものとキーネシス的なものがある。アドラーはそうしたもののなかで、キーネシス的な発想、つまり物事にスタート地点とゴールが設定されているという見方をよしとしない。「今」がすべてなのである。

だから、岸見先生曰く「(いつ死んでも)道半ばということはない。真剣に生きている限りは」。


「いまを生きる」でふと思い出したのは、昨年夏になくなったロビン・ウィリアムズが主演した映画「いまを生きる」だ。ピーター・ウィアーが監督した1989年の作品。原題は Dead Poets Society だが、ロビン・ウィリアムズが演ずる教師のキーティングが劇中で発することば「Carpe Diem」(ラテン語)の日本語訳が邦題に用いられている。 この邦題は悪くない。


今朝の番組で流した一曲は、オリビア・ニュートン・ジョンの「そよ風の誘惑」。


2015年1月3日

インドは、いろんな意味ですごい

今朝の「木村達也 ビジネスの森」は、先週に引き続き、ゲストに『すごいインド』(新潮新書)の著者・サンジーヴ・スィンハさんをお招きした。


先週は、「カレー」というのがインドの言葉にはない、というあまりに身近な話題で盛り上がってしまったが、今日は日本とインドの違いをもう少し深いところで(カレーももちろん深いけど)話を聞くことができた。 

人口も国の広さも日本の10倍あるインド。凄まじい可能性を感じさせるのは、そうした「大きさ」にもまして、国民の平均年齢が20代という「若さ」だ。

確かにインドは国民の間の格差は大きいし、貧困に窮する人たちの数も多い。そして水道や電気、ガス、鉄道、道路、学校といった僕たち日本人にとっては当たり前のインフラの整備もまだまだである。

しかし、スィンハさんから聞くインドは活力と情熱に溢れたこれからの国のイメージだ。英語を話せる人口は多く、数学や哲学など抽象的な概念を扱うことに長けた人々は、ITにも強い。日本人よりずっとグローバル人としての可能性を持っている。

安定と成熟と秩序の日本、カオスと活力と多様性のインド。今こそ2つの国は、本気で連携を組む時だろう。


今朝の一曲は、ブロンディの「ハート・オブ・グラス」。


2015年1月2日

違う回路を持つということ

先月の話になってしまったが、ある有名なニュースキャスターが自分が担当している番組ではない他のテレビ番組に出演し、自分はいつも新聞6紙(朝・毎・読・東京・日経・産経)に目を通していると話していた。毎朝、折り込みチラシを抜くだけでも大変なのだと客を上手に笑わせながら語っていたのは、天性の喋り手だからだろう。

ニュース番組のキャスターとして新聞6紙を購読しているというのは本当だろう。毎朝のことで、それなりにたいへんな苦労だと思う。その一方で気になったのは、なぜ日本の新聞ばかりなのかということ。上記6紙には確かに論調の違いはあるが、世界のジャーナリズムのなかではその振れ幅は大きくはない。

彼が目を通す新聞のなかにアメリカ、ヨーロッパ、他のアジアの国、あるいは中東の新聞が一紙でもあれば、彼の番組はもっと自由さを増し、面白いものになっているのだろうと思う。

ひとと違うアウトプットを出すためには、ひとと違うインプットを心がける必要がある。インプットが同じでも、ひととは異なるプロセス(視点)で情報を処理できれば独自のアウトプットが出せるが、インプットそのものがひとと異なればさらに独自性を高めることが可能になる。

グーグルでキーワード検索して得られる情報はみんな同じようなもの。だから学生たちのレポートは、どれも似たり寄ったりのものばかりになる。

学生たちには、自分なりのこだわりのようなものをベースに、周りとは違う情報ソースの回路を持ってみることを勧めたい。