先週末、書棚を片付けていた際に見つけた一冊が『2020年からの警鐘 〜日本が消える〜』(日本経済新聞社)という古い本である。
処分する本を選んでいたのだが、つい手に取ってしまい、そうすると読みたくなるもので(いつものことなのだが)読み始めてしまった。同書の内容は、日経で連載していた特集記事がもとになっている。時期は1997年。橋本龍太郎が首相の頃だ。
眼を通して驚いた。そこに何か目新しいこと書かれていたからではない。内容のほとんどは既知のことばかり。驚いたのは、25年前にそこで問題として書かれたことが、見事にそのまま今も解決されないで残っていることである。
人口減少、経済成長率の低下、自然環境の悪化、エネルギー価格の上昇、労働力の不足、財政建て直しのために増す国民負担、日本社会の閉塞性、個人の格差ならびに地域格差の拡大、既得権益が妨げる日本の改革、リーダーの不在、調整型の政治のほころび、などなどである。
四半世紀前に、あらかたの診断はついていた。やるべきことは、具体的な解決策を策定して、責任者をはっきりさせ、期限を区切って実行することだった。そうすれば、間違いなく現在の日本の姿は今の実際のそれとは異なった(もっとマシな)ものになっていたはず。
問題が分かっていたのに、なぜ対応できなかったのか。改革しなければならない点が明らかだったのに、どうしてそのままで来てしまったのか。
クレイジーキャッツの植木等が「♪ 分かっちゃいるけど、やめられない ♪」とスーダラ節(青島幸男作詞)を歌い大ヒットしたのが1961年。今から60年前。
もうその頃から、あるいはそれ以前からずっと、日本人は分かっちゃいるけどやめられないままだったのがよく分かった。
いまこの国で皆してやっているのは、ゆで蛙の我慢くらべだ。