2026-04-21

『西洋のレッスン、日本の手習い』

樋口桂子『西洋のレッスン、日本の手習い』(青土社)がすこぶる面白かった。

副題に「言語化しにくい身体感覚をめぐる比較文化論」とあり、確かに本書では西洋(特に米国とフランス)と日本の比較文化論的な議論がなされてるのだが、著者は必ずしも比較文化論を専門とする研究者ではないみたいで、研究者データベース上には美学、芸術論が専門分野とされている。

が、この本を読む限り、著者の守備範囲はずいぶん広く、古代ギリシャ哲学から言語学、語彙論、文法論、古典文学、現代思想などの領域にまで話は展開する。

ただ、乱暴ながら、もし一言で本書のエッセンスをいうなら「レトリック」ということになるのだろう。和洋にわたる博識をベースに、記述はまさにレトリカルに踊っている。

著者がチェロを先生について習い始めたのがきっかけで(少なくとも本の展開の上では)、レッスンを受けると言うことを、その身体性と言語、そしてそれらから感知する感覚を西洋と日本の双方の文脈を辿りながら解釈、説明している。

専門家なんだから当然と言ってしまえばそうだが、普段気づかず、気づこうともせず使っている言葉が孕む意味世界を文法とその言語の発達歴史に則って分かりやすく述べる手練は見事。

とくに本書のなかの説明で印象的だったのは、日本語の擬音語、擬態語の豊かさと清々しいほどのイマジネーションの拡がりだ。息を吐くときの「はあっ」と「ふぅ」の違いなど、ふだん何気なく使っている(何気なく使っているのが正常なのだが)日本語の持つ身体性と込められた意味世界の奥深さに感嘆した。

2026-04-17

システムの進化とスポンジ化する人間

「「スポンジ人間」化を回避せよ」と題した面白い論考を新聞で読んだ。

マーゴット・カミンスキーの「責任スポンジ」の概念をもとに、進化するAIの下す意思決定の責任、あるいはツケをいかに人間が代わりに負わされているかについて説かれていた。

例えば、そのひとつの例が自動運転システムである。自動運転システムを開発している自動車会社の基本的なポリシーでは、緊急時にはAIが自動運転を停止し、人間の運転者に操縦を委ねるとしている。
 
だが、実際に自動運転で発生した多くの事件を振り返ってみると、実際の事故の1秒前に自動操縦が停止されている。しかし人間が、その1秒の間にハンドルを握ることで事故を回避するのは現実的ではない。にもかかわらず、最終的な事故の責任の所在は人間に委ねられている(スポンジのように責任だけを吸わされている)。

ベースにある考え方は、AIが行うことは正確でめったなことでは間違いが起こらないというもの。だが、間違いはたまさかであろうが発生する。そうした場合、中身がブラックボックスのAIに対して責任を求めることができず、その代わりと言ってはなんだが、人間に責任を負わせることで決着をつけようとする考えがある。

スポンジ化を回避せよ、と言う筆者は、そうした理由として4点を挙げている。まず、人間はAIによる評価(意思決定)を過剰に信頼してしまうということ。人は、そうした認知バイアスを持っている。2点目は、人間がAIの評価の妥当性を批判的に吟味する能力そのものを失ってしまう(スキルフェード)という点。3点目は、外部的プレッシャーで、AIが下した評価から逸脱する人による判断が周囲から不審な行為とみなされるだけではなく、その逸脱についてなぜなのか重い説明責任が求められる点。そして4点目は、AIが下した判断について人間が介入していくことが時間的コストを投じているとして否定的に捉えられていることである。

いずれもなるほどと納得してしまうポイントではあるが、その根本にあるのは認知的な負荷を避けて楽をしようとする人間の本性にあるように思う。

AIの支援を受けた大腸内視鏡医による腺腫検出率は、そうでない時に比べて明らかに低下したという調査結果がある。認知オフロードと呼ばれている、認知的役務を放棄してしまう傾向がもたらしたと考えられる。つまり人間はAIに頼ることができることで、AIを容易に信用して倚りかかってしまい、そのためにAIに飲み込まれてしまう。

ここまでAIを例に述べてきたが、これはAIに限らず、すべての機械的システムに対して言えることではないか。多くの現代人のなかには機械信仰とでも言うか、機械やシステムがつくり出す事(アウトプット)は、人間がやったことよりもはるかに完全であり、間違いがないに違いないといった思い込みがあるように思う。

そして高度化されたシステムはその中身がブラックボックスであるがために、人がなぜそういう結果に至ったのかを理解するためのアルゴリズムを完全に把握することが不可能な現実がある。

これまでビジネススクールで修士論文の審査を数多く行ってきたが、振り返って思うに、論文作成の目的で定量的な調査を行い、それを統計ソフトで処理した論文を書いた学生たちの多くは、ソフトウェアによってアウトプットされた分析結果をそのまま、それが神の声とでもあるかのように信用して論文の結論を導いていた。

そもそもデータ収集のための被験者特性の是非やサンプリングのやり方自体が決して科学的ではないにもかかわらず、アンケート調査などで最終的にある一定数の回答数が得られたと言うだけで安心し、後はそれをソフトウェアに分析させ、そこに何か真実が浮かび上がったと勘違いをしているわけだ。それらのプロセスを詳細に吟味し検討する認知的負荷を端から諦めてる、いや放棄している。

そうした学生がビジネスの世界に戻り、例えばリサーチ会社があげてきた消費者調査の結果をもとにマーケティング戦略などを立案する際、こうした学生はいとも簡単にリサーチ会社のレポートにミスリードされ、結果として間違った戦略を実行するんだろうなと、つねづね不安に思っていた。

システムといったものは、およそ人間が使って、自分たちに役立たせるためのものであり、それが独立して存在し、勝手に何か真実を解き残してくれるものではない。

つねに人がその根本のところをチェックし、批判的に検討しなければ、まさに人間は最終的な結果責任だけを取らされる悲しい「スポンジ人間」になってしまう。これはAIが急速に普及してきた今、あらたに登場してきた問題ではなく、システムと言うものを人間が使い始めた当初からずっとそこに存在している問題なのである。

システムを安易に信用しないこと、そしてやはり生身の人間としての労を惜しまないことも大切と改めて考える。

2026-04-16

東海林さだおさんが死去

東海林さだおさんが亡くなった。88歳。さえない、もてない、仕事に身が入らないサラリーマンを主人公にすえた漫画を長年週刊誌各誌に連載していた。どれも40年以上なんて長丁場の仕事だったのがすごい。

食べ物をめぐるエッセーなんかも彼が書くと絵のない漫画で、その独特の言語感覚に気持ちをくすぐられ思わずにんまりしてしまうことが多かった。ひょっとしたら、読者層の広さの点では漫画よりエッセーの方がまさっていたのではないかナ。 

またそうしたエッセーとはちょっと毛色のちがう『超優良企業さだお商事』(東洋経済)は、プロの仕事師がどうあるべきかを教えてくれる。若いビジネスマンには、世に跋扈するコンサルもどきが書いたデタラメビジネス本なんかより、よっぽど役に立つ。


そういえば、先月亡くなったつげ義春さんも同じく88歳だった。どちらも、他に類を見ない唯一独自の漫画を長年にわたり見せてくれた独創的な表現者だった。

昨年9月にはさいとうたかをさんも亡くなってしまった。

2026-04-15

機内持ち込みを禁止にする前に

昨年一月、韓国の釜山空港で航空機が炎上した。その原因として、モバイルバッテリーが出火元だった可能性が指摘された。

そうしたこともあってか、国土交通省が旅客機に持ち込めるモバイルバッテリーに規制をかけることにした。持ち込みは一人2個までで、充電は禁止。スマホやラップトップへのモバイルバッテリーによる機内での充電はしないよう要請するという。

確かに発火リスクがあるのなら、しょうがない。ぼくだって機内で火だるまになったり、機体もろとも墜落はしたくない。

だが規制に先だって政府にはやってほしいことがある。これまで発生したモバイルバッテリーの発火事故について、その原因になった製品のメーカー名とモデルを発表してほしい。

最近ではほとんど聞くことはないが、もし家電製品が何らかの理由で発火する事故があれば、必ずその製品のメーカー名やブランド名が発表され、メディアで広く公表される。

ところが今回の肝心のモバイルバッテリーはどのメーカーのどういった(どのくらいの容量の)ものかなど一切公表されていない。

実は昨日、iPhoneのバッテリーを新しくした。6年ほど前に買った機種で、バッテリーの最大容量が80%を切っていたので交換と相成った。

iPhoneのバッテリー交換は自分ではできないから、業者に頼むことになる。依頼先の候補は3つで、アップルとその正規プロバイダーの店、次にアップル製品の修理を専門としていて各地に店舗展開している専門業者、それと個人かそれに近い形の運営元が営業する修理ブティックである。

近くに2番目のタイプの店があったので、そこでやっちゃおうと持ち込んだのだが、店のお兄ちゃんからバッテリー交換で「問題が発生しても文句言いません」のような書類にサインを求められ、止めた。

結局、アップルからライセンスを受けている正規プロバイダーの店で先の店より7割以上のプレミアムを支払って交換してもらったのであるが、その際、いろいろとスマホのバッテリーについて専門スタッフから教えてもらったおかげでリチウム電池について知識が得られた。

さてそこで、機内への持ち込み制限がかかることになった先のモバイルバッテリーだが、モバイルバッテリーが一様にリスキーな訳ではないと考えている。

スマホの電池もモバイルバッテリーも、どちらもリチウム電池(Li-ion)だ。リチウムイオン電池が発火のおそれがあるなら、ノートPCも機内に持ち込めないことにならないか。だが、そうはなっていない。なぜならその発生確率はゼロではないが、極めて低いから。

リチウム電池の性能(この場合は特に安全性能)を決定する最大の要因は安全確保のための回路がきちんと組み込まれているか、次にリチウム電池のセルの品質だ。

つまり、モバイルバッテリーがもとから危険なのではなく、安全対策を施していない粗悪品が火を噴くのである。

であれば、一律に禁止することは得策ではなく、危険なメーカーやブランドを公表して利用者に注意を促す方が機内持ち込みに限らず安全性を担保する面からメリットが大きい。

ノーブランドの粗悪品に比べて価格は高いが、しっかりしたメーカーが安全対策をちゃんとほどこした設計と機構を組み込んだモバイルバッテリーが現にあるのだから。

発火などの事故を起こした製品のメーカー名をしっかり特定し、それらを公表することが疎かになったままになっている。

旅客機内への持ち込みや使用を一律に禁止する前に、やることをやってほしいものである。  

2026-04-12

現在公開中のジェシー・バックリー主演のもう一作

『ハムネット』で主演したジェシー・バックリーがこちらも主演しているということで『ザ・ブライド』を観に劇場へ。

彼女の役柄は、あのフランケンシュタインの花嫁(ザ・ブライド)である。フランケン同様に、彼女も墓から掘り起こされてアネット・ベニングが演じる医師によってモンスターとして再生する。設定は1930年代のシカゴ。 

フランケンシュタインを演じているのはクリスチャン・ベールで、その「怪物」2人はひょんな事から警察に追われることになり、クルマで逃走する。最後は警察の銃弾を浴びて絶命するのだが、このあたりはウォーレン・ベイティとフェイ・ダナウェイの『俺たちに明日はない』を連想。

これまで制作されてきたフランケンシュタインの映画にオマージュを捧げながらも、単なるホラーではなく、場面場面にユーモアも含みながら展開するゴシック・パンクである。

偶然だろうが、バックリーは『ハムネット』で始終赤いドレスを身につけていたが、この映画でも彼女の衣装は赤いドレス。『ハムネット』での赤が愛と情熱の象徴なら、『ザ・ブライド』での赤は血と反逆か。 

続編が計画されているのかどうか知らないが、ラストはそれを思わせるものだった。 

2026-04-10

シェークスピアの妻を描いた『ハムネット』

シェイクスピアの名は誰でも知っているが、その実際の人物像や生涯には謎が多い。謎が謎を呼び、世界中でこれまでも数多くの創作の素になってきた。さらにその実体が不明なのが、彼の家族についてである。

年上の妻だったアン・ハサウェイはどんな女性だったのか。彼らの息子が少年期になくなったのは何が原因だったのか、今も不明なままだ。 それでいながら、シェイクスピアの妻は後生、ずっと悪女としてこき下ろされてきた(ソクラテスの妻、クサンチッペと同様に)。

映画『ハムネット』は、その女性を主人公にすえ、シェイクスピアの戯曲『ハムレット』と11歳でなくなった2人の息子ハムネットを想像力で結んでいる。

本作品の主人公のアグネスを演じるジェシー・バックリーが実にすばらしい。圧巻の迫力と演技力である。劇中の彼女は鷹を操り、種々の野草のもつ効果について詳しい知識を持ち、自然そのものと交感する力を持っている。そうした原始的な強さと魔性を持つ女性を自然とこなしている。

 
自然のなかで自己の精神を守り続けていく女性は、本作品の監督であるクロエ・ジャオが2021年に制作した『ノマドランド』でフランシス・マクドーマンドが演じた主人公も同様だった。 
https://tatsukimura.blogspot.com/2021/04/blog-post.html

原作小説を書いたマギー・オファーレンとクロエ・ジャオの共同脚本による本作品は、悪女として扱われてきたシェークスピアの妻を「再生」させ、謎に包まれた夫婦の関係を息子の死を中核にしながら、2人の出会いと相克、そして喪失と再生を想像力豊かに作り上げた。

終盤、ロンドンのグローブ座で劇中劇として『ハムレット』が上演される。当時は椅子などなく観客は全員立ち見で観劇しているのだが、その最前列で夫の作品を観るアグネスがその芝居によって「再生」されていく様がなんとも感動的に描かれていた。なるほどこれならアカデミー主演女優賞を受賞したのも当然と納得した。

観客は予想と違って男性が7割! そして、その7割は僕より年上の人たちだった。 

2026-04-09

「街の声」はニュースか

某国営放送の夜のニュース。

現在、米国とイランの停戦を巡る交渉が世界的に注目されているわけだが、そのニュースのなかで女性キャスターが、「この件に関しての街の声を紹介します」といって街頭インタビューのビデオが流れはじめた。

50代らしきどこかの一般男性が局のレポーターからマイクを突きつけられ、このままだとガソリン価格がどこまで上がるか分からないとか、他の物価への影響も不安だとか話している。

何だ、これは。この発言のどこにニュース価値があるのか。たまたま近くで見つけて、マイクを向けて、それらしく話をしてくれたおじさんがいただけのことと違うのか。

こうした無意味な街角インタビューがこの局は好きらしいが、<報道とは何か>についてこの局の番組制作者たちは考えた方がいい。 

2026-04-06

SNSはなぜクソまみれなのか

端的に言って、SNSはクソだと思っている。

ネット上での誹謗中傷に関して寄せられた相談件数が過去最多を記録した。

そりゃそうだろう、ネット空間は増大し続けているなか、発信者のモラルは低下する一方なんだから。兵庫県知事選に際して発生したあまたの問題を思い返せば明らか。

人の意識は容易には変わらないことを考えれば、まずは制度や仕組みを変えることで対応していくしかない。

オーストラリアやフランス、米国のいくつかの州では既にSNS利用の年齢制限を法で設け、SNS利用の運営企業には利用者の年齢確認を義務化している。その他、デンマーク、スペイン、ドイツ、ギリシャ、フィンランド、ポルトガルで議論が進んでいて、だいたい15歳を利用制限年齢に設定するという方向で進んでいる。日本での実質的な利用者年齢についての規制はない。

2020年、フジテレビ制作の番組がきっかけで、女子プロレスラーの木村花さんが視聴者から大量の中傷誹謗を受け自殺した。その後、中傷投稿への対応をSNSの運営企業に義務づける情報流通プラットフォーム対処法が2025年にやっとできた。

だが、それには予防的な効果は期待できず、いくらかの事後的処理のための制度でしかない情けなさ。だって企業の対応はまちまちだし、腰は引けてるし、強制力はないし。役所がやってる振りを見せるための腑抜け規制と言われても仕方ない。

最大の問題は、誹謗中傷投稿の発信者を被害者が特定するのに極めて骨が折れること。時間がかかるし、問題解決に働きかけるのにも信じられないほどの手間がかかる。

日本では未だにそうした現状に対して鋭角的に切り込まない理由として、「表現の自由」が取りだたされている。

だが、考えてみればすぐ分かると思うのだけど、匿名での発言に「表現の自由」もないはず。誰が言ってるのか分からず、今では人間が発信しているのかどうかすら分からないのだから。

プラットフォーム企業が「発言の自由」を振りかざしてこれらの問題を放置しつづけているのは、ネット上の情報流通が多ければ多いほど彼らにとって儲けになるからに過ぎない。単純な話だ。

欧州のデジタルサービス法(DSA)は、利用者保護の観点からプラットフォーム企業にSNS規制をしっかりかけている。罰金もとる。違反企業の前年度の全世界での売上高の最大6%まで課す。

日本はそれに比較するとまるで何も規制していないに等しいのだ。間違いなく国の不作為である。

だからネット上の中傷誹謗についての相談件数がうなぎ登りになるだけでなく、泣き寝入りも後を絶たない状況が続いている。

冒頭、SNSはクソと書いたが、クソなのはSNSというシステムではなく、匿名でしか発言ができない奴と、発生している問題へ真剣に対峙しない当局の担当者がクソなのだ。 

2026-04-05

映画「金子文子 何が私をこうさせたか」

今日は朝から雨。花見でもなかろうと、朝食後は近くの京都シネマに行く。ここは昔からセレクションがユニークで、大手の興行会社が運営する劇場ではかからない作品を見せてくれる。

選んだのは「金子文子 何が私をこうさせたか」。彼女は1903年に生まれたが、親が出生届を出さず、壮絶な虐待を受けて育つ(朝鮮半島で彼女を奴隷のように扱う鬼祖母を吉行和子さんが演じており、吉行の遺作になった)。虚無主義者、無政府主義者として生き、23歳で獄中で縊死する。

 

彼女が死んでちょうど100年。100年前の日本でこうした女性が生き、闘い、抗い、死んでいった。投獄されたのは冤罪だった。天皇や天皇制を批判したことで「官」から目をつけられぶち込まれたわけだ。

映画は、彼女が残した手記にある短歌をもとに脚本が書かれ制作された。映画の中でそれらのいくつかが紹介されるが、すばらしい。深い才能を感じる。

彼女は短歌以外にも膨大な量の書き物を残したが、当時の官憲がそれらが世の中に出ることを怖れて短歌を除いて処分してしまった。

この時期、他にも才気溢れる反骨の女性たちが国家権力によって殺されている。菅野スガが1911年に29歳で死刑に、伊藤野枝は1923年、28歳の時に特高によって虐殺された。

受難の時代だ。今はどうだ?

2026-04-04

ライトアップの祇園枝垂桜

八坂神社の東、円山公園には約800本の染井吉野や山桜などが咲き揃う。

が、そのなかでも円山公園の中央、10メートル以上の樹高を持つ1本の祇園枝垂桜(ぎおんしだれざくら)はひときわ見事である。今がまさに満開。 

夜にはライトアップで薄紅色を闇に浮かべる姿は息を呑むような空間をつくりだし、周囲に焚かれたかがり火と合わせて夢幻の世界へと訪れた者をいざなっている。

2026-04-02

AIについての軍事利用も教育利用もベースは同じ

ニュース番組でAIの軍事利用が急速に進んでいる話題が取り上げられていた。

思い出すのは、イスラエルによるパレスチナ・ガザ地域への攻撃で嫌というほど見せられた、モニター上で建造物や施設、車両などが自動で照準を合わされ、あっという間にミサイルで爆破される例の映像だ。 

AIが何を攻撃するかを決定し、実際に攻撃し、その評価まで行うのに要する時間はほんの数分。人が介在し、その攻撃の適正さなどを判断する時間はすでになくなっている。

つまり、AIが勝手になんでも攻撃を進めているのが既に現実なのである。具体的な手順は、以下の画面に写っている6つのプロセスだ。 
 

NHK『国際報道』

よく見てみると、これらの6ステップはAIによる自律的な攻撃だけのことではなく、AIを用いた他のジョブにもしっかり当てはまる。

最近では、ほとんどの学生が課題の作成に関して、程度の差はあれこそAIを利用しているという。そして、AIに卒業論文や修士論文の手伝い(作成)をさせる際の流れもほとんど同様に思える。

修士論文を作成するように学生に命じられたAIは、まず①指定の分野においてリサーチ・クエスチョンを探し(Find)、②その学生の修論として使えそうなトピックを特定し(Fix)、③周辺領域の先行研究を集め(Track)、④参考文献として利用できそうな記事を選定し(Target)、⑤それらをベースに論文本体を執筆(Engage)、最後に⑥研究の限界をまとめる(Assess)といった具合だ。 

また番組では、進歩するAIの軍事利用のなかで、もっともその利用が懸念され、また課題となっているものとしてLAWS(Lethal Autonomous Weapons Systems 自律型致死兵器システム)が紹介されていた。

これは差し詰め、学生たちに当てはめれば、LAWS(Longing Autonomous Writing Systems 自立型渇望的文章作成システム)といったところか。これさえあれば、レポートはもちろん、卒論でも修論でもあっという間にできちゃう。


だからこそ、軍事面においても大学での学習面においても倫理について考えておくことが重要になる。ただ単に、「便利なツールなんだから使わない手はない、上手に使おう!」で済ませていてはダメなのである。

その番組の最後でまとめ的に取り上げられていたのが「自動化バイアス」だった。これもまた、というか、戦場においての軍事利用よりも大学などの教育機関においてこそ注意しなければならないポイントである。


自分自身、生成AIを日々使っていて感じるのは、AIは実にうまく「もっともらしい」答えを出してくるなという驚き。決して分からないとか、知らないと匙を投げたりしない。必ずそれなり(に見える)回答を、それも自信満々にひねり出してくる。 

そうしたとき、出てきた答えを見て違和感を感じたら自分でそれを深掘りして調べてみる。と、そうした時はAIのアウトプットはたいてい間違っている。実際は、まだその程度なのだ。

だが、もし急いでいたり、そうした手間を惜しんだり、端から盲目的にAIが吐き出す回答を疑わない習慣になっていたら当然ながら間違いにも気づかないままに終わる。

そこが、まさに自動化バイアスの罠である。