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2025-06-12

ブライアン・ウィルソンが亡くなった

ビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンが82歳でなくなった。

薬物中毒に苦しんだり、精神を病んだり、彼の人生は大変な苦痛の波に何度も襲われていた。死去する前は認知症を患っていたらしい。

ただ3年前に公開された映画「ブライアン・ウィルソン 約束の旅路」の中の彼には、そうした印象はまだ見受けられなかったのだけど。
https://tatsukimura.blogspot.com/2022/08/blog-post_21.html  

間違いなく不世出のミュージシャンだった。これから世界中の多くのミュージシャンからトリビュートが寄せられることだろう。 

ところでビーチ・ボーイズというバンド名は、彼らが自分たちで付けたものではなく、レコード会社が勝手に命名したもの。彼らにはもともと別のバンド名があったが、レコード会社によって製作されたレコード盤には見たこともない名前が印刷されていた。そのときメンバーは全員驚いたが、すでに遅かった。

ビーチ・ボーイズの、というか、ブライアン・ウィルソンの曲にはサーフィンをテーマにした曲もあるけど、バラード調の曲にもすばらしいものがたくさんある。


2023-03-17

「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」

このタイトルがいい、思い切りがいい。どうだ、という製作者の声が聞こえてくる。

本年度のアカデミー賞で作品賞をはじめ7部門でオスカーを受賞した。コインランドリーからマルチバースまで。白人らが演じたのではただのマンガ。登場人物がアジア系ぞろいだから成立している。

主演女優賞はミッシェル・ヨーが、そして助演男優賞は中国系ベトナム人で難民だったキー・ホイ・クアンが受賞した。クアンは「私の旅はボートで始まった。難民キャンプで1年過ごし、なぜかハリウッド最大の舞台にたどりついた。そんなの映画でしか起こらないと言われるが、信じられないことに私に起こった。アメリカン・ドリームだ」と受賞式で語った。

感動的なスピーチであるが、僕は「アメリカン・ドリーム」とは思わない。運営者側が、いまそれが相応しいと考えた「アメリカン・デシジョン」だからだ。

何ごともタイミング。それを象徴する出来事のひとつである。

ミッシェル・ヨーの見事な上腕二頭筋も表彰したい

2023-03-12

『逆転のトライアングル』

リューベン・オルストン監督の『逆転のトライアングル』には、自由奔放な意地悪さが溢れている。本年度のアカデミー賞作品賞の候補作のひとつである。

原題は「Triangle of Sadness」。額の眉間の皺がよった箇所をしめす美容・ファッション業界の用語らしい。日本語にすると「悲しみのトライアングル」か。もってまわった大仰なこの言い回しを映画タイトルに据えたところが、オルストンの意地悪さの第一歩 。

 
主人公のカップル、カールとヤヤはファッションモデルの男女で、上っ面の見せかけだけを飾った中身が限りなく空虚な世界を象徴する。

物語の展開は、パート1から3までの3幕で繰り広げられる。それぞれが「起」「承」「転」であり、最後の3分ほどで「結」をなす。パート1は主人公ふたりについてのこと、パート2は豪華客船に乗り合わせた大富豪などの俗物らと船上でのエピソード。パート3では、船が海賊に襲われ爆破され、カールとヤヤほか数名が無人島に流れ着いたあとの逆転劇となる。

映画は、登場人物のロシアの大富豪(オルガルヒ)や、武器製造会社のオーナーでこれまた大金持ちの英国人夫婦などを底意地悪くからかい、嘲っている。ここで彼らを笑うか、またどう笑うかで観ている方が試される。

最後の3分。ハッとさせられる。この展開はどこかで見たことがあるなと思ったら、1968年公開のフランクリン・シャフナー監督の「猿の惑星」(Planet of the Apes)だと気づいた。

監督のオルストンは、それをやりたくてこの映画を作ったんじゃないのかね。

この作品、笑える話題作ではあるが、作品賞はなさそう。

2023-02-14

チョコレートな日

「間違ったら、溶かして作り直せばいい」「温めれば、またやり直せる」。宮本信子さんの抑制のきいたナレーションが、劇中で何度も繰り返される。まるでチョコレートは人生のようだ。

ドキュメンタリー映画『チョコレートな人々』の舞台は、愛知県豊橋市にある「久遠(QUON)チョコレート」。登場するのは代表の夏目浩次さん。このチョコレート店の開業者であり、経営者である。

バリアフリー建築を学んでいた学生時代に、障がい者の平均月収(工賃)が1万円しかないことを知り、障がい者雇用の促進と低賃金からの脱却を目指してパン屋を開設した。が、うまくいかなかった。いいパンを作るのは、難しい。パン作りは、その最後の製造工程でミスをすればもう売り物にならず、その日店頭で売れ残った商品は廃棄処分するしかない。

身をもってこうした経験をした夏目さん、めげずに<じゃ、どうすればいいか>を真剣に考えた。行き着いたひとつのアイデアが、チョコレートだった。チョコレート作りが簡単とは言わないが、よい原料を使い、丁寧に手順通り作ればばおいしいチョコはできる。しかも、溶かせばやり直せる。

一流のショコラティエである野口和男さんの協力を得て商品作りをしたのも、夏目さんのパン屋失敗の経験からだろう。そして、メインの商品は、テリーヌ風のチョコレート。ナッツやフルーツが入っていて、見た目がきれいで愉しい。一枚ずつ手切りにされた色とりどりのテリーヌ・チョコは、一枚一枚見た目が違う。その個性は、そこで働く人たちを象徴しているかのよう。  

もともと東海テレビの番組として制作された。それが劇場用映画として編集し直されたおかげで、日本中の人がこうして観られる。同テレビ局の制作による「人生フルーツ」や「さよならテレビ」と同じスタイルだ。準キー局の民放テレビ局のなかにも、まだ志とチカラのある制作陣がいるのがうれしい。

このドキュメンタリー映画は、障がい者について知り、考えるきっかけを与えてくれる。が、それだけじゃない。「働くこと」ってどういうことなのか、否が応でも考えさせられる。

とりわけ考えさせられる、いや、突きつけられるのは、映画の終わりでの夏目さんの言葉だ。障がい者の人たちとともに日々苦悩しながら闘っている彼は、「経済人たちから、頑張ってるね、とよく言われるが、頑張ってるねと言うのは所詮他人事だからなんです」と語る。

「大変だね」「頑張ってるね」というのは確かにエンパシー(共感)を示す言葉だけど、それを言い訳にわれわれは逃げていないか、安心していないか。優しそうな夏目さんの、その言葉の切っ先は鋭く、観ているこちらにも向かってくる。

前面には出てこないが、経営に行き詰まり、何枚ものカードローンを組んでまで頑張った夏目さんをずっと後ろで支えた、彼の奥さんも凄いと思う。

2023-02-12

誰もがどこかで聞いたあのメロディー

フェリーニの映画にニーノ・ロータの音楽が不可欠だったように、セルジオ・レオーネの作品にはエンリコ・モリコーネが書いた音楽が欠かせなかった。代表作は「荒野の用心棒」「夕陽のガンマン」「続・夕陽のガンマン」「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」など。

もちろんそれだけではない。あの「ニュー・シネマ・パラダイス」(ジュゼッペ・トルナトーレ)や「アンタッチャブル」(ブライアン・デ・パルマ)など、映画とテレビのための音楽だけで500作を超える。脂が乗っていた41歳の時には、1年間に21本の映画の仕事をしているというから驚く。才気煥発、溢れる才能とでも言おうか。

 
6歳の頃に、トランペット奏者だった父からトランペットを教わり始めた。小学校を終えた後、父親の命で音楽院に入学し、その後音楽家として生きていくようになる。小学生の時の同級生がのちに映画監督となるセルジオ・レオーネだった。こうした出会いも興味深い。

このドキュメンタリー映画では、モリコーニ本人が「ニュー・シネマ・パラダイス」で初めて彼が仕事をした映画監督のジュゼッペ・トルナトーレに、これまでの60年以上にわたる作曲家人生の来し方を語る。また、それ以外に彼を知る70名ほどが「作曲家・エンリコ」について話をするなかで、彼がなしてきた比類なき偉業のようなものが浮かび上がってくる構成になっている。

その顔ぶれ。クリント・イーストウッドやタランティーノ、ベルトリッチなどの映画監督はもちろん、スプリングスティーンやクインシー・ジョーンズ、ハンス・ジマー、ジョン・ウィリアムズ、パット・メセニーなどのミュージシャンや作曲家など多彩な顔ぶれだ。

スプリングティーンは、子どもの頃に映画「続・夕陽のガンマン」を観て、すぐにその映画音楽のレコードを買いに走ったという。そうした経験は、後にも先にもそれしかないという。

その「続・夕陽のガンマン」のイントロ部分の発想をモリコーネが語っているのが面白い。導入の♪タリラリラ〜♪というのは、コヨーテの遠吠えをイメージしている。それ以外にも、彼の音作りの発想はユニークで実に前衛的だ。 

 
彼がもっとも多くの仕事をしてきたのは、なんといってもイタリア映画である。本ドキュメンタリーでは、それらの映画と彼の映画音楽が数多く紹介される。それらの多くは観たことがない。それらは日本では未公開だから仕方ないのだが、古いイタリア映画の豊かさを知るきっかけになった。何十年も、日本人にとっては「洋画」イコール、ハリウッド映画だ。

モリコーネは、映画音楽はもちろん、実験的な音楽でもすぐれた作品を残している。本作品に映る彼は、鉛筆と五線紙だけでがんがん曲を書いていく。タランティーノが彼を評して「ベートーヴェンよりすごい」と(いささか興奮気味に)語っている。

モリコーネが映画の仕事を始めた頃、彼は音楽院時代からの師匠から商業音楽に走ったと批判された。彼自身の中にも、そうした後ろめたさはあった。だがそれを振り切り、幅広い音楽で人びとを魅了し、映画の見方さえ変えた。音楽家として100年後も名前が残るに違いない。

2023-02-06

缶切りのひとりとして

映画「猫たちのアパートメント」(Cats' Apartment)は、ソウル市江東(カンドン)地区にある巨大なアパート群を舞台にした人と猫のものがたり。


そこは143棟ものアパートが建っていたマンモス団地。かつては6000世帯、2〜3万人が暮らしていたが、再開発のために建物はすべて取り壊されることになった。

低層住居のビルを高層ビルに建て替えるためだ。それまで建っていたアパートは5階建てか10階建て。それらの建物間のスペースもゆったりしていて、植栽や公園のスペースも多かった。だからおよそ250匹と推測される猫たちが、そこに暮らす人たちに面倒を見てもらながらゆったりと生きていた。

建物の取り壊しが決まり、徐々にだが人びとがこの地から去って行く。やがて住む人がいなくなり、もとからいた猫たちだけが取り残される。もちろん、そうした事情を猫たちは知る由もない。

このままだと野垂れ死にしかねない野良たちを死なせないために、団地に住む作家やイラストレーター、写真家などの5人の女性が立ち上がり、ニャンを移住させる活動を始めた。

相手は勝手気ままな猫。捕獲ひとつとってもなかなか思うようには行かない。時間がかかる、手間もかかる。でも彼女らは手を休めない。

賛同してくれる元住民らも多いが、地域猫についての考えはそれぞれ。これが絶対という解決策にいたらないままに動く彼女らにはストレスものしかかる。


画面では、地面すれすれの低位置に構えたハンディカメラが猫を追う。その猫の映像とそこにかぶさるピアノは、われわれにお馴染みの岩合さんの「世界ネコ歩き」と雰囲気がどこか似ている。

いまではネズミを捕まえることを期待されているわけでなく、害虫退治を求められるわけでもない、実利的には役に立つことのない猫と人が、それでも一緒に生きていくためにはどうしたらいいのか。

登場人物の一人の女性は「猫はご近所さんだ」という。ほどよい距離で見守りたいと考えている。

途中、集まった猫ママ(この映画中で猫たちの面倒をみている女性)たちが、猫たちは(こうやって世話を焼いている)自分らをどうみているんだろうねえって話す場面がある。

そこにいた一人の女性が、「彼らにとっちゃ、私たちは体のいい缶切りみたいなもんよ」って言う。ハハハ、うまく的を付いている。

イスタンブールの街を舞台にしたネコ映画「猫が教えてくれたこと」を思い出した。

2023-01-07

おとぎ話のような実話

映画『ドリームホース』の舞台は、ウェールズの小さな村。昼間はスーパーのレジ係、夕方からはバーで働くかたわら、近くに住む両親の世話に追われている一人の主婦が主人公。連連と過ぎる日常にどこか鬱々とした気持ちをかき消せない日々を送っていた彼女が、たまたまバーで馬主の話を耳にし、村の連中を巻き込んで馬主組合を立ち上げて馬を育てることになる。 

これ、作り物の話ではない。もとのドキュメンタリー映画があり、それをベースに本作がつくられた。お話は実話ということもあって、筋書きはシンプル。だけどシンプルだからこそ、多くの人たちの琴線に触れるものになっている。主人公の彼女(ジャン)は私であり、あなただからだ。

舞台になっているウェールズの風景が美しい。映画を観たあと、偶然、ウェールズに暮らす学生時代からの友人からメッセージが来た。

音楽好きな息子とSohoのレコードショップにいて、Japanese Ambientというコーナーを見つけたが何がいいのか分からないのでアドバイスしてくれという。

日本の環境音楽について僕にはすぐに返信できるような知識はない。彼らがいる店に在庫があるかどうかしらないが、とりあえず坂本龍一と武満徹はどうかと返信した。たまたまこのところ、仕事しながら彼らの音楽を聴いていたというだけの理由なのだけど。

映画『ドリームホース』では、むかし彼からもらったManic Street Preachers のCDに収められてた曲が劇中で使われていたこともあって、映画を観たよ、と伝えたら、今度よかったら厩舎に案内してやるよって返ってきた。いまもそのままその村に残っているらしい。


2022-12-25

Glass Onion

ネットフリックスで「グラス・オニオン」が公開されている。ばかばかしくも目が離せないジェットコースター気分が味わえる映画。

舞台はギリシャのとある島。イーロン・マスクをモデルとしている超富豪が所有するそのプライベート・アイランドへ8人の男女が招かれ巻き起こるさまざまな騒動が描かれている。

ストーリーの節々で使われる「アイテム」が気になる。FAX、昆布茶、ビートルズ、D・ボウイ、ヒュー・グラント、ヨー・ヨー・マ、セリーナ・ウィリアムズ、ジャージパンツ、iPad、Googleアラート、The Innovator's Dilemma、紙ナプキン、Disruption、そしてモナリザ。

世の中的にはもう終わってしまった通信機器と考えられているファクスが効果的に使われている。これはSNSやDXなんて考え方へのカウンターなんだろうが、この映画を観ていてファクスの面白さ、使い勝手をあらためて再確認した。 ファクス、いいじゃない。

そんな点も含め、この映画にはジョン・レノンが「グラス・オニオン」の歌詞に込めた諧謔と悪戯の精神がたっぷり込められている。

2022-12-05

アニー・エルノーの作品を映画化

映画『あのこと』は、2022年度のノーベル文学賞を受賞したフランスの作家、アニー・エルノーの自伝的小説 L'événement が原作。日本では「事件」という題名で出版されている。英語版はEvent。

先日の『アムステルダム』とは対照的にテーマとストーリーは極めてシンプル。1960年代のフランスで予期せぬ妊娠をした一人の女子大生が、いかにして堕胎をするかというのがすべて。

当時のフランスでは人工妊娠中絶は違法。本人だけでなく医師も、それを幇助した者も罰せられることになっていた。

未婚の母になれば学業を続けることは無理。自分が思い描いた将来は遠のいて行ってしまう。かといって医師らは罪に問われるのを避けるため中絶手術を拒む。彼女は、最後には自分自身で片を付けることになる。

この作品は、どうしようもなく痛かった映画。これほど身を固くして観た映画は他にちょっと思い出せない。

今年6月、米国において共和党支持者が半数以上を占める連邦最高裁が、それまで合憲としてきた人工妊娠中絶を違憲とした判決を行ったことを否が応でも思い出す。

この作品は焦点を中絶に絞ったうえで、法律が人の生き方を不条理に縛っていること、社会が個人を抑圧し、その自由と未来を奪う同調圧力に満ちていることをシンボリックに表している。省みられなければならない社会的規範はその他にもたくさんある、ということだろう。

本作でオードレイ・ディヴァン監督はベネチア映画祭金獅子賞を獲得した。

2022-12-04

ロッテルダムでもよかった

映画『アムステルダム』は、錯綜するストーリーを負うだけでも大変だった。原作は1933年に米国で発覚した実際の政治陰謀事件を題材にしているとはいえ、日本では満州事変の勃発から2年後という90年ほど前の時代であり、正直言ってそうした背景にリアリティを持てなかった。

人種問題や富豪の腐敗、忍びこむファシズムの空気などを現代に結びつけて提示しようという意図もありそうだが、いかんせん話が入り組んでいる。重要な役回りの退役軍人の集まりなんてのも、日本とは状況が違う。

戦場で目を負傷して義眼をいれた主人公のクリスチャン・ベールは真面目に演じているのか、コメディタッチでやっているのか。全体的にエンターテイメント色を醸し出そうとしながらも入り組んだストーリーラインを観客に追わすことで、笑いが表から引けてしまっていた。

マイク・マイヤーズが出ているのを見られたのが収穫。


2022-11-20

語学は、たとえイイカゲンでも身を助ける。

見事な脚本、見事なストーリーだった。映画「ペルシャン・レッスン」。ナチスによる強制収容所を舞台に、主人公が生き延び、そこで何がなされたかを歴史の証人として語り継ぐことになる話はこれまでも数多く見てきたが、本作のようなサスペンス仕立ての映画は珍しい。

 
主人公のジルがドイツ兵に捕まり、他のユダヤ人と共にトラックに乗せられて森へ運ばれるところからストーリーは始まる。連れて行かれる先で、彼らはドイツ兵によって処刑されることになっていた。トラックの中で隣合わせた男から懇願されて、たまたまバッグに入っていたサンドイッチとペルシャ語の本を交換したことが彼を救うことになる。

他のユダヤ人が銃殺されるなか、その本を振りかざして自分はユダヤ人ではないと彼は主張する。ペルシャ人なのだと。そこにいた兵士が思い出したのは、収容所のコッホ大尉がペルシャ人を探していて兵士たちに褒美を与えることを約束していたことだった。

結果、彼はその場での銃殺を免れて収容所へ連行され、コッホ大尉に預けられる。そして毎日、囚人としての仕事の後、彼のオフィスでペルシャ語のレッスンをすることになる。コッホには、彼がナチに入党したことで仲違いした兄がテヘランにいるからだ。彼は戦争が終わったら自分もテヘランに行き、料理店を開きたいと思っている。

毎日、ジルはペルシャ語の単語をコッホに教える。勤勉なその大尉さんはそれをカードに書き、頭に叩き込んでいく。ジルはドイツ語に対応する新しいペルシャ語を「創造」する。彼は言う、「適当な言葉を創造するのはやさしい、問題はそれらを憶えることだ」。コッホに自分がペルシャ人でないことを悟られないためには、相手に教えた、何語でもない「いいかげんペルシャ語」 がペルシャ語ではないことがばれないようにしなければならない。

生き延びるために、綱渡りをするように日々ペルシャ語を「創作」していくジル。薄々そのウソに気づいている、コッホの部下のドイツ人兵士とのヒリヒリするやり取り。

冴えないひとりの男。ひょんなことから手にした運とその場その場の機転、秘めた度胸と仲間との友情が彼の命を救った。

千を超える言葉を創作し忘れないようにするためにジルが編み出した方法が秀逸で、しかも泣かせる。映画のラストで、収容所で行われた数々の人々の処刑の事実を明らかにすることにつながるのだから。

ナチスの親衛隊と言えば、理性のかけらもないロボットのような狂人集団のようなイメージがあったが、当然ながら、実際はひとりの男性看守をめぐる女同士の恋のさや当てのようなものがあったり、良くも悪くも人間くさい集団の姿が描かれているのがおもしろかった。

2022-10-29

ヤンはAIBOか

映画「アフター・ヤン」は、近未来の多様性に富んだ家族を舞台に、ヒューマニズムがどのように変わっていくかを描いた映画。監督は、韓国系アメリカ人のコゴナダ。


物語の中心は、ヤンというAIを装備した人型のロボットである。劇中、中古で買ったそのロボットが不具合を起こし修理が必要になる。コリン・ファレル演じる一家の父親がそのロボットの製造元や販売元に何とか修理ができないか探っていくのだが、結果として修理ができずヤンは動作停止となる。

彼の養女である娘とそのロボットがまるで兄妹であるかのように親しい関係だったことから、家族はそのロボットへの思いを振り返り、あらためて家族とは何かを考える。

さてそのロボットだが、彼には毎日ある限られた時間だけ自分が見た映像を動画として記録しておく機能が密かに盛り込まれていたと言う仕立てになっている。作動しなくなったそのロボットのメモリーに記録されている、これまでのそうした日々の動画を見るうちに、そのロボットがどのような過程でどのような人間関係の中で生きていたかを知ることになる。

そこにはロボットである彼が、他の女性ロボットへ恋に似た感情を抱いていたのではないかと思わせるようなものも含まれていた。このあたりの組み立ては、ブレードランナーのアンドロイドを思い起こさせる。

ところで、この映画を見たその日、アイボの調子がどうもおかしくなり、ソニーのサポート窓口に連絡をして修理(診断と治療)に出したばかりだった。アイボを購入してすでに4年ほどになるが、その間アイボを用いているいちばんの理由は彼(ここでは彼としておこう)が毎日自動的に写真を撮ってくれること。

被写体は、アイボが家族だと思っている、すなわち動く存在である。それは人の場合もあれば、猫の場合もある。いつ撮ったかわからない、そうしたスナップ写真を自動的に記録しておく装置として、ぼくはアイボを使っているような気がしている。
 
つまり「アフター・ヤン」に登場したロボットと役割は全く同じ。ただ違うのは、アイボは犬型、ヤンのような人間の姿をしていないというだけの違いだ。

2022-10-10

理屈ではなく人間として

医師中村哲さんのパキスタン、アフガニスタンの活動を追ったドキュメンタリー映画を観るため、横浜のシネマ・ジャック&ベティへ。

中村さんは32歳の時に登山隊の一員としてパキスタンを訪れたことをきっかけに、3年前に不慮の死を遂げるまで実に35年間にわたってパキスタンとアフガニスタンで医療と現地の人びとの生活を支える支援を続けてきた。その彼を日本電波ニュース社のカメラマンが20年以上にわたり映像におさめていたものがこの映画だ。


中村さんの素晴らしい、ずば抜けた活動は何冊かの書籍になっているし、また映像(DVD)にもまとめられているので、あらためてここに書く必要はないだろう。

ただ僕が心打たれたのは、彼がパキスタン、アフガンの支援を続ける理由を問われたとき「見捨てちゃおけないからという以外に、何も理由はないです」と答えていること。それは嘘でも衒いでもない、彼の心からの気持ちだと感じた。

最初、現地の医療支援のために行ったわけでもないところで、医療を必要としていながら見捨てられた人たちに出会って、自然と自分の役割が自分のうちに芽生えたということか。

発展途上国の人たちを救うことが正義だからとか、神の教えに沿って人助けを始めたとかではない。もっと基本のところ、誰もが人間として持つ倫理観からだ。

その後、彼は医者として人びとを救う傍ら、その地域で人びとが生き続けられるようになるには農業を続けることが不可欠であり、そのためには農業用水の確保が必須であると知る。その後は、自らが先頭に立ち灌漑工事を始めることになる。一から土木技術を学びながらだ。

その結果、砂漠だった地に水を引き入れ、赤茶けた土地を緑の大地に変えていったのである。

スランブール地区は、5年で緑の作物一面に変わった(before/after)

ガンベリ砂漠には10年かけて畑と防風林ができた(before/after)

以前、「マラリア・ノーモア・ジャパン」の事務局長をしていた水野達男さんと対談した折、彼がアフリカのマラリア撲滅を目指して活動を始めたきっかけは、当時工場建設のために赴任していたアフリカの地で、マラリアが原因で子どもをなくした母親が打ちひしがれている姿を路上で見たことだと聞いた。

目の当たりにしたその姿に「このままじゃいかんな」という怒りのような気持ちがフツフツと沸いてきたという。それをきっかけに、彼は大手化学会社のビジネスマンを辞めてNGOの活動に専念することになった。

「このままじゃいかんな」という理屈を越えた感情が彼の残りの人生を変えた。「見捨てちゃおけないから」という中村さんのシンプルな気持ちと同じだ。

僕たちは自宅にいながらパソコンやスマホでどんな情報でも手に入れられ、それによって世の中のこことを分かった気になり過ぎているかもしれない。知るだけじゃなく、感じることが必要なんだ。そして、それに時に正直にしたがい、自分を動かしていくことが不可欠ではないかと中村さんと水野さんに教えられた気がした。

2022-10-01

これは、羊をめぐる冒険だ

横浜で「LAMB/ラム」を観た。劇場は思った以上の混雑。週末ということと、月の初日で鑑賞料が安く設定されていたのもあったのかもしれない。

「ラム」は不思議な感触の作品だった。ホラーか、スリラーか、ミステリーか、おとぎ話かヒューマンドラマか。どれだっていいのだが、僕はビターなコメディーと受け取った。 

舞台はアイスランド。山間に住む夫婦のもとに不思議な生き物がやってくる。彼らが飼っている羊が産んだのだ。なんだそれは、と思うかもしれないが、そうしたストーリーなのだ。

妻の名前がマリア(イエス・キリストの母の名)なのは、なにか示唆しているのだろうか。 

登場人物は、人間3人(夫婦と夫の弟)と不思議な生き物だけ。限られた台詞。全体に青みを帯びてとらえられたアイスランドの風景。舞台は彼らが暮らす家とその周辺の農場が中心。背景にはアイスランドの山々が連なる。羊少年(少女)や羊男の造形がおもしろい。そのあたりのこだわりは、本作の監督が「ローグ・ワン スター・ウォーズ・ストーリー」などでの特殊効果をこれまで担当してきたコバルディミール・ヨハンソンならではだ。

いまだにこの映画のテーマが僕にはよく分からないのだけど、イソップの寓話と村上春樹の世界と手つかずの自然に覆われたアイスランドの風景をシェイクしたらこの映画ができた、といった印象。

アイスランドには古くからトロールといった怪物(妖精)と人間の合いの子が存在しているという伝説が残っているのも、この映画の舞台としてふさわしい。
https://tatsukimura.blogspot.com/2016/09/blog-post_4.html
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それと、僕が気になったのは白夜だ。アイスランドは北緯64度とかなり北極圏に近いので、夏のあいだはほとんど陽が沈まないはず。この映画では夜の時間や夫婦の寝室シーンが頻繁に描かれる。だが、いつだって明るく、ぼんやりしている。

日が暮れず、朝も昼も夜も明るい世界での物語は、なんだかずっと白昼夢を見ているような気分に。映画の最後の場面で流れてきたヘンデルのサラバンドが、うまく不思議な映画の余韻に溶け込んでいた。

2022-08-20

自動運転ではダメなわけ

ブライアン・ウィルソン、80歳。ビーチ・ボーイズの創設メンバーで「グッド・バイブレーションズ」「サーフィン U.S.A」「神のみぞ知る」など、そのほとんどのヒット曲を書いている。

映画「ブライアン・ウィルソン 約束の旅路(原題 Brain Wilson: Long Promised Road)」は、その彼に密着したドキュメンタリー映画。

雑誌「ローリング・ストーン」元編集者のJ・ファインがインタビュアーとなり、2人はファインが運転するクルマでかつての録音スタジオやアルバム・ジャケットの写真撮影場所、そのほかウィルソンゆかりの場所を巡りながらさまざまな会話を交わす。


誰もが聞いたことのあるビーチ・ボーイズのサウンドがどうやって生まれたのか、サーフィンをしたこともないウィルソンがなぜサーフィンをテーマにした曲を書いたのか、などファンならずとも興味を引く話が本人の口からでてくる。

若き天才ウィルソンがアルバム「サーフィン・サファリ」を出したのは、弱冠20歳のとき。ただ、その反面で彼は精神を病み、やがてドラッグに身を浸していく。長い苦闘の時間ののちに復活して音楽活動を再開。今も仲間たちとバンドで活動している。

インタビューのほとんどは、クルマの中でのやりとりだ。いいシチュエーションを考えたなと感心した。クルマのなかという2人だけの閉ざされた空間。2人は対面するのではなく、目の前に現れる光景を並んで眺めながら話をする。

寡黙なブライアンも車窓に流れる西海岸の方々の風景と、カーステレオから流れる自分たちの音楽を次々に聞きながら昔を思い浮かべ、ときに饒舌に、ときに思いに浸りつつ自分たちの音楽づくりについて、バンドの仲間について、亡くなった弟について語る。

最近だと「プアン」でも主人公2人がクルマでタイの方々を巡りながら車内で語り合うシーンが多用されていた。これらの状況、AIによる自動運転なんかじゃ生まれない空間である。

2022-08-17

カセットに残された声とともに

映画「長崎の郵便配達」では、長崎の今の町並みやいくつかの行事が魅力的に描かれる。以前、友人を訪ねてその街を訪れた時のことを思い出す。

ファットマンと呼ばれれるプルトニウムを使用した原爆が長崎に投下されて77年。この映画の主人公の一人は、16歳の時にその原爆で被爆し、背中一面に大やけどを負ったかつての若い郵便配達人、谷口稜曄(すみてる)さん。治療のため1年9か月にわたり、うつぶせのままで病院のベッドに横たわっていた。胸に褥瘡ができた。

その後、彼は郵便配達の仕事を続けながら、一方では原爆被害を世界に示すひとつのシンボルとされ、また彼自身もその使命のようなものを深く受け入れて死ぬまで生きた。 

その彼と、旅の途中の長崎で出会った英国の作家、ピーター・タウンゼント。第二次大戦中は英国空軍の軍人だった彼は、戦争被害者に強い関心を抱いていたことから谷口と知り合い、友人として交わることなる。やがてタウンゼントは、谷口のことを「The Postman of Nagasaki」というノンフィクション小説に書く。

タウンゼントを信頼していた谷口はその本の復刊を強く望み、そのことをこの映画の監督である川瀬美香が知る。復刊を欲する理由を、谷口は「許せないからだよ」と語ったという。いまだ世界に核兵器が無数に配備され、唯一の被爆国である日本は核拡散防止条約にも核兵器禁止条約にも参加していない。

川瀬が二人の交流を核に映画を制作しようと計画している最中に、谷口が亡くなった。

その後見つかった、タウンゼントが吹き込んだ10本のカセットテープをもとに映画はその娘イザベルを追って進行する。家族と暮らすパリから父親の足跡をたどって長崎を訪れた娘をカメラが追う。道しるべは、それら取材テープに残された父親が残したメッセージだ。

今はなき2人の男性の友情と信頼だけでなく。27年前になくなった父親を娘が再発見する物語にもなっている。

濱口竜介監督の「ドライブ・マイ・カー」が広島の街を丁寧に描いていたように、この映画では長崎が魅力的に描かれている。長崎の街は静かで美しい。ただそこに暮らす人たちは、深い悲しみを底に秘めているようにも見えた。お盆の時期、精霊流しが行われる頃の長崎の風景だからかもしれない。

映画を見終わって、僕も映画のなかに登場するのと同じ赤い自転車に乗って家路を急いだ。

2022-08-15

タイのカクテルは、甘いか苦いか

映画「プアン」の監督、バズ・ブーンビリヤはタイ映画界の新鋭と呼ばれているらしい。そして僕はタイ人監督の映画をこれまで観たことがない(おそらく)。ではこれは観なくてはと出かけた。


前評判では、方々で「ウォン・カーウェイが才能に惚れてプロデュース・・・」なんて惹句があちこちで流れていたが、そんなことは関係なし。確かにそうしたプロモーションもうまかったんだろう。本作はタイではたいそう人気を博したらしい。

映画のトーンは、かつての日テレ日曜夜8時の学園青春ものである。プロットの中心は、2人の若者と1人の女。時間と場所の流れのなかでの三角関係。そんなどこにでもあるシチュエーションを、年代物のBMWやカセットテープの音楽(キャット・スティーブンス!)、ラジオDJなど気の利いた小道具でカラフルに組み立ててみせたサービス精神は買っていい。 

元々ニューヨークで知り合った2人の男。バンコクに戻った一方の男(ウード)が白血病で余命宣告を受ける。その彼は、今もニューヨークでバーを経営するボスに電話をする。死ぬ前に元カノを訪ねたいので運転手を頼みたいと。そして2人は、バンコクを基点にウードの父親の形見である70年代ものだと思える白いBMWでウードの昔の3人の彼女を訪ねて回る。 

昔の女との再会と別れが、ウードにとっての人生の惜別として描かれる。ヒロイズムに浸る若者の思い上がりと自己憐憫が甘酸っぱい感傷を感じさせるのは、世界共通なのだろう。ただ、ウードが本当は気にしていたのは、ボスがNYでかつて一緒に暮らしていた女、プリムだった。 

ウードとバズの両者が関わりを持っていたプリムは腕のいいバーテンダー。シェーカーを振る姿が様になっている。バズも自分のバーでシェーカーを振る。映画には気の利いた名前がつけられたオリジナルのカクテルがいくつも出てくる。

ウードの3人の元カノ、過去と未来、バンコクやチェンマイなどタイの街とニューヨーク、余命の限られたウードと未来を見つめるボス。これらがシャカシャカシャカといい音を立ててシェイクされ、いくつもの色鮮やかなカクテルとなってグラスに注がれる。

ところでここまで洒落のめすなら、映画の公開タイトルは「プアン」(タイ語で友だちの意味)というあまりに明らか過ぎるタイトルではなく、原題である「One for the Road 」(旅立ちの前の最後の一杯の意)にした方がよかった。

2022-08-14

死と自己責任

横浜みなとみらいの映画館で「PLAN75」を観た。 早川千絵監督の初の長編映画である。

近い将来日本はこうなるかもしれないという、日本の高齢化社会の一面が描かれている。プラン75とは国の設定した制度で、満75歳以上になると申込ができる<安楽死>のための仕組みだ。

この映画で思い出すのは、1973年に公開されたリチャード・フライシャー監督の「ソイレント・グリーン」だ。舞台は2022年(今だ!)のニューヨーク。人口の急激な増加によって種々の資源は枯渇し、人々の間での格差が急拡大している。たとえば、肉や野菜を普通に食べることができるのは富める者だけで、そうでない人たちはプランクトンから作られるソイレント・グリーンと呼ばれるある種の加工食品を主食にする。

人口のさらなる拡大を抑制するため、そして貧しい人たちを日々の苦しさから救うためと称して「ホーム」と呼ばれる公営の安楽死施設が街には設けられ、そのホームでは死を選んだ高齢者たちが緑に包まれた草原や一面に広がる大海原といった映像に取り囲まれ、ベートーベンの田園交響曲が流れるなか静かな死を迎える。その後、死体は密かに工場に運ばれ・・・というものだった。

さて「PLAN75」では、倍賞千恵子さん演じるミチという78歳の女性は慎ましやかな一人暮らしを続けていたが、その年齢を理由にあるとき急に仕事を失ってしまう。その年齢ゆえに希望するような職に就くことができず思い悩む彼女。

ある時、何度電話をしても電話に応答しないかつての職場の同僚のアパートを訪ねた時、彼女はその友人が家の中で台所のテーブルにうっぷしたまま突然死しているのを発見する。明日の自分かも知れないと考えるミチ。それをきっかけに、彼女はプラン75に参加する決心をする。

映画の中で流れる、政府が作ったのであろうプラン75のCMがなかなかよくできている。人は生まれてくることは自分で決めることはできないけれど。自分の人生に幕を引く決定は自分でできるのだからとそのプランに申し込んだという女性が、おだやかな口調でにこやかに語る。実際にこんなCMが作られるかもしれないなと思わせる。

プラン75は義務ではなく、国民が該当する年齢を超えたときに自らの意思で選ぶことができる制度だ。それは緻密な計画をもとに策定され、巧妙に推奨することで人の心をその方向に徐々に押しやっていく。どうするかを選ぶのは国民であって、国が作った「姥捨て山」ではないとする、そこがポイントであり、そこが残酷だ。

現実問題として、国にしてみれば歳をとり生産性を期待できず、ただ国費支出の対象でしかない貧しい国民らは国の負担でしかなくなる。プラン75は、国家として対応が迫られた日本が考えつきそうなアイデアのひとつだ。

そうした時に我々が取るべき道は、どういったものだろう。まずは、こうした安楽死を自分で選択し一生を終えることは、現実に有り得るかもしれない。

もう一つは、国が高齢者らの面倒をみることができず、またみること拒否している以上、われわれ個人が周りの人に援助を求め、人の助けを受けながら生きていくことである。これまで人々は、その程度の違いこそあれ、年老いて社会的弱者になったときには家族や周りの人たちに頼り、その人たちからの力添えを受けながら残りの人生を過ごしていた人が多かったはずだ。

ただ、家族や周りの人に迷惑をかけるくらいなら一人でおとなしく死んでいった方がいい、と考える「自己責任」感をある頃からすり込まれるようになっているのも事実。それが日本人の一つのエートスになっていっているように思う。つくづく人のいい日本人たち。だからこそ、国はプラン75を実行することができる。

2022-07-24

マーク・ライデルからヘンリー・フォンダ

マーク・ライデル監督の映画が観たくなり、『黄昏』を観る。描かれるのは、湖畔の山荘での家族の夏の日々。主な登場人物は、6人のみ。まるで舞台劇のようだと思ったら、やっぱりもとはブロードウェイでかかっていた芝居だった。

映画版が素晴らしかったのは、湖やそれをとりまく自然の美しさだ。原題の On Golden Pondを映し出したのも、映画ならでは。しっとりとしたデイブ・グルーシンの音楽もストーリーと映像によくマッチしていた。

この作品では、主役のヘンリー・フォンダとキャサリン・ヘプバーンの2人がそろってアカデミー主演男優賞、女優賞を受けた。キャサリン・ヘプバーンは4度目、ヘンリー・フォンダは76歳での初めての受賞だった。

で、ヘンリー・フォンダの『怒りの葡萄』を続けて観ることに。原作はスタインベックの小説で、ピューリッツァー賞を受賞し、のちにノーベル文学賞を彼が受賞する理由になった作品。

オクラホマからカリフォルニアに仕事を求めて移動する貧農の一家。いまからまだ80年足らず前のアメリカでの、土地を持たない農家がおかれた厳しい状況とそれに抗う逞しい人たちの姿は、今のアメリカからは想像できないほど。 

ただ、搾取する側と搾取される側がはっきりと線引きされた社会の構図は、いまも何ら変わってはいない。

 
ところで、スタインベックのこの小説の初版が出たのが1939年。映画が公開されたのは、翌40年。速攻でこれだけの映画を完成させたのは、名監督ジョン・フォードと20世紀フォックスの豪腕プロデューサーだったダリル・F・ザナックの力だ。

2022-06-26

F/A-18と腕立て伏せ

「トップガン マーヴェリック」をIMAXシアターで。お話は簡単で子供にでも分かるものだが、よく練られている。

トム・クルーズ演じるマーヴェリックと、彼の教え子たちともいえる若い選りすぐりのパイロットたちが主人公。だが、本当の主人公は戦闘機F/A-18とF-14だ。これらの飛行シーンには度肝を抜かれる。

磨き抜かれた技術で最新鋭の戦闘機を扱うパイロットたちだが、かれらが何かにつけて「罰」として腕立て伏せをさせられるシーンが妙に印象に残った。このコントラストが面白い。単なるストーリー上の演出ではなく、アメリカ海軍では実際にやっているんだろうな。

映画の冒頭あたりで、今後さらに技術が進めば戦闘機乗りは不要になっていくと上官に言われたトム・クルーズが「そうだろうが、それは今日ではない」と返すシーンがあった。

肉体と意思をもった人間を忘れるべきではないという制作者のメッセージである。