2018年12月31日

落成した興福寺中金堂

昨年10月に300年ぶりに再建された興福寺中金堂。どんなものかと大晦日に訪ねてみたのだが、これがなんというか、朱塗りの鮮やかな建物は写真の通り立派なのだけど、内部は安っぽいとしか言いようがなかった。


中央の釈迦如来像は別として、コンクリートの台の上に無造作(にしか見えない)に配置された何体かの菩薩像。展示の仕方とライティングのお粗末さが相まって、キッチュな感じしかしなかったのが残念。取り合えず落成しました、といったところか。


一方、その後で訪ねた新薬師寺はさすが。小さな寺ではあるが、本堂内部の雰囲気といい、ぐるりと輪を描いて配置された十二神将といい、見事だった。

こちらはデビューして55年

横浜市中区にあるシネマ・ジャック&ベティで映画「エリック・クラプトン 12小節の人生」を観にいく。

神奈川県内では、そこと川崎市アートセンターアルテリオ映像館の2館でしか上映していない。もっとも、都内でも有楽町、渋谷、池袋でそれぞれ1館で上映されているだけだ。

映画館の最寄りの地下鉄駅を降り、改札を出たところにある駅周辺地図の前に行くと70歳くらいの中年男性が3人ほど立っていたのでどいてくれるように頼んだら、「ジャック&ベティですか?」と聞かれた。なんでそこに行こうとしているのが分かったんだ? 自分たちも仲間が到着したらこれから行くのだとか。


クラプトンについては、ウィキペディアでは以下のような紹介がされている。
イングランド出身のミュージシャン、シンガーソングライター。 「スローハンド」と呼ばれるギターの名手として知られ、ソングライティングも優れた世界的なアーティスト。ジェフ・ベック、ジミー・ペイジと並ぶ世界3大ロック・ギタリストの一人とされている。 『ロックの殿堂』を3度受賞。
現在73歳。デビューして55年になる。

実の母親から捨てられ、孤独で屈折した少年時代にブルースに出会い、衝撃を受ける。その大きなきっかけは、B.B. キングの音楽だった。映画の冒頭で、クラプトンがカメラに向かって「もしまだブルースのことをよく知らなければ、私自身の出発点となったこのアルバムを探して聴いてほしい」と語りかける。2015年に亡くなったB.B.キングの死を悼む言葉である。そして映画は、ステージ上のB.B.キングが、そのステージの袖に立っているクラプトンへ向けて敬愛の言葉を語るシーンで終わる。

しかし、なぜブルースがまだ少年だったクラプトンの心を捉えたのか。彼はその理由を語らない。ただ見るものには、複雑な少年時代の家庭環境や学校での鬱屈した日々が背景にあったのだろうと想像させる。

1991年、彼は当時4歳だった愛息を亡くす。ニューヨークの53階のアパートの窓からの転落死である。失意の底にたたき落とされた彼だが、音楽がその痛みを和らげた。

映画の最後のナレーションだったと思うが、少年時代にブルースに出会い、ブルースに心奪われてギタリストの道に進まなかったら、彼は労働者階級の一人として祖父と同じレンガ職人か、父親と同じタイル職人になっていたかもしれないと語られていた。

ブルースに出会わなかったらどうなっていたかなんて誰にもわからない。ただ、心に強く響いたものを自らに引きつけ、成功するかどうかなんて考えずに没頭することしか偉大になる道はないことは確かだ。

そういえば今月は、音楽に関係のある映画として他に「アリー スター誕生」と「ボヘミアン・ラプソディー」を観たが、いずれも上出来の作品だった。

こちらはフィクションではあるが、愛する者の死を経験し、それを乗り越えることでアーティストとして成長していくというのは、レディ・ガガが主演して製作された4度目のリメイク版「スター誕生」の重要なモチーフでもある。


また死といえば、「ボヘミアン・ラプソディー」は、エイズが原因で1991年に亡くなったフレディ・マーキュリーと彼のバンド、クイーンの物語。


フレディを演じた主演のラミ・マレックが、好演している。入念に施されたメイクもあるのだろうが、フレディがそこにいるような感覚になった。最後、ライブエイドのステージングには興奮した。


2018年12月20日

岡林信康50周年コンサート

岡林信康が「山谷ブルース」でデビューして50年。それを記念した彼のコンサートが六本木であった。


観客は60代以上の男性がほとんどだ。白髪、白髭、禿頭のオンパレードである。笑っちゃうよ、まったく。連れの女性に体を支えられて、何とかかんとか歩いているかつてのロッカーもちらほら。

コンサートは、岡林がステージに現れ、「どうも、沢田研二です。今日は満員じゃないけど、心を入れかえて歌います」と言ってまず一曲。いやはや、関西人である。

途中の休憩時間には、男性用のトイレからあふれた男たちの列がホールにもずらっと続いていて。初めて見た珍しい風景。

ゲストの予定だった山下洋輔がケガのため出演できなくなったのは残念だったけど、岡林がギター一本で歌う姿は懐かしく、中学生時代の自分がふっと頭に浮かんできて不思議な感覚だった。


2018年12月15日

日本は本当に出遅れたのか

ある新聞社がキャッシュレス決済について調査したところによると、日本人の8割がQR決済について知らなかったらしい。で、記事の見出しは「日本の出遅れ鮮明に」とある。
これは中国やインドなどと比較しての評価だ。中国では10億人がQR決済を利用し、すでに都市部の実店舗決済全体の7割近くをQR決済が占め、現金による支払いをはるかに圧倒してる。中国でアリババやテンセントのスマホ決済が市場を独占している様子がうかがえる。
この背景には、中国の現金決済のこれまでの環境がある。日本のように、すぐ近くに銀行や郵便局、さらにはコンビニのATMがあっていつでも現金を引き出すことができるわけではない。

また、現金で買い物した時におつりがよく間違っていたり、またごまかされたりするという。偽札が頻繁に出回っているため、おつりをもらった時には高額紙幣の場合それを光に透かして本物かどうか確認したりする必要もあるらしい。さらには、日本と比べて古い紙幣が中央銀行によって交換されないまま流通しているために、異常に汚れ、ヨレヨレで触るのも憚れるようなものが一般的にまだ用いられているという状況だ。
そうした中で電子的に処理で済ませられるスマホ決済は、きわめて安全で安心、そして清潔な決済手段だ。利用者にとって利便性は高く、また流通業者や決済機関にとっても大きなメリットがある。
そうしたものがスマホとネットワークの普及、そして情報処理スピードとコストの改善によって実現され急速に普及してきたというわけだ。
インドにおいてもスマホでの決済を使う人は3億人に上るという。その普及の理由は、中国とさほど変わるところはないだろう。つまり、どちらにしても日本とは基本的に貨幣を巡る社会環境が全く異なっていることが指摘される。
にもかかわらず、日本が中国やインドの後塵を拝してるとか、出遅れてるという判断はどうなんだろう。有り体に言ってしまえば、日本人の多くは必要がないから使わない、ただそれだけなのである。遅れいているとか、進んでいるというものじゃない。


2018年12月14日

NHKもキャラクター商売

今朝、東京駅日本橋口地下で見つけた行列。「最後尾」と書かれたプラカードを持つ女性に何の列か尋ねたら、「チコちゃんに叱られるグッズが今日から発売になるんですよ」とのこと。


知らなかったが、この地下にNHKキャラクターショップなるものがあり、そこへ向かう行列だった。
http://www.nhk-character.com/chara/chico/images/chico_catalogue.pdf

並んでいたのは、いい年をした(失礼!)おじさんとおばさんがほとんどなのが、ちょっと意外。

チコちゃんとは、着ぐるみで顔の表情をCG加工したあの「ボーと生きてんじゃねーよ」と大人を叱咤する少女のキャラクターである。ボイスエクスチェンジャーで変換した独特の声が耳に残っている。

僕と同年代の男女が列をなしてキャラクターグッズの発売を待つほど人気とは知らなかった。


2018年12月13日

ソーセージパテは、オクラホマから

駅前の定食屋の階段を降りると、そこはマクドナルドのバックヤードの入口だった。

台車に積まれた段ボールが所在なげにおかれていて、それにふと目をやると、ソーセージパティ Manufacutured By Lopez Foods Inc. Oklahoma City と書いてあった。

マックは、食材をわざわざ北米から輸入してる。冷凍輸送しても、その方が安価なんだ。



2018年12月12日

横文字経営

ある新聞社系ビジネス雑誌の記事。その最初のページに、EGS、SDGs、CSVという文字が躍っていた。サステナブル経営がその記事のテーマだ。

EGSは環境、社会、ガバナンスのそれぞれの頭文字。SDGsは「持続可能な開発目標」と説明があり、CSVはCreatng Shared Value=共通価値の創造のことである。

今さらながらだが、書き手も読者もこうしたアルファベットを並べた文書を読んでどれほどの理解をしているのか疑問に感じる。

環境を考え、社会的にきちんと適応し、ガバナンスに沿った経営が求められていることは常識のレベルだ。

SDGsは、2015年の国連サミットで設定された17のゴール(目標)のこと。


大切なのは、そこで掲げられている個別の目標であり、その実現のための活動や施策だ。SDGsという<標語>ではなく。

Creating Shared Valueは、米国の有名な経営学者が唱えたことで日本企業の経営者の口にものぼることになった考えだが、これとて近江商人が持っていた「三方よし」の理念と本質的にどれだけ違うのか。

自らの足下すらよく見ず、舶来ものの考え方を即物的に有り難がる傾向は明治時代以来変わらぬの日本の伝統か。こうした言葉を軽々に振り回す人たちほど、何かというとイノベーション、イノベーションと五月蠅い。

2018年12月11日

没後50年の藤田嗣治展

この夏に東京(東京都美術館)で見逃した藤田嗣治展を、やっと京都(京都国立近代美術館)で見てきた。こちらも来週末で終わりだ。


今回は没後50年ということでの大回顧展とうたっており、100点以上の作品が展示されていた。

おかっぱ髪に丸眼鏡、ちょび髭の藤田は、その独特の風貌と画家として活躍したフランスでレオナール・フジタと呼ばれていたといったことから、繊細で女性的なパーソナリティだと勝手に思っていたのだが、今回の回顧展で知った藤田は明治半ばに生まれた極めて日本的で男性的な人物だと思った。

画家としては大変精力的で、フランスを中心にヨーロッパ、日本やアメリカ(ニューヨーク)、南米各国を旅しながら数多くの作品を制作していて、それらの土地の空気やそのときの時代性がキャンバスに描かれている。

藤田といえば女性の肖像と自画像というイメージがあったが、僕は彼が南米のペルーやボリビアで描いた現地の人たち、つまりインディオと呼ばれている人たちを描いたものがひときわ印象に残った。


2018年12月9日

嵯峨野の紅葉

京都にはまだ紅葉が残っていると聞いて、週末の嵯峨野へ。嵐山駅から北へ散策し祇王寺を訪れた。



2018年11月26日

Ghosn(ゴーン)has gone.

これまでの在任中に好き勝手放題、し放題で私腹を肥やし、社会と社内を欺き通してきた日産自動車の会長だったカルロス・ゴーン(Carlos Ghosn)が解任された。ゴーンがついに行っちゃったわけだ。

経営学者やビジネススクールはゴーンが好きだ。苦境に陥っていた世界的な自動車会社・日産を立て直した経営者として名が知られているからという理由。コストカッターと呼ばれてもひるまず、工場を畳み、社員を解雇し、取引先を大胆に整理していった。

企業における優れた改革の実例としてこれまでも頻繁に語られ、多くのビジネスケースにもなっている。企業人を対象にしたセミナーでも、彼がスピーカーとして登壇するとなると集客効果も絶大だ。

それまでの日産の日本人経営者たちには頭では必要性が分かっていてもできなかったことを彼がやった功績は大きい。非日本人のゴーンだったからこそ、日産という企業に情緒的な繋がりを感じることなく、目的合理性だけで意思決定ができた。また彼は、仏ルノーから送り込まれていた立て直し屋だから、日産内でどう思われようが関係なく、ルノー内で「よくやっている」との評価が得られればよいとの割り切りもあったはず。

ハロー効果というのがある。ハローというのは後光の意味であり、その光に目がくらみ実態を見失わせてしまうことを表す。彼はどこどこ大学を出ているから、、、彼女のお父さんは誰々さんだから、、、あの人はどこそこの企業の部長さんをやっていたから、、、だから立派なひとに違いない、と勝手にある特定の状況や視点から全体を光り輝くものと勘違いし、本質を見間違えてしまう。

早稲田大学は2005年、彼に対して「日本企業の経営者に勇気を与え、日本経済の復活に大きな貢献をした」として名誉博士号を授与した。これまでに名誉博士号を授与したのは、アジア初のノーベル経済学賞受賞者のアマルティア・センら142人。そのなかで逮捕者がでたのは、今回が初めてだ。大学は今後、学位を剥奪するのだろうか。

2018年11月25日

何十年ぶりかに聞いた「四当五落」

今朝のファイナンシャルタイムズ(FT)の記事。冒頭で、日本の生徒たちは入学試験の準備のために伝統的に「四当五落」の信条(credo)に沿って生きるように諭されている、としている。


yontougoraku と綴られ、"sleep four hours , pass; sleep five hours, fail" と説明が付いている。いつの話をしてるのだろう。

今の受験生や親たちが、いまだにそんなこと考えてるとは思えない。僕が受験生だった頃(大昔)にはそうした話も聞いたことがあるけど。受験地獄なんて言葉がマスコミにまだ踊ってた頃だと記憶している。だが今では死語。まともな受験生や親は、そんな非科学的な信条(credo)など信じない。

この記事を書いたのは、推測だけど、かなり年配で、かなり不勉強な日本人記者だろうね。今では誰も口にしないような言葉を(英文紙の読者だから分からないだろうとたがを括って)さも現代の日本人たちが使っているように書いているのは、われわれ日本人にもFTの読者にも失礼なこと。

僕の経験則からだけだけど、英国のメディアはこうした日本人のエキセントリックさを紹介する記事が大好きだ。それこそ、そんな日本人ってどこにいるの? そんなのいても10万人に一人いるかどうかといった、かなり奇妙で外れた日本人をもってしてあたかも今の日本人の一般像のように見せかけて表現することをやる。

読者がそうしたものを好むから、というのが最大の理由なのだろうけど。いまだに「日本人というのは奇妙でおかしな連中」と思いたがる英国人読者性向がその背景にある。そして、そうしたものが結果として国のイメージを形成していくのだ。いやはや。

2018年11月12日

秘密は秘密じゃない

仕事柄、企業の人から事業の内容について話をうかがうことが多い。話していて熱がこもってくると、彼らの口から「ここだけの話ですけどね・・・」といった話が時折飛び出してくる。
それらには色々と面白い話があったりするが、そのうち「今のことは他に話さないでくださいね、会社の秘密ですから」というところに落ち着くことが多い。
もちろんそうしたときは「大丈夫ですよ、口外はしませんから」と申し上げる。これは気休めでもなんでもなく、相手が話して欲しくないことを他に話すことはしないのは当然のこと。
だが、彼らと別れた後でふと思うことに、彼らが言った秘密情報というのは本当に秘密にすべきことなのか考えさせられることがある。本人たちにとっては、外には決して漏れてはいけない大事な情報なのかもしれないが、社会常識からすれば取り立てて大騒ぎするほどの情報というわけでもない。
むしろ、そうした話をオープンにしてそこから何か話を他者につなげていくことで新たなビジネスチャンスを見つけたり、新規顧客に出会える可能性を手にすることができる。
そうした考え方をした方がいいと思うのだけれども、とかく日本の企業は僕から見れば大して秘密でもないことも「これは秘密だから決して外に漏らしていけない」とあまりにも厳密に考えすぎるきらいがあるような気がする。
どの企業にも機密情報はあるし、外に漏らしてはいけない話があるのは承知してるが、あまりにも何でもかんでも秘密にするがために発想が縮こまり、オープンなイノベーションを阻害している場合も多い。

境界線の見極めが微妙なところはあるけど、オープンにしていい情報はむしろ早く、そして広くオープンにすることで、いろんな新しい展開を生むきっかけになるはず。

日本の企業に欠けているのは、そうした判断力と思い切りの良さと軽やかな精神じゃないだろうか。

2018年11月9日

のら一匹

西早稲田2丁目、教龍寺近くでみかけた路地裏の野良猫。このあたりは表通りからちょっと離れ、人通りもそれほど多くなく、地域の猫ボランティアが交替で餌をやっているみたいだ。

2018年11月8日

前提が示されなければ、意味をなさない

先日の新聞に「副業、兼業を含めた広義のフリーランスは日本に1,119万人いるといわれ、労働力人口の17%にあたる」とあった。

しばしばニュースで「○○すれば、○○○億円の経済効果が期待できる」とか「○○する人は、全国に○○万人いるといわれる」といった記述を目にする。

その度、「ホントか?」と思う。そこに書かれていることが事実かどうか、あるいは推定上の数字だとしたら、その算定根拠をメディアは示してほしい。

例えば、2020年の東京五輪の経済効果は、報道によれば7〜32兆円となっている。また、2019年開催予定のラグビーワールドカップ東京大会の経済効果は4400億円と試算されている。

当然ながら、数字はいくらでも作ることが可能なので、大切なのはどういった前提が据えられているかを我々が知ること。そうでないと、それらを信頼することはできない。

問題なのは、根拠のわからない数字をそのまま記事に使っていたり、そもそも書き手が疑問に思っていないことーー。役所から配られた文章は正しいもの(あるいは文責は自分たちにはない)と考え、確かめることなく記事に載せる。
 
記者として何か書かなきゃいけないから、取りあえず使えそうな数字を引用して仕上げて・・・ということかもしれない。

今年ノーベル医学生理学賞を受賞した本庶佑先生は「教科書を信じるな」と記者会見で訴えていたが、今われわれに必要なのは裏付けのない数字や主張を容易に受け入れることなく、疑問を習慣的に持つ態度である。

メディアには数字の裏付けを取り、根拠を国民に示すことを求めたい。それができなければ、いずれれは戦中の「大本営発表」がそうだったように国民を欺き大きな過ちを招くことにもつながりかねない。

紙の新聞の場合、これまで紙幅の都合でデータの詳細や調査手法などを詳しく説明することはできなかったが、いまはネットで補足すればよい。紙の新聞の該当部分に<注番号>をふり、それをもとに読者がウェブ上で注釈として読めるようにすればいい。難しいことは何もない。

新聞社にとっては、そうすることで読者にウェブを訪ねてもらうよいきっかけにもなるし、読者のリテラシーも確実に向上する。

ぜひ実現して欲しい。主要紙のどこかがやり始めれば、他紙もそれに倣うようになるはずだから。

2018年11月7日

『華氏119』と中間選挙

11月の第1火曜日だから、きょう米国では中間選挙の投票が行われているはず。どうなるか結果を気にしていてもしかたないので、レイトショーで映画『華氏119』を観に行った。


ドキュメンタリー監督、マイケル・ムーアの最新作。11/9は、トランプが米国の大統領に選ばれた大統領選で勝利宣言をした2016年11月9日を指している。

なぜトランプが大統領選に出馬することになったか、どうしてほとんどの人がその時まで信じて疑わなかったヒラリー大統領が実現しなかったのか、民主党がどうやって変節を遂げるに至ったか、オバマが我々が知っているだけの姿ではないことなど、他国のことというのもあるが、いままで知らなかった米国政治の状況を知ることができた。

一言で言えば、共和党だけでなく、民主党も腐っているということ。民主党は、実は先の大統領選で負けるべくして負けたことが分かった。その間違いの源は、大御所と言われる古株の民主党の有力議員たちだった。

既得権を持った彼らには、イデオロギーよりも自らの利益誘導と保身が最優先されたからだ。これって、米国の話だけじゃないよな。

ただこの映画の中で詳細に、かつしつこい位に描かれているのは米国の若者、それも大学生ではなく高校生たち!の賢く勇気ある行動の数々。この点では彼我の違いにため息がでる。アメリカが凄いな、と思わされるのはこうした若者たちの姿を見るときだ。

明日には選挙結果の趨勢は決していることだろう。さて、どうなるか。とりわけ映画に出ていたNY州の候補、アレクサンドリア・オカシオ=コルテスとミシガン州の候補、ラシダ・トリーブの結果が気になる。

-----
後記(11月7日)

コルテスさんもトリーブさんも当選したね。
http://www.afpbb.com/articles/-/3185455
https://www.mashupreporter.com/alexandria-ocasio-cortez-ny-primary/

2018年11月6日

失われた8年を取り戻せるか

昨日、早稲田大学の第17代総長に田中愛治教授が就任し、彼から「教職員のみなさんへ」と題する一斉メールが送られてきた。

当然ではあるが、やる気満々の様子で今後に期待している。彼は早稲田出身だが、早稲田で教授になる前に複数の他大学で働いてきた経歴を持っている。それがどうしたと言われそうだが、これまでの総長はいずれも早稲田大学の「純粋培養」だった。

つまり、早稲田大学で学部の課程を終え、そのまま同大学院の修士課程、博士課程へと進学し、その後覚えめでたく助手として採用されれば、あとは歳を経ることで専任講師、助教授(現准教授)、教授となってきた人たち。

18歳で大学に入学したとしたら、同じ組織のなかだけで(途中で留学とかしなければ)半世紀近く生きてきた人たちということになる。それってどうなんだろう・・・? 他所のメシを食ったことがなければ、自分が食べているメシの味を相対化することは難しい。

そうしたなか、彼は他のいくつか大学での研究と教育の経験を経て早稲田に戻ってきた人物だけに、これまでの総長とは違う判断ができることを期待している。

前総長の8年間は、まるで時間が止まっていたようだった。20年後を想定して「Waseda Vision 150」とやらを学内の多くの資源を投入して策定させたが、それだけのように思える。

詳細な長期計画を作るのはいいが、企業でもコンサル会社に大金払って気の利いた長期計画書を作成してもらい、それで何か将来の業績が約束されたかのような気分になっている経営者が多いのを思い出す。

組織として守り信じる基本的理念を徹底しさえすれば、あとは環境に柔軟かつ先行的に適応することの方が、定型的な長期計画をシコシコ作って満足するよりよほど大切だと思う。

失った8年を彼がどうやって取り戻すかが、大学のこれからの明暗を分ける。

2018年11月5日

村上春樹の記者会見

11月4日、作家の村上春樹が早稲田大学での記者会見に出席して、自分の原稿や蔵書、世界各国で翻訳された著作や2万点近いレコードコレクションなどの資料を大学に寄贈すると発表した。
彼が国内で記者会見するのは37年ぶりらしい。大学は資料を活用して国際的な研究センター「村上ライブラリー」の設置を検討しているという。 
大学の本部キャンパスにある演劇博物館に近くにそのセンターは造られるらしい。村上が自分の学生時代を振り返り、授業にはあまり出なかったが、演劇博物館で古いシナリオを夢中で読んでいたと語っていたのが印象に残る。
演劇博物館は研究室から近いこともあり、気が向いたときにぶらっと立ち寄ったりするが、イベントなんかがないときは実に閑散としている。早稲田大学が誇る、数少ない貴重な場所なのに。これを機に、若い人たちがこちらにももっと足を運ぶようになるといい。
ところで、報道で公開された写真で村上と早大総長の鎌田教授が並ぶ写真が写っていたが、現総長は4日で退任する。翌日の5日からは新しい総長がその任に着く。そのギリギリのタイミングで大学が村上春樹の記者会見を早稲田大学で開いたというのはなんともニクイというか、無理矢理という感じ。
なんだか彼(村上)もすっかり歳をとった感じだなあ

2018年11月4日

思考の芸術

上野の東京国立博物館で「マルセル・デュシャンと日本美術」と題した展覧会が開催されている。デュシャンは20世紀の美術に多大な営業を与えたフランス出身の美術家。



男性用小便器を「泉」と題した芸術作品と定義したことで有名だが、この作品の原題 Fountain は日本語では泉より噴水とした方がイメージがわくと個人的には思うのだが、どうだろう。


僕は大学のマーケティング授業のなかでポジショニングについて学生に説明するとき、実体を変えずにそのものの位置づけや意味を変えた一つの例として彼のこの作品を紹介することがある。

デュシャンはそこに描かれた表現よりも、それが帯びている意味や思考、解釈を芸術の根幹と捉え、すこぶる自由にアーティストとしての活動を行った。

やがては絵画制作を放棄し、大量生産品から彼が選んだものを「レディメイド」という名で作品化するにいたるーーただし、今回の展覧会には彼の初期の絵画作品も十数点飾られていたが、それらはどれも技巧的に優れたものだった。

キャンベル・スープの缶のデザインをモチーフとして取り上げたアンディ・ウォーホルは、デュシャンの価値の転換を換骨奪胎したことに気づく。

2018年11月3日

夜明けまえ

タイムラプスで月を撮ってみた。
夜明け前の空の色がきれいだ。


2018年11月2日

地上350メートルからの眺め

今日は大学が学園祭で全校休業ということもあり、 秋らしい晴れ渡った青空に誘われて浅草までやって来た。


スカイツリーを今日初めて訪れた。2012年春のオープンだから、もう6年以上が過ぎている。いつでも行ける、はいつまでたっても行かない、の典型的な例だ。

展望デッキは地上350メートル。そこへ昇るエレベータの速度と、それを感じさせない制御技術は素晴らしい。東芝製のエレベータだった。

平日にもかかわらず賑わう展望デッキ
荒川に向かって伸びるスカイツリーとイーストタワーの影を展望デッキから撮影

帰りは吾妻橋近くの神谷バーに寄ったあと浅草鷲神社の酉の市へ向かう。凄い人混みである。


2018年10月28日

更待月

今晩の月は、月齢19.43。この頃の月を更待月(ふけまちづき)と呼ぶ。月が出てくるのが遅く、夜も更けて出てくるところからそう名づけられている。


2018年10月25日

十五夜の月

空を見上げると見事な満月が。ふとその写真を撮りたくなり、急いで駅前のカメラ屋へ走り一眼レフを買ってきた。

最初に撮った一枚が次の写真だ。2420万画素あれば、月面のクレーターの凸凹もこれだけ写る。

満月の月は神秘的で本当にきれいだ。これまでも数えられないほど見ているにもかかわらず、眺めていて飽きない。


2018年10月24日

カメラに映った映像は美しかった

3年に一度、大腸の内視鏡検査を受けている。今年はその年で、今日がその日だった。

昨日から朝・昼・晩と前もって病院から送られた検査食で済ませ、今朝は水を一杯飲んで病院へ向かった。

朝8時15分に受付を済ませ、検査着に着替え、看護師から説明を受ける。渡されたのは下剤を溶かした2リットルの水を1時間半ほどかけて飲み、大腸の中を空っぽにする。マズイ。何かもう少し味を付けてくれると助かるのだが、製造している製薬会社も利用している医師もそんなことはお構いなしのようであう。

結局2時間ほど病院の待合室で例の検査薬を飲みながらウロウロして、やっと内視鏡検査の段になった。

ここから先は検査状況の詳細の説明は省略するが、検査で用いられた内視鏡は素晴らしいものだった。水を出す管と水を吸引する管が一本のカメラスコープに埋め込まれている。そのお陰で、カメラがなめらかに腸内を進み、しかも余分な水を即時に取り除くことができる。

その内視鏡は日本のオリンパス製だ。「高いんですよ、これ。だから大切に扱っているんです」と看護師の方が教えてくれた。

確かに検査台に横になって、自分の腸内をカメラが次々とモニターに映し出す映像を見ることができるのだが、その映像の鮮やかなことに驚く。人体の美しさに感動すらする。

検査をしたのは妙齢の女医だった。手慣れたもので、思い切りもいい。じゃないと、務まらない仕事だ。

検査の後その結果を聞くとき、やはりしなきゃと思った質問は、今年イグノーベル賞を取った日本人医師のアイデアについてだ。

長野県駒ヶ根市にある昭和伊南総合病院で内科診療部長をつとめる堀内朗氏が「座位で行う大腸内視鏡検査―自ら試して分かった教訓」という研究で「イグノーベル医学教育賞」を受賞したニュースだ。


上記の映像の45分あたりで堀内氏の受賞風景がある。生真面目な医師・研究者としての側面がうかがえて微笑ましく、かつ笑える。

大腸の検査してくれた女医さんに興味半分で「あれって、将来的にはありですかね?」と聞いてみたら、「いやあ、あの先生は変わっているだけだから・・・」と笑ってかわされた。


2018年10月21日

劇場ひとりじめ

日曜日の夜、レイトショーで映画「イコライザー2」を観た。デンゼル・ワシントン主演のサスペンス・アクションである。先月、学会からの帰りの帰国便でたまたま第1弾の「イコライザー」を見て面白かったこともあり、劇場に足を運んだ。

Equalizerを辞書で引いてみると「すべての人を平等にする人(もの)」と言う意味と「銃や武器のくだけた表現」と書いてある。ダブル・ミーニングであり、この映画をよく示している。

見終わって頭に浮かんだのは、緒形拳が藤枝梅安を演じた「必殺仕掛人」。舞台を現代のアメリカに置き換えるとこうなるという感じだ。

日曜日の夜ということもあるのか、劇場が7つ収められたシネマ・コンプレックスのなかで客席数が337席のもっとも大きな劇場での上映にもかかわらず、劇場にいた観客はぼくひとり。こんなに面白い映画なのに。


2018年10月16日

原因と結果との因果関係をしっかり辿るのが先だ

今朝の新聞一面の見出しに「レジ袋、コンビニも有料に 環境省が義務化方針」とする記事があった。

「環境省は小売店で配布されるレジ袋について有料化を義務付ける方針を固めた」で始まる記事によると、対象はスーパとコンビニでレジ袋1枚につき数円の支払いを店頭で消費者に義務づけるらしい。

肝心の目的に関しては、記事は次のように紹介している。「海に流出した廃プラスチックの環境問題が深刻になるなか、レジ袋を減らし汚染防止につなげる」と。

つまり、「レジ袋の有料化 → 使用量の減少 → 海への流出の減少」という図式が環境省のあたまにある。

目的がプラスチックによる海洋汚染の防止ならば、もっと集中的に力を入れるポイントは別にあるはず。海洋投棄をどう防ぐかがカギであって、コンビニやスーパーの店頭でレジ袋で金をとるかどうかはどう考えても副次的な話だ。

海岸や河川などからゴミとしてビニール袋が海に流れ出てしまうのは、個人のマナーの問題である。またゴミ箱を必要に応じて設置しない、それをきちんと管理しない行政の責任も大きい。 それ以外にも流れ出る「ルート」があるかもしれないが、それが何なのかまずはトラッキングしてみる必要がある。

いずれにせよ、店頭で金を取るにしても、それは店が判断すること。役所が義務化することではない。企業はそうした押しつけに対しては、業界で反発すればいい。

国の狙いは、例えば2円のレジ袋ならそのうち1円を海洋汚染対策税かなにかの名目で召し上げようと考えているのでは。

ところで記事では、国内で消費されるレジ袋は450億枚程度と推定されるとしている。いつのことか、またその期間が書かれていない。1年間なら人口一人当たり360枚になるが・・・。 

疑問に思い、ここで新聞社に電話。交換台から読者センターに回され、問い合わせの内容を伝えたところ担当の男性がしばらくネットで検索している雰囲気が伝わってきたのち「分かりません。書かれている以上のことは知りません」と回答。ビックリ! 

記事のなかに期間が記載されていないので問い合わせているのだと伝えたら「環境省に聞いてください」って言うし、環境省のリリースをもとに書かれた記事なんですねと尋ねると、「それを書き写して何が悪いんですか」と喧嘩を売られた。挙げ句の果てに電話を一方的に切られた。日経新聞東京本社。

ここまで常軌を逸した対応も珍しい。もう一度題字下に書かれている代表番号に電話し、記事について問い合わせしたら分からないと言われ電話を切られた旨を伝えた。読者センターの別の担当者(今度もまた年配の男性)が恐縮して電話口に出てきた。先ほどの対応時の状況を伝えたら、なにやら受話器の向こうで不穏な雰囲気が流れているのが分かった。常習者がいるのだろう。結局、「申し訳ありませんでした。よく指導しておきますので」と言われ会話を終えた。

もとは記者か何かだったのが、今は肩書きを外され読者センターに回され腐ってしまった一例にあたったようだ。

2018年9月23日

大学院生は、まず学ぶことを学んで欲しい

まもなく後期の授業が始まる。それに先だって、大学から前期授業の学生アンケートの結果が送られてきた。

今回もだが、僕の授業への学生の評価は双耳峰形だ。つまりピークが2つある。気に入ってくれる集団がいる一方で、気に入らなかったというもう一つの集団のコブがある。

マーケティングのような分野は、すでに仕事で担当者として携わっている人たちにとっては馴染みがある一方で、例えばビジネススクールのファイナンス専攻に入学してきたような学生たちにとっては馴染みもなければ、さほど関心のない領域である。また、知識や経験と同じくらいセンス(ビジネスマンとしての、また消費者としてのセンス)に左右される特徴もある。

クラスの全員を満遍なく満足させる授業という芸当ははなから無理と考えているので、ターゲティングが必要になる。僕の授業クラス内でのターゲットのイメージは、横軸にマーケティングの知識や習熟度、縦軸にその人数をとったときに描かれるだろう正規分布のカーブの右半分である。それがパレート的に最適だと考えているから。

毎回のクラスは、ケースメソッドによる討議型授業を中心にしている。最初の授業でマーケティングの概要について説明した後は、指定教科書は自分で読み進めるように毎回の授業テーマとそれに対応する教科書の章をリーディングリストとして渡しておく。

マーケティングのテキストには難しい数式があるわけでもなく、哲学書のような難度の高い論理展開があるわけでもない。普通の社会人なら読めば書かれている理屈は分かるはずだとの前提に立っている。

もちろん読んで分からないところがあれば遠慮なく質問するように伝えてあるが、教科書の内容に関して質問を受けたことは一度もない。

ところが授業後のアンケートを読むと、例年自由回答欄には教科書に沿ってマーケティング理論の説明をしっかりして欲しかった、というのが何通もある。だいたいどういった学生(大学院生)かその年のクラスの顔ぶれで分かるのだが、大学1年生ではないのだから自分がどう勉強するかは自分で学ばないとね。


社会人大学生がお客さん気分いっぱいで、何でもすぐ消化できるようにかみ砕いて教えてくれなきゃイヤ、とばかりにぐずっているようにすら感じる時がある。一流のビジネスマンは、自らが学ぶことを学ぶ、いわばメタ・ラーニングができることが必須である。

燧ヶ岳双耳峰

2018年9月21日

リアリティが失われつつある時代を象徴する事件

今年1月にビットコイン(仮想通貨)約580億円が渋谷にある会社・コインチェックから盗まれたばかりなのだが、また同様の事件が起こった。

今回は大阪市にある仮想通貨交換会社テックビューロから約67億円相当が流出したという。流出の意味がいまひとつよく分からないが、ビットコインの時も「流出」が用いられていたところからは、流出=ハッキング=窃盗と判断できる。

不正アクセス(つまり窃盗)が起こったのは14日、異常を検知した(窃盗に気づいた)のが17日、被害届を出したのが18日、事件を発表したのが20日となっている。

大規模な窃盗事件で思い出すのが、今からちょうど50年前に起こった「三億円事件」である。「三億円強奪事件」とも呼ばれている。東芝府中工場で働く従業員523人分の年末ボーナスを載せた現金輸送車が、白バイ隊員に扮した犯人に騙されてジュラルミンケース3つに入れられていた3億円を奪われた事件。

当然、メディアでも長らく大々的に取り上げられた。捜査に携わった警察官の数、17万人。捜査にかかった費用は盗まれた3億円の3倍にのぼった大事件である。


3億円といっても一万円札でどのくらいの分量なのかすぐに分かるのは銀行員くらいだろう。だが、ひとつ29.4キロのジュラルミンケースで3つと言われると、その札束(金額)の膨大さと重さを頭に描くことができる。

お札そのものの重さは、一万円札で一千万円が1キロと聞いたことがある。1億円は10キロの重さだ。

1月に盗まれた580億円は、重量にすると5.8トン! 今回の67億円は670キロだ。半端な分量でないのが、重さ換算すると実感できる。

映画ダイハードで、ニューヨークにあるFRBの地下から悪党たちが膨大な金塊を盗むシーンがあった。そのとき使われていた「窃盗道具」は、なんとパワーショベル機だった。なにせ重いから、当然そうなるわけだ。

しかしデジタルマネーは、いくら大金であろうと重さはない。載せて逃げる車も積み替えに使うパワーショベルも必要ない。音もなく、いつの間にか盗み取られるだけだ。デジタルの世界では10億円の窃盗も100億円の窃盗もただ0がひとつ違うだけ。

今年の1月と今回、これほどの大金が盗まれた大事件であるにもかかわらず、世の中が三億円事件当時のように大騒ぎしないのはそのせいか。

今後もこうした事件が現れるのだろうが、リアリティに欠けるだけにその重大さが薄まっていくのが怖い。

2018年9月17日

らしいと言えば、らしい

先々週、イタリアの学会に参加する際はワルシャワ経由のフライトで行った。

いつものように目的地(今回はイタリア)でネットを使用するための携帯ルーターはレンタルしたものを持って行っていたが、経由地のポーランドではそれは使用できない。

かといって、たかがメールチェックのために日本の携帯会社にばか高いローミング料金を払うのも気が進まず、Skype WiFi でホットスポットの公衆無線LANサービスでつなごうとしたが何故かうまくいかなかった。帰りのフライトで立ち寄ったときも同様だった。

海外に行ったとき、ホテルやスタバなど自由にネットが使える場所以外ではSkype WiFiが重宝していたので、今後のこともあるだろうとネットで検索してみたところ、CNET Japanのサイトに昨年の3月31日でサービスの提供が打ち切られていたことが掲載されていた。https://japan.cnet.com/article/35097346/

まったく知らなかった。知らされていなかった。Skype への登録メールの受信フォルダを検索したが、そうした連絡は何も届いていない。

CNET Jpan の記事(2017年3月1日付)によれば、
MicrosoftはSkype WiFiをまもなく終了する正式な理由について、次のように説明している。「全世界でSkype WiFiを終了するのは、中核的なSkype機能を通して可能な限り最高の体験をユーザーに提供する取り組みに、さらに集中できるようにするためだ」
とある。

利用者に知らせるべきことを知らせないで「可能な限り最高の体験をユーザーに提供する」というのはどういうことだろう。

このあたりの目線の置き方の奇妙さは、マイクロソフト社ならでは。いつまでたっても変わらない会社である。

2018年9月14日

ロックは海を見にいった

瀬戸内海の離島で飼っていた犬が、先日亡くなった。

14年前に保健所で保護されていたのを両親がもらってきた牡の雑種犬である。名前はロックといった。その前に飼っていた犬の名前がゴローだったので、五の次は六ということでのシンプルな命名だった。

そのままだったら殺処分されていたかもしれない犬だが、そんなことは本人は知る由もない。それがよかった。のびのびと育てられたが、両親に引き取られるまでどこかでずいぶん人から怖い目にあわされていたのか、妙に臆病で弱虫のところがあった。台風で雷がなると、鳴き止まなかったりしたのもそのせいに違いないと思っている。

年に数回しか帰郷しないのだが、そんな犬と妙に気があった、ような気がする。

ここ数年は年をとり、白内障を患い、目があまり見えなくなっていた。昼間散歩に連れて歩いた際には、川や堀に何度も落ちかかった。地面が良く見えてなかったのだろう。足を滑らせ、首輪につなげているリースで首つり状態になった。

耳も遠くなった。食欲は最後まであったものの、最近は散歩に行きたがらなくなっていたのは、目や耳が弱ったことに加え、足も衰えてきていたからだろう。 一日中、家の中で静かに過ごすことが多くなっていた。

そのロックが先日、玄関の網戸を鼻で開けて外に出ていった。そしてその日、いつまでたっても帰って来なかった。翌日、方々を探してみると、家から200メートルほど離れた浜辺で横になって死んでいた。

家からほとんど出たがらなくなっていたのに、なぜ海辺まで行ったのかは謎だ。

そういえば彼が若かった頃、散歩で海辺へ連れて行くとうれしくてしょうがないのか、何度も横っ飛びをして喜んでいた姿を思い出す。

自分の死期を悟り、残った力をふりしぼって最後に海を見に行った、あるいは海の匂いを嗅ぎに行ったのかもしれない。そしてそこで事切れたのか。死ぬところを飼い主に見せたくなかったのか。本当のところは分からない。

2018年9月13日

犬と旅する人たち

外国を旅していると犬連れの旅人たちをよく見る。ベネチアでも普通に犬を連れて街を歩いている人たちとたくさんすれ違った。

地元の人たちが散歩に連れて歩いていることもあれば、旅行者が犬を連れていることもある。ベネチアの街を行き来するヴァポレットという船にも犬が一緒に乗船している。

おおむねどの犬も旅慣れた様子というか、人混みにもまれてても飼い主の足下で静かにしているのには感心させられる。

写真は、運河(Canal Grande)の船着き場で一休みしていたカップルとワンコ。


下はトレ・アルキ橋近くの民家が建ち並ぶエリア。夕刻、犬を連れたおじさんがのんびり散歩していた。2階の窓辺から猫が3匹夕陽にあたりながらそれを見下ろしていて、実にゆったりとした時間が流れていた。



2018年9月9日

石畳は意外とキツい

歩くことに関しては、人には負けない変な自信がある。自慢できるのはそれくらいかもしれない。

だからというわけではないが、特に外国に来るととにかく歩く。

今日ヴェネツィアで歩いたのは17,548歩。昨日は16,112歩だった。日本では普段が7〜8,000歩だから、だいたい倍以上歩いたことになる。距離にして今日が12キロ、昨日が11キロ。大した距離ではないはずが、どうしたことか妙に足首が痛む。



イタリアの古都は下が石畳で、しかも磨り減って結構デコボコになっているせいだろう。足首が痛くなるなんて初めてのこと。


2018年9月7日

イタリアの学会終了

今回学会が行われたヴェネツィア大学からヴェネツィア一の観光地、サン・マルコ広場までは運河を渡る船(ヴァポレット)で10分ほど。


広場に面したカフェ・フローリアンは1720年創業という歴史を感じさせる構えの店。しかし、夕方の乾いた空気のなかでは店内よりやっぱりテラス席が気持ちいい。

学会で一緒だったカセサート大学(タイ)の研究者とサン・マルコ広場で

2018年9月6日

いい加減にこの人をなんとかしないと

一昨日から学会に参加するためにイタリアに滞在している。

ランチタイムやコヒーブレイクの際には、参加者の間で様々なことが話題にのぼる。

アジアから来ている参加者からは関空の滑走路が水没し完全に機能を失ったこと、関西で台風の被害が出ていることに関して心配の言葉をかけられた。そして北海道での地震のことなども。

そうしたことはありがたいことなのだが、一方で、麻生副総理の無知極まりない発言については「日本の政治家はどうしてああなのか?」と憐れみとも批判ともとれる言葉をかけられる。

彼は講演で「G7(先進7カ国)の国の中でわれわれは唯一の有色人種であり、アジア人で出ているのは日本だけ」と述べたらしいが、それは完全に間違い。日本の中しか知らずそれ以外の世界を知ろうとしないと、こうした小学生にも笑われるお粗末な知識しか身につけられないという見本だ。

日本国の副総理兼財務大臣は、われわれ国民が外国で代わりに恥をかかされているのをご存知か。

https://jp.reuters.com/article/idJP2018090501002194

2018年9月5日

ヴェネツィアでの学会

大学が夏休みの期間を使ってイタリアのヴェネツィアで開催されている学会にやってきた。

会場はヴェネツィアを東西に2分するCanal Grandeと呼ばれる運河沿いにあるヴェネツィア大学。1400年代に建てられたゴシック建築の建物である。

今回は、現在Emotion Tech社(早大初のベンチャー企業)と一緒に開発を進めている顧客ロイヤルティと企業の成長力を測定するNPS(Net Promoter Score)の日本版(NPS-J)の日本市場適応性に関して発表した。

日本人消費者の特性をベースにした改良モデルの話だけにどれだけ理解してもらえるか心配したが、聞き手がマーケティングの専門家だけにあまり基礎的な質問が出なくて良かった。

ここでの日中の気温は25度から30度くらいだろうか。ただ、日本のように湿度が高くないので爽やかだ。ランチは大学の中庭でいただくのだが、あとは建物のなか。

晴れた空と滔々と流れる運河。こうした天気のなか教室で時間を過ごすのが馬鹿らしくなってくる。

学会の会場になった大学の教室から臨むベネチアの運河

2018年8月20日

不審なクレジット会社

最近、マーケティング情報について企業の人たちと話をしていると、さまざまなところでそのユーザーデータが他社へ流用されているのを耳にするクレディ・セゾンという会社がある。つまり、会員情報を方々に売っているのだろう。

今年5月中旬、そこから未払いだという請求書が送られてきた。そこには請求金額が7,000円、残高が7,047円と印字されている。覚えがない。放っておいたら、翌月また請求書が来た。今度は請求金額が7,000円で残高が7,011円。37円減少している。なぜだろう?

手紙で問い合わせをした。カード使用ということなのだろうから、いつ使用したものか、どこ(店の名)で使用したものか、何を買ったものかについて書面で回答するように連絡するように伝えた。

そうしたら文書が送られてきた。何も回答がない代わりに、そこには何度も「電話しろ」と書いてある。わざわざアンダーラインで強調している。


知り合いの弁護士に話したら変だねと首をかしげた。内容を文書にできないから、あるいはしたくないために電話するように執拗に言ってるのではないかと。あるいはデータがなくて返答できないからではないかと言う。

その後、またクレディ・セゾンから請求書が送られてきた。今度は請求額6,676円、残高が6,686円と印字されている。以前より数字が小さくなっている。理由はまたもや不明。

請求書と残高の差は何なのか、なぜ残高と請求額が違うのか、弁護士も首をひねる。請求額を引いて、10円だけ残高をわざわざ残す理由も意味不明であると。

クレディ・セゾンの社長に先の問い合わせに答えてくれるよう手紙を出した。別に社長が知り合いとかいったことではない。担当箇所が、自分たちの都合が悪いことをうやむやにするのを避けるためである。

返事が来た。使ったとされるカードは何ヶ月も前に解約したカードだ。「内容につきましては、ご利用店にお問い合わせ下さい」とあるが、関係がないところなので問い合わせのしようがない。請求額と残高の差額は「手数料、お支払い期日までの遅延損害金」と返答してきたが、請求書上の請求額の内訳欄の「利息/手数料」「遅延損害金」はどちらもゼロになっている。計算も合わず、理解不能だ。

日本人は現金を使用する割合が、他の国と比べて依然として高い。2020年の五輪を控えて、観光促進を目的にもっとクレジットカードや電子マネーを使うように国を挙げてキャンペーンが始まっている。

それはそれで結構だが、こうしたとんでもないクレジットカード会社が存在していることに十分を注意を向ける必要がある。

弁護士に言われて CIC(Credit Information Center)という信用情報機関に自分の信用情報がどのように登録されているか照会したら、案の定、クレディセゾンが僕の信用度をそこに「ブラック」として登録していた。やってくれるじゃないの。

2018年8月15日

ドローンの可能性は多彩だ

先日、番組名は忘れてしまったがNHK-BSで日本の北アルプスをドローンによって上空から眺めていくという番組を見た。実に雄大で清々しい映像に魅了された。
人が歩きながらでは絶対に見ることができないいくつもの風景とアングル。深く切れ入った谷間の奥底の様子や伸びやかな稜線の流れなども、ドローンのカメラで自在に見ることができる。
また、その落差300メートルにも及ぶ巨大な瀑布をその滝口から滝壺まで、まるで水の飛沫をあびるかのように近接した距離で下っていくような映像すら見ることができた。これまでに我々が見ることができなかった全く新しい経験である。
これまでも空撮という撮影手法はあった。それらはたいていヘリからのものだ。以前ある外資系企業でブランドマネージャーをしていた時、テレビコマーシャルの仕事でニューヨークの摩天楼の夜を撮影するということがあった。
撮影していたCMの中で、夜景をバックに上空からブルックリン・ブリッジにぐっと寄っていき、そのまま橋の下をくぐり、抜けたところでマンハッタンの摩天楼を見下ろしながら一気に空に向けて上昇するシーンがあった。
きわどいシーンであり、今思えばよく撮影許可が出たなと思うが、さすがニューヨークは映画の都である。撮影クルーを乗せたヘリを操縦したのは、かつてベトナム戦争で攻撃用ヘリの操縦桿を握っていた元アメリカ空軍の名うてのパイロット。おかげで非常にダイナミックでかつスリリングな映像を撮ることができた。
だが今は、そうした大がかりな事をする必要はない。リモコンでドローンを飛ばせばいいのだ。
さてそのNHKの番組であるが、撮影隊が使っていたのは中国DJI社のファントムというドローンである。おそらく今ドローンの世界で最もポピュラーかつ先進的なマシンがこのDJI製ということになる。
日本製はいったいどうしたんだろう。モーターやセンサー技術、制御技術、精密加工技術といったものは日本にも充分あるはず。そうした優れた要素技術がありながら、製品としてのドローンを世界に向けて発売できなかった理由の一つは、開発者がそうしたものを作っても実際に飛ばして実験を繰り返すことができなかったからではないだろうか。
日本の規制(航空法)がそうしたことを認めていない。コンピュータで設計したものも最終的には実際に繰り返し飛ばして初めて気がつくことが多々あるに違いない。そうした現場から得た知見をどんどん取り入れてフィードバックしていくことで製品の完成度が高まっていく。
中国はそのあたり、日本に比べると遥かに開放的というか斬新的な手法で開発を進めていくことができる。なんせ土地が広い、そして役所さえOKと言えばどこでだって実証実験はできる(はず)。この違いはこれまでになかった新しいものを生みだし、製品化していくスピード感を考えた場合、とても大きな違いとなってはね返ってくる。
カーシェアもそうだが、日本がつまらぬこれまでの既得権にがんじがらめに絡め取られた規制を保っている限り、アメリカに追いつくことはおろか、早晩中国にも様々な技術や製品やサービスで追い抜かれていくのは間違いないように思えてならない。

それにしても、世界中でほぼスタンダートになった中国製のドローンが、撮影用カメラの代わりに人を殺傷する武器を積んで我々の頭の上を飛び回る時代が来ないことを祈りたい。

*以下追記 2018/08/16
調べたら、番組は昨年放送されたものの再放送だった。
http://www4.nhk.or.jp/P4999/3/

2018年8月14日

面白く、観てて痛い映画

映画を選ぶ基準として専門家による映画評がある。僕が参考にする映画評論家は何人もいるが、その中のふたりが芝山幹郎と中野翠である。理由は経験的なことで、彼ら2人が高評価している作品は、自分もすこぶる面白いと思った映画が多かったというこれまでの記憶からである。


その芝山と中野がほぼ絶賛していた「ミッション:インポッシブル フォールアウト」を観に行った。

出だしからのラロ・シフリンの音楽がいいなあ。テレビドラマ時代の「スパイ大作戦」の時から変わらないにもかかわらず、今も新鮮。56歳というトム・クルーズが全速で走る、走る、走る。

映画の舞台は、パリ、ロンドン、カシミール。どれもいいが、パリ編が魅力的。サロンのトイレでの立ち回りが凄い。ほとんど部屋全体を破壊しながらの拳闘が続く。観てて、こぶしが痛い! これは全編を通じてずっと感じていたこと。

そういえば映画終了後、スクリーンに流れるエンドロールを見ていて気になったのだが、そこにクレジットされているCarpenters、Plasters、Painters のスタッフの人数が尋常ではない。なるほど、こうした殴り合いのシーンを作る際の力の入れ方が確かに違うとその時あらためて感じた。

場面から場面への転換などはあまりにもご都合主義だが、そこはお約束というかご愛敬。シークエンスではなく、それぞれのシーンでの100%のアクションがすべて。これぞ、アクション映画ということだろう。

2018年8月10日

AIBOは予定より10日早くやって来た

アイボが届いた。以前連絡を受けていた予定よりずいぶん早い。工場で組み立てられている「製品」だから、不思議に思うことはないか。

段ボールを開けてみると、こんな繭のような形をしたパッケージが出てきた。


その中にアイボが収められている。


ゆりかごのなかで眠っているかのようだ。


そこから取り出しスイッチを入れてやると伸びをし、目覚めの体操を始めた。その後は、鼻先に付いたカメラでこちらの顔をしげしげと・・・。

2018年8月7日

東京医大は名称変更しては

報道によると、東京医科大学が医学部の入試にあたって、女子学生と3浪以上の男子受験者の入試得点を操作することで合格者を抑制していた。

文科省の局長が息子の裏口入学を図った一連のなかで明らかになってきた。東京医大の経営者は、女性は医師になっても妊娠や出産で職務を休むことが多いから「労働力」にならないと考えていたらしい。

3浪以上の男子受験者を邪険に扱った理由はなんだろう。大学卒業時に年を取りすぎているから? といっても3才ほどだ。3浪もしなければ入学できないのは頭がわるいと考えたから? 多少要領が悪いのは言えるかもしれないが、一方でそれだけ医師を目指す強い意欲がある連中ともいえる。

こうした東京医大の事件以来、自分が病院で医師を見る目が自然と変わって来ているのに気づく。どこかで、この人は東京医大の出身者で、裏口組ではないかなどと診察を受けていて気になるのである。

それはさておき、東京医大はこれを気に名称を変えるしかない。受験生からの評判ガタ落ち間違いないから。理事長など大学の経営者がそれほど男子学生を重視したいなら、そうした大学にすればいい。私立大学なんだし。

東京女子医大の向こうをはって、この際「東京男子医大」に名称変更し、堂々と男だけの医大にすればいいんじゃないのかね。医大としての評価も実力も面白みも下がるだろうけど。

それにしても、こうした内部告発が出てきた契機が文部科学省の「私立大学研究ブランディング事業」にまつわる役人の賄賂と裏口入学だったとは、完全にジョークだ。
 

2018年8月6日

国会議員の生産性とは

自民党の杉田水脈衆議院議員が、先月発売された「新潮45」で、LGBTと呼ばれる性的マイノリティーの人たちについてこう書いた。
LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり「生産性」がないのです。
生産性って何? 産めよ、増やせよ、ってか。このスローガンに代表される1941年の近衛文麿政権時代に閣議決定された「人口政策確立要綱」は、軍事主義の象徴的な政策である。

杉田という自民党議員がどういう背景の持ち主か知らないが、また知りたいともおもわないけど、あまりに文学的イマジネーションがなさ過ぎることに愕然とする。いや、知性そのものが完全に抜け落ちている。

そもそもご本人は、そうした自分が「生産的な」人間だと思っているのだろうか。だとしたら、言おう。「税金返せ」

2018年8月2日

前期の授業終了

8月1日は、前期の僕の授業最終日だった。マーケティング科目の期末試験後に、学生たちが懇親会(打ち上げ)を開催してくれた。履修者の半分強が参加。こうした場では、ビール片手にクラス内ではできない話を個別にじっくりできるのがいい。


2018年7月31日

火星の大接近

火星が15年ぶりに地球に大接近した。距離は5759万キロメートル。午後10時半頃撮影。

明るさはマイナス2.8等星。明るい
肉眼でも赤く見える

2018年7月23日

これは立派な(今でいうところの)デザイン思考だ

黒沢明監督と組んで多くの仕事をした、日本の映画界を代表する脚本家の橋本忍さんが先日亡くなった。享年100歳。

新聞に彼の弟子とも言える脚本家の中島丈博氏が追悼の言葉を述べていたが、そのなかで橋本さんの仕事ぶりに触れたところが面白かった。

仕事をするのは、判で押したように朝9時から夕方6時まで。時間になると筆を置く。物書きと言うより職人のようだ。その一方で、山師のように当たるネタを直観でかぎ分け、「今度はこれで世間をあっと言わせてやる」と賭け事を楽しむかのように作品作りに没頭する。

またストーリーを組み立てるための具体的な方法として、次のようなことを弟子の中島氏とやっていた。
書き出す前に、まず場面ごとの簡単な説明(箱書き)を僕に模造紙に書かせ、それを旅館の畳敷きの広間にずらっと並べる。俯瞰しながら「このシーン、いらないよ」「こっちとこっちを差し換えて」と、順番をかえていく。実際に脚本に取りかかるときには、最後の場面まで(構成が)完璧にできあがっていた。
これは今流行りのデザイン思考のシナリオライティング版である。さすがだ。

僕の愛読本のひとつに彼の『複眼の映像』(文藝春秋)がある。この週末にまたページを開きたい。



2018年7月18日

頭のがいいのか悪いのか

アイスボックスに入れるための保冷剤を買おうとアマゾンのサイトを開いた。検索ウィンドウに冷蔵庫&保冷剤と入れたが、該当する商品はないという表示が出た。
さっきペットフードを買ったままになっていたからだ。商品のカテゴリーをホーム&キッチンに変更して再検索。
今度は探している商品が現れたが、比較的最初の方にペット用のネッククーラーが出てきた。さっきの検索が影響しているのだろう。アマゾンのAIが気を利かせてくれたのだろうが・・・。

こんな感じだ。

2018年7月16日

京都で茹で上がる

週末を使い、祇園祭で沸く京都へ行ってきた。宵々々山と宵々山である。


 
巡行を待つ鉾や山をひと通り見て回ったが、宵々々山の日、気温が観測史上最高の38.5度を記録した。まさにうだるような京の夏である。


四条通りを中心にどの通りも人がいっぱいで、行く手を阻まれる。中央にロープを張り、通行方向をひとつにすることで混雑を緩和しようとしてるが、それでもなかなか前に進めない。

次の日は、龍谷ミュージアムを訪ねるために地下鉄で隣の五条駅へ。するとどうだ、まるでガラガラである。東本願寺と西本願寺のあたりもひっそりとしている。ミュージアムも人が少なくゆっくりと観覧ができたのはよかった。




京都の知り合いが言っていたが、京都のまちなかには最近では観光客を相手にしたカプセルホテルや民泊的な簡易ホテルが多数できているとか。安く旅することが一概に悪いわけではないが、そうした安宿に泊まる客は、24時間営業のスーパーで弁当を買ってきて食事を済ませ、土産物はドラッグストアや100均で購入すると半ば嘆いていた。



今年の山鉾巡行の2番目は(一番目は長刀鉾に決まっている)蟷螂山だ。山車の下では「かまきりおみくじ」を引く人たちの長い列が。僕も並んでみた。素朴なカラクリが楽しい。






2018年7月14日

デザインが懐かしい

阪急京都線・河原町駅のホームで見かけたレトロな水飲み場。一緒にいた京都在住の友人は、「水を飲んでる人なんか見たことない」らしいが。


2018年7月12日

さて、ここに何ヵ国の学生がいるでしょう?

先週のMarketing Managementの授業後、教室で記念写真を撮る機会があった。


写っているのは、数人の日本人学生と留学生たち。国籍を数えてみたら・・・アルゼンチン、エジプト、フランス、ブラジル、スペイン、ネパール、ルーマニア、タイ、台湾、パラグアイ、USA、ボリビア、中国、ロシア、フィリピン、シンガポール、コロンビア、インドネシアと、日本人を入れて20ヵ国だった。
 

2018年7月7日

日本の教育を歪めているのはやっぱり文科省だな、こりゃ

東京医科大学の理事長と学長が辞任した。 文部科学省の局長が同大学に息子を裏口入学させ、受託収賄容疑で逮捕された事件の当事者だった2人だ。

年間3千数百万円の補助金を得るために、東京医科大学のふたりは同大の社会的な評価とブランドを地の底まで引きずり降ろしてしまった。(高い買い物になったな)
そもそもこの予算、「私立大学研究ブランディング事業」というらしいが、何のことかわからない。残念ながらブランドの何たるかなど全く理解をしていない、そういう意味でおバカな役人が気の利いた(と自分たちで思っている)ネーミングで助成制度を作ったわけだ。
年間3000万円の金額自体はそれほど大した額とは言えない。しかし金額の少なさ故に、それを与える対象大学の数は多い(昨年度は私立大学60校)。ということは、全国の他の多くの大学でもこうしたケースが十分考えられる。
今回の逮捕のケースは、何がきっかけで表沙汰になったのか、私が知る限りでは公表されていない。こうした事が新聞ネタになるということは、内部告発だろう。たまたまそうした悪事を世間に公表しなければと考えた同大学内の関係者がいたから、メディアと世間が知ることになった。
このように内部の関係者が警告を鳴らすケースは、日本では稀有である。ということはこれまでも、そして今現在もこれに類することが日本国中の様々な大学やそれに類する機関でなされてると考えても不思議ではない。
金額を比較的低く抑える代わりに、助成金をばらまく対象数を増やす。それはとりもなおさず、文部科学省の役人たちがそこそこの要求をつきつける機会を、それだけ多数手の内に確保してるということにほかならない。
息子を医学部に裏口入学させるという手口は、ほんの一例に過ぎない。それ以外にも役人が大学とつるんでさまざまな悪事や不正を働き、さまざまな便益を得ている事は容易に想像できる。
それらの原資は、すべて我々国民の税金だ。その配分権を手にしてるというだけで、役人らは何でもやり放題である。そろそろこうした悪行が平気でなされる不可思議なシステムそのものを変えていってもらわなくては。

心あるジャーナリストと政治家の出番のはずだ。

2018年7月1日

地震と古書の売却

先日の大阪北部を中心とする地震。関西の大学で勤務する友人の研究室で、本棚の本が雪崩のように崩れ床に拡がったと聞いた。

人ごとではない。東京だって地震はいつあってもおかしくはない。政府の地震調査委員会の報告だと、今後30年間の間に震度6以上の地震が発生する確率はますます高まっている。

東京都庁のあたりで46%、横浜市庁舎で78%だという。新宿区ではなく東京都庁、横浜市中区ではなく横浜市庁舎というのが、なんとなくその精度を感じさせる。


そうした思いで見ると、その地震予想確率で色分けされた地図は戦慄さえ与えるものに思える。

なぜか預金残高は増えてはいかないが、本は毎週毎週、研究室でも自宅でも増えていく。置き場に困り、本棚に詰め込んでいく。震度6の地震がきたら、一発だ。書棚の本が崩壊し部屋を埋めることになるのは明らか。

で、どうするか。①捨てるか、②人に譲るか、③どこかに寄付するか、④古本として売るか。①は最後の方法。②は手間がかかる。③も相手を探して交渉するのに手間がかかる。ということは、比較的簡単なのは古書として売ってしまうこと。

ネットでいくつか業者を調べた。試しに「もったいない本舗」という中古書籍買い取り業者に、本が28冊入った段ボールを送料受取人払いでひとつ送った。

すぐにメールで買い取り査定価格の連絡がきた。全部で520円! こちらがOKすれば、その金額が振り込まれ、すべては終了。納得できなければ、それらの本を料金受取人払いで返送してくれる。

金額がおかしいと思ったので返送させた。着払いで支払った宅配便料金は1200円。

次に中身そのままで箱だけ替えて、今度は「あおば堂」という同様の中古書籍買い取り業者に料金受取人払いで送った。

今度は査定に4、5日かかったが、査定金額は5,460円とのこと。「もったいない本舗」の10倍以上の査定額だったので買い取りを了承した。

それにしても同業者で、同一内容(書籍)、同一条件でなぜこれほど査定金額に差があるのか疑問は残ったままだ。

2018年6月19日

混乱は夜まで続いた

昨日、大阪府の北部を震源とする地震があった。最大震度、6弱。

高槻市内では、倒れてきた学校の塀の下敷きで少女が亡くなった。そのことはとても残念だが、今回の地震ではビルや橋など建造物の倒壊や大規模なインフラの寸断はなかった。そう言う意味で、我々は今回の地震を来たるべき大地震の予行演習と考えるべきだ。

用事があり、昨日から岡山に来ていた。朝の散歩を終え、何時の新幹線で東京へ帰ろうかと考えてた矢先の地震だった。

心配したのは、新幹線が止まること。そしてその心配通り、新幹線が上下線で「運転見合わせ」ということですべて止まった。いつ運行が再開するか、ニュースをじっと注視していたがまったくその気配はない。

状況が分からないので、駅まで行って現場で状況を確認して行動することにした。しかし、駅構内に行っても何もわからない。運行表示はブランクのまま。アナウンスも断続的で的を得ていない。

ネットで予約しようとしても、指定席の予約がシステムで入らないようになっている。運行スケジュールが立たないからだ。

大阪では夜になっても電車の運行が再開されず、多くの人たちが歩いて帰宅に向かったらしい。

鉄道会社では地震などがあった際には、職員が線路を巡回し、目視で安全を確認しないと運行の再開ができない規則になっている。安全運行の目的のもとでの決まりだろうが、何とかして欲しい。

線路の具合を走行しながら調べる調査用車両をすばやく走らせるとかできると思う。できるけど、やらない。お陰で、利用客が大変な目にあう。日本のお客は真面目で黙って我慢する。

僕はと言えば、その後JR東海のアプリで新幹線の予約が取れたので、スマホを片手に改札に向かった。けれど、駅員によればグリーン車両を除くすべての車両は自由席で運行されているとか。

まあいいや、とホームへのエスカレータを昇ってから、僕がJR東海のアプリでさっき予約した新幹線はそもそも運行されないことが判明。

次に来た新大阪止まりの新幹線を見送り、その次の東京行きに乗り込んだ。間引き運転のうえ、各駅停車で、しかも低速走行である。

新神戸を過ぎた後、車掌がやってきて、僕が座っているあたりには新大阪から団体の予約が入っているのでどいてくれと言う。さっき乗車した駅では普通車両はすべて自由席だといっていたのだが。しかも、僕は運行されなかった当日の新幹線の指定席券を持っている。

そうした説明をしたが、彼女は「ダブルブッキングなんです」とだけ言い残して、自分は次の新大阪で仕事が終わるからと立ち去った。

しかし新幹線は、次の停車駅である新大阪で新幹線が2台待っているため入構できないとかで、30分ほど駅の手前で停車してしまった。しかも、通常ならある車内販売は行われていないので、飲み物を買うことすらできない。

とにかく昨日を振り返って感じたのは、JRという組織は情報の流れがすごく悪いということ。客と接する現場には若い駅員が出されて、説明できるだけの情報や指示も与えられないまま、ただただ立ち往生している。可哀相に。管理職は奥に隠れたままで、客がいるところには出てこない。

改札とホームと新幹線の車内で、それぞれ駅員のいうことがバラバラだった。JRの職員というのは、何もないときは決められたことをきちんとやれるのだろうが、普段とは異なる何かが起こった有事の際の対応の体たらくには怒りを越えて情けなくなり、利用者として心底心配になった。

今回は鉄道網に物理的な損傷がなかったが、地震などの災害で実際に線路が寸断されたりしたら、我々はいったいどうすればいいのか考えておく必要はある。

それはとりもなおさず、いつになったら運行が再開されるのかも分からず、知らされず、ただ疲れをためるのではなく、その時にどうやって他の移動手段をさっさと確保できるように頭と体を動かす準備をしておかなければ。

2018年6月15日

「多様化」をもっと多様な視点で理解する必要がある

今朝の新聞の記事。視覚障がい者を対象にした調査で、彼らのなんと6割以上が飲食店で補助犬を連れて入店するのを断られた経験があると言う。

法律によって店舗などで補助犬(盲導犬、聴導犬、介助犬)を断ることは禁止されたが、記事ではそれが徹底されておらず、そのためにこうしたことが発生してると述べている。

法律が制定されたことが関係者に知られていないこともあるだろうが、基本的にそれ以前の問題。つまり、飲食店で働く人の意識の問題だ。

世を挙げて、やれ多様性だダイバーシティーだと言われながら、身体に障害のある人たちに対するまなざしは未だに冷ややかであり、時に差別的であったりするのは変わりがない。女性を管理職に登用することだけが社会の多様性ではない。そうした問題の矮小化がとても気になる。

今さらながら、いろんな人が世の中にはいるという、しごく当たり前のことにもっと意識を向けることから始める必要性を感じる。

2018年6月11日

今日は新聞全休日

今日は朝刊の配達がなかった。朝日も毎日も読売も産経も日経も・・・。見事な横並びだ。

新聞を休刊するのはその新聞社の勝手だが、読者無視の業界内申し合わせは止めてはどうか。

休刊日が新聞社ごとに異なっていれば、いつも自分が読んでいる新聞の休刊日には普段は手に取ることのない他紙を駅の売店やコンビニで手に取るかもしれない。

きっとそれは何かのきっかけになる。それを契機に複数紙を読み比べるようになったり、購読紙を変えてみることにもつながる。読者にとっては新たな視野を獲得するチャンスだ。

新聞社は、そうした一般紙内での購読者の移動が起こらないようにまったく同一の休刊日を設定している。専売所の店員に休暇を与えるためというのが彼らの言い分なのだろうが、それは半分でしかない。

スポーツ紙は休刊日なくちゃんと(?)新聞を発行している。一般紙はいつになったら、顧客の視点で自分たちのビジネスを考えるようになるのだろう。永遠に休刊する前に経営者たちが気がつけばよいけどね。

2018年6月10日

犬ヶ島

「犬ヶ島」は、「グランド・ブタペスト・ホテル」を作ったウェス・アンダーソンによるストップモーション・アニメ映画の傑作だ。


ストップモーション・アニメーションは、その名の通り、人形など制止している物体をひとつひとつコマ撮りして製作するアニメーションである。膨大な時間がかかるのことは、容易に想像できる。その一方で、有りモノの俳優やキャラクターに拠らない自由な発想と造形でストーリーを流していくことができる。

この映画、見れば分かるが妙なバイアスがいっぱいかかっている。日本人の観客にはうれしいバイアスだけど。

まず舞台が日本。メガ崎市という街がひとつの舞台。そして、昭和の時代をもとにした近未来での出来事。黒澤明の映画のモチーフがたくさん登場する。人(犬)物構成もそうだし、早坂文雄が作曲した「七人の侍」の音楽はそのまま用いられている。

アンダーソンは黒澤だけでなく、沈黙の使い方や自然の描き方などについて宮崎駿からも多大に影響を受けているらしい。 沈黙のなか、アップの犬の表情が映る。その毛が風に揺れる。確かに宮崎映画を彷彿とさせるシーンがたくさん出てくる。さらには、本多猪四郎の東宝特撮怪獣映画からの影響も見て取れる。

ヨーコ・オノという名の科学者助手の声は、あのオノ・ヨーコが。全編を通じて登場する通訳者ネルソンという女性の声が、あの「スリー・ビルボード」のフランシス・マクドーマンドだとは最後まで気がつかなかったけど。


2018年6月9日

社会や家族から捨てられた人たちの物語

映画「万引き家族」の舞台は、林立するマンションの谷間にぽつんと残された古びた一軒家である。そこに集まり、また拾われてきて暮らすようになった5人+ひとりが主人公である。


この映画は、すでに死亡している親の年金を、遺族たちが黙ったまま不正に受給し続けていたという事件から是枝監督が着想したという。新聞社のデータベースで検索してみると、そうした事件は2010年の夏頃から報道され始めている。
当時、非倫理的だとか様々な批判がなされたが、なぜそういった事件が起こったのか、また続けられてきたかについての深い考察はほとんど聞くことはなかった。ただ、けしからん、悪い事やってる、と言った報道しかなされていなかったように記憶している。誰も深く知ろうとしなかった。
是枝は、そうした小さな事件(といっていい)と世の中にはびこっているもっと大きな社会的犯罪との差、そしてそれらの報道にまつわる違和感や居心地の悪さから発想をスタートしたのだ。
是枝監督には「そして父になる」という映画があったが、今回の映画はその延長にあるものだと思う。どちらもリリー・フランキーが主演だ。タイトルは「万引き家族」だが、「そして家族になる」というタイトルでもいいくらいだ。
ほとんど血のつながらない連中が、擬似的に家族を構成し、そこでお互いを家族だと思って生きている。これははたして家族か家族ではないのか。家族とは何なのか、そんなことを深く考えさせられる映画だ。 

彼らは社会の谷間の中で、周りとさほどつながることなく生きている。しかし考えてみれば彼らの近くのマンションの住人たちだって、同じように社会とそれほど深くつながらないままに生きているである。そういう意味で、彼らはわれわれ一般の日本人の一つの縮図かもしれない。

拾われてきて、この「家族」と一緒に暮らすようになった少女がいい。「フロリダ・プロジェクト」の少女もよかった。どちらも監督の技が光る。


2018年5月27日

フロリダの光と影

冒頭からいささか気色の悪いショットで映画は始まり、そのまま気分が乗らないままだ映画のストーリーは流れていく。

「フロリダ・プロジェクト」は、アメリカ、フロリダのディズニーランドのその塀の向こうの世界を描いた映画である。そこにはディズニーランドを訪れる客のための安いモーテルが林立し、アパートを借りることのできない貧しい連中が宿泊料週払いで住んでいる。

シングルマザーの家庭も多い。アメリカ社会の縮図というわけか。白人もいれば黒人もいるし、ヒスパニックもいる。今回の映画の主人公たちともいえる悪ガキらもそれぞれ白人、ヒスパニック、そして黒人の子供たちである。

冒頭から見ていてあまり心地良くないシーンが続いて、何度も観るのをやめようかと思いつつも最後まで踏みとどまり、やっと最後の最後の30秒の展開ですっと救われた気がした。はっきり言ってそれほど気の利いたシーンというわけでもないのだが、それまでが酷かった。

この映画で、脚本・監督のショーン・ベーカーが描いたのは今のアメリカ社会の一面。豊かで華やかなそのイメージの裏にある、人々の暮らしの現実である。その日暮らしの若いシングルマザーとその6歳になる娘が話の中心だが、それは決して特異な存在というわけではない。

アメリカには、フロリダにとどまらず全土にそうしたその日暮らしの貧しい家族らがいるはずだし、またそれはアメリカに限った話でもない。日本にも数多くこうした若く貧しいシングルマザーとその子供の家族もたくさんいることだろう。

ただ、この映画を見て思ったのは、アメリカ人のこうした底辺にうごめく人たちのアナーキーなまでのパワフルさ、身勝手で自己主張が強くあまりにも自己中心的なその姿の異様さである。そこには社会性や合理性は感じられない。ただ自分を守りたい、自分さえ良ければいいという、そうした野放図な利己心があるだけだ。

その凄まじいパワーというか、執念を感じさせるほど身勝手な主張を繰り返す強さには負けてしまう。日本ではこうはいかないだろう。だれもがそここそ社会性を持ち、常識で生きている日本人にはこうした強さはない。はたしてそれがいいのか悪いのか、この映画を観ていてわからなくなった。

子役たち(どれもすばらしい)を始め、無名の役者たちが多かったこの映画の中で、唯一僕が知っていたのは舞台となっている安モーテルの支配人を務めるウィリアム・デフォーだ。これまでエキセントリックな役柄が多かった彼が、随分と落ちついた常識的な人物像をきっちりと演じている。

その彼の落ち着いた役割と演技が、この映画の最大の清涼剤とも言えるものだったことは間違いがない。彼の役柄がなければ、僕はこの映画の途中でとっとと映画館を後にしていたことだろう。

この映画の上映の前に、是枝裕和監督の「万引き家族」の予告編があった。高層マンションの谷間に立つ平屋に住む家族を描いたこの作品とフロリダ・プロジェクトは見事に繋がっている(「万引き家族」はまだ未公開だけど)。

表からは見えない、だけどしっかりそこに息づき生きている人たちや家族の存在を観るものに突きつけ、深く考えさせる。
 

2018年5月8日

ルール遵守という思考停止

パナソニックが、社員のジーンズとスニーカーでの出勤を認めることにしたという記事を目にした。津賀社長がチノパンで出勤しているという写真付きである。

あらためて、パナソニックはジーンズやスニーカーでの出勤は禁止されていたんだと知って驚いた。パナソニックほどの大企業だから詳細な服装規程があって、そのなかではっきりダメとされていたのだろう。

単なる服装と言えばそれまでだが、これまで誰もそうしたルールに異議を唱えてこなかったのか(そういう人はいたが、それにましてルールが強固だったのかもしれない)。服装に関する規則など勝手に無視して、ジーンズでも短パンでも好きな格好で出勤し仕事をするような連中はいなかったのか。

もちろんビジネスマン(ウーマン)だから、客先を訪問する際や改まった席がある日にはスーツ姿が適切なことは言を俟たない。だが、社内で仕事をしている分には、周りに不潔感を感じさせたり、不快な気分を抱かせない限り何でもいいだろう。

生まれつき髪の毛の色が茶色い女子中学生が、学校の教師から執拗に髪を黒く染めることを強要され、あげくは「染めるか、(学校を)辞めるか」と迫られた。髪を毛染め薬で何度も染めることで頭皮や皮膚がただれ、親が学校に対して説明したが「ルールはルールだから」と聞き入れられなかったいう話を思い出した。

ルールを振りかざす人たちは、往々にして権力志向と安定志向が強い。それによって守られて生きてきた人たちにとっては、どんな意味のないルールも貴重な防御壁なのだ。一方で、無用にそうしたルールで苦しめられている人たちがいるのも事実。

みんなにとってそれが必要だからルールが作られるのではなく、たいていは一部の連中が自分たちにとって「やりやすいように」やるために先にルールを作る。

私たちは、子供のころから学校で規則を守ることが大切だと繰り返しすり込まれている。誰のため、何のため、という基本的な問いは置かれたままだ。ルールはルールだからみんなきちんと守ること、みんな一緒、人と違ったことをしちゃダメ・・・。

こうした教育と社会通念が日本人と現在の日本という国を形作っている。アメリカなど海外から思いもよらなかったような発想が事業として登場し大きく成長している。

今ごろスーツをジーンズに着替えたからと言って、周回遅れの差が縮まるかどうか・・・。

2018年4月3日

買いたくても買えない

最近、これほど何かを欲しいと思ったことはない。ソニーのaiboだ。
今回でその販売は何回目かになるようだが、今日4月3日の夜8時からソニーのサイトでaiboが発売になった。電話やソニーの店舗では買うことはできない。ネットでのみの販売だ。
夜8時からの販売開始に合わせて、パソコンを立ち上げ準備をし、指慣らし肩慣らしをして午後8時の時報とともに所定のサイトにアクセスを試みる。しかしアクセスが殺到しているのだろう。一向につながらない。 
何度も試みるが、だめだ。40分くらいか、数えくれないくらいの回数やってみるが、「ただいま混雑をしています」という表示で受け付けてはくれない。というか、つながらない。そしてそのまま、9時前に「完売しました」という表示が出た。
 悔しいの一言である。aiboは、本体だけで20万を超える。それに、所定のメンテナンスサービスをつけると全部で30万円をゆうに超える買い物である。それにもかかわらず日本国中から、いや場合によっては世界中からのアクセスが殺到したのに違いない。
いまどきこんな商品があるんだなと、ふとわれに返った。欲しいものが欲しい、などと言われて久しいが、こうやって人の購買意欲をここまでかき立てる商品だって、まだ企業が作ることができるのだ。
考えてみれば、やっとこソニーはかつてのソニーらしい会社に戻ったということの証明かもしれない。もしもの話をしてもしょうがないが、2000年代から2010年代にかけてソニーの経営を率いていたイギリス人社長がリストラや間違った改革さえ行わなければ、ソニーはここまで長い間、ビジネスにおいても人々からの愛着においても回復に時間を要することはなかった。