2023年4月30日

「週朝」休刊から広告のあり方を考える

「週刊朝日」が5月いっぱいで休刊になる。廃刊ではなく休刊と言っているのは望みを残しているということだろうか。ぼくは同誌については特集によって年に数回購入する程度だったけれど、いざなくなるとなると寂しい気がする。

今、多くの雑誌がその部数を落としている。新聞も同様だ。書籍も売れなくなっている。活字離れとか以前から言われているが、こと情報モノに関してはそうではない。ネットで読むようになっただけである。活字は読まれている。

それにしても「週朝」は、日本で最も長い歴史を持つ総合週刊誌で、創刊が1922年(101年前!)。その雑誌がなくなるのには、ちょっとした時代の転換感がある。発行のピークは1950年代で、当時の発行部数は150万部を超えていたらしいが、それが今は7万部代にまで減少していた。

編集長の渡部薫さんという方の発案で、終末を迎える雑誌のYouTubeチャンネルが開設された。このまま消え去るのが悔しいのか、会社の上層部へのうさ晴らしなのかわからないが、いなくなる前に自分たちの存在を残しておきたいのだろう。

 
「休刊の真実」と銘打ったクリップの中で、編集長は休刊に至った最大の理由として広告が入らなくなったことを強調している。広告が取れない雑誌は制作を続けるのが難しい。「暮らしの手帖」なんかは、きわめて特殊な例だ。

雑誌が売れるかどうかは読者次第だが、広告媒体としての価値は広告主である企業と広告代理店が決定する。もちろんその判断基準には発行部数があるから両者は切り離せないところはあるけど、広告部門はもっと頑張れなかったのか。

10年以上前になるが、ニューヨークで暮らしていたとき、現地で雑誌を5、6誌ほど定期購読していた。マンハッタンのど真ん中に住んでいたので外に一歩出れば雑誌はすぐに手に入ったが、定期購読は価格が圧倒的に安かったからだ。

年間購読なら送られてくる雑誌一冊当たりの価格は定価の10〜20%。定期購読者で安定して発行部数を確保し、広告収入で稼ごうという考えだ。日本でも低廉な価格が適用される第三種郵便物という制度があるが、そうした幾ばくかの変動費さえまかなえればそれでよし、という購読料金設定がなされていたのだと思う。 

企業の広告費の使い道がかつてのマス媒体からネットに移っているわけだが、ネット広告って企業のマーケティングに実際に役に立っているのだろうか。ネットユーザー<1人ひとり>の嗜好やこれまでの購入歴に合わせて商品を提示できるというけど、ただ鬱陶しいだけ、そして目障り。ネット上のほとんどの広告は「表現」にすらなってない。目をそらせたくなるモノばかり。

広告会社など関係している連中は表現をどう作り、どう見せるかをちゃんと考えるべきだろう。それができないなら、すべてA.I.にやらせた方がいい。無料でニュースページを見せているからといって、これ以上不愉快にさせられてはたまらない。

2023年4月28日

1年間、わずか1000円の贅沢

沢野ひとしさんに倣い、ぼくも毎朝10分の時間を区切り身の回りの片付けをすることにした。10分しかやらないのが秘訣。 

この際の片付けとは、あるものをあるべき場所に戻してやること、もしくはなくしてしまうこと。できれば後者で行きたいと思いながらの10分である。

ものを捨てるのは難しい。これは世界中で古来から思われていることに違いない。つまり、人間の性(さが)に強く根付いている。断捨離や、片付けに人生のときめきという表現が使われるのもそのためである。

身の回りがすっきりと片付いていた方がいいと思うか、雑然としていた方が落ち着くかは人それぞれ。どっちでもいいが、身の回りにどんなものがあって、それが必要かどうかくらいは分かっていた方がいい。だから、普段目が行かない本棚の棚にある書籍などを引き抜いてみる。

本の間に挟まれて岩波書店の『図書』が出てきた。表紙をめくると沢木耕太郎のコラムとその号の目次があらわれた。きら星のような書き手がならんでいる。

定期購読のための払込み用紙が挟み込まれており、購読料は送料込みで1年間1000円。これって、ずいぶん昔から変わってないように思う。確実に赤字のはずだ。

そういえば先日、ある取引銀行が今後、取引明細書の送付を有料にすると言ってきた。「紙の使用を減らし、環境への負荷をなくすため」など相変わらず子供だましの理屈を書いていて、今後は毎月220円の手数料がかかるそう。こちらは年間2640円。

2023年4月22日

これも利用者サービスのひとつ

最寄りの駅に東急線が乗り入れ、渋谷方面に出るのが幾分楽になった。乗換なしで勤務先まで行けるようになったのは助かる。

それに合わせて、東横線沿線のいくつかの駅を以前より利用するようになり、その1つが沿線のある駅ビルの中の図書館だ。先日、図書カードを作るために立ち寄った。

カウンターで手続きをしているぼくの脇に女性が何人かならんでいる。みな、手には本を抱えている。彼女らの先にあったのは「除菌BOX」と書かれた金属製の箱だ。


この銀色の箱で除菌するらしい。図書館の本は誰が使ったか分からず、どんな菌がついているか分からないからだろう。

だがそこまで気にするかどうかだナ。図書館の本に限らず、書店の棚にある本だって誰が触ったか分からない。神経質になって気にし始めればキリがない。

ただ利用したい人は結構いるようで、そうした利用客からのリクエストでおそらくは設置されたんだろう。新型コロナの影響が大きいかもしれない。

ぼくは本をわざわざ除菌ボックスに入れる気はないが、せっかくだから何か入れたくなった。よく「人は金槌を手にすると、釘を探す」なんて言うが、それに近い。自分の頭を突っこんで除菌してもらおうかとアホなことを一瞬考えたが、扉が閉まらなければ除菌はできない。

そうだ、財布を入れてみようかーーやってみようとしたら、すぐそこにいた図書館スタッフに止められた。

2023年4月21日

立つ鳥は何を残すか

新学期が始まって3週間ほどが過ぎた。

民間企業などでは定年を迎えた人はその年齢に達した月に退職していくが、大学の場合は定年を迎えた年の年度末、つまり3月で退職になる。

その月になると退職していく教授の研究室が空き室となり、部屋に掲げてあったネームプレートが取り外される。 

昨年度、退職したある教授が自分の研究室にあった本を部屋の外に山積みにして去って行った。同僚や学生に、好きな本があったらどうぞ、という考えだったのだろう。積み上げられた古色蒼然とした本の山は傾き、いまにも倒れそうだった。そのままでどうするのかと思っていたらひと月ほどして、たぶん大学の指示でだろう、校舎の清掃担当部署が一気に片付けてしまった。

その人がやってきた研究テーマをそのままそっくり引き継いで研究をするというのでもなければ、研究古書をもらおうという人は今はいない。ただ清掃担当者らが余計な仕事をさせられて終わった。

この3月に退職したある元教授は、いまも研究室の外に山のように資料を積み上げたままにしている。いずれ片付けるのだろうが、「しばらく置かせておいてくれ」と言ってるらしい。見苦しさが山積みにされている。

これが企業などであれば、退職日を過ぎてオフィスに残っている私物はさっさと処分されておわりだ。

一方で、いつの間にか(おそらく休日などを利用して)研究室をすべて片付けて風のように去って行く人もいる。それが当たり前のことなんだろうけど、大学にいるとそうした人に人間としてのいさぎよさを人一倍感じる。

2023年4月18日

大阪でさっそく出たよ、インチキが

大阪へのカジノ誘致を目的に制作されたPR動画に、奈良美智さんの作品が無断で使われていたことが明らかになった。どこかの広告会社が請け負って制作したんだろうが、お粗末極まりない。

東京オリンピック、パラリンピックの話題が出始めた頃、五輪のシンボルマークの採用図案で盗用が明らかになった騒ぎを思い出す。

当事者の奈良さんは、以下のように自分の考えを表明している。

大きな犬の自作イメージが出てくるのだが、使用を許可したこともない、というか許可自体を求められたこともない。(中略)カジノとか、自分は基本的に好きではないです。

大阪府と市の担当者は記者会見で頭を下げたが、世界的な芸術家の作品を勝手に利用して著作権侵害を起こしているわけで、謝れば済むという話ではないだろう。

 
奈良の作品だけでなく、村上隆の作品もPR動画に無断で利用されていた可能性が高い。もしそうだとしたら、彼から損害賠償請求がでるかもしれないナ。

2023年4月16日

カジノができるらしいが

政府が、大阪府と大阪市が申請したIR(カジノを中心とする統合型リゾート)の計画を認定した。

この施設は2029年の開業が予定されており、大阪湾の人口島に建設される。初期投資だけで1兆円を越えるカネが投入されるらしく、関係者はウハウハだ。

計画によると、来場者数は年間2,000万人、売上高5,200億円(そのうち4200億円がカジノ)と表明されている。関西エリアの経済効果は年間1兆1,000億円、雇用創出は9万3,000人、大阪府と大阪市へ運営者から年間1,060億円の税金が見込まれるとか。

やけに話としては景気がいいが、当然、首をひねってしまう。

まず、年間2,000万人もの客をどうやって大阪の埋め立て地に呼び込めるのか。これから日本は人口が減少していく。かつてのような経済成長の勢いももうない。

好況期の1983年にオープンしたあの東京ディズニー・ランドですら、年間2,000万人の来場者を実現するのに20年かかった。2001年に隣接する地にディズニー・シーをオープンして、やっと年間来園者2,000万人を越えている。https://www.olc.co.jp/ja/tdr/guest.html

子どもからお年寄りまで年齢や性別を問わず来場者を集めることができ、ブランドとして超最強な「ディズニー」ですら20年かかったのである。大阪の埋め立て地のカジノへ、どう計算すれば年2,000万人が集まるようになるのか。中国人観光客だのみだとしても、常識的な推計を越えている。

開業後の経済効果が年1.1兆円あるとしているのもハッタリ、眉唾だと言っておこう。大阪府と市は、その計算式を明らかにし、きちんと説明することが必要だ。

捕らぬ狸の何とかで計画を認め、蓋を開けてみるとやっぱり思ったようには行かず、かといって止めに止められず、最後の最後、破綻して国民に多大な犠牲と負担をかけるようになるのではないのか。

どこかで見た風景が甦ってくる。

2023年4月14日

社長が持つべき知性と矜恃

汚職、談合など不祥事にまみれた先の東京オリンピックでは、数々の贈収賄事件が表に出た。そのひとつ、広告会社のADK元社長の公判が東京地裁で行われた。

スポンサー集めに困り、電通の元社員だった五輪大会組織委員会高橋元理事に賄賂を渡し、「助けてください」などと懇願した件である。

ADK元社長は検察に金の受け渡しを認めたうえで、金銭提供については「法律知識がまったくなかった」からと説明した。

社長が逮捕されたADKの社員らは複雑な思いでいることだろう。会社のお偉いさんが逮捕されたという事実にもまして、その人物が法律知識をまったく持っていないと述べたり、競合する広告代理店の出身者に「助けてください」と泣きついた男だという事実について情けないやら、いたたまれないに違いない。

この業界、どうしてこんなに劣化してしまったのだろうか。

かと思うと、同日、大阪万博の起工式が行われ、そこで岸田総理や西村経産相が会場予定地で「くわ入れの儀式」(!)を行った。

「セレモニーには公式キャラクターも登場して会場を盛り上げた」と報道されていたが、それにしてもキミョーなキャラクターだ。

そのうちまた、この万博でもキャラクター選定やらパビリオン設定、セレモニー運営で贈収賄を含む不祥事が出てくるんじゃないか。

2023年4月4日

坂本龍一と満月

丸一日、坂本龍一の音楽を聞きながら仕事をしていた。

手元にあった『新潮』に掲載されていた、彼の連載(インタビュー記事をもとに構成)「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」をあらためて読むと、坂本の脱原発(NO NUKES)への思いが筋金入りで並々ならぬものだったことが伝わってくる。

彼は見ることができなかったけど、明後日4月6日は今年にはいって4度目の満月である。今日は十三夜、雲がなく空が晴れていたのでベランダから夜空にカメラを向けてみた。

F8、1/250、ISO100で撮影

2023年4月3日

なぜ今も入社式を行うのか、という疑問

日本の経営の特性、あるいは日本企業の硬直化を示す概念として、年功序列、終身雇用とならんで新卒一括採用があげられる。

同質化した社員がみんなで一緒に、同じ仕事を同じようにやることが組織のパフォーマンスをあげることにつながった高度経済成長期の製造業モデルである。

学校を卒業した学生が実社会に入る最初の儀式が、入社式。そこからスタートして、彼ら彼女らは年功序列や終身雇用、男性優位といった、すでにその合理性に綻びが出ている社内規範に組み込まれていく。

今日、多くの企業で入社式が行われた。報道でそうした写真を見たが、ほとんどはこれまで通りのいわゆる入社式である。新入社員の服装は、昔から変わらぬ紺色スーツ。社長らのスピーチも代わり映えしない。日本の「ザ・入社式」は不滅のようだ。

社長が若い人たちを一同に集め、壇上から「おれが社長」「おれが雇用主」「この会社はこういう会社」「お前らはその構成員」と喋りたいことから儀式としての入社式は始まった。ただそれだけである。

「多様性を尊重した職場で、個性を大いに生かして活躍して欲しい」とある大手電機メーカーの社長が壇上から挨拶しているのを見ても、多様性や個性がその会社で本当に尊重されているとはどうも思えない。

小学校、中学校、高校、大学と入学式が行われているから、その次は会社の入社式という日本的なひとつの惰性のなかの習慣である。たしかに学校は6、3、3、4という区切りがあり、ひとつのステージとして成立している。しかし、会社は違う。定年まで40年間そこにいる人もいれば、半年後には転職している人もいるだろう。 

4月に入社した新卒と呼ばれる若者だけを対象にそうした儀式が行われるのも、考えてみればヘンではないか。新卒とか中途とかの境は設けない方がいいとぼくは思っている。同じ組織のなかで仕事をしているのは変わらないのだから。また非正規で働く人たちは、ここでも完全に透明化されている。

入社式は「社長が直接、社員に語りかける貴重な機会だから」や「同期の結びつき、結束を固めるためのよい機会」「人生の節目としてたいせつ」などという言葉が返ってきそうだけど、どれも勘違い。社長は入社式じゃなくてもつねに社員に考えを伝える必要がある。社長ならば、その手段はいくらでももっているはずだ。

同期の結束というのは、本人たちにとってはひとつの安全弁かもしれないが、年功序列意識を構成するベースになっている気がする。

入社の際のセレモニーが人生の節目と考えるかどうかは個人の考えであり、それが好ましいと思う人は家族や友人とプライベートで祝えばよい。

そもそも諸外国では、学校ですら入学式自体がない。オリエンテーションが行われ、続いて授業が始まるだけ。その代わり、卒業式は盛大に祝う。なぜなら、卒業はひとつのAchievement(達成)を示すからだ。それに対して、入学はただのスタート。お祝いする理由がない。

入社式で社長が入社してきた人に向かってうやうやしく「新入社員の皆さん、入社おめでとうございます」などと挨拶するのは本来はヘンなのだ。

あなたの周りにはいないだろうか。いつからそこにいるか本人以外誰も憶えておらず、もちろん入社式も歓迎会もなくそこで働き始め、いまではあなたの部署で欠かせない仕事をしてくれている、実は派遣や任期付きの契約で働いている人たちが。

2023年4月2日

JAPROCKSAMPLER

英国から小包が来た。送付元名はWorld of Booksとある。英国にある書店のようだけど、本を注文した覚えはない。

宛名はぼく宛で間違いないので開封してみると、Julian Copeの"JAPROCKSAMPLER"という本が入っていた。この著者についてぼくは聞いたことがない。本のタイトルも初見だ。


本は1960年と70年代を中心とする日本のロック史をまとめたもので、内容は随分と個性的な視点と論調ではあるが、マニアックかつ総括的な目配りが利いていてその精度に驚いた。

おそらく英国の友人Pからのものだろうと踏んで、「届いた」とだけ連絡したら、無事届いてよかったと返信があった。彼はぼくとほぼ同年代。国は違えど、ロックを聞いて育ってきたのは同じ。

ジュリアン・コープは1957年生まれの英国のロック・ミュージシャン。メインストリームを走ってきたミュージシャンではなく(もしそうであれば知ってる)、かなりエキセントリックな音楽をずーとやってきている人物のようだ。

それはそうと、そうした英国のロック・ミュージシャンが、よくもまあというくらい日本の、それも60年代から70年代にかけて、つまり彼が10代の頃のファーイーストの国のロックをこれだけ調べたもんだと感心至極である。

本の巻末にAuthor's Top 50が掲載されていて、これがユニークで面白い。トップ50アルバムなんだけど、1〜3位はFlower Travellin' BandのSATORI、Speed, Glue $ ShinkiのEVE、Les Rallizes DenudesのHeavier Than a Death in the Familyがあげられている。

そのほか特徴的なところでは、天井桟敷のJ. A. シーザーや佐藤雅彦のアルバムがそれぞれ複数枚取り上げられている一方で、はっぴいえんどやYMOは1枚も入っていないことか。(ところで今、ウィキペディアのYMOの欄を見たら、そこには既に坂本龍一が「71歳没」と記されていた!)


 
英国人の目から(耳から)すると、はっぴいえんどやYMOはロックの範疇には入らなかったということだろう。確かにそれはそうだ。

2023年4月1日

猿が人間になるとき

「全国子ども電話相談室」という、長年続いたTBSのラジオ番組があった。

ずいぶん昔のことだが、たまたまラジオをつけるとその番組が流れてきて、その日の質問は小学生の少女からのものだった。

「人間は、もともとは猿だったんですよね。いま、私の家で猿を飼っているんですけど、いつまでたっても人間にならないんです」というのが彼女の悩み(相談内容)だった。

まるで村上春樹の小説にでも出てきそうな素敵な相談だ。

猿といえば、立憲民主党の小西議員による「サル発言」である。彼が衆院憲法審査会について、「毎週開催ってサルのやることだ」と発言した件だ。

各党から発言の撤回や謝罪を求める意見が相次ぎ、小西氏は30日、「不快な思いをされた方々にはおわびしたい」と陳謝した。

参院憲法審の幹事懇談会後、記者団に対して話した先の発言だが、もう少し正確に引用すると「(参院憲法審では)毎週開催はやりたくない。毎週開催ってサルのやることだ。憲法を真面目に議論しようと思ったら毎週開催なんかできない」と言ったらしい。

また、週1回の開催が定着している衆院憲法審について「何も考えていない人たちだ。蛮族の行為だ。衆院なんて誰かが書いている原稿を読んでいるだけだ」とも語った。

それに対して党の内外から「侮辱」だとの多くの反発の声が上がり、日本維新の会幹部は「誠実に議論している人をサルに例えるとは、憲法を議論する資格がない。立民は厳しく処分すべきだ」と語ったらしい。その後、小西は党によって更迭された。

だが日本維新がいう「誠実に議論している」とは、いったいどういう状態を指しているのだろう。上っ面の言葉だけに聞こえるし、そういった人たちを猿と例えるのが、なぜにそれほどまでに問題になるのか。笑ってすませばいいだけだろう。

ぼくも小西氏の言うように、憲法について政治家が毎週毎週議論をするということが実質的な議論として成立するとは考えられない。審査会事務局(つまり役人)のシナリオのもとで表向きだけ飾る操り人形と化すだけである。

それは猿回しの猿のことを指す。

永田町の猿は、いつ人間になるのか。