音楽評論家の湯川れい子さんがX(旧ツイッター)に書いた「戦争ほど、理不尽で悲惨なものはありません」という投稿に対して難癖をつける書き込みがいくつか寄せられたという。
ぼく自身はXはやらないのでそのもとの投稿は読んでいないのだけど、それはウクライナやパレスチナのガザ地区、イランなどの地に住む人たちに思いをはせての湯川さんの投稿だったのではないかな。
現在90歳の湯川さん。終戦の時は9歳。それをもって、「お前は戦争に行っていないくせに」と批判された。
湯川さんも血気盛んなのか、それを受けて「私が戦争を経験していない? 寝ぼけたこと言わないで下さい」と返して論争になった。
彼女は父親と兄を戦地でなくしている。またあの時代だから、戦後は他の人たちと同様、さまざまな生活上の困窮にも見舞われたはず。
だが、彼女に難癖をつけた連中は、まだ9歳で戦争に行ってないのだから戦争を知っていると言うのはおかしいとツッコんだ。
そうした彼(女)らにとっての戦争とは目の前を大砲の弾が飛び交ったり、兵士が機関銃を撃ち合っているようなどこかの戦場という場所で展開されていることなのだ。
自分たちがスマホやパソコンの画面で楽しんでいる戦争ゲームこそが「ザ・戦争」なんだろうが、あまりに発想が表層的で軽い。
もしそうした連中に、もし「戦争じゃない状態はどういう状態だと思うか」と問うてみると、おそらく「戦争じゃないんだから平和なんだろう」という答えが返ってくる気がする。
戦争か平和か、トルストイの小説みたいだが、実際はそうした単純図式では片付けられない。S・ダスグプタは戦争と平和という二分法ではなく、平和の対極にあるのは<非平和>であると定義した。
非平和とは、別の言い方をすれば平和の不在であり、貧困や不平等、弾圧、飢餓、分断、不正義の蔓延などがそれにあたる。つまり、大砲の弾が飛んでないから平和だというわけではないということだ。
人はつい物事を単純化して考えがち(つまり、ラクしがち)になるけど、AじゃないからBというのが常に当てはまるわけではない。CかもDかもしれない。あるいはA’かもしれない。
これはシンプルに想像力の問題。