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2024年4月3日

マリーナベイ・サンズ

こういうところは、本来あまり好きじゃないのだが、でも実際行ってみないことには気に入るかどうか分からないから行ってみた。


マリーナベイ・サンズ36階「スカイパーク」の人々

確かに眺めはすばらしかった

パノラマで撮影

地上200メートル36階の展望デッキ(スカイパークって言うらしい)を一回りし、そこでサッポロビールを一杯飲んだ後、ショッピングセンター、フードコート、地下にあるカジノも行ってみた。

シンガポールの人たちはカジノに入るために入場料がかかるが、観光客は完全無料で入れる。ただし入るときと出るとき、それぞれパスポートを提示させられる。

現地の友人曰く、政府はシンガポール人がカジノを利用することはまったく推奨していない。それはそうだろう。政府も含めての胴元が金を儲ける以外、何の価値もそこでは生まないんだから。

カジノの中はシンガポールであるにもかかわらず喫煙自由で、客たち(多くは中国人観光客)が歩きながらタバコをスパスパやっている。煙い、クサイ。それがカジノ。大阪で維新の会がやりたがっているのが、こうした施設だ。

日本語が併記された施設内の案内表示。
日本人も上得意客なんだろう

2024年4月2日

どこの国でもリサイクルは難しい(シンガポール)

外出先から宿に帰る途中、少し道に迷い、表通りからいくぶん離れた裏道を通っていたら、トンネル通路のなかにさりげなく設置された廃品回収箱を見つけた。

ここに書かれた説明を読むと、衣料、(柔らかい)玩具、枕、宝石(マジ ?!)、バッグやベルト、靴、カーテンなどの日用品を回収してリサイクルに回しているらしい。なかなか結構な試みである。

若い女性が2人やって来て、この「Let's RECYCLE」の前でお互いに何やら言葉を交わした後、持って来たボストンバッグの中身をザバザバと投入していった。なるほど、彼女たちのような若い人が積極的に環境保全へ取り組んでいるんだなと思った。

ただ、この回収箱の側面には、破棄された衣料品189,000トンのうち、わずか4%しかリサイクルされていないとある。まだまだ、これからという感じ。

2024年4月1日

雨のフォートカニング・パーク

街の中心部にあるフォートカニング・パークは、標高160メートルほどの小高い丘である。そこが見事な公園になっている。

午後、出かけた際にその公園を抜けて目的地へ行こうとしたら突然途中でシャワーに見舞われた。シャワーと行っても、最初はポロポロと来ただけだったので10分か15分かで止むと思い、大木の下で雨宿りをしていたのだけど、急に雨脚が強まりどうしようもなくなり、公園内のホテルに飛び込んだ。

とにかく建物のなかに入らなきゃと一番近い扉を開けて飛び込んだら、その扉はホテルの厨房の裏口(つまり搬入口)だった。そこいた厨房スタッフの人たちにゴメン、ゴメンと言いながら奥へ進み、ホテルのレストランの真ん中を通ってフロントのところへ出た。

雨はなかなか止まず、結局そのあと、40分近くロビーで雨が止むのを待たせてもらった。ただ、こうした天気はこの国では珍しくないわけで、今日の僕のような客、いや正式には客でもなんでもない人間も温かく放っておいてくれるだけでなく、ホテルのスタッフはみんな、僕の前を通るときには軽くお辞儀をしていってくれる。もちろん僕もそれを返す。





2024年3月31日

シンガポールの大学寮を覗く

夕方、英国留学時代の同級生だったシンガポール人が、息子を連れてホテルまでやってきた。彼をシンガポール国立大学のHall(学寮)までクルマで送るので、よかったら一緒に行ってみないかと。

大学2年生になる彼は、6つある大学寮の1つに住んでいる。Raffles Hallという1958年にできた歴史のある寮だ。

他の寮生と同様に、月曜日から金曜日まではそこで過ごし、金曜の夜か土曜の朝に自宅にもどる。そして、日曜日の夜、父親(つまり私の友人)が時間があればクルマで大学まで送り届けてやるらしい。

厚かましくもその寮の部屋の中まで入れてもらった。2人部屋である。かなり狭い。ベッドが壁の両側に2つ並んでいるが、その間のスペースは50センチもないくらい。室内設置型のエアコンが部屋の真ん中に鎮座してフル回転していた。本当はエアコンの設置はだめらしい。けれど、それじゃあ暑くて勉強できない。大学当局も見て見ぬ振りをしている。

その後、広大なキャンパスを彼の運転で見て回った。日曜の夜だけあって、とても静かだ。そのなか、キャンパス内巡回の黄色いバスだけが走っていた。

大学には門がなく、誰でも自由にどこからでも施設内に入れる。クルマでの出入りも自由だ。管理社会の典型であるシンガポールで、大学がこのように運営されているのは意外だった。

完全にオープンにしていて、そのために構内で問題や事件が起こることはないのか訊ねてみたが、ほとんど聞かないという。そうした社会的秩序ができているのかもしれない。それと、確認はしなかったがカメラによるモニタリングが行き届いているからかもしれない。

ところで、自宅から通学しても1時間ほどなのに、なぜわざわざ寮に入るのかーー。彼(オヤジの方)曰く、若いうちに共同生活を送ることでコミュニティの一員としての意識を涵養することに役立つからと。

確かに日本の大学でもかつては寮がたくさんあり、学生ならではの共同体としての役割を果たしていた。そういえば、京大の吉田寮の老朽化に伴う建てかえのために明け渡しを大学側が寮生に求めている件は、その後どうなったのだろう。 

シンガポール国立大学の寮はとても人気で、入寮のための競争倍率が高い。また一旦入寮しても、翌年度にそのまま残れるのは20〜30%で、残りの学生は退寮させられる。残れるかどうかの基準は、その寮での各種活動(寮の運営参加やイベントの開催など)によって「稼ぐ」ポイント数によって決められる。そうした点は、なるほどシンガポール的なのである。

シンガポールのナショナル・ギャラリー

街の中心部にあるナショナル・ギャラリー・シンガポールに行ってみた。15ドル(シニア、教員、学生は割引料金が適応される)を支払ってなかへ。

この建物は、もともとは1929年に建てられた旧市庁舎と1939年建設の旧最高裁判所の建物を改築したもの。広さは十分、シンガポール政府の意欲がはっきりと感じられる。

フロア案内

僕が面白いと思ったのは、建物の入口のところにあった巨大な送風機。シンガポールは暑いからねえ。

目玉のような8つの送風口の下に、送風口の向きを勝手に変えないようにという注意書きが書いてある。

ところで、これって何かに似ているなと思ったら気がついた。あれだよ、大阪万博のあの変なやつ。

2024年3月29日

だから、人々はチェンマイで長逗留してしまう

チェンマイに4日ほどいて、バンコックを経てシンガポールに戻って来た。

バンコックの宿の宿泊費は、シンガポールのおよそ3分の2から半分。そして、チェンマイはバンコックの3分の2から半分である。つまり、チェンマイのホテルは、シンガポールの半分から4分の1の値段ということになる。

値段が半分から4分の1で部屋の広さは3倍、ホスピタリティのレベルは2倍である。総計すると、チェンマイのホテルの価値はシンガポールの12倍から24倍という計算になる。

シンガポールには、その効率的な社会システムなど優れたところが数多くあるが、海外から遊びで来るところでなく、あくまで金を稼ぐ場。とりわけ今のように安い日本円を財布に入れてやってくる日本人には、そうとしか思えない。



アルジャジーラ

ホテルにもよるが、僕が泊まり歩いている宿ではCNNもBBCも映らない(契約していない)ことが多い。英語でニュースが聞けるチャンネルがないか探すと、ABCかアルジャジーラ(Al Jazeera)に落ち着く。

契約チャンネルにCNNもFOXもないけど、ABCは映ることが多い。CBSやNBCは映らない(だからSNLは見られない)。

そうした状況の中では、ニュースでは断然アルジャジーラが見応えがある。中東カタールのドーハに本拠地をおく放送局だが、イスラム寄りの放送局ではない。僕が見る限り、極めて高い中立性を保っているニュース専門局だ。

局のモットーは「一つの意見があれば、もう一つの意見がある(the one opinion and the other opinion)」というもの。オルタナティブの重要性を示すもので、これはすごくいい。

アルジャジーラのニュース番組

それにしても、こちらで視聴できる「NHKワールド」は、一体誰に向けて放送しているつもりなんだろう。編成担当が何を考えて制作しているのか、まったく分からない。これじゃ、誰も見るわけないな。いや、とにかく日本語が恋しくてしょうがない日本人が見るか。

アルジャジーラと比べて、あまりに番組のクオリティが低いのは予算のせいか、制作能力のせいか、やる気のせいか。ともかくNHKの国際放送は、あんまりみっともない番組を外国で流すのは止めた方がいいと思う。

2024年3月28日

チェンマイ( /3)

宿の前に自転車が何台か並べてあったので、1台借りて町に出た。

これなら遠くへ行けそうなので、昨日まで出かけていた市街地と反対の方面にペダルを漕ぐ。 すぐ脇を抜き去っていくクルマの排気ガスを浴びつつ、地面の凸凹に車輪を取られないよう注意をしながら自転車を走らせる。だんだん周囲の人口密度が低くなっていく。

途中で線路に突き当たったので、線路に沿ってその脇を北へ向かって進むとチェンマイ駅に着いた。チェンマイの街は、街を挟んで西にチェンマイ空港、東にチェンマイ駅がある。

駅の構内は静まりかえっている。タイムテーブルを見ると、もともと発着の本数が少ない。駅にはプラットホームが4番まであるが、列車を待っている客はいない。いるのは、ホームのベンチ寝ている若者だけだ。荷物がないところを見ると、旅行者ではなく地元の青年なんだろう。静かにゆっくり昼寝できるとやって来てるのかも知れない。

待合室(といっても正確には部屋ではないのだが)にはバックパックを背負った白人が何人かいた。若者だけでなく、中年の夫婦も。おそらくチェンラーイか、ラオス国境あたりへ行くのかもしれない。

2024年3月27日

チェンマイ( /2)

チェンマイ2日目。昼間に出歩くのはかなり疲れることが分かったので、暑い時間帯は静かに宿で過ごすことにする。日がほぼ沈むかけたころから、街へ。

街の中心部を歩いているとマッサージの店、カフェ、入れ墨の店が多いのに気づく。それとバイクを取り扱う店も多い。前の3つは、明らかに観光客目当て。

マッサージ店で働いているのは、ほぼすべて女性である。若いお姉さんを揃えた店と中年以上の女性を従業員として集めた店と、明らかに店のタイプが分かれている。

僕がフットマッサージをやってもらったのは、後者。アスリートのような筋肉質のおばさん(歳はよく分からない)に揉んでもらった。

店頭のメニューだと1時間が250バーツ。30分でやってくれと頼むと200バーツだと言う。180バーツに値切り、マッサージが終わったあと、担当者に20バーツをチップで渡した。

マッサージ自体は、最初香油のようなものを塗って香りを立て、その後はジョンソン・エンド・ジョンソンのベビーオイルかと思えるオイルを足に塗りながら、さすりながら、揉んでいく。取り立てて何もないけど、気分のせいか、いくぶん足が軽くなる感じがした。

本当はね、しっかり身体全体マッサージしてもらいたいところなんだけど、日本出発前に発症した帯状疱疹で左の胸から脇、背中が刺すように痛い。これをマッサージ師にグイグイやられたら、痛さで間違いなく卒倒しちゃうからね。残念。

フット・マッサージの後、ピン川の畔のガーデン・レストランで、スズキのフライとビール。ステージではバンドが懐かしいアメリカン・ポップスを演奏していた。男性と女性のツイン・ボーカルだが、その女性が上手い。

帰りしな、ステージ近くに寄って「よかったよ」というサインを送った。彼女が唄いながら、ぴょこんと頭を下げた。まだ学生のような感じだった。

2024年3月26日

チェンマイへ

バンコクからチェンマイへやって来た。バンコクは高層ビルが建ち並ぶビジネスセンターのようになっていたが、チェンマイはそれに比べればのんびりした、でも観光客(特にここでも団体の中国人客)にあふれたタイ第2の都市である。

今日は午後早い時間に到着したので、宿にチェックインした後はさっそくコンパスをポケットに街中を歩く。4時間ほど歩き続け、町の中心部を全部とは行かないが、その全体の規模は理解できた。街中の方々に、実にたくさん寺院がある。

チェンマイの真ん中を流れるピン川(Ping River) 

川の畔でくつろぐ若者 


蓮で溢れた市内の小川

髪を切るような感じで入れ墨を入れる

アユタヤへ

バンコクからクルマで北へ1時間半ほど。こちらの人によると、正しくはアユタッヤーと発音するらしい。

ここは14世紀から王朝がおかれ、400年以上にもわたって栄えた古都。その後、18世紀にビルマに攻め入られて陥落し、町は破壊された。多くの寺院は壊され、仏像は首をもぎ取られた。そうした破壊の歴史がこの街のあちこちに残っている。

アユタッヤーを代表するワット・プラ・ラーム、ワット・マハタート、ワット・プー・カオ・トーン、そしてワット・チャイナッタナーラムを訪ねた。

それら4つの寺院の入口にはそれぞれチケット売りのおばさんがいる。4つめの寺院を訪ねたとき「もう3つも同じチケットを買わされたよ」と3枚の半券を見せて苦情を言ったのだけど、何食わぬ顔で「ワン・バイ・ワン」と言われてしまった。ガイドが隣で「ワン・バイ・ワン」とつぶやき苦笑していた。

タイ人は入場無料で、外国人観光客だけが有料となっている。ま、仕方ないけど。

首をもぎ取られた仏像

三輪のトゥクトゥクのドアにUNESCOの文字

傾いている仏塔

暑い日は昼寝をするのが正しい

首のない仏像の列

ガジュマルの木に仏さんの頭が

破壊された数々の寺院、首を取られた仏像が痛々しい。だが、いまパレスチナの地で行われているガザの街の破壊とジェノサイドは、これらを遙かに超えている。

2024年3月25日

ムエタイ

バンコク市内には、ムエタイ(Muay Thai)のスタジアムが2つ。そのなかの1945年に創立されたという歴史的あるスタジアムで試合を観た。

今日のマッチは8つ、午後6時15分に第1試合のゴングがなった。テレビ局が入っていて、中継で番組を流しているが、午後8時で番組中継は終了。試合は第5試合あたり。

テレビ局のカメラマンがいなくなると、一気に会場の空気が変わった。特にセコンドで大騒ぎしていた選手の所属クラブの連中がさっと消えてしまった。

大声を上げるセコンド。リング上の選手には迷惑なんじゃないかね、これ。

試合が始まる前に、念入りに儀式のようなことを両選手が行う。タイのムエタイは、日本の相撲のようなものなんだろう。

2024年3月23日

35年ぶりのバンコク

シンガポールからバンコクは、飛行機で2時間20分。羽田から那覇へ飛ぶより早い。

シンガポールは暑かったが、バンコクはもっと暑く、湿度も高い感じである。昔の感じで街を歩き回ると確実に疲弊する。そんなとき、否応なく歳を感じる。

20代、アジアを旅していたときは疲れなんか感じる暇はなかったけどね。朝から日が暮れるまで街中を歩き続け、一日3リットルの汗をかき、4リットルのビールを体に流し込む。そんなことを連日続けていた。

バンコクだけど、35年経って街が大きく変わったかというと、確かにニュキニョキと高層ビルが市内の方々に建てられたが、王宮を中心とするチャオプラヤ川周辺地域は時間の割にはあまり変わってないように思う。

アクセサリーなど細工物を売っている無数の路上店舗も時間が止まっているかのようだ。

王宮

王宮内で見つけたヒゲの友だち

途中、歩き疲れてワット・マハータート(Wat Mahathat)という「格式の高さはバンコク随一」とガイドブックに書かれた寺院の前で入ろうかどうか思案していたら、その前にたむろしているトゥクトゥクの運転手から、どこから来たんだと声をかけられた。

ワット・マハータートは、ドレスコードが厳しい

暑さで疲れ、真面目に答えるのが嫌な気分だったので、どこから来たと思うか、と返したら一瞬押し黙ったあと、 "Germany?" と言ったよ。

俺のどこがドイツ人なんだ。"No" と返し、もう一度どこから来たと思う? と相手に聞いたら、隣のトゥクトゥクの運転手と何か相談したあと、"Nepal?"。

近づいて来たな、と少しだけ面白くなり "No" と返したら、今度は "Greece?" と言ってきたよ。また遠くに行ったじゃないか。 

彼らは何十年も毎日何十人という客に「お前はどこから来た?」と聞いているのに、何にも分かっていないみたいだといささか呆れてそのまま立ち去ったが、後で考えてみれば、彼らにしてみれは相手がどこの国出身であろうとそんなこと関係ないのだ。

彼らは国際交流をしたいわけじゃないんだから。ただ客引きのために話かけているだけなのだから、ドイツもネパールもギリシャも同じなんだろう。

2024年3月22日

Grabのドライバーと

シンガポールでは移動手段としてのグラブがとても便利だ。アプリが使いやすく、仕組みがよく出来ていることに感心する。まだ使用経験はそれほど多くなくあくまで個人の印象のレベルだが、運転手は既存のタクシーに比べて全般的に若く、対応やサービスもよい。

これまで乗ったグラブ・タクシーの運転手は、全員が日本で言う「脱サラ」のドライバーだった。

働いている時間が長いことをぼやいたりしているものの、彼らの全般的な仕事の満足度は高い。まず、働く時間も含めて自分で自分の仕事をコントロール出来ること、組織に縛られない気安さをみんな強調する。ストレスが極度に減ったことを喜んでいる。

だから、客に対するサービスも向上する。乗客の満足度も高まる。客は降車後にアプリへ送られてくる領収書を確認し、ドライバーを評価する。乗せた客からの評価がよければ、ドライバーは仕事がさらにやりやすくなるだけでなく、気持も良いはずだ。いいサービスを続けようと考える自然な動機づけになっている。仕組みがよく出来ている。

 
今朝、宿から空港までの移動で乗ったGrabドライバーは、母方の祖父が日本人だと話した。第二次戦争のとき日本軍の兵士としてシンガポールに来て、終戦後そのまま残ったのだという。

彼が小学生の頃に亡くなったらしいが、子供の頃に抱かれた彼の手はまるでアスファルトの道路面のようにザラザラだったと言った。戦争が終わった後シンガポールに残り、ずっと金属を磨く仕事を続けていたからだとか。その人は日本には一度も戻らなかった。母親になぜ彼は一度も生まれた国に帰らなかったのか聞いたことがあるが、教えてくれなかったと話してくれた。

わざわざそんな作り話をするような人物には見えなかった。本当の話だろう。そんな話を助手席に乗って移動中に聞けるのもGrabを選ぶ理由のひとつになっている。

2024年3月21日

シンガポールは、買い物地獄である

かつてシンガポールは、ショッピング天国などと言われていたらしい。今はまったく様相が異なる。

とにかく何でも高い。いや、例えば食事を現地の人たちが普段行くような店で済ませば、その点はそうでもないかもしれない。だが、ちょっと贅沢をしようと思うと、別のモードに入る。

スーパーマーケットに並んでいる商品を見ても、アルコール飲料といった生活必需品以外のものはとても高価。例えばスーパーの棚にあったコッポラのカベルネ・ソーヴィニヨンが、59シンガポールドル(日本円で6600円)だった。日本では2800円だから2.3倍である。

ただし、これはシンガポールに限った事ではない。対米ドルでもユーロでも同じだ。日本政府と日銀がずーと円を安く、日本を安く誘導してきた結果だ。インバウンドと呼ぶようになった外国人観光客を国内に呼び込むのには格好だが、確実に日本人は外国に出て行きづらくなった。

為替レートの推移(SGD対円)
 
政府が短期で懐を膨らませ、大手企業や一部の富裕層をいっそう太らせるには良いのかも知れないが、長期的には国の成長を間違いなく妨げる施策。本来の「成長」を忘れた愚策の結果である。

2024年3月20日

(Part of) My new life has started

大学から1年間の特別研究期間をもらって、外国に出た。

最初の滞在地は、シンガポール。ここで数ヵ月、シンガポール国立大学(NUS)をベースにして活動をする予定だ。

日本を出るときにはコートを手にしていたが、ここでの正しいスタイルは、半袖シャツに短パン。とにかく日中は暑い、そしてムシムシする。夕方には突然、スコールのような雨に襲われる。ただ、天気に文句をいっても仕方ないので、こればっかりは適応するしかない。

今日はこれまでの暑さでいささか疲れ、午後は宿で少し長めの昼寝をとった。そして、夕方からはいつものように町の散策へ。

歩いていると、町の中心部にSMU(Singapore Management University)の広いキャンパスがあった。一般の人たちもそのキャンパスのなかを通り過ぎている。

タウンホール(市庁舎)の方に足を進め、その後近くのラッフルズホテルで夕食をとることにした。Burger and Lobsterというレストランでロブスターロールを。7時までのハッピーアワーにギリギリの時間だったので、ビールとワインを一緒に頼んだ。 

ほろ酔い気分になったので、食事の後はそのままラッフルズホテル内のLong Barへ。カウンター席の目の前に置かれたのは、落花生が入った麻袋。おつまみなんだろうと、遠慮なくいただく。

しばらして、バーのスタッフに「正しい落花生の食べ方を教えてくれ」といったところ、殻は構わず床にそのまま捨てるのが正しいやり方だとか。19世紀からの習わしで、マレー人の何とかがといったその事の起こりも説明してくれたが、頭に入らなかった。ただ、それが今も続くトラディションか、との問いに彼がYesと答えたのは覚えている。

隣の席に女性の一人客がやって来て、グラスを前にして手持ち無沙汰にスマホをいじり始めた。さっき聞いたばかりの(少し記憶が怪しげだが)落花生にまつわる話をしたら面白がってくれた。 

 
 
天井の団扇が扇いでくれる

ここシンガポールには数ヵ月の滞在予定。その間に周辺の国を回るつもりである。夏はロンドンをベースにして、まだ行ったことのない欧州の国をまわりたいと思っている。

もうバックパックは背負っていないが、それに近い形の一人旅だ。高齢者の仲間入りをした身で、果たしてこれからどれだけまだ見たことがない新しいものを見ることができるか。

2022年6月22日

2年半ぶりの国際学会出張

コロナ前の2020年1月、ハンガリーのブタペストにいた。学会発表のためだった。

現地では学会後にサーカスを観に行った会場で、現地駐在の日本人夫婦の方と偶然に知り合い、その後食事を一緒したり、帰国後もメールのやり取りをしたりで、思いがけず記憶に強く残る旅になった。

それは一例だが、日本を出て海外に行くと、たいていは新たな出会いや発見がある。それもあって海外の学会に出かけることを続けていた。

だが、中国武漢発のコロナウイルスが一気に拡がり、海外への渡航は一切禁じられた。その後のことはここに書くまでもない。人の移動が制約され、ネット上で展開するヴァーチャルなコミュニケーションにいつの間にかわれわれは違和感を感じることがなくなった。

それから2年半が過ぎて、やっとまあまあ普通に海外に出かけられるようになった。最初は欧州の学会へ出かけようと思ったが、ここはまずはリハビリを兼ねて距離の近いアジアの国にしようと思った。

そこで今回のマレーシアである。マレーシアを訪ねるのは初めてだし、英国留学中に一緒だった友人がいることも背中を押した。

日本からの出国と現地への入国。そして、現地出国と日本への再入国。一番大変だった、というか翻弄されたのは現地からの出国の際の手続きだ。 

今回のフライトはJAL。現地への直通フライトを飛ばしているからだ。ただ、現地空港での乗客の搭乗手続きなどグラウンド作業は、提携先のマレーシア航空が受け持っていて、それが今回大きな問題のもととなった。

これはあくまでも個人的な評価だが、マレーシア航空のスタッフはとても真面目なのだが柔軟性に欠け応用力がなかった。しかも、以前の古い日本政府の感染防止策とその規制手段をいまも適用しようとするので、当然のようにこちらとは押し問答になる。

MySOSとかいう日本政府のアプリをスマートフォンにインストールしていないという理由で搭乗手続きを拒否された。ワクチン接種証明書も、さっき済ませたばかりのPCR検査の証明書があってもである。

そもそもMySOSというのは、もし機内で感染者が出た場合に、日本政府の検疫所がその飛行機に乗っていた他の乗客に連絡を取ることを目的としたもの。住所や名前、連絡先をデータをしていれるだけのアプリのようだ。感染拡大やその防止と関係ない。紙の用紙に渡航で利用した航空便と座っていた座席番号、日本での連絡先を記入して提出すれば済む。実際、最終的には僕はアプリをインストールするなどせず、成田空港で1枚の紙を記入しただけで済んだ。

こうしたことが、その目的を一切知らされず、また彼女らも考えることをしないので、ただただ教条的に以前言われたとおり、そのアプリがないと搭乗手続きを行わないと言い張るだけ。

結局、カウンター周辺にいた、つい10日ほど前に日本からやって来たという日本航空社員が取りなしてくれて搭乗手続きができて機内に入ることができた。彼がいなければ、僕はその便には乗機できなかった。

コロコロ変わる日本の厚労省の政策と未徹底な通達。意味を理解しようとせず、機械的にしか仕事をしない現地スタッフ。日本から着任したばかりで、そうした現地スタッフをまだ掌握できていない日本の航空会社の社員。と、今回の問題の所在は多層で多岐にわたっていた。

最後の最後、現地の空港でのやり取りは、今思い出しても腹がたつことばかり。もともとコロナがなければこんなこともなかったと自分を慰めるしかない。

ところで今回の学会では、最終日のセレモニーで僕の研究発表に対してDistinguished Academic Award(4名が受賞)が与えられた。こうしたことがなければ、もう2度と彼の地は踏んでやるかと怒り心頭だったはず。せめてもの救いかな。 

 

ペトロナス・ツインタワー。観光デッキに昇る予約は今も一週間待ち

  
ホテルの部屋から見えたKLタワー

ヒンドゥー教の聖地「バトゥ洞窟」から見下ろす

日本への直通便は夜便のみ。昼間の時間を使ってマラッカへ足を伸ばした。

2020年10月26日

気仙沼で秋刀魚を

秋の気仙沼にやって来た。一ノ関から気仙沼線に乗換えて気仙沼駅。そこから先はBRTと呼ばれる鉄道の代替交通機関として走っているバスで南気仙沼駅へ。もともと鉄道が架設されていたところが舗装され、バス路線に替わっている。 

南気仙沼駅前で待っていてくれたタクシーの運転手さんの案内で街を回る。まず街全体を見下ろせる場所へ行きたいという僕の希望で連れて行ってくれたのは、安波山という小高い山。

そこの駐車場から街を見下ろしたが、その場所は3・11の時に気仙沼に来ていたサンドウィッチマンが、地元の方に連れられて津波から避難してきた場所だったと聞いた。

街のなかは静かだ。夜は9時頃を過ぎると、あらかたはひっそりとしている。黄色い街路灯が冷たい光で地面を照らしている。

日中はいつも旅先でそうするように時間がある限り歩き回ったが、気になったのは子どもをまったく見なかったこと。もちろんいないわけじゃないだろうけど、なぜだろう。

安波山の展望台から市内を見下ろす

町の産業は、土木業だけが栄えている

昨年ほどではないが、ことしも秋刀魚の漁獲量は少ない

2020年9月17日

徐々に、徐々に、なんだろうけど

関西へ取材を兼ねて出張してきた。

まだまだ新幹線で移動する人が少ないので、そのメリットを生かしての移動である。Go To 何とかを使ったわけではないが、それでも宿泊料は驚くほど安い。ホテルが気の毒になるくらいだ。

夕食後、京都市内の四条通りを歩いたところ、まだ9時前だというのに人の流れがとても少ない。


スターバックスもこの通り閑散としている。

2020年7月3日

あじさいの藤森神社

藤森(ふじのもり)神社のあじさい園へ。もう花の盛りは過ぎていて(6月後半が見頃だったと言われた)、咲き誇っているというより頑張って生き残っているという感じだったが、それでもまだピンク、白、紫などの大輪のあじさいが眩しい緑の中で数多く姿を見せていた。