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2025-10-13

ダイアン・キートンと「アニー・ホール」

ダイアン・キートンが79歳で亡くなった。死因などは公表されていない。

彼女が出演した映画を最初に観たのは、中学時代に友人と行った「ゴッドファーザー」。だが、あの男の群像を描いた映画のなかに登場した女優は、誰一人ぼくの印象に残らなかった。ダイアンもそのなかのひとり。彼女の影が薄かったとかではなく、そういう映画だったからだと思う。

強烈に覚えているのは学生時代に観た「アニー・ホール」。彼女がアカデミー主演女優賞を獲得した、ウディ・アレンが監督した映画である。

この映画は面白かった。アレンとキートンが劇場の入口で開場を待っているシーンは忘れられない。当時のメディア界を一世風靡していたマーシャル・マクルーハンが本人として登場した、あのシーン。こんな演出もあるのかと、たまげた。 


彼女の出演作ですぐ思い出せるのは、「アニー・ホール」以外に「マンハッタン」「インテリア」「ミスター・グッドバーを探して」「レッズ」など、どれも学生時代に観た作品だ。 

90年代以降も彼女は多くの作品に出演し、それらはどちらかというとシリアスなものではなくロマンチック・コメディと言われる類の作品で、ぼくの個人的な印象は薄かった。

これは彼女の女優性の問題ではなく、プロデューサーなど作品の作り手側の問題だったと思っている。 

つばの大きな帽子がトレードマークだった、個性的で魅力的な女優さんだった。

 

2025-10-05

40年間未公開。馬鹿げた日本の映画興行界

ポール・シュレイダーの「MISHIMA」(1985年製作)が、今月から日本で初公開されることになったらしい。
https://www.yomiuri.co.jp/culture/cinema/20251001-OYT1T50022/

新聞では今回の初公開が三島の生誕100年の年だからとか、人を小馬鹿にした説明がされているが、なんだそれは。
https://tatsukimura.blogspot.com/2012/07/mishima.html

もしそんなことで初公開するのだったら、さっさと日本でも公開すればよかったわけでね、東宝が怠慢こいてただけじゃないのかね。 

1985年製作の映画『MISHIMA』日本初公開の報道を参照中に撮影したデスクトップのスクリーンショット

2025-09-14

高畑勲と手考足思

麻布台ヒルズギャラリーで開催されている「高畑勲展」では、彼が60年近く携わってきたアニメーションを中心とする、ほぼすべての作品についての軌跡を見ることができる。

作品の完成に至る途中の圧倒的な数のスケッチ、コンテ、アイデアメモなどだが、とりわけなかでも印象に残っているのは、映画「火垂るの墓」の脚本作成のための高畑のノートだ。

野坂昭如の原作本を全文コピーしたものを数セット用意し、場面、時間、人物にマーキングしたうえで時系列ごとに分けてノートに切り貼りしている。そして、その余白には彼が映画で描こうとしている各シーンの状況説明や台詞、カメラワークなどが書き込まれている。

 

野坂の原作にはなかった「死んだ兄妹が物語を見つめている」という映画での二重構造は、高畑がこのノートを作りながら構想していくなかから生まれた。

「手考足思」という河井寛次郎の言葉があるが、高畑の仕事はまさにそうだ。作品を作るに際しては画で考え、文字で考えるのはもちろん、可能な限りその舞台となる地を内外を問わず訪ねて、その地の歴史や人物に関することなどを渉猟することで企画書をまとめていった。

高畑のこのノートを見ることができただけでも、出かけた甲斐がある。「ものをつくるということ」を、あらためて考えさせられた。 

2025-09-06

「バード ここから羽ばたく」

主人公は12歳の少女ベイリー(先日観たラッセ・ハルストレムの映画の主人公犬と同じ名前だ)。舞台は特定できないが、海が近くにあるイングランドのとある町。

彼女の父親は、今は離婚した女性との間に彼が14歳の時にベイリーをつくった。お気楽な不良上がりで定職にも就いていない。元の母親は幼子を抱えながら、これまたクズの男と暮らしている。

登場人物全員が金がなく、教育も受けておらず、感情の赴くまま荒れた日常をただ過ごしているように見える。そこにバードと名乗る奇妙な男が現れ、ベイリーは彼の親探しを手伝うようになる。

今の英国の一面を描いた社会派リアリズムの映画かと思って見ていたら、終盤になって一気に寓話の世界へストーリーが展開し驚いたが、それはそれで12歳という「これから何でもあり」のベイリーの未来を反映してるようだった。

映画には鳥はもちろん、馬や犬、猫、魚などの生き物が出てくる。どれも無垢な自然を象徴しているようだ。そして明日を思い煩わずに「今」を生きている存在として描かれている。

映画を見終わって劇場を出たあと、頭の中でずっとジョン・レノンの「フリー・アズ・ア・バード」が鳴っていたのはなぜだろう。


2025-08-24

LION/ライオン 25年目のただいま

「スラムドッグ$ビリオネア」や「ニューズルーム」(HBO)のデブ・パテルが主演した映画「LION/ライオン 25年目のただいま」の始まりは1986年のインドの小さな村である。

それはいまから40年ほど前だが、それにしても当時の日本とは比較にならないほどの貧しさのなかで人々が生きていたのが描かれている。

兄の仕事を手伝うために鉄道駅に向かった5歳のサミーが、ひょんな事から回送の長距離列車によってコルカタ(カルカッタ)に運ばれてしまう。帰りたいと思っても、彼は自分が生まれ育った村の正しい名前すら知らない。

やがてオーストラリアの夫婦のもとに養子として迎えられ、豊かな愛情の元で25年の日々を過ごす。だが、もちろん彼の心の中には分かれたインドの村の母親と兄がいた。

鉄道駅の近くに給水塔が建っていたとか、町の裏には母親が石運びとして働いていた岩山があったなどの数少ない断片的な記憶をもとに、Google Earthで自分の生地を探り当てて訪ね返るという話である。

ひょんな出来事で家族から離れてしまった彼だが、映画で描かれているその後の人生は極めて恵まれた幸せなものと言っていいものだ。

ただ心のなかでくすぶっているのは、インドでまだ生きているだろう母親と兄の消息。映画の終盤、彼はネット上の地図で見つけた村を訪ね、いまもそこで彼の帰りを待っていた母親と25年ぶりに感動的な再会を果たす。

ストーリーが美しすぎるが、これは実話をもとにした話が映画化されたものらしい。描かれた人物にはおそらく演出上のフィクションも含まれているはずだが、とにかくGoogle Earthで彼が育ったインドの村を探し出したという点は本当の事なのだろし、そのテクノロジーに感嘆した。

養母役のニコール・キッドマンがいい。 

 
(後記)なぜこの映画が気になったのか、分かった。この映画のしばらく前に観た「火垂るの墓」の少年・清太とサミーを頭の中で重ねていた。清太は14歳、サミーは13歳でほぼ同じ年齢だ。共に雑踏の中(それぞれ神戸とコルカタ)にひとりぼっちで放り出され、清太は誰からも救いの手を差し伸べられることなく駅の構内で餓死する。一方、サミーはコルカタで見知らぬ人によって救助されて生き延びるだけでなく、その後、生家の母親と再開を果たす。時代も場所も違うとは云え、これら二人の少年の運命の差の大きさとその理由を考えさてしまった。
 

2025-07-02

ルノワール

映画「ルノワール」の主人公は11歳の少女。時は1980年代後半。主な登場人物はその少女フキ(変わった名前だ)とその母と父。

父親(リリー・フランキー)は闘病中で入院している。医師から余命宣告は受けていないが、入院先の出す薬を自分で調べて自分がガンだと知っていて、死ぬ覚悟はもう気持ちのなかでほぼできている。母親(石田ひかり)は仕事と家事、それにフキの世話に追われて神経が尖っている。

そうした家族環境の中での少女のある夏が、いくつかのエピソードをパズルのように組み合わせながら展開していく。

ぼくには11歳の少女の気持ちを想像することや、彼女の周りに起こるだろう日々の出来事を思い浮かべることはたやすいことではないけど、それにしても映画の中で起こる事件のような出来事はまるでスペインのファンタジー映画を観ているような印象だった。

そんななか、一つだけ日本的というか土着感を感じたのは、入院している父親が病院を抜け出して自宅のアパートに帰り、寝室の扉を開けると、そこに女物の喪服が衣紋掛けに駆けられていたシーン。

ゾッとするとともに、これってあるかな〜? えっ? なに? あるんだ。

早川千絵監督の「PLAN 75」はテーマがストレートで、いかにも(良くも悪くも)新人監督のメジャーデビュー作といったものだったが、「ルノワール」は難しい。
https://tatsukimura.blogspot.com/2022/08/blog-post_17.html 

11歳だという少女の気持ちの変化や波打つ感情を、もう推測できなくなっているからかもしれない。 

2025-06-12

ブライアン・ウィルソンが亡くなった

ビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンが82歳でなくなった。

薬物中毒に苦しんだり、精神を病んだり、彼の人生は大変な苦痛の波に何度も襲われていた。死去する前は認知症を患っていたらしい。

ただ3年前に公開された映画「ブライアン・ウィルソン 約束の旅路」の中の彼には、そうした印象はまだ見受けられなかったのだけど。
https://tatsukimura.blogspot.com/2022/08/blog-post_21.html  

間違いなく不世出のミュージシャンだった。これから世界中の多くのミュージシャンからトリビュートが寄せられることだろう。 

ところでビーチ・ボーイズというバンド名は、彼らが自分たちで付けたものではなく、レコード会社が勝手に命名したもの。彼らにはもともと別のバンド名があったが、レコード会社によって製作されたレコード盤には見たこともない名前が印刷されていた。そのときメンバーは全員驚いたが、すでに遅かった。

ビーチ・ボーイズの、というか、ブライアン・ウィルソンの曲にはサーフィンをテーマにした曲もあるけど、バラード調の曲にもすばらしいものがたくさんある。


2025-05-23

地方自治と二元代表性について考える

ポレポレ東中野で「能登デモクラシー」を観て、自分が生まれ育ったちいさな町を思い出していた。高校を卒業してすぐそこを出てしまったので、実際にその町の行政や議会の中味が分かっていたわけではないが、なぜか「似てる」と感じたのである。

住んでた人たちの考え方や雰囲気が共通していた。典型的な地方の保守的な田舎町。役所の人間がなぜか分からないが偉そうにしていた。高校生から見ても理不尽なことが多く、不愉快だった。

今年のはじめ、ある新聞で同郷の漫画家の一条ゆかりが、その町についてこう書いていた。

この場所から逃げ出したいと思っていた。噂好きで、人と違うことをする人間を嫌う。何かについて「女だからダメ」と言う。そんな人の多い田舎が大嫌いだった。 

彼女は僕より10歳ほど上だが、これを紙面で読んだとき、古い地元の仲間に会ったような気がした。

「能登デモクラシー」の舞台である穴水町は人口約7千人の小さな町。高齢化だけでなく、その高齢者の数も年々減少している。消滅が想定される町のひとつだ。

そんな町で、いや、そんな町だからか、代々の町長らは自分の利益のためのやりたい放題。 にもかかわらず、町議会の監視機能がまったく働いてない。行政と議会のあいだには惰性と忖度の関係しかない。

だが、それはこの町特有のものではない。僕の生まれた町も、あの町も、日本のどの町も似たようなものだ。その意味で、映画で描かれている穴水町は「日本の縮図」という言葉がぴったりくる。 

カメラが捉えるのは、地元の80歳の男性とその家族。「このままでは町がなくなる」「何もしなければ、何も変わらない」と語り、手書きの新聞を発行しながら町の未来に警鐘を鳴らす。少しずつ理解者がふえてくるのが救いである。

この映画の監督は、地方局である石川テレビのディレクター。彼が、もとは地上波の番組として制作したものがベースになっている。

地方にあるメディアの矜恃というか、意地のようなものを感じる。今では多くの地方メディアがその存在感をなくしているなか、まだまだ頑張っているメディア人がいることが分かり少し嬉しい。 

2025-03-19

自由を最優先に考えれば、学校はこんなにおもしろい

今年15回目になる大倉山ドキュメンタリー映画祭の最初の上映作品は「夢みる小学校」だった。

映画に登場する小学校「きのくに子ども村学園」は、テストも宿題も通知表もない。先生もいない(らしい)。

ちょっとびっくり。でもちゃんとした小学校だ。


映画のなかに映る子どもたちは驚くほど自由で活発。子どもたちはもともと疲れを知らないんだから、やりたいことさえあれば、それに夢中になれるのが彼らの特権だ。

いつの間にかこんな学校ができたのではない。自由を最優先に、子どもたちがのびのびと楽しめる場(学校)を作ろうと考え、それを地道に実行した大人がいてできた。

とにかく自由。責任がともなわない、完全な自由だ。責任はオトナが取る。だから、子どもたちは自分が何をやりたいのかをみずから考え、見つけ、頭と体をめいっぱい使って毎日を過ごす。

一方で、それができない子には辛い場所かも知れない。先生からあれをやりなさい、これをやりなさいと言われてやっているほうがよっぽど楽だから。

だから、この学校はすべての子どもたちの場ではない。そうある必要もない。だが、こうした学校がもっとたくさんあってもいい。 

映画のなかに「卒業を祝う会」の様子が映し出される。「卒業式」ではないのがいい。卒業式になっちゃうと、先生(学校)が主体となってもの事が決められ、式次第がそこにあって、それに子どもたちが合わせるだけになるから。

体育館に集まった卒業生たち、てんでバラバラに並んでいる。普通だったらクラスごと一列に並ばされるけど、この学校ではそんな集まり方はしない。<前へならえ>で一列に並んだら「前が見えないでしょ」だって。ははは、そのとおりだ。

昨日、今年のセンバツ高校野球の開会式があった。ニュースでその選手入場の風景を見たけど、さっきの小学校とまったく対照的で別の意味で驚かされた。

こちらは全員が丸坊主。ユニフォームに身を固め、ブラスバンドの音楽に合わせてイチニ、イチニと整然と手を振り足を上げて進む。


まるで軍隊の行進だ。

大会を主催している高野連、毎日新聞、後援の朝日新聞など、運営している大人たちは、こうした光景を毎年見てて何も感じないのだろうか。 

だとしたら感覚が麻痺してる。

2024-03-13

映画「オッペンハイマー」

96回目になるアカデミー賞では、「オッペンハイマー」が作品賞、監督賞、主演男優賞、助演男優賞、編集賞、撮影賞、作曲賞の7部門で受賞した。

 
原爆の開発責任者だったJ・ロバート・オッペンハイマーについて描いた作品である。僕は先月、この映画を2回観た。飛行機の中、行きと帰りだ。他に観たいものがなかったからだけど。

さて、昨年7月に米国などで公開されたこの作品は、まだ日本では公開されていない。原子爆弾の本質、原爆でのヒロシマ、ナガサキでの被害や被災者の姿などがきちんと描かれていない、という批判がすでに多く寄せられていることがその理由の1つだ。

日本人の一般感情としてそれは分かるが、この映画はそれを目的に作られたものではない。「ゴジラ」とは違う。

焦点は原爆そのものではなく、その開発の中心人物で原爆の父と呼ばれた(呼ばれてしまった)人物の思いや葛藤が中心のストーリーだ。映画として世界中に配給され、商業的に成功するものをと考えたならそうなる。しかたない。だから、日本人がこの映画に「NHKスペシャル」のような作りを期待したら間違っている。

映画で描かれた原爆の「向こう側」にいたわれわれ日本人が考えるべきこと。それは、この映画がヒロシマ、ナガサキの被災者の状況をきちんと描いていないことに対して不満を募らせることではなく、なぜ原爆の投下を相手に許してしまったのか、なぜそれを止められなかったのか、つまり大戦の負けを認めるべきタイミングでそうした対応(降参)を国の中枢部が決められなかったのかだ。

僕は米国による日本への原爆投下を認めているのではない。しかし、もし日本が原爆を大戦中に先に開発していたなら、日本の軍部は間違いなくそれを敵国に対して使用していただろうこと、そして、そうした戦争にともなう開発競争のなかで、大局的にどのように国民と国を守っていくかという考えが、日本の中枢部には決定的に欠けていたことは確かである。

2023-12-10

確かに壮大ではある「ナポレオン」

この映画を観ていると、ホアキン・フェニックスがそのままナポレオンに思えてくる。もう彼以外にナポレオンはいないほどに。それほどまでにフェニックスの見せる造形は深く、見る者をその世界に引き込む。

映画「ナポレオン」は、86歳のリドリー・スコットがおそらく長きにわたってその製作を構想していたに違いない一作。

金のかけ方が半端ではない。それもCGとかそういった先端技術への金のかけ方ではなく、もちろんそうしたシーンもかなりあるが、驚かされるのはエキストラの数とその質である。そこには登場する多数の見事な馬たちも当然含まれる。

むしろ今ならCGでやれば何でもできるものを、広大なセットと同時撮影する何台ものカメラ、それを扱う撮影スタッフ、演出の行き届いたエキストラたちと訓練された馬たちで戦闘シーンを描く監督の力量だ。

物語としては、フランス人兵士たちが全員英語をしゃべるのが観ている途中で気になって、気になって。あまりに自然で見事な英語だからなおさら。その瞬間、やはり映画、絵空事、との思いが頭をよぎったのが残念というか、もったいない。

個人的には、同監督の作品でいえば「グラディエーター」の方が没入感も陶酔感も優っている。なぜだろうと考えた。それは、先にも書いたホアキン・フェニックスのナポレオンではなく、この映画の中で描かれた彼の妻、ジョセフィーヌの役柄と存在へ感じた違和感のような気がする。

2023-11-14

アメリカでも、パレスチナの地でも

「キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン」は、1920頃のアメリカ、オクラホマ州を舞台にした史実に基づいた映画だ。監督はマーティン・スコセッシ、ロバート・デ・ニーロやレオナルド・デカプリオが主演している。

 
石油が湧き出た土地を保有する先住民族から、白人たちがどうやってその土地と利権を奪い取ろうとしたかが描かれている。白人にももちろんいい奴そうではない奴がいるわけだが、これも今に通じるとおり、権力を握った連中は間違いなく後者だ。

スコセッシらしく、怯むことなく、また衒いなくアメリカの暗部を描き出す。デカプリオの叔父役で、オクラホマの地方名士を演じるデ・ニーロの底冷えのする悪辣さが際立っている。

ネイティブ・アメリカンであるオーセージ族の女性を演じたリリー・グラッドストーンはオスカーを獲るだろう。

2023-11-13

老兵は死なず

映画「SISU」は、不死身の男と呼ばれた老兵を主人公にしたフィンランドの活劇だ。時は第二次世界大戦の末期、北欧ラップランドの地で彼はナチスの一群と対決する。

 
彼に武器は無い、手にするのはツルハシとナイフ。戦いの仲間はいない、一緒にいるのは愛犬1匹。彼は何も喋らない、自らの知恵と経験と不屈の体力でドイツ軍の戦車や飛行機に立ち向かう。

スタローンが演じた「ランボー」は、弓とナイフで戦った。「ダイハード」のジョン・マクレーンはロサンゼルス市警らしく拳銃で敵を倒す。
 
一方、 一人で金塊探しをしていたこの老人は穴掘りに使っていたツルハシで敵を倒していく。その豪快さと爽快さ。荒唐無稽と嗤うなかれ。

ちなみにフィンランド語「Sisu」は、フィンランド人の国民性を説明する際にしばしば使われる概念で、氷点下の気候や歴史的に厳しい環境の中で生き抜いてきた背景と結びつけられるらしい。

それは単なる「勇気」や「根性」ではなく、困難に直面したときに最後までやり抜く「胆力」「意地」「不屈の闘志あるいは根性」「ガッツ」「最後までやり抜く力」のニュアンスを合わせたような言葉だ。

2023-09-05

年寄りはメチャクチャなくらいがちょうどいい

現在公開中の『春に散る』は、沢木耕太郎の新聞小説を原作にした映画である。

実は映画を見てから、原作の小説を手に取った。書棚の片隅に置いていたその本は2017年発行の初版本だった。

映画のなか、佐藤浩市が演じる初老の元ボクサーの年齢ははっきりとは明らかにされていない。佐藤本人は63歳なので、それくらいかという印象だった。

小説で描かれた主人公である広岡は26歳で日本を出て米国に渡り、40年ぶりに初めて帰国したということなので、66歳に設定されていた。66歳、微妙な年齢である。一昔前なら、もう現役の第一線から退いた引退者の一角を占めているわけだが、いまはどうなんだろう。

映画の中で印象的だった、佐藤浩市演じる元ウェルター級のボクサー広岡仁一が、若いボクサーの黒木に向けて放つ台詞がある。広岡からボクシングを教わる黒木から「言ってることがメチャクチャじゃねえか」と言われ、広岡は「年寄りはメチャクチャなんだよ!」と返す。だがこの台詞は、沢木の原作には書かれていない。

前言を翻すといったことではなく、「今」を生きる感覚で、理屈ではなく直感的に判断をすると、そうなるのである。

若い連中には理屈に従って秩序正しく真面目に生きてほしいが、俺たち年寄り(都合がいいときはそう言っておく)は好き勝手言って、好き勝手やって、メチャクチャなくらいがちょうどいいのである。

「春に散る」は、もうひとつの「あしたのジョー」である。

2023-03-17

「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」

このタイトルがいい、思い切りがいい。どうだ、という製作者の声が聞こえてくる。

本年度のアカデミー賞で作品賞をはじめ7部門でオスカーを受賞した。コインランドリーからマルチバースまで。白人らが演じたのではただのマンガ。登場人物がアジア系ぞろいだから成立している。

主演女優賞はミッシェル・ヨーが、そして助演男優賞は中国系ベトナム人で難民だったキー・ホイ・クアンが受賞した。クアンは「私の旅はボートで始まった。難民キャンプで1年過ごし、なぜかハリウッド最大の舞台にたどりついた。そんなの映画でしか起こらないと言われるが、信じられないことに私に起こった。アメリカン・ドリームだ」と受賞式で語った。

感動的なスピーチであるが、僕は「アメリカン・ドリーム」とは思わない。運営者側が、いまそれが相応しいと考えた「アメリカン・デシジョン」だからだ。

何ごともタイミング。それを象徴する出来事のひとつである。

ミッシェル・ヨーの見事な上腕二頭筋も表彰したい

2023-03-12

『逆転のトライアングル』

リューベン・オルストン監督の『逆転のトライアングル』には、自由奔放な意地悪さが溢れている。本年度のアカデミー賞作品賞の候補作のひとつである。

原題は「Triangle of Sadness」。額の眉間の皺がよった箇所をしめす美容・ファッション業界の用語らしい。日本語にすると「悲しみのトライアングル」か。もってまわった大仰なこの言い回しを映画タイトルに据えたところが、オルストンの意地悪さの第一歩 。

 
主人公のカップル、カールとヤヤはファッションモデルの男女で、上っ面の見せかけだけを飾った中身が限りなく空虚な世界を象徴する。

物語の展開は、パート1から3までの3幕で繰り広げられる。それぞれが「起」「承」「転」であり、最後の3分ほどで「結」をなす。パート1は主人公ふたりについてのこと、パート2は豪華客船に乗り合わせた大富豪などの俗物らと船上でのエピソード。パート3では、船が海賊に襲われ爆破され、カールとヤヤほか数名が無人島に流れ着いたあとの逆転劇となる。

映画は、登場人物のロシアの大富豪(オルガルヒ)や、武器製造会社のオーナーでこれまた大金持ちの英国人夫婦などを底意地悪くからかい、嘲っている。ここで彼らを笑うか、またどう笑うかで観ている方が試される。

最後の3分。ハッとさせられる。この展開はどこかで見たことがあるなと思ったら、1968年公開のフランクリン・シャフナー監督の「猿の惑星」(Planet of the Apes)だと気づいた。

監督のオルストンは、それをやりたくてこの映画を作ったんじゃないのかね。

この作品、笑える話題作ではあるが、作品賞はなさそう。

2023-02-14

チョコレートな日

「間違ったら、溶かして作り直せばいい」「温めれば、またやり直せる」。宮本信子さんの抑制のきいたナレーションが、劇中で何度も繰り返される。まるでチョコレートは人生のようだ。

ドキュメンタリー映画『チョコレートな人々』の舞台は、愛知県豊橋市にある「久遠(QUON)チョコレート」。登場するのは代表の夏目浩次さん。このチョコレート店の開業者であり、経営者である。

バリアフリー建築を学んでいた学生時代に、障がい者の平均月収(工賃)が1万円しかないことを知り、障がい者雇用の促進と低賃金からの脱却を目指してパン屋を開設した。が、うまくいかなかった。いいパンを作るのは、難しい。パン作りは、その最後の製造工程でミスをすればもう売り物にならず、その日店頭で売れ残った商品は廃棄処分するしかない。

身をもってこうした経験をした夏目さん、めげずに<じゃ、どうすればいいか>を真剣に考えた。行き着いたひとつのアイデアが、チョコレートだった。チョコレート作りが簡単とは言わないが、よい原料を使い、丁寧に手順通り作ればばおいしいチョコはできる。しかも、溶かせばやり直せる。

一流のショコラティエである野口和男さんの協力を得て商品作りをしたのも、夏目さんのパン屋失敗の経験からだろう。そして、メインの商品は、テリーヌ風のチョコレート。ナッツやフルーツが入っていて、見た目がきれいで愉しい。一枚ずつ手切りにされた色とりどりのテリーヌ・チョコは、一枚一枚見た目が違う。その個性は、そこで働く人たちを象徴しているかのよう。  

もともと東海テレビの番組として制作された。それが劇場用映画として編集し直されたおかげで、日本中の人がこうして観られる。同テレビ局の制作による「人生フルーツ」や「さよならテレビ」と同じスタイルだ。準キー局の民放テレビ局のなかにも、まだ志とチカラのある制作陣がいるのがうれしい。

このドキュメンタリー映画は、障がい者について知り、考えるきっかけを与えてくれる。が、それだけじゃない。「働くこと」ってどういうことなのか、否が応でも考えさせられる。

とりわけ考えさせられる、いや、突きつけられるのは、映画の終わりでの夏目さんの言葉だ。障がい者の人たちとともに日々苦悩しながら闘っている彼は、「経済人たちから、頑張ってるね、とよく言われるが、頑張ってるねと言うのは所詮他人事だからなんです」と語る。

「大変だね」「頑張ってるね」というのは確かにエンパシー(共感)を示す言葉だけど、それを言い訳にわれわれは逃げていないか、安心していないか。優しそうな夏目さんの、その言葉の切っ先は鋭く、観ているこちらにも向かってくる。

前面には出てこないが、経営に行き詰まり、何枚ものカードローンを組んでまで頑張った夏目さんをずっと後ろで支えた、彼の奥さんも凄いと思う。

2023-02-12

誰もがどこかで聞いたあのメロディー

フェリーニの映画にニーノ・ロータの音楽が不可欠だったように、セルジオ・レオーネの作品にはエンリコ・モリコーネが書いた音楽が欠かせなかった。代表作は「荒野の用心棒」「夕陽のガンマン」「続・夕陽のガンマン」「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」など。

もちろんそれだけではない。あの「ニュー・シネマ・パラダイス」(ジュゼッペ・トルナトーレ)や「アンタッチャブル」(ブライアン・デ・パルマ)など、映画とテレビのための音楽だけで500作を超える。脂が乗っていた41歳の時には、1年間に21本の映画の仕事をしているというから驚く。才気煥発、溢れる才能とでも言おうか。

 
6歳の頃に、トランペット奏者だった父からトランペットを教わり始めた。小学校を終えた後、父親の命で音楽院に入学し、その後音楽家として生きていくようになる。小学生の時の同級生がのちに映画監督となるセルジオ・レオーネだった。こうした出会いも興味深い。

このドキュメンタリー映画では、モリコーニ本人が「ニュー・シネマ・パラダイス」で初めて彼が仕事をした映画監督のジュゼッペ・トルナトーレに、これまでの60年以上にわたる作曲家人生の来し方を語る。また、それ以外に彼を知る70名ほどが「作曲家・エンリコ」について話をするなかで、彼がなしてきた比類なき偉業のようなものが浮かび上がってくる構成になっている。

その顔ぶれ。クリント・イーストウッドやタランティーノ、ベルトリッチなどの映画監督はもちろん、スプリングスティーンやクインシー・ジョーンズ、ハンス・ジマー、ジョン・ウィリアムズ、パット・メセニーなどのミュージシャンや作曲家など多彩な顔ぶれだ。

スプリングティーンは、子どもの頃に映画「続・夕陽のガンマン」を観て、すぐにその映画音楽のレコードを買いに走ったという。そうした経験は、後にも先にもそれしかないという。

その「続・夕陽のガンマン」のイントロ部分の発想をモリコーネが語っているのが面白い。導入の♪タリラリラ〜♪というのは、コヨーテの遠吠えをイメージしている。それ以外にも、彼の音作りの発想はユニークで実に前衛的だ。 

 
彼がもっとも多くの仕事をしてきたのは、なんといってもイタリア映画である。本ドキュメンタリーでは、それらの映画と彼の映画音楽が数多く紹介される。それらの多くは観たことがない。それらは日本では未公開だから仕方ないのだが、古いイタリア映画の豊かさを知るきっかけになった。何十年も、日本人にとっては「洋画」イコール、ハリウッド映画だ。

モリコーネは、映画音楽はもちろん、実験的な音楽でもすぐれた作品を残している。本作品に映る彼は、鉛筆と五線紙だけでがんがん曲を書いていく。タランティーノが彼を評して「ベートーヴェンよりすごい」と(いささか興奮気味に)語っている。

モリコーネが映画の仕事を始めた頃、彼は音楽院時代からの師匠から商業音楽に走ったと批判された。彼自身の中にも、そうした後ろめたさはあった。だがそれを振り切り、幅広い音楽で人びとを魅了し、映画の見方さえ変えた。音楽家として100年後も名前が残るに違いない。

2023-02-06

缶切りのひとりとして

映画「猫たちのアパートメント」(Cats' Apartment)は、ソウル市江東(カンドン)地区にある巨大なアパート群を舞台にした人と猫のものがたり。


そこは143棟ものアパートが建っていたマンモス団地。かつては6000世帯、2〜3万人が暮らしていたが、再開発のために建物はすべて取り壊されることになった。

低層住居のビルを高層ビルに建て替えるためだ。それまで建っていたアパートは5階建てか10階建て。それらの建物間のスペースもゆったりしていて、植栽や公園のスペースも多かった。だからおよそ250匹と推測される猫たちが、そこに暮らす人たちに面倒を見てもらながらゆったりと生きていた。

建物の取り壊しが決まり、徐々にだが人びとがこの地から去って行く。やがて住む人がいなくなり、もとからいた猫たちだけが取り残される。もちろん、そうした事情を猫たちは知る由もない。

このままだと野垂れ死にしかねない野良たちを死なせないために、団地に住む作家やイラストレーター、写真家などの5人の女性が立ち上がり、ニャンを移住させる活動を始めた。

相手は勝手気ままな猫。捕獲ひとつとってもなかなか思うようには行かない。時間がかかる、手間もかかる。でも彼女らは手を休めない。

賛同してくれる元住民らも多いが、地域猫についての考えはそれぞれ。これが絶対という解決策にいたらないままに動く彼女らにはストレスものしかかる。


画面では、地面すれすれの低位置に構えたハンディカメラが猫を追う。その猫の映像とそこにかぶさるピアノは、われわれにお馴染みの岩合さんの「世界ネコ歩き」と雰囲気がどこか似ている。

いまではネズミを捕まえることを期待されているわけでなく、害虫退治を求められるわけでもない、実利的には役に立つことのない猫と人が、それでも一緒に生きていくためにはどうしたらいいのか。

登場人物の一人の女性は「猫はご近所さんだ」という。ほどよい距離で見守りたいと考えている。

途中、集まった猫ママ(この映画中で猫たちの面倒をみている女性)たちが、猫たちは(こうやって世話を焼いている)自分らをどうみているんだろうねえって話す場面がある。

そこにいた一人の女性が、「彼らにとっちゃ、私たちは体のいい缶切りみたいなもんよ」って言う。ハハハ、うまく的を付いている。

イスタンブールの街を舞台にしたネコ映画「猫が教えてくれたこと」を思い出した。

2023-01-07

おとぎ話のような実話

映画『ドリームホース』の舞台は、ウェールズの小さな村。昼間はスーパーのレジ係、夕方からはバーで働くかたわら、近くに住む両親の世話に追われている一人の主婦が主人公。連連と過ぎる日常にどこか鬱々とした気持ちをかき消せない日々を送っていた彼女が、たまたまバーで馬主の話を耳にし、村の連中を巻き込んで馬主組合を立ち上げて馬を育てることになる。 

これ、作り物の話ではない。もとのドキュメンタリー映画があり、それをベースに本作がつくられた。お話は実話ということもあって、筋書きはシンプル。だけどシンプルだからこそ、多くの人たちの琴線に触れるものになっている。主人公の彼女(ジャン)は私であり、あなただからだ。

舞台になっているウェールズの風景が美しい。映画を観たあと、偶然、ウェールズに暮らす学生時代からの友人からメッセージが来た。

音楽好きな息子とSohoのレコードショップにいて、Japanese Ambientというコーナーを見つけたが何がいいのか分からないのでアドバイスしてくれという。

日本の環境音楽について僕にはすぐに返信できるような知識はない。彼らがいる店に在庫があるかどうかしらないが、とりあえず坂本龍一と武満徹はどうかと返信した。たまたまこのところ、仕事しながら彼らの音楽を聴いていたというだけの理由なのだけど。

映画『ドリームホース』では、むかし彼からもらったManic Street Preachers のCDに収められてた曲が劇中で使われていたこともあって、映画を観たよ、と伝えたら、今度よかったら厩舎に案内してやるよって返ってきた。いまもそのままその村に残っているらしい。