今朝の新聞の一面に掲載された一枚。
前日のショート・プログラムでの思いも寄らぬミスからのフリー。そこで見せた圧巻の出来のペアスケーティングだった。
昨日、テレビでその見事な演技と結果を繰り返し見せられていたにもかかわらず、紙面のこの写真にはグッときてしまった。
すばらしくドラマチックな、ドラマ以上に感動的な一葉である。作ろうと思っても作れないシーンを切り取っている。
今朝の新聞の一面に掲載された一枚。
昨日、テレビでその見事な演技と結果を繰り返し見せられていたにもかかわらず、紙面のこの写真にはグッときてしまった。
すばらしくドラマチックな、ドラマ以上に感動的な一葉である。作ろうと思っても作れないシーンを切り取っている。
ロバート・デュバルとフレデリック・ワイズマンの訃報を聞いたのは、ほとんど同じタイミングだった。
R・デュバルは、役者として派手さはないが、善人でも悪人でも、小人物から大いなる権威者まで自由に演じることができた米国人俳優で、名脇役と言われるひとりだった。彼が出演した最も早い時期の映画は「アラバマ物語(To Kill a Mockingbird)」 のBoo役。役柄、台詞はなく、本棚にあるそのDVDのパッケージを見てみたが、クレジットはなかった。
英国のマイケル・ケインと並ぶ、自由にそのキャラクターや色を自由に演じられる役者の中の役者というのが僕の評価である。地方の劇団出身で、舞台からテレビや映画に確約の場を拡げたのもマイケル・ケインと似ていた。これまでの彼の映画出演作を数えようとしたのだけど、多すぎて止めた。2022年に最後の映画出演をしている。享年、95歳。
同じ日、映画監督のF・ワイズマンが亡くなったニュースが届いた。半世紀以上にわたってドキュメンタリー映画を制作してきた比類なき映画制作者で監督だった。ドキュメンタリーでありながら、その映画にはインタビューもナレーションも挟まず、淡々と映像をつなぎ紡いでいくことでその実体を観るものに伝えた。
彼が作品の舞台として選んだのは、公共図書館、美術館、ボクシングジム、市庁舎、州議会、公立高校、大学、病院、刑務所、食肉加工工場、裁判所などであり、彼の問題意識はそうした場あるいは組織の持つ制度や権力の構造といったものだった。
https://tatsukimura.blogspot.com/2022/01/blog-post_73.html
https://tatsukimura.blogspot.com/2019/06/blog-post_26.html
2023年製作の「至福のレストラン 三つ星トロワグロ」が最後の作品。紛れもないドキュメンタリー映像製作の巨匠だった。96歳。
先日、アメリカのICEがなぜああした暴徒と何ら変わらぬ残虐行為を行うのかについて、顔を知られないで「やりたいようにやれる」からだと書いた。本性が露出されることへのためらいをなくすのがこうした匿名性だ。
SNS上などに飛び交う雑多な書き込みの多くは匿名であり、その根っこはそれとたいしてたがわない。言いたいことをただ言うだけで、それが正確かどうかとか、理屈に合っているかどうか、根拠があるかどうかなんてことは、端から気にしない。
人は面が割れず、自分が誰かを他人に知られない状況では別の人間になれるんだろう。いや、別の人間というより、ジキル博士とハイド氏のハイド性という方が相応しい。
そうした側面は理性に抑えられているのが通常なのだが、一旦人に顔を知られない匿名でとなると、一昨年行われた兵庫県知事選でも今回タカ市自民党が歴史的な対象を収めた衆院選でもそうだったように、SNS上では理性が瞬間の感情に追いやられる。
このことは社会にとってのある種の暴力だとも考えられる。
一方、こうした無名性、匿名性もあるのだなと今日の日経新聞「私の履歴書」を読んで感じた。写真家の大石芳野さんが2002年にアフガニスタンへ取材で入った時のことを書いていた。
米国で同時多発テロが発生した翌年のこと。アフガニスタンは、それ以前にソ連の軍事侵攻や内戦、米軍の爆撃など度重なる戦禍で街が破壊されていた。そしてタリバン政権のもとで、女性たちは教育を受けることもできず、まともに働くこともできなかった。
大石さんは「・・・この国では頼る人がいなければ(女性たちは)物乞いになるしかない。こちらが外国人と見ると寄ってきてチャドリ(全身を覆う衣服)の裾から手を出してくる女性が多くいた」そして「顔を隠しているからこんな屈辱に耐えられるのです」と書く。
顔を隠す衣服が屈辱に耐え、生きていくための悲惨なシェルターの一つにもなっているのである。
彼女たちは理不尽この上ない状況の中で自分を守るために、その時、屈辱に自分を殺されないために、自らの人格をその瞬間消し去るため、顔を隠さざるを得ないのだろう。
もちろん、同じ「顔を隠す」ことでもこれらふたつは、まったく異なる行為である。
米中西部のミネソタ州ミネアポリスで、また市民が当局の職員によって殺された。2人目の犠牲者だ。
殺されたのは、病院でICUの看護師をしていた37歳の男性。トランプ政権が送り込んだ移民・税関執行局(*)(ICE:Immigration and Customs Enforcement)の職員によって路上で射殺された。
当局は、「銃を持った人物が職員に近づき攻撃しようとしてきたから」と職員の発砲を正当化しているが、映像はそうは示していない。組織防衛のための明らかに嘘である。だから、誰もが怒っている。
殺された男性は6人の政府職員に押さえつけれて、10発の弾丸を撃ち込まれて死んだ。合点がいかないのは、いまだにその6人の名前が表に出てこないこと。メディアはそれを知ろうとしているはずだが、当局が明らかにしないのだろう。
市民を叩き潰した当局職員らは、自分の名前や身元が分からないようにしている。ヘルメットを被り、目出帽で顔を覆い、あるいはサングラスをかけて自分が誰か知られないようにしている。
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| ICEの職員たち |
ネット上か路上かを問わず、匿名性が人から理性をいっそう剥ぎ取る。
自分が誰なのか仲間以外には分からない状態で、銃などの武器を持たせるから愚か者はさらに暴力的になる。人は金槌を手にすると釘を探す、というやつだ。
攻撃用装備で身を固め、覆面で顔を隠し、当局職員という歪んだ安心感と間違った自負心を胸にした馬鹿たちは誰でもいいから殺したいから殺す、殴りたいから殴るという分かりやすい行動を衝動的にとった。
その結果、まったく殺される理由のない一般市民が政府職員に撃ち殺されることになった。
アメリカ市民も、これでさすがに堪忍袋の緒が切れつつあるようだ。
(*) 日本のメディアは、ICEを米移民・税関捜査局と訳しているけど、ICEのやっていることはinvestigation(捜査)ではなく文字通りenforcement(執行) なんだから、捜査局と訳すのは明らかに間違い。日本の新聞社もテレビ局もなぜ気づかないのだろう。それとも意図的に言い換えているのか。
プルデンシャル生命の社員による不正行為が明らかになった。
1991年からということで、35年前から行われ続けていたというから、なんともはやだ。詐欺手口によってこれまで31億円以上の金を社員たちは顧客からくすねていた。
もうひとつ驚くのは、米国のベイン&カンパニー社が作ったNPS(Net Promoter Score)を測定尺度として用いた推奨度調査(NTTコムオンラインによる業界別ランキング)で、そのプルデンシャル生命が生保部門で国内第1位の評価だったこと。
データの収集法が間違っていたのか。そもそも日本人を対象とした測定法としてNPSには欠陥があることが、ただ露呈したかたちか。
東京都内の中古マンションの平均価格が1億円を超えたという。23区では1億2千万円が平均相場らしい。
確かに都内の生活は便利なんだろう。僕も独身時代は都内に住んでいた。地方から出てきて8年間で新宿区、中野区、港区、目黒区に移り住んだ。
その後、都内から神奈川県へ転居したが通勤が少し遠くなったくらいで、不満を感じたことはない。
今日、ニューヨーク・タイムスの不動産欄にスコットランドの売り物件が出ていた。値段は57万ドル。150円で換算すると8,550万円。寝室が6つ、トイレが4つある。
こんな感じだ。
昨日で授業がすべて終わった。今後、教壇に立つ予定はない。
午後4時45分に最後の授業が終わったあと、学生から写真撮影の提案があってみんなで写真を撮った。
その際、学生たちから早稲田グッズのコーヒーマグをプレゼントされた。「先生はコーヒーがお好きなようでしたから」と。授業の合間に、ぼくがコーヒーをよく飲んでたのを見ていたみたい。
この3月でぼくが退職することや、その授業が最後のクラスだという話は一切したことがなかったのだけど、学生たちはなぜかそのことを知っていて驚いた。
教室から研究室に戻り一息ついていたら、今度は前の学期の授業で教えた学生たちが何人かやって来て、お疲れさまでしたと花束を手渡してくれた。そこでもみんなで写真を撮った。
思いがけない訪問と贈りものの授業最終日だった。
写真左のマグは、ぼくは大学グッズを自分用に買うことはないので唯一のものになった。
安倍元首相狙撃犯の裁判で判決がでた。
奈良地裁の田中伸一裁判長が述べた判決は、不思議に満ちている。判決内容の妥当性については今日は議論しないが、その判断の元となった理由には首を傾げる点が多々ある。
裁判長は「多数の聴衆がいる現場で、殺意を持って、複数の銃弾を発射した悪意性や危険性の高さは他の事件と比べても著しい」として検察の求刑通りに無期懲役を言い渡したが、多数の聴衆が居合わせたことが判決結果にどうして関係するのか。
安倍元首相は、聴衆のなかにいたのではない。聴衆とは離れて立ち、演説をしていたのだ。
また殺害のために一発でなく複数の銃弾を発射したことが、どうして判決結果に関係するのか分からない。
さらに、背後から銃撃したことをもって単純に「卑劣で極めて悪質だ」と言うが、前から撃てば判決結果は変わったわけか。
加えて、「実験結果などから被告が使った手製のパイプ銃の威力は拳銃と同程度だったと認定した」らしいが、被告が作った銃がモノとしての出来が良くなかったら判決結果にどう影響したというのか。あるいは銃(もどき)でなく、刃物や弓矢など他の道具を用いていれば判決は変わったのか。
仮の話だが、被告が安倍元首相が人気のない早朝ジョギングの最中かなにか、出来の良くない手製銃で、しかし一発で前から狙って撃ち殺していたら・・・・・・判決はどう変わっていたというのか。
裁判長は殺害という犯罪の結果事実にまして、その現場での状況や使用道具の出来不出来などを判決結果に採用した。その一方で、被告が旧統一教会による宗教的虐待の明らかな被害者であり、長年にわたり極めて過酷かつ不条理な状況に置かれていた事実を判断に用いなかったのはなぜか。
つまり、判決にいたる考察は殺害が当日「どのように」行われたかに終始してしまい、被告が「なぜ」そうした犯行に至ったのかという経緯がほとんど無視されている。
もう一つ。判決理由のなかには「殺害を正当化できるような落ち度が安倍氏には見当たらない」とあるが、殺害された方に落ち度があるかどうかが殺人事件の判決内容に関係するのか。そもそも「殺害を正当化できるような(被害者の)落ち度」というのは一体何なのか。
理解できないことばかりだ。
おれの頭が悪すぎるのか、この裁判長の思考経路が歪んでいるのか、どっちだ。
日本人は人を類型化したり、そのラベルを貼るのが好きだ。
本来、人は一人ひとり異なっていて当然だが、類型化して示されるとなんだかそう見えてくるから不思議だ。
自分のアタマでその人となりを判断するより、単純化されたタイポロジーを当てはめると考えなくてするから楽なのである。
X世代、Y世代、Z世代まできて後がなくなったと思ったら、今度はα(アルファ)世代だとか。
日経新聞が特集を組み、その世代を取り上げている。同紙は記事でこうぶち上げる。「α(アルファ)世代とは2010年〜2024年頃に生まれた世代を指し、Z世代の次に続く「未来の世代」として注目されており、幼い頃からスマホやAIに触れるデジタルネイティブであり、タイムパフォーマンス(タイパ)や社会課題への関心が高いのが特徴です」と。
その集団の構成員の年齢は現在1歳から16歳。つまり、1歳の幼児から高校生までを一緒くたに語っているのだが、1歳児がSNSで何か発信しているというのだろうか。(そしてそれを記者たちは読んでいるのかね。)
さらに同紙は「 α(アルファ)世代は人工知能(AI)などテクノロジーを使いこなし、将来のイノベーション(革新)を起こす主役として期待されている」と書く。
そうだろうか。何度も言うが、1歳から16歳の幼児〜高校初年度生がAIをどう使いこなしているのか。「将来のイノベーション(革新)を起こす主役として期待されている」って、誰が期待しているのか。
気分と思い込みだけで、あまり勝手に筆を走らせちゃいけない。
そうした子どもたちはAIを使いこなすのではなく、残念ながらそのほとんどはAIに使われる運命にあると考えている。
現在すでにある年齢以上にあって、日々生成AIを仕事や研究、あるいはプライベートで使っている人たちは、それがいかに未完全なものかを分かっている。問いへの回答などは一見もっともらしいが、そこには間違いや偏った記述が散見されるのを実感しているからだ。
だから、われわれは「AIもまだまだだなあ〜」と知りつつ、一方でその日進月歩の進化に驚くことができている。
だが10年後、いや5年後には、AIは生身の人間と見分けがつかない洗練された知性を備えた存在として少年少女たちに対応するようになっている。それも圧倒的な知識を備えた存在だ。
人間の中学生が、彼らよりはるかに知能が優れたAIをどうして「使いこなせる」というのか。蒸気機関や電気、コンピュータ、インターネットといった分かりやすい道具的技術の延長上にAIを捉えてはいけない。
AIネイティブだからこそ、逆におよそほとんどの若年者は赤子の手を捻られるがごとくAIに「使いこなされて」しまうわけだ。
堺屋太一は、月刊『現代』に1976年から連載した「団塊の世代」のなかで1947〜49年生まれの人々を一つの世代と考え、そこから日本の世代論は始まった。
それは、年齢で云えば当時30歳前後の人たちだった。年間260万人を越える人口のボリュームゾーンだったこともあり、社会のそれぞれの分野である一定以上のプレゼンスを見せていた。
だから堺屋は、戦後間もなく生まれた「戦争を知らない」新しい世代の集団が社会に与えている影響力に着目したのである。
まだ自我も確立されていない幼児や少年少女を何とか世代などと括って、分かったような定義づけをしてはいけない。
単純化の罠の典型例だ。
日本の報道番組で、いま見るべきものはTBS「報道特集」とNHK「国際報道」くらいしかないと思っている。以前は、といっても何十年も前になるが、平日夜のベルト番組でもチャンネルを合わせていたニュース番組があったが、いまそうしたものはない。
いきおい外国のニュース番組を求めるようになり、CNNとBBC World Newsを切替えながら見ることが多くなった。
だがどちらにチャンネルを合わせても、出てくるのは米国のトランプのニュースばかりだ。つくづくどうなっているのかと思ってしまう。世界の各地では、日々それ以外にもさまざまなできごとが起こっているはずなのに。
今の世界は、もうほぼ完全にトランプ化してしまったようだ。
あの『マクドナルド化する社会(原題 McDonaldizaion of Society)』をジョージ・リッツアが書いたのが1993年。
誰かが『トランプ化する世界(Trumpization of World)』を書くときだろう。
伊藤忠商事社長、その後会長を経て駐中国大使を務めた丹羽宇一郎さんが亡くなった。
丹羽さんといえば、僕にとっては『ジャン・クリストフ』なのである。パーソナリティをつとめていたラジオ番組にゲストとして来ていただいた際、番組の中でこの本を読まない手はないと薦められた。50年ぶりに読み返した話を聞かせてくれたのだ。彼は、名古屋で本屋の息子として育った。
駅の近くにあるK書店をのぞく。雑誌、文芸、旅行・紀行の各コーナーを中心に店内を見て回る。
いつもはもっと閑散としているのだけど、今日はどういうわけか家族連れがやたらと多い。それも家族全員で、といった感じの集団がいくつも店内にいて、子供が騒がしい。なかには3世代の家族もいる。
どの家族もこの本屋に書籍や雑誌を目当てに来たのではなく、ただ「外」に出たついでに寄っただけのようで何を探すというわけでなく、ひたすら店内で騒いでいる。これも今の日本の正月の一つの風景なのか。
そうした集団を避けて本を何冊か選び、レジに向かう。カウンターの端の方で本の整理をしている馴染みの店員と目が合い、お互い軽く会釈をする。
レジの所には初めて見る学生らしい店員が「見習い」の札を胸につけて立っている。アルバイトなんだろう。
支払いを済ませた際、その若者が「レシートはいりますか?」と聞いてきた。?と瞬時、とまどう。
これまで書店でレシートがいるかどうかを尋ねられた経験が一度もなかったからだ。思わず「当たり前だろう」と憮然と答えてしまったが、それまで働いていたコンビニのレジでの習慣でやってるのだなと、後で思った。
アルバイトでレジ打ちをしている男にとっては、古代ギリシャの哲人が著した書簡集もコンビニ弁当も変わらないってことなんだな、きっと。
遠方に住む家族の家のインターネットが繋がらなくなった。
対応を求めて、プロバイダーのサービスデスクに電話をかけたという。が、機械応答で「はい」「いいえ」の選択肢だけを次々尋ねられ、その挙げ句、最終的に問題はまったく解決しないどころか、人間と一言も話すこともなく最後は「問題は解決されましたでしょうか。はい、いいえでお答え下さい」と言われ、「いいえ」と答えて、電話が切れたらしい。
試しに僕の方でもそこに電話をかけてみた。なるほど聞いたとおりだ。「はい、か、いいえ、でお答えください」とシステムの機械音声が何度も何度も続く。
問題の切り分けの設計がお粗末で、単線的なフローしか組まれていない。顧客のことなど真面目に考えておらず、ヘルプデスクが一応あるという言い訳のためのものとしか思えない。
しかもやり取りは、機械に子供扱いされているような感じで実に厭な気分だった。不愉快極まりない。我慢できず、途中で呪いの言葉を吐き、電話を切る。
この会社(プロバイダー)に人間による対応を求める場合は、別途、有料オプションを契約しなければならないらしい。なんてこった。
人件費削減を狙っているのだろうが、こうした無神経なサービス対応を契約者に強いるのは何とかならないのだろうか。
来年9月9日から国立新美術館で開催される「ルーブル美術館展 ルネサンス」に、ダ・ヴィンチの「ラ・ベル・フェロニエール」が展示される。
Macをスリープ状態にしておいたはずなのに、再始動しようとした時にマシンの躯体が過熱しているときがある。その原因は、勝手にMicrosoft Updateが起動してしまっていることにある。
以前はそうした動きはなかったのだが、それ自体をupdateしてしまってから日常的に発生するようになった。つまり、Microsoftがそのようにプログラムしたということだ。
他に同じ症状に困惑している人の例はないかと調べたら、たくさん出てきた。主な問題点として以下のようなものがある。。
調べたところでは、以前のMicrosoft AutoUpdateは勝手に起動しないように設定を変えることができた。
ところが、最新の(先日、不注意にもそれにアップデイトしてしまった。しまった!) バージョンではその設定をマイクロソフトがなくした。
相変わらず利用者のことなど念頭にない。
予想していたとおり、星野リゾート運営の高額旅館が営業を停止することになった。
1人あたりの一泊料金を、税込みか税抜きか知らないが最低で5万5千円に設定している。海が見えるわけでもなく、歴史的な建物というわけでもなく、ただ山の中に設けた旅館がこうした価格をいつまでも客にまともだと思わせておくことは到底無理だった。
人それぞれ好き好きだろうが、そもそも旅館という宿泊形態は京都などで長い歴史を持ち、独特の風格を感じさせるようなところ以外、続いていくとは思えない。
夕食時、テーブルいっぱいに並べられるお造りや煮物や焼き物・・・、それらを何時間もかけて食べるのは時間の無駄としか思えないのだ。かつて日本全体が貧しかった頃、旅先の旅館に泊まること自体が極めて非日常的な「ハレ」だったから客も喜んだが、いまでは日本のどこでも美味しいものが日常的に食べられる。
しかも、旅館側の都合で食事の時間が大方決められてしまう。日常を離れてのんびりするために来たというのに、その拘束感は実に不愉快だ。
そうした意味で、旅館の夕食は明らかに過去の遺物といえる。そのことを理解しようとせず、豪勢な料理をドーンと出せば客が驚き喜ぶと思い、それで高額な金額を請求できると考えているのは今やお粗末な勘違いである。
| 自慢の露天風呂だそうだが・・・ |
旅館は、やがて小中学校の修学旅行での宿泊場所以外の役割を失っていくのだろう。
水曜日に新聞に掲載されたばかりの、共同通信が配信した以下の記事を取り消すとの「おわび」告知が新聞紙上に出されていた。
一番目のセンテンスもNHK次期会長に決まった人物と政界有力者の人間関係の有る無しを示しただけの内容。
これらをすべて新聞社が取り消すとは、いったい何が起こったのか。
名前が登場しているのは、当のNHK次期会長、菅、麻生、高市の4人。誰がどう考え、どう圧力をかけたのか。だいたい想像はつくが。
ふた月ほど前のある日、近くでノラの猫と、のちにその飼い主になる若い女性と知り合った。
鶴見川水系の一つである鳥山川沿いの道を自転車で走っていたとき、橋のたもとで女性がしゃがみ込んで猫を撫でているのが目に入った。
この近くにはノラたちが何匹かいて、地域の猫好きの人たちによって世話をしてもらっているので猫たちもそれなりに人に慣れているのだ。
きょうも通りすがりの猫好きの人がそうした猫の一匹を愛でてやっているのだろうと思って通り過ぎたが、何か雰囲気が違った。気になって自転車を止め、通り過ぎた場所へ戻った。
彼女にどうかしたのか訊ねると、猫が怪我をしているという。見てみると、鼻の先がない。鼻がぽっくりとえぐれているのである。しかも、からだ全体はガリガリで極度に衰弱し、ほとんど動かない。これはただ事じゃない。
彼女は、前日もこのニャンと同じ場所で会っていて、その時から具合が悪そうだったのが気になってこの日も様子を見に来たのだという。
ノラ猫をどう面倒みるかは難しい。行動を起こせばその結果があり、相手が生き物だけに行動には責任がともなう。
ちょっとした逡巡はあったが、その場に放置すれば翌日にはこの猫はおそらく死んでいるだろうと思ったので、動物病院にそのOさんとで連れて行くことにした。歩いて10分ほどのところに、新しく開業した動物病院があることを思い出したから。
プール帰りの僕のリュックにはバスタオルが入っていたので、ニャンをそれで包んで病院に持ち込む。まったくの初診、しかも持ち込んだのがノラなので受付の女性から訝られるが、そこは押し切る。
そうして獣医に観てもらったが、怪我の具合と全身の衰弱がひどすぎるのでその病院では対応しきれないと言われ、妙蓮寺駅にある治療体制の整った大型の動物病院の名を紹介される。
突然ノラを持ち込んでもまたそこでも受付で時間を取られると思ったので、その場でその動物病院に電話をかけ、途中で目の前にいる獣医師にスマホを渡して獣医師間で状況をできる限り詳しく伝えてもらった。
タクシーをつかまえ、妙蓮寺駅近くのF動物病院へ向かった。そこで数時間かけ念入りに検査をしてもらう。免疫異常、胆嚢種、リンパ種、腎臓肥大、肝臓異常、その他覚え切れないほどの症状を伝えられる。鼻先がもがれて軟骨が完全になくなっているのは、原因がはっきり分からない。外的な力による損傷なのか、体内の感染症からなのか。
特に問題だったのが、赤血球数の減少がはげしかったこと。極度の貧血状態にあり、先生に勧められて輸血をしてもらい、そのまま入院。歳は4歳から10歳くらいの間だろうと言われた。その年齢の幅の広さが、これまで生きのびてきた環境の過酷さを物語っている。
僕が川っぷちで会ったOさんは、そうしたなかで旦那さんと連絡を取り、保護猫としてのちに「しーちゃん」と呼ばれるその猫を受け入れる覚悟を決めた。
そのまま数日間入院し、退院。Oさんらに大切に面倒をみてもらい、少しずつだけど体重も増えてきた。そうして彼女からときどきしーちゃんの写メがスマホに届く。
あるとき、彼女からまた手術をすることになったという連絡がきた。栄養状態が改善して全身の体毛が伸びてきたのだけど、シッポだけまったく毛が伸びないので動物病院で診てもらったらシッポが壊死していると言われたのだ。
原因は、シッポの根元に輪ゴムかタコ糸のようなものできつく縛られていた跡があったことから、そのせいでシッポが壊死していたのだろうと。骨には異常がなかったので、それまでのレントゲン検査では気がつかなかった。
そして、壊死したシッポを切断することに。赤血球数がまだ回復していないので、切断手術後には強度の貧血を再発した。いやはやニャンとも大変である。
シッポが切断され、手術のためにお尻のまわりの毛をすっかり刈り取られたしーちゃんの写真が送られてきたときは、なんとも言えない気持になった。
輪ゴムだかタコ糸だか分からないが、誰が何のためにそんな悪さをしたのか、強い怒りが沸く。
振り返って思うのは、もしこの猫が人間に強い警戒感を持っていて人に近づくことなどなかったら、このような酷い目に遭わされることはなかったんじゃないかということ。
ただ一方で、人懐っこくなければ、あの日、彼女と僕に動物病院に連れて行かれることもなく、その後、保護猫として引き取られることもなかったのだが。
ノラの一生は厳しく、複雑だ。とにかく少しずつでも元気になって、何とか生き続けて欲しいと願っている。
新横浜駅の新幹線ホームに、スターバックスの店が登場した。
今日立ち寄ったとき、店のスタッフと話してみると、「新幹線ホームのスターバックスは世界初なんですよ」と言われてちょっとびっくり。
帰宅して少し調べて見ると、ネット上のニュースでは「日本発」となっている。ただ、「新幹線」は日本にしかないから日本発は世界初と言ったのも嘘ではないかな。
この「Brewed to Go」と名づけられた店は、下りホームにしかない。新幹線の停車時間にコーヒーを買うのは無理だから、利用できる客は新横浜から新大阪など西へ向かう乗客と僕のように東京から乗ってこの駅で降りる客だけ。
商売を考えたら、ホームはホームでも東京駅に設置した方が確実に儲かる。ただ、客が多すぎて混雑してオペレーションが難しくなる。その点、新横浜駅の乗降客は東京駅とは比較にならないから、パイロット店としては好ましいのかもしれない。
新横浜駅は駅ビル内にスタバが2階と3階の2店入っているので、そこへ行けばいいだけなんだけど、ホームで降りてすぐ熱い一杯のコーヒーというのも今のところ悪くない。
オーストラリアでは明日から16歳未満のSNS利用が禁止される。大変結構なことだと思う。これは、かの国では大人たちが子供たちのことを真剣に考えている証拠だ。
禁止対象となるのはインスタグラム、フェイスブック、スレッズ、スナップチャット、ユーチューブ、ティックトック、キック、レディット、ツイッチ、X(旧ツイッター)の10のプラットフォームである。
登録時の年齢を偽ったりするなど抜け穴もあるようだが、いずれにしても多くの子供たちがSNSを使わなくなることで救われるはずだ。
そして、オーストラリア以外に同様の措置を検討している国もニュージーランドや欧州のなかから次々出てきている。
ボクは、日本ではSNSを完全に使えなくしてしまえばいいと思っている。つまり、年齢を問わずだ。自分がSNSと呼ばれるものをやっていないからというのもあるが、SNSをやって得られるプラス面と、そのことで個人や社会が被っているマイナス面を考えたとき、はるかにマイナスの方が大きいと考えるから。
若い人たちのなかには、SNSが使えなくなると友達とのやりとりができなくなると心配する人たちがいるが、以前はもともとSNSなんてなかった。連絡が必要な時は、普通に電話をした。それでいいじゃないか。なんなら手紙を書いたっていいんだよ。Eメールもあるし。
もし国民すべてにおいてが無理であれば、まずは未成年のSNS利用を禁止すればいい。オーストラリアや他の国が16歳未満と言うのであれば、日本では20歳未満というのが妥当なところだろう。
まずは1年やってみて、どうなるか見てみればいい。最初は不便だとかなんだとか不満も多いだろうが、どうせすぐに慣れてしまうはず。
自分だけSNSが使えなくなると友人間のやりとりで除け者にされ、たちまち阻害感を抱いてしまうような若い人たちも、周りも一斉に使えなくなればそんな心配をする必要もない。
SNSを運営する企業は、そうした規制に対して「言論の自由を犯すものだ」などとやけに大げさな言い方で反発してるようだが、ただ彼らの商売のネタが一つ無くなるだけの話で説得力はない。
オーストラリアのアルバニージー首相は、「これは、『もうたくさんだ』というオーストラリアの意思表示だ」と述べる。また「オーストラリアが世界をリードしてきたほかの偉大な改革とともに、これが受け入れられるだろうと、私は考えている」とも。
赤信号みんなで渡れば怖くないんじゃないが、日本でもSNSなんてみんなでやめてしまえばよいのだ。それが、ささやかながら今の日本を少しでも明るくする方法のひとつであることは間違いない。
ニューヨーク・タイムズが、The 67 Most Stylish People of 2025を発表。映画スターやラッパー、ロックスターなど多士済々で、スポーツ界からは数少ないなかでドジャーズの大谷翔平が選ばれているのが嬉しい。メキシコの大統領、クラウディア・シェインバウムも選ばれてた。
群馬県という地味な県が、彼女によって注目を浴びていた。
前橋市長の「ラブホテル密会」事件である。出来事そのものが扇情的な要素をひめたものだっただけでなく、彼女の密会の釈明も結構笑えるもので、格好のメディアネタだった。
結果、市長は退職願を提出し、そして昨日の市議会において全議員が同意。彼女は同日付けで辞職となった。
これが日本的な筋の通し方なのかもしれないが、疑問が沸かないではない。
ラブホテルに一緒に行った相手が既婚の男性市職員だったということだが、そのことで誰かを傷つけたり、市に損害を与えたのだろうか。
報道では相手の男性が「既婚」だったことが常に表記されるところから、メディアも世間も不倫をとがめていることがうかがえる。
確かにその男性の配偶者や家族にとっては不愉快な出来事だろう。だが、こうした痴話ごとは、当事者間の問題として解決すべきことじゃないのかね。
このことが、市長だからといって社会的に責任を問われることだろうか。道徳上けしからん面はあるが、行政府の長としての仕事内容やその手腕などは一切語られないまま、「ラブホテル」「市職員」「既婚男性」の3つのキーワードでストーリーが完全に固まってしまった感がある。
そして、そうした社会の風潮を受けて市議会の議員が全員辞職に賛成したというのは、情けなくはないか。なんだかそこからは全体主義的な雰囲気を感じさせる今回の出来事だったように思うのだ。
2025年の参院選での1票の格差を問う判決が出そろった。
最大格差3.13倍の格差を放置したまま実施された今年7月の参院選の投票価値を問うていた16件の訴訟で判決が出た。
結果は、違憲状態としたものが11件、合憲が5件である。なぜ合憲と判断できるのか有権者のひとりとしては理解からほど遠いが、それらを踏まえて来年、最高裁がどう判決を下すかに注目したい。
最高裁判決といえば、参院選の1票の格差をめぐって、裁判官らが2010年の選挙(格差5倍)と2013年の選挙(格差4.8倍)を違憲状態とした一方で、2016年の選挙(格差3.1倍)と2019年の選挙(格差3倍)、2022年の選挙(格差3倍)は合憲としている。
数字からみると、裁判官らは5倍を大きすぎる格差と見ている一方で、3倍の格差は許容範囲と考えていることがうかがえる。これはどうしたものか。あまりに見方がヘンじゃないか。
常識的に考えれば、たとえ2倍だってその格差は大きすぎる。2倍の地域の有権者にとっては、自分の投票の重みは半分しかないのだから。
裁判官らはどうしてこうも非常識な判決を平気で出せるのだろう。お上に楯突くのがそれほど厭なのか。なら、裁判官など辞めてしまえと言いたい。
違憲判決を出した裁判官ですら、その言い分は「違憲の問題が生ずる程度の著しい不平等状態にあったと言わざる得ない」と、ミョーな言い回しをしている。
「不平等状態にあった」となぜはっきり言わないのか。これもまた、政府に対して慮った腰の引けた姿勢であることが見て取れるのである。
あらためて、日本の司法もそれほど信用できないと思っていた方が無難そうだ。
パスポートの更新のため、センター南駅構内にある県のパスポートセンターへ出かけた。
そこは申請用と受付用で合計7つの窓口があるのだが、どの窓口もガラガラ。これなら、さっさと手続きが済みそうだと嬉しい予感。ところが・・・
あらかじめ外務省のサイトで作成し、自宅でプリントしておいた申請書を窓口に出す。すると、係りの女性が物差しを取り出して申請書類にいろんな角度で当てだした。一体なにをやっているのかと思って見ていたら、「上の白紙部分が3ミリ長いです」と言う。
何のことか分からず説明を求めると、書類の書き始めまでの余白が3ミリ長いため申請書を受け付けられないと言う。24ミリでなければならないのが、27ミリあるからだからダメだと。
上を3ミリ分縮める必要があるのであれば、その分カットしてくれと言ったら、それはできないと言う。
カットできないのであれば、コピー機で101%に拡大してくれといったら、コピー機は使えないと返ってくる。まったくお手上げ、木で鼻を括ったような対応。
忙しくて人手がないというわけではない。7つある窓口には僕以外の客はいないのだから。閑すぎて、物差し片手にミリ単位で書類のチェックをするしか仕事がないのだろう。
仕方なく、その場で新たに紙の申請用紙に必要事項を記入し直す羽目になった。
と思ったら、今度は写真だ。写真に写る顔が2ミリ小さいので受け付けられないと言う。ここの窓口担当も物差し片手にしゃべっている。写っている顔写真の頭の部分から顎までの長さが2ミリ足りないので、写真の撮り直しが必要だと言う。
顔の長さが2ミリ小さいと、パスポートとして出入国の際に不都合が出るとでもいうのだろうか。これまた中身のない、お役所仕事の典型。かつ、閑な職員の時間つぶしなのだろう。
仕方ないので、同じ建物の2フロアー上にある証明写真のインスタント撮影機に再び1000円札を滑り込ませて撮影した。
すると、窓口の女性曰く、今度のも小さいと。苦虫をかみつぶしたこちらの顔に気づいたのか、「奥で確認してきます」とその写真をもって裏の事務所スペースへ消えた。
こちらが待つカウンターへ戻って来て、「再撮影されたものなので、これで受け付けます」と。どういうこと? 再撮影だろうが、再々撮影だろうが、それは関係ないことである。
そうしたことを判断の基準にしていること自体が、完全に不適切なことすら分かっていないみたいだ。
さらには、「受け付けます」といったかと思いきや、写真を詳細に眺め、「頬の横あたりが少し緑がかっていますがいいんですか」とか「眼鏡のフレームの影が頬に映っているようですが、いいんですか」と訊いてくる。
想像するに、パスポートセンター付属の写真スタジオで撮影をやり直させたい模様。見合い写真じゃあるまいし。写真スタジオと何か利害関係でもあるのか。
最後、「書類内容を審査して26日以降の受取になります」と言われたが、平気で「審査」という言葉を使う神経に怒りを感じる。
審査とは「詳しく調べて適否や優劣などを決めること」。パスポート申請の書類には名前とそのローマ字読み、住所、本籍、生年月日、緊急時の連絡先しか書かれていない。それを「審査」するというのは言葉遣いが間違っている。確認なら分かるが、審査には「発給してやる」というお上根性がベースにある。明らかに上下関係の存在を前提にしているわけだ。
とにかく彼らの仕事は、県民が提出した申請書類に書かれた名前や住所などを住基ネット上のデータと照合するという単純なもの。正規職員をオフィスに何人も配置してやらせる仕事ではなく、AIで完全に代替できる。
10年用のパスポートなので、県のパスポートセンターでそれを受け取ったら、もう人生のなかで二度と行くことはなさそうだし、行きたくもないと思っている。
ところで写真のサイズと云えば、先日、運転免許証の更新をしたとき、こちらは逆に写真に写っている顔が大きすぎると言われて、最初、受付を拒否された。
警察署の担当窓口の女性に言わせると、肩幅がちゃんと分かるような写真でないとダメだと。その理由を尋ねたら、両肩が写ってないと「体格」が分からないからだと言う。
免許証に貼られているようなサイズの写真で体格まで見ようというのが、どだい無理なのではないか。
写真で体格が分からないとダメだというなら、シャツやジャケットを着たままの写真ではもともと無理なのは明らか。警察は、体格を言うのであれば男であろうが女であろうが上半身裸の写真を免許証に要求すべきだ、なぜそうしないのかと迫ったら黙ってしまった。
そして、運転免許証用の写真は撮り直さずに済んだ。やれやれ。
どちらも仕事は閑な奴らにやらせてはダメだという見本。
主要な理由は2つ。まず、AIの本格的利用が進み、プログラミングなどをしていたエンジニアや一般のホワイトカラーが不要になってきたこと。
この傾向は間違いなく加速し、AIにとって変わられる職種や能力はますます拡がって行くことが予想されている。
もう一つの理由は、トランプ関税の影響である。消費関連分野の不況感によって小売りや物流関係で人員削減された数がそれぞれ3倍、2倍と増えた。
例えば、フェデックス・エクスプレスやDHLと並ぶ貨物運送会社であるUPSは先月末、4万8千人を削減した。関税の強化によって国際物流の取扱量が減少、とりわけ中国からの小包数が激減したためだ。
今年の1月から9月に行われた米国のこの人減らしが第一弾だとすると、これから第二弾、第三弾と続いていくのは間違いない。
先日の米国での選挙で、ニューヨーク市長、ヴァージニア州知事、ニュージャージー州知事にそれぞれ民主党の議員が選ばれたのは、こうした米国内の雇用に関する潮流の起こりを人々が肌で感じ始めているから。
大口を叩いてきたトランプの数々の政策も、その嘘っぱちさとその綻びが一般国民にも見えてきたことの証明だろう。
AI解雇、AI離職に話を戻せば、これは米国内の企業だけの話ではもちろん済まない。
タカ市政権のもとで、日本企業も徐々に同じ考えに舵を切り始めるようになると僕はみている。自民党への企業献金は、そうした時のためになされているのだから。