2021年6月27日

久米宏がマスメディアから消えて1年

ちょうど1年前の今日、それまでTBSラジオで土曜日の昼間にやっていた「久米宏 ラジオなんですけど」がほとんど唐突に番組を終了した。

辛辣で真っ当な政権批判、五輪開催への疑問などをほぼ毎週繰り返していたせいだろう。当時の安倍首相を正面からこき下ろしていたからね。僕ですら、これじゃあ官邸が黙ってるはずないと番組に耳を傾けながら思っていたくらいだ。

タイプはまったく違うが、久米は日本のマイケル・ムーアと言えるような存在だと思っている。マイケル・ムーアはジャーナリスト感覚に優れた映画監督、久米は同様にジャーナリスト感覚のあるラジオ・パーソナリティ。どっちにしても、知性と勇気、筋が通った姿勢がないとなかなか務まらない。それとユーモアのセンス。

ジャーナリズム不在の現在の日本のメディア状況。僕が目にする限りにおいてだけど、これはというのがTBSの「報道特集」くらいしかないのは情けない気がする。

それぞれの現場には知性と勇気のある記者やレポーターはいるんだろうけど、筋を通せるプロデューサーがいないってことなのかね。

2021年6月25日

サブスク? なぜ横文字か

昨日のゼミでの学生らの議論の中で「サブスク」がトピックスのひとつとしてに出ていた。トヨタのKINTOが成功か、それとも失敗かなんて話題だ。

KINTOというサービスについては、そのプロジェクトのそもそもの目的とゴールが何なのかが分からなければ、はたから眺めてただ現時点で利用客数が伸びてないとか売上高がいくらだとか、そうした理由で失敗と勝手に判断するのはピントがずれている。

それはそうとして、なぜ「サブスク」? 原語はSubscription。もとは雑誌の定期購読のこと。

デジタル財の分野では各種のインターネットプロバイダーはもちろん、ネットフリックスやスポティファイがそうなんだろうが、サブスクは会費制と何が違うのか。NHKの受信料(視聴料)もその一種だ。

基本的にサービス業で用いられることの多い商売のやり方(気取った奴はそれを「ビジネスモデル」とか言う)で、限界コストが低い場合に採用され、それによって企業は継続的な売上を期待する。

なにもサブスクなんて言わなくても、<定額制サービス>と言えば誰にでも分かる。

月に何回行っても追加費用がかからないスポーツジムなんかもそう。ずっと昔からあったサービスだ。でもサブスクなんて分かったような分かんないような言葉で言われると、何か新しいものが登場してきたかのように聞こえるのかも知れない。

ただ気を付けて欲しいのは、英語でも日本語でもないカタカナ用語を疑問もなく使っていると、正確な意味の理解が欠落したままになってしまうぞ。

そもそも「サブスク」という言葉、日本語として美しくない。

2021年6月20日

「いいね」ボタンが奪うもの

おそらくインターネットを使うほとんどの人が、Facebookなんかの「いいね! ボタン」(Like Button)を押したことがあるに違いない。

ただクリックするだけ。手間もコストもかからない。それで、なんだかその書き手とつながった気になれる。押された方も厭な気はしない。それでささやかな承認欲求を満たすことができる。

誰が最初に考えたのか知らないが、本当に良くできた仕組みだ。

これもコミュニケーションのやり方のひとつ何だろうけど、そうやって表面的形式的なやりとりで安心したり、少しばかりいい気分になることで無くしていっているものもある。 

何も言葉を発することなく、画面のボタンを押すだけなら猿でもできる。何も考えずにテレビなど見ながらでもできる。思考ではなく条件反射。

こうして「見せかけのコミュニケーション」にわれわれは益々乗っかっていくのだろう。本音の話、簡単に答えなど出ないややこしい議論自体が時代遅れになっていっている。その原因の一端が、あの小さな「いいね!ボタン」にあるんだよ。


2021年6月14日

CM界の才人がまた逝ってしまった

小林亜星さんが亡くなった。

ひと月前には、日立のCMで今も使われている「この木なんの木」を小林さんと一緒につくった伊藤アキラさんも亡くなった。二人ともきら星のような才人だった。

小林亜星さんがつくったブリジストンのCM曲「どこまでも行こう」は、僕がその後広告の世界に行こうと思ったきっかけとなった一曲。それと、サントリーの「夜が来る」。


 

伊藤さんとはラジオCMの仕事で何回かご一緒した。言葉を限られた時間の中で音にのせる術をスタジオで見せてもらい、学ばせてもらった。

亜星さんとは雑誌の仕事で、ご自宅に取材に伺ったことがある。奥さんともども丁寧に対応してもらったのを昨日のことのように思い出したヨ。

才能が輝くスゴイ2人だった。広告という小さな世界に、こんな人たちがいたという僥倖を感じる。そうした時代だったということだろう。高度経済成長期に現れた、夢のような時間の一コマだ。

2021年6月11日

「ラフな」大臣

国が行ったアプリの開発事業に応札し、開発を請け負ったNECへの支払いに関してデジタル改革大臣の平井氏が妙な発言をしたと報じられている。

https://www.asahi.com/articles/ASP6B73PZP67TIPE01M.html?oai=ASP6C3GDKP6CULFA001&ref=yahoo

73億円で発注したものを、後に自分らの都合で予算を38億円の契約に変更した。

もともとの発注金額が妥当だったかどうか知らないが、すでに開発が終了しているプロジェクトについて、周りからの圧力があったからとか、野党から金額について問いただされたからという理由で一方的、超高圧的に契約をねじ曲げるのはおかしなはなしだ。

その際の相手企業を「徹底的に干す」とか「脅しておけ」とか、まともな大人が吐く台詞ではない。

後にその大臣は、自分の言葉について「 ラフな表現になった」と、それこそ大臣としては実にラフな表現で釈明したが、ラフ(rough)には「ありのままの」「未加工の」といった意味がある通り、本心からの言葉を言ったと受け取っておこう。 

2021年6月6日

京都・清龍殿

本格的な梅雨の季節が訪れる前に京都へ。錦小路通りの膳處漢ぽっちりで冷やし中華と点心の昼食を済ませた後、四条通りを東へ散策。

途中でタクシーを拾い、東山・八坂神社の裏手にある青龍殿にのぼると裏手に広い木製のテラスがあり、そこから京都の町を一望に見下ろすことができる。

時節がらだろう、人はほとんどいなくて実に静か。山上の庭園には大隈さんが植樹した松と、その記念碑があった。

見晴らし台でしばらく静かな風を楽しむ。駐車場近くにコーヒーを販売しているバンが駐まっていて、そこでハイネケンとエスプレッソを注文。

コロナ禍でバスの運行が止まっていると聞き、山道を歩いて下ることにする。知恩院か円山公園へおりるのだろうと思ったら、やっとたどり着いたのは東大谷墓地という広大なお墓だった。これもまた京都らしい風景。