2021年2月26日

早咲きの桜

 

2月24日、水曜日。近くの小さな公園で見つけたピンク色。
風はまだまだ冷たいのに、もう桜が咲いていた。
春になったから桜が咲くのではなく、桜が咲いたら気分はもう春。


2021年2月23日

風と太陽と水の電力会社に変えた

まもなく、その後東日本大震災と名付けられることになる超巨大地震(マグニチュード9)と大津波に宮城県や福島県などの東北地域太平洋沿岸が襲われて10年の月日が経つ。

明らかに人災と判断される東京電力福島第1発電所の事故が日本国民を震撼させたとき、東電の経営者層が放った言い訳と言い逃れを忘れることはできない。

そうした不快な会社から電力供給を受けるのが嫌で、その後電力会社を変えた。だけどそこも、発電そのものは東京電力が行った電気を小売りしていることが分かった。

そこで今回、再生可能エネルギーを供給する電力会社に変えた。「顔の見える電力」を謳うみんな電力だ。

同社のサイトで電気料金のシミュレーションをやってみると、ちょうどこの時期は天候などの関係もあってか料金は月々数百円程度だが上がることが分かったが、東電に少しでも加担し続けるのはいやなので変更した。

そして以来、毎日翌日の日の出の時間を調べて、その時間に起きることでなるべく日中の電気を使わないようにする生活に変更しようとしている。そうやって生活のスタイルをちょっと変えることで、電気代の増加分くらい相殺してやろうじゃないかと思っている。なにより健康のためにもいいしね。

2021年2月22日

Radikoに「CMフリー」サービスがあればいいのに

Clubhouse の利用者が日本でも増えている。テキストの書き込みができない、音声のみ利用可能な真のチャットツールである。

その背景には、ズームなど画像を伴うコミュニケーションツールにない気楽さ、つまりカメラ画像がないのでどこにいても、どんな状態でも利用できるメリットと、テキストにはないライブ感のあるコミュニケーションを期待する利用者のニーズがあったのだろう。

僕をClubhouseに招待してくれた友人は、「クラブハウスって何」と問う僕に対して「おしゃべり中心でやっている、まあAMラジオの超ミニ版という感じですよ」と説明してくれた。以前ラジオ番組を持っていた僕のことを思い出して、そう説明してくれたのかも知れない。

ラジオと云えば、Radikoの利用者が増えているらしい。僕もほぼ毎日、ラジコでラジオ番組を聴いている。たいていは朝、歯を磨きながらだったり、掃除しながら、あるいは台所でコーヒーを入れながらなど、家の中をウロウロしながら手を動かしながらの「ながら聴取」だ。

自分の気に入ったいくつかの番組を主体的に選んで聞いているので、そもそも番組内容そのものには大きな不満はないのだが、途中ではさまれるCMが時折鬱陶しい。とりわけ、頻繁に流れる「過払い金取り戻します」という司法書士事務所のCMには辟易している。

生理的に合わないので、そのラジオCMが流れ始めると音声をオフにする。しばらくしてオンに戻すが、よく戻し忘れる。

そこで、聴取料を取る代わりにCMフリー(CMなし)で聴けるサービスを提供してくれないものかと思っている。

広告料収入が減る分は、リスナーの聴取データはすべて捕捉しているはずだからそれに合わせて各局に後で収益を配分すればいいだろう。

今ラジコで、聴取エリアにかかわらず全国の放送局が聴けるエリアフリーの利用料が350円。比較になるかどうか分からないが、WOWOWは視聴料2,300円で放送番組とオンデマンド配信のすべてを見られる。それらから考えると、僕は聴取料毎月1,000円ならラジコのCMフリーを歓迎したいと思っているがどうだろう。


2021年2月20日

いまだステレオタイプを抜け出せない日本の多様性論議

欧米や中国に比べて、日本の1部上場企業のトップは高齢化している。在任期間も短く、女性や外国人もほとんどいない。多様性がない。流れの激しい時代に、遅れをとりがちになるのはこういうところに要因があるのではないか。

これは、2月17日の衆院予算委員会でのある自民党議員の発言。

日本企業のトップが高齢化してるのは、おそらく事実なのだろう。それはそれとして、この官僚上がりの議員さんは、経営トップは若い方がいい、女性のほうが好ましい、そして外国人の方が優れていると思っているらしい。

しかしその理由は何も示されない。加えて、彼にとって多様性とは年齢、性別、国籍のことらしい。本来多様性には、そうした外形的なもの以外にも経験や発想や価値観など、目に見えないものもたくさんあるはずなのだがーー。この議員が考える多様性についての考え方には多様性が欠けているよね。

そもそものところ、日本経済の中心的な推進役ともいえる1部上場企業が米中の企業と比較してぱっとしないからと言って、その理由を経営トップの属性に安易に転嫁してはいないだろうか。

もしこの議員の言が正しければ、日本企業の再生など簡単だ。彼が指摘するところの1部上場企業の経営者を米国人、あるいは中国人の若い女性経営者に交替させて、しかも長期に渡りその経営を任せれば「問題は解決」となる。だが、実際はそんなことにはならないことくらい、子どもでも分かる。

レバノン人の経営者を招いて、一時V字回復とやらを実現した日本の自動車メーカーもあったが、今はその評価も分かれるところだ。

組織にとって多様性が必要とされるのは、それがそれぞれの目的を達成するための<手段>として役に立つからである。多様性自体を<目的>としていてはしょうがない。 
 
冒頭の自民党議員の指摘に、西村経済再生相は「大事なことは、経済界にこうした問題意識を共有してもらい、大きなムーブメントを起こしていくことだ」と答えたという。お願いだから、政治家がそんな余計な働きかけだけはしないでいて欲しい。

先日の東京五輪の組織委員会の委員長選定にあたって、ソウル五輪シンクロ銅メダリストでIOCマーケティング委員を務める田中ウルヴェ京さんが次のように語っていた。
後任は老若男女誰であろうと、なぜその人なのか説明できなければならない。「若い女性」という人選もステレオタイプ。会長の仕事内容に照らして必要な能力の基準を示し、誰がそれを満たすのかという判断をしてほしい。
達見である。
 

2021年2月17日

地上にどこにもない。だから「天国」

映画「天国にちがいない(It Must Be Heaven)」はパレスチナ人の監督、エリス・スレイマンが脚本・監督・主演した作品。


彼は、イスラエルのナザレ(イエス生誕の地)生まれのパレスチナ人。どういうことかと云えば、1948年に行われたユダヤ人によるイスラエル国家の設立宣言によって、パレスチナの土地にそれまで住んでいたアラブ人たちは、他の地へ逃げて難民となるか、その地にとどまることで「イスラエル人」となることを選ばされ、スレイマンは後者のひとりとして複雑な境遇で育った。

映画の主人公は、映画の出資者を探してイスラエルからパリ、ニューヨークと旅をする。どこでも彼が持ち込む映画の企画は断られてしまうのが、それは本映画の本筋とは関係ない(たぶん)。

イスラエルで、パリで、NYで、彼が目にするのは、さりげない風景でありそうで、パレスチナとイスラエルの関係を示すかのような奇妙な、そして時に不条理な風景である。

主人公の映画監督を演じるスレイマンは映画の中で始終黙ったまま。言葉を発するのは、「ナザレ」「私はパレスチナ人」という二言だけ。

言葉でなく、いくつものシーンで観る者にテーマを感じさせ、考えさせようとしている。それぞれの地で警官の集団が描かれる。そのモチーフが示すのは、理屈ではない権力の存在とその滑稽さ。その警官の集団は、パレスチナの地でのイスラエル人を現している。

警官と市民。警官と天使。そこにある対立にならない不釣り合いの権力の関係と構図。静かな、そして寡黙なユーモアとペーソス、そして深い哀しみを漂わせる作品だった。

2021年2月16日

<社会>と<世間>

劇作家で演出家の鴻上尚史は、こうした例で<社会>と<世間>の違いについて指摘している。それは、例えば駅の階段で大きな荷物を手に困っている老人がいても人は見て見ぬ振りをして通り過ぎるのは、そこは<社会>だから。一方、もしそれが自分の親しい人だと分かったら、誰もが声をかけ荷物を運ぶ手助けをする。なぜなら、それが<世間>だから。

分かりやすい喩えだが、だとすると<世間>とは身内の延長、インナーサークルと言い換えることができる。

その鴻上がブレイディみかこさんとNHKの番組で対談してたのを以前見たのだけど(その後対談は本にもなっている)、彼女の旦那さん(英国人)は困っている人がいるとすぐに自然に声をかけ、手助けしようとする。


その彼が日本に来た時、駅の階段で大きなスーツケースを抱えて困っている女性を見かけ、手助けしようとスーツケースを運びかけてビックリされ、叫び声まであげられたと語っていた。

彼は別に特殊なタイプの人ではなく、一般的な英国人だと思う。英国にいた時に見た風景なのだが、信号のない横断歩道で高齢の女性が道を渡れないで困っていた。すると、たまたまそこを通りかかったパンク野郎2人が道路に飛び出し、やって来るクルマに向かって両手を挙げて道を開いた。その後、彼女が歩道を渡りきるまで(腰の曲がったお婆ちゃんなので、ほんとうに時間がかかった)その姿勢でクルマを止めていた。

彼女が無事渡りきったのを確認すると、2人のパンクは何もなかったかのように立ち去っていった。もちろんドライバーらも状況が見えているので、黙ってブレーキを踏んでいる。間違っても誰もクラクションなど鳴らさないところに、日本を思い浮かべて英国人のゆとりを感じた記憶がある。

よく典型的な個人主義の街として語られるニューヨークですら(あるいはニューヨークだからか)、普段は周りに余計なことはしないが、必要とあれば誰にでも気軽に手助けをする人が多い。

こうした感覚は、自分(個人)が社会とつながっているという意識を持っているからだ。一方で、日本人は世間(知り合いなどの限られた身の回りの集団)とはつながりを感じてはいるが、社会全体との連帯感が極めて薄い傾向があるように思う。

僕は、正直言って日本が今でもいなかだなあと思う一番の理由はそこにあった。「旅の恥はかきすて」なんて言葉があるが、旅先などで周りにまったく無頓着で仲間うちだけで大声を出したり騒いでいる日本人を見るたびにいやな気持になったものだ。

個人ー世間ー社会(ー拡大された社会)と連続する関係で、世間の役割が小さくなることが真の近代化と考えていたふしがあった。

だけど、『すばらしい世界』を観た後、単純に<世間>を捨てる思考が必ずしもあたっていないように思うようになった。三上のように、自分でいかに努力しても制度化した今の<社会>から認められず、<世間>だけが生きるよすがとなる人生もなかにはあるのだから。

2021年2月14日

世界を『すばらしき世界』にするのは人だ

原作は1990年に刊行された佐木隆三の小説『身分帳』。本では人物の名前など変えられてはいるが、内容はノンフィクションらしい。

このストーリー、当時であれば今村昌平が監督をし、主人公に緒形拳をあてて映画化していたかもしれない。 

西川美和監督は時代を現代に移し、役所広司を元殺人犯で13年の刑期を終えて娑婆に出てきたばかりの男に据え、その彼に時に近く、時に距離を置きながら寄り添う人々と彼らの関係を描いた。

 

役所が演じる元殺人犯の三上は、よく言えば正義感が強くてバカ正直。しかも直情径行的に行動するから、「我慢することに慣れている社会」とは折り合えない。

彼は旭川の刑務所を刑期を終えて出てきて、身元引受人である弁護士(橋爪功)とその妻(梶芽衣子)の世話で都内の下町のアパートに住むことになる。福祉事務所のケースワーカー(北村有紀哉)の支援を受けながら人生の再出発を考えるが、前科者ということで思った仕事には就けない。いろんな苛立ちが募る。

元やくざ、殺人を犯した元犯罪人に社会の仕組みは冷たい。男がはぐれ者の道に入ったきっかけは、その出生によるところが大きい。九州で芸者の母親から生まれ、父親からは認知されず、そのまま5歳で母親からも離ればなれになって施設で育った。

そうした男が生きているためにやくざの道に入るのは、意外でもなんでもない。ある種、世の中の筋書き通りなのだが、すでにその時点でそうした人間は「一般社会」から受け入れられない存在となっている。

男は最後、外出先からアパートに戻ってきて倒れ、亡くなる。彼の持病は危険なレベルの高血圧だった。映画は、男が死ぬ間際にどのようなことを考えたのか、どんな表情だったのか、はたして何か呟いたのか、画面は何も見せない。

それだけに、観る者は人生の多くの時間を刑務所で過ごし、一般社会では普通の生活には溶け込めずはじき出されていた一人の人間が、どうその生を終えたのかは想像するしかない。

男は「社会」とはうまく付き合えなかったが、根が正直で一本筋が通っている(根はいい奴である)彼の周りには温かい理解者がいた。そこが彼にとっての唯一の「世間」だった。

僕たちは一般的に、社会とうまく折り合いを付けながら生きていくことを求められている。会社で勤務すること、学校に通うことなど、すべてにそれが求められる。

だが、なかには社会とそうした関係を結べない人たちもいる。世の中の規範に添えず、はじき出され、認めてもらえないために行き場を失い、自分を失っていくしかない人たちである。 

役所演じる三上は、その典型のひとり。過去を変えることができないゆえに、もうどうやっても「社会」に普通の形で身を置くことはできない。そこにあるのは、ある種の不条理である。

社会のルールに沿って日々を過ごしている我々は、旭川刑務所の刑務官が彼に諭した「我慢すること」を守り、また弁護士の妻が語った「私たちはいい加減に生きているの。自分をもっと大切に」の気持で生きることで、代わりに社会から守られている。

ただ、そうした何でもない処世術すら身につけられなくても、社会と折り合いが付けられなくても、少数でも親身に考えてくれる周りの人を得た彼にとってこの世界は「すばらしい世界」だった。

2021年2月8日

BBCよりBCC

横浜美術館が3月から大規模改装に入る。閉館に先立って愛知県美術館、富山県美術館と共同でトライアローグ展という名の20世紀の西洋美術を中心にした催しを行っている。

ピカソやミロ、クレー、ダリ、ポロック、マグリット、マティスなど多くに馴染みのある20世紀の西洋美術の有名作品が集められ、横浜を皮切りに、その後愛知と富山を回っていく展覧会である。シンプルなアイデアの優れた展覧会企画だと思う。 

コロナ禍での開催ということで入館は事前の予約制。現地に少し早く着いたのでその近くを散歩した後、コーヒーを飲むために美術館向かいのブルーボトルコーヒー(BBC)の店に入った。

店の雰囲気は明るくてなかなか良い。スターバックスと違うのは、店の中央のカウンターには数名のバリスタが陣取り、ハンドドリップでコーヒーを入れる様を客らに見せていることだ。 
 
出すのはサードウェーブと言われるアメリカ西海岸から生まれたコーヒーだが、そのコーヒーの入れ方は極めてオーソドックス。一杯ずつ豆を挽き、ペーパーフィルターを用いてハンドドリップでコーヒーを淹れる。
 
そうなのだが、友人と2人分のコーヒーができるのにやけに時間がかかった。とりたててそれほど混んでるわけではなかったにもかかわらず、スタッフの手際を見ていると、なんだか儀式めいた手順をご大層にやっているために余計な時間がかかっている。
 
種々の豆を扱っているわけもないのに、一杯ずつ豆を挽く。電動ミルだから挽く時間はあっという間だ。しかし、そのために一杯ずつの豆を機械に入れてセットしてスイッチを入れる。そうした手順があきらかにまどろっこしい。見ている客に、カップ一杯ずつそのために豆を挽いているよ、と見せるためなのはわかるが。これならまとめて挽いてもコーヒーの味には影響しない。
 
ペーパーフィルターを陶器のドリッパーにセットし、挽いたコーヒーを入れ、手でお湯を注ぎ、コーヒーをカップではなく透明のフラスコで受ける。そしてそれをカップに移す。どれも客に一連の作業を見せるためのもの。コーヒーそのものの本質から離れているのが気になる。
 
注文した2杯のコーヒーが出てくるまでに、店というかそのカウンターの前で待たされるわけであるが、僕たちが頼んだ2杯のコーヒーが仕上がるのに5分ほどはかかったろうか。5分くらい待てって? せっかちなもんでね。
 

まあそれはそうだろうと店頭でコーヒーを淹れているスタッフのやり方を見て、これなら僕が毎日淹れているコーヒーの方が確実にうまいはずだと思った。なにもマジックはない。うまいコーヒーを淹れるポイントはそんなに多くはない。 
 
新鮮でいい豆を買ってくる。別にコーヒー豆の専門である必要はない。ただ、店の豆がつねに新しいものであることがカギだ。買って来た豆は小分けにして、必ず冷蔵庫で保存する。僕はブリキの茶筒に分けて保存している。ブリキ缶コーヒー(BCC)だ。
 
そして、コーヒーを淹れる直前にミルで豆をゆっくりと手挽きする。以前は電動ミルを使っていた。しかしある時、手挽きのミルを手に入れたのを境に、しばらく両方飲み比べてみることにした。電動で挽いたコーヒーの粉は均質できれいだ。手動は手間がかかるうえ、粉の大きさが多少大小が混ざったりしている。 だが、その方がなぜか美味しい味わいのあるコーヒーが仕上がるから不思議だ。
 
あとはやかんでお湯を沸騰させたあと、注ぎ口が象の鼻のように細く長くなってるコーヒー用のケトルにお湯を入れかえてドリップする。
 
紅茶と違い、コーヒーにはカンカン沸騰してるお湯は使わないほうがいい。独特のアロマを引き出すためには少し温度を下げ、93℃ぐらいでドリップをするのがちょうどいい。やかんからコーヒーケトルに入れかえることで、お湯はこうした適温になる。
 
あとは、まずはコーヒーの粉を少量のお湯で20秒ほど蒸らしてから、鼻歌でも唄いながらゆっくりお湯を注ぐくらいだな。これらの手順(というほどのものではない)でやれば、一杯500円のブルーボトルコーヒーよりも美味しいコーヒーが自宅で作れる。
 
もちろん店で寛ぐのには、自宅とは違ったそれなりの気分が味わえる悦びがある。

2021年2月3日

「大局観や複眼的な考えの不在」と半藤一利さんが指摘したこと

今朝の新聞紙上、星野リゾートの社長が東京オリンピックは無観客であってもこの夏に実施すべきだとして、「(国内の)各都市を世界中の人たちにアピールする絶好の機会です。開催できたという実績は、観光面でも大きなメリットです。インバウンドの回復スピードも桁違いでしょう」と発言していた。

なぜそんな無責任なことが言えるのだろう。彼が言う「観光面でのメリット」というのは、自分のビジネスにつながるということだろうが、そのために国はさらに財政赤字を膨らませることは必至なのに。

オリンピック開催という「実績」が何を生んだか、試しに2000年以降の開催地がどこだったか振り返ってみよう(そもそもどれだけの人が開催地を正確に覚えているだろうか)。

2000年 オーストラリア・シドニー
2004年 ギリシャ・アテネ
2008年 中国・北京
2012年 英国・ロンドン
2016年 ブラジル・リオデジャネイロ

これらの国々がオリンピック開催地になったという理由で、その後、星野が言うようになったかと云えば、そんなことはない。もっとも近年に大会が開催されたブラジルにしても、オリンピックがリオデジャネイロで2016年に行われたからという理由で観光客がその後どれだけ増えたというのだろうか。

あるいは、一昨年に日本で大いに盛り上がったラグビーワールドカップ。2019年9月から11月にかけ、北は北海道から南は九州まで、国内12カ所で開催され世界中から多くのラグビーファンを集めた。が、今はどうだ。それらの地にラグビーワールドカップを理由に観光客が引き寄せられているか。答えはノーだ。コロナがなくてもたぶん同じだ。

パレードが過ぎ去った後に、祭り会場を訪ねる人はいない。

同日の同紙別面に、先日亡くなった半藤一利さんにふれたコラムが載っていて、そこで彼の『昭和史 1926ー1945』が紹介されていた。曰く、
最大の危機において日本人は抽象的な観念論を非常に好み、具体的な理性的な方法論をまったく検討しようとしないということです。自分にとって望ましい目標をまず設定し、実に上手な作文で壮大な空中楼閣を描くのが得意なんですね。物事は自分の希望するように動くと考えるのです。
根拠がないのに「大丈夫、勝てる」だの「大丈夫、アメリカは合意する」だのということを繰り返してきました。そして、その結果まずく行ったときの底知れぬ無責任です。
先の<大きなメリットがある>だの<桁違いのインバウンドの回復スピード>やらの希望的観測は、これらと何ら変わるものがない。先の大戦から80年という年月が流れ、われわれはもう少しは学習してきたと思っていたのだけど。

また、星野が語った「努力を重ねた選手たちに成果を披露する場を提供するのが、立候補した都市の本来の役割ではないでしょうか」という台詞は子供じみているとしか言えず呆れる。まさに半藤さんが指摘する「驕慢な無知」の典型のひとつである。