2019年8月26日

風はつかまえられる

映画「風をつかまえた少年」は、マラウイの少年ウィリアム・カムクワンバの実話がベースになっている。

マラウイはアフリカの中でも最貧国と呼ばれる国の1つ。国民の8割が農業に従事している。彼の家もそうだ。主にトウモロコシを栽培し、家族が食べる食糧以外の余剰分は市場で売って現金収入にしている。

映画で描かれた(撮影は実際にマラウイで行われた)その土地は茶色く、埃っぽい。降れば土砂降り、という言葉があるが、まさにその土地の気候は大雨が続き、畑の種や土をごっそり押し流してしまったかと思うと、次の季節は日照り続きの干ばつに長期間悩まされる。

マラウイが大干ばつに襲われた年、国中の飢饉のため14歳のウィリアムは親が学費を払うことができなくなり学校から追い出される。

しかし、担任の理科の教師が乗っている自転車の車輪に取り付けられたダイナモ(発電機)に見せられたことから、あるひらめきを得る。人がペダルを漕いで電気を起こせるなら、風で風車を回して電気を起こせばいい。そして、電気をバッテリーに貯えればポンプで井戸水を汲み上げて、乾ききった畑に流し込むことができる。

彼の発想は、問題の解決に向けてシンプルで明快だ。彼はその後アフリカの発明家として有名になったが、彼の素晴らしい点は発明家かどうかより、当時14歳の少年でありながら自分たちが置かれている状況を正確に理解し、その解決のために何が必要かを合理的に判断し実行できたこと。

日照りが続き作物が枯れ果て、備蓄も底をついてきて、ウィリアムの家では食事は1日1回と彼の父親が宣言する。そして悲しげに、自分も先祖たちがやって来たように雨乞いでもするしかないと語る。

しかし学校の図書室で電気の本を見つけて学んだ息子は、雨乞いではなく、科学的な仕掛けで水を畑に引こうと考える。

そうそう、ウィリアムの家では井戸から水を汲んで生活のいろんな側面で利用しているシーンが出てくるが、その井戸からはバケツに括り付けた紐をたぐり寄せて水を汲み上げる。日本でも水道が完備されるまでは井戸を使っていたが、そこにはたいてい手押しポンプがあった。

テレビの時代劇などで見る長屋の井戸には手押しポンプはないが、井戸の上にはやぐらが組まれ、滑車を用いて水を汲み上げることができるようになっている。

それにくらべて映画で描かれているマラウイの井戸は原始的だ。残念ながら工夫というものがほとんどなされていない。水を雨乞いに頼ってしまう心性が、工夫する発想を押しとどめてしまうのだろうか。

ウィリアムが違ったのは、本を読み、自らの問題意識で学ぶ姿勢をもっていたから。

彼は自転車の車輪と発電機を用い、残りの材料は廃材を集めて風車発電の仕組みを作った。風はタダだ。そしていつも吹いている。その風をつかまえることで、作物を乾期でもできるようにした。1年に1回の収穫が2回になった。立派なイノベーションだ。

その後ウィリアムは奨学金を得て進学し、2014年には米国アイビー・リーグのひとつであるダートマス大学を卒業した。手作り風車によって、彼は風とともに自分の未来もつかまえた。




2019年8月23日

レバノン映画「存在のない子供たち」


レバノンの首都ベイルートは、中東のパリと称えられたほど美しい都市(らしい)。彼の地で働いていた友人が、懐かしそうにそこでの物質的にも文化的に豊かだった暮らしを語るのを聞いたことがある。

しかし、彼女は国連職員という身分の特権階級だったからこそ、そのパリらしさを十二分に満喫できたのだろう。

この映画の舞台はベイルート中心部から車で10分ばかり東に向かい、ベイルート川を越えたあたりの貧民街らしい。その程度離れただけで、人々もその暮らしもがらりと変わる。

主人公のゼインは、出生記録がない。親が手続きしなかったから。だから誕生日を知らない。自分の年齢も分からない。彼の兄弟もそうだ。学校には行っておらず、家族の生活を助けるために路上で働く毎日に追われている。

その彼が、妹を傷つけた(彼が言う)「クソッタレ」を刺して少年刑務所に収監される。だが、黙って大人の世界の流れに身を任せるような少年ではない彼は、社会問題を取り上げるテレビの生番組に電話をかけ、「大人たちに聞いて欲しい。世話できないなら生むな」と呼びかける。その番組をきっかけに弁護士が付き、かれは自分を生んだ両親を訴える・・・。

主人公のゼインを演じた少年(本名も同じ)をはじめ主人公はすべて素人である。シリア難民の彼だけでなく他の子供や大人もすべて社会の最底辺で生きていた、役柄に似た人たちだ。映画の中でゼインの弁護士役を演じたこの映画の監督(ナディーン・ラバキー)だけが「本物」ではない。

脚本もよくできてるが、この映画ではそれを画にするためのキャスティング・ディレクターの仕事もまた称賛されるべきだろう。

ゼインやその周辺の人たちの悲惨な境遇は凄まじい。しかしゼインの賢さが少しずつだが変化をもたらし生活を切り拓いていきそうな予感を漂わせる。中東の移民問題にも迫っている優れた一作である。

2019年8月9日

ヨシモト型社会の到来

積み上がった古新聞の切り抜きをそろそろ片付けなければと格闘している。

その格闘に勝利するする最大の方法は、そのままその切り抜きの山をゴソッとまとめて捨てること。何度それができたら楽なんだろうと思ったことか。

今年の5月30日付けの新聞で駒澤大学の井上智洋が「頭脳資本主義、数より質重要」という記事を書いている。AIやロボットが社会に浸透していき、労働力として人間の生産性向上に役立つとともに、一部の人間以外の労働を奪う(代替わりする)ようになると指摘している。

そうなった時代を象徴する言葉が「頭脳労働主義」らしいのだが、オックスフォード大学のマイケル・オズボーンは「雇用の未来」という論文で、今後なくなっていく職業が増えていく一方で創造的な仕事は残り「クリエイティブ・エコノミー」の時代がくると書いた。

クリエイティブ・エコノミーとは、2000年代初頭にリチャード・フロリダが唱えたクリエイティブ・クラスと呼ばれる社会階層が中心となる経済社会をイメージすればよいのだろう。

井上は、日本国民の所得分布は今とは様変わりすると述べる。つまり、正規分布モデルをベーストしたものからベキ分布(ロングテール型)への移り変わりである。



中間層と呼ばれるボリュームゾーンが失われ、そこでは平均や分散といった値は意味をもたない。

かつて、貧富の差の少ない日本の社会構造をもとに一億総中流という国民の意識が一般的だった時代もあったが、それが大きく変化しようとしている。

何日か前に、吉本興業の若手芸人の時給が300円という話をこのブログに書いた。所属する芸人・タレントらの収入はまさにこのロングテール型だ。一部の超売れっ子と膨大な数のほとんど無給に近い売れてない芸人の集団である。

これが芸能事務所だけの世界でなく、徐々に一般の社会にも当てはまるようになるのはどうも避けられそうもない。

そして左端のボリュームゾーンの人たちを守るための最低賃金法の改定やベーシック・インカムの導入といった話題がこれからもっと表に出てくるに違いない。

かつて植木等が映画「ニッポン無責任時代」で演じた主人公の名前は、平均(たいら・ひとし)といった。どこにでもいそうなニッポンの無責任なサラリーマンを拡大戯画化して描いたものだが、もうこれからの日本に平均(たいら・ひとし)はいない。


2019年8月6日

闇営業と副業の違い

今も吉本興業の芸人による「闇営業」に関する報道を目にする。

今日のN本経済新聞は、こう書く。
芸能界のコンプライス(法令遵守)が話題になっている。吉本興業では所属タレントが会社を通さない「闇営業」で反社会的勢力の集まりに出席していたことが発覚。ジャニーズ事務所を巡っては、テレビ局に同事務所を退所したタレントを出演させないよう働きかけた疑いがあるとして、公正取引委員会が注意した。
「闇営業」が批判されるべきと言いたいのか、反社会勢力の集まりに芸人が出席したことが許せないと主張しているのか判然としない。あえて判然とさせてないように思う。

芸人が所属している事務所を通して仕事しようがしまいが、それは彼らの間でのこと。新聞記者がどうこう言うことじゃない。また反社会的勢力の集まりに顔を出したのがコンプライアンス違反だと糾弾したいのであれば、その前にそうしたことを日常的にやって来た政治家を指弾しなけりゃ筋が通らない。

政治家は怖いから物が言えないけど、芸人をよってたかって叩くのはたやすいからそうしてるだけと見られてもしかたないだろう。

ジャニーズ事務所がテレビ局に働きかけたというのも、さもありなんだろう。もちろんおかしいし、上品なことじゃない。だけどテレビ局が大人なら、それを無視すればいいだけの話だ。周りがしょうもない正義感をふりかざす必要には及ばない。

記事の冒頭で、法令遵守と括弧付きでコンプライアンスなどときいたふうな言葉を振りかざしながら、その本当の意味を分かっていない記者が薄っぺらい知識でテキトーに書いた記事。だからか署名もない。

また記事に、
「吉本」「芸能人」などの言葉を含む491件のツイート(10%サンプル値)を分析した。
とある。最近は、ツイートで誰が言ったか分からないような言説をもとに、新聞記者はさもそれが世間の見方のような記事を書くのか。楽なもんである。

ところで記事中の(10%サンプル値)って何だ。これまで市場調査を多数やってきたが、こんな書き方見たことない。新聞社の他の人たち、意味が分かってるの?

「闇営業」という言葉がこの事件(?)をきっかけに普通に使われるようになったようだけど、それって何かよく分からない。所属する会社の正規のルート外で仕事しただけと違うのか。

「闇」だとか、そこまで大げさな表現を振り回す必要があるのだろうか。「闇」と「副業」とは何が違うの。

むかし広告の制作やイベント・プロデュースの仕事をしていたとき、勤めていた会社の本業以外のそうした仕事は単純に「アルバイト」と呼ばれていた。能力のある連中ほど他社から声がかかり、アフターファイブにこなしていた。ただそれだけのこと。


2019年8月2日

風穴の開け方

昨日、臨時国会が開会した。そこには、れいわ新選組の特定枠で当選した重度障害者の木村さん、舩後さんの姿もあった。

重度の身体障害をもち、脳性麻痺の診断も受けた木村さんが手足で動かすことができるのは右手だけだ。舩後さんはALS(筋萎縮性側索硬化症)で、声を発することができない。が、目と口の動きで意思を伝えることができる。

国会の歴史の中で、こうした重度障害者が議員として登院することはなかった。だから議場のバリアフリー化などの改修工事が今回なされることになった。「賛成の方はご起立ください」と議長が言っても立ち上がることができない二人は、介助者がその場合代わりに手を挙げて賛成を表明する。

多くの人たちが多様性が重要と判を押したように叫ぶなか、心の中ではこうした二人のような国会議員の姿を想像すらしなかった。その多くの人たちの心の隙間に風穴を空けた山本太郎という男はなかなかだ。

れいわ新選組が獲得した票数である228万票は有権者全体のわずか2%に過ぎず、ミニ政党の域を出ていない、と評する政治学者もいるようだけど、数じゃないんだよ。アイデアのインパクトなんだよ、注目すべきなのは。

これまでの長年の政治の世界に向けた人々の気持の中の閉塞感が変わっていくことを期待せずにはいられない。