入閣から一週間で違法献金疑惑を問われた武部農水大臣に関するニュースで、NHKが今回は珍しく「週刊文春」と「週刊新潮」による報道であることを番組内で紹介した。
が、「週刊新潮」を「週間新潮」と間違えた。慣れないことをすると、こうなる。
入閣から一週間で違法献金疑惑を問われた武部農水大臣に関するニュースで、NHKが今回は珍しく「週刊文春」と「週刊新潮」による報道であることを番組内で紹介した。
フランスでは、高校で教員が不足していて開かれるべき授業が何カ月も開講されなかったり、学校の施設があまりに老朽化して不便があることに対して、当事者である高校生たちが連帯し、抗議の声をあげた。
高校生が始めたデモに便乗する形で参加し、それに乗じて略奪や破壊行為を行い暴徒化している一部の連中は当然取り締まりの対象となるべきだが、日々の学習環境の改善を求める高校生たちの要求の声にはフランスのほとんどの国民が理解を示している。そこはしっかり区分けして見なければならない。
学生からの要求といえば、日本でも新型コロナウイルスの感染拡大に伴うロックダウンで学生が大学に通学できなくなったとき、いくつかの大学で学生たちが授業料の返還を求めたことがあった。
学生たちは、毎期の授業料と合わせて施設利用料といったものも納付している。にもかかわらず、教室をはじめ図書館やスポーツ施設、その他の各種付属施設も一切使えない状態になっていたので、一部返金を求める学生たちの要求には一理あった。
早稲田大学では、そうした学生の声に対して当時の総長が、大学生活というのは4年間で完結するもので、たとえそのなかの1年間、キャンパスで過ごすことができなかったとしても、そのことをもって4分の1が失われるものではない、といったことを学生に向かって発信していた。
なるほど、上手い説明をするなと思ったのを覚えている。
ただし、大学に4年も通わない学生がいる。大学院生だ。特に、ぼくが勤務していた研究科には1年間で学位取得ができることを売り物にしたプログラムがあった。
2021年、2022年、新型コロナを原因とするロックダウンで入学時から完全リモートだった彼らは、そのまま大学にまったく足を運ぶことなく修了の日を迎えていった。
彼らに対してリモート授業を行っていたある日のこと、パソコン画面の向こうの学生たちになぜ授業料の返還を大学に求めないのか訊ねたことがある。焚き付けるつもりで言ったわけじゃないが、要求できることを要求しないのを不思議に思っていたからだ。
彼らは学部生ではない。ビジネススクールで学ぶ、企業での実務経験をもつ社会人大学院生だ。当然の要求を放棄している理由が何なのか、聞いてみたかった。
パソコンのが画面からは、こちらの質問に戸惑っている様子がうかがえた。回答は何もなし。
そこにはそれなりに頭のいい学生もいたけど、どれも体制に過剰適応する習癖がすっかり染みついているように見えた。
日本の学生(この場合は社会人だが)はどうして連帯して自分たちの意見をまとめ、それを当然の要求として突きつけないのか。行儀は良いのだがエネルギーを感じず、そうした学生を見ていて力が抜けたことを思い出す。
フランスの各地でデモが拡がっている。もとは、高校生たちが教育環境の改善を求めて立ち上がったデモ。それが、物価高騰で日々の生活に喘ぎ、不満を溜め込んだ一般市民に火を付けた形だ。
勢いを増すデモ参加者に対して、フランスの治安部隊は催涙弾や放水で応戦。デモ参加者へ向けて一斉に突進する姿も見られた。
フランスの政権も警察も、ほんと馬鹿だね。アメリカの真似をしているのだろうけど、そうやって力で押さえ込むことで問題が解決されるわけがない。仮に一時的にデモ参加者が路上や街中から姿を消しても、彼らの怒りはいっそう燃えたぎるはずだ。
その勢いは、周辺のヨーロッパ各地にも飛び火した。 現時点でベルギー、ポルトガル、イタリア、アルバニア、ギリシャでもデモが発生している。
フランス同様、教育環境の改善を訴えているだけでなく、やはり物価高による生活の困窮が主な原因だ。さらに不動産の価格が高騰することで一般国民が住宅を取得することの困難さは深刻だ。
翻って日本の高校生は何を考えているのだろうか。街中で見かける高校生たちはみんな元気がないように見える。
いきなりデモをやれと言っているのではない。気になるのは日本の高校生はみんなそれぞれ一人。電車の中でも、町を歩いているときも下を向いて、その視線はスマホの画面に向けられている。そこが気になる。
おっさん(性別を問わない)たちはデモをして社会を変えようなんて意欲はゼロレベルなんだから、そうした連中と自分の将来を重ねちゃダメだ。
ヤナ農水大臣が更迭された。総理大臣に辞表を提出したことになっていて、その理由が「農水行政をこれ以上停滞させないため」だかなんだか言ってる。往生際の悪いヤツ。
今回の一連は、この元大臣の地元での会合における発言から始まった。それを報道したのは文春と新潮だったように記憶している。両誌は音声記録も入手していて、その他、支持者へ無償でシャトルバスによる送迎を提供していたことなんかも掴んでいた。
それらを波状的に公表していき、他のメディアの追随もあって国民が広く知ることとなった。
今回も文春、新潮という週刊誌の記者がこのネタを事件として追わなければ、そして音声データの入手や関係者への詳細な取材を重ねなければ、ヤナは今も堂々と大臣席にふんぞり返っていたことは間違いない。で、役人に特定地域の予算カットの指示を出しては、個人的な怨嗟をはらしていた。
こうした政治家による不正は、誰かが問題意識をもって粘り強くデータを集めていかないと実態を明らかにすることは出来ない。そうした意味で、先に述べた週刊誌が果たした役割は実に大きい。
政治家の不正を取り上げる記事を掲載するのは簡単なことではない。ネタにされた政治家や官僚は、必ずあらゆる手を使って記事を否定し、反撃してくる。名誉毀損やら損害賠償やら、謝罪記事の掲載を求めてくることも。
それらを予見しながら証拠となるデータをコツコツと集め、そして「よし、やろう」とスクープとして記事を雑誌やサイトに掲載するのだ。リスクが伴い、覚悟がいる仕事である。
繰り返すが、今回も文春や新潮がヤナについての記事を出したからこそ、事実が明らかになり、不正を行った大臣が大臣職を辞した(議員職も早々に辞するべきだ)。
にもかかわらず、テレビのニュースでは「一部の報道によれば、梁農水大臣が〜」といった形でずっと語られていた。特にNHKは酷かった。意地になって両誌の名前を口にしないよう努めているように感じた。
フェアではないと思う。最初に報じたメディアがどこかはっきりしているのだから、それを「一部の報道」で片付けるのではなく、名前をきちんと伝えるべきだ。
自分たちは文春と新潮の記事の後追いをしただけなのに、それらのメディアの名前を意図的に無視している。NHKは報道機関としてだらしないだけでなく、了見が狭い。
同局の「国際報道2026」は別だが、「ニュース7」や「ニュースウォッチ9」はどちらもニュース報道としてきわめて低級で、あきれるほどのレベルだ。
きのう、東大総長の選出に関する疑惑、というほどのものではないが、不明点が取りだたされている件を書いた。
国谷元NHKキャスターの「総合的に判断した」という説明を批判的に指摘したのだが、『週刊文春』がその辺りのことを10月15日号でレポートしている。
同誌の記事によれば、教職員による意向投票を踏まえた選考会議の席で一部の委員が意向調査でトップだった染谷教授が関係している不祥事について言及した。
その不祥事が何かと言うことは文春の記事を読んでもらうとして、そのために学内関係者が「(彼には)身体検査でバツがついた」と述べるような事態になった。そして長時間にわたる議論の結果、意向投票で2位だった(女性の)藤垣教授を総長に選出することになったというのである。
つまり、巷間囁かれているように選考会議議長の国谷が「女性」を推した結果、藤垣が選ばれたわけではないということ。なるほどね、である。
さてここまでは、まあなんとなく分かるが、その後の展開というか処理の仕方が理解できない。
文春によれば、「決定後、国谷さんは会見で染谷総長にならなかった理由を説明してよいか委員に確認した。すると、一部の委員が反発したのです」(選考過程を知る学内関係者)。
で、その一部の委員が主張したとおり、選考委員会は染谷教授の落選の理由を明らかにしないことを決定した。国谷の会見での「総合的に判断した」という説明の背景にはこうした事情があったのだ。
一部の委員とは誰なのかネ。そして彼(彼女)(ら)はなぜ、最終の選考会議の場において、染谷教授にすねの傷があると言及したのか。さらに、総長が選ばれた経緯を説明することをなぜ拒むのか。
会議の場で言いたいことだけ主張し、その後に行われる会見での発表という面倒なことは外部委員で選考会議議長である国谷に押し付けた印象だ。
今回の東大総長選出を結果的に采配した一部の委員とは誰なのか?
昨日のブログ記事では国谷さんに対して失礼な言い回しをしてしまった。
東京大学の次期総長の選出後、大学の教職員が選考会議のメンバーらに選考理由の説明を求める要望書を提出した。その要望書への賛同者は500人を超えたという。
要望書では「公表された選考理由からは意向投票(学内投票)をどう考慮して結論に至ったか読み取れない。説明が共有されないまま学内外に憶測や個人攻撃が広がっていることを憂慮している」として、詳細な説明を求めている。
東京大の次期総長は、元NHKキャスターの国谷裕子氏らで構成する選考会議によって選出された。だが、選出された人物は教職員らによる学内の意向投票では順位2位。しかも1位との投票数格差はおよそ2倍だった。
逆転選考の理由について国谷は記者会見で「総合的に考慮した」と説明。
「総合的に判断した」というのは、つい先日聞かされた。栃木県で首長がヤナ現大臣を支援しなかった2つの地域の道路予算を国交省が大幅に削減した理由の説明を求められた席だ。
不思議なのだが、国谷にしても国交省の役人たちにしても、「総合的に考慮」とか「総合的に判断」と言って、聞いている側が納得すると思っているのかね。
だとしたら、国民をその程度のアタマだと見下している。自分たちは頭がいいのかもしれないが、ちょっと人を舐めすぎちゃいないか。
参院の野党6党の国会対策委員長が、簗大臣に対する問責決議案の提出を検討することで一致した。
それを受けて、当のヤナはメディアに「引き続き、しっかりと説明を尽くして真摯に対応してまいりたいと考えております」と語った。
はぐらかし、ごまかし、すりかえ、逃げ回り、そして嘘の上塗り。そんな人間が何を言っているのか、いい加減もほどほどにした方がいい。これほどタチの悪い奴も珍しい。
大臣の名と国会議員の席にしがみつき、己の人品の卑しさを日本中に知れ渡らせている。
今いる支持者もやがてすべていなくなる(近親者以外は)。こんなトンデモ野郎の支持者でいることは社会人として自殺行為だから。
2週間ほど前から不正アクセスによる個人情報の漏洩が相次ぐようになった。専門家によれば、直近の不正アクセスの手口は新手のものではなく、これまでと手法は変わらないという。
ただしAIを利用することで、24時間自動で攻撃が行われるようになったのが新しいのだとか。AIは超効率的にしかも休むことなく攻撃し続ける。これはもう防御側は追いつかない。
今から4ヵ月前の6月、アフラック生命保険社が不正アクセスによって顧客の個人情報を流出させるという事件が発生している。その顧客数、およそ440万件。うち数十万は、契約者の銀行口座についても流出した。しかも同社は、顧客の個人情報が外部に漏洩したことに2週間も気づかなかった。
こうした大規模な漏洩事故、いや事件が発生していながら、ほとんどの企業はそれは他人ごとであって自分たちは関係ないと高を括っていた。それらが最近、一斉に狙われた。
まだまだ情報漏洩は続くのだろう。われわれの社会は多くの面で「信頼」をベースとして成り立っている。それが次第に崩壊しつつあるような気がする。この後、われわれの社会に何が起こるのだろう。
宮崎県新富町の町長が、梁農水大臣が行った自らの選挙区である栃木3区内での予算カット脅しの行状に対して憤りの声を上げた。
人口約1万6000人という決して大きくない町で、また今回予算をカットされた当の自治体でもないにもかかわらず、こうした筋を通す抗議声明を公表したのは事なかれ主義がほとんどの日本の行政関係者の中で珍しい。
ぜひ自分以外の地域のことと思わず、他の自治体も同様の抗議声明を公表するべきだろう。
「地方の時代」だなんて延々と標榜されてきたが、そうしたことは言葉だけで、これでいかに地方も地方自治も自民党と中央政府に実際は従属させられているかを痛感しただろう。すべての地方自治体が怒りを表明する時だ。
簗農林水産大臣の発言に対する抗議声明
令和8年10月9日
簗和生農林水産大臣が、自身を支持しなかった首長のいる自治体について、道路予算を大幅に削減した旨の発言を行ったことに、地方自治体の長として強い憤りを覚えます。
名指しされた自治体の首長や住民の皆様のことを思うと、同じ首長として悔しさを感じずにはいられません。そして、この問題を決して他人事とは思えません。
そもそも、国の予算は誰のためにあるのでしょうか。
国の予算は、政治家への支持に対する報酬でも、不支持に対する報復の手段でもありません。
私たち首長は、住民の暮らしを守り、地域の将来に責任を負っています。そのために必要な予算が、政治的な支持・不支持によって左右されることなど、断じてあってはなりません。
実際に予算削減への関与がなかったとしても、このような発言は国と地方の信頼関係を大きく損なうものです。
今回の発言は、地方自治体の長として断じて看過できるものではなく、強く抗議いたします。
宮崎県新富町長 小嶋崇嗣
タカ市総理大臣はいまだにヤナ大臣を辞めさせず、「仕事を頑張ることで返してもらう」って国会で説明したが、完全にポイントを(意図的に)ずらしている。
むかし、石原慎太郎が科技庁長官をやっていたとき、委員会を欠席してテニスに興じていたのがばれて批判されたことがあった。
こうしたサボりなら、仕事できちんと返していただく、と言うのもあるかもしれないが、ヤナの場合はそうじゃない。政治家の資質そのものの問題。しかも改善はほぼ見込めない。だから、更迭するしかないのである。
タイムズカーに続いて、えきねっとのJR東日本とSkyticketから情報が漏洩したと連絡がある。しばらく(どのくらいの期間か分からないが)この調子は続きそうだ。
Skyticketって何のことかさっぱり分からず、調べてみたら10年ほど前に一度、そのサイトから航空券を購入していることが判明した。ゼミの合宿で鹿児島に行った際のチケット購入で、その時に同行したゼミ生から紹介されたエージェントのようだ。
それにしても、10年前に1度だけチケットを購入したきりの利用者の個人情報を今もデータベースに保持していたとは。その会社、人迷惑なほど物持ちが良すぎるぜ。
クリストファー・ノーランが脚本と監督を務めた「オデュッセイア」には度肝を抜かれた。3時間の上映時間が、あっという間だった。
今回のノーラン版とも言えるオデュッセイアは、ホメロスが書いた全24話をベースにしながらも単純な歴史スペクタクルではなく、彼の解釈による人間オデュッセウスの心の内側を映像化した作品である。
トロイとの10年戦争を勝利に導いた知将オデュッセウスを、原作が描いた人間離れした(神の恩寵を一身に受けた)スーパーヒーローではなく、戦いで数多くの殺人と略奪を行い、部下をすべて死なせて自分だけ生き残って故郷にたどり着いた、悔恨の念を拭い去ることができない一人の人間として描いている。古代ギリシアの叙事詩を現代ドラマへ移植したわけだ。
そうした人間ドラマがテーマの中心ではあるが、冒頭で度肝を抜かれたと書いたとおり、映像のスペクタクル感は半端じゃない。CGももちろん使って描いている一方、巨大なセットや船は実物大のものを撮影用に建造しているのがわかる。
映画の中、<ゼウスの掟>という台詞が頻繁に語られていたが、これは最高神ゼウスが「見知らぬ旅人は温かく迎え入れ、持てなすべし」とした最重要の戒律である。実際、映画ではその掟に背いた者は破滅していった。
これって、ひょっとしてノーランが米国をはじめ、欧州のいくつかの国で拡がっている移民排斥の政策を批判しているのかも、って印象を受けたけど、どうなんだろう。
赤瀬川原平の『老人力』(1998年)を読んだときは驚いた。人が歳をとって「物忘れがひどくなってきた」「ボケてきた」ことを、彼は「老人力がついてきた」と表現した。
そのコロンブス的発想は見事だと思った。クリエイティブな視点とはこうゆうことをいうのだな、と学んだ。
視点を変えればものの見え方が変わる良い例として見ていたこの「老人力」は、実は脳生理学に沿っていたことが最近の研究論文で明らかに。
先月、Perspectives on Psychological Science誌に掲載されたファビアン=ホセ・フェルナンデス他の"Aging as a Continuation of Development: A Hypothesis and Framework"である。
これまで加齢によって短期記憶の力が衰えて物忘れが激しくなると一般的に言われてきた。ところがフェルナンデスらは論文で、加齢にともなって出来事の細部を覚える精度が低下することを人の単なる機能衰退と捉えるのではなく、これまでの蓄積してきた知識の統合、物事の大局的理解、感情の調整の重視や再編成と捉え直した。もちろん、正常な加齢とアルツハイマー病による変化は区別しなくてはいけない。
つまり、日々の些細な出来事を忘れたり、思い出せないのは認知機能の低下ではなく、これまでの知識や経験を統合することで大局的に物事を捉えるための「進化」だと主張する。
彼らの唱えるそうした「適応的加齢仮説」は、まさに「老人力」のことではないか。
赤瀬川が28年前にその著書で唱えた考えが、今ごろになって学術研究でサポートされたってわけさ。
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| 筑摩書房、1998年 |
やはり、という印象である。店頭でのビール価格の変動を見ていると「なんかありそうだ」と感じずにはいられなかった。
市場に目を光らせているだけでなく、各種の情報が寄せられる公正取引委員会も価格の動きがおかしいことに気づいていた。が、大手ビール会社4社の担当者は「そんなの関係ねー」とばかり、談合を続けていたわけだ。おっぱっぴー。お粗末、というか浅ましいというか。
アサヒ、キリン、サントリー、サッポロの4社の担当者は月例の業界団体の会合後にその場に残り、引き続き「裏会」を行うことで価格談合をしていたというが、裏会とやらをそんな堂々とやってて月例会に参加する他の業界関係者が何も知らないとでも思っていたのかね。
公取委はさすがに悪質性が高いと判断し、検察への刑事告発を視野に実態の調査に入った。
気になったのは、ニュース番組であるコメンテーターが「人口減少のなか、若者のアルコール離れが叫ばれていて、しかも昔は「まずはビール」だったのが、今はハイボールもあるし焼酎も人気になって、ビール会社によるこうした対応も気持ちはよく分かる」と話していたこと。
ふざけたこと言っちゃいけない。カルテルなんかに頼らずに、知恵を絞って競争するのがビジネスなんだよ。
ビールは、これら4社が国内市場の9割を占める典型的な寡占市場だ。だけど、残り1割の市場でオリオンビールも頑張っているし、各種のクラフトビールや地ビールもそれぞれの独自性を打ち出しながら一所懸命やってる。
寡占に甘んじる大手4社の不正を「気持ちはよく分かる」だなんて、よく言えたもんだ。アンタの身内がビール会社で世話になっているのか?
こうしたカルテルはきわめて悪質なことだと我々全員が認識を新たにすべきだ。
ボクは明日から、ビールはこれら4社以外の銘柄に変更するつもりである。
例のイヤナ農水大臣が、選挙で自分を支持しなかった首長のいる自治体への道路予算を削減させたという件に関しての国交省の会見。
特定の地域の予算を大幅カットした説明になっていない。木に竹を接ぐような納得感皆無の奇妙な、そしてとってつけた話ばかり。
ファクトとしては、ヤナを選挙支持した首長の自治体への予算は増額され、支持しなかった首長が率いる市町村の予算は削減されたことは明らかになっている。
今回、国交省の役人が、梁大臣の指示によって栃木3区の特定地域の予算額をカットしたことを明らかにできない理由は簡単。
それを言ったら、これまで政治家からの働きかけで各種の予算案の操作を延々としてきた暗〜い過去を掘り返させられることになるからだ。
そのため、誰が聞いたとしても嘘だと分かる見え透いた嘘と分かっていても嘘をつき通す。それが役人。それができない役人は、組織の自己保身に反するとして出世できない。
だから、(内心はどう思っているかしらないが)嘘だと自分が一番分かっていながら国民に嘘をつく。人としての倫理観を捨てたザンネンな仕事だ。
不正アクセスによって「焼肉きんぐ」という飲食店のアプリに登録した約1080万人分の個人情報が漏出した。
またか、という感じだが、焼き肉屋のアプリ登録者数が1000万人を越えているというのに、まずは驚いた。日本の20歳から70歳の人口がおよそ7500万人だから、その15パーセント(およそ7人に1人)にあたる。
自分はXなどのSNSはやらないし、飲食店のアプリもスマホに入れたことはない。だから、ちょっとその感覚が分からないのだけど、どうして皆、簡単にアプリをインストールするんだろう。インストール&会員登録するともらえるポイントなんかがそんなに魅力的なのかね。
そうしたインセンティブと交換に、自分の貴重な個人情報を危険にさらしている意識はあるかな。焼肉は旨い(おれも好きだ)が、アプリをわざわざインストロールするほどのものかとも思う。
AIは、いともたやすくシステム上の不備をついて侵入し、情報を盗み出す。どんなシステムだって例外はない。だから先日もこのブログに書いたように、自分で自衛措置を取っておくしかない。
基本の基本は、やたらとアプリをインストールしたりしない。むやみに会員登録しない。登録する際は、提供する情報にちゃんと注意を払うこと。
梁(やな)脳薄い大臣、間違った、農水大臣の言い逃れは、聞いている者の神経を逆なでする。根っこのところで「いかに問題の核心を逸らせるか」「いかにこの状況から逃げるか」しか考えていないのが明からだから。
https://www.maff.go.jp/j/org/who/min.html
「一般議員のときのことなのでコメントしません」=大臣になると人格が別バージョンにでもなると思っているのか。
「誤解を招いてしまった」=さも誤解している側が正しく理解していないかのように言うが、事実関係は明らかすぎて誤解のしようがない。
「今後は言葉には気をつけます。発言を撤回します」=国民が批判しているのは言葉だけではないことが分かっていない。
撤回すべきは発言ではなく、梁という人間そのものなのだ。
やったことは利益誘導といったものを越えて選挙買収にあたると考えられる。であれば、公職選挙法に違反しているのだから、議員そのものを辞職すべきだ。
タカ市総理は「やなチャンは、私の大切な知恵袋」と有権者に訴えかけていたが、どんな知恵なんやん?
栃木県那須烏山市と那珂川町は、国交省に対して予算を大幅に削減した理由の説明を再度求め、明確な説明がなされない場合は予算復元を求めて国を訴えるべきだろうね。
そもそもが国会議員は憲法で国民全体の代表であるべきとされているのだから、梁がやったことは憲法違反に当たる。そんな中学校の社会科で教えられることを学ばなかったのか。
横浜市長選の立候補が締め切られた。立候補者は、前職を含めた7名。
ポイントは、部下を「ポンコツ」などと言った前市長(山中)が再度選出されるか、自民党や日本維新の会、国民民主党が推薦する弁護士の女性(原沢)が選ばれるかだ。
「ポンコツ」発言 → パワハラ批判 → コンプライアンス違反 → 市長の辞職 → 次は弁護士ならいけるかも、というのが自民党や日本維新の読みだろう。単純である。横浜市の有権者を軽く見ているのが分かる。
「ポンコツ」で横浜市長だった山中は辞職したわけだが、アメリカでは女性記者に向かって「黙れ、ブタ」と発言したトランプが大統領としていまも健在なんだから驚く。
"Quiet, quiet piggy"
2025年11月14日、トランプ大統領が大統領専用機の機内で、例のエプスタイン関連文書についての質問をやめなかったブルームバーグの記者に向けて発した言葉である。
これがアメリカ大統領かね。
先の個人情報保護に関するブログ記事で電話番号について書いたが、以前、ある契約に関して電話番号を6つ求められたことがある。当時住んでいたマンションの敷地内の駐車スペースを借りるための賃貸契約に際してである。
手続きで武蔵小杉駅前のタイセイハウジー武蔵小杉支店を訪ねた際、窓口の女性から渡された1枚の用紙には住所と署名のほか、僕の自宅電話番号、携帯電話番号、職場の電話番号、そして連帯保証人についても同様の3つの電話番号、都合6つの電話番号を記入するようになっていた。
たかが住んでいるマンションの駐車スペースをひとつ借りるだけのことなのだが。
どうして6つもの電話番号が必要なのか聞いたら、「何かの時に確実に連絡がとれるようにするためです」と言う。一方で、こちらが知らされている相手側の連絡先は代表番号1つだけ。しかもその電話番号は、彼らの休業日はもちろん、その事務所の営業時間外は一切繋がらない。
こうした非対称性は認められない。相手側の主張に倣えば、こちらからだって急に連絡をとる必要がある場合だってあるだろう。だから、お前と事務所所長の自宅電話番号と携帯番号をそれぞれ教えるように言った。それならおあいこだからね。
「それはお教えできません」と突っぱねてくることはもちろん想像していたが、理屈で執拗にグイグイ主張し続けてやったヨ。いまならカスハラと言われるかもしれないが、理はこちらにある。
管理会社側は結局、事務所の代表番号しか教えなかった。腹が立ったので、求められた6つの電話番号のうち5つはデタラメを書いた。手続きはそれで問題なし。そういうものだ。
日本の企業は顧客の個人情報の管理に無頓着すぎるだけでなく、明らかに不必要で余計なまでの顧客情報を取らないと気が済まないきらいがある。つまりそれは、物事の意味を考えるということをしていない証拠である。
先月28日に「不正アクセスによる個人情報漏えいに関するお詫びとお知らせ」と題したメールがタイムズカーから届いた。
免許証の画像も漏洩情報に含まれてるようで心配していたら、その続報で具体的な漏洩内容を知らせてきた。
お客様におかれましては、タイムズカーのご利用にあたりご提出いただいた個人情報が漏えいしていたことが確認されましたので、お詫びとともにご報告申し上げます。メディアでも報道されているとおり、成り済ましで銀行口座を開設したり、クレジットカードを作るに十分な内容だ。ローンの借り入れや携帯電話の契約なんかも簡単にできる。参ったね。
<今回の事象により漏えいが確認されたお客様情報一覧>
・氏名
・法人会員様の所属部署名(※ご登録いただいていた場合)
・住所
・生年月日
・電話番号
・メールアドレス
・運転免許情報
・本人確認書類情報(運転免許証画像)
※外部専門機関の調査結果を踏まえて、2週間程度を目処にあらためてご報告させていただきます。
メールからはタイムズカーの対応に向けた真摯さは伝わってくるものの、やはり不安は残る。
僕はそうした企業への登録にはすべて個別設定のmasked email(覆面メール)を用いているので、もしそのアドレス宛にどこかからメールが届いた場合は元がすぐ分かる。いま利用しているメールサービスは覆面メールを簡単に、しかも無制限に作れるからその点は便利だ。
登録する名前も本名の漢字そのままでは登録しない。部分的にカタカナにしたり省いたり、また偽装することで情報が漏洩、あるいは売買された場合にも本人確認がされないように気をつけてる。
電話番号が登録の必須条件としてもとめられた時は、スマホに入れてある格安の050のセカンドナンバーを使う。この番号宛にかかって来た電話に応答することはない。通話が留守電に切り替わることもない。
これらは少しでも安心して静かに日々を過ごすための方策だが、それにしても面倒くさい厄介な世の中になったものだ。
企業は顧客から余計な個人情報まで取得しようとする。だから顧客側は、それら企業を盲信することなく、つねにリスクがあることを考えて対応策を講じるしかない。
今日観た映画は本当に辛かった。ストーリーも、何を描いた映画か、結末まで知っていながらも見続けるのがしんどかった。
『ヒンド・ラジャブの声』(原題 The Voice of Hind Rajab)はパレスチナ・ガザ地区で実際に起こった出来事を描いている。
2024年1月29日、彼女の親戚からヨルダン川西岸地区にある人道支援組織「パレスチナ赤新月社」の緊急通報センターに通報が入る。ガザ地区でヒンドを含む親族7人が乗っていた乗用車が攻撃され、まだヒンドが中で生きているから救出してほしいとの依頼だった。
赤新月社はイスラム版の赤十字社だが、ガザには事務所がない。ヨルダン川西岸の緊急通報センターは現地ガザの救急部隊に連絡し、救助のため救急車を向かわせようとするがうまく事が進まない。いま救急車がある場所から8分の距離なのに。
事務所の中で「調整」という言葉が何度も何度も飛び交う。ガザでは救急車が出動するのにもイスラエル軍から砲撃されないために事前の「調整」が必要なのだ。エルサレムの赤十字社や保健省を通じて救急車を攻撃しないように事前に走行ルートなどを連絡しておかなければならない。なんてこった。
救急車を攻撃してはならないなんてのは、国際法で決まっている当たり前の事。そういったことすら守られていない。こうした「お伺い」をイスラエルに立てなければならないとんでもない理不尽さが当たり前の事実になってしまっている。そして停戦後にすら何千人もパレスチナ人が殺されている。
この映画の白眉は、車のなかに残っている唯一の生存者であるヒンドの実際の声が使われていること。録音に残っていた彼女の声をそのまま使って、それに合わせて当日のやり取りが役者によって再現される。
事件を知ったチュニジア人の映画監督、カウテール・ベン・ハニアのアイデアだ。迫真の演技などとよくいうが、演技ではない、実際に上腕、背中、足に銃弾を受け、死を間近に感じて助けを求める6歳の少女の声がスクリーンから流れてくる。
戦車がすぐ近くに来たと怯える少女、ひびく銃撃の音。車の中でスマホを握りしめていた彼女の感じていた恐怖感が観客に伝わってくる。だからこそ、観ていて辛い。
やっと「調整」できたということで、ガザにある救急車が出動することになった。だが、センターのスタッフが手に汗握りながら、GPSで現場に向かう救急車の位置を追っていたところ、突然救急車の動きが止まる。ヒンドとの通話も切れ消息が分からなくなった。イスラエル軍の攻撃を受けたのだ。
イスラエル軍がその地を引き上げた後、12日たって彼女らの遺体が確認された。7人が乗っていた車には355発の銃弾が撃ち込まれ、救急車は戦車からの砲撃で無残に破壊されて2人の救急隊員は丸焦げで骨しか残っていなかった。戦車によって押しつぶされた跡もあったという。
鬼畜という言葉があるが、イスラエルはそれ以下の存在だ。言葉にできない。
普段は渋谷を歩くことはないのだけど、今日はこの映画を観るためにひさびさに渋谷へ出た。映画を見終わった後、衝撃でぼおーとした頭で今日が閉店だと聞いた渋谷西武へ行ってみたらすごい人だかりだった。
米NBC Newsのインタビューに答えて、ビル・ゲイツが「悪意を持つ人間と最新のAIの組み合わせほど強力な兵器はかつてなかった」と指摘した。加えて「人工知能は10億人の死者を出すような事態を引き起こせるほど強力」だと述べた。
10億人の数字の根拠はないけど、それほど世の中をひっくり返すような大惨事を招く可能性が最新のAIにはあるという警告である。
例えばメタのマーク・ザッカーバーグのような人間が、その膨大な資産と権力と影響力と自らの自由になる高度AIを組み合わせて邪悪な考えを進めた場合、ある意味で世界は崩壊に進むことになるのは分かる。
報道によると、アンソロピックやオープンAIの経営者は開発スピードを減速させるべきだと表明しているが、一方、メタ(旧フェイスブック)は開発の減速に反対を示している。
冷静に考えれば、今ここで立ち止まることが最も理性的かつ合理的な判断であることは間違いない。
自分たちの行く先にまだはっきりは見えない、しかし巨大で深い落とし穴があると言うことは分かっている場合、人はどう行動するか。見えないからといって、そのままつき進み、その穴に落ち込み、一旦穴底に落ちてしまった場合、二度と地上に自分たちを引き上げることはできないかもしれない。
そうであれば、まずは歩みを止めて、冷静に自分たちが進む先の状況を知るように努め、どこにどのような致命的な穴があるのか、そしてその穴を回避する道筋を確認してから改めて歩みを進めた方がよいのは明らかだ。
そうした当たり前の判断を、なぜメタのザッカーバーグはしようと考えないのか。あえて人類(自分とその仲間以外)をその巨大な穴に突き落すことを意図しているとしか思えないのである。
朝刊に目を通していたら記事の冒頭、「新宿駅からJRで約2時間。山小屋風の駅がたたずんでいる」とあり、いきなり神経に障る。気持ち悪くて、もういけない。
何年か前から、詩でも小説でもない文章でこうした建物を主語にして「たたずんでいる」と書く文を目にする。
「佇む」は本来、人が同じ場所にじっと立ち止まっている様子を表す言葉。「彼女は窓辺に佇んでいた」のように、人間の姿勢や心情(物思いにふけっている、誰かを待っているなど)を伴う場面で使われるのが基本の用法だ。
確かに「山が笑う」や「風が囁く」という擬人法と同様の用法として「駅がたたずむ」とする修辞技法は可能だ。しかし、それなら文章自体が少しは文学的、詩的なものであってほしい。
本来は人間や生物の動作を表す言葉を、無生物に借りて使うことで読み手にその対象への親しみや情緒を感じさせる効果があるが、「佇む駅」であるためにはそこに至る物語が必要なのだ。
例えば、まるでその駅自体が長い年月そこに立ち続け、長い道中を越えてきた旅人を静かに迎えているかのような、しみじみとした情景がストーリーのなかでつくり出されていれば自然であり納得はいく。
この新聞は、そのうち「〇〇駅前の不動産開発エリアには、数多くのタワマンが佇んでいる」なんて記事を平気で書きそうだ。
詩的な表現ができないのなら、記事の冒頭で「駅が佇んでいる」なんて言い回しをするなよ。本来の伝統的な用法として、「佇む」は人間(またはそれに準ずる生き物)を主語にすると心得よ。
以前このブログに書いたものを新聞社に送ったら、この火曜日に掲載されてた。
https://tatsukimura.blogspot.com/2026/09/blog-post_11.html
自動車メーカーには真面目に検討してもらいたいもんだ。
あおぞら銀行(もとは破綻した日本債券信用銀行)の社員が、同僚社員が顧客の相続の処理に関して不適切な行為をしているのに気付き、上司に相談した。しかし、上司はその問題に取り合わなかった。そこでその社員は、銀行の内部通報窓口に状況を連絡した。
すると、その結果、その社員は報復と言わざるを得ない会社側の嫌がらせ行動に長年あわされたという。・・・ええっ?!
あおぞら銀行は、通報したその社員に対して「10項目の問題行為」とやらを指摘しはじめ(典型的なイチャモンづけだ)、懲戒処分に踏み切った。降格と減給も行ったという。また、従来の業務フロアとは異なる8畳の広さの小部屋へその社員を配置した。
その部屋に置かれていたのはパソコンのモニター、キーボード、マウスだけだったとか。パソコンの本体はない!?
それが3年3ヵ月も続いたと言うから酷いもんだ。
さらに驚くのは、裁判で一審の東京地裁はその社員からのパワハラ請求を全面的に退けたこと。その後、東京高裁で一審判決が覆ったものの、それでも裁判所はあおぞら銀行側からの「報復」があったとは言えない、とした。
裁判の場で、あおぞら銀行側が正直に「あれは会社からの報復でした」と自白するはずはない。代わりに銀行は、あらゆる手を講じて自分たちの行為を正当化しようとし不法行為をカモフラージュした。
しかも判決で出された慰謝料の金額は100万円。3年3ヵ月もの間、正義の社員に精神的苦痛を与え続けた慰謝料がたったそれだけだとは。米国なら1億円は下らないだろう。
この国の裁判官というのは日々何を考え、どういう生き方をしている存在なのか、強い疑問を感じる。
以下のURLは「コンプライアンス」と題した同銀行のウェブページである。
https://www.aozorabank.co.jp/corp/governance/compliance/
「可能性をつくる」のフレーズが聞いて呆れる。言ってることやってることが見事に違う。根本のところが腐ってるからだ。
日債銀の経営破綻後に新しい社名(あおぞら銀行)を設定するにあたり、この銀行はこう述べている。
社名は人々が思いを寄せる青空のように思いを共有できるクリーン・オープン・フェアな銀行でありたい思いを込めたものとし、ロゴマーク「フューチャー・ストリーム」(未来への潮流)は金融業の新たな可能性に挑戦する意思を込めた象徴とし、永遠を思い願うイメージの青色「エターナルブルー」を基調に未来への希望を生み出すエネルギーをイメージした下部から右上へ伸びる白い曲線をあしらい、菱形は知性と信頼を表すものとした(https://ja.wikipedia.org/wiki/あおぞら銀行)
クリーン? オープン? フェア? 未来への希望? 知性と信頼?
どの面下げて言う。完全なジョークだ。
Dropboxから、利用規約とプライバシー・ポリシーを来年1月1日から変更するとのメールが来た。どうも最近、この手の話が多い。
メールに書かれたリンクの貼られた先には長大なテキストが。これでは誰も読まない。
AIに代わりにチェックしてもらうと、いくつか注意点があがった。なかでも一番気になったのは、Dropboxは利用者のデータにアクセスし、保存およびスキャンすることを利用者が許諾することになっているという点だ。
しかも、この許可はDropbox社のみならず、提携企業やDropboxが認定した第三者にもそれが認められている。こうしたアメリカ企業が何をどこまで考えているのか分からないが、考えてみれば不安要素が多い。
また、この利用規約のなかでは規約遵守確認のため、Dropboxは「アクティビティおよびコンテンツを調査する権限」を持つとも規定されている。
つまり、Dropboxがやろうと思えば利用者が知らないところで利用者のデータのすべてについて知り、またそれらを関連企業と共有することもあるわけだ。これは、実状が詳しく分からないだけに不安度が高い規定である。
現状では、ほぼすべてのデジタルデータをDropboxのサービスに預けているといってもよい。どうも最高度の個人情報フォルダは、クラウドから引き下ろして手元で管理した方がよさそうだ。
今回の沖縄県知事選で、古謝玄太候補が現職の玉城デニー候補を大差で破って当選をきめた。選挙結果は民意の表れととるしかないが、はたして大丈夫だろうか。
というのは、当選を決めた古謝が主張した「10年で(沖縄)県民所得を2倍にする」という公約の実現可能性を危ぶんでいるからだ。
選挙公報には堂々「手取りを2倍!」「子育て支援を2倍!」「観光消費を2倍!」とある。
10年目に一気に2倍(つまり成長率100%)になるなどあり得ないので、毎年成長を続けて複利でプラス100%になると仮定すると、そのために必要な成長率は年7.2%。これを10年間継続する必要がある。
県知事が変わったことでそれが実現されるかというと無理だ。沖縄の過去10年の年平均経済成長率は1%未満なのだ。
参考まで他県を見ても、1950〜70年代の、いわゆる戦後高度経済成長期の時期に10年で所得を2倍に伸ばした都道府県はいくつかあるが、それ以降はどこもない。
しかもより細かく見れば、手取りを2倍にするためには県民所得が2倍に増えただけでは実現できない。増えた所得の多くは企業に蓄積されたり県外の株主の方へ行き、また税金もそれだけ増えるのだから。
古謝は東大を卒業して総務省に入省した元官僚であり、そうしたことが判らないはずはないし、複利計算ができないとも思われない。なのに平気で不可能な公約を述べて有権者を釣った。
どうせ10年後は、自分はもう知事の椅子には座っていないから平気だ、ということか。だとしたら、誠実さに欠けていないか。
念のために言っておけば、手取り額ではなく県民所得の額を、しかも実質所得ではなく名目所得のレベルで数字を2倍にすることは理論的には可能かもしれない。ただ、そのための唯一の可能性は、超スーパーインフレに持っていくこと。当然その場合、一般県民の生活は崩壊する。
だが今回、沖縄でより多くの有権者(投票者)は古謝を選んだ。
候補者の公約が実現可能なものかどうかは数字を少し吟味すれば判ることだが、そうした理屈とは関係なく、住民としての「気分」の点で県民は足下の経済的閉塞感に耐えられない状況にあった、ということだろうな。
そうしたものが今回の投票行動に大きく影響していたとしたら、そこに沖縄県が現在抱えている最大の問題があるように思う。
Evernoteから2倍以上という料金改定のメールを受け取り、代替となるノートアプリを探していた。
https://tatsukimura.blogspot.com/2026/08/evernote.html
いろいろ検討した結果、最終的に選んだのがJoplinというサービス。ジャニス・ジョプリンと同じ綴りのジョプリンだけど、開発者はフランス人らしい。
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| Joplinのダウンロードサイト |
無料で使えるオープンソースのアプリである上、Dropboxを介してMacとスマホやタブレットを同期しながら一緒に使える。
十分な機能が使いやすく盛り込まれており、無料だからと何か諦めたり、我慢することもなさそうである。ただ、デザインがあまり洗練されたものとは云えないのが残念だけど、そんなことは二次的なことで、この際気にしないことに。
Webクリップもできるし、スマホで撮影したものもそのままJoplinのノートブックに送ることも可能だ。
これでEvernoteともオサラバできそうだ。
先日、車の窓について書いた。
そのときは、恐ろしいほどの大雨に見舞われるようになった日本で、水没して電気系統がトラブり窓が開かなくなった車に閉じ込められて亡くなる人が出てきたことことから、パワーウインドウを昔の手動にもどそうと呼びかけた。
https://tatsukimura.blogspot.com/2026/08/confort.html
以前は雨で道路が冠水し、そのせいでドアが開けられなくなったり、パワーウインドウが動かなくなるなど「想定外」だったはず。だが、いまやそうではないのだから。
窓の開け閉めを手動に戻すことに対して、いくつかコメントが寄せられてきた。僕が書いたように電動をやめて昔のように手動に戻すべきだという意見、さらに電動でも手動でもどちらでも開けられるように改良したらいい、とか。
いろんな考えがあるだろう。自動車会社は電動か手動のどちらかにしたいと考えるだろうし、利用者側も電動に慣れているので今さらという向きも多いかもしれない。
であれば、車の4つある窓すべてをそうする必要はないから、例えば助手席の窓は手動で操作するものにしてはどうか。ひとつでも窓が開けば、いざというときに車内から脱出できる。
水没に備えて窓を破砕するための緊急脱出用ハンマーを常備、などと言われてもすべてのドライバーがそうするわけじゃないし、いざというときにさっと取り出してちゃんと使えるかどうかも心許ない。
だいたいが、ハンマーでぶっ叩いて破砕するより、手でハンドルを回して開ければ済むのであれば、その方がずっとスマートだ。
自動車メーカーと国交省に検討してもらいたい。
自民党議員から次々出てくる天皇家に関する発言に対して、日本の歴史学者たちがとうとう堪らず批判の声を上げ始めた。
今回、自民党の小林鷹之政調会長が皇室典範の改正をめぐって「皇位の男系継承は、2600年以上にわたって先人たちが守り抜いてきた皇室の伝統」と述べたことがひとつの契機だ。
声明を発表したのは、神戸大学の古市晃教授と4人の研究者が中心となって結成した「皇室・皇位をめぐる議論に関する研究成果の尊重を求める古代史研究者の会」である。
会は小林の発言に危機感を覚え、「連綿と続けられてきた古代史研究の成果を否定するもので、到底容認できない」との声明をウェブ上で公表した。
そりゃそうだろう。この自民党政調会長の言ってることは、歴史的事実とかけ離れためちゃくちゃな話なんだから。
古市教授らは声明の中で紀元前660年の日本の状況をこう解説する。「考古学の研究成果によれば、縄文時代晩期、または弥生時代早期にあたり、日本列島にはまだ文字を使用する文化は存在しませんでした」。その当時、天皇を中心とした国造りが行われるような段階になかったことをはっきり指摘している。
そもそも「紀元前660年」という建国の年そのものが後年に設定されたフィクションというのは定説というか、常識。日本で縄文、弥生時代に文字がなかったことくらい小学生でも知ってるし、ちょっと考えればわかること。
そうしたことすら知らない、分からない人間が政治家をやるなよ。私たちみんなが迷惑するから。
タカ市首相も同様のことを堂々と言ってたのを思い出した。
https://tatsukimura.blogspot.com/2021/09/blog-post_22.html
つくづく呆れた連中としか言いようがない。
映画『ラスト・サバイバー』は、今年88歳になったR・スコットの最新作。2012年に刊行されたピーター・ヘラーのヒット小説がもとだ。小説、映画、ともに原題は The Dog Stars。
主人公は、最愛の妻を疫病で亡くし、今はかつて2人で飼っていた犬(ジャスパー)と一緒だ。もとはメカニックの仕事をしており、1956年型のセスナを飛ばし、自分の手でさまざまな機械を直したり操作することができる。
廃れた小さな空港の格納庫に住み、やけに銃の腕が立つ元軍人のバディと共に暮らす、彼らは、襲撃してくる生き残りのクズ人間(映画の中ではroach(ゴキブリ)と総称されている)をライフルと銃で返り討ちにする。
人間がほとんど滅んでしまい、街には野犬となった犬がうろつくだけで、人間の活動は消え去ってしまった。そんな世の中で各所各所に生き残った人間がお互いをうかがいながら生きているという、どうしようもない殺伐とした世界 ーディストピアー だ。
侵入者との闘いでジャスパーもなくしてしまった主人公は、かつての静かだが満ち足りていた家族の思い出だけを頼りに生きるようになる。そして、なぜ自分が生きているのか(生き残ったのか)、その意味を考える。
主人公は途中で出会った女性、シーマと親しくなり、夜空を一緒に眺め、星座にまつわる話をする。悠久の時の中で、自分たち人間のはかない命と一生の意味を頭に思い描く。
原題のThe Dog Starsは、主人公がシーマとともに見上げる夜空に彼が見つけた、愛犬だったジャスパーの星座のことなんだろう。
アクション・エンターテイメントでもあるが、リドリー・スコットらしい深遠なテーマを感じさせる一作。
https://tatsukimura.blogspot.com/search/label/%E6%98%A0%E7%94%BB
本棚から昔の原稿が出てきた。2006年12月の日付けが記してある。
ある新聞社からの依頼で、たしか翌年の正月に載せる特集記事のひとつとして書いた原稿だったと思い出した。ただその原稿はあるが掲載紙がないところを見ると、その頃新聞社が始めたばかりのデジタル版用の原稿だったかも。
今年の消費・トレンドのポイント
「今年の消費・トレンドのポイント」は何かというのが新聞社からのテーマなのだが、正直、そんなこと僕にはよくわからない。「今年のトレンド」という言葉は、何となく論理矛盾を含んでいる気もする。ただ、トレンド予想は苦手だけど、時代の流れの中でこんな変化はありそうだといった推測はいくつか立てられる。さもなければ、こうあって欲しいなあという期待みたいなものとか。
今年の市場を見た場合、そのもっとも大きな変化の一つが「2007年問題」と言われている団塊世代の第一波が定年を迎えて消費市場に本格的に登場することだろう。退職金をもらったうえ、今までにない自由時間を手にした彼らが考えることはなんだろうか。それは、まずはそのお金の置き所をどうするかではないだろうか。金融機関はどこも強迫的なまでに積極投資へ彼らの背中を押し、多くの退職者たちは慣れない投資とやらに思い悩む。せめて我も人並みにと・・・。資産があるが故に、どうにか活用せねばという深き悩み。投資のあり方は個別性が高いはずが、人並みを基準としたものの買い方・使い方に慣れている人たちが、いきなりこれぞ私の投資法といった戦略を立てられる訳もない。結局誰もが、誰もが買っている投資信託の銘柄に投資して一件落着となる。
投資だけではない。何に幾ら、どのように消費するかといったことにも多くのシニア、とりわけ日本の男性は概して自らの主張がないと言ったら彼らから怒られるだろうか。そうした意味で、案外これから最も有望なビジネスは、そうしたシニアにお金の使い道を指南するためのアドバイザーのような存在かもしれない。夫婦へのカウンセリングをもとに、あなたはまず奥さんとヨーロッパかニュージーランドへ3週間のんびり贅沢な旅行にいくのがいい。帰国後は、昔かじったギターでも買って、懐かしいフォークソングを健康維持もかねて毎日声を出して練習するのがよい、とかね。
じゃあ、彼らの奥さんたちはどうだろうか。一つ想像できるのは、これまで夫や子供など家族の面倒をみてきた彼女たちが、そこから解放されて、今度は自分が金銭を支払い誰かに「やってもらう」ことに夢中になるということではないだろうか。自らが料理するのではなく誰かに自分の好みの食事を用意してもらう、健康について人から気遣ってもらう、思いっきりわがままを聞いてもらう、などなど。亭主を会社に送り出す必要(責任)がなくなった主婦に怖いものはない。これまでできなかった「やってもらう消費」への情熱が花開く。
彼らにとっての消費は、別荘購入など除いて圧倒的に「もの」より「こと」へ向かう。そして、そうした「時間消費」は彼らにとっては重要な「仕事」だ。だって彼らはじっとなんかしてられないんだから。どこかで読んだが、人は自分が経験したことがあるものにしか夢中になれないところがあるらしい。彼らがかつて経験したこと、例えばそれは旅行だったり、楽器の演奏や語学の勉強、学校の体育でやったスポーツ競技など、そうした昔の記憶や感覚を取り戻すための「回帰消費」が拡大するのは想像に難くない。言い換えれば、当然のことだが退職したからって誰もが蕎麦打ちに興じたり、陶芸に生き甲斐を見つけたりするわけではないということだろう。
もう一つ忘れてはならないのが、ますます盛んになる「健康消費」。健康病と診断してもよい程の飽くなき健康追求の病をいやすための消費である。食事も健康、旅も健康、スポーツも健康、友人づきあいも健康。何はなくても健康第一。とにかく健康スパイスがふりかかっていないと触手が動かないといった、強烈な健康消費がさらに広まることだろう。
と、ここまで先輩世代をずいぶん揶揄してしまったが、彼らの根っこは常識的な社会人であり、実は彼らが担う消費社会の特徴はバランスの良さだと僕は信じている。お金は使うが死に金は使いたくない彼らには、今の若者のような一点豪華主義的な消費性向は少ない。いわば「バランス消費」である。給料月20万円のOLが、月に一度は一泊5万円の老舗温泉旅館に出かけるとか、100円マックを頬張るもう片手にエルメスのバックが握られていたりするのは、決してそれらが悪いわけではないが、いかにもアンバランスである。それらと対照的に、身近なものに自分が納得のできるプレミアム性を求め、それにふさわしい対価を支払うのが団塊世代を中心としたバランス消費の特徴だろうと僕は期待している。20年前はOLという言葉もまだ一般的だった。その頃、我々は日々の消費をそれなりに楽しんでいて、サラリーマンの退職後の姿にも今のような悲壮感がなかったのが分かる。
自分が書いたものを元に言うのも変だが、ある面で今よりよっぽど明るい時代だったことがうかがえる。
「やってもらう消費」「時間消費」「回帰消費」「健康消費」そして「バランス消費」などと勝手なことを言っているが、その後の日本の消費者の行動とどのくらいマッチしていたか、自問自答の機会だ。
台北を舞台にした映画『左利きの少女』(監督:ツォウ・シーチン)は、シングル・マザーのシューフェン、優秀なのに家庭の経済的理由で大学に進学できなかった娘のイーアン、まだ5歳の少女・イージンの親子3人が主人公。(後に普通の親子関係ではなかったことが明らかになる)
台湾と聞くと、ついTSMCをはじめとする世界的な半導体企業の隆盛、そして勢いのある経済成長が思い浮かぶ。2024年、一人当たりのGDPで台湾は日本を上回った。
が、考えてみれば当たり前なのだが、台湾人の誰もが半導体産業やIT産業でスマートに働いているわけではないし、企業組織を核とした経済秩序のなかで生きているわけでもない。
普通の人々の生活の多くは高層オフィスビルのなかではない、もっと低い、地べたを這うようなところにある。
この映画は、強い因習社会のなかで虐げられながらも自分を失うことなく生きる女性、そして家族の再生を描く。
わだかまりを抱えた親と娘、シューフェンとイーアンの間で自由気ままにふるまう明るいイージンの姿が印象的だ。視点をまだあどけない5歳の少女 ー実際のカメラのアングルも少女の目の高さで描いているー に置くことで、観る者が出来上がったオトナの目線で見ようとするのを押しとどめている。
映画は、(僕はよく知らなかったのだが)台湾社会にはまだ古風な家父長制の考えが根強く残っていて、女性が社会の中で地位を認められていない様子を見せつける。女性たちの恨み節が聞こえてくるようだ。
エンドタイトル間近にスクリーンに映るのも、万華鏡の中のきらめきだった。それはまるで台湾に生きる人たちのさまざまな人生を映し出し、多様性を応援しているかのように思えた。
台湾系米国人の監督が自らのルーツである台湾を外側から眺め、そこに生きる女と男、若い世代と高齢者たち、それらの間に横たわる違いと軋轢、そしてそれらをもととする不自由さを描いた作品である。
https://tatsukimura.blogspot.com/search/label/%E6%98%A0%E7%94%BB
地元・横浜市の市長がパワハラの責任を取って職を辞することを発表した。そのため、10月には市長選挙が行われることになった。
今回の出来事についてはメディアの報道でいきさつを知ることになったが、どうも釈然としない。
ひとつは、いつもながら言葉が勝手に一人歩きしている点で、「パワハラ」が今回のキーワードなのだが、その吟味が弱いように感じる。
メディアが報道しているような山中市長の行為を認めるわけではない。ただ、彼が日々やり取りしていたのは、大組織である横浜市役所の局長や部長という幹部職員である。みんな組織経験の長い「大人たち」のはず。
それが、市長が叱責するときに机を叩いたとか、提出した書類を投げて返したとか、ポンコツと言われたらとか、そんな子供じみたことでパワハラなんて言うなよ。指鉄砲を向けられたからといって、そんなことで精神的に傷つくなよ。ポンコツと言われて侮辱されたというのであれば、言い返してやればいい。
すべて器の問題。
それを反映するように、第三者調査報告書ではどの幹部が、なぜ、どういった文脈で「ポンコツ」とか「頭が悪い」とか言われたかは明らかにされてない。そこを知りたい。そこが分からなければ論評が難しいはずだから。
ふたつ目は、長期にわたって行われてきたとされる市長の一連の行為を、なぜ誰も止められなかったのかという疑問である。
下記はAIがまとめた、今回の出来事の概要。
副市長や局長が、市庁舎内での出来事として何も知らなかったはずはない。にもかかわらず、根本的な対応が取られていなかった。とりわけ、副市長の責任は重いと思う。
第三者委員会も地方自治法167条をもとに、副市長を「市長を補佐して職員の事務を監督する最高補助機関」と位置づけ、市長本人によるパワハラを防止・是正する重大なガバナンス上の役割を負うとしている。実際、副市長は横浜市役所で統括コンプライアンス責任者の職責を負っていた。
組織内で対策を取るべきだった副市長や局長が、何年にもわたって対応を怠った。自分に対する人事権を握られていたことに恐怖を感じたためか。だとすると、つまりは保身。
そうした彼らにとっては、市長に立ち向かうことではなく、黙ってやり過ごすことが合理的な行動だった。そのことで、組織的沈黙と呼ばれる状況が蔓延したということだろう。
結果、別の問題が発生していた。第三者委員会の調査によって分かったことだが、職員たちの声として、市長の行為が局長への精神的な負荷となり、それが増幅されて部長、またその部下へと降りてくるという趣旨の証言が寄せられている。
経営心理学の分野で言う「虐待的監督の下方伝播」が起こっていたのである。
今回の横浜市役所の組織としての失敗の流れを整理すると、次のようになる。
① 市長が圧倒的な人事権を持つ
↓
② 反対した者が異動などの対象になるとの認識が生じる
↓
③ 副市長、局長、部長などの幹部が市長を諫めることを放棄する
↓
④ 市長への悪い情報・反対意見が上がらなくなる
↓
⑤ 市長自身は自分のマネジメントの問題を認識しないままになる
↓
⑥ 幹部は市長の要求圧力を部下に向けて転嫁し、順に下へ伝播する
↓
⑦ 組織全体の心理的安全性が低下する
↓
⑧ 内部通報も行われなくなる
↓
⑨ 問題は解決されず、さらに長期化する
↓
⑩ 組織内では問題の解決が不能で、最後に人事部長が外部に向けて会見を行い告発。社会が知ることとなった。
最悪である。
市長も悪いが、副市長など幹部職員の責任も問われるべきだ。そこが報道ではすっかり抜け落ちている。僕が釈然としなかったのはそこだ。
メディアはフォーカスを絞って分かりやすく伝えた方がニュース価値が上がると思っているのかもしれないが、問題を単純化しすぎてはいけない。全体が分からないまま終わらせてしまう。
法務省の有識者検討会が、売買春について売春側だけでなく買春側にも罰則を与えるべきだとの意見をとりまとめた。
罰則規程が当てはまる対象は「勧誘行為」であり、それは売春者を物色する目的での徘徊(つまり歩き回りか?)らしい。しかし「行為自体」には罰則はない。なんだ、それ?
こうした件が議論されたのは「売る側の勧誘行為が処罰される現行法に対して、不均衡を是正する必要がある」からだと。つまり、不公平だからそれを調整して条件を「合わせる」ことが目的らしい。なんだ、それ?
路上で(多くは)女性が売春目的で客を見つけるために立ちん坊していることが周囲の風紀を乱す迷惑行為と考える「良識人」から出た発想だ。中学校の風紀委員会かい。
政府がこうした法律の見直しに動いたきっかけは、性売春を目的に来日する外国人観光客が目立って増えてきたことを懸念するようになった面が強い。今や、歌舞伎町界隈での日本の少女による売春は世界的に(特にアジア方面で)知られるようになっているということなんだな。貧しくなるニッポン。
政府は、そうした国としての見た目の悪さを気にしてる。だから、お上は路上での売買春を迷惑行為だとして取り締まりを強化したい。
だがこれは、問題の本質から逸脱している。売買春のための「勧誘行為」を適法とするか違法とするかなど、どうでもいい。というか、路上で勧誘ができなければ、場が路上からスマホ上に移るだけ。それで周囲の人の目に見えなくなるが、消えた訳じゃない。
ここでの重要な問題のひとつは、ホストクラブなどで女性(多くは未成年だったりする)が多額の借金を背負わされて、その返済の為に強制的に性労働させられている現実なのである。これは周囲の風紀を乱す迷惑行為をなくすためとか、道徳的であるためとかではなく、もっと本質的な真に解決すべき人権に関する問題だ。
そうしたことが行われている構造を取り払おうとせず、表面上の性売買、しかも「勧誘行為を処罰」というところにしか頭が行ってないとしたら情けなさ過ぎる。
裏で糸を引き、女性を逃げられない状態に追い込んで性搾取している悪党らこそ、まずは集中的に処罰されなければならないはずだ。そこをちゃんとやって欲しい。
探検家の角幡唯介は、その著書の中で「43歳が人生の全盛期」と主張する。
現在50歳の彼が自身の20代から40代を振り返って感じた実感からで、彼の『43歳頂点論』ではそれは体力の横溢さと経験の深さの双方から得られる総体としての探検者能力を示している。
角幡は大学の探検部にいたときから<探検>を続けている。探検はオリジナルでなければならず、まだ誰も足を踏み入れたことのない地へ踏み込んでいく。あるいは、まだ誰もそのルートでたどり着いたことのない道筋を選んで進む。
そのためには体力や肉体の強靱さが求められるが、それは歳とともに衰えていくのは避けられない。一方で、場を踏めば踏むほど、また歳を取ることからの人間としての経験や知識は深まる。
角幡の場合、その2つの総合力がピークに達していたと振り返って感じたのが、43歳だった。
探検家でも冒険家でもない身としては「へえ、そうかいな」としか思わないわけだが、植村直己や長谷川恒男、星野道夫などが43歳で命を落としていると聞かされると、妙に真実味を帯びてくるから不思議だ。
この本を読んだ読者は、たぶん誰もが「自分の全盛期はいつだったのかな?」と考えたに違いない。この問いは深い。基準をどこに置くかですべての判断が変わってくるから。そこに、その人の人生観と価値観がはっきり現れる。
そんなことを思っていて、ふと頭に浮かんだのは、一昨日の夏の甲子園大会の決勝戦である。
智弁和歌山高校が優勝した場面は、その日のテレビ局の各ニュースで流れ、スポーツ紙だけでなく、すべての一般紙でも取り上げられたはず。その選手たちが高校野球で日本一になった感動的で晴れやかなシーンだ。
気になったのは、その選手たちは優勝の熱が冷めた後、何を考えるのだろうということ。下級生たちは来年以降の大会を目指すのかもしれないが、来春に卒業する3年生はどうなんだろう。
スカウトされて大学の野球部やプロ球団に進む3年生もいるだろうが、それは一部の選手だ。残りの選手たちはこれから何を目指すのだろうか、と余計なことを考えてしまった。
人生は長い。彼らにとって「18歳が人生の最盛期だった」とならなければいいと思う。
サブスクリプション料金の改定と題したメールが来た。
最近、こうしたメールを送ってくるサービスが多いので、またか、という感じなのだが、それにしてもEvernoteは大胆にも2倍以上の新料金を言ってきた。
日本じゃ普通あり得ない。
自分たちはユーザーをロックインしていると考え、利用者の足下を見た価格政策をとっている。とっても厭な感じ。
Evernoteを使い始めたのは2009年だから、今年で17年になる。最初は無料サービスを利用していて、その後、有料サービスに変更。料金は月額2.50ドルだった。
2013年から年額払いに変更したが、その頃は年4,000円だったから新料金はその当時の4倍の金額になる。
会社の経営者が変わったことも影響してるのだろう。最近はやたらと頻繁に細かいアップデイトの通知ばかり送ってきて、ただ煩わしいだけでなく、肝心のデータの同期に時間がかかるのが気になっていた。
このタイミングで解約するに限るようだ。これまでのデータを人質にされて一方的なビジネスをされるのは実に不愉快。
お盆の帰省客の流れに逆行して京都へ。
お昼過ぎ、歌川国芳展が開催されている京都市京セラ美術館へ着いた。向かいの京都国立近代美術館を何度か訪れたことはあるが、こちらの美術館に入ったのは初めて。
どうも京都市がネーミングライツの契約を結んだ先が京セラだったということで、だからこの名前の美術館になっている。市と結んだ契約金は50年間で50億円。半世紀にわたる契約を結べたのは、稲盛さんの意向が働いたからだろう。稲盛、エライ。
歌川国芳展はこれまでに何度も見ているので、実はそれほどわくわくしながら訪ねたわけではなかったのだが、思いのほか展示作品が充実していて知らない作品がたくさんあり、大漁だった。
いつもそうなのだけど、ぼくは美術展を見終わるとぐったりと疲れてしまう。立ちっぱなしで1時間以上歩くこともあるが、ずっと集中しているから頭がしびれてしまうのだ。リラックスして楽しめばいいのに、と連れ合いから言われるが、どうもつい。
帰り、美術館の前にやけに昭和なタクシーが駐まっていた。ずいぶん前に生産中止になっているトヨタ・コンフォートだ。
乗り込んで行き先を告げ、シートに体を預けて見回すと、ドアに窓を開けるハンドルがついている。嬉しくなる。
彌榮自動車という京都市の老舗のタクシー会社で、運転手にその車の営業歴を尋ねたら、「16年くらい使ってますかね」と。さすがに昭和からではなかったけど、営業用の車にしてもずいぶん長い。そして、その車の走行距離は60万キロ越えていた。地球15周分の距離だ! ますます嬉しくなる。
窓のハンドルで思ったのが、先日の千葉での豪雨とそれによるクルマの水没事故だ。今回、道路の水かさが増してドアが開かなくなったケースが続出した。そして車の電気系統がやられて窓が開かないまま脱出できず、人が亡くなった。
そんな事故のことを聞いて思ったのが「なぜパワーウインドウが必要なのか!」といういつもながらのアナクロな罵りだ。
昔から、車の窓くらい電気の力じゃなく人が手で開ければいいと思っていた。その方が開き具合の調整が楽だし、エンジンをかけてなくても開け閉めでき、ずっと便利だと思うんだけどね。
グローブボックスには窓ガラス破砕用のハンマーが一応入っているけど、窓が開きさえすればそんなもの使う必要なしだ。
そもそも、何が嬉しくて車にパワーウインドウが付いているのか。何でも電動にすれば消費者がそれで喜ぶと自動車会社は考えているみたいだ。
今度車を買い換えるときは、パワーウインドウのスイッチをオプションで窓開けハンドルに変更してくれるようディーラーに話してみよう。
駅の上りエスカレーター。ふと見上げるとウマが。
頭絡とサドルパッドを付けているので乗馬用のウマみたいだ。それがリュックから半分からだを見せている。
別にぬいぐるみが好きなわけではないのだが、なんか面白いので一枚撮った。
人工知能が人間の知能を超えるシンギュラリティ(技術的特異点)が2045年頃に訪れるかどうかといった議論がなされていたのはつい先頃だと思ったが、実はもうすでに状況はその域に達しつつあるように感じる。
数学の分野で1946年にハンガリーの著名な数学者が提示した問題があり、彼自身がその解答を予想したものの、答えは解かれないままになっていた。
ところが、AIがその問題に取り組み、これまでの予想を覆す新発見をした。これまで多くの数学者がおそらく正しいと信じていたそれまでの予想を見事に裏切った。その事実は、数学の世界に強い衝撃を与えた。
とりわけ注目しなければならないのは、人間がそれまで思いつかなかった異分野の手法を組み合わせて今回の解答を導き出した点である。
なぜ人にはそれができなかったかというと、数学に限らずどの分野もそうだが、今では研究の細分化が極度に進んでいるために違う分野の知識を組み合わせる研究が難しくなっているからだ。
AIは人間と違い、いくら考えても疲れるということがない。しかも幅広く様々な分野の知識や知見を無数に組み合わせて答えを導き出すことが可能だ。
だとすると、今後、数学者の多くはこれまでの役割を失うということになるかもしれない。AIに問題を出したり、AIが示した解答を確認するという限られた数の数学者がいればそれで済む。
これはなにも数学分野に限った話ではない。まずは自然科学の分野でこうした状況が進んでいくのだろう。そして早晩、社会科学の領域においても人文科学の領域においても、AIが人間の研究者を凌駕するようになるに違いない。
それまで何年かかるか? 10年もかからないんだろうなぁ〜。
マイクロソフト社から「利用規約更新」の件名のメールが来た。
いまではマイクロソフトの製品はといえば、hotmailのアカウントを保持しているだけのぼくの所にもきた(笑
https://tatsukimura.blogspot.com/2026/06/blog-post.html
そのメールには、同社のサービス規約と「プライバシー・ステートメント」のリンクが貼られており、試しにどんなものかサービス規約を生成AIにチェックさせた。
AIは、一般的な大手クラウドサービスの利用規約としては標準的だとしながらも、注意すべき点をいくつか挙げた。
それらのなかで一番気になったのは、同社の規約では「サービス提供、安全確保、製品改善」といった目的で、マイクロソフト社は利用者のコンテンツを
することができる権利を利用者から与えられているという点。これって、大丈夫か? ぼく個人はマイクロソフトのサービスはほとんど使わないから、ま、いいけど。
それにしてもこの規約、文字数にして71,326文字もある。AIが本人の代わりに内容を精査してあっという間にコメントしてくれるからいいものの、そうでなければ誰も読まない(読めない)。
顧客のことを少しでも考えたら、何か他にやりようはあるはずだと思うんだけどね。そうしたことを何も考えないところがこの会社らしい。
マイクロソフトだけでなく、我々は気を付けないと彼らにケツの穴まで覗かれることになりそうだ。・・・もうそうなっているかもしれない。
先月末にも同様の趣旨のことを書いた。
繰り返しになるが、子どもたちをどうSNSから保護するかということをあらためて考えておきたい。
世界各国で子どものSNS利用を年齢によって制限する方向性が打ち出されているが、そのなか日本は一向に具体的な指針が定められないままだ。
大人として実に無責任だと思わざるを得ないのだが、子どもの保護を目的としたそうした規制に反対し、子どもにも「知る権利」があると主張する慶応大准教授の談話が新聞に掲載されていた。
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| 日経新聞、2026年8月3日朝刊 |
ひとつは過剰規制。年齢でSNSの利用を規制することは「憲法が保障するこどもの知る権利に対して過剰規制」という考えである。
憲法の「知る権利」まで持ち出して子どものSNS利用の規制に反対するという向きだが、どういう神経をしているのだろうか。
知る権利の侵害と言っても何について知る権利を侵害するというのか。それを具体的に示してほしいが、肝心のそうした点はまったく明らかにしてない。
日本は、子どもが知る権利が十分補償されているとボクは思っているんだけど。アメリカのある州の学校では、未だに「神」が世界を創造したとされ、現在も天動説が教えられている。だが、日本では学校でそんなことを教えられている子どもはいない。
宇宙の起源についての最新理論であろうと、生殖の仕組みであろうと、日本の子どもたちは自分が知ろうと思えば、そして調べようと思えば何だって知ることができる。
にもかかわらず、水谷というこの准教授はSNSの利用をある一定の年齢まで制限することによって、子どもは憲法で保障された知る権利を侵害されるから反対だという。こうした過剰な配慮意識は一体どこから来るのかね。
もし彼が指摘するところの子どもの「知る権利」が気になるのなら、SNS利用を年齢によって制限した後、当事者である子どもが「自分たちの知る権利が奪われた!」と苦情を言ってくるのを待ってその内容に耳を傾けたらいい(万が一、そうした声があるとしたらだが)。それから検討してみたらいい。先走って、ありもしないことを心配するのは賢明な態度ではない。
彼が挙げているもう一つの反対の理由は、もし年齢による規制を設けても抜け道があるので合理性に欠けるからということ。だけどね、それはしょうがないだろう。
大きな声では言えないが、大抵の規制には抜け道があるのがこの世の常。例えば、未成年は飲酒や喫煙が認められていないけど、飲もうと思えば飲めるし、吸おうと思えば吸える。大学近くの居酒屋で新入生が新歓コンパで楽しそうに飲んで騒いでいるのを見るのは例年のことだ。
だからといって未成年による飲酒や喫煙の規制が無為だとも不要だとも思わないし、同様に速度制限を守らない走行車があるからといって、一般道での速度規制が非合理的とも思わない。
この慶大准教授は、ルールは100%徹底されなければ意味を持たないというタイプみたいだが、現実の世の中はそうはできていない。徹底されなくたって、それがあることで国民の意識は変わるし、抑止の方向に社会は進んでいくのが現実の世の中だ。どうもそのあたりが分かっちゃいないようだ。
ところで今日、文部科学省が行っている小学6年と中学3年を対象にした全国学力・学習状況調査の結果が発表になった。
授業以外に1時間以上勉強している子どもの割合は、前回調査に比べて10ポイント以上減少した。そして、SNSに割く時間は増加傾向にあって、実施された学力テストではSNSの閲覧や動画視聴の時間が長い子ほど全科目で正答率が低いことが示された。
この調査結果は驚くような内容でなく、日常の観察からわれわれが感じていることが間違ってはいないことをファクトとして示したに過ぎない。
年齢によるSNSの利用規制についてだが、日本の子どもたちの未来を少しでも豊かにしたいなら、子どもの知る権利を侵害する過剰規制だとか、抜け道があるルールだから不合理だとか、そうしたつまらぬ屁理屈を弄んでいる場合ではないだろう。
規制反対をもっともらしい顔をして主張する学者は、もしメタやXといった米国のSNSプラットフォーム運営企業がSNSサービスを停止すると言ったらどうするのか。それらの企業に対して、「知る権利を奪う憲法違反」だと主張するのかネ。
冷静に考えれば分かる話だ。
熊本地震への対応と支援は、多くの方が不断の努力を続けている。
そんななか、車中泊をしていた女性がガソリン切れでクーラーが効かないまま車内で熱中症によって亡くなっているのが発見されたというニュースを聞いた。辛い。
「朝5時半から並び、4時間待ってやっと給油できました」という熊本の被災者の声を聞いた。ここはパレスチナのガザ地区か?
石油元売り会社の経営者は何をやってるんだ。日本でガソリンを運ぶためのタンクローリーを一番多く所有しているのは、君たちだろう。全国からそれをかき集めて、さっさとガソリンを被災地に運べよ。
今それをやらなくて、いつやる。
ホルムズ海峡紛争の影響を受け、ナフサ不足からカルビーがポテトチップスなど自社製品のパッケージの印刷を白黒に変更すると発表したのが5月12日だった。
https://tatsukimura.blogspot.com/2026/05/blog-post_13.html
実際にパッケージを変更した商品を出荷し始めたのが5月22日の週。北海道内のコンビニから順次、それらの商品が店頭に並び始めた。
小売店は当然、在庫があるうちは現行品を販売するので、実際に都内の小売店で白黒印刷されたパッケージのカルビー製品が商品棚に並んだのは6月中旬だった。
下記は新聞に掲載されてたカルビー・ポテトチップスの売上推移のグラフである。6月下旬に話題性と物珍しさでポーンと売り上げが急上昇。その後、急降下している。
これはいわば予想通りなのだが、一方で日本経済新聞は「カルビー 白黒ポテチの誤算」という見出しを掲げた記事を掲載した。
マーケティングのマの字も知らない、あきらかな見当違いである。
また、この売上動向をもって、リピート販売につながっていないからとカルビーに対して批判的なコメントをしている(知ったかぶりの)マーケティング専門家がいるが、これもお門違いだ。
マーケティングで一時の熱狂をFadと呼ぶが、これは謂わば突風(Gust)を狙ったマーケティング戦術である。
ナフサ不足で不本意な(本来やるべきでない)モノクロ・パッケージへの変更をやらざるを得ないなら、それでせめて話題を盛り上げて売上を作る、という考えである。
そして、その背景には社会が自社の政策を理解してくれる理由(今回の場合は原油供給の逼迫)があること、そして時間が経てば根本の問題は解決されるとの読みがあった。
黙ってモノクロにパッケージを変更したのでは、顧客が該当商品をただ「みすぼらしくなった」と感じるだけで100%マイナス。それを逆手にとって、カルビーは堂々と事前にアナウンスしたわけだ。
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| カルビーは各商品でしっかり追加分の売上を手にしている |
さらに、水木さんが描くところの子泣き爺 (こなきじじい)のような顔をした農林水産大臣からの「ナフサは足りている!」アピールは白黒化の話題性をさらに高めるのに役立った。
カルビー、Good job!
ガス・ヴァン・サント監督の映画『デッドマンズ・ワイヤー』(原題 Dead Man's Wire)を横浜で観た。
1977年に米国インディアナポリスで実際に起こった人質事件をもとに作られた作品である。
この事件は、発生時当時、テレビで全米に中継され大騒ぎになったらしい。当時の記録映像を挟みながら、その再現フィルムのような形でストーリーは進んでいく。
不動産投資会社から騙され、土地と全財産を失うことになった1人の男がその会社に乗り込み、社長の息子を人質に取る。テレビで全米に中継することを求め。そしてその不動産投資会社の社長に彼らの不正を認め、謝罪することを求める。
彼が人質を取った手口の1つが、映画のタイトルになっているデッドマン・ワイヤーと呼ばれる仕掛け。ライフルと自分をワイヤーで人質の首につなぎ、もしそのワイヤーが引っ張られるようなことがあれば、銃弾が発射される。 そのワイヤーは人質である社長の息子につながれ、そのため警察も手を出すことができない。
当時の記録映像を挟みながら、その再現フィルムのような形でストーリーは進んでいくのだが、この映画には1970年前後に制作されたアメリカン・シネマの匂いがする。本作のモチーフは犯罪であるが、テーマは犯罪そのものではなく、デッドエンドの状況に追い詰められて犯罪に走らざるを得なくなった若者の心情とその行動が描かれている。
アーサー・ペンの『俺たちに明日はない』やジョージ・ロイ・ヒルの『明日に向かって撃て』とトーンが似ているのはそのせいだろう。この映画の終わり、B.J. トーマスが歌う「雨にぬれても」が流れる。いかにも象徴的なラストだ。
この映画も含めて、いずれも主人公は<犯罪者>(本作の主人公トニー・キリシスは、裁判で陪審員の判決で無罪となったが)なんだけど、彼らが行った犯罪は、社会からは批判されてしかるべきものである一方、映画の観客たちは犯罪を犯した人間の状況と心情を理解し心の中で喝采した。
今なぜガス・ヴァン・サントがこの作品を作ったのか、その理由を推察するのは決して難しいことではないように思う。
帰宅して、少し気になってガス・ヴァン・サントが以前監督した『グッド・ウィル・ハンティング』(1997)を観直してみた。
エンドクレジット、すっかり忘れていたが最後に画面にこんな献詞が映った。
In Memory of
Allen Ginsberg and William S. Burroughs
やはり彼は確信犯だった!
新聞でタカ市総理についての面白い論考を読んだ。
最近の皇室典範改定などのやり方で支持率が低下したとはいえ、なぜいまだ多くの人が彼女を総理大臣として支持するのかに関する考察だった。著者によれば、その理由は「共感」。
「厳しい追求には答えたくない」「議論を尽くす合意形成は面倒くさい」「英語でのコミュニケーションは苦手だけれども、できているように見られたい」
こうした彼女の姿勢は普通なら批判の的となり、国民からの支持率低下につながるはず。ところが我らが総理大臣は、このような欠点ゆえに支持されているとの分析なのだが、なるほどこれは一理あるなと感じた。
もし、そういった指摘が前総理の石破のものであれば、彼は即刻多くの批判を受けることで支持率の低下は免れないだろう。ところがタカ市の場合は、そういった総理大臣としては明らかな問題を抱えるが故に「それってあるよね」と、逆にある層から共感を持って認められているというわけだ。
不思議な現象だが、確かにそうとでも考えなければ、現状についての合理的な説明はつかない。
国の最高意思決定者ではなく、ある層にとっての推しの対象になっているわけで、いやはや、なんとしたらいいのだろう。
総理大臣に対しては、本来、国民はもっと高度な期待を持っても構わないはずなのだけど。
フランスなど欧州のいくつかの国やオーストラリアで、子どもたちの心身の健康を守るため、また性的搾取をはじめとする犯罪被害や各種イジメからの子どもの保護を目的として、SNS利用への年齢制限を設ける動きがある。
背景にある考え方は国によって異なるところがあり、例えばフランスは以下の点を強調している。
・
若者の精神的健康
・サイバーいじめ
・注意力を奪うプラットフォーム設計
・夜間利用と睡眠不足
・学校生活への影響
・親だけでは対応できない巨大プラットフォームの影響力、など
一方、日本では有識者とやらが発する、子どもたちのプライバシーの問題や自由の尊重を理由としたSNSの利用規制へ反対する強い意見があり、具体的な対策がほとんど取られていない。
その代わりに、「学校教育でSNSの正しい使い方を教えるべきだ」とか「プラットフォームに対策を講じるように要請する」といった考えがいまも採用されている。
が、考えてみればいい。学校教育で教えるSNSの正しい使い方? それって具体的に何を示しているのか分かる人がいるのか。教育の現場を惑わせるだけではないのか。そのための明確な「トリセツ」でも作成されているのか。
学校の教師がSNS利用について具体的に何をどう教えるのかを示さず、「相手は子どもなんだから、学校で先生が教えてやれよ」だけでは何も動くはずがない。さらに、もし役人がそのための「指導要領」を作ったとしても、ネットの状況は日々変化しているので対応できるものでもない。
Xやメタなどの米国のプラットフォームが、どれだけ反倫理的な運営を平然と続けているかは日々の彼らの動きから誰でもわかるはずだ。各国の行政からの要請を無視するそれらの姿勢はこれからも容易に変わることはないだろう。
そして日本の有識者の中には「今やSNSは子どもたちの<居場所>なので、彼らのためにそれを奪うわけにはいかない」という考えで規制に反対する向きもあるが、どうにも理解が不可能だ。
自分の10歳の子どもがSNSに居心地のよい<居場所>を見つけ、そのまま成長していくことを想像してみればいい。例えば20歳までの10年間、SNSで過ごした彼(女)が、その後、そこからどうやって抜け出せるとおもうか。
SNSという、優れた(もちろん皮肉だが)ユーザビリティを実現しているツールだからこそ、子供らは中毒的にそこにのめり込み、友達などとの実体のある付き合い(コミュニケーション)ではなく、ただ手のひらの上ですべてを済ましてしまう。
SNSが使えなくなったから、子どもたちが友達との交流手段がなくなるわけでもあるまい。学校以外で友達に伝えたいことがあれば電話すればいい、訪ねていけばいい、遠方であればメールすればいい。
SNSが使えなくなると子どもたちは孤立してしまう。だから居場所としてのSNSが彼らに必要なのだとする考えが、僕にはどうしても理解できない。
ヴァーチャルからリアルへと、むしろ今のうちに子どもたちを取り戻すべきではないのか。
円安傾向が止まらない。タカ市政権が意図してその流れを強化しているのだから、当然と云えば当然だ。
ドルの値段が163円/1ドルを超え、円は1989年以来39年ぶりの安値レベルに落ちた。円の価値が上がる理由が見当たらず、それに市場が素直に反応している。
財源について語らないまま「責任ある積極財政」だとか、「骨太の方針」だとか、意味が分からない。
政府の施策に責任が伴うことは国民にとって自明のことで、わざわざ「責任ある積極財政」を標榜するってことは、これまでは責任というものが存在しなかったという事か?
言葉尻をとらえるわけではないが、「骨太の方針」というのも意味が分からない。骨太か骨細かの区別は一般の国民には関係ない。その方針は、国民が求め、必要としているものかどうかがすべてなのである。
タカ市は太いのが好きなんだろうが、それは自分の個人的な趣味にしておけばいい。
銀行口座に残高がほとんど残っていないのに、クレジットカードでどんどん買い物してたらどうなるか。やがて支払いができなくなり、信用を失い、金を借りることもできなくなり、最後には飯が食えなくなる。
円が売られ続けているということは、すでにそうした兆候に日本の経済が向かっているということ。
気分で選んだとしか思えない具体性の欠如した17の重点投資分野を掲げ、370兆円を越える投資を流し込むことで一部の企業に大金が分け与えられ、大もうけする連中も多々出てくるが、国民経済全体がそれで底上げされるほど簡単なものではない。
タカ市ら今の官邸のものの考え方とやり方では、例のCJ(クールジャパン)シンドロームを繰り返すだけだ。
今年後半、止まらぬ円安によって国内の倒産企業数が増えていくことが懸念される。
39日間に及ぶサッカー・ワールドカップが閉幕した。足かけ1か月以上だった。
一昨年のパリ五輪は全32競技(329種目)が17日間にわたって行われたことを考えると、サッカー1競技でこれだけの日数(五輪の2倍以上の日程)を要したのはなぜなんだろうと考える。商売とすればゲーム数が多く、日数が長ければ長いほど儲けが上がるわけで、そこにFIFAの意図が現れているのだろう。
今回の大会は日本チームの活躍も含め、ゲーム自体は見ていて面白く、実にワクワクさせられたが、その一方、フィールド以外の部分で考えさせられることが多かった。
その1つがアメリカ・チームがボスニア・ヘルツェゴビナ・チームと戦った際に審判から出されたレッドカードの扱いだ。アメリカチームの選手がレッドカードを受けて次の試合に参加できなかったはずのところが、トランプ大統領がFIFA会長のインファンティーノに直接電話してその決定を変更させた件である。
この行為については、既に多方面の関係者やファンからも様々な声が上がっているので、ここでは触れないが1つ気になるのは、そうしたトランプの行為とFIFA側の対応についてのアメリカ国民の反応だ。
YouGov/Economistが、2026年7月10日から13日に実施した全米調査によれば、「トランプ大統領がFIFA会長に電話をかけ、バログンの試合出場停止処分の撤回を求めたことを指示するか」と言う問いに対して、支持する米国人が21%いた。
「大統領が自国のチームを支持するのは当然だ」と言う考え方がベースにあるとされているが、これには首をかしげざるを得ない。
スポーツはスポーツであり、戦争とかではない。
そうした基本すらわきまえていない米国民が、5人に1人いると言うから驚きである。
ただしこれを政党別に見るとかなり違いが現れていて面白い。YouGovのクロス集計では、共和党支持者では賛成が多数派である一方、民主党支持者ではその圧倒的多数が反対の意を示している。
従って、FOXなどでの「大統領が自国選手を守るのは当然」と言う意見は、アメリカ市民全体の考えを反映したものではなく、共和党及びトランプ支持者らの意向を反映したものであることがわかる。
今回の件、アメリカではサッカーファンほどトランプの行動とFIFAの決定について批判的だったらしい。そして一方で、アメリカの一般国民は「よくわからない」と答えた層が多かった。
サッカーを日常的に見ている、いわゆるファン層では政治介入はスポーツの公平性を損なうとか、アメリカ代表の評価まで傷つけたといった意見が非常に目立っていた。
つまりこれらを総合的に考えてみると、サッカーについて詳しく知るわけでもない共和党・トランプ支持者らが歪んだ単純すぎる愛国心によってトランプがやったことを支持し、スポーツにおいても、とにかくアメリカが勝ちさえすればそれでよいと考えていると云うことが分かる。
こうした傾向は日本も同様で、ものごとを深く考えることなく表層的にしか判断しようとしない特定層が社会全体を蝕んでいっている姿が想像される。
勘違い丸出しの高市自民党へ投票した有権者しかり、斎藤知事を飽きもせず再選挙でも支持した兵庫県民しかり、ゲス丸出しの福岡県議会議員を自分たちの代表として選んだ福岡県民しかり。民度で云えば、先の米国民より酷いんじゃないか。
『銃・病原菌・鉄』で、著者のジャレド・ダイアモンドはとても興味深い論考を展開して見せた。
例えば、かつて同じような条件でスタートしたはずの人間が、今では一部の人種が圧倒的優位を誇っているのはなぜかーー。著者によれば、答えは地形や動植物相を含めた「環境」にあるという。
その進化生物学者である彼が、今日の新聞で「米国の強さとは何か」について語っていた。
今度発行される新著で「リーダー」について述べているのと絡め、歴史に残るリーダーがリーダーたり得た理由として「場所とタイミング」を指摘している。つまり、正しい場所に正しい時にいたかどうかということ。
そして、その延長線上で、なぜ米国にめざましい成功を収めた政治家、経済人、科学者らが集中してきたのかを問われ、以下の3つのポイントを挙げている。
1:野心と行動力、リスクテイクが報われるという楽観主義の存在
2:多くの危機を乗り越えた強固な民主主義と資本主義を身につけていること
3:階層がなく、若者や女性か活躍できる社会であること
翻って日本はどうか、米国のような成功者を生む国であることはできるのかどうかというと、かなり心許ない。
とりわけ1と3は絶望的だ。1が無理なのは日本の若い連中を見ていれば納得がいくだろう。とにかくリスクに敏感すぎる。つまり、リスクとは全力で避けるべきものと考えている。だが、リスクがないところには真のチャレンジも成功もない。
3であるが、政治家の集まりを見ても、経済人の集まりを見ても、年配者しかいない。しかもほとんどが男だ。そして、いうまでもなく日本人が圧倒的。
ダイバーシティなんて横文字が振り回されて久しいが、実態は遅遅として変わらない。
皇室はある意味で日本の縮図。皇紀何年とか言って、保守系政治家らは今も間違った歴史観をあからさまに口にするだけでなく、国会では意味薄弱な「男系男子」への妄信的執着が大勢を占めて、皇室典範について国民の総意とまるでかけ離れた決定がなされた。
おやじたちは階層にとどまることに人生をかけ、若者や女性を対等な存在として扱おうとはしない。
それでも大半の国民が真面目にコツコツやることでそこそこのところまで登り詰めたが、それも今後はもう無理。コツコツやるのはAIやロボットの方が圧倒的に得意で勝負にならないんだからさ。
やはり日本はコバンザメ戦略で、米国に追従していくしかないのか。
ただ米国について云えば、ノーベル賞受賞者や誰もが知るような企業経営者(例えばNVIDIAのジェンスン・フアン、スペースXのイーロン・マスクなど)を見ても、移民に繋がる人物の多くが米国で影響力のある大きな成功を収めている。その意味で、今後どうなるかは分からないけど。
皇室典範の改正要綱が、政治の場で概ね了承された。
| 「立法府の総意」とのたまった衆参両院の正副議長 |
暮らしているマンションの掲示板に部屋のリフォームのスケジュールが掲示されてた。通りがけに工程表をチラッと見ると、足かけ4ヵ月にわたる大がかりな工事だ。
リフォームではなく、ほとんどフルリノベーションだ。大変だな、と思ったらその部屋は隣室じゃないか。
何も聞いていないヨ。どうなっているのか、管理組合の理事長にすぐメールを送った。
その部屋に賃貸で暮らしていたSさん夫婦が転居していったのは半年以上前。彼らとは今もお付き合いさせてもらっているのだけど、その室で暮らしていたときは水回りのトラブルなどがあって大変だったらしい。それも一度ではなかったらしく、それが理由で仕方なく転出を決めたと話していた。
その後、その部屋は売りに出た。所有者(個人)が今が売り時だと判断したのだろう。中古マンションの価格が市場でバブルと言えるほど高騰しているうえ、築30年のマンションは今後立て替えなどを睨んで管理費や積立金の上昇や種々の煩わしい手続きが発生するのが目に見えている。
昨年売り出されたときの価格は6,280万円。10年前の相場の倍以上である。強気すぎる値段に買い手がつかなかったのだろう、3ヵ月前には5,780万円に下がった。
と思ったらその後、業者(デベロッパー)がそこを購入し、すぐさま7,490万円の値で売り出した。表面上の値上げ幅は3割だが、実際は叩いて安く仕入れたはずだから、買値から4、5割を載せているのだろう。
しかも、その室はまだリノベーションの工事を始めたばかりなのに、新しい間取り(現状プラス1部屋)でもう不動産売買サイトで売り出している。
まもなく建物の大規模修繕が控えている築30年の老朽マンションを、誰がその金額で買うのだろうか。
不動産の世界は、ぼくの目からはちょっと理解しがたい特殊な世界だ。
東京芸術大学大学美術館で開催されている「日曜美術館50年展」を最終日に訪ねた。
展示会場に入ると、まず目に飛び込んできたのが壁に縦書きされた「ピカソを神棚から降ろせ 岡本太郎」の文字。続いて、「抑制している自分がピカソ見てるとやんなっちゃう 横尾忠則」。
この展覧会が普通の展覧会とちょっと異なるのは、NHKの毎週の番組がベースになっていること。だから、ただ作品を展示しているのと違い、番組でゲストが作品について語った言葉なども紹介されている。それが面白い。
岡本太郎や横尾忠則という、その分野の専門家だけでなく、「日曜美術館」には詩人やバイオリニスト、劇作家、映画監督、音楽評論家など、他分野のゲストが登場し、その日の作家や作品について語るのを聞くのが楽しい。
そうした番組の一片を再現しているのが、今回の展覧会の特徴である。
図録には1976年4月の番組開始当時からのテーマ(取り上げた美術家)一覧が載っている。50年という長年にわたるその企画の継続はすばらしい。
上野は日曜日ということもあってか、ずいぶん賑わっていた。公園には多くの外国人観光客。そしてガード下近くの飲み屋街は、森保ジャパンのブルーのユニフォームでいっぱいだった。
| 石田徹也《飛べなくなった人》1996年 |
4ヵ月程前、国内のある学会に退会の旨を連絡した。
その後、何も言ってきてなかったのが、つい先日になって「退会が認められました」とメールを送ってきた。なんというか、日本の学会はどこまでもお役所みたいだ。
振り返ると、ぼくはどうも日本の学会とはあまり相性がよくなかった。
初めて学会に参加したのは30代後半になってから。外資系企業のマーケティング部署で働くかたわら博士後期課程の大学院生でもあった時、知り合いから商業系のある学会を紹介されて入会した。
初めて参加した学会、そこに最初に登壇した人物は関西のある国立大の経営学部に所属する助教授で、彼女は自分の研究報告の冒頭でこう言い放った。「企業には攻撃型の企業と防衛型の企業があります」
<おいおい、ちょっと待てよ、なんだその二分法は>と仰天したのが、一番最初の感想。
企業は人間と違って、生まれながらの不変なパーソナリティを持っているわけではない。市場において攻撃的な行動をとることもあれば、状況に応じて防衛的な行動をとることもある。
どうするかはその時の競争状況と、現在の戦略や資源などとの兼ね合いで決定される。 A男さんはいつも物静かな性格で、B子さんはつねに饒舌なタイプ、といったアナロジーは企業には当てはまらない。
企業をマーケットリーダー、チャレンジャー、フォロワー、ニッチャーに分けて考えるようなことはある。が、それはその時の特定業界における市場占有率によって取るべき基本戦略を類型化したところからの発想に過ぎない。
彼女の冒頭の発言を聞いてぎょっとし、思わず会場にいた周りの参加者の反応が気になってぐるりと周囲を見回した。そこでまた、僕は烈しく驚いた。
彼女のさっきの決定論的な発言に対して首を傾げているような人がそこには一人もいなかったから。みんな何もなかったような涼しげな顔で聞いている。<ダメだ、こりゃ>と思ったのが2番目の感想である。
と同時に、ビジネスの現場でのたうち回ったことのない安穏な大学人の様態はこうなのだと実感して、自分とは相容れないことを痛感し、暗澹たる気持になった。
これが一番最初の学会での記憶。そして僕が聞いた一番最初の研究報告での出来事である。これが良かったのか、良くなかったのかーー。
以来、学会活動への目は日本国内ではなく海外に自然と向くようになった。だから、コロナ禍で海外渡航ができなかった時期を除いて、学会発表はほとんど海外での国際学会で行ってきた。
そのため国内では学会内の何々一派といった集団には一切タッチすることなく、毎回、外国でいろんな国からその都度やって来た研究者たちと仲良く面白くやり取り(カンファレンス・パーティなどでの飲み食い、小旅行を含む)ができたわけだ。
思い返せば、すべてはあの時の彼女のあの発言と、それに対する周囲の大学研究者の無反応(アパシー)から始まったのだった。
昨日から今日にかけての世界のトップニュースは、アメリカとイランが戦争終結に向けての条約への締結をしたというニュースだ。
報道では14項目の合意がなされているとされ、特に第8項目の「イランは核兵器製造せずと改めて表明(最終合意で対処)」が注目されている。
米国の高官が読み上げたその正式な内容は「イランは核兵器を取得・開発しないことを再確認する」となっている。
これって気にならないか。
英語で何と言ったのか調べたらこうだ。"The Islamic Republic of Iran reaffirms its permanent commitment not to produce or acquire nuclear weapons."
イランは核兵器を「製造」も「取得」もしないとなっているが、これでは例えばロシアや中国から核兵器を借り受けた場合はこれに抵触しないことになる。
またイランは、この項目で核兵器を「使わない」とは言っていない。さらに同じ第8項目の後半は次のようになっている。
"The Islamic Republic of Iran and the United States have agreed that the fate of enriched material and the fate of all other mutually agreed nuclear-related issues, including Iran's nuclear needs, will be adequately addressed in a final agreement."(イランと米国は、濃縮核物質の処遇およびイランの核エネルギー需要を含むその他の核関連問題について、最終合意において適切に解決することに合意した)
ここでの「適切に解決」が何なのかは不明のままである。
イラン側は、とにかく早く決着をつけたくて仕方ないトランプの足下を見て交渉をうまくやった。というか、米国高官らの対応があまりにお粗末すぎるのが、よその国の事ながら気にかかる。
トランプはこの合意で一件落着と思っているようだが、これから一悶着あるのは間違いない。
講談社がインドで出版社を設立すると発表した。
彼らはその目的としてふたつあげている。ひとつは「(インドの)全人口は14億6300万人以上、そのうち10代〜20代のいわゆるZ世代だけでも約3億7000万人もいる」であり、もうひとつは海賊版対策だという。
さてその通り、うまくいくか。
講談社は以前からインドに社員を置いているが、同社の今回の発表内容を読む限り、それでもってインドのことを分かっているとはあまり思えない。
確かにインドの人口は中国を抜いて世界一の14.6億人という途方もない数だ。しかし、インドは一つの国というより、その文化や言語の観点から見れば28の州がそれぞれ異なる別個の国のようなもの。
言葉だけで数百の言語・方言がある。もっとも多く用いられているのはヒンディーだが、全体の半分に満たない。
ヒンディー語(約43.6%)
ベンガル語(約8.0%)
マラーティー語(約6.9%)
テルグ語(約6.7%)
タミル語(約5.7%)
その他
英語が曲がりなりにも読める層は全体の1、2割と推定されている。そして、現地でいま講談社の漫画を激安の海賊版で読んでいるのは、そうした英語版読者だ。
出版社が版権を売った米国の出版社が発行した漫画雑誌がインドに輸入され、その店頭価格が高い(読者にとって)のですぐ海賊版に化けてる。もとの一冊をスキャナーで読んでデータ化するだけなんだから、簡単に行える。
おそらくインド政府はマンガの著作権(それも外国のIP)の保護などさほど関心はないだろうし、スキャンする人たちのモラルや読者の懐具合(小遣い)といった状況も合わせて考えれば、講談社の担当者がいくら「手に取りやすい価格で正規品を売ることで海賊版を減らしたい」と言っても、その撲滅は絶望的に思える。マンガに正規品も海賊版もない。
しかも、講談社がインドに設立する新会社は「紙」で出版すると宣言している。だからなのか、あるいはその方策の理由なのか、大日本印刷がインド法人の共同設立者になっている。
あえて自分の手足を縛った、デジタルをやらない(できない)体制で出版事業を現地で興す発想が分からない。
紙のマンガ雑誌(もの)をどうやって毎週毎週、広大なインドの書店やキオスク(そうしたものがあればの話だが)に配本するのか。ちなみにそれは日本のように返本可能か、それとも売り切りか。
コンテンツ開発、ターゲット設定、商流管理など不安要素しか浮かばないのだけど、講談社の経営者は何か秘策でも持っているのだろうか・・・。
同日、キッコーマンとカゴメがそれぞれインドでのビジネス強化を進めるという話を聞いた。こちらには期待が持てるのだが。
本をキンドルやiPadなんかで読むことが日常の中で普通になっている。
日常の中でといったが、とりわけ風呂の中で読むのは防水仕様のキンドル・オアシスじゃないと具合がわるい。
その一方で、写真や絵が見開きで印刷された本は、やっぱりデジタルではなく紙に印刷された本でゆっくり眺めたい。
先日知り合いからもらった『ニューヨーク文学風景』(原書房)もそんな一冊だ。ニューヨークのマンハッタンとその周辺にある有名書店や図書館、作家ゆかりのホテルやレストラン、詩人や作家たちが集ったバーやカフェ、さらには劇場など文学作品に関係する施設が写真とともに紹介されている。
NYにはそれら以外にも気に入った書店はたくさんあって、どの店も知の迷路に迷い込ませてくれた。本屋というのは、不思議な空間である。
そして、それは日本のいい書店も同様。ぼくの日常の動線上にある東京や横浜にもそうした店はたくさんあるが、京都の四条烏丸にある大垣書店が最近のお気に入り。
本屋が完全になくなることはないと思うけど(その前に人口減少で日本人がいなくなる?)、すでに現実になっているように、書店が一軒もない町や自治体がますます増えていく傾向は変わりそうにない。
ネットでも本は買えるし、デジタルでも読めるんだけど、たまに書店のあの空間に身を置いて、いろんな本と対峙する時間を持つことを失いたくない。
いい本(自分にとって価値がある本)はやっぱり買う前に棚から手に取って、目次を眺めたり、まえがきを読んだりしないと分からない。ただでさえ出版ビジネスは粗製濫造になっていて、最近は本の広告内容だけだと買ってから「なんか違う」と思うケースがしきりだ。
町の本屋がなくならないようにするためには、人が本に対して愛着をもっと持つようにすること。そのために著者と出版社にはいい本を作る努力をもっとしてもらいたいし、取次はベストセラー狙いの本だけでなく、良書をきちんと広く配本すること、本屋はそれをしっかり来店客に伝えてほしい。
そして、顧客は喜びを持ってそうした本を買い、読む。本の値段は、日本では典型的なデフレ価格だと思う。つまり、安すぎるのだ。これも粗製濫造の影響である。
新味のカップ麺を売り出すかのように、ほとんど工夫のない本ばかりが新たに作られているような印象がある。トータルで書籍の販売冊数は減少傾向にあるのに、出版点数だけは増えているんだから。
なんとかどこかでネジを逆に巻き戻さなければ、大変なことになりそうだ。
「週刊文春」と文春オンラインが、しつこく(もちろんいい意味で)高市総理の地元事務所が2月の衆院選などで他候補を誹謗中傷する動画を大量に作成・発信した件について報道している。
それによると地元の高市事務所の公設秘書が動画作成を依頼したことは明らかだろうと思われるのだが、高市総理は一連をすべて否定している、というか正しくは、認めていない。
そうしたことを陣営として行ったのかどうか問われたときは、行ったとも行っていないとも回答せず、「私は秘書を信じる」と答えた。回答をさけた「はぐらかし」だ。
高市総理が国会質問で「週刊文春」に掲載されたその動画作成に関わった人物の証言の是非について問われたとき、彼女は雑誌に書かれたその証言について語ることなく、「面識のない方の名誉を傷つけることは申し訳ない」と、これまた完全に的をずらした答えを繰り出した。
確信犯だ。
今回の事以外にも、こうした悪質な政治家の「はぐらかし」を目にすることがある。兵庫県知事の斎藤や東京都知事の小池の顔がすぐ浮かぶ。
兵庫県知事選にかかわる事件では、県議会議員や県職員が自死するということまで起こったにもかかわらず(というか、そうした重大な事柄が起こったからこそ)、それらへの関与を問われた斎藤は、自身が「関係していない」とは明言せず、「関係しているという認識はない」という表現に終始した。
後に捜査で事実が明らかになったときのことを考えての逃げ道を用意している。「関係していない」と言ってしまうと偽証したことを問われるが、「関係しているという認識はない」なら、認識が違ってました、と云うことにして逃げ切ろうというわけだ。
カイロ大学首席卒業という学歴の正否を問われたときの小池の対応も、また呆れるほど同類。
なぜ政治家というのはこうもずる賢いのか。そして、日本のメディアはなぜそうした稚拙なはぐらかしをしっかり糾弾しないのか。
たぶんだけど、その背景の一つには、そんなこともういいじゃないか、彼女(彼)は総理(県知事、都知事)にまでなった人なんだから、という日本国民の、ありがたくも寛大過ぎる勘違いした心の広さがあるからかもしれない。
自分のある活動をエクセルのシートを使って記録をとり続けている。
月が変わり、新しいシートを作ろうとしたところ・・・できない。既存のファイルを開くことはできるが、修正も印刷も保存もできなくなった。Microsoft 365のアカウントが失効させられているかららしい。
忘れてたが、勤務していた大学が管理するソフトだったからだろう。仕方ない。
それにしても退職2ヵ月で使えなくなるなら、それはそうと事前に知らせておいて欲しかった。2ヵ月という猶予期間の長さの問題ではなく、べつにそれが退職と同時でも構わないけど、いつから使えなくなるのか知らされていれば事前に対応ができていたから。
ということで、表計算の新しいシートをまさに作成しようとしているところで、さてどう対応しようかと思案してしまった。
方法はいくつか。個人でマイクロソフト365を契約して利用するか、ソースネクスト製などの代替Officeアプリを購入するか、Googleドキュメントで代用するという手もある。
個人でマイクロソフトと契約して利用者IDを購入すれば、これまで通りの使い勝手で継続利用できる。だが私は、昔からマイクロソフトという企業は嫌い。
どうしようかと考えた結果、この際、新しいやり方(ちょっと大袈裟だけど)にチャレンジしようとMacに標準装備されているiWork(Pages, Numbers, Keynote)を使ってみることにした。何と言っても無料だし、この場でスグに起動できる状態なんだから。
iWorkを使ったことはない。これまで会社でも大学でも、そこではMS-Officeが業務上の標準とされていたために、習慣的にそれに否応なく倣っていたからだ。
ちょっとおっかなびっくりでNumbersを起ち上げた。当然、最初は操作に戸惑うが、そもそも表計算のアプリで必要なことは決まっているので、求めるボタン(コマンド)がどこにあるのか推測しながら探しさえすれば、たいていは見つかるというもの。
そうして、15分ほどでiWorkのNumbersアプリで表計算のシートを初めて作成し、プリントアウト。細かい仕上がりの調整の仕方はまだ分からないが、それはどうでもいい。そのうちに分かるから。
それより、これまでの長年にわたる一つの惰性から抜け出たように思えて、嬉しい気分。
電通がマーケティング・リサーチを仮想空間上でできるようにするらしい。
仮想空間上と云ったのは、生身の人間ではなくAIがこしらえた仮想顧客(仮想人間)のことで、これまでの調査で必要だった調査対象者のリクルートが全く不要になる、らしい。
これまで調査でもっとも大変だったのは良質なサンプル(回答者)をタイミングに合わせて集めることだった。コストがかかった。
早く、安くできると謳うネット調査は実は形だけで、一般的にはノイズが多すぎて残念ながら調査といえる代物にはない。ましてやマネジメントが経営上の判断に用いるのは危うすぎる。
https://tatsukimura.blogspot.com/2023/03/blog-post_6.html
それをすべてヴァーチャル人間に切り替えちゃおうというわけだな。
電通は、彼らの説明によればこれまで収集した顧客に関するデータをもとにAIが750種類の人格を作成し、それをもとに顧客調査ができまっせと。
彼ら、というかそれらは生身の人間じゃないから「質問や聞き直す回数に上限はなく、持病などの悩みから広告などに関するネガティブな感想まで、聞きづらい本音も回答を得られる」のがウリだとか。
だけどね、ちょっと考えてみようよ。例えばだけど、持病や性癖、家庭状況、自分が抱えている悩みやコンプレックスといったプライバシーに関わるようなことでも、感情を交えずあっけらカーンと答えてくれる被験者が被験者たり得るのか。
どうも違うんじゃないのかね。だって、そんな人間、世の中にはいないんだからさ。
それと、電通は750種類の人格をそれぞれ1つのサンプル(ペルソナ)として売って課金する商売を考えているんだろうけど、AIがつくり出した仮想顧客なんだから、本当はひとつ(1人)で済むはず。
1人で750の人格を備えている多重人格者、といったら分かりやすいかな。ダニエル・キイスの『24人のビリー・ミリガン』という興味深い本があったけど、それと同じような感じだ。
仮想顧客の被験者「電通太郎さん」は男であると同時に女であり、大人であると同時に子どもでもある。都内の金融機関に通勤するサラリーマンであり、田舎の田畑で毎日汗を流す農家でもある・・・。つまり電通太郎は、750人分のペルソノが備わっている超重度の解離性同一症の人物と考えれば分かりやすいだろう。
だとすると、調査はすべてn=1で済む。その1は<電通太郎>だ。でもそれじゃ商売にならないから、生身の人間のイメージに合わせて個々に切り分けて料金設定するんだろうな。
今後、AIの能力を使ってマーケティングのやり方はドラスティックに変わっていき、本来の意味でのマーケティング・オートメーションが実現するようになる。
1人か2人の真に優秀なマーケターがAIエージェントを扱うことで、市場分析やマーケティング・プランの作成などすべてのマーケティングの仕事をこなすイメージだ。
企業側はもう何十人といったマーケティング部門を構える必要はなくなる。真に優秀なマーケターとマーケティング・センスがあるトップ・マネジメントがいて意思決定ができれば、それで済むのだから。
夢物語ではなく、近い将来、確実にそうなるだろう。
梅雨に入る前に水芭蕉を見ようと尾瀬へ出かけた。
戸倉の宿の主人からは、今年は例年より水芭蕉が咲き始めたのが早く、もう終わりの時期に入っているようだと言われたが、湿原を方々歩いてみるとまだ群生している場所がたくさんあった。
今の季節の花は、水芭蕉とリュウキンカが中心。どちらも風情を感じさせるいい花だ。
| 湿原に広がる水芭蕉 |
| 鮮やかな黄色いリュウキンカの群れ。向こうに至仏山 |
尾瀬ヶ原は標高1400メートルの高原。火山活動をもとに、何万年もの時間の経過によってこれだけの広さの高層湿原が生まれ、そしてそれが残っているのは考えてみればスゴいこと。
とにかくだだっ広く、それだけ空も広い。ふと見上げると、太陽の周りにまるく虹がかかっていた。日暈(ひがさ)だ。ハロ現象ともいわれる。今日は天気が良かったわりに湿度が高いなと思っていたが、それが影響したのだろう。
| 至仏山 |