「ベルリン・天使の詩」「パリ・テキサス」「アメリカの友人」「ハメット」などの沁みる映画を数々撮ってきたヴィム・ヴェンダースが日本で、日本人キャストで制作した新作が「PERFECT DAYS」である。
主演は役所広司。寡黙な少しミステリアスな男を演じている。役作りだろうか、頬がいくぶんこけ、頬骨が浮き出ていて減量のあとが窺える。映画の中であまり喋らない。とくに最初の30分で喋ったのは、いつも行く銭湯の入口でそこの主人に軽く挨拶した一言だけだった。つまり、映画のシナリオのあたま四分の一は台詞なしだったということだろう。
この映画のもう一つの主人公が、東京の公共トイレ。普通のトイレじゃない、登場するのは謂わばDT(デザイナーズ・トイレ)だ。人が中にいないときには透明で中がみえる透明トイレを設計した坂茂の作品(?)をはじめ、槇文彦、安藤忠雄、片山正通など著名な建築家やインテリア・デザイナーの手になるトイレが登場する。役所が演じる平山は、それら公共トイレの清掃を仕事とする男である。この映画は、TOILET DAYSでもある。
小道具がなかなか渋い。平山が聞く音楽は、ミュージック・カセットだ。早朝、仕事先に向かうダイハツの軽バンでかけるカセットから流れる最初の曲はアニマルズの「朝日のあたる家」。それ以外にオーティス・レディングの「ドック・オブ・ザ・ベイ」やヴァン・モリソンの「Brown Eyed Girl」、パティ・スミスの曲なんかもカセットから流れてきた。ちょっと狙いすぎという感じも。
主人公が毎晩、寝しなに床で手に取る本(すべて古本屋で買った文庫本)はウィリアム・フォークナー、幸田文、パトリシア・ハイスミス(「アメリカの友人」の原作者だ)。これもいい感じ。
そうしたなかで僕が一番気に入った場面は、主人公の平山が週末だけ行く近くのスナック。石川さゆりがママを演じていた。平山は彼女に気がある。彼女も彼にまんざらではない様子。その店のなかで、彼女が客(あがた森魚!)のギターで「朝日のあたる家」を歌うシーンがいい。日本語バージョンのこの曲を初めて聴いた。新鮮な印象。演歌だ。すごくいい。
映画の中では、平山の目とカメラの両方を通して木漏れ日が描かれる。何度も、何度も。その一瞬のきらめきや儚さを通して、移りゆく自然と揺れる人の気持ちを表しているのだろうか。彼が隅田川の川縁で、三浦友和演じるスナックのママの元夫と「影踏み」に興ずるシーンもそこに通じている。そうした光と影、陰影の使い方がヴィム・ヴェンダースらしいが、黒澤の「羅生門」を連想させもした。
日本映画の巨匠とのつながりで言えば、ヴェンダースが小津安二郎の信奉者で、そして舞台が東京、主人公が初老の男性、だからといってこの映画に小津の影を無理矢理に見る必要はないと思う。評論家の先生たちの多くは、映画通らしくそのあたりをみな強調しているが。
映画の終盤、彼の妹がアパートを訪ねてくる。そこから、彼が実は鎌倉に住むかなりの資産家の人間であり、父親との相克から家を継がずに出て行って今に至っているらしいことが分かる。主人公が寡黙で、自らを表に出そうとしない所以はそこにあった。表と裏、光と影、象徴としての木漏れ日の光の揺らめきがつながってくる。
ギリシャの唯物論哲学者エピクロスは、「隠れて、生きよ」(断片 その二86)と書いた断片を残したが、これは姿を世間から消すとか隠遁することではなく、自らの心の中の幸せと平穏だけを求める生き方のこと。
エピクロスが別の断片で残した「
幸福と祝福は、財産がたくさんあるとか、地位が高いとか、何か権勢だの権力だのがあるとか、こんなことに属するのではなく、悩みのないこと、感情の穏やかなこと、自然にかなった限度を定める霊魂の状態、こうしたことに属するのである」(断片 その二85)という生き方であり、本作で役所が演じた平山の生き方そのものである。あるいは、エリック・ホッファー的ホーボー的生き方といってもよい。
映画のタイトルのもとになっているのは、ルー・リードのPERFECT DAY。この曲は、デュラン・デュランなんかもカバーしていた。