駅の上りエスカレーター。ふと見上げるとウマが。
頭絡とサドルパッドを付けているので乗馬用のウマみたい。それがリュックから半分からだを見せていた。
別にぬいぐるみが好きなわけではないのだが、なんか気になって一枚撮った。
駅の上りエスカレーター。ふと見上げるとウマが。
頭絡とサドルパッドを付けているので乗馬用のウマみたい。それがリュックから半分からだを見せていた。
別にぬいぐるみが好きなわけではないのだが、なんか気になって一枚撮った。
人工知能が人間の知能を超えるシンギュラリティ(技術的特異点)が2045年頃に訪れるかどうかといった議論がなされていたのはつい先頃だと思ったが、実はもうすでに状況はその域に達しつつあるように感じる。
数学の分野で1946年にハンガリーの著名な数学者が提示した問題があり、彼自身がその解答を予想したものの、答えは解かれないままになっていた。
ところが、AIがその問題に取り組み、これまでの予想を覆す新発見をした。これまで多くの数学者がおそらく正しいと信じていたそれまでの予想を見事に裏切った。その事実は、数学の世界に強い衝撃を与えた。
とりわけ注目しなければならないのは、人間がそれまで思いつかなかった異分野の手法を組み合わせて今回の解答を導き出した点である。
なぜ人にはそれができなかったかというと、数学に限らずどの分野もそうだが、今では研究の細分化が極度に進んでいるために違う分野の知識を組み合わせる研究が難しくなっているからだ。
AIは人間と違い、いくら考えても疲れるということがない。しかも幅広く様々な分野の知識や知見を無数に組み合わせて答えを導き出すことが可能だ。
だとすると、今後、数学者の多くはこれまでの役割を失うということになるかもしれない。AIに問題を出したり、AIが示した解答を確認するという限られた数の数学者がいればそれで済む。
これはなにも数学分野に限った話ではない。まずは自然科学の分野でこうした状況が進んでいくのだろう。そして早晩、社会科学の領域においても人文科学の領域においても、AIが人間の研究者を凌駕するようになるに違いない。
それまで何年かかるか? 10年もかからないんだろうなぁ〜。
マイクロソフト社から「利用規約更新」の件名のメールが来た。
いまではマイクロソフトの製品はといえば、hotmailのアカウントを保持しているだけのぼくの所にもきた(笑
https://tatsukimura.blogspot.com/2026/06/blog-post.html
そのメールには、同社のサービス規約と「プライバシー・ステートメント」のリンクが貼られており、試しにどんなものかサービス規約を生成AIにチェックさせた。
AIは、一般的な大手クラウドサービスの利用規約としては標準的だとしながらも、注意すべき点をいくつか挙げた。
それらのなかで一番気になったのは、同社の規約では「サービス提供、安全確保、製品改善」といった目的で、マイクロソフト社は利用者のコンテンツを
することができる権利を利用者から与えられているという点。これって、大丈夫か? ぼく個人はマイクロソフトのサービスはほとんど使わないから、ま、いいけど。
それにしてもこの規約、文字数にして71,326文字もある。AIが本人の代わりに内容を精査してあっという間にコメントしてくれるからいいものの、そうでなければ誰も読まない(読めない)。
顧客のことを少しでも考えたら、何か他にやりようはあるはずだと思うんだけどね。そうしたことを何も考えないところがこの会社らしい。
マイクロソフトだけでなく、我々は気を付けないと彼らにケツの穴まで覗かれることになりそうだ。・・・もうそうなっているかもしれない。
先月末にも同様の趣旨のことを書いた。
繰り返しになるが、子どもたちをどうSNSから保護するかということをあらためて考えておきたい。
世界各国で子どものSNS利用を年齢によって制限する方向性が打ち出されているが、そのなか日本は一向に具体的な指針が定められないままだ。
大人として実に無責任だと思わざるを得ないのだが、子どもの保護を目的としたそうした規制に反対する慶応大の准教授の談話が新聞に掲載されていた。
![]() |
| 日経新聞、2026年8月3日朝刊 |
ひとつは過剰規制で、年齢でSNSの利用を規制することは「憲法が保障するこどもの知る権利に対して過剰規制」という考えである。憲法の「知る権利」まで持ち出して子どものSNS利用の規制に反対するという向きだが、どうなんだろう。
知る権利の侵害というが、何について知る権利を侵害するというのか。具体的に示してほしいものだが、そうした点はまったく明らかにしてない。
日本は、子どもが知る権利が十分補償されているとボクは思っているんだけどね。アメリカのある州の学校では、未だに「神」が世界を創造したとされ、現在も天動説が教えられている。だが、日本では学校でそんなことを教えられている子どもはいない。
宇宙の起源についての最新理論であろうと生殖の仕組みであろうと、日本の子どもたちは自分が知ろうと思えば、そして調べようと思えば何だって知ることができる。
にもかかわらず彼は、SNSの利用をある一定の年齢まで制限することによって、子どもは憲法で保障された知る権利を侵害されるから反対だという。こうした過剰な配慮意識はどこから来るのかね。
もし彼が指摘する、子どもの「知る権利」が気になるのなら、SNS利用を年齢によって制限した後、実の当事者である子どもが「知る権利を奪われた!」と不平を言ってくるのを待ってその内容に耳を傾けたらいい(万が一、そうした声があるとしたらだが)。それから真摯に検討してみたらいい。先走って、ありもしないことを心配するのはあまり賢明ではない。
彼が挙げているもう一つの反対の理由は、もし年齢による規制を設けても抜け道があるので合理性に欠けるから、という点。
だけどね、それはしょうがないだろう。大きな声では言えないが、大抵の規制には抜け道があるのが世の常。例えば、未成年は飲酒や喫煙が認められていないけど、飲もうと思えば飲めるし、吸おうと思えば吸える。大学近くの居酒屋で新入生が新歓コンパで楽しそうに飲んで騒いでいるのを見るのは例年のことだ。
だからといって未成年による飲酒や喫煙の規制が無為だとも不要だともボクは思わない。
同様に速度制限を守らない走行車があるからといって、一般道での速度規制が非合理的とも思わない。
この慶大准教授は、ルールは100%徹底されなければ意味を持たないというタイプみたいだが、現実の世の中はそうはできちゃいない。徹底されなくたって、それがあることで国民の意識は変わるし、抑止の方向に社会は進んでいくのが現実の世の中だ。どうもそのあたりが分かっちゃいないようだ。
ところで、今日、文部科学省が行っている小学6年と中学3年を対象にした全国学力・学習状況調査の結果が発表になった。
授業以外に1時間以上勉強している子どもの割合は、前回調査に比べて10ポイント以上減少した。そして、SNSに割く時間は増加傾向にあって、実施された学力テストではSNSの閲覧や動画視聴の時間が長い子ほど全科目で正答率が低いことが示された。
この調査結果は驚くような内容でなく、日常の観察からわれわれが感じていることが間違ってはいないことをファクトとして示したに過ぎない。
年齢によるSNSの利用規制についてだが、日本の子どもたちの未来を少しでも豊かにしたいなら、子どもの知る権利を侵害する過剰規制だとか、抜け道があるルールだから不合理だとか、そうしたつまらぬ屁理屈を弄んでいる場合ではないだろう。
規制反対をもっともらしい顔をして主張する学者は、もしメタやXといった米国のSNSプラットフォーム運営企業がSNSサービスを停止すると言ったらどうするのか。それらの企業に対して、「知る権利を奪う憲法違反」だと主張するのか。
冷静に考えれば分かる話だ。
熊本地震への対応と支援は、多くの方が不断の努力を続けている。
そんななか、車中泊をしていた女性がガソリン切れでクーラーが効かないまま車内で熱中症によって亡くなっているのが発見されたというニュースを聞いた。辛い。
「朝5時半から並び、4時間待ってやっと給油できました」という熊本の被災者の声を聞いた。ここはパレスチナのガザ地区か?
石油元売り会社の経営者は何をやってるんだ。日本でガソリンを運ぶためのタンクローリーを一番多く所有しているのは、君たちだろう。全国からそれをかき集めて、さっさとガソリンを被災地に運べよ。
今それをやらなくて、いつやる。
ホルムズ海峡紛争の影響を受け、ナフサ不足からカルビーがポテトチップスなど自社製品のパッケージの印刷を白黒に変更すると発表したのが5月12日だった。
https://tatsukimura.blogspot.com/2026/05/blog-post_13.html
実際にパッケージを変更した商品を出荷し始めたのが5月22日の週。北海道内のコンビニから順次、それらの商品が店頭に並び始めた。
小売店は当然、在庫があるうちは現行品を販売するので、実際に都内の小売店で白黒印刷されたパッケージのカルビー製品が商品棚に並んだのは6月中旬だった。
下記は新聞に掲載されてたカルビー・ポテトチップスの売上推移のグラフである。6月下旬に話題性と物珍しさでポーンと売り上げが急上昇。その後、急降下している。
これはいわば予想通りなのだが、一方で日本経済新聞は「カルビー 白黒ポテチの誤算」という見出しを掲げた記事を掲載した。
マーケティングのマの字も知らない、あきらかな見当違いである。
また、この売上動向をもって、リピート販売につながっていないからとカルビーに対して批判的なコメントをしている(知ったかぶりの)マーケティング専門家がいるが、これもお門違いだ。
マーケティングで一時の熱狂をFadと呼ぶが、これは謂わば突風(Gust)を狙ったマーケティング戦術である。
ナフサ不足で不本意な(本来やるべきでない)モノクロ・パッケージへの変更をやらざるを得ないなら、それでせめて話題を盛り上げて売上を作る、という考えである。
そして、その背景には社会が自社の政策を理解してくれる理由(今回の場合は原油供給の逼迫)があること、そして時間が経てば根本の問題は解決されるとの読みがあった。
黙ってモノクロにパッケージを変更したのでは、顧客が該当商品をただ「みすぼらしくなった」と感じるだけで100%マイナス。それを逆手にとって、カルビーは堂々と事前にアナウンスしたわけだ。
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| カルビーは各商品でしっかり追加分の売上を手にしている |
さらに、水木さんが描くところの子泣き爺 (こなきじじい)のような顔をした農林水産大臣からの「ナフサは足りている!」アピールは白黒化の話題性をさらに高めるのに役立った。
カルビー、Good job!
ガス・ヴァン・サント監督の映画『デッドマンズ・ワイヤー』を横浜で観た。
1977年に米国インディアナポリスで実際に起こった人質事件をもとに作られた作品である。
この事件は、発生時当時、テレビで全米に中継され大騒ぎになったらしい。当時の記録映像を挟みながら、その再現フィルムのような形でストーリーは進んでいく。
不動産投資会社から騙され、土地と全財産を失うことになった1人の男がその会社に乗り込み、社長の息子を人質に取る。テレビで全米に中継することを求め。そしてその不動産投資会社の社長に彼らの不正を認め、謝罪することを求める。
彼が人質を取った手口の1つが、映画のタイトルになっているデッドマン・ワイヤーと呼ばれる仕掛け。ライフルと自分をワイヤーで人質の首につなぎ、もしそのワイヤーが引っ張られるようなことがあれば、銃弾が発射される。 そのワイヤーは人質である社長の息子につながれ、そのため警察も手を出すことができない。
当時の記録映像を挟みながら、その再現フィルムのような形でストーリーは進んでいくのだが、この映画には1970年前後に制作されたアメリカン・シネマの匂いがする。本作のモチーフは犯罪であるが、テーマは犯罪そのものではなく、デッドエンドの状況に追い詰められて犯罪に走らざるを得なくなった若者の心情とその行動が描かれている。
アーサー・ペンの『俺たちに明日はない』やジョージ・ロイ・ヒルの『明日に向かって撃て』とトーンが似ているのはそのせいだろう。この映画の終わり、B.J. トーマスが歌う「雨にぬれても」が流れる。いかにも象徴的なラストだ。
この映画も含めて、いずれも主人公は<犯罪者>(本作の主人公トニー・キリシスは、裁判で陪審員の判決で無罪となったが)なんだけど、彼らが行った犯罪は、社会からは批判されてしかるべきものである一方、映画の観客たちは犯罪を犯した人間の状況と心情を理解し心の中で喝采した。
今なぜガス・ヴァン・サントがこの作品を作ったのか、その理由を推察するのは決して難しいことではないように思う。
帰宅して、少し気になってガス・ヴァン・サントが以前監督した『グッド・ウィル・ハンティング』(1997)を観直してみた。
エンドクレジット、すっかり忘れていたが最後に画面にこんな献詞が映った。
In Memory of
Allen Ginsberg and William S. Burroughs
やはり彼は確信犯だった!
新聞でタカ市総理についての面白い論考を読んだ。
最近の皇室典範改定などのやり方で支持率が低下したとはいえ、なぜいまだ多くの人が彼女を総理大臣として支持するのかに関する考察だった。著者によれば、その理由は「共感」。
「厳しい追求には答えたくない」「議論を尽くす合意形成は面倒くさい」「英語でのコミュニケーションは苦手だけれども、できているように見られたい」
こうした彼女の姿勢は普通なら批判の的となり、国民からの支持率低下につながるはず。ところが我らが総理大臣は、このような欠点ゆえに支持されているとの分析なのだが、なるほどこれは一理あるなと感じた。
もし、そういった指摘が前総理の石破のものであれば、彼は即刻多くの批判を受けることで支持率の低下は免れないだろう。ところがタカ市の場合は、そういった総理大臣としては明らかな問題を抱えるが故に「それってあるよね」と、逆にある層から共感を持って認められているというわけだ。
不思議な現象だが、確かにそうとでも考えなければ、現状についての合理的な説明はつかない。
国の最高意思決定者ではなく、ある層にとっての推しの対象になっているわけで、いやはや、なんとしたらいいのだろう。
総理大臣に対しては、本来、国民はもっと高度な期待を持っても構わないはずなのだけど。
机の引き出しの中の箱に鍵が入っていた。5本ほど。それらは、実は何の鍵なのか自分でもわからないまま、そこにあった。
分からなくなる前にタグなど何か手がかりを付けておけばよかったのだが、そうしたものはなく、どれも何のための鍵かまったく不明だった。
ずっと処分できなかったのは、それらが自分が忘れている何かの「扉」を開くために必要な鍵かもしれない、という思いがあったから。捨てることで、自分が開くことができなくなる「何か」を手放してしまうのでは、といった小さな怖れがあった。小心者なのである。
今日、それらの鍵を全部捨てた。
万一、その鍵が必要だったということが後にわかったとしても、もういいや、と言う気になれたからで、実にすっきりした気分。
何かを切り離したり捨てていく行為は、ちょっとしたなごり惜しさとともに、それに勝る気持ちよさを与えてくれる。
フランスなど欧州のいくつかの国やオーストラリアで、子どもたちの心身の健康を守るため、また性的搾取をはじめとする犯罪被害や各種イジメからの子どもの保護を目的として、SNS利用への年齢制限を設ける動きがある。
背景にある考え方は国によって異なるところがあり、例えばフランスは以下の点を強調している。
・
若者の精神的健康
・サイバーいじめ
・注意力を奪うプラットフォーム設計
・夜間利用と睡眠不足
・学校生活への影響
・親だけでは対応できない巨大プラットフォームの影響力、など
一方、日本では有識者とやらが発する、子どもたちのプライバシーの問題や自由の尊重を理由としたSNSの利用規制へ反対する強い意見があり、具体的な対策がほとんど取られていない。
その代わりに、「学校教育でSNSの正しい使い方を教えるべきだ」とか「プラットフォームに対策を講じるように要請する」といった考えがいまも採用されている。
が、考えてみればいい。学校教育で教えるSNSの正しい使い方? それって具体的に何を示しているのか分かる人がいるのか。教育の現場を惑わせるだけではないのか。そのための明確な「トリセツ」でも作成されているのか。
学校の教師がSNS利用について具体的に何をどう教えるのかを示さず、「相手は子どもなんだから、学校で先生が教えてやれよ」だけでは何も動くはずがない。さらに、もし役人がそのための「指導要領」を作ったとしても、ネットの状況は日々変化しているので対応できるものでもない。
Xやメタなどの米国のプラットフォームが、どれだけ反倫理的な運営を平然と続けているかは日々の彼らの動きから誰でもわかるはずだ。各国の行政からの要請を無視するそれらの姿勢はこれからも容易に変わることはないだろう。
そして日本の有識者の中には「今やSNSは子どもたちの<居場所>なので、彼らのためにそれを奪うわけにはいかない」という考えで規制に反対する向きもあるが、どうにも理解が不可能だ。
自分の10歳の子どもがSNSに居心地のよい<居場所>を見つけ、そのまま成長していくことを想像してみればいい。例えば20歳までの10年間、SNSで過ごした彼(女)が、その後、そこからどうやって抜け出せるとおもうか。
SNSという、優れた(もちろん皮肉だが)ユーザビリティを実現しているツールだからこそ、子供らは中毒的にそこにのめり込み、友達などとの実体のある付き合い(コミュニケーション)ではなく、ただ手のひらの上ですべてを済ましてしまう。
SNSが使えなくなったから、子どもたちが友達との交流手段がなくなるわけでもあるまい。学校以外で友達に伝えたいことがあれば電話すればいい、訪ねていけばいい、遠方であればメールすればいい。
SNSが使えなくなると子どもたちは孤立してしまう。だから居場所としてのSNSが彼らに必要なのだとする考えが、僕にはどうしても理解できない。
ヴァーチャルからリアルへと、むしろ今のうちに子どもたちを取り戻すべきではないのか。
円安傾向が止まらない。タカ市政権が意図してその流れを強化しているのだから、当然と云えば当然だ。
ドルの値段が163円/1ドルを超え、円は1989年以来39年ぶりの安値レベルに落ちた。円の価値が上がる理由が見当たらず、それに市場が素直に反応している。
財源について語らないまま「責任ある積極財政」だとか、「骨太の方針」だとか、意味が分からない。
政府の施策に責任が伴うことは国民にとって自明のことで、わざわざ「責任ある積極財政」を標榜するってことは、これまでは責任というものが存在しなかったという事か?
言葉尻をとらえるわけではないが、「骨太の方針」というのも意味が分からない。骨太か骨細かの区別は一般の国民には関係ない。その方針は、国民が求め、必要としているものかどうかがすべてなのである。
タカ市は太いのが好きなんだろうが、それは自分の個人的な趣味にしておけばいい。
銀行口座に残高がほとんど残っていないのに、クレジットカードでどんどん買い物してたらどうなるか。やがて支払いができなくなり、信用を失い、金を借りることもできなくなり、最後には飯が食えなくなる。
円が売られ続けているということは、すでにそうした兆候に日本の経済が向かっているということ。
気分で選んだとしか思えない具体性の欠如した17の重点投資分野を掲げ、370兆円を越える投資を流し込むことで一部の企業に大金が分け与えられ、大もうけする連中も多々出てくるが、国民経済全体がそれで底上げされるほど簡単なものではない。
タカ市ら今の官邸のものの考え方とやり方では、例のCJ(クールジャパン)シンドロームを繰り返すだけだ。
今年後半、止まらぬ円安によって国内の倒産企業数が増えていくことが懸念される。
39日間に及ぶサッカー・ワールドカップが閉幕した。足かけ1か月以上だった。
一昨年のパリ五輪は全32競技(329種目)が17日間にわたって行われたことを考えると、サッカー1競技でこれだけの日数(五輪の2倍以上の日程)を要したのはなぜなんだろうと考える。商売とすればゲーム数が多く、日数が長ければ長いほど儲けが上がるわけで、そこにFIFAの意図が現れているのだろう。
今回の大会は日本チームの活躍も含め、ゲーム自体は見ていて面白く、実にワクワクさせられたが、その一方、フィールド以外の部分で考えさせられることが多かった。
その1つがアメリカ・チームがボスニア・ヘルツェゴビナ・チームと戦った際に審判から出されたレッドカードの扱いだ。アメリカチームの選手がレッドカードを受けて次の試合に参加できなかったはずのところが、トランプ大統領がFIFA会長のインファンティーノに直接電話してその決定を変更させた件である。
この行為については、既に多方面の関係者やファンからも様々な声が上がっているので、ここでは触れないが1つ気になるのは、そうしたトランプの行為とFIFA側の対応についてのアメリカ国民の反応だ。
YouGov/Economistが、2026年7月10日から13日に実施した全米調査によれば、「トランプ大統領がFIFA会長に電話をかけ、バログンの試合出場停止処分の撤回を求めたことを指示するか」と言う問いに対して、支持する米国人が21%いた。
「大統領が自国のチームを支持するのは当然だ」と言う考え方がベースにあるとされているが、これには首をかしげざるを得ない。
スポーツはスポーツであり、戦争とかではない。
そうした基本すらわきまえていない米国民が、5人に1人いると言うから驚きである。
ただしこれを政党別に見るとかなり違いが現れていて面白い。YouGovのクロス集計では、共和党支持者では賛成が多数派である一方、民主党支持者ではその圧倒的多数が反対の意を示している。
従って、FOXなどでの「大統領が自国選手を守るのは当然」と言う意見は、アメリカ市民全体の考えを反映したものではなく、共和党及びトランプ支持者らの意向を反映したものであることがわかる。
今回の件、アメリカではサッカーファンほどトランプの行動とFIFAの決定について批判的だったらしい。そして一方で、アメリカの一般国民は「よくわからない」と答えた層が多かった。
サッカーを日常的に見ている、いわゆるファン層では政治介入はスポーツの公平性を損なうとか、アメリカ代表の評価まで傷つけたといった意見が非常に目立っていた。
つまりこれらを総合的に考えてみると、サッカーについて詳しく知るわけでもない共和党・トランプ支持者らが歪んだ単純すぎる愛国心によってトランプがやったことを支持し、スポーツにおいても、とにかくアメリカが勝ちさえすればそれでよいと考えていると云うことが分かる。
こうした傾向は日本も同様で、ものごとを深く考えることなく表層的にしか判断しようとしない特定層が社会全体を蝕んでいっている姿が想像される。
勘違い丸出しの高市自民党へ投票した有権者しかり、斎藤知事を飽きもせず再選挙でも支持した兵庫県民しかり、ゲス丸出しの福岡県議会議員を自分たちの代表として選んだ福岡県民しかり。民度で云えば、先の米国民より酷いんじゃないか。
『銃・病原菌・鉄』で、著者のジャレド・ダイアモンドはとても興味深い論考を展開して見せた。
例えば、かつて同じような条件でスタートしたはずの人間が、今では一部の人種が圧倒的優位を誇っているのはなぜかーー。著者によれば、答えは地形や動植物相を含めた「環境」にあるという。
その進化生物学者である彼が、今日の新聞で「米国の強さとは何か」について語っていた。
今度発行される新著で「リーダー」について述べているのと絡め、歴史に残るリーダーがリーダーたり得た理由として「場所とタイミング」を指摘している。つまり、正しい場所に正しい時にいたかどうかということ。
そして、その延長線上で、なぜ米国にめざましい成功を収めた政治家、経済人、科学者らが集中してきたのかを問われ、以下の3つのポイントを挙げている。
1:野心と行動力、リスクテイクが報われるという楽観主義の存在
2:多くの危機を乗り越えた強固な民主主義と資本主義を身につけていること
3:階層がなく、若者や女性か活躍できる社会であること
翻って日本はどうか、米国のような成功者を生む国であることはできるのかどうかというと、かなり心許ない。
とりわけ1と3は絶望的だ。1が無理なのは日本の若い連中を見ていれば納得がいくだろう。とにかくリスクに敏感すぎる。つまり、リスクとは全力で避けるべきものと考えている。だが、リスクがないところには真のチャレンジも成功もない。
3であるが、政治家の集まりを見ても、経済人の集まりを見ても、年配者しかいない。しかもほとんどが男だ。そして、いうまでもなく日本人が圧倒的。
ダイバーシティなんて横文字が振り回されて久しいが、実態は遅遅として変わらない。
皇室はある意味で日本の縮図。皇紀何年とか言って、保守系政治家らは今も間違った歴史観をあからさまに口にするだけでなく、国会では意味薄弱な「男系男子」への妄信的執着が大勢を占めて、皇室典範について国民の総意とまるでかけ離れた決定がなされた。
おやじたちは階層にとどまることに人生をかけ、若者や女性を対等な存在として扱おうとはしない。
それでも大半の国民が真面目にコツコツやることでそこそこのところまで登り詰めたが、それも今後はもう無理。コツコツやるのはAIやロボットの方が圧倒的に得意で勝負にならないんだからさ。
やはり日本はコバンザメ戦略で、米国に追従していくしかないのか。
ただ米国について云えば、ノーベル賞受賞者や誰もが知るような企業経営者(例えばNVIDIAのジェンスン・フアン、スペースXのイーロン・マスクなど)を見ても、移民に繋がる人物の多くが米国で影響力のある大きな成功を収めている。その意味で、今後どうなるかは分からないけど。
皇室典範の改正要綱が、政治の場で概ね了承された。
| 「立法府の総意」とのたまった衆参両院の正副議長 |
暮らしているマンションの掲示板に部屋のリフォームのスケジュールが掲示されてた。通りがけに工程表をチラッと見ると、足かけ4ヵ月にわたる大がかりな工事だ。
リフォームではなく、ほとんどフルリノベーションだ。大変だな、と思ったらその部屋は隣室じゃないか。
何も聞いていないヨ。どうなっているのか、管理組合の理事長にすぐメールを送った。
その部屋に賃貸で暮らしていたSさん夫婦が転居していったのは半年以上前。彼らとは今もお付き合いさせてもらっているのだけど、その室で暮らしていたときは水回りのトラブルなどがあって大変だったらしい。それも一度ではなかったらしく、それが理由で仕方なく転出を決めたと話していた。
その後、その部屋は売りに出た。所有者(個人)が今が売り時だと判断したのだろう。中古マンションの価格が市場でバブルと言えるほど高騰しているうえ、築30年のマンションは今後立て替えなどを睨んで管理費や積立金の上昇や種々の煩わしい手続きが発生するのが目に見えている。
昨年売り出されたときの価格は6,280万円。10年前の相場の倍以上である。強気すぎる値段に買い手がつかなかったのだろう、3ヵ月前には5,780万円に下がった。
と思ったらその後、業者(デベロッパー)がそこを購入し、すぐさま7,490万円の値で売り出した。表面上の値上げ幅は3割だが、実際は叩いて安く仕入れたはずだから、買値から4、5割を載せているのだろう。
しかも、その室はまだリノベーションの工事を始めたばかりなのに、新しい間取り(現状プラス1部屋)でもう不動産売買サイトで売り出している。
まもなく建物の大規模修繕が控えている築30年の老朽マンションを、誰がその金額で買うのだろうか。
不動産の世界は、ぼくの目からはちょっと理解しがたい特殊な世界だ。
東京芸術大学大学美術館で開催されている「日曜美術館50年展」を最終日に訪ねた。
展示会場に入ると、まず目に飛び込んできたのが壁に縦書きされた「ピカソを神棚から降ろせ 岡本太郎」の文字。続いて、「抑制している自分がピカソ見てるとやんなっちゃう 横尾忠則」。
この展覧会が普通の展覧会とちょっと異なるのは、NHKの毎週の番組がベースになっていること。だから、ただ作品を展示しているのと違い、番組でゲストが作品について語った言葉なども紹介されている。それが面白い。
岡本太郎や横尾忠則という、その分野の専門家だけでなく、「日曜美術館」には詩人やバイオリニスト、劇作家、映画監督、音楽評論家など、他分野のゲストが登場し、その日の作家や作品について語るのを聞くのが楽しい。
そうした番組の一片を再現しているのが、今回の展覧会の特徴である。
図録には1976年4月の番組開始当時からのテーマ(取り上げた美術家)一覧が載っている。50年という長年にわたるその企画の継続はすばらしい。
上野は日曜日ということもあってか、ずいぶん賑わっていた。公園には多くの外国人観光客。そしてガード下近くの飲み屋街は、森保ジャパンのブルーのユニフォームでいっぱいだった。
| 石田徹也《飛べなくなった人》1996年 |
4ヵ月程前、国内のある学会に退会の旨を連絡した。
その後、何も言ってきてなかったのが、つい先日になって<退会が認められました>とメールを送ってきた。なんというか、日本の学会はどこまでもお役所みたいだ。
振り返ると、ぼくはどうも日本の学会とはあまり相性がよくなかった。
初めて学会に参加したのは30代後半になってから。外資系企業のマーケティング部署で働くかたわら博士後期課程の大学院生でもあった時、知り合いから商業系のある学会を紹介されて入会した。
初めて参加した学会、そこに最初に登壇した人物は関西のある国立大の経営学部に所属する助教授で、彼女は研究報告の冒頭でこう言い放った。「企業には攻撃型の企業と守備型の企業があります」
「おいおい、ちょっと待てよ、なんだその二分法は」と仰天したのが、最初の感想。
企業は人間と違って、生まれながらの不変なパーソナリティを持っているわけではない。市場において攻撃的な行動をとることもあれば、状況に応じて守備(防衛)的な行動をとることもある。
どうするかはその時の競争状況と、現在の戦略や資源などとの兼ね合いで決定される。 A男さんはいつも物静かな性格で、B子さんはつねに饒舌なタイプといったアナロジーは企業には当てはまらない。
企業をマーケットリーダー、チャレンジャー、フォロワー、ニッチャーに分けて考えるようなことはある。が、それはその時の特定業界における市場占有率によって取るべき基本戦略を類型化したところからの発想に過ぎない。
彼女の冒頭の発言を聞いておったまげ、すぐに会場にいた周りの参加者の反応が気になり、ぐるりと周囲を見回した。そこでまた烈しく驚いた。
さっきの決定論的な発言に対して首を傾げている人が一人もいなかったからである。みんな何もなかったような涼しげな顔で聞いている。「ダメだ、こりゃ」と思ったのが、2番目の感想。
ビジネスの現場でのたうち回ったことのない安穏な大学人の様態はこうなのだと実感して、自分とは相容れないことを痛感した。
これが一番最初の学会での記憶。そしてぼくが聞いた一番最初の研究報告での出来事である。これが良かったのか、良くなかったのか。
以来、学会活動への目は国内ではなく海外に自然と向くようになった。だから、コロナ禍で海外渡航ができなかった時期を除いて、学会発表はほとんど海外での国際学会で行った。
そのため国内では学会内の何々一派といった集団には一切タッチすることなく、毎回、外国でいろんな国からその都度やって来た研究者たちと仲良く面白くやり取り(飲み食い、小旅行を含む)ができたわけだ。
思い返せば、すべてはあの時の彼女のあの発言と、それに対する周囲の大学人の無反応(アパシー)から始まった。
昨日から今日にかけての世界のトップニュースは、アメリカとイランが戦争終結に向けての条約への締結をしたというニュースだ。
報道では14項目の合意がなされているとされ、特に第8項目の「イランは核兵器製造せずと改めて表明(最終合意で対処)」が注目されている。
米国の高官が読み上げたその正式な内容は「イランは核兵器を取得・開発しないことを再確認する」となっている。
これって気にならないか。
英語で何と言ったのか調べたらこうだ。"The Islamic Republic of Iran reaffirms its permanent commitment not to produce or acquire nuclear weapons."
イランは核兵器を「製造」も「取得」もしないとなっているが、これでは例えばロシアや中国から核兵器を借り受けた場合はこれに抵触しないことになる。
またイランは、この項目で核兵器を「使わない」とは言っていない。さらに同じ第8項目の後半は次のようになっている。
"The Islamic Republic of Iran and the United States have agreed that the fate of enriched material and the fate of all other mutually agreed nuclear-related issues, including Iran's nuclear needs, will be adequately addressed in a final agreement."(イランと米国は、濃縮核物質の処遇およびイランの核エネルギー需要を含むその他の核関連問題について、最終合意において適切に解決することに合意した)
ここでの「適切に解決」が何なのかは不明のままである。
イラン側は、とにかく早く決着をつけたくて仕方ないトランプの足下を見て交渉をうまくやった。というか、米国高官らの対応があまりにお粗末すぎるのが、よその国の事ながら気にかかる。
トランプはこの合意で一件落着と思っているようだが、これから一悶着あるのは間違いない。
講談社がインドで出版社を設立すると発表した。
彼らはその目的としてふたつあげている。ひとつは「(インドの)全人口は14億6300万人以上、そのうち10代〜20代のいわゆるZ世代だけでも約3億7000万人もいる」であり、もうひとつは海賊版対策だという。
さてその通り、うまくいくか。
講談社は以前からインドに社員を置いているが、同社の今回の発表内容を読む限り、それでもってインドのことを分かっているとはあまり思えない。
確かにインドの人口は中国を抜いて世界一の14.6億人という途方もない数だ。しかし、インドは一つの国というより、その文化や言語の観点から見れば28の州がそれぞれ異なる別個の国のようなもの。
言葉だけで数百の言語・方言がある。もっとも多く用いられているのはヒンディーだが、全体の半分に満たない。
ヒンディー語(約43.6%)
ベンガル語(約8.0%)
マラーティー語(約6.9%)
テルグ語(約6.7%)
タミル語(約5.7%)
その他
英語が曲がりなりにも読める層は全体の1、2割と推定されている。そして、現地でいま講談社の漫画を激安の海賊版で読んでいるのは、そうした英語版読者だ。
出版社が版権を売った米国の出版社が発行した漫画雑誌がインドに輸入され、その店頭価格が高い(読者にとって)のですぐ海賊版に化けてる。もとの一冊をスキャナーで読んでデータ化するだけなんだから、簡単に行える。
おそらくインド政府はマンガの著作権(それも外国のIP)の保護などさほど関心はないだろうし、スキャンする人たちのモラルや読者の懐具合(小遣い)といった状況も合わせて考えれば、講談社の担当者がいくら「手に取りやすい価格で正規品を売ることで海賊版を減らしたい」と言っても、その撲滅は絶望的に思える。マンガに正規品も海賊版もない。
しかも、講談社がインドに設立する新会社は「紙」で出版すると宣言している。だからなのか、あるいはその方策の理由なのか、大日本印刷がインド法人の共同設立者になっている。
あえて自分の手足を縛った、デジタルをやらない(できない)体制で出版事業を現地で興す発想が分からない。
紙のマンガ雑誌(もの)をどうやって毎週毎週、広大なインドの書店やキオスク(そうしたものがあればの話だが)に配本するのか。ちなみにそれは日本のように返本可能か、それとも売り切りか。
コンテンツ開発、ターゲット設定、商流管理など不安要素しか浮かばないのだけど、講談社の経営者は何か秘策でも持っているのだろうか・・・。
同日、キッコーマンとカゴメがそれぞれインドでのビジネス強化を進めるという話を聞いた。こちらには期待が持てるのだが。
本をキンドルやiPadなんかで読むことが日常の中で普通になっている。
日常の中でといったが、とりわけ風呂の中で読むのは防水仕様のキンドル・オアシスじゃないと具合がわるい。
その一方で、写真や絵が見開きで印刷された本は、やっぱりデジタルではなく紙に印刷された本でゆっくり眺めたい。
先日知り合いからもらった『ニューヨーク文学風景』(原書房)もそんな一冊だ。ニューヨークのマンハッタンとその周辺にある有名書店や図書館、作家ゆかりのホテルやレストラン、詩人や作家たちが集ったバーやカフェ、さらには劇場など文学作品に関係する施設が写真とともに紹介されている。
NYにはそれら以外にも気に入った書店はたくさんあって、どの店も知の迷路に迷い込ませてくれた。本屋というのは、不思議な空間である。
そして、それは日本のいい書店も同様。ぼくの日常の動線上にある東京や横浜にもそうした店はたくさんあるが、京都の四条烏丸にある大垣書店が最近のお気に入り。
本屋が完全になくなることはないと思うけど(その前に人口減少で日本人がいなくなる?)、すでに現実になっているように、書店が一軒もない町や自治体がますます増えていく傾向は変わりそうにない。
ネットでも本は買えるし、デジタルでも読めるんだけど、たまに書店のあの空間に身を置いて、いろんな本と対峙する時間を持つことを失いたくない。
いい本(自分にとって価値がある本)はやっぱり買う前に棚から手に取って、目次を眺めたり、まえがきを読んだりしないと分からない。ただでさえ出版ビジネスは粗製濫造になっていて、最近は本の広告内容だけだと買ってから「なんか違う」と思うケースがしきりだ。
町の本屋がなくならないようにするためには、人が本に対して愛着をもっと持つようにすること。そのために著者と出版社にはいい本を作る努力をもっとしてもらいたいし、取次はベストセラー狙いの本だけでなく、良書をきちんと広く配本すること、本屋はそれをしっかり来店客に伝えてほしい。
そして、顧客は喜びを持ってそうした本を買い、読む。本の値段は、日本では典型的なデフレ価格だと思う。つまり、安すぎるのだ。これも粗製濫造の影響である。
新味のカップ麺を売り出すかのように、ほとんど工夫のない本ばかりが新たに作られているような印象がある。トータルで書籍の販売冊数は減少傾向にあるのに、出版点数だけは増えているんだから。
なんとかどこかでネジを逆に巻き戻さなければ、大変なことになりそうだ。
「週刊文春」と文春オンラインが、しつこく(もちろんいい意味で)高市総理の地元事務所が2月の衆院選などで他候補を誹謗中傷する動画を大量に作成・発信した件について報道している。
それによると地元の高市事務所の公設秘書が動画作成を依頼したことは明らかだろうと思われるのだが、高市総理は一連をすべて否定している、というか正しくは、認めていない。
そうしたことを陣営として行ったのかどうか問われたときは、行ったとも行っていないとも回答せず、「私は秘書を信じる」と答えた。回答をさけた「はぐらかし」だ。
高市総理が国会質問で「週刊文春」に掲載されたその動画作成に関わった人物の証言の是非について問われたとき、彼女は雑誌に書かれたその証言について語ることなく、「面識のない方の名誉を傷つけることは申し訳ない」と、これまた完全に的をずらした答えを繰り出した。
確信犯だ。
今回の事以外にも、こうした悪質な政治家の「はぐらかし」を目にすることがある。兵庫県知事の斎藤や東京都知事の小池の顔がすぐ浮かぶ。
兵庫県知事選にかかわる事件では、県議会議員や県職員が自死するということまで起こったにもかかわらず(というか、そうした重大な事柄が起こったからこそ)、それらへの関与を問われた斎藤は、自身が「関係していない」とは明言せず、「関係しているという認識はない」という表現に終始した。
後に捜査で事実が明らかになったときのことを考えての逃げ道を用意している。「関係していない」と言ってしまうと偽証したことを問われるが、「関係しているという認識はない」なら、認識が違ってました、と云うことにして逃げ切ろうというわけだ。
カイロ大学首席卒業という学歴の正否を問われたときの小池の対応も、また呆れるほど同類。
なぜ政治家というのはこうもずる賢いのか。そして、日本のメディアはなぜそうした稚拙なはぐらかしをしっかり糾弾しないのか。
たぶんだけど、その背景の一つには、そんなこともういいじゃないか、彼女(彼)は総理(県知事、都知事)にまでなった人なんだから、という日本国民の、ありがたくも寛大過ぎる勘違いした心の広さがあるからかもしれない。
自分のある活動をエクセルのシートを使って記録をとり続けている。
月が変わり、新しいシートを作ろうとしたところ・・・できない。既存のファイルを開くことはできるが、修正も印刷も保存もできなくなった。Microsoft 365のアカウントが失効させられているかららしい。
忘れてたが、勤務していた大学が管理するソフトだったからだろう。仕方ない。
それにしても退職2ヵ月で使えなくなるなら、それはそうと事前に知らせておいて欲しかった。2ヵ月という猶予期間の長さの問題ではなく、べつにそれが退職と同時でも構わないけど、いつから使えなくなるのか知らされていれば事前に対応ができていたから。
ということで、表計算の新しいシートをまさに作成しようとしているところで、さてどう対応しようかと思案してしまった。
方法はいくつか。個人でマイクロソフト365を契約して利用するか、ソースネクスト製などの代替Officeアプリを購入するか、Googleドキュメントで代用するという手もある。
個人でマイクロソフトと契約して利用者IDを購入すれば、これまで通りの使い勝手で継続利用できる。だが私は、昔からマイクロソフトという企業は嫌い。
どうしようかと考えた結果、この際、新しいやり方(ちょっと大袈裟だけど)にチャレンジしようとMacに標準装備されているiWork(Pages, Numbers, Keynote)を使ってみることにした。何と言っても無料だし、この場でスグに起動できる状態なんだから。
iWorkを使ったことはない。これまで会社でも大学でも、そこではMS-Officeが業務上の標準とされていたために、習慣的にそれに否応なく倣っていたからだ。
ちょっとおっかなびっくりでNumbersを起ち上げた。当然、最初は操作に戸惑うが、そもそも表計算のアプリで必要なことは決まっているので、求めるボタン(コマンド)がどこにあるのか推測しながら探しさえすれば、たいていは見つかるというもの。
そうして、15分ほどでiWorkのNumbersアプリで表計算のシートを初めて作成し、プリントアウト。細かい仕上がりの調整の仕方はまだ分からないが、それはどうでもいい。そのうちに分かるから。
それより、これまでの長年にわたる一つの惰性から抜け出たように思えて、嬉しい気分。
電通がマーケティング・リサーチを仮想空間上でできるようにするらしい。
仮想空間上と云ったのは、生身の人間ではなくAIがこしらえた仮想顧客(仮想人間)のことで、これまでの調査で必要だった調査対象者のリクルートが全く不要になる、らしい。
これまで調査でもっとも大変だったのは良質なサンプル(回答者)をタイミングに合わせて集めることだった。コストがかかった。
早く、安くできると謳うネット調査は実は形だけで、一般的にはノイズが多すぎて残念ながら調査といえる代物にはない。ましてやマネジメントが経営上の判断に用いるのは危うすぎる。
https://tatsukimura.blogspot.com/2023/03/blog-post_6.html
それをすべてヴァーチャル人間に切り替えちゃおうというわけだな。
電通は、彼らの説明によればこれまで収集した顧客に関するデータをもとにAIが750種類の人格を作成し、それをもとに顧客調査ができまっせと。
彼ら、というかそれらは生身の人間じゃないから「質問や聞き直す回数に上限はなく、持病などの悩みから広告などに関するネガティブな感想まで、聞きづらい本音も回答を得られる」のがウリだとか。
だけどね、ちょっと考えてみようよ。例えばだけど、持病や性癖、家庭状況、自分が抱えている悩みやコンプレックスといったプライバシーに関わるようなことでも、感情を交えずあっけらカーンと答えてくれる被験者が被験者たり得るのか。
どうも違うんじゃないのかね。だって、そんな人間、世の中にはいないんだからさ。
それと、電通は750種類の人格をそれぞれ1つのサンプル(ペルソナ)として売って課金する商売を考えているんだろうけど、AIがつくり出した仮想顧客なんだから、本当はひとつ(1人)で済むはず。
1人で750の人格を備えている多重人格者、といったら分かりやすいかな。ダニエル・キイスの『24人のビリー・ミリガン』という興味深い本があったけど、それと同じような感じだ。
仮想顧客の被験者「電通太郎さん」は男であると同時に女であり、大人であると同時に子どもでもある。都内の金融機関に通勤するサラリーマンであり、田舎の田畑で毎日汗を流す農家でもある・・・。つまり電通太郎は、750人分のペルソノが備わっている超重度の解離性同一症の人物と考えれば分かりやすいだろう。
だとすると、調査はすべてn=1で済む。その1は<電通太郎>だ。でもそれじゃ商売にならないから、生身の人間のイメージに合わせて個々に切り分けて料金設定するんだろうな。
今後、AIの能力を使ってマーケティングのやり方はドラスティックに変わっていき、本来の意味でのマーケティング・オートメーションが実現するようになる。
1人か2人の真に優秀なマーケターがAIエージェントを扱うことで、市場分析やマーケティング・プランの作成などすべてのマーケティングの仕事をこなすイメージだ。
企業側はもう何十人といったマーケティング部門を構える必要はなくなる。真に優秀なマーケターとマーケティング・センスがあるトップ・マネジメントがいて意思決定ができれば、それで済むのだから。
夢物語ではなく、近い将来、確実にそうなるだろう。
梅雨に入る前に水芭蕉を見ようと尾瀬へ出かけた。
戸倉の宿の主人からは、今年は例年より水芭蕉が咲き始めたのが早く、もう終わりの時期に入っているようだと言われたが、湿原を方々歩いてみるとまだ群生している場所がたくさんあった。
今の季節の花は、水芭蕉とリュウキンカが中心。どちらも風情を感じさせるいい花だ。
| 湿原に広がる水芭蕉 |
| 鮮やかな黄色いリュウキンカの群れ。向こうに至仏山 |
尾瀬ヶ原は標高1400メートルの高原。火山活動をもとに、何万年もの時間の経過によってこれだけの広さの高層湿原が生まれ、そしてそれが残っているのは考えてみればスゴいこと。
とにかくだだっ広く、それだけ空も広い。ふと見上げると、太陽の周りにまるく虹がかかっていた。日暈(ひがさ)だ。ハロ現象ともいわれる。今日は天気が良かったわりに湿度が高いなと思っていたが、それが影響したのだろう。
| 至仏山 |
最近、ジャズのレコードを聞くことは一部の奏者を除いてはほとんどなくなっていたが、ソニー・ロリンズが亡くなったという記事には思わず目を止めてしまった。
ふと、野球のグローブのような、彼のあのでかい手の感触を思い出したからだ。
90年頃、彼は日本に公演でよく来ていた。ある時、公演後に彼と話をする機会があった。そして最後に、握手して別れたときの、彼のその手はあまりに大きく、肉厚で、ゴワゴワしていながらも柔らかかった。
帰り際、彼のパワフルで豪放磊落なプレーはこの手があってのことなんだろうと、妙に納得したのを憶えている。
Saxophone Colossus(サキソフォンの巨人)という歴史的な名盤がプレステージから出ているが、彼自身が巨人だった。
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| 新聞に載った彼の訃報とブルーの名盤 |
昨日のブログ記事に対して知り合いからコメントがあった。
名古屋周辺の大学で教えている彼女曰く、「こちらもAIで対応してます」。
学生のレポートはクラウド上に提出させ、それらはすべてAIに採点評価させて、フィードバック用の講評もAIに書かせているとか。
学生に負けず、教授の側も作業をすべてAIに代行させているわけだ。
これでは狐と狸の化かし合いみたいだナ。
小説の新人賞などへの応募に、AIを使って書いた作品が紛れ込むようになっている。
AIに誤字や誤表記を指摘させるといった校正作業ではなく、そもそものアイデアをAIに次々と出させ、プロットを考えさせ、小説自体の執筆をやらせる。誰でも今日から作家デビューができるわけだ。
すでに多くは人間が書いたものかAIが書いたものか、編集者や小説家など活字のプロでも見分けがつかないようなレベルに達しているという。
今年の星新一賞の選考では、一般部門受賞作4作品のうち3作品がAIを利用して執筆されたAI小説だと判明した。もう何が何だか、である。
以前勤めていた大学の研究科では留学生の選考は書類審査のみで、そこに書かれていることが事実かどうかを見分けるのは容易ではなかった。学歴については最終校の卒業証明書と成績証明書を添付することになっていたが、それ以外は何もエビデンスがなかったからだ。
受験者が勤務していたという企業もそこでの職名もすべて自己申告のみ。ビジネススクールへの志望動機や自己分析をもとにした自己アピール文は、本人が書いたものかAIに書かせたものか判別はつかない。
また、応募書類は出願者の顔写真を貼る仕様になっていて、貼付されたもの中にはAIが作ったとしか思えないようなツルンとした美人顔、ハンサム顔がやけに多かった。面接審査をやるわけではないので、それが本人かどうかなど分からない。
そうやって入学した彼らは、レポートも修士論文も同じようなやり方で済まそうとするに違いない。それが違反行為だと分かっていても、一度憶えた楽ちんさには勝てないものである。
一方、AIが瞬作したレポートや論文を大学側の人間はどんな顔をしてそれらを読み、評価するのか。
せめてレポートを教場での筆記試験に変更するくらいのことはやらなければ教育機関として成り立たなくなっている。
星新一賞の審査員を務めたノンフィクション・ライターの最相葉月さんは、「たとえAI小説がどれほど面白かったとしても、私は人間の内から生まれた言葉こそが尊いと思う。(中略)AIの執筆した文章は、もう読みたくない」と、今後は審査員を引き受けないらしい。
最相さん同様、ぼくもAIが書いた学生のレポートや論文を読まされるなんてまっぴらご免だった。いくらそれが構成や文章がしっかりしていて、ストレスなく読めるものであったとしてもだ。
共同通信が、3月3日から5月3日(憲法記念日)までの2ヵ月間のXへの書き込みで「憲法」と「9条」の双方の言葉が含まれるものを集計した。
その数は約230万で、昨年同時期に比べ21倍だったと報じた。共同通信はそのことで「9条」への国民の関心が高まっている、と論評している。
21倍という数字をもっとも重要なファインディングとしているようだが、そもそもXへの書き込み全体が同時期にどのくらい増えたのかを考慮しなければ適切な推量はできない。
なのだが、ここで言いたいのはそうしたことではなく、彼らが使っている「投稿」という言葉の是非だ。
投稿とは辞書によれば「新聞・雑誌などに掲載してもらう目的で自分の原稿を送ること。また、その原稿」とある。なるほど、その通りだろう。
ではXへの書き込みは投稿か・・・? その多くは署名すらない。まともな新聞や雑誌が、書き手の名前も住所もなんにも分からない文章を果たして投稿として扱うだろうか。
変名する前のXはTwitter、それは小鳥のさえずりのこと。そうした勝手なつぶやきは、投稿とは別のもの。誰が言ったかすら分からないようなものは公衆便所の落書きと同列だ。
そんなものをメディアが「投稿」などと称して、さらにはご苦労なことに集計結果など発表するからややこしくなる。本来は、ただ無視していればいいだけ。
映画『サンキュー・チャック』は3章(3部)仕立てで(それは見終わらないと分からない)、まず第3章から物語は始まる。
世界が、この場合、比喩ではなく文字通りの世界が、すなわち宇宙そのものが消滅して終わりに向かう。これが映画で描かれたこの物語の結末だ。
厭世的などというレベルを越え、完全にぶっ飛んでいる。途中でテレビにカール・せーガンがかつてホストをしていた番組が流れ、そこで彼が宇宙カレンダーについて語るのはご愛敬か。
物語はその第3章の終わりで終末の現れを示した後、第2章、第1章へと謎解きのように話が展開する。これ、映画上の演出かと思ったのだが、スティーブン・キングの原作小説がそうした構成になっている。
主人公のチャックは平凡な会計士。有名人でも何でもない。そもそも米国では、「会計士」とは真面目で面白みのない平凡な勤め人の典型というか、象徴として描かれる。日本では役所勤めの公務員といったイメージだ。
そのチャックが病気で39歳で亡くなる。キングは、その死を宇宙、つまりこの世界全体の消滅と同列に扱い、描いている。彼は、ことし79歳。自分が考える「人生とは」をその作品のなかにいっそう滲ませている感じがする。
監督のマイク・フラナガンは、原作となった短編をベースにしながら、そのあたりを丁寧に丁寧に伏線を重ねながら一本の映画にした。
第2章、ブリーフケースを下げて街中を歩くダーク・スーツ姿のチャック。周りの誰も目を留めることのない平凡なビジネスマンが、たまたま出くわしたストリート・ミュージシャンが叩くドラムスの音に何かを感じて(それが何だったかは続く第1章で示される)、その場にたまたま居合わせた、ちょっと訳ありのダンス好きの女性とペアでダンスを始める。
その軽快なダンス(とドラムス)がすばらしい。この映画の白眉のひとつ。
ところで第1章で、幼い頃に交通事故で両親をなくしたチャックを親代わりとして育てた祖父母の祖父役を演じたのが、あのマーク・ハミルだったというのは、エンドロールを見るまで気付かなかった。このキャスティングも悪くない。
新横浜駅前にある三井住友銀行の支店へ行く。
2階にある貸金庫室に入ろうとしたが、どういうわけか扉が開かなかった。カードキーを何度も通すがエラーが出続ける。時刻は3時前、その日はそこで用を済ませてすぐに他の銀行にも行かなければならなかった。(なぜ銀行の窓口は今も3時閉鎖なのか)
貸金庫室の入口で5回目のエラー表示を見た頃、隣の部屋から行員の女性が出てきた。「異常」の通知を知ったのだろう。彼女は私のカードキーを試した後、ちょっとお借りしますといってそれを持ってオフィスに入っていった。
しばらくして「貸金庫借用に関する申告書」という用紙を持って出てきた。これにサインしてくれ、という。そうしないと貸金庫室へ入れないらしい。??? 利用料は払っているのに。
書類にざっと目を通し、ひっかかった点を彼女に尋ねたが、説明が説明になっていない。だけど時間がないのでとりあえず種類にサインをし、コピーをくれるよう頼んだ。
だが一月経っても回答がない。
回答できないのか、回答したくない(回答を残したくない)のか知らないが、困ったものである。
映画『オールド・オーク』は、英国の名匠ケン・ローチが2023年に製作した作品。86歳になる彼のおそらく最後の作品。彼の作品はどれも市井の人々を深くとらえ、社会を低い位置から水平に眺めているのが特徴だ。
2023年の作品だが、日本では配給されないままだった。それが先週末から国内の映画館で公開されるようになった。まるで今のこのタイミングを待っていたかのようだ。
この作品の舞台は、2016年の英国。EUを離脱するかどうかで揺れていた頃の英国である。
イングランド北東部の、かつては炭鉱で栄えていた町。その後閉山とともに廃れ、人口も減少をつづけるその町がシリアからの難民を受け入れることになったことから起こる摩擦と対立を描いている。
「オールド・オーク」はその町に一軒だけ残ったパブ。決して繁盛しているわけではなく、細々と、しかし町の人たち(特に元炭鉱労働者の男たち)が息抜きと仲間との繋がりを求めて集う唯一の場所である。
そこを舞台に、男たちの口からかつての町の繁栄とその後の衰退、彼らが呼ぶ「よそ者」への嫌悪が伝わってくる。経済的に回復の光が見えないなかで、なぜ難民に自分たちの税金から医療や公共サービスが提供されねばならないのかといった英国人住民の不満と怒りが描かれる。
人は自分がうまくいかないと、その原因をどこか他の所に見つけようとするものだ。その町の衰退もそうだ。サッチャーリズムの流れの中での政府の方針転換と地方の切り捨て策によってそれまでの産業が断たれ、人々の働き場がなくなり、学校が消え、教会も閉じた。そして多くの人々、特に若者は町を去って行く。出て行くことができない人たちがあとに残る。
未来のない閉塞感と不安が人々をおおっている。人口が減少している、そうした家賃も安い地域は政府にとって格好の難民の送り先になる。
もとからいるその地の住民は、「よそ者(荷物)を押し付けられた」と感じて怒りを募らせていく。そして、その前からさびれ続けていた町であるにもかかわらず、難民らが自分たちの町の衰退の原因だと考えるようになる。
ケン・ローチはこの映画で、難民を優しく迎えましょうとか、仲良くしましょう、助けてあげましょう、と言っているのではない。もちろん彼らを排斥した方がいいと言っているわけでもない。問題を解決するための特効薬などないことを理解した上で、少しずつ理解し合って歩み寄るしかないとそっと語っている。
映画の中では、人々が食事を作り、一緒に食べるシーンが何度もでてくる。わかり合うためのもっとも簡単で効果的な方法がそれなんだというメッセージだろう。同じ釜のメシを食う、というのは国を問わず共通なのである。
もう一つ、この映画の制作者が語っている大切なこと。それは、敵は目の前にいる相手ではないということ。その後ろにいる、大きな力をもった連中こそが本来の敵であることを忘れないようにしなければと訴えている。
報道によると、カルビーは「ポテトチップス」「かっぱえびせん」「フルグラ」など計14商品について、印刷のインク色数を2色に変更するという。
中東のホルムズ海峡でタンカーが足止めされていることでナフサが手に入らなくなっているのが原因。
トランプよ、お前のせいで俺たちのポテチから色が消える! なんとかしろよ。
上の写真で分かるとおり、モノクロのパッケージのポテトチップスは素っ気なくて、まったく旨そうじゃない。カルビーの経営者だって販売のためにはパッケージが重要過ぎるほど重要だってことは百も承知のはず。
推測だが、これは原油の備蓄レベルはまったく問題ないとか、ナフサの調達も手配が付いてるとか、高市が官僚の書いた答弁書だけ見て、相変わらず現実を見ずにいる状況へのカルビーの怒りの姿勢の表明じゃないのかね。
そういえば、先日近くのスーパーで買い物をしたとき、いつものようにレジ袋の口をセロハンテープで留めようとしたら、ない。セロテープがないのだ。右となりを見ても、左となりをみても、テープホルダーにセロテープが一つもない。
通りがかった店のお兄さんに言ったら、「すいません。原油不足が原因だそうです…」とか。
明らかにすでに国民の生活に影響が出ている。
先日、似た投稿をしたばかりだが、同様のメールについて。
国民年金の保険料が未納で、いついつまでに何がしかの金額をPayPay決済しなければ財産差し押さえすると書いたメールが。
荒唐無稽なのは明らかだが、このメールを受け取った人のなかには慌てて決済用のリンクをクリックしてしまう人もいることだろう。それがもし0.01%だとしても、10万人に発信されていればその数は10人になる。
実際の被害者の数は知らない。だが、こうしたメールはそれなりに「効果」を発しているから、なくならないのだ。
下記は今回送られてきたメールの一部。
【最終納付期限】までに全額の納付が
確認できない場合、予告なく貴殿の財産
(預貯金、給与、不動产、自動車、有価証券等)
の差押えを執行いたします。
「 不動产」の「产」は中国大陸で用いられている簡体字なので、発信元がどこからかはこれで推測がつく。
簡体字を含むメールは一切受信しないというシンプルな設定ができればと思うが、どうすればいいのだろう。こうした機能をメールサービスはデファクトでつけて欲しい。
個人的には中国人の知り合いや教え子はいるが、簡体字を含む文章を書いてくる人はいない。また研究者なら英語で連絡してくるはずだから、必要なメールを失うこともないはず。
先月半ば、近くの年金事務所を訪ねて年金受給のための手続きをしたが、その際その時点では何点か不明なまま残っていた点があったので、それらを確認のために電話をかける。
そうすると音声案内につながり、指示通りボタンを押すと「年金ダイヤル」という相談センターに回線が繋がった。
不明点が明らかになれば相手が何でもいいので、出てきた相手に基礎年金番号を告げる。それを相手が知らなければ状況の確認はできないと思ったから。
すると、まず要件を言えと。ならばとこちらの要件を伝えると、基礎年金番号を言えと。「さっき言ったじゃないか」との言葉を呑み込んでもう一度伝える。
「本人確認をします。そのため6点お訊ねします」という。ああ、金融機関なんかとの通話の際にいつもやらされるアレである。が、普通は4点確認なので、2つほど多い!? 面倒くさい。
プラスαの2点は、配偶者の名前と誕生日だった。だが、なぜ配偶者のことを聞くのか。しかも、僕が自分のフルネームを答えているのに、「配偶者のフルネームは?」と訊いてくる。
「フルネームですか」と僕。「はい、奥様のフルネームです」と相手職員(のちに職員ではないことが判明するが)。
ふと選択的夫婦別姓のことが頭に浮かび、特殊法人日本年金機構はひょっとして選択的夫婦別姓を支持しているのか訊いてみた。
しばしの沈黙の時間。明らかに回答に困っているような様子。「事実婚という関係で、苗字が違うというケースもありますから」と言ってきた。
そりゃそうだろうけど、だがそうしたことと僕の年金支給額が関係するかというと、関係しない。日本年金機構の老齢基礎年金と老齢厚生年金は、受給者本人の加入記録・報酬額・加入期間によって決まるもので配偶者の現在の収入や所得によって減額されることは通常ないのだから。ましてや事実婚は話の筋から完全に外れている。
なので、あらためてなぜ配偶者のフルネームを確認するのか訊ねたのだけど、結局「そうするようになっているので」としか答えが返ってこない。
埒があかないので、あなたは日本年金機構から仕事を受託しているコールセンターの方ですかと訊ねたら、すんなり「そうです」と。自分たちは与えられたマニュアル通りにやっているだけなのですと。
なるほどね。最後に年金機構本部の連絡先を尋ねたら、知らされていないと言われた(本当かどうか分からないが)。
昨日は国民健康保険料が未納だという偽督促メール(Yahoo!メール)について書いた。その続き。
今日来たのは昨日と同じデザインフォーマットを用いたメールで、年金の支払いが滞っているというものと、住民税が未納だというもの。どちらも「差し押さえ」が迫っていると脅かす文言が入っている。
ちょっと文面に目を走らせれば、内容はあり得ないことだと分かる。例えば、市民税が支払われていないというメールの発信者名は、〇〇市ではなく「市区町村役場」なんだから。
こんなものは偽(詐欺)メールに決まってるわけで、AIが判別して配信しないようにすればいいのに。簡単にできることをなぜやらないのかね。
今日来たこれらのメールとともに表示されてるのは、サントリーの広告だ。見方によっては、サントリーがこうした詐欺メールを推奨しているように見える。
なぜこんなことが起こるかといえば、内容が何であろうがトラフィックさえあれば広告収入が入るからとYahoo!が考えているからかね。
相変わらずしょうもない詐欺メールが送られてくる。
届いたのは、「【督促】国民健康保険料 纳付通知」という件名のメール。
「纳付」が中国語特有文字になっているところから、中国人が送ってきたメールだと一目で分かる。
さらに、健康保険料が未納だと言いながら、「未納が続く場合、財産の差押えになる場合があります」と書いてある。
通常、こうしたメールは迷わず消去するが、それも面倒になってきたので中国から送られてきたメールはすべてブロックする設定をしたいのだが、どうしたらいいのだろう。
それにしても、こうしたメールに広告を出稿する企業があることにも呆れる。広告掲載料を取られて、こんなページに露出がされていることを知らないだけなんだろうけど。
大型連休中の雨の一日。このところ音楽はストリーミングで聴くことが多いのだが、今日は気分を変えてCDでも聴いて過ごそうかと思い、BoseのCDプレーヤー(Wave Music System)にディスクを挿入する。
フロントローディングのCDスロットに何か軽い抵抗感があったが、かまわず押し込んだら完全に吸い込まれる直前で引っかかってしまった。
引き出すことも押し込むこともできないままで、「CD Error」の表示があらわれる。年季の入った機器なので、ついにその時が来たかと…。
が、挿入した音楽CDだけは取り出しておきたいと思い、対応法をネットで検索してみたーー。
Bose Wave Music SystemでCDが出ない場合、まず
①電源プラグをコンセントから抜き、1分以上待ってから差し直す(ソフトリセット)。
②それでも出ない場合は、本体を逆さまにして振る。
③または、Ejectボタンを押しながら前面スロットを掃除機で吸うと排出されることがある。
とある。
「逆さまにして振る」とか「掃除機で吸う」とか、ホントかよ、と思いつつやってみた。
①ではダメで、②を試みる。本体を抱えて上下にエイヤッと振ってみると、おおっ、ディスクが半分ほど出てきた。
それを引き出し、その後、電源プラグをコンセントに差し直して「処置」は完了。
なんだかすごく原始的な解決法に笑ってしまった。
大学を退職してひと月になるが、今もって大学関係のいろんなメールが届く。
先日、ある教授から総長選に候補として出馬することにしたのでよろしく、というメールがきた。
なぜ投票権のない僕にまで選挙についてのメールを送付してくるのかと思うとともに、メールを読んで思わず頭を捻ってしまったのは、彼が総長選へ出馬することにした理由として前総長から強く推されたからと書いていたこと。
その前総長が退任したのは2018年で、今から8年前である。企業でも前社長や前会長が院政を敷き、自分の息のかかった人物を組織のトップに据えたがるというのがあるが、さすがに退任して8年が過ぎているのに影響力を示そうとするのには驚く。
18、19という歳で大学に入学、学部卒業後はそのまま修士の課程に進み、指導教授の覚えめでたければ博士課程に留まり、そのレールに乗ったまま助手から専任講師、そして助教授(准教授)、やがて教授と年月と共に昇任してきたという人が大学にはたくさんいる。
大学以外の組織の経験がなく、しかも自分が入学したその大学だけで50年以上を過ごしているというのはかなり特殊な生き方だが、さらにその大学を退職してもなお、そこから離れられないという不思議な人間の姿がある。
ちょうどひと月ほど前に、大学の研究室にあった本を処分した。どうやって限られた日数内で研究室を空にするかは、頭を悩ます問題だった。一番の問題は、本をどうするかーー。
クルマで何度か大学に行き、今後の活動に必要となるだろう本、種々の理由で手放せない本は書棚から抜き出して箱に詰めて家へ持ち帰った。
それと並行して、知り合いの若い学者に研究に必要と思われる本を自由に持っていってもらった。
残りはまとめて古書市場に出す算段はしていたのだが、繰り返し書棚にならんだ背文字を見ているうちに追加で何箱か宅配便を使って自宅へ送ることに。どう言ったらよいのか、本をまとめて手放すのはさしずめ腕を捥がれるような感じ、とでもいうか。
残りは知り合いの古書店に来てもらい、文字通り束にして持っていってもらった。そして、僕の研究室にあった本はすべて、古書店関係者だけが参加する神保町の「古書市」で売買された。僕がのちに聞かされたその金額は桁が違うのではないかと思うほど安かった。
古書店店主らにとって仕入れの際の書籍は、紙くず同然の存在なんだろうと思わざるを得ない。いかに安く仕入れて、店頭売価との利ざやを上げるかにしか関心が向いていないのかもしれない。業界が将来的にどうなっていくか、その姿が見えてくる。
最初、研究室の本の行き先を考えたとき、自宅の近くに部屋を借りてそこを書庫代わりにすることを考えていた。そうすれば毎月の家賃はかかるが、ことは簡単に思われた。引っ越し業者を雇ってそのままものを移動させればいいと。
だけど考えてみたら、そのために新しく借りた部屋にまずは本棚を10本以上設置しなければならない。それを考えたとき、自分がその場所に縛り付けられるような感覚があってやめてしまった。
あれからひと月、今は以前ほど本を買うことがなくなった。手元の本を増やしたくないということと、図書館を上手に使えば必要とする本のかなりのところを借りられることが分かったから。取り寄せなんかで時間がかかることがあるけど、気持を急がせなければ大丈夫だ。
かつて博士論文を書いていた数年間、ネット書店だけでも優に年間100万円以上の書籍を購入していた。また外国の大学や関連図書館から必要とする本の箇所のコピーを郵送で送ってもらうのにも、それなりに費用がかかった。
すべては必要な支出だったが、いまそれらは一部を除いて手元にはもうない。
女優の樹木希林さんは、本は手元に100冊ほどしか置いていなかったという。100冊というのは冊数を数えていたわけではなく、本棚ひとつ分ということだろう。
新しい本が加わると、それと同じだけ人にあげたり、捨てたりして処分したという。そうして入れ替わっていく本の中で、自分がそのとき厳選したものだけが一本の書棚に残り続ける。
人生の達人、樹木希林さんらしい。
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*『本で床は抜けるのか』
https://www.youtube.com/watch?v=Qe2L5_VfCAo&list=PLsj52cf7UOG3ceoZkXKySV7UrwzCJJkns&index=110
一週間ほど前、知り合いに勧められてiPhoneに広告ブロッカーを導入した。
感覚的には広告の出現がぐっと減ったようで、ストレス低減に役立っている。それに加え、動画広告が勝手に流れなくなり通信量が減ったのか、バッテリーの持ちが良くなったのがありがたい。値段が安くて動作が軽いところもいい。
ただ遮断能力は万能ではなく、以下の広告は完全にはなくならない。
だが、LINE、インスタ、フェイスブック、Xのどれも使わないので個人的には構わない。YouTubeの広告は、いずれにせよ有料契約をしないと消せないしね。
広告の存在がそもそも悪いわけでも不快なわけでもない。ただはっきり言えるのは、いまのネット上の広告はほんとにダメダメである。
表現の面白さなどないどころか、あるのは醜悪さだけ。だれが作っているのか知る由もないが、無能さと愚鈍さしか感じない。情報としての価値はゼロで、不快さを人に与えるノイズの固まりだ。
制作費と掲載料を払って、そんなものを人目にさらしている広告主はどうかしているとしか思えない。
樋口桂子『西洋のレッスン、日本の手習い』(青土社)がすこぶる面白かった。
副題に「言語化しにくい身体感覚をめぐる比較文化論」とあり、確かに本書では西洋(特に米国とフランス)と日本の比較文化論的な議論がなされてるのだが、著者は必ずしも比較文化論を専門とする研究者ではないみたいで、研究者データベース上には美学、芸術論が専門分野とされている。
が、この本を読む限り、著者の守備範囲はずいぶん広く、古代ギリシャ哲学から言語学、語彙論、文法論、古典文学、現代思想などの領域にまで話は展開する。
ただ、乱暴ながら、もし一言で本書のエッセンスをいうなら「レトリック」ということになるのだろう。和洋にわたる博識をベースに、記述はまさにレトリカルに踊っている。
著者がチェロを先生について習い始めたのがきっかけで(少なくとも本の展開の上では)、レッスンを受けると言うことを、その身体性と言語、そしてそれらから感知する感覚を西洋と日本の双方の文脈を辿りながら解釈、説明している。
専門家なんだから当然と言ってしまえばそうだが、普段気づかず、気づこうともせず使っている言葉が孕む意味世界を文法とその言語の発達歴史に則って分かりやすく述べる手練は見事。
とくに本書のなかの説明で印象的だったのは、日本語の擬音語、擬態語の豊かさと清々しいほどのイマジネーションの拡がりだ。息を吐くときの「はあっ」と「ふぅ」の違いなど、ふだん何気なく使っている(何気なく使っているのが正常なのだが)日本語の持つ身体性と込められた意味世界の奥深さに感嘆する。
「「スポンジ人間」化を回避せよ」と題した面白い論考を新聞で読んだ。
東海林さだおさんが亡くなった。88歳。さえない、もてない、仕事に身が入らないサラリーマンを主人公にすえた漫画を長年週刊誌各誌に連載していた。どれも40年以上なんて長丁場の仕事だったのがすごい。
食べ物をめぐるエッセーなんかも彼が書くと絵のない漫画で、その独特の言語感覚に気持ちをくすぐられ思わずにんまりしてしまうことが多かった。ひょっとしたら、読者層の広さの点では漫画よりエッセーの方がまさっていたのではないかナ。
またそうしたエッセーとはちょっと毛色のちがう『超優良企業さだお商事』(東洋経済)は、プロの仕事師がどうあるべきかを教えてくれる。若いビジネスマンには、世に跋扈するコンサルもどきが書いたデタラメビジネス本なんかより、よっぽど役に立つ。
そういえば、先月亡くなったつげ義春さんも同じく88歳だった。どちらも、他に類を見ない唯一独自の漫画を長年にわたり見せてくれた独創的な表現者だった。
昨年9月にはさいとう・たかをさんも亡くなってしまった。
昨年一月、韓国の釜山空港で航空機が炎上した。その原因として、モバイルバッテリーが出火元だった可能性が指摘された。
そうしたこともあってか、国土交通省が旅客機に持ち込めるモバイルバッテリーに規制をかけることにした。持ち込みは一人2個までで、充電は禁止。スマホやラップトップへのモバイルバッテリーによる機内での充電はしないよう要請するという。
確かに発火リスクがあるのなら、しょうがない。ぼくだって機内で火だるまになったり、機体もろとも墜落はしたくない。
だが規制に先だって政府にはやってほしいことがある。これまで発生したモバイルバッテリーの発火事故について、その原因になった製品のメーカー名とモデルを発表してほしい。
最近ではほとんど聞くことはないが、もし家電製品が何らかの理由で発火する事故があれば、必ずその製品のメーカー名やブランド名が発表され、メディアで広く公表される。
ところが今回の肝心のモバイルバッテリーはどのメーカーのどういった(どのくらいの容量の)ものかなど一切公表されていない。
昨日、iPhoneのバッテリーを新しくした。6年ほど前に買った機種で、バッテリーの最大容量が80%を切っていたので交換と相成った。
iPhoneのバッテリー交換は自分ではできないから、業者に頼むことになる。依頼先の候補は3つで、アップルとその正規プロバイダーの店、次にアップル製品の修理を専門としていて各地に店舗展開している専門業者、それと個人かそれに近い形の運営元が営業する修理ブティックである。
近くに2番目のタイプの店があったので、そこでやっちゃおうと持ち込んだのだが、店のお兄ちゃんからバッテリー交換で「問題が発生しても文句言いません」のような書類にサインを求められ、止めた。
結局、アップルからライセンスを受けている正規プロバイダーの店で先の店より7割以上のプレミアムを支払って交換してもらったのであるが、その際、いろいろとスマホのバッテリーについて専門スタッフから教えてもらったおかげでリチウム電池について知識が得られた。
さてそこで、機内への持ち込み制限がかかることになった先のモバイルバッテリーだが、モバイルバッテリーが一様にリスキーな訳ではないと考えている。
スマホの電池もモバイルバッテリーも、どちらもリチウム電池(Li-ion)だ。リチウムイオン電池が発火のおそれがあるなら、ノートPCも機内に持ち込めないことにならないか。だが、そうはなっていない。なぜならその発生確率はゼロではないが、極めて低いから。
リチウム電池の性能(この場合は特に安全性能)を決定する最大の要因は安全確保のための回路がきちんと組み込まれているか、次にリチウム電池のセルの品質だ。
つまり、モバイルバッテリーがもとから危険なのではなく、安全対策を施していない粗悪品が火を噴くのである。
であれば、一律に禁止することは得策ではなく、危険なメーカーやブランドを公表して利用者に注意を促す方が機内持ち込みに限らず安全性を担保する面からメリットが大きい。
ノーブランドの粗悪品に比べて価格は高いが、しっかりしたメーカーが安全対策をちゃんとほどこした設計と機構を組み込んだモバイルバッテリーが現にあるのだから。
発火などの事故を起こした製品のメーカー名をしっかり特定し、それらを公表することが疎かになったままになっている。
旅客機内への持ち込みや使用を一律に禁止する前に、やることをやってほしいものである。
『ハムネット』で主演したジェシー・バックリーがこちらも主演しているということで『ザ・ブライド』を観に劇場へ。
彼女の役柄は、あのフランケンシュタインの花嫁(ザ・ブライド)である。フランケン同様に、彼女も墓から掘り起こされてアネット・ベニングが演じる医師によってモンスターとして再生する。設定は1930年代のシカゴ。
フランケンシュタインを演じているのはクリスチャン・ベールで、その「怪物」2人はひょんな事から警察に追われることになり、クルマで逃走する。最後は警察の銃弾を浴びて絶命するのだが、このあたりはウォーレン・ベイティとフェイ・ダナウェイの『俺たちに明日はない』を連想。
これまで制作されてきたフランケンシュタインの映画にオマージュを捧げながらも、単なるホラーではなく、場面場面にユーモアも含みながら展開するゴシック・パンクである。
偶然だろうが、バックリーは『ハムネット』で始終赤いドレスを身につけていたが、この映画でも彼女の衣装は赤いドレス。『ハムネット』での赤が愛と情熱の象徴なら、『ザ・ブライド』での赤は血と反逆か。
続編が計画されているのかどうか知らないが、ラストはそれを思わせるものだった。
シェイクスピアの名は誰でも知っているが、その実際の人物像や生涯には謎が多い。謎が謎を呼び、世界中でこれまでも数多くの創作の素になってきた。さらにその実体が不明なのが、彼の家族についてである。
年上の妻だったアン・ハサウェイはどんな女性だったのか。彼らの息子が少年期になくなったのは何が原因だったのか、今も不明なままだ。 それでいながら、シェイクスピアの妻は後生、ずっと悪女としてこき下ろされてきた(ソクラテスの妻、クサンチッペと同様に)。
映画『ハムネット』は、その女性を主人公にすえ、シェイクスピアの戯曲『ハムレット』と11歳でなくなった2人の息子ハムネットを想像力で結んでいる。
本作品の主人公のアグネスを演じるジェシー・バックリーが実にすばらしい。圧巻の迫力と演技力である。劇中の彼女は鷹を操り、種々の野草のもつ効果について詳しい知識を持ち、自然そのものと交感する力を持っている。そうした原始的な強さと魔性を持つ女性を自然とこなしている。
原作小説を書いたマギー・オファーレンとクロエ・ジャオの共同脚本による本作品は、悪女として扱われてきたシェークスピアの妻を「再生」させ、謎に包まれた夫婦の関係を息子の死を中核にしながら、2人の出会いと相克、そして喪失と再生を想像力豊かに作り上げた。
終盤、ロンドンのグローブ座で劇中劇として『ハムレット』が上演される。当時は椅子などなく観客は全員立ち見で観劇しているのだが、その最前列で夫の作品を観るアグネスがその芝居によって「再生」されていく様がなんとも感動的に描かれていた。なるほどこれならアカデミー主演女優賞を受賞したのも当然と納得した。
観客は予想と違って男性が7割! そして、その7割は僕より年上の人たちだった。