2019年12月31日

ゴーンの国外逃亡

暮れのニュースで印象的だったのは、なんといってもカルロス・ゴーンの日本からの逃亡である。いつの間にか国外に脱出し、到着したレバノンで「私は今レバノンにいる」と言う声明を出した。まるで映画の一幕のような話。

どうやって脱出したのか、その詳しい足取りは今現在詳細はわかっていないが、日本の関西の空港からプライベートジェットで出発しトルコに向かったとか、その後トルコからベイルートに入ったという話が日本のメディアではなく、ウォールストリート・ジャーナルやフィガロからの伝聞の形で日本のテレビで紹介されていた。

元々日本での出来事のはずなのに、日本のメディアは一体どうしてしまったのだろうか。年末の休みで機能していないかのように思える。だとすると、ゴーンらはそれもしっかり計算に入れてのプランだったと思ってしまう。

それにしても彼のパスポート、それも3冊(!)を日本の弁護士が保管していながらなぜ出国できたのだろう。そして他国に入国ができたのか。謎は深まる。

外国メディアの報道によると、ゴーンはフランスのパスポートを持ってレバノンに入ったという。ということは、弁護士に預けた以外にフランスのパスポートを持っていたのか、あるいはフランスのパスポートを偽造したということが考えられる。

いずれにしても法的に認められることではないことから、そのことが確認されれば何らかの手段で日本に引き戻しされて裁判を継続するようになるのだろう。

今回のことで指弾される事として、日本の司法制度の問題と出入国管理が挙げられる。またそれにとどまらず、日本のシステムが広く時代遅れであり、前近代的で現代にマッチしていないことを示す1つの象徴的な例として、今回のことが全世界に示されてしまった。司法制度しかり、政治しかり、経済しかりだ。

ガラパゴス化しているのはかつての日本メーカーの携帯電話の話だけではなく、日本という国そのものだった。世界の趨勢から外れていることを全世界に向けて発信することになってしまった。不幸というか、幸いというか。

2019年12月29日

ケン・ローチの新作は日本の将来を予見させる

カンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞した『わたしは、ダニエル・ブレイク』(2016年)などの秀作で知られるイギリスの監督ケン・ローチが、一旦映画界から引退したにもかかわらず、やむにやまれず取り組んで完成させた作品が『家族を想うとき』、原題はSorry We Missed You である。

  
舞台は英国のイングランド北東部に位置するニューカッスル。フランチャイズの宅配ドライバーとして独立をした一家の父親とパートタイムの介護福祉士として働くその妻アビー。彼らは2人の子供をもつ4人家族。
映画では、彼らが暮らす住居の玄関でのシーンがしばしば登場するが、そこはブレイディみかこが、『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社)の中で語っていた、家に入ってすぐのところの壁にコートや上着を掛けるフックが並んでいるという典型的な英国の労働者階級の住まいの作りである。
映画のなか、夫であるニッキーは「ゼロ時間契約」で働く独立宅配ドライバー。いくつかの仕事を経て就いた仕事だったが、彼は最初、それがどのようなものかよく理解してはいなかった。「勝つのも負けるのも、すべて自分次第だ」と言われ、人に雇われ命令されて働くのではなく、個人事業主あるいは一人親方のような自分の腕一本でかせげる仕事ーーーこれこそが自分が求めていた仕事ーーーと思ってしまった。
「契約」である以上、そこには契約関係がある。ここでの関係は雇用と被雇用で、ニッキーは被雇用者だ。しかもゼロ時間契約によって、雇用主は「仕事を提供できない期間が発生した場合においても、仕事および賃金を与える義務を負わない」という業務委託がなされている。
そこでの労働条件は過酷だ。働く者が怪我をしようが、身体を壊そうが、家族に何があろうが、仕事休むとその分の収入が途切れるだけではなく、会社に迷惑をかけたという理由で1日100ポンドのペナルティーが課せられる。
その一方で、病気をしようが怪我をしようが社会保障は何もない、まさに歪められた自己責任という奴だ。そんなシステムになかでニッキーとアビーの2人は人間的な時間をそぎ取られ、やがて4人家族の間で軋みが極限まで増していく姿は観ていて本当に辛い。
フリージャーナリストのジェームズ・ブラッドワースが企業の労働現場に潜入して書いたルポ『アマゾンの倉庫で絶望し、ウーバーのクルマで発狂した』(光文社)では、第1章:アマゾン、第2章:訪問介護、第3章:コールセンター、第4章:ウーバーが取り上げられている。

自らその職場に身を置き、そこでの実態を経験したブラッドワースが、理不尽で過酷で人を押しつぶしている再愛知賃金労働の仕事の現場を生き生きと描いてる。
想像するに、ケン・ローチは映画を製作するにあたってこの本を読んだに違いない。ニッキーの働く職場は、ブラッドワースの本の1章と4章が、そして訪問介護士として働く彼の妻アビーの仕事ぶりは、第2章で描かれた悲惨で気が滅入るような仕事環境そのものだから。
かつてはゆりかごから墓場までと言われた社会福祉の制度が隅々まで行き渡った英国が、今はまったくその見る影もない。きっかけは1970年代終わりからマーガレット・サッチャーが政権を握り、国の至る所に新自由主義的な競争原理を一気に持ち込んだこと。

そのことで多くの労働者階級が、その働く土台や拠って立つ労働組合、そして彼らの誇りや人としての自信といったものまで根こそぎ奪われ、叩き潰されていったという歴史的な背景がある。
今イギリスの労働者階級の仕事の多くは、企業から一方的に与えられたり奪われたりするもの、しかもその多くはポーランドやルーマニアといった東欧諸国からの移民あるいは出稼ぎ働者たちと簡単に首をすげ替えられる類になっている。
今回の英国での総選挙の結果、保守党が大きくその議員数を伸ばし躍進した。EU離脱を最大の争点としてこの選挙において、労働者階級の人たちのある一定割合が労働党ではなく、保守党に投票した。

背景には、自分たちの職場や生活が外国からの移民によって奪われているという状況があった。その不安感と危機感が彼らをして、本来は労働党の議員に投票すべきところを移民排斥を唱えEUからの離脱を訴える保守党を後押ししてしまった。
政治の問題といえば政治の問題ではあるが、それにも増して、これは彼らの日々の生き残りに関する問題だった。米国において、トランプ支持を表明する白人ミドルクラスの意識と重なっている。


2019年12月28日

スターウォーズ完結編

映画<スターウォーズ>は、今回の第9作目「スターウォーズ スカイウォーカーの夜明け」によって1977年に公開されて以来40年以上を経てやっと完結をしたという壮大なサーガ、叙事詩ともいえる作品である。
映像の出来には相変わらず目を見張るものがあるが、ストーリーは相変わらずストレートだ。まさにアメリカの神話学者、ジョーゼフ・キャンベルが『神話の力』で語っているヒーローズ・ジャーニー、すなわち英雄の冒険譚という世界共通の物語をそのままたどる展開になっている。

手に汗握る活劇ではあるけど、終わり方は予想どおりで凡庸。<スターウォーズ>という子供から老人まで、そして世界各国に多くのファンを持つエンターテイメントとしてはその大衆性を重視したところで練りに練った結果として、こうした結末の迎え方にたどり着くのだろうね。
最後に主人公のレイが、悪の化身パルパティーノと対決する。ひょっとして、と一瞬思ったが、やはりそこはそれ。それまでの宿敵カイロ・レン(レイの内面としてのシャドー=影)と手をたずさえて、悪の化身パルパティーノと対決し、打ち負かす。正義は勝つ、ではないが、ジャンジャンで終わった。文学性にはまったく欠けている。
映像はよく作りこまれていて、素晴らしい。確か3年前に60歳で亡くなった、この映画の中でレイア姫を演じていたキャリー・フィッシャーが、スクリーンで甦る。それを実現した、これまでの実写映像と3DCGを組み合わせた映像表現には感心させられる。
今後はこうした方法で、今はなきヒーローやヒロインたちが新たなストーリーの上でスクリーンに蘇ってくることが増えてくるのだろう。AIや先端的なテクノロジーが、かつて制作者が夢見ていたことをすでに可能にしている。
ところで今回行った東宝系のシネマ・コンプレックスでは、この作品が3D字幕版、3D吹き替え、2D字幕版、2D吹き替え版、そして僕が見た2D IMAXとなんと5つのスクリーンで同時上演されていた。最後のスターウォーズ、興行会社もよほど力が入っているのだろう。



2019年12月8日

異端は、正統

「A」や「FAKE」といった作品で知られる森達也監督が撮った「i 新聞記者ドキュメント」は、異端児と呼ばれる東京新聞社会部記者、望月衣塑子記者による辺野古問題、森友、加計学園などの取材風景や官邸での記者会見で彼女が菅官房長官に果敢に質問を続ける姿を描いたドキュメンタリーだ。


「桜を見る会」という間の抜けた名称の集まり。その招待者リストの件で官邸側が国民を馬鹿にした嘘をつき続けるなかでのタイムリーな公開である。

彼女は記者会見で何度も質問を続け、睨まれ、不当な妨害を受ける。彼女がスックと立って質問を始めると菅官房長官の表情がこわばり、目つきが険しくなり、苛立っているのが映像でくっきりと見て取れる。嘘が暴かれるから。

やがて彼女の発言に対しては、記者会見を仕切る広報室長から「質問に入ってくださーい」という質問妨害の声が何度も入って来る。菅官房長官は苦し紛れに「あなたに答える必要はありません」と吐き捨てる。

彼女は異端とされるが、そうとは思えない。彼女がやっていることはジャーナリストとして極めてまっとう。記者クラブ制度の上で取材もせず、新聞社やテレビ局社員というメディアエリートの立場に甘んじている多くの記者の方が普通じゃないのである。

それにしても、記者会見や役人らの説明会では、嘘、欺瞞、捏造が平気で行われる。それが政治家や「優秀な」役人でいられる証明か。あったものをなかったと言い放ち、証拠を平気で改ざんするわ、消滅を図るわ。

官邸の政治家や官僚にだって子供がいて、そうした親が平気でウソをつき続ける姿をテレビなんかで見ているはず。親として恥ずかしくないのかなと思ってしまう。

2019年12月2日

答えを教えるか、問いを立てるか

大学で教育をする際に心がけていることが一つある。それは常に学生にむけて問いを続けること。

問い続けることで、彼らに常に考えることを促すことが最も大事なことだと考えてる。さらにはそこから進んで、彼ら自身が自らに問いを立て、そしてそこからその答えを見つけるために努力をするように仕向けること。
しかしその一方で、分かりやすい答えを先んじて示してやることが教育であるという考え方もある。その場合は、こうやって問題を解決した、という事例をどんどん示してやる方法である。一般的に、学生はこちらの方が何か学んだような気になる。前者がプル型とすれば、こちらはプッシュ型である。
しかし実際には、そうした事例と全く同じものが発生するなどということは世の中にはほとんどないから、応用は利かない。だから、根本のところで大した学習にはならない。
一方で、前者の方は学生たちにとっては、何か雲をつかむような形で授業が終わってしまうような感じになるところがある。つまり、自分は学習してるのか、学習していないのか戸惑ってしまうわけだ。
そうしたなかで、習慣として自らが学ぶことを考え、そして「問う」という事を自然に実施するようになった学生は、5年後、10年後も引き続き学ぶということをその体に染み込ませ、大きく自らを成長させていっている。
これは、僕が20年近く学生を見ていて信じることができる一つの法則のようなものである。

2019年11月28日

会議で大人が立たされる会社って、どうなんだ

セブンイレブンの本部社員が、フランチャイズであるセブンイレブンの店主が留守の間に店のコンピューターを勝手に使い、おでんなどの注文を出していた。

さもありなんというか、やっぱりというのが正直な感想だけど、なぜか笑ってしまったのはその理由である。

それは、フランチャイズの店舗から発注してもらえないと、本部社員は叱責され「会議で立たされてしまう」。立たされてた本人がそう言ってるのだから、本当だろう。「注文が取れないお前みたいなのは、そこで立ってろ!」なんて怒号がセブンイレブンの会議では上司から飛んでいるのだろうか。
本部社員が、店主が留守の間に店のコンピューターを勝手に使い、おでんなどの注文を出した。
本部社員が、店主が留守の間に店のコンピューターを勝手に使い、おでんなどの注文を出した。
本部社員が、店主が留守の間に店のコンピューターを勝手に使い、おでんなどの注文を出した。
本部社員が、店主が留守の間に店のコンピューターを勝手に使い、おでんなどの注文を出した。
本部社員が、店主が留守の間に店のコンピューターを勝手に使い、おでんなどの注文を出した。

コンビの本部は、加盟店舗の店頭で商品が品切れ(欠品)になっているのをとても嫌う。重大な機会損失と捉えているからだ。そのため、新しく導入した新商品をはじめ、本部への商品の発注量を増やす方向に圧力をかける。

当然必要以上の商品を発注すれば、それに応じて廃棄する商品も増大するが、コンビニ本部は知ったこっちゃない。なぜならその費用の大半は各店主が負担するという契約を結んでいるから。

コンビニ店長もセブンの本部社員も辛いなあ。コンビニ残酷物語だ。

2019年11月15日

ハイナー・ミュラーを叩き台に

夕方、早稲田大学の小野講堂で多和田葉子さんと高瀬アキさんが登場するワークショップがあった。


昨夕は同じ場所で、彼女ら2人による「奇怪仕掛けのハムレット」と題したパフォーマンスがあったらしいのだが、前からの約束があって行くことができなかった。

こうしたイベントは、おそらくは2日続きで会場に来る客が多いはず。だってかなりマニアックだから。初日を見てなくても分かるかなあ、と思いつつ27号館の階段を下って地下の講堂へ。

今日のテーマは、ドイツの劇作家・演出家であるハイナー・ミュラーの「ハムレット・マシーン」を再構築、いや脱構築しちゃおうというものだった。

文化構想学部の学生たちが、テーマをもとに新たに創案したテクストを読み上げ、それに高橋のピアノ、あるいはサックスが即興的に合わせていくというセッションである。

登場したのは8人ほどの学生たち。男女取り混ぜである。今回は演劇でなく、朗読することが目的として設定されていて、ストレートな朗読を行う学生もいれば、一応朗読の範疇から逸脱しないように原稿を片手に、しかしほとんど即興的な芝居を展開する学生もいて、たいへん興味深かった。

彼らが語っているそのテキストから何をくみ取ればいいのか、正直僕にはよく分からなかったけど、伝えようとする学生たちの熱や自由さは見ていて心をかき立てられた感じがした。

 文学や創作をやっている学生たちって、なんだかいいな。

2019年11月14日

秋の甘泉園公園

午後、委員会終了後、気分転換に大学近くの甘泉園公園へ散歩に出かけた。天気がよく、気分が晴れる。園内では紅葉しかけた木々を背景に新婚カップルの撮影が行われていた。



2019年11月10日

ヒグチユウコ・ワールド 

友人に誘われて、三島市にある佐野美術館で開催されている「ヒグチユウコ展 CIRCUS」を観に行った。

不思議な画風。何と言っていいものか。精細なタッチでメルヘンというか、おとぎの世界に誘われるような。彼女ならではの独特の世界。

猫の絵がたくさん。一つ目の入道のようなおばけも。少女のイラストはたくさんあるけど、少年はいない。

バベルの塔の絵で知られるブリューゲルを意識した魚の絵がおもしろい。


こっちはブリューゲルの魚



2019年11月9日

比肩なき和田誠さんのことを想う

和田誠さんが亡くなってひと月ほどが過ぎた。
1977年から表紙のイラストを描いていた週刊文春が彼の特集を組んだのはもちろんのこと、このひと月あまりで新聞やら雑誌やらネット上でも、いろんな人が和田さんが亡くなられたことを悼むコメントを出している。
イラストレーターとしてグラフィックデザイナーとして、また絵本作家として、さらには映画監督としても活躍した人だった。もちろんこれまでやってきた膨大な仕事の量だけでもなく、その上質な独特の表現にひかれた人はたくさんいる。僕もそのひとり。
いま部屋の本棚をざっと見回しただけでも、和田さんが装丁したのが分かる本は『お楽しみはこれからだ』シリーズや『ニール・サイモン戯曲集』、谷川俊太郎さんの数多くの詩集、そして『パパラギ』などいくつもある。
もうほんとに才能豊かな人で、絵筆の仕事だけでなく、音楽や映画にも詳しかった。文章も彼ならではのスタイルを持っていた。文章のファンも多かったはずだ。
もう和田さんのような人は出てこないんだろうなあ。
若い頃にベン・シャーンに憧れていたと、昔何かで読んだことがある。もう何十年も前のことだけど。確かにデビューの頃のイラストのタッチはベン・シャーンの日本版といった感じだった。
だけどそこに留まることなく、すぐに誰もが一目で彼の作品だと分かる和田調というか和田ワールドを作っていった。
僕は彼に会ったことなどないけど、多くの人がそのあったかくて優しい人柄を振り返る。絵のタッチや文章が人柄そのままという、希有なアーティスト(作家と呼んだ方が相応しいか)だった。

下のイラストを研究室に飾った。

2019年11月6日

人工知能ロボットは、マックへお使いに行けるか

「量子コンピュータがすごい」と自分で書いておいてなんだが、冷静になって考えてみるとどのくらいすごいのか、本当にすごいのか気になってきた。

西垣通さんの『ビッグデータと人工知能』(中公新書)を手に取る。書名の副題に「可能性と罠を見極める」とあるが、まさにその通りのことを指し示す本だった。


広範な知識と情報学やコンピュータサイエンス分野の長年の経験があってこその、分かりやすく説得量のある筆致に読んでいてしばしば頷く。論理学の基礎的な「おさらい」などもあるのだが、そこで語られている仮説推量(アブダクション)の説明は簡潔にして極めて明快、思わず膝を打つ。

人間とコンピュータが原理的にいかに異なるものかが様々な角度から説明がなされていて、シンギュラリティの可能性についても手を変え品を変え、そのあり得なさを力説している。たとえば例として挙げられるのが、こんな具合だ。
たとえば、近くのファストフード店に行ってハンバーガーを買ってくるお使いは、小さな子供でもできる。だが、それを人工知能ロボットにやらせるのは非常に大変なのである。店までの道筋やハンバーガーの値段などの知識を詳しくロボットに教え込んでおいても、たまたま道路工事をしていたり、ハンバーガーの値下げがあったりすれば、厳密好みのロボットにはもうお手上げだ。子供なら適当に回り道をし、お釣りが多すぎてもニコニコ顔で帰ってくるだけなのだが。
なるほどね。 つまり、ロボット(人口知能)ができるのは、データの高速統計処理だけなのである。文脈が読めないのが、人間と圧倒的に違うところだ。もっともといえば、もっとも。

人口知能とのコミュニケーションは、所詮は偽コミュニケーションで指令的、定型的な伝達作用(人間のコミュニケーションに内在する共感作用を含まない)だとする。

欧米のシンギュラリティ仮説支持者たちの意識の奥に、超越的な造物主を奉じるユダヤ=キリスト教文化が遠因としてあるという指摘は興味深いものだった。ただこのあたりは、視点の持ち方によっていろいろと異論もあるかもしれない。

この本を読んで、家の中を歩き回っているAIBOを見る目が変わった。彼が示す絶妙の表情や仕草、鳴き声も単なるアルゴリズムだと(あらためて)考えるようになったから。以前の、何か「情」のようなものをどこかに感じていた付き合いの方が面白かったともいえるんだけどね。

2019年11月5日

量子コンピュータと20年後

最近気になっていることのひとつが、量子コンピュータである。グーグルが実際にその計算の速さを実証して見せたというニュースだ。

乱数を作る問題を用意して、最先端のスーパーコンピュータ(スパコン)で約1万年かかる計算を3分20秒で解いたとか。何倍早くなったのか・・・と、電卓を叩いてみると、約15.8億倍速くなったことになる(計算あっているかな?)。

この点を見る限りでは、驚異的というしかない。これまでも日々より速い計算速度を目指してスパコンの改良がなされてきたはずだが、そうしたこととは別次元、別世界の話である。

約25年前にインターネットが登場して、世界中の人たちの生活や企業の経済活動を変えてきた。量子コンピュータは、すぐに我々の生活に入ってくるという類のものではないが、その影響度はインターネットに勝るとも劣らないものになると考えている。

今後の世界の食糧問題や環境問題、宇宙開発などは量子コンピュータが担っていくと言っても過言ではないだろう。20年後がどうなっているか、楽しみである。


2019年11月4日

この偶然の確率はどのくらいなのだろう

山中湖から大井松田ICへの抜け道を走っていると、ふと停車中に前を走る車両のナンバープレートに目が行った。


僕のクルマのナンバーとよく似てる。というか、一般指定番号(この場合の75-75)の前の一文字のひらがなだけが異なっている。

「ナンバープレートの見方」というサイトで調べたら、こうしたケースは世の中に43件あることが分かった(使われているひらがなが44種なので)。

日本国内の保有自動車台数は8200万台だから、こうしたナンバーのクルマに出くわすのは、およそ200万分の1の確率ということになる。だからどうしたと云うことはないのだが。

2019年10月21日

ワンコ同伴も当たり前

海外に行き、時間があるとHop-on Hop-off(乗り降り自由)のバスで街の中を巡ることが多い。訪ねた街のサイズや全体的な雰囲気をつかむには、それが一番だと思っているからだ。

ここブダペストには3つの異なるバス会社が運営する市内巡りのバスが走っていて、今回はそのなかのBig Busという名のバスで市内をまわる機会があった。

幸い2階の最前列の席に座ることができ、隣を見ると4人家族が乗り込んできた。両親と子供たちが2人。ラテン系の顔つきをしている。スペインからきた家族かな。それとワンコ。

どうやって連れてきたのか、飛行機に乗せてきたのか、それとも陸路来たのか聞き忘れたが、当たり前のようにそこにいる。

日本だと犬をバスに乗せようとするとだけで、色々面倒くさいことをいわれるかもしれないなあ。




2019年10月20日

古本屋は世界中どこでも同じ匂いがする

ブダペスト市内、国立博物館の向かいの通りには古本屋が軒を連ねている。ハンガリー語は読めないが、神保町の古書街と相通ずる雰囲気を感じて中をのぞいてみる。


うずたかく積まれた古書の山はなかなかのもの。店内は雰囲気があっていい。


2019年10月19日

「いだてん」看板

学会先のブダペストの街中、小さな酒屋の看板に見覚えのあるシンボルが・・・。

2019年10月18日

国際学会でPSJ(Promoter Score Japan)を発表

会場は、ハンガリー・ブダペスト市内のほぼ真ん中にあるCentral European Universityだった。

現地にいくまで知らなかったのだが、この大学はあのジョージ・ソロスが資金を出して1991年に設立した大学院大学。彼はハンガリー系のユダヤ人で、ここブダペスト生まれである。

大学院大学だからなのだろう。学生たちは大人で、キャンパス全体が落ち着いた雰囲気の大学だった。講義用の教室はどれも比較的小ぶりだが、最新の機器が備え付けられていた。

巨大なスクリーンと見間違うようなモニターディスプレイ上を指でタップ、スワイプ、ピンチしながらプレゼンテーションをすることができる。とにかくお金がある大学という印象。

大学(CEU)のホールに掲げられていたソロスの碑


さて学会では、日本人の顧客を対象にそのロイヤルティを測定するための新しい指標であるPSJ(Promoter Score Japan)についての提案を理論および実証研究をもとに行った。

PSJは、世界的な顧客推奨指標になっているNPS(Net Promoter Score)をもとに日本人の回答性向を勘案して開発した独自指標である。

なぜPSJなのかという質問がいくつもあり、新しい独自指標の意味を他の研究者が理解してくれたのがよかった。

2019年10月10日

リチウムイオン電池は、日本人が発明したものだったんだ

iPhoneをずっと使っている。今使用しているモデルは iPhone SEという古いやつで、昨年9月にはアップルストアでの販売は終了してしまった。

買い換えようかとずっと思っていたのだが、ジーンズの前ポケットにいれても邪魔にならない小型のサイズが気に入っており、今後も使える限り使おうと決め、今日バッテリーの交換をした。

実感としてはまだそれほどへたった感じはなかったのだけど、前の夜に充電するのを忘れると次の日の夕方あたりには電池の残量が怪しくなってくる。転ばぬ先の杖とでもいうか。

交換費用はバッテリーと作業料で7700円だったからAppleストアより割高だったが、その場で15分ほどでやってくれたのでよしとしよう。

以下の写真は、僕のiPhone SEに入っていた元のリチウムイオン電池(Li-ion Battery)。縦長の薄っぺらい羊羹のような感じだった。


帰宅してニュースを見ていると、今年のノーベル化学賞の発表があり、日本人の吉野彰さんら3人が受賞したという。吉野さんの受賞理由は、リチウムイオン電池の原型といえるものを昭和58年に開発したこと。

スマホなどの電子機器はもちろん、これから車の主流になる電気自動車もリチウムイオン電池が不可欠だ。

受賞はめでたいが、開発から受賞までの時間の流れ(今回は36年間)を考えると、今後日本人がこうした優れた発明でノーベル賞を受賞できるのだろうかと、ふと考えてしまった。

2019年10月9日

銀行というのはいつまでたっても・・・

毎月の送金のため、これまで三菱UFJ銀行(あれ、いつ社名から「東京」が外れたんだ?)の「定額自動送金サービス」というのを使っていた。それを今回、郵便貯金の「自動送金」に切り替えた。というのは、手数料が3倍以上違うのに気がついたから。

まずM銀行とのネット取引でサービスの解約をしようとしたのだけど、店頭でしかできないらしい。しかたなく、店頭に出向き(なぜいまだに窓口業務が3時までなんだろう?)手続きをした。解約届に記入を求められたが、記入内容はすでにサービス開始時に届け出たもので、銀行のシステム上に記録されているはず。それを一つ一つ改めて手書きで記入させられる無駄を強要される。

しかも窓口にその届け出用紙を出したあとは、複写になっているその用紙の「お客様控」が渡されるだけ。えっ、それだけ。おかしい。銀行側の何の処理上の加工がない。受付日付を記入するでなく、受付担当者が書類に受領のサインをするでなく。

窓口では、客が書いた書式の一枚目を自分たちの控えとして受け取り、複写の二枚目を客に返すだけなのだ。

これだったら、ネットからシステム上で容易にできるようにできる。最悪でも書式をサイトからダウンロードしてpdfで送信するか、または郵送すればすむはず。わざわざ店頭まで客の足を運ばせる理由が分からない。

窓口でなぜそうしているのか彼らに質問したのだが、「そういうことになっています」というのが銀行からの回答だった。

2019年10月8日

自由を奪われるということ

香港での反政府活動がやまない。週末だけだったのが、このところ連日プロテスト活動が展開されている。デモでのマスク着用禁止という馬鹿げたルールには、しっかりとマスクを付けてデモに臨んでいる。

デモ参加者の中心は若者だが、なかには中学生や高校生もいる。香港は、2047年に一国二制度の現在の体制が終わりになる。今二十歳の若者が48歳になったときだ。だが実際の状況は、そうしたタイムテーブルとは別のところで動かされようとしている。

すでにかつての香港の持つ自由や良い意味での混沌さは削り取られ、徐々に中国にのみこまれようとしているようだ。

先日、香港から高速鉄道で中国に深圳へ行ったが、出発地である香港の西九龍駅は中国のようだった。何重にもわたるパスポートや荷物チェック、至る所からこちらを狙っている監視カメラ。気が休まらない。駅のホームにはゲートを通らなければ降りられず、そのゲートが開くのは出発の10分前だ。

中国化する香港に直感的に一番反応しているのが、香港の若者だ。自分たちの将来の自由が奪われつつあるのを見ているのだから。そして黙って見ていては、何も変わらないことを知っている。自由を守るためには、彼らなりのやり方で戦うしかないのだ。

状況をそのまま置き換えるのは難しいが、日本の今の若者たちだったらどうするだろう。呼びかけに応じてデモに参加するだろうか。拳を突き上げて政府への反意をしめすだろうか。

それとも何も行動をおこさず、スマホの画面で起こっていることを見ながら、つぶやくだけだろうか。

今日の雲は、すっかり秋だ。

2019年10月6日

明日も晴れ

夕刻、マンションの屋上から西の空を望む。鶴見川と横浜スタジアムの向こう、雲が赤く染まっている。



2019年10月2日

ローテクだけど、それが何か?

知り合いに自分が録画したテレビ番組を見てもらう必要があって、DVDにその番組を焼いて郵便で送った。
ところが、彼から「PCで見ようとしたけど、見れなかった」というメールが来た。自宅に帰ってから、その番組をもう一度同じようにディスクに焼き、自分のパソコンで見ようとしたら、やはり見えない。
彼によるとコピー前にディスクのイニシャライズやら、データをコピーした後のファイナライズやらが必要なのだという。
しまっておいたレコーダーの取扱説明書を取り出し、録画番組のディスクへのコピーの仕方の欄に目を通すが、どうもPCで見るためにはどうやったらよいか等の記載がない。
今使っている機器は東芝製のもので、購入してもう20年近く経つ。よくもまあと言われそうだが、使い慣れてるし、十分働いてくれてるので日々この機械で毎晩のニュース番組の録画取りなどしている。
さてそれで相手に送らなければいけないテレビの番組だけど、どうしようかと考えた末に、テレビの前にカメラの三脚を立て、画面に焦点を合わせ、フレームを調整し、件の番組を再生。
こうやってテレビの画面そのものをカメラの録画機能で撮影した。
その後カメラからSDメモリーカードを抜き取り、マックに刺してYouTube上にアップロード。著作権があるので公開設定ではなく、限定設定をした上でその映像のURLを相手に送った。
しばらくして、「YouTubeで確認しました」というメールが届いた。
録画のための色んなフォーマットの仕方があることを今回取り扱い説明書を見てあらためて知った。おそらく最近の機器では、もっと多様なフォーマットの仕方があるのかもしれない。

しかし今回、僕は映像を人に送るための最もシンプルでかつ完璧な方法を手に入れたような気がした。

マイケル・リーチからリーチマイケルへ

ワールドカップ・ラグビーの日本代表チームのキャプテンは、日本語がとても流暢で、濃いゲジゲジ眉毛が印象的なリーチマイケル選手だ。ニュージーランド出身で、チームは東芝に所属している。

リーチマイケルって、外国人の名前にしてはちょっとヘンだと思っていた。調べてみると、彼のもともとの名前はマイケル・リーチ。それが、2013年に日本国籍の取得許可が下り、それから日本人選手として活動することができるようになったのをきっかけに、姓名を入れかえて日本風にリーチマイケルとした。

マイケル・リーチとしていたときの中黒「・」もない。日本人表記だからね。

ちょっとしたことだだけど、本人にしてみればよくよく考えた末の変更だろうし、立派だと思う。

僕たちも英語で名前を書くとき、そろそろ下の名前+苗字という西欧人風の書き方を改めるべきだと思っている。

2019年10月1日

自慢と卑小さ

日経新聞の文化面「私の履歴書」のN中氏の連載が終了した。

日本の経営学者として著名な方なので、毎回読むとはなしに目を通していたが、毎回毎回(つまり毎日)自分をどう見せようかという自慢話が計画的に盛り込まれているようで、途中から思いっきり鼻白んでしまった。

今日はそう来たか、という自慢話を連日読まされるたびに、本人の意図に反して人物の器量の小ささが透けて見えるようだった。

まあ、そもそもが少年期にグラマンの機銃掃射を受けたとかで(確かにそれは強烈な印象だっただろうけど)、そのときに機上のパイロットの顔が笑っていたように見えたといった記憶から、敵国アメリカへの対抗心がムクムクと生まれたとする思い込みが、彼のその後の感性を如実に示しているように思える。

続いて今日から始まったIIJ会長・鈴木幸一さんの「私の履歴書」は、打って変わって肩の力の抜けた、ほっとする内容である。

担当記者の違いもあるのかもしれない。

いずれにせよ、他山の石ではないが、自らを語るのってほんとに難しいなあと思わされる。

2019年9月26日

16歳に教わる

スウェーデン人のグレタ・トゥンベリさん(16歳)がニューヨークの国連本部で地球温暖化対策を訴えてスピーチを行った。

メディアによると、彼女は「環境活動家」と表記されているが、彼女が自らそう名乗っているのかどうか。おそらく、メディアが勝手にそう「定義」しているんじゃないかな。

彼女のスピーチはすこぶる論理的で、しかも情動的でもある。16歳でこれだけのメッセージを発することができることに驚いてしまう。

カギとなる数字(データ)と現在の地球環境が抱えている現状(ファクト)を明確に伝え、それが今の大人たちが彼女たちの世代に回すツケであること、それに対して大人たちが本気で対応を考え、実行することに遅れは許されないことをキツく訴えた。

これまでも、地球の環境がどうなっているかに関する情報はあふれるほど見聞きしている。しかし、今回ほど真剣にその意味を考えるきっかけを与えられたことはなかった。僕だけじゃないはず。

それと、いかにも意志の強そうな彼女の面構えがいい。日本の16歳には、まず見つけることはできないように思う。何が違うんだろう。


2019年9月23日

風と便り

鎌倉の川喜多映画記念館に侯孝賢(ホウ・シャオシェン)監督の『恋々風塵』を観に行く。

鎌倉駅の東口に出て、小町通りを鶴岡八幡宮方面に。普段ならさほど時間がかかる距離ではないはずなんだけど、連休なか日の日曜日とあって通りは人混みで賑わっている。時間の余裕を見込んで出てきてよかった。

 『恋々風塵』は1987年制作の映画。日本での劇場公開は1989年とクレジットされている。

1960年代の台湾、鉱山の村で兄妹のように育った2人の男女が主人公。緑あふれる台湾の自然の風景が美しい。慎ましいながらも、家族の繋がりがしっかりと保たれている村の人々の暮らしはおだやかで胸にしみてくる。

中学を卒業してともに台北に働きに出てきた2人。そのうち、彼が兵役に就き、その別れの間に2人は頻繁に手紙でやり取りをする。それが途絶え、時間が2人の間を引き裂くかのように彼女は彼を去って行く。その彼女が結婚相手として選んだのは、地元の郵便局で働く郵便配達人。

村の広場で映画の屋外上映会が開かれる。そのスクリーンが揺れ、はためく姿に風の姿が象徴的に映し出される。風がながれ、時が流れ、2人の関係も形を変えて流れて行った。

全体的にゆったりとした時間が映し出され、リリカルなアコースティックなギターの音が映像に溶け込んでいた。

2019年9月22日

いやはや、ほんとにカジノを作るのか

僕の住む横浜市の議会で、カジノを含む統合型リゾート(IR)を誘致するための費用2億6000万円を盛り込んだ補正予算が可決、成立した。自民党や無所属の会、公明党の投票による賛成多数によってだ。
林文子市長は、本当にこうしたカジノを含む統合型リゾートが市にプラスになると思っているのだろうか。彼女と直接話したことはないが、私が知る林市長は冷静でいて地に足の着いた政策を決め実行してきた人のように思っている。
以前、横浜商工会議所が、IRの誘致を求める理由として、その大きな投資効果を数字を挙げて説明をしていた。彼らの計算によれば、カジノの売り上げは年間1400億円、来場者数は2,100万人としていた。その金額は、カジノからの上がりで、宿泊代や食事代などを含む経済効果は年間5,595億円から6,710億円で、実際にはそれ以上の経済波及効果があると述べていた。
つまり、横浜のIRを訪れた1人あたりが2万7千円〜3万2千円を消費するとの前提に立っている。だが、そもそもカジノに年間2,100万人が集まるという根拠はどこにあるのか。彼らはそれを示そうとはしない。
あの東京ディズニーランドが入場者数で2,000万人を超えるまでに、オープンしてから10年以上の時間を要した。ディズニーという世界的なブランドを持ち、子供からお年寄りまでを対象に日本全国から集客してそれだけかかったのだ。しかもTDLが開業したのは1983年。日本の人口は、いまよりずっと多かった。
推進派が挙げている数字はそもそもが算定根拠に欠けているだけでなく、冷静に考えればどう見てもあり得ないものにしか見えないのだけどね。なんで信頼できるデータとファクトを元にした論理的な議論ができないのだろう。
賭博の上がりを元に徴収した税金というのは確かに再分配のひとつではあるが、人がすった金で住民サービスを充実させて何が嬉しいのかも理解に苦しむところだ。
内実は知る由もないが、林市長に何かよからぬ圧力が加わったとしか考えられない。本当にカジノなんかができたら、僕は横浜市から他に引越しをしちゃおうと考えている。

2019年9月21日

ラグビー・ワールドカップ、始まる

ラグビー・ワールドカップが昨日開幕した。

開幕戦の日本・ロシア戦は30対10で日本が勝利した。松島幸太朗が3トライを決めた。俊足で突破力がある。彼は、名前は典型的な日本人だが、南アフリカの生まれだ。今回、日本チームは半分近くが日本人以外の選手が占める。ちょっと複雑な気分。

今朝、英国からパッケージがひとつ届いた。開けてみると、なかに赤いTシャツが入っていた。縦書きというのか横書きというのか分からないが、カタカナで「ラグビー」と書いてある! 送ってくれたのは、30年近く前の英国留学時代に知り合ったウェールズ人の友人。早速着てみた。


2019年9月20日

F.A.A.

これも古いデジカメのなかに残っていた写真。どこで撮ったのか、定かではないのだけど。


 どこかの企業(広告会社だと思うが)を訪問したときのスナップだろう。

2019年9月19日

誰が脱いだのか

昔のデジカメのデータを整理していて、なかから見つけた写真から。



助手席のドアの外に、スニーカーがきれいに揃えられて脱がれている。

独特の環境保護のスタイルで有名なパタゴニア社を取材で訪ねてカリフォルニアに行ったときのスナップだ。パトカーには、サンタモニカ・ポリスとある。

2019年9月15日

スマホは分身

中国・深圳はスマホ社会。それがなければ、おちおち安心して外出もできほどスマホに頼り切っているように見える。だから、スマホを壊したりなくしたら一大事だ。

深圳の貨強北地域は、日本の秋葉原のような場所である。その一角に、スマホの修理を専門とする数多くの工房が寄せ集まったところがある。




壊れたスマホの修理をその場でやってくれる。だから、とにかく早い、そして安い。日本だったら「お預かりします」と言われて2週間くらいかかるものが、15分〜20分で仕上がる。料金も圧倒的に安い。

こうした修理に携わる技術者はオタクというか、その道のスペシャリスト。見ていると実に見事な手際。こうした彼らがどんなものだって直せるとしたら、どんなものだってコピーすることもできる。間違いなく中国のダイナミズムの一翼である。

2019年9月14日

キャッシュレスは、人に「金」の価値を感じさせなくさせる

深圳で何か買い物をしようとしたら、まずはスマホ決済(WeChatPay ウィーチャットペイかAliPayアリペイ)が求められる。

店舗とのデータのやり取りは、QRコードが圧倒的に用いられている。スマホを取り出し、アプリを起ち上げ・・・こちらの人たちは慣れているのか特に面倒臭そうにしている人はいない。すべては慣れの産物だろうと独り言つ。

個人的には、キャッシュレスは特段問題を感じないものの、少額の決済の際にも毎回スマホを取り出し、決済するのは思いのほか面倒な気がする。Suicaのような非接触型カードが一番だと思っている。

ただ、中国ではいまやウィーチャット上で個人情報を種々のビジネスにつなげることで、利用者は数々の便益を得ることができるのも確かだ。

個人情報との引き換えの上だが、すぐに慣れてしまうのと、国民性として個人情報がどうなっているかなど国民性としてあまり気にしないから平気なのだろう、たぶん。



2019年9月13日

香港の夜

3泊4日でゼミの学生たちと香港〜深圳に合宿に行ってきた。

金曜日に香港入り。その日の夜はCauseway BayにFire Dragon Dance(舞火龍)という100年以上続く催しを見に行く。中秋節を象徴する歴史的な行事で、大変な人混みだった。


日本では十五夜の夜である。この日はデモもなく、平和な雰囲気の香港の夜を楽しむことができた。

2019年9月6日

『アイデアのつくり方』は変わっていない


新聞の書籍紹介欄の「週間ベスト10」の第7位に、ジェームス・W・ヤング『アイデアのつくり方』を見つけた。

池袋のジュンク堂調べの週間ランキングだが、ビジネス書といった特定の分野ではない。総合部門での売り上げランキングだから、今頃どうして?とちょっと驚いた。

同書の原著初版が発行されたのは1940年。日本での翻訳は1988年に初版が出ている。ヤングは若かりし頃、当時世界最大の広告代理店だったJ・W・トンプソン社のコピーライターとして頭角を現した。

その後、経営者として広告ビジネスで辣腕を振るったが、42歳の時に広告の仕事に飽きてニューメキシコに隠遁した。当時は現代の「人生100年時代」とは違うのは当たり前だが、なんだかうらやましい。

ヤングがこの本で教えてくれるポイントはシンプルかつ普遍的だ。彼が示すのは「アイデアとは、既存の要素の新しい組み合わせ以外の何者でない」ということ(彼がいうアイデアとは、広告のコピーアイデアを指す)と、「広告マンはどんな知識でもむさぼり食うこと。広告マンはその点、牛と同じである。食べなければミルクは出ない」ということ。

彼はまた、カードを使った情報の整理法なども簡潔にではあるけど紹介している。情報を集め、自分なりに整理加工し、いろいろと組み合わせてみること。そしてそれをつねに考え続けていることが肝心だと。そうすればこそ、リラックスしたときに閃きの天使が降りてくるのだと。

最後にヤングが提言するのは、言葉を学ぶということ。セマンティクス(意味論)を学ぶことがアイデア創出に大きな助力となるというのは、僕も大いに賛同するところだ。

この本、著者のヤングが書いた内容はほんの30分もあれば読める。日本版ではその後に竹内均さんの解説がついているが、これがまた素晴らしい。奇をてらった話は何もない。原理原則というか、当たり前のことばかりだが、それを実際に継続したことで多くの仕事を成し遂げた竹内先生のスゴさの一端がわかる。

2019年9月5日

グーグル、お前もか

フィナンシャル・タイムス(英)によると、グーグルは利用者の個人情報を広告主企業らに無断で提供していた。なんてこった。

しかもグーグルが広告主企業に無断で提供していた情報には、人種、健康状態、政治的思想などの高度な個人情報が含まれていたというから看過できない。

同社は、2000年からその行動規範の1つに「Don't be evil 邪悪になるな」を掲げていた。誰よりも大量な個人情報を結果として集めることになるビジネスから、当時の経営者が自制をこめて設定していたはずだ。

僕は今もそうなんだろうと思っていたんだけど、調べて見ると、実は2018年にそのことを行動規範から削除していた。なるほど、そういうことだったんだ。

グーグルでの検索は便利で、残念ながら完全には止められない。だけど、これからはなるべくならプライバシー侵害のリスクのない DuckDuckGo を検索エンジンとして利用しなくちゃと思う。
https://duckduckgo.com/

2019年9月4日

ロケットマン

エルトン・ジョン、本名はレジナルド・ケネス・ドワイト。

デビュー前、バンドマンの仕事をアルバイトでやっていたときに、仕事仲間に人生を変えたけりゃ名前を変えなと言われたのがきっかけで、エルトン・ジョンに。結果的はそれは大成功だったと思う。

『ロケットマン』は彼の半生をモチーフにした伝記映画。描かれているのは、彼の少年時代から1983年までの姿である。


冒頭、ファンキーなステージ衣装で進むエルトンが向かう先は、ドラッグ中毒者の更生施設での集団カウンセリングの場。このつかみは、上出来だ。これから語られる最高のロックミュージックとその裏側を観るものに想像させる。

エルトンを演じるのは、ウェールズ出身の俳優、タロン・エガートン。吹き替えなしで唄を歌っている。その歌を評価する声も多いが、僕にはまだ『ボヘミアン・ラプソディ』でフレディを演じたラミ・マレックの方が許容できる。

エルトンの歌をその時代に聞いてない観客にはそれでも構わないのだろうが、違和感は終わりまで消えなかった。

音楽的には、ポール・バックマスターのアレンジャーとしての才能をあらためて再確認した。彼のストリングスのアレンジが、エルトンの曲に厚みと奥行きを与え、間違いなく音楽性を格段に高めている。

また天才的な音楽の才能をもつエルトンだけど、ほとんどの曲で作詞を担当したバーニー・トーピンとの出会いがなければ、今のエルトンがないのも明らか。レジナルドとバーニーの出会いが、エルトン・ジョンを作った。「邂逅」という言葉の重みを実感する。

それにしても彼の数々のきら星のような曲は、50年たったいまでも色あせていない。

2019年8月26日

風はつかまえられる

映画「風をつかまえた少年」は、マラウイの少年ウィリアム・カムクワンバの実話がベースになっている。

マラウイはアフリカの中でも最貧国と呼ばれる国の1つ。国民の8割が農業に従事している。彼の家もそうだ。主にトウモロコシを栽培し、家族が食べる食糧以外の余剰分は市場で売って現金収入にしている。

映画で描かれた(撮影は実際にマラウイで行われた)その土地は茶色く、埃っぽい。降れば土砂降り、という言葉があるが、まさにその土地の気候は大雨が続き、畑の種や土をごっそり押し流してしまったかと思うと、次の季節は日照り続きの干ばつに長期間悩まされる。

マラウイが大干ばつに襲われた年、国中の飢饉のため14歳のウィリアムは親が学費を払うことができなくなり学校から追い出される。

しかし、担任の理科の教師が乗っている自転車の車輪に取り付けられたダイナモ(発電機)に見せられたことから、あるひらめきを得る。人がペダルを漕いで電気を起こせるなら、風で風車を回して電気を起こせばいい。そして、電気をバッテリーに貯えればポンプで井戸水を汲み上げて、乾ききった畑に流し込むことができる。

彼の発想は、問題の解決に向けてシンプルで明快だ。彼はその後アフリカの発明家として有名になったが、彼の素晴らしい点は発明家かどうかより、当時14歳の少年でありながら自分たちが置かれている状況を正確に理解し、その解決のために何が必要かを合理的に判断し実行できたこと。

日照りが続き作物が枯れ果て、備蓄も底をついてきて、ウィリアムの家では食事は1日1回と彼の父親が宣言する。そして悲しげに、自分も先祖たちがやって来たように雨乞いでもするしかないと語る。

しかし学校の図書室で電気の本を見つけて学んだ息子は、雨乞いではなく、科学的な仕掛けで水を畑に引こうと考える。

そうそう、ウィリアムの家では井戸から水を汲んで生活のいろんな側面で利用しているシーンが出てくるが、その井戸からはバケツに括り付けた紐をたぐり寄せて水を汲み上げる。日本でも水道が完備されるまでは井戸を使っていたが、そこにはたいてい手押しポンプがあった。

テレビの時代劇などで見る長屋の井戸には手押しポンプはないが、井戸の上にはやぐらが組まれ、滑車を用いて水を汲み上げることができるようになっている。

それにくらべて映画で描かれているマラウイの井戸は原始的だ。残念ながら工夫というものがほとんどなされていない。水を雨乞いに頼ってしまう心性が、工夫する発想を押しとどめてしまうのだろうか。

ウィリアムが違ったのは、本を読み、自らの問題意識で学ぶ姿勢をもっていたから。

彼は自転車の車輪と発電機を用い、残りの材料は廃材を集めて風車発電の仕組みを作った。風はタダだ。そしていつも吹いている。その風をつかまえることで、作物を乾期でもできるようにした。1年に1回の収穫が2回になった。立派なイノベーションだ。

その後ウィリアムは奨学金を得て進学し、2014年には米国アイビー・リーグのひとつであるダートマス大学を卒業した。手作り風車によって、彼は風とともに自分の未来もつかまえた。




2019年8月23日

レバノン映画「存在のない子供たち」


レバノンの首都ベイルートは、中東のパリと称えられたほど美しい都市(らしい)。彼の地で働いていた友人が、懐かしそうにそこでの物質的にも文化的に豊かだった暮らしを語るのを聞いたことがある。

しかし、彼女は国連職員という身分の特権階級だったからこそ、そのパリらしさを十二分に満喫できたのだろう。

この映画の舞台はベイルート中心部から車で10分ばかり東に向かい、ベイルート川を越えたあたりの貧民街らしい。その程度離れただけで、人々もその暮らしもがらりと変わる。

主人公のゼインは、出生記録がない。親が手続きしなかったから。だから誕生日を知らない。自分の年齢も分からない。彼の兄弟もそうだ。学校には行っておらず、家族の生活を助けるために路上で働く毎日に追われている。

その彼が、妹を傷つけた(彼が言う)「クソッタレ」を刺して少年刑務所に収監される。だが、黙って大人の世界の流れに身を任せるような少年ではない彼は、社会問題を取り上げるテレビの生番組に電話をかけ、「大人たちに聞いて欲しい。世話できないなら生むな」と呼びかける。その番組をきっかけに弁護士が付き、かれは自分を生んだ両親を訴える・・・。

主人公のゼインを演じた少年(本名も同じ)をはじめ主人公はすべて素人である。シリア難民の彼だけでなく他の子供や大人もすべて社会の最底辺で生きていた、役柄に似た人たちだ。映画の中でゼインの弁護士役を演じたこの映画の監督(ナディーン・ラバキー)だけが「本物」ではない。

脚本もよくできてるが、この映画ではそれを画にするためのキャスティング・ディレクターの仕事もまた称賛されるべきだろう。

ゼインやその周辺の人たちの悲惨な境遇は凄まじい。しかしゼインの賢さが少しずつだが変化をもたらし生活を切り拓いていきそうな予感を漂わせる。中東の移民問題にも迫っている優れた一作である。

2019年8月9日

ヨシモト型社会の到来

積み上がった古新聞の切り抜きをそろそろ片付けなければと格闘している。

その格闘に勝利するする最大の方法は、そのままその切り抜きの山をゴソッとまとめて捨てること。何度それができたら楽なんだろうと思ったことか。

今年の5月30日付けの新聞で駒澤大学の井上智洋が「頭脳資本主義、数より質重要」という記事を書いている。AIやロボットが社会に浸透していき、労働力として人間の生産性向上に役立つとともに、一部の人間以外の労働を奪う(代替わりする)ようになると指摘している。

そうなった時代を象徴する言葉が「頭脳労働主義」らしいのだが、オックスフォード大学のマイケル・オズボーンは「雇用の未来」という論文で、今後なくなっていく職業が増えていく一方で創造的な仕事は残り「クリエイティブ・エコノミー」の時代がくると書いた。

クリエイティブ・エコノミーとは、2000年代初頭にリチャード・フロリダが唱えたクリエイティブ・クラスと呼ばれる社会階層が中心となる経済社会をイメージすればよいのだろう。

井上は、日本国民の所得分布は今とは様変わりすると述べる。つまり、正規分布モデルをベーストしたものからベキ分布(ロングテール型)への移り変わりである。



中間層と呼ばれるボリュームゾーンが失われ、そこでは平均や分散といった値は意味をもたない。

かつて、貧富の差の少ない日本の社会構造をもとに一億総中流という国民の意識が一般的だった時代もあったが、それが大きく変化しようとしている。

何日か前に、吉本興業の若手芸人の時給が300円という話をこのブログに書いた。所属する芸人・タレントらの収入はまさにこのロングテール型だ。一部の超売れっ子と膨大な数のほとんど無給に近い売れてない芸人の集団である。

これが芸能事務所だけの世界でなく、徐々に一般の社会にも当てはまるようになるのはどうも避けられそうもない。

そして左端のボリュームゾーンの人たちを守るための最低賃金法の改定やベーシック・インカムの導入といった話題がこれからもっと表に出てくるに違いない。

かつて植木等が映画「ニッポン無責任時代」で演じた主人公の名前は、平均(たいら・ひとし)といった。どこにでもいそうなニッポンの無責任なサラリーマンを拡大戯画化して描いたものだが、もうこれからの日本に平均(たいら・ひとし)はいない。


2019年8月6日

闇営業と副業の違い

今も吉本興業の芸人による「闇営業」に関する報道を目にする。

今日のN本経済新聞は、こう書く。
芸能界のコンプライス(法令遵守)が話題になっている。吉本興業では所属タレントが会社を通さない「闇営業」で反社会的勢力の集まりに出席していたことが発覚。ジャニーズ事務所を巡っては、テレビ局に同事務所を退所したタレントを出演させないよう働きかけた疑いがあるとして、公正取引委員会が注意した。
「闇営業」が批判されるべきと言いたいのか、反社会勢力の集まりに芸人が出席したことが許せないと主張しているのか判然としない。あえて判然とさせてないように思う。

芸人が所属している事務所を通して仕事しようがしまいが、それは彼らの間でのこと。新聞記者がどうこう言うことじゃない。また反社会的勢力の集まりに顔を出したのがコンプライアンス違反だと糾弾したいのであれば、その前にそうしたことを日常的にやって来た政治家を指弾しなけりゃ筋が通らない。

政治家は怖いから物が言えないけど、芸人をよってたかって叩くのはたやすいからそうしてるだけと見られてもしかたないだろう。

ジャニーズ事務所がテレビ局に働きかけたというのも、さもありなんだろう。もちろんおかしいし、上品なことじゃない。だけどテレビ局が大人なら、それを無視すればいいだけの話だ。周りがしょうもない正義感をふりかざす必要には及ばない。

記事の冒頭で、法令遵守と括弧付きでコンプライアンスなどときいたふうな言葉を振りかざしながら、その本当の意味を分かっていない記者が薄っぺらい知識でテキトーに書いた記事。だからか署名もない。

また記事に、
「吉本」「芸能人」などの言葉を含む491件のツイート(10%サンプル値)を分析した。
とある。最近は、ツイートで誰が言ったか分からないような言説をもとに、新聞記者はさもそれが世間の見方のような記事を書くのか。楽なもんである。

ところで記事中の(10%サンプル値)って何だ。これまで市場調査を多数やってきたが、こんな書き方見たことない。新聞社の他の人たち、意味が分かってるの?

「闇営業」という言葉がこの事件(?)をきっかけに普通に使われるようになったようだけど、それって何かよく分からない。所属する会社の正規のルート外で仕事しただけと違うのか。

「闇」だとか、そこまで大げさな表現を振り回す必要があるのだろうか。「闇」と「副業」とは何が違うの。

むかし広告の制作やイベント・プロデュースの仕事をしていたとき、勤めていた会社の本業以外のそうした仕事は単純に「アルバイト」と呼ばれていた。能力のある連中ほど他社から声がかかり、アフターファイブにこなしていた。ただそれだけのこと。


2019年8月2日

風穴の開け方

昨日、臨時国会が開会した。そこには、れいわ新選組の特定枠で当選した重度障害者の木村さん、舩後さんの姿もあった。

重度の身体障害をもち、脳性麻痺の診断も受けた木村さんが手足で動かすことができるのは右手だけだ。舩後さんはALS(筋萎縮性側索硬化症)で、声を発することができない。が、目と口の動きで意思を伝えることができる。

国会の歴史の中で、こうした重度障害者が議員として登院することはなかった。だから議場のバリアフリー化などの改修工事が今回なされることになった。「賛成の方はご起立ください」と議長が言っても立ち上がることができない二人は、介助者がその場合代わりに手を挙げて賛成を表明する。

多くの人たちが多様性が重要と判を押したように叫ぶなか、心の中ではこうした二人のような国会議員の姿を想像すらしなかった。その多くの人たちの心の隙間に風穴を空けた山本太郎という男はなかなかだ。

れいわ新選組が獲得した票数である228万票は有権者全体のわずか2%に過ぎず、ミニ政党の域を出ていない、と評する政治学者もいるようだけど、数じゃないんだよ。アイデアのインパクトなんだよ、注目すべきなのは。

これまでの長年の政治の世界に向けた人々の気持の中の閉塞感が変わっていくことを期待せずにはいられない。

2019年7月30日

時給300円で人は生きていけるか

吉本の芸人たちが待遇改善を求めて起ち上がり始めているという。例の闇営業から波及した芸人たちと彼らを管理する会社社長とのもめ事の延長だ。

1回の仕事のギャラが1円だったとか、一週間拘束されて仕事した報酬が一万円だったとか聞くと同情に気持は傾く。

ただ、なぜこれまで誰も本人たちが声を上げようとしてこなかったのか。こうしたきっかけがないと動き出せないのがちょっと情けない感じがする。

そもそもが会社に管理されて給料もらって、最低賃金保証されて・・・というのはあまり芸人らしくはない。社会からなんだかんだいってはみ出して、河原乞食とまではいわなくても、堅気の社会人であることに背を向けた連中が芸人だというのは、今ではおかしな発想なんだろうか。

以前は芸人を目指すということは、師匠を見つけてその弟子となって芸やその世界のしきたりを体で覚えながらやっと一人前の芸人になっていくという道筋がほとんどだったように思う。

それがいつの間にか「事務所」と呼ばれる会社の養成所を経てデビューし、マネジャーに世話を焼かれてテレビに出るのが芸人の生き方になった。吉本興業やジャニーズが代表格だ。そこには雇用主と被雇用者の関係があって、師弟関係はない。

テレビ局や制作会社なども大手の事務所を通して出演者をブッキングするのが楽で便利なので自分で新しいタレントを探して育てようとはしない。今の状況を作った最大の責任はテレビ局にあるというが僕の見立て。

ここでもまた流れがなく、水がどんよりと淀んでいたのだ。その深いところには汚泥がたまり、メタンガスが立ち上り、異臭を放っていた。それが今回のひょうんなことから水面に泡がひとつまたひとつと吹き出て、多くの人の知るところになった。

2019年7月25日

日産スタジアムで花火

7月25日、日産スタジアムのある新横浜公園で花火の打ち上げがあった。午後7時半から8時まで、わずか30分、しかも大した大玉はなかったがそれでも楽しめた。

周りにいた子供たちがひとつひとつの打ち上げに歓声をあげるのが面白い。ただ、会場周辺の警備があまりにも型どおりというか、土手の上にだって「危険ですから立ち止まることはできません!」ってメガホンで怒鳴られる。何言ってんだろうって・・・。


2019年7月22日

老年よ、海外をめざせ

金融庁の審議会が、老後ひとりあたり2000万円の生活資金が不足するという報告書を出したのをーつのきっかけとして、民間の機関が個別の事情を深掘りする独自の調査報告を相次ぎ公表した。ニッセイ基礎研究所、第一生命経済研究所、日本総合研究所といったところからだ。
それぞれの調査の方法は独自の基準に基づいて行われているが、どの機関も公的年金だけで生活水準を保つのは難しいとしている。現役世代で十分な資金があるのは2割だという試算も出した。結果として、長くなって行く寿命に合わせて生活を成り立たせていくためには、上手に資産運用をすることと長期間働き続けることで収入を得続ける環境が肝心だと結論した。
定年で仕事を終えたあとは、退職金と年金で余生をゆったりと過ごすという、ついこの前までの日本人の人生の晩年の過ごし方に大転換が迫られているわけだ。なんなんだと思う。
100年人生だとか言われてるが.長生きすることが果たして幸せなことなのかどうか。多くの人が真剣に考え、身につまされることになるだろう。
経済的な視点からは、貯蓄が限られ退職金や年金が限られる中で生計を営んでいくためには、不足する分を自分の力でその後も稼ぎ続けるか、家族や周りに食べさせてもらう方法しかない。
しかし稼ぐ代わりに、限られた持ち金でそれなりの生活をし、幸せを感じながら生きていく方法を探し求めてはどうだろう。
一つは金銭的な経済に頼りすぎない生活をすること。例えば、土地の余っている田舎に生活の場を移し、田や畑を耕し、自分たちが食べていくための自給自足に近い生活をするという道だ。
あるいは、日本より物価の安い外国に移り住むという方法はどうだ。1980年代後半に当時の通産省がシルバーコロンビア計画というのを発表した。
スペインや、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、そしてアジアのタイやマレーシアなどがその対象国だった。日本より物価の安いそれらの国に移住し、残りの人生をゆったりと過ごしてはどうだっという考えである。実際のところはうまくいかず、計画は頓挫した。

「海外姥捨て山」とか「老人の輸出」といった批判がなされたことが背景のひとつにあった。しかし、改めてそうした人生後半の過ごし方をもう一度真剣に考えてもいい時期かもしれない。
例えば日本より物価が5分の1といった国では、日本で暮らすには不十分と思われる年金の額でも生きていくことはできる。

そのためにも機会を見つけて、まずは外国にいろいろと出てみることだ。言語も含めて、日本のぬるま湯的な社会環境とは違うなかで折り合いをつけながら日々を楽しく過ごせるようにするトレーニングを積んでいく必要はある。
また食事にしても、外国で日本と同じような食事が普通にできるわけではない。現地の食事に慣れていくか、あるいは自分で工夫をして料理を楽しむしかない。そのためには、男だろうが何だろうが台所に平気で入り、自分の知恵と経験でどんどん料理を工夫し作っていくくらいの応用力は必要になる。
つまりは、今までと違う環境に自分の身を投じて、そこに自らを合わせていく柔軟性や自分の好きな料理をアイデアと工夫で作っていくといった、人間の基本的な能力といったものが最後は鍵になる。

定年後も働くということ

日本の大手企業で、これまでならば定年で会社を去っていくはずの社員を、そのまま役職につけたままで雇用し続ける例がいつか見られるようになってきた。
もちろん全ての定年を迎える社員をそうやって雇用延長するわけではないが、企業とすれば年齢に関わりなく優秀な人材を組織の中に留め、活躍してもらうというのはきわめて合理性に沿った判断である。今さらながらにしてやっと、という気がする。
2000年代あたりだったと思うが、家電産業を中心に日本企業から多くの優れた技術者たちが中国や韓国の企業に流れた。ソニー、パナソニック、シャープ、当時の三洋など、枚挙にいとまがない。
それらの企業は深く考える事もなく、それまでやってきた社内の紙の上での決まりに沿って人材を社外に押しやった。それまで優れた研究開発の業績を上げてきたにもかかわらず、ただ定年だと言うことで仕事を取り上げ、会社から追い出してしまった。
まだ働きたいし、能力を活かすことができるエンジニアたちは、こぞって中国や韓国からのスカウトの話に乗って海を渡ったのである。結果として外国の多くの競争相手に貴重なノウハウや知識、経験を与えてしまうことになり、長年にわたって日本企業の中で培ってきた優れた技術を中国や韓国の企業に移転することになった。
日本企業は、やがてそうした国の家電メーカーに対して競争力を失っていった。しかし日本企業の経営者たちは、そうした実体を知っていながら発想を変えることをせず看過していた。
なぜその当時から、能力がある社員は年齢に関わらず社内で活躍し続けてもらおうと考えなかったのか。合理性から考えれば至極当たり前のことを、どうして日本企業の経営者たちはできなかったのだろう。

2019年7月20日

参議院議員の被選挙権年齢に合理性はあるか

明日は参院選の投票日である。投票率が、特に若年層のそれがどのくらいになるか気になる。

参議院議員の被選挙権年齢は30歳から、衆議院は25歳からである。その年齢差には「良識」の差が関係している。参議院は「良識の府」と位置づけられているらしい。そのため任期は6年間で、解散はなし。対する衆議院は任期4年で解散がある。

じっくり長期的視点で国政を考え実行してもらおうというのが参議院の位置づけになっている。だがちょっと待てよ。だからといって参議院をあえて「良識の府」と呼ぶのはそもそもの問題があるだろう。衆議院はそうでなくても構わない、仕方ないという考えが裏側にあるわけだから。

もうひとつ。25歳は良識をとわれなくて、30歳になれば良識があると判断していることの論理的合理性の所在の問題だ。誰が決めたのか、その根拠はどこにあったのか?

ちなみに米国も、上院と下院で被選挙権の最低年齢は30歳と25歳と5歳の違いがある。ただこれを年齢差別と指摘する声は聞かない。らしくないな。不思議だな。

2019年7月15日

見習うべきひとつの男の生き方

ロバート・レッドフォード主演の「さらば愛しきアウトロー」を横浜のkinoシネマで観る。ここは初めて。小振りだがきれいで、落ちついて映画が観られるいい劇場だ。
映画の原題は The Old Man & the Gun。なんとなく彼の出世作であるButch Cassidy & Sundance Kid、邦題「明日に向かって撃て」にタイトルのスタイルが似ている。

この映画は、レッドフォードが役者としての引退作だと宣言して出演した作品。彼は現在82歳。これからはスクリーンに出ることはなく、監督や製作担当者として映画にかかわるのだろう。

そう言われて観れば、スクリーン上のレッドフォードもさすがに老いた感じは否めない。1936年生まれだもの。だけど人が年をとるのは当たり前で、共演しているダニー・グローバーは73歳、トム・ウェイツは70歳である。映画の中でレッドフォードが演じたフォレストがたまたま出会い、心引かれる女性を演じたシシー・スペイセクも70歳だ。ホントこの映画出演者の平均年齢は高い!
さて、彼が演じたフォレスト・タッカーは実際にアメリカにいたという銀行強盗。なんと65年間にわたり銀行強盗、逮捕、脱獄を繰り返してきた実在のアウトロー。ただ一度として人を傷つけることなく銀行強盗を行ってきた、伝説の人物である。
雑誌「ニューヨーカー」に書かれた彼のそうした逸話を読んだレッドフォードが、その映画化権を取っていた。そして今回、彼の主導のもとで製作されたのがこの映画である。
学生時代、「明日に向かって撃て」「追憶」「スティング」はいずれも高田馬場にある早稲田松竹で観た。当時、その映画館で繰り返し上映されていた覚えがある。それだけ当時の学生らに人気があったのかもしれない。
レッドフォードはその後ハリウッドで大成功を遂げる。しかし彼自身は、ハリウッドに与することをよしとせず、ユタの田舎でインディペンデントの映画作家を支援するためにサンダンス・インスティテュートを設立し、映画祭(サンダンス映画祭)を開くなどをしていた。
冒頭、「この映画はほとんど実話である」という字幕で始まる。そういえば「グリーンブック」もほとんど同じ字幕で始まったが、その時と同様に見終わった感想としては、やはり本当だろうかという思いは拭えない。アメリカ人でもない僕は、なるほどこんな話があったんだろうなという感じで理解するしかない。
レッドフォードが演じたフォレスト・タッカーは、根っからの自由人、というか何にもとらわれること好まないはみ出しものの男。映画の最終盤、彼はシシー・スペイセク演じるところの女性との暮らしに落ち着いたかに見えたが、ある日、ソファーでうたた寝する彼女に「買い物にいくが、何か欲しいものないか」と尋ね、そのまま街へ出かけて銀行強盗をしかける。そこで映画は終了するのだが、ちょっとそこは演出が過ぎた感じ。
ただ、タッカーのはみだし者、さすらい人ぶりはよく描かれていて、それはひょっとしたらレッドフォードがこれまで多く映画の中で見せてきた姿をここでもまた、最後の最後にスクリーンで見せつけたと理解した方がいいのかもしれない。
ずいぶん昔になるが、レッドフォードにある日本企業のCMへの出演を依頼したとき、彼の側からの返答はそのCMのディレクター(監督)を自分にやらせてくれるのであれば仕事を引き受けてもいいという内容だった。思いがけない返答に、我々やスポンサーはこれはきっと彼のサイドの断りの方便だろうと考え、彼のCMへの出演を諦めたことがあった。
そして間もなく、彼は自らが初監督した映画「普通の人々」でアカデミー監督賞を受賞する。

2019年7月12日

JR東海社員 入社5年目

東京駅日本橋口の改札前に置かれたホワイトボード。乗客に向けての案内がマーカーで書かれているのだけど、そこに新幹線と電車と東京駅のイラストが添えられている。


日本橋口は東海道新幹線だけのための改札である。それを知らず、在来線や地下鉄を利用しようとする客が間違って入ろうとすることが多いのだろう。そうした人に向けての手書きの案内だ。

そこに添えられたイラストは、もちろんプロの出来映えではないけど、書き手が電車や駅が好きなんだという気持が伝わってくる。

そのイラスト、誰が描いたのか、みどりの窓口のスタッフに聞いたら「えっ、イラストってなんですか」と返ってきた。10メートル先の自分たちの駅の改札前に置かれているホワイトボードに何がいま書かれているか知らないのだ。忙しいのか、興味がないのか。

調べてもらったら、入社5年目のJR東海の男性社員の手になるものだとか。それなりに時間もかかったろうに。なんかいい感じだ。

2019年7月5日

ペーパーバック版が出た

英国の学術出版社Routledgeから連絡があり、Internal Marketing のペーパーバック版が出版されたとか。

https://www.routledge.com/Internal-Marketing-Another-Approach-to-Marketing-for-Growth-1st-Edition/Kimura/p/book/9780367350659

日本に比べ、欧米のハードカバー書籍はとても高い。僕の本もハードカバーは100ポンド以上もして、ちょっと知り合いにも勧めにくかったというのが正直なところ。それが今度は30ポンドを下回る価格に設定されている。より広い読者に手に取ってもらえそうだ。

日本のアマゾンでは、このリンクから。

2019年7月4日

パブロ横尾画伯の迫力

今日の朝刊から。玉置浩二のロマーシカと銘打つコンサートシリーズの広告。

理屈はいらない。横尾忠則のこの玉置を描いた肖像画がすべて。


2019年7月3日

商売より投票、金より地球

パタゴニアは、7月21日に直営店全店を休業にすると発表した。この日は日曜日。参院選の投票日で「投票に行くパタゴニア社員のために」店を休みにするという。

見上げたものである。真剣に社会を考えるということは、ここまでやることだと教えてくれる。しかも、「みんなで投票に行こう」じゃなく、自分のところの社員のためにという発想が素晴らしい。押しつけがましさや「ええかっこしい」的なスタンスからも離れている。

パタゴニアの社員はもちろん投票にいくのだろう。そして、それに釣られて多くの人たち、特に若い人たちが投票所にむかうといい。

https://voteourplanet.patagonia.jp/?in=921


2019年7月2日

自家製枝豆でビールを

ベランダで育てた枝豆を収穫した。といってもプランターひとつ分だから、ほんの数分で作業は終了。

取れた枝豆は30房ほど。水で洗い、塩もみし、沸騰したお湯で4分ほど茹でる。茹で上がったらザルで水気を切って終わり。

見た目はあまり良くないが、美味しい。自分が育てたからか。100パーセント自然栽培である。


2019年6月25日

人々の未来を作る図書館

岩波ホールで上映中の映画「ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス」をやっと観ることができた。都内ではここだけの上映であり、劇場は全席満席だった。

ドキュメンタリーを得意とするフレデリック・ワイズマンの手によるNYPL(New York Public Library)を余すところなく紹介した映画だ。


NYPLは、マンハッタンの40丁目から42丁目にかけて位置している。タイムズスクエアとグランドセントラル駅のほぼ中間あたり。Public(公共)library となっているが、公立の図書館とはちょっと違う。市からの財政支援も受けているが、それと併せて民間からの寄付で運営されている独立法人だ。

図書館の裏は、ブライアント・パーク。これが公園としてまた素晴らしい。夏には芝生の上で映画の上映会なんか開かれていて、在外研究でコロンビア大学に在籍しているときにはよく出かけた。

https://tatsukimura.blogspot.com/2012/07/bryant-park-summer-film-festival.html
https://tatsukimura.blogspot.com/2012/11/blog-post_14.html

NYPLは88の分館を含む全92館の図書館のネットワーク。とにかく日本の図書館では考えられないような「サービス」の数々を実現している。日本のように本を所蔵し、貸し出すだけではない。地域の人たちの学びの場であり、コミュニティの場であり、子供たちの学習の場であり、新しい仕事を探し人生を築いていくための場所。アメリカの民主主義をどこよりも体現している場所といっていいかもしれない。

1911年に竣工されたダウンタウンにある本館の閲覧室は、厳粛な雰囲気を漂わせているが、基本的にはこの図書館はとても市民に対して敷居の低い図書館で、だれもが本当に気軽に日常的に使えるように考えられている。

この映画の中で誰かが言っていた。「図書館は、本についてのものではありません。図書館は本を所蔵するところではありません。図書館は、人についてのものです。人が知識を得るために本が整えられているのです」。簡明にして至言だ。

この図書館を使うためだけにでも、またNYに住んでみたいと思った。

ただ映画は3時間26分と長く、途中で10分の休憩が入る。ひとつひとつの挿話が冗長と感じられるものが多く、少し疲れたのが残念。



2019年6月18日

テレビのニュースはもうこれでいいや

筑紫哲也さんがTBSで「ニュース23」を始めたのが1989年。その年は昭和でいえば64年、そして平成元年だ。

なぜそんなことを覚えているかというと、僕が初めて転職した年だから。大学卒業後8年間つとめた広告会社を辞めて航空会社に移り、昭和天皇の健康状態などを報じるニュースを気にしながら仕事をしていた記憶がある。天皇の健康を気遣うというより、崩御の際の業界への影響を考えていた。

筑紫さんはその後2007年に亡くなるのだが、その前年まで彼がキャスターやっていた「ニュース23」が僕にとってのニュース番組だった。当時は仕事で帰宅するのが遅く、彼の番組くらいしか最初のトップニュースを見られなかったという状況もあった。

長年見ているうちに、無意識にも彼のものの考え方は僕に移っていったような気がする。それと、早く帰宅できた日は、10時からの久米宏「ニュース・ステーション」を見ていたようにも記憶している。

その後だが、とくに決まって見るニュース番組はなくなった。見るとも聞くともなく、適当にチャンネルを変えながら見ているといったところ。気になるのは、ニュースとバラエティの境界がもうなくなっていること。最近は、CNNやBBCをBSで見る方が多くなった。

最近は夜11時25分からのNHK「ニュースきょう一日」を見ている。15分間の短いニュース番組だが、その日の主要なニュースをコンパクトに要点をつまんで伝えてくれる。井上あさひさんという女性キャスターの出身地が僕と同じで、卒業した中学校も同じというのも何か縁を感じる。テレビのニュース番組は、もうこれでいいや。
https://www4.nhk.or.jp/news-kyou1/

2019年6月12日

呆れた大臣

麻生太郎金融担当大臣が、金融庁の審議会がまとめた報告書の受理を拒否した。

この報告書は老後の資産形成を呼びかけ、議論のきっかけとする狙いで審議会が作成したものである。それを大臣である麻生が受け取らないというのは非常識であり、理解をこえている。

記者会見でその理由を問われて、「政府の政策と全然違うから」だと説明した。

自分たちにとって都合の悪いことは、聞かない、見ない、受け取らない、つまりなかったことにすれば済むと考えているわけだ。政治家としてきわめてタチの悪い振る舞いと言わざるを得ない。

しかも一昨日の参議院決算委員会で野党議員からその報告書を読んだのかと問われたときは「冒頭の部分に一部目を通した。全体を読んでいるわけではない」と回答したという。

2019年6月4日

ヤフーの信用度はわれわれが点数づけしよう

ヤフーのユーザーは、今年3月時点で4800万人にのぼる。その膨大なデータをもとに、ヤフーは利用者の信用度を点数化していくという。まるで中国だ。

点数が高くつけられた者にはポイントが与えられるという。ありがたや、ありがたや。

利用者個人には、それぞれの点数は知らされることはない仕組みになっている。一方で企業がヤフーとこのプログラムで提携するとユーザーのスコアを無料で手に入れることができる。ヤフーはというと、提携企業からさまざまなデータを入手することが目的だ。

消費者には何がどう起こっているのかがブラックボックス化されたまま、胡散臭い連中が適当にデータをいじり回して個人のプライバシーを金に換えていく。

そろそろ気を付けて、ヤフーの使い方を工夫していかなきゃならないようだ。


2019年5月4日

右脳か、左脳か、両脳か

サントリー芸術財団50周年記念の催しとして、佐藤オオキさんのnendoとサントリー美術館が企画した information or inspiration? 展が乃木坂で開催されている。

出品点数は22点のみ。しかもどれもサントリー美術館がもともと所蔵している工芸品だ。ポイントはそれらを右からと左からの2つのルートで見て「感じ」「考える」というところにある。


「最初は黒のルートでどうぞ」と勧められたのは、22点の工芸品を観客が自分の眼(まなこ)で虚心なく鑑賞するためにしつらえられた展示。極力、ものとしての作品以外の情報が観客に伝わらないように工夫されている。

一方、白のコースには、それら工芸品が供えている様々な意匠や工夫が鑑賞する人に分かるような説明的な展示が施されている。それらの作品についての詳細な説明が歴史的、工芸的な側面から文章とイラストでなされている。

これら黒のコースが inspiration、白のコースが information という訳だ。展示会タイトルの副題は「左脳と右脳でたのしむ日本の美」とあり、白コースが information を表す右脳コースで、黒コースが inspiration の右脳コースを示している。

脳がまたブームである。人類にとって宇宙とならぶ未知の領域だけに、テーマとしてはまさに鉄板ネタともいえる。

経営学の分野でもそれをネタにした本が最近またぞろ登場してきている。大学での同僚の内田さんが出した「右脳思考」や佐宗邦威「直感と論理をつなぐ思考法」などがそうだ。

前者は分かりやすく右脳と左脳という言葉を直裁的に用いていて、後者は右脳、左脳という用語は用いず直感と論理と表現している。また、前者は右脳を優先させる思考によって、後者は直感と論理をつなぐことによって新たな視点を手に入れ、ひいてはビジネスの成功がもたらされると説く。

米コロンビア・ビジネススクールのウイリアム・ダガンが2010年に出した「戦略は直観に従う」につながるビジネス書だが、日本でのはしりはといえば30年以上前に脳生理学者だった品川嘉也さんが書いた「右脳ビジネス」だろう。脳が永遠のテーマと言える所以だ。

左脳ではなく右脳を活かせとか、直感(右脳)と論理(左脳)をつなげとか言われても、実際どうしたらよいものか悩んでしまう。右手左手、右足左足のように本人に見えるわけじゃないからね。


2019年4月27日

休めないニッポンがある

10連休が世の中で始まった。空港は混雑し、下りの新幹線はどれも満席。下りの高速道路も長い渋滞ができている。

それにしてもなぜ「一斉」なのか。調査によると、日本の企業などで働く人たちは他国の人に比べて多くの有給休暇を与えられている。しかし問題は、いやそもそも問題かどうかの判断すら難しいが、その半分ほどしか日本の労働者はそれを使っていないらしい。

いま僕が勤務している組織にはタイムカードがない代わり、有給休暇という制度もない。しかし20年ほど会社勤めをしていた80年代と90年代は1日たりとも有給休暇を残した年はなかった。そんなこと自慢するようなことじゃないけど。

国が先導してこうした連休、つまり国民の休日をやたら増やすのは問題だと思っている。同じ時にみんなが休めば、いろんな不合理が発生するのは誰でも分かる。交通機関も観光地も混雑し、ホテルや航空運賃など旅行代金はその間高騰する。

日本という国では仕事を休む日にちまで国が"指導"してくれる。そのうち、子供を産むタイミングや我々が死ぬ時期まで国が決定するようになるかもしれない。いや、冗談じゃなく。

連休中でも仕事柄休暇をカレンダー通り取ることができない人もたくさんいるだろう。また日本の被雇用者の4割近くを占める非正規で働く人たちは、休んだ分だけ収入が減ることになる。そうした個人だけでなく、中小企業のなかにも稼働日が減ることで売上がその分減少し経営に大きな影響を受けるところも多いだろう。

とすると、国が定めた大型連休をその通り享受できるのは、大企業かお役所に正規社員、正規職員として雇用されている人たちだけ。

国は連休を制度として制定することが国民に対するプレゼントのように考えているようだが、まったく大きなお世話である。

2019年4月23日

つまらない規則から若者を解き放つとき

経団連と大学側が話し合いを行い、大学生の就職活動の横並びを今後やめていくことで同意した。

春の新卒一括採用ではなく、これからは通年採用を拡大していくという。結構なことだが、何をいまさらという感じだ。実際、楽天やファーストリテーリングなどは、経団連のルールに合わせず通年採用を既に行っている。

現在の新卒採用は、経団連が定めるルールに沿って大学3年生の3月に企業が説明会を始め、4年生の6月に面接を解禁する日程で進む。なぜこうした規則のもとに、大学生が振り回されなければならないのか。

社会人と話していて、よく就職氷河期入社だとかバブル入社組といった言葉を聞くことがある。自分たちが卒業する年に、世の中の景気がどうだったかで、自分が希望していた仕事に就けたり就けなかったり。人生に運はついて回るものだが、それにしても理不尽だ。

トラック競技よろしく号砲とともに全員が一斉にスタートをする就職活動がほとんど人生一度きりのチャンスとなっているために、日本では容易には敗者復活戦が効かない。若者にとってはもちろん、企業にとっても望む優秀な人材を採用できない理由になっている。

既に大学を卒業して何年かたっている人間の中にだって、適性があり優秀な人間はたくさんいるはず。にもかかわらず、そうした人間はほとんど新卒の採用の対象にならない。こうしたトコロテン式で大学から企業へ直行させる、つまらない就職活動のもとになっている就職協定なるものは早くなくした方がよい。

ライフネット生命の創業者で、現在は立命館アジア太平洋大学の学長をしている出口治明さんの本にあったのだけど、彼がある日SNSを見ていたら「全員が日本人男性で最年少が60代。全員がサラリーマンで起業家はゼロ。大学卒業後、1つの会社で勤めあげた人ばかりで、転職経験も副業経験もゼロ。この組織は何?」と言う投稿があったらしい。その答えは何か・・・経団連である。

硬直的な組織の中で生きてきたこうした人たちが、若者の将来を左右する就職活動についてのルールを決めてきたことがそもそも大きな間違い。何かというと口先だけで多様性だとかほざく日本企業のおっさんたちほど多様性に欠けた存在はないのだから。

2019年4月22日

スリランカでもテロ

スリランカの首都コロンボで、複数の箇所で爆発事件が起きた。今日時点で200名強がなくなり、450名あまりの負傷者が報告されている。日本人の犠牲者も出た。

爆発が起きた箇所の1つの名に目を引かれた。狙われたシナモン・グランドホテルは、2015年2月にJICAの仕事でコロンボを訪れた際、3日間ほど投宿したホテルだったからだ。

滞在中はいろんな人から長年にわたる内戦のこと、民族間の諍いのことを聞かされた。でも当時、それらは落ち着き、昔そうだったような穏やかな暮らしを人々は取り戻していた。

今回の事件はまだ原因が解明されていない。連続的な事件につながらなければいいけど。

後日、スリランカからの留学生と話した際、今回の事件で彼の自国の友人の2人の姉妹が犠牲者になったと聞かされた。

シナモン・グランドホテル近くの幹線道路

2019年4月18日

丁寧すぎて分かりづらい日本語

ペルー出身の女性がインタビューに応えていた。彼女は日本の大学で講師を務めている38歳の女性。来日して22年になる。

そんな彼女が「市役所や銀行で使われる言葉は敬語も多く、丁寧すぎて一番分かりにくい。やさしい日本語を使ってください」と語っていたことに考えさせられる。

丁寧な日本語か、やさしい日本語か。決まったルールはもちろんないが、相手に合わせて話し方や使用する語彙を使い分けるのが当然だろう。組織からおしえられた話し方を盲目的に身につけるだけで、相手に伝わらない日本語を使っているとしたら恥ずかしい。

2019年4月16日

みそと日本

広告が面白くない、とずっと思っている。理由はいろいろ考えられるが、結局は広告クリエーターと広告主企業の担当者の問題だ。

腰が引けた広告表現ばかりだとウンザリしながらも、ネットに企業の関心と予算が急速にシフトするなかこうした流れ、つまり広告表現の凡庸化は仕方ないと諦めていた。

そんなとき、こうした広告を見ると「頑張ってるじゃないか」と応援を送りたくなる。


今朝の新聞1面のコラム横、横4.5センチ x 縦6.5センチほどの小さな小さな広告スペース。

コピーは「おみそがダメになったら、日本もダメになると思う。タケヤみそはそんな気持で、一所懸命におみそを作っています」。ど真ん中、ストレートな表現に味噌屋としての矜恃を感じる。

LGBTQのQとは

昨晩、早稲田大学の大隈ガーデンハウスで、異文化交流センター主催のちょっと風変わりなコンサートがあった。

メインの出し物は「シドニー ゲイ&レズビアン合唱団」のコーラス。シドニーを拠点に活動する1991年に設立された「多様性あふれる」合唱団である。パワフルな歌声を12曲ほど披露してくれた。

70名を超える団員がいるらしいが、今回はその中の30〜40名が来日して東京、京都、福岡で公演を行う。


大学を舞台にしたアウトリーチ活動ということもあって、コンサートの途中で結構長々と人権や平等といったことについての講演がはさまれたが、そこでLGBTQという言葉を彼らが何度も使っていたのが気になった。

最後のQとは何か気になり、帰ってから調べると、それはQueer あるいは Questioning を指し、LGBT以外のジェンダーマイノリティのことだったり、それすら自分でよく分からない人たちをQで示しているらしい。

ウルトラQと同じだ。

2019年4月15日

世界を変えた一枚


初めてこれを見せられたら、人は何だと答えるだろう。焦点のぼけたシュガードーナツの写真とか。人は自分の周りの知っているもの、今まで見たことのあるものにそれを重ねようとする。

今年は、一般相対性理論が歴史的な実験によって初めて実証されてから100年の節目の年に当たる。

2019年4月10日、イベント・ホライズン・テレスコープの研究チームは世界6か所で同時に行われた記者会見において、巨大ブラックホールとその影の存在を初めて画像で直接証明することに成功したことを発表した。

今回撮影されたのは、おとめ座銀河団の楕円銀河M87の中心に位置する巨大ブラックホール。このブラックホールは、地球から5500万光年の距離にあり、その質量は太陽の65億倍。

どちらの数字もその規模の想像すらつかない。最先端の科学は哲学的だ。

2019年4月7日

「ひこうき雲」から45年

夕方、帰宅途中に駅前で食料品の買い物を済ませ、いつも通る横浜アリーナの前を通りがかった。気づかずにいたが、今日は松任谷由実の3連続公演の最終日だ。


何かちょっと気になり、買い物のビニール袋を手に当日券売場へ。ちょうどあと10分でその窓口が開くタイミングだった。シャッターが降りたままの窓口には「当日券・立ち見席」と張り紙がしてある。

立ち見はいやなので、指定席券があるかどうかに賭け並ぶ。「会場の機材取り外しのため席がでました」とやらで指定席が手に入った。9720円也。

コンサートのコンセプトは、TIME MACHINE TOUR。彼女のデビュー45周年を記念したコンサート。これまで彼女がやって来たコンサートからのピックアップ、ダイジェストといっていい。アンコール入れて2時間半。

彼女がデビューしたとき、僕は中学三年。だから勝手に、コンサートのお客さんは僕と同じ年か少し上だろうと思っていたが、一回り、二回りも若いお客さんがほとんどだ。ユーミンがそれだけ長くソングライターとして活躍している証拠だな、これは。立派なもんだ。

コンサートは「ベルベット・イースター」で始まり、「ひこうき雲」で幕を閉じた。どちらも彼女が19歳(!)の時にリリースした初アルバム「ひこうき雲」からの曲。うちに帰ってからあらためてそのアルバムを全曲を聞き返してみた。今さらながらだが、詩が洗練されていて完成度が高い。あらためて彼女の才能を確認させられた夜だった。

2019年4月4日

見えてるものと見えないものの間

日産自動車元会長のカルロス・ゴーンが東京地検特捜部によって逮捕された。4度目の逮捕である。容疑は特別背任。一連の事件捜査はずいぶん長く続いている。一体何がどうなってるのか未だ全容がよくわからない。

それにしても、なぜこのような事件が起きたのか。たまさか起こったのか、起きるべくして起こったのかが気になる。

カルロスゴーンは経営界のスーパースターだった。経営破綻の瀬戸際にあった日産自動車の業績をV字回復させた手腕は、停滞する日本経済全体の中で光輝いていた。

それがなぜこのようになってしまったのか。当時瀕死の日産自動車を立ち直すため、彼は提携先のルノーから招かれた。しかしリバイバルプランと呼ばれた彼の改革は、彼自身が策定したものではない。改革案そのものは、すでに日産自動車の中にあったのだ。

しかし当時の日産の経営者では、それらを実行することができなかった。なぜなら日本の経営者にとって最も難しいことの1つは社員や工場の整理、つまり首切りである。また、これまでの系列会社などとの関係解消も難しい。いわゆる日本人同士のしがらみという奴があるからだ。

どんなに明晰で理路整然とした人間でも、こうした点になると多くの日本人は一転して本来の自分ではなくなる。当時の日産自動車の経営者もそれがわかっていたから、自分たちの手で行うのではなく、外圧としての外国人を用いようと考えたわけだ。そして、日本人では行われなかったであろう日産自動車社内の大改革はひとまずは成功した。

ただその際、当時の日本人の経営者たちは、その出口を考えていなかったのかもしれない。つまりはポストゴーンである。ゴーンで経営を再建した後、誰がどのように日産自動車全体の旗振りをするのかというシナリオがなかったのかもしれない。あるいは、全権を掌握したゴーンがそうしたシナリオをつぶしていったのかもしれない。もちろんこれは推測である。

そして日本人の経営層は、それらの成り行きを手をこまねいて見ていたとしか今では思えない。そこがこの事件と日産自動車の不幸の始まりだった。

かつてビジネススクールでも、カルロス・ゴーンがなした日産のV字回復が優れた経営手腕の典型例として積極的に教えられていた。見えていたものと実際に組織内部で起こっていたこと、つまり見えていなかったもののギャップが経営学の教授たちにも全く見えていなかった。

内部と外部の違いと言ってしまえばそれまでだが、今にして思えばカルロスゴーンに我々日本人全体がしてやられたと言う気がしないでもない。

見えるものと見えないもの、それらを理解し、見えないものを見ようとする意志と洞察力、それが今さらながらに求められている。

2019年4月3日

ライフ・イズ・ゴーイング・オン、そして女は強し

ROMAは、映画監督アルフォンソ・キュアロンが1970年代のメキシコを舞台して描いた白黒映画。政治的混乱に揺れる時代背景の中での比較的豊かな中産階級の家庭とそこで働く家政婦が登場人物である。

白黒映画というカラーに比べて情報量の少ない映像だが、だからこそ見るものは自分がその世界の中の一員であるかのような気にさせられる。それはパンをして流れるように映される風景とそこに自分が溶け込んでいるかのような気させる絶妙のカメラワークと不思議な音響効果のせいだ。

映画館の音響設備にもよるのだろうが、僕が今回観た横浜のイオンシネマの劇場では音が270度位の角度から耳に流れ込んできたような印象があった。自分が家の中のソファーに座り、右手に立つ女性が電話で話している一方で、左手の方からは子供たちが遊ぶ声が聞こえてくるような、そんな臨場感あふれる音響の作りだった。

映画の主人公は、この家で働く若い家政婦のクレオ。そしてもう1人挙げるとするなら、この家の主婦であるソフィアだろう。ソフィアの夫やクレオの恋人ら男たちももちろん出てくるが、影が薄い。彼らは格好だけつけているだけで、おおむね意気地がなかったり、無責任な人間として描かれている。

それに対してクレオもソフィアも、ソフィアの母親もみんな普通のメキシコ人ではあるが、勇気と愛に溢れていて、子供たちを心から愛しているまっとうな人間たちだ。

日常の家庭を舞台に取り立てて大事件が起こるというわけではないが、揺れ動く時代背景の中でそれらに対応しながらしぶとく、しかし明るく、愛と勇気を持って生きている女性たちの姿。またそうせざるを得ない人たちを淡々と描くことで「人生は続いていくんだ」と語りかける。
 

2019年4月2日

探し物を見つけるコツは、探さないこと

あるはずの資料が見つからない、必要とする本が書棚に見つからない、買ってきたお土産を家の中にどこに置いたか忘れ見つからない。探し物が見つからなくて部屋の中をあちこち歩き回ることが結構ある。

多くの人も同じかもしれないが、そうした探し物をするために費やす時間は結構馬鹿にならない。時間だけではなく、そこで費やすエネルギーや、なかなか見つからないことから感じるストレスも大きい。

それでも見つかればいいが、見つからなければフラストレーションはますます高まる。その人の気性次第だが、自分なんかは結構ムキになってぜひとも見つけてやるぞと探し物をいつまでも続けることも多い。それで見つかることをもあれば、結局見つからないことも。その時は、時間切れだ。否が応でも諦めるしかない。

そうしたときは徒労感だけが残る。こんなことだったら最初から探さなければよかったと、いささか自分の行動と気持ちを振り返って反省する。

結局、探し物を見つけるコツは探さないことかもしれない。

探さなくても探し物は結構現れてくる。そんな経験は誰しもがあることだろう。思いもかけないところに隠れていたり、あるのにただ見えていなかったり、といったことも結構ある。忘れた頃に、ひょんなことから現れてくるのだ。

探さずして見つけることの最大のメリットは、得られる安堵感である。 
 

2019年4月1日

広告に一番たいせつなのは「らしさ」

本日、新しい元号が発表された。その名は令和だという。典拠は万葉集。初めて日本の書物から採ったというのが、いかにも現政権らしい。


ところで、今日の新聞の全面見開き広告にこんな広告が載っていた。小渕恵三よろしく、香川照之がキンチョールと書かれた額を思いっきり神妙なおもむきで掲げている。これを見た誰もがニヤッとしたことだろう。

なかなかのアイデア。キンチョーらしい。たぶん社内でも、こんな季節外れに何千万円もかけて殺虫剤の広告を出したって商品が売れるわけない、と反対の意見も多かったに違いない。それにもかかわらず、「エイプリル・フールだし、やっちゃえ」とばかりに殺虫剤の広告を出したのが清々しい。
それはそうとして、どうしてこのアイデアを他の企業では思いつかなかったのだろう。何十年に1度できるかどうかのチャンスである。その機会を逃した広告マンたちの多くは、このキンチョーの広告を見て今頃歯ぎしりをしているだろう。
広告媒体の中で、インターネットに押されて印刷媒体の肌色はよくない。実際、出稿量からみた広告主にとっての重要性は減少をたどる一方だけど、その紙面の大きさを活かしてアイデア次第でこんな事ができるんだということを示した広告主企業の宣伝部と広告クリエイターに拍手だ。