昨日のメモに対して知り合いからコメントがあった。
名古屋の大学で教えている彼女曰く、「こちらもAIで対応している」。
学生のレポートはクラウド上に提出させ、それらはすべてAIに採点評価させて、フィードバック用の講評もAIに書かせているとか。
学生に負けず、教授の側もすべてAIに代行させているわけだ。
狐と狸の化かし合い、か。どうなってるんだろう。
昨日のメモに対して知り合いからコメントがあった。
名古屋の大学で教えている彼女曰く、「こちらもAIで対応している」。
学生のレポートはクラウド上に提出させ、それらはすべてAIに採点評価させて、フィードバック用の講評もAIに書かせているとか。
学生に負けず、教授の側もすべてAIに代行させているわけだ。
狐と狸の化かし合い、か。どうなってるんだろう。
小説の新人賞などへの応募に、AIを使って書いた作品が紛れ込むようになっている。
AIに誤字や誤表記を指摘させるといった校正作業ではなく、そもそものアイデアをAIに次々と出させ、プロットを考えさせ、小説自体の執筆をやらせる。誰でも今日から作家デビューができるわけだ。
すでに多くは人間が書いたものかAIが書いたものか、編集者や小説家など活字のプロでも見分けがつかないようなレベルに達しているという。
今年の星新一賞の選考では、一般部門受賞作4作品のうち3作品がAIを利用して執筆されたAI小説だと判明した。もう何が何だか、である。
以前勤めていた研究科では留学生の選考は書類審査のみだったのだけど、書かれていることが事実かどうかを見分けるのは容易ではなかった。学歴については最終校の卒業証明書と成績証明書を添付することになっていたが、それ以外は何もエビデンスがなかったからだ。
受験者が勤務していたという企業もそこでの職名もすべて自己申告のみ。ビジネススクールへの志望動機や自己分析をもとにした自己アピール文は、本人が書いたものかAIに書かせたものか判別はつかない。
また、応募書類は出願者の顔写真を貼る仕様になっていて、貼付されたもの中にはAIが作ったとしか思えないようなツルンとした美人顔、ハンサム顔がやけに多かった。面接審査をやるわけではないので、それが本人かどうかなど分からない。
そうやって入学した彼らは、レポートも修士論文も同じようなやり方で済まそうとするに違いない。それが違反行為だと分かっていても、一度憶えた楽ちんさには勝てないものである。
一方、AIが瞬作したレポートや論文を大学側の人間はどんな顔をしてそれらを読み、評価するのか。
せめてレポートを教場での筆記試験に変更するくらいのことはやらなければ教育機関として成り立たなくなっている。
星新一賞の審査員を務めたノンフィクション・ライターの最相葉月さんは、「たとえAI小説がどれほど面白かったとしても、私は人間の内から生まれた言葉こそが尊いと思う。(中略)AIの執筆した文章は、もう読みたくない」と、今後は審査員を引き受けないらしい。
最相さん同様、ぼくもAIが書いた学生のレポートや論文を読まされるなんてまっぴらご免だった。いくらそれが構成や文章がしっかりしていて、ストレスなく読めるものであったとしてもだ。
なぜかって? ばかばかしくてやってられないから。
共同通信が、3月3日から5月3日(憲法記念日)までの2ヵ月間のXへの書き込みで「憲法」と「9条」の双方の言葉が含まれるものを集計した。
その数は約230万で、昨年同時期に比べ21倍だったと報じた。共同通信はそのことで「9条」への国民の関心が高まっている、と論評している。
21倍という数字をもっとも重要なファインディングとしているようだが、そもそもXへの書き込み全体が同時期にどのくらい増えたのかを考慮しなければ適切な推量はできない。
なのだが、ここで言いたいのはそうしたことではなく、彼らが使っている「投稿」という言葉の是非だ。
投稿とは辞書によれば「新聞・雑誌などに掲載してもらう目的で自分の原稿を送ること。また、その原稿」とある。なるほど、その通りだろう。
ではXへの書き込みは投稿か・・・? その多くは署名すらない。まともな新聞や雑誌が、書き手の名前も住所もなんにも分からない文章を果たして投稿として扱うだろうか。
変名する前のXはTwitter、それは小鳥のさえずりのこと。そうした勝手なつぶやきは、投稿とは別のもの。誰が言ったかすら分からないようなものは公衆便所の落書きと同列だ。
そんなものをメディアが「投稿」などと称して、さらにはご苦労なことに集計結果など発表するからややこしくなる。本来は、ただ無視していればいいだけ。
くどいようだが、「投稿」と「書き込み」は違う。報道に関わる者が、そのあたりの区別も付かないのであれば何をかいわんやだろう。
映画『サンキュー・チャック』は3章(3部)仕立てで(それは見終わらないと分からない)、まず第3章から物語は始まる。
世界が、この場合、比喩ではなく文字通りの世界が、すなわち宇宙そのものが消滅して終わりに向かう。これが映画で描かれたこの物語の結末だ。
なんとも厭世的などというレベルを越え、完全にぶっ飛ばしている。途中でテレビに、かつてのカール・せーガンがホストをしていた番組が流れ、そこで彼が宇宙カレンダーについて語るのはご愛敬か。
物語はその第3章の終わりで終末の現れを示した後、第2章、第1章へと謎解きのように話が展開する。これ、映画上の演出かと思ったのだが、スティーブン・キングの原作小説がそうした構成になっている。
主人公のチャックは平凡な会計士。有名人でも何でもない。そもそも米国では、「会計士」とは真面目で面白みのない平凡な勤め人の典型というか、象徴として描かれる。日本では役場勤めの公務員といったイメージだ。
そのチャックが病気で39歳で亡くなる。キングは、その死を宇宙、つまりこの世界全体の消滅と同列に扱い、描いている。彼は、ことし79歳。自分が考える「人生とは」をその作品のなかにいっそう滲ませている感じがする。
監督のマイク・フラナガンは、原作となった短編をベースにしながら、そのあたりを丁寧に丁寧に伏線を重ねながら一本の映画にした。
第2章、ブリーフを下げて街中を歩くダーク・スーツ姿のチャック。誰も目を留めることのない平凡なビジネスマンが、たまたま出くわしたストリート・ミュージシャンが叩くドラムスの音に何かを感じて(それが何だったかは続く第1章で示される)、その場にたまたま居合わせた、ちょっと訳ありのダンス好きの女性とペアでダンスを始める。
その軽快なダンス(とドラムス)がすばらしい。この映画の白眉のひとつ。
ところで第1章で、幼い頃に交通事故で両親をなくしたチャックを親代わりとして育てた祖父母の祖父役を演じたのが、あのマーク・ハミルだったというのは、エンドロールを見るまで気付かなかった。このキャスティングも悪くない。
新横浜駅前にある三井住友銀行の支店へ行く。
2階にある貸金庫室に入ろうとしたが、どういうわけか扉が開かなかった。カードキーを何度も通すがエラーが出続ける。時刻は3時前、その日はそこで用を済ませてすぐに他の銀行にも行かなければならなかった。(なぜ銀行の窓口は今も3時閉鎖なのか)
貸金庫室の入口で5回目のエラー表示を見た頃、隣の部屋から行員の女性が出てきた。「異常」の通知を知ったのだろう。彼女は私のカードキーを試した後、ちょっとお借りしますといってそれを持ってオフィスに入っていった。
しばらくして「貸金庫借用に関する申告書」という用紙を持って出てきた。これにサインしてくれ、という。そうしないと貸金庫室へ入れないらしい。??? 利用料は払っているのに。
書類にざっと目を通し、ひっかかった点を彼女に尋ねたが、説明が説明になっていない。だけど時間がないのでとりあえず種類にサインをし、コピーをくれるよう頼んだ。
だが一月経っても回答がない。
回答できないのか、回答したくない(回答を残したくない)のか知らないが、困ったものである。
映画『オールド・オーク』は、英国の名匠ケン・ローチが2023年に製作した作品。86歳になる彼のおそらく最後の作品。彼の作品はどれも市井の人々を深くとらえ、社会を低い位置から水平に眺めているのが特徴だ。
2023年の作品だが、日本では配給されないままだった。それが先週末から国内の映画館で公開されるようになった。まるで今のこのタイミングを待っていたかのようだ。
この作品の舞台は、2016年の英国。EUを離脱するかどうかで揺れていた頃の英国である。
イングランド北東部の、かつては炭鉱で栄えていた町。その後閉山とともに廃れ、人口も減少をつづけるその町がシリアからの難民を受け入れることになったことから起こる摩擦と対立を描いている。
「オールド・オーク」はその町に一軒だけ残ったパブ。決して繁盛しているわけではなく、細々と、しかし町の人たち(特に元炭鉱労働者の男たち)が息抜きと仲間との繋がりを求めて集う唯一の場所である。
そこを舞台に、男たちの口からかつての町の繁栄とその後の衰退、彼らが呼ぶ「よそ者」への嫌悪が伝わってくる。経済的に回復の光が見えないなかで、なぜ難民に自分たちの税金から医療や公共サービスが提供されねばならないのかといった英国人住民の不満と怒りが描かれる。
人は自分がうまくいかないと、その原因をどこか他の所に見つけようとするものだ。その町の衰退もそうだ。サッチャーリズムの流れの中での政府の方針転換と地方の切り捨て策によってそれまでの産業が断たれ、人々の働き場がなくなり、学校が消え、教会も閉じた。そして多くの人々、特に若者は町を去って行く。出て行くことができない人たちがあとに残る。
未来のない閉塞感と不安が人々をおおっている。人口が減少している、そうした家賃も安い地域は政府にとって格好の難民の送り先になる。
もとからいるその地の住民は、「よそ者(荷物)を押し付けられた」と感じて怒りを募らせていく。そして、その前からさびれ続けていた町であるにもかかわらず、難民らが自分たちの町の衰退の原因だと考えるようになる。
ケン・ローチはこの映画で、難民を優しく迎えましょうとか、仲良くしましょう、助けてあげましょう、と言っているのではない。もちろん彼らを排斥した方がいいと言っているわけでもない。問題を解決するための特効薬などないことを理解した上で、少しずつ理解し合って歩み寄るしかないとそっと語っている。
映画の中では、人々が食事を作り、一緒に食べるシーンが何度もでてくる。わかり合うためのもっとも簡単で効果的な方法がそれなんだというメッセージだろう。同じ釜のメシを食う、というのは国を問わず共通なのである。
もう一つ、この映画の制作者が語っている大切なこと。それは、敵は目の前にいる相手ではないということ。その後ろにいる、大きな力をもった連中こそが本来の敵であることを忘れないようにしなければと訴えている。
報道によると、カルビーは「ポテトチップス」「かっぱえびせん」「フルグラ」など計14商品について、印刷のインク色数を2色に変更するという。
中東のホルムズ海峡でタンカーが足止めされていることでナフサが手に入らなくなっているのが原因。
トランプよ、お前のせいで俺たちのポテチから色が消える! なんとかしろよ。
上の写真で分かるとおり、モノクロのパッケージのポテトチップスは素っ気なくて、まったく旨そうじゃない。カルビーの経営者だって販売のためにはパッケージが重要過ぎるほど重要だってことは百も承知のはず。
推測だが、これは原油の備蓄レベルはまったく問題ないとか、ナフサの調達も手配が付いてるとか、高市が官僚の書いた答弁書だけ見て、相変わらず現実を見ずにいる状況へのカルビーの怒りの姿勢の表明じゃないのかね。
そういえば、先日近くのスーパーで買い物をしたとき、いつものようにレジ袋の口をセロハンテープで留めようとしたら、ない。セロテープがないのだ。右となりを見ても、左となりをみても、テープホルダーにセロテープが一つもない。
通りがかった店のお兄さんに言ったら、「すいません。原油不足が原因だそうです…」とか。
明らかにすでに国民の生活に影響が出ている。
先日、似た投稿をしたばかりだが、同様のメールについて。
国民年金の保険料が未納で、いついつまでに何がしかの金額をPayPay決済しなければ財産差し押さえすると書いたメールが。
荒唐無稽なのは明らかだが、このメールを受け取った人のなかには慌てて決済用のリンクをクリックしてしまう人もいることだろう。それがもし0.01%だとしても、10万人に発信されていればその数は10人になる。
実際の被害者の数は知らない。だが、こうしたメールはそれなりに「効果」を発しているから、なくならないのだ。
下記は今回送られてきたメールの一部。
【最終納付期限】までに全額の納付が
確認できない場合、予告なく貴殿の財産
(預貯金、給与、不動产、自動車、有価証券等)
の差押えを執行いたします。
「 不動产」の「产」は中国大陸で用いられている簡体字なので、発信元がどこからかはこれで推測がつく。
簡体字を含むメールは一切受信しないというシンプルな設定ができればと思うが、どうすればいいのだろう。こうした機能をメールサービスはデファクトでつけて欲しい。
個人的には中国人の知り合いや教え子はいるが、簡体字を含む文章を書いてくる人はいない。また研究者なら英語で連絡してくるはずだから、必要なメールを失うこともないはず。
先月半ば、近くの年金事務所を訪ねて年金受給のための手続きをしたが、その際その時点では何点か不明なまま残っていた点があったので、それらを確認のために電話をかける。
そうすると音声案内につながり、指示通りボタンを押すと「年金ダイヤル」という相談センターに回線が繋がった。
不明点が明らかになれば相手機関がどこでもいいので、出てきた相手に基礎年金番号を告げる。それを相手が知らなければ状況の確認はできないと思ったから。
すると、まず要件を言えと。ならばとこちらの要件を伝えると、基礎年金番号を言えと。「さっき言ったじゃないか」との言葉を呑み込んでもう一度伝える。
「本人確認をします。そのため6点お訊ねします」という。ああ、金融機関なんかとの通話の際にいつもやらされるアレである。が、普通は4点確認なので、2つほど多い!? 面倒くさい。
プラスαの2点は、配偶者の名前と誕生日だった。だが、なぜ配偶者のことを聞くのか。しかも、僕が「フルネーム」を答えているのに、「配偶者のフルネームは?」と訊いてくる。
「フルネームですか」と僕。「はい、奥様のフルネームです」と相手職員(のちに職員ではないことが判明するが)。
ふと選択的夫婦別姓のことが頭に浮かび、特殊法人日本年金機構はひょっとして選択的夫婦別姓を支持しているのか訊いてみた。
しばしの沈黙の時間。明らかに回答に困っているような様子。「事実婚という関係で、苗字が違うというケースもありますから」と言ってきた。
そりゃそうだろうけど、だがそうしたことと僕の年金支給額が関係するかというと、関係しない。日本年金機構 の老齢基礎年金と老齢厚生年金は、受給者本人の加入記録・報酬額・加入期間によって決まるもので配偶者の現在の収入や所得によって減額されることは通常ないのだから。ましてや事実婚は話の筋から完全に外れている。
なので、あらためてなぜ配偶者のフルネームを確認するのか訊ねたのだけど、結局「そうするようになっているので」としか答えが返ってこない。
埒があかないので、あなたは日本年金機構から仕事を受託しているコールセンターの方ですかと訊ねたら、すんなり「そうです」と。自分たちは与えられたマニュアル通りにやっているだけなのですと。
なるほどね。最後に年金機構本部の連絡先を尋ねたら、知らされていないと言われた(本当かどうか分からないが)。
昨日は国民健康保険料が未納だという偽督促メール(Yahoo!メール)について書いた。その続き。
今日来たのは昨日と同じデザインフォーマットを用いたメールで、年金の支払いが滞っているというものと、住民税が未納だというもの。どちらも「差し押さえ」が迫っていると脅かす文言が入っている。
ちょっと文面に目を走らせれば、内容はあり得ないことだと分かる。例えば、市民税が支払われていないというメールの発信者名は、〇〇市ではなく「市区町村役場」なんだから。
こんなものは偽(詐欺)メールに決まってるわけで、AIが判別して配信しないようにすればいいのに。簡単にできることをなぜやらないのかね。
今日来たこれらのメールとともに表示されてるのは、サントリーの広告だ。見方によっては、サントリーがこうした詐欺メールを推奨しているように見える。
なぜこんなことが起こるかといえば、内容が何であろうがトラフィックさえあれば広告収入が入るからとYahoo!が考えているからかね。
相変わらずしょうもない詐欺メールが送られてくる。
届いたのは、「【督促】国民健康保険料 纳付通知」という件名のメール。
「纳付」が中国語特有文字になっているところから、中国人が送ってきたメールだと一目で分かる。
さらに、健康保険料が未納だと言いながら、「未納が続く場合、財産の差押えになる場合があります」と書いてある。
通常、こうしたメールは迷わず消去するが、それも面倒になってきたので中国から送られてきたメールはすべてブロックする設定をしたいのだが、どうしたらいいのだろう。
それにしても、こうしたメールに広告を出稿する企業があることにも呆れる。広告掲載料を取られて、こんなページに露出がされていることを知らないだけなんだろうけど。
大型連休中の雨の一日。このところ音楽はストリーミングで聴くことが多いのだが、今日は気分を変えてCDでも聴いて過ごそうかと思い、BoseのCDプレーヤー(Wave Music System)にディスクを挿入する。
フロントローディングのCDスロットに何か軽い抵抗感があったが、かまわず押し込んだら完全に吸い込まれる直前で引っかかってしまった。
引き出すことも押し込むこともできないままで、「CD Error」の表示があらわれる。年季の入った機器なので、ついにその時が来たかと…。
が、挿入した音楽CDだけは取り出しておきたいと思い、対応法をネットで検索してみたーー。
Bose Wave Music SystemでCDが出ない場合、まず
①電源プラグをコンセントから抜き、1分以上待ってから差し直す(ソフトリセット)。
②それでも出ない場合は、本体を逆さまにして振る。
③または、Ejectボタンを押しながら前面スロットを掃除機で吸うと排出されることがある。
とある。
「逆さまにして振る」とか「掃除機で吸う」とか、ホントかよ、と思いつつやってみた。
①ではダメで、②を試みる。本体を抱えて上下にエイヤッと振ってみると、おおっ、ディスクが半分ほど出てきた。
それを引き出し、その後、電源プラグをコンセントに差し直して「処置」は完了。
なんだかすごく原始的な解決法に笑ってしまった。
大学を退職してひと月になるが、今もって大学関係のいろんなメールが届く。
先日、ある教授から今度大学の総長選に出馬することにしたので応援よろしく、というメールがきた。
なぜ僕にまでそうした選挙についてのメールを送付してくるのかと思うとともに、メールを読んで思わず頭を捻ってしまったのは、彼が総長選へ出馬することにした理由として前総長から強く推されたからと書いていたこと。
その前総長が退任したのは2018年。今から8年前である。企業でも、前社長や前会長が院政を敷き、自分の息のかかった人物を組織のトップに据えたがるというのがあるが、さすがに退任して8年たって意気軒昂に影響力を示そうとするのは珍しい。
18、19という歳で大学に入学、卒業後はそのまま修士課程に進み、指導教授の覚えめでたければ博士課程に留まり、そのレールに乗ったまま助手から専任講師、そして助教授(准教授)、やがて教授と年月と共に昇任してきたという人が大学にはいる。
大学以外の経験がなく、しかも自分が入学したその大学だけで50年以上を過ごしているというのはかなり特殊な生き方だが、さらにその大学を退職してもなお、そこから離れられないという不思議な人間の姿がある。
ちょうどひと月ほど前に、大学の研究室にあった本を処分した。どうやって限られた日数内で研究室を空にするかは、頭を悩ます問題だった。一番の問題は、本をどうするかーー。
クルマで何度か大学に行き、今後の活動に必要となるだろう本、種々の理由で手放せない本は書棚から抜き出して箱に詰めて家へ持ち帰った。
それと並行して、知り合いの若い学者に研究に必要と思われる本を自由に持っていってもらった。
残りはまとめて古書市場に出す算段はしていたのだが、繰り返し書棚にならんだ背文字を見ているうちに追加で何箱か宅配便を使って自宅へ送ることに。どう言ったらよいのか、本をまとめて手放すのはさしずめ腕を捥がれるような感じ、とでもいうか。
残りは知り合いの古書店に来てもらい、文字通り束にして持っていってもらった。そして、僕の研究室にあった本はすべて、古書店関係者だけが参加する神保町の「古書市」で売買された。僕がのちに聞かされたその金額は桁が違うのではないかと思うほど安かった。
古書店店主らにとって仕入れの際の書籍は、紙くず同然の存在なんだろうと思わざるを得ない。いかに安く仕入れて、店頭売価との利ざやを上げるかにしか関心が向いていないのかもしれない。業界が将来的にどうなっていくか、その姿が見えてくる。
最初、研究室の本の行き先を考えたとき、自宅の近くに部屋を借りてそこを書庫代わりにすることを考えていた。そうすれば毎月の家賃はかかるが、ことは簡単に思われた。引っ越し業者を雇ってそのままものを移動させればいいと。
だけど考えてみたら、そのために新しく借りた部屋にまずは本棚を10本以上設置しなければならない。それを考えたとき、自分がその場所に縛り付けられるような感覚があってやめてしまった。
あれからひと月、今は以前ほど本を買うことがなくなった。手元の本を増やしたくないということと、図書館を上手に使えば必要とする本のかなりのところを借りられることが分かったから。取り寄せなんかで時間がかかることがあるけど、気持を急がせなければ大丈夫だ。
かつて博士論文を書いていた数年間、ネット書店だけでも優に年間100万円以上の書籍を購入していた。また外国の大学や関連図書館から必要とする本の箇所のコピーを郵送で送ってもらうのにも、それなりに費用がかかった。
すべては必要な支出だったが、いまそれらは一部を除いて手元にはもうない。
女優の樹木希林さんは、本は手元に100冊ほどしか置いていなかったという。100冊というのは冊数を数えていたわけではなく、本棚ひとつ分ということだろう。
新しい本が加わると、それと同じだけ人にあげたり、捨てたりして処分したという。そうして入れ替わっていく本の中で、自分がそのとき厳選したものだけが一本の書棚に残り続ける。
人生の達人、樹木希林さんらしい。
一週間ほど前、知り合いに勧められてiPhoneに広告ブロッカーを導入した。
感覚的には広告の出現がぐっと減ったようで、ストレス低減に役立っている。それに加え、動画広告が勝手に流れなくなり通信量が減ったのか、バッテリーの持ちが良くなったのがありがたい。値段が安くて動作が軽いところもいい。
ただ遮断能力は万能ではなく、以下の広告は完全にはなくならない。
だが、LINE、インスタ、フェイスブック、Xのどれも使わないので個人的には構わない。YouTubeの広告は、いずれにせよ有料契約をしないと消せないしね。
広告の存在がそもそも悪いわけでも不快なわけでもない。ただはっきり言えるのは、いまのネット上の広告はほんとにダメダメである。
表現の面白さなどないどころか、あるのは醜悪さだけ。だれが作っているのか知る由もないが、無能さと愚鈍さしか感じない。情報としての価値はゼロで、不快さを人に与えるノイズの固まりだ。
制作費と掲載料を払って、そんなものを人目にさらしている広告主はどうかしているとしか思えない。
樋口桂子『西洋のレッスン、日本の手習い』(青土社)がすこぶる面白かった。
副題に「言語化しにくい身体感覚をめぐる比較文化論」とあり、確かに本書では西洋(特に米国とフランス)と日本の比較文化論的な議論がなされてるのだが、著者は必ずしも比較文化論を専門とする研究者ではないみたいで、研究者データベース上には美学、芸術論が専門分野とされている。
が、この本を読む限り、著者の守備範囲はずいぶん広く、古代ギリシャ哲学から言語学、語彙論、文法論、古典文学、現代思想などの領域にまで話は展開する。
ただ、乱暴ながら、もし一言で本書のエッセンスをいうなら「レトリック」ということになるのだろう。和洋にわたる博識をベースに、記述はまさにレトリカルに踊っている。
著者がチェロを先生について習い始めたのがきっかけで(少なくとも本の展開の上では)、レッスンを受けると言うことを、その身体性と言語、そしてそれらから感知する感覚を西洋と日本の双方の文脈を辿りながら解釈、説明している。
専門家なんだから当然と言ってしまえばそうだが、普段気づかず、気づこうともせず使っている言葉が孕む意味世界を文法とその言語の発達歴史に則って分かりやすく述べる手練は見事。
とくに本書のなかの説明で印象的だったのは、日本語の擬音語、擬態語の豊かさと清々しいほどのイマジネーションの拡がりだ。息を吐くときの「はあっ」と「ふぅ」の違いなど、ふだん何気なく使っている(何気なく使っているのが正常なのだが)日本語の持つ身体性と込められた意味世界の奥深さに感嘆する。
「「スポンジ人間」化を回避せよ」と題した面白い論考を新聞で読んだ。
東海林さだおさんが亡くなった。88歳。さえない、もてない、仕事に身が入らないサラリーマンを主人公にすえた漫画を長年週刊誌各誌に連載していた。どれも40年以上なんて長丁場の仕事だったのがすごい。
食べ物をめぐるエッセーなんかも彼が書くと絵のない漫画で、その独特の言語感覚に気持ちをくすぐられ思わずにんまりしてしまうことが多かった。ひょっとしたら、読者層の広さの点では漫画よりエッセーの方がまさっていたのではないかナ。
またそうしたエッセーとはちょっと毛色のちがう『超優良企業さだお商事』(東洋経済)は、プロの仕事師がどうあるべきかを教えてくれる。若いビジネスマンには、世に跋扈するコンサルもどきが書いたデタラメビジネス本なんかより、よっぽど役に立つ。
そういえば、先月亡くなったつげ義春さんも同じく88歳だった。どちらも、他に類を見ない唯一独自の漫画を長年にわたり見せてくれた独創的な表現者だった。
昨年9月にはさいとうたかをさんも亡くなってしまった。
昨年一月、韓国の釜山空港で航空機が炎上した。その原因として、モバイルバッテリーが出火元だった可能性が指摘された。
そうしたこともあってか、国土交通省が旅客機に持ち込めるモバイルバッテリーに規制をかけることにした。持ち込みは一人2個までで、充電は禁止。スマホやラップトップへのモバイルバッテリーによる機内での充電はしないよう要請するという。
確かに発火リスクがあるのなら、しょうがない。ぼくだって機内で火だるまになったり、機体もろとも墜落はしたくない。
だが規制に先だって政府にはやってほしいことがある。これまで発生したモバイルバッテリーの発火事故について、その原因になった製品のメーカー名とモデルを発表してほしい。
最近ではほとんど聞くことはないが、もし家電製品が何らかの理由で発火する事故があれば、必ずその製品のメーカー名やブランド名が発表され、メディアで広く公表される。
ところが今回の肝心のモバイルバッテリーはどのメーカーのどういった(どのくらいの容量の)ものかなど一切公表されていない。
昨日、iPhoneのバッテリーを新しくした。6年ほど前に買った機種で、バッテリーの最大容量が80%を切っていたので交換と相成った。
iPhoneのバッテリー交換は自分ではできないから、業者に頼むことになる。依頼先の候補は3つで、アップルとその正規プロバイダーの店、次にアップル製品の修理を専門としていて各地に店舗展開している専門業者、それと個人かそれに近い形の運営元が営業する修理ブティックである。
近くに2番目のタイプの店があったので、そこでやっちゃおうと持ち込んだのだが、店のお兄ちゃんからバッテリー交換で「問題が発生しても文句言いません」のような書類にサインを求められ、止めた。
結局、アップルからライセンスを受けている正規プロバイダーの店で先の店より7割以上のプレミアムを支払って交換してもらったのであるが、その際、いろいろとスマホのバッテリーについて専門スタッフから教えてもらったおかげでリチウム電池について知識が得られた。
さてそこで、機内への持ち込み制限がかかることになった先のモバイルバッテリーだが、モバイルバッテリーが一様にリスキーな訳ではないと考えている。
スマホの電池もモバイルバッテリーも、どちらもリチウム電池(Li-ion)だ。リチウムイオン電池が発火のおそれがあるなら、ノートPCも機内に持ち込めないことにならないか。だが、そうはなっていない。なぜならその発生確率はゼロではないが、極めて低いから。
リチウム電池の性能(この場合は特に安全性能)を決定する最大の要因は安全確保のための回路がきちんと組み込まれているか、次にリチウム電池のセルの品質だ。
つまり、モバイルバッテリーがもとから危険なのではなく、安全対策を施していない粗悪品が火を噴くのである。
であれば、一律に禁止することは得策ではなく、危険なメーカーやブランドを公表して利用者に注意を促す方が機内持ち込みに限らず安全性を担保する面からメリットが大きい。
ノーブランドの粗悪品に比べて価格は高いが、しっかりしたメーカーが安全対策をちゃんとほどこした設計と機構を組み込んだモバイルバッテリーが現にあるのだから。
発火などの事故を起こした製品のメーカー名をしっかり特定し、それらを公表することが疎かになったままになっている。
旅客機内への持ち込みや使用を一律に禁止する前に、やることをやってほしいものである。
『ハムネット』で主演したジェシー・バックリーがこちらも主演しているということで『ザ・ブライド』を観に劇場へ。
彼女の役柄は、あのフランケンシュタインの花嫁(ザ・ブライド)である。フランケン同様に、彼女も墓から掘り起こされてアネット・ベニングが演じる医師によってモンスターとして再生する。設定は1930年代のシカゴ。
フランケンシュタインを演じているのはクリスチャン・ベールで、その「怪物」2人はひょんな事から警察に追われることになり、クルマで逃走する。最後は警察の銃弾を浴びて絶命するのだが、このあたりはウォーレン・ベイティとフェイ・ダナウェイの『俺たちに明日はない』を連想。
これまで制作されてきたフランケンシュタインの映画にオマージュを捧げながらも、単なるホラーではなく、場面場面にユーモアも含みながら展開するゴシック・パンクである。
偶然だろうが、バックリーは『ハムネット』で始終赤いドレスを身につけていたが、この映画でも彼女の衣装は赤いドレス。『ハムネット』での赤が愛と情熱の象徴なら、『ザ・ブライド』での赤は血と反逆か。
続編が計画されているのかどうか知らないが、ラストはそれを思わせるものだった。
シェイクスピアの名は誰でも知っているが、その実際の人物像や生涯には謎が多い。謎が謎を呼び、世界中でこれまでも数多くの創作の素になってきた。さらにその実体が不明なのが、彼の家族についてである。
年上の妻だったアン・ハサウェイはどんな女性だったのか。彼らの息子が少年期になくなったのは何が原因だったのか、今も不明なままだ。 それでいながら、シェイクスピアの妻は後生、ずっと悪女としてこき下ろされてきた(ソクラテスの妻、クサンチッペと同様に)。
映画『ハムネット』は、その女性を主人公にすえ、シェイクスピアの戯曲『ハムレット』と11歳でなくなった2人の息子ハムネットを想像力で結んでいる。
本作品の主人公のアグネスを演じるジェシー・バックリーが実にすばらしい。圧巻の迫力と演技力である。劇中の彼女は鷹を操り、種々の野草のもつ効果について詳しい知識を持ち、自然そのものと交感する力を持っている。そうした原始的な強さと魔性を持つ女性を自然とこなしている。
原作小説を書いたマギー・オファーレンとクロエ・ジャオの共同脚本による本作品は、悪女として扱われてきたシェークスピアの妻を「再生」させ、謎に包まれた夫婦の関係を息子の死を中核にしながら、2人の出会いと相克、そして喪失と再生を想像力豊かに作り上げた。
終盤、ロンドンのグローブ座で劇中劇として『ハムレット』が上演される。当時は椅子などなく観客は全員立ち見で観劇しているのだが、その最前列で夫の作品を観るアグネスがその芝居によって「再生」されていく様がなんとも感動的に描かれていた。なるほどこれならアカデミー主演女優賞を受賞したのも当然と納得した。
観客は予想と違って男性が7割! そして、その7割は僕より年上の人たちだった。
某国営放送の夜のニュース。
現在、米国とイランの停戦を巡る交渉が世界的に注目されているわけだが、そのニュースのなかで女性キャスターが、「この件に関しての街の声を紹介します」といって街頭インタビューのビデオが流れはじめた。
50代らしきどこかの一般男性が局のレポーターからマイクを突きつけられ、このままだとガソリン価格がどこまで上がるか分からないとか、他の物価への影響も不安だとか話している。
何だ、これは。この発言のどこにニュース価値があるのか。たまたま近くで見つけて、マイクを向けて、それらしく話をしてくれたおじさんがいただけのことと違うのか。
こうした無意味な街角インタビューがこの局は好きらしいが、<報道とは何か>についてこの局の番組制作者たちは考えた方がいい。
端的に言って、SNSはクソだと思っている。
ネット上での誹謗中傷に関して寄せられた相談件数が過去最多を記録した。
そりゃそうだろう、ネット空間は増大し続けているなか、発信者のモラルは低下する一方なんだから。兵庫県知事選に際して発生したあまたの問題を思い返せば明らかである。
人の意識は容易には変わらないことを考えれば、まずは制度や仕組みを変えることで対応していくしかない。
オーストラリアやフランス、米国のいくつかの州では既にSNS利用の年齢制限を法で設け、SNS利用の運営企業には利用者の年齢確認を義務化している。その他、デンマーク、スペイン、ドイツ、ギリシャ、フィンランド、ポルトガルで議論が進んでいて、だいたい15歳を利用制限年齢に設定するという方向で進んでいる。日本での実質的な利用者年齢についての規制はない。
2020年、フジテレビ制作の番組がきっかけで、女子プロレスラーの木村花さんが視聴者から大量の中傷誹謗を受け自殺した。その後、中傷投稿への対応をSNSの運営企業に義務づける情報流通プラットフォーム対処法が2025年にやっとできた。
だが、それには予防的な効果は期待できず、いくらかの事後的処理のための制度でしかない情けなさ。だって企業の対応はまちまちだし、腰は引けてるし、強制力はないし。役所がやってる振りを見せるための腑抜け規制と言われても仕方ない。
最大の問題は、誹謗中傷投稿の発信者を被害者が特定するのに極めて骨が折れること。時間がかかるし、問題解決に働きかけるのにも信じられないほどの手間がかかる。
日本では未だにそうした現状に対して鋭角的に切り込まない理由として、「表現の自由」が取りだたされている。
だが、考えてみればすぐ分かると思うのだけど、匿名での発言に「表現の自由」もないはず。誰が言ってるのか分からず、今では人間が発信しているのかどうかすら分からないのだから。
プラットフォーム企業が「発言の自由」を振りかざしてこれらの問題を放置しつづけているのは、ネット上の情報流通が多ければ多いほど彼らにとって儲けになるからに過ぎない。単純な話だ。
欧州のデジタルサービス法(DSA)は、利用者保護の観点からプラットフォーム企業にSNS規制をしっかりかけている。罰金もとる。違反企業の前年度の全世界での売上高の最大6%まで課す。
日本はそれに比較するとまるで何も規制していないに等しいのだ。間違いなく国の不作為である。
だからネット上の中傷誹謗についての相談件数がうなぎ登りになるだけでなく、泣き寝入りも後を絶たない状況が続いている。
冒頭、SNSはクソと書いたが、クソなのはSNSというシステムではなく、匿名でしか発言ができない奴と、発生している問題へ真剣に対峙しない当局の担当者がクソなのだ。
今日は朝から雨。花見でもなかろうと、朝食後は近くの京都シネマに行く。ここは昔からセレクションがユニークで、大手の興行会社が運営する劇場ではかからない作品を見せてくれる。
選んだのは「金子文子 何が私をこうさせたか」。彼女は1903年に生まれたが、親が出生届を出さず、壮絶な虐待を受けて育つ(朝鮮半島で彼女を奴隷のように扱う鬼祖母を吉行和子さんが演じており、吉行の遺作になった)。虚無主義者、無政府主義者として生き、23歳で獄中で縊死する。
彼女が死んでちょうど100年。100年前の日本でこうした女性が生き、闘い、抗い、死んでいった。投獄されたのは冤罪だった。天皇や天皇制を批判したことで「官」から目をつけられぶち込まれたわけだ。
映画は、彼女が残した手記にある短歌をもとに脚本が書かれ制作された。映画の中でそれらのいくつかが紹介されるが、すばらしい。深い才能を感じる。
彼女は短歌以外にも膨大な量の書き物を残したが、当時の官憲がそれらが世の中に出ることを怖れて短歌を除いて処分してしまった。
この時期、他にも才気溢れる反骨の女性たちが国家権力によって殺されている。菅野スガが1911年に29歳で死刑に、伊藤野枝は1923年、28歳の時に特高によって虐殺された。
受難の時代だ。今はどうだ?
八坂神社の東、円山公園には約800本の染井吉野や山桜などが咲き揃う。
が、そのなかでも円山公園の中央、10メートル以上の樹高を持つ1本の祇園枝垂桜(ぎおんしだれざくら)はひときわ見事である。今がまさに満開。
夜にはライトアップで薄紅色を闇に浮かべる姿は息を呑むような空間をつくりだし、周囲に焚かれたかがり火と合わせて夢幻の世界へと訪れた者をいざなっている。
ニュース番組でAIの軍事利用が急速に進んでいる話題が取り上げられていた。
思い出すのは、イスラエルによるパレスチナ・ガザ地域への攻撃で嫌というほど見せられた、モニター上で建造物や施設、車両などが自動で照準を合わされ、あっという間にミサイルで爆破される例の映像だ。
AIが何を攻撃するかを決定し、実際に攻撃し、その評価まで行うのに要する時間はほんの数分。人が介在し、その攻撃の適正さなどを判断する時間はすでになくなっている。
つまり、AIが勝手になんでも攻撃を進めているのが既に現実なのである。具体的な手順は、以下の画面に写っている6つのプロセスだ。
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| NHK『国際報道』 |
最近では、ほとんどの学生が課題の作成に関して、程度の差はあれこそAIを利用しているという。そして、AIに卒業論文や修士論文の手伝い(作成)をさせる際の流れもほとんど同様に思える。
修士論文を作成するように学生に命じられたAIは、まず①指定の分野においてリサーチ・クエスチョンを探し(Find)、②その学生の修論として使えそうなトピックを特定し(Fix)、③周辺領域の先行研究を集め(Track)、④参考文献として利用できそうな記事を選定し(Target)、⑤それらをベースに論文本体を執筆(Engage)、最後に⑥研究の限界をまとめる(Assess)といった具合だ。
また番組では、進歩するAIの軍事利用のなかで、もっともその利用が懸念され、また課題となっているものとしてLAWS(Lethal Autonomous Weapons Systems 自律型致死兵器システム)が紹介されていた。
これは差し詰め、学生たちに当てはめれば、LAWS(Longing Autonomous Writing Systems 自立型渇望的文章作成システム)といったところか。これさえあれば、レポートはもちろん、卒論でも修論でもあっという間にできちゃう。
その番組の最後でまとめ的に取り上げられていたのが「自動化バイアス」だった。これもまた、というか、戦場においての軍事利用よりも大学などの教育機関においてこそ注意しなければならないポイントである。
そうしたとき、出てきた答えを見て違和感を感じたら自分でそれを深掘りして調べてみる。と、そうした時はAIのアウトプットはたいてい間違っている。実際は、まだその程度なのだ。
だが、もし急いでいたり、そうした手間を惜しんだり、端から盲目的にAIが吐き出す回答を疑わない習慣になっていたら当然ながら間違いにも気づかないままに終わる。
そこが、まさに自動化バイアスの罠である。
経産省と国交省が「電動垂直離着陸機」の商用化への工程表を示した。
それによると、来年か再来年にはパイロットが操縦するものを運用開始し、2030年代前半には都市間の輸送をそれに担わせるらしい。
そして2030年代後半には自動運転で飛行できるように制度を改定するという。
これだけドローン技術が発達しているので、人が乗れるようにしたその大型と考えれば納得もいくが、飛行している途中に地上や衛星からの電波が途絶えたりしたら、どうなるのかちょっと心配だ。
現在のタクシー代わりのような存在になると言われているけど、うまくいくだろうか。タクシーで運転手さんに「その先の郵便ポストのあたりで止めて」みたいな使い方ができるとは思えない。だって、どこにだって降りられるわけではないから。
日本は(人が住んでる)地上は電線がいっぱいだし、道も公園も狭い。これは10年後だって変わっちゃいないはず。離着陸するには危なくて仕方ない。
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| スカイドライブ社の「空飛ぶクルマ」 |
それにしても、この手のモビリティだが、いまだに日本では「空飛ぶクルマ」と呼ばれている。けれど、見ての通り車輪はついていない。垂直に上昇するから滑走もしない。
なのに、なぜクルマと呼ぶのか。形状と機能はクルマではなく、ヘリコプターに一番に似ている。だから「空飛ぶクルマ」というへんてこな呼び名はやめて、「ミニヘリ」と定義した方がいい。
われわれが日常利用している多くの電子機器のバッテリーはリチウムイオン電池がほとんど。そのリチウムイオン電池は使用していると性能が次第に低下し、やがて交換が必要になる。
結果、機器本体には問題がなくても時間の経過とともにバッテリー(リチウムイオン電池)のせいで利用性能が落ちていく。
ところがメーカーの設計仕様によって電池交換ができなかったり、あるいはできても専門業者に依頼し手数料を払って交換してもらわなければならない機器が多数。
そうした消費者の不利益を減ずるため、EUでは「修理する権利」が法制化されている。2027年2月以降、EUでは携帯用バッテリーを組み込んだ製品は、消費者が容易に取り外しや交換ができるようにする必要があるのだ。
実際、任天堂がスイッチ2やそのコントローラーに搭載されているリチウムイオン電池を交換できるよう仕様を変更するという。ソニーはプレイステーション(PS)のコントローラーの電池を交換できるように仕様をすでに変更している。
ところがこれはEU域内で販売する製品だけ。任天堂もソニーも日本で販売する製品への対応はまだ考えていないのだとか。
これって、おかしくないか。技術的にできるにもかかわらず、日本ではまだ法制化されていないから「やらなくていいじゃん」とメーカーは考えているわけだ。
理由は、製造工程や部品が増すことでコスト増につながるからだと。これはシンプルなビジネスの論理だが、企業の経営者たちには少し考えてもらいたい。
ぼくの家にはアマゾン・キンドルが何台も転がっている。壊れたからではなく、バッテリー性能が低下し、使うたびに充電が必要になるなどの理由で使わなくなり、かといって捨てられず・・・。スマートウォッチのFitbit(マイクロソフト)も同様にバッテリーの持ちが悪くなったかつてのモデルがいくつも死蔵されている。
どちらも、メーカーによってバッテリーの交換ができない設計になっている。つまり、消費者に向け「使い捨てろ」と言ってる訳だ。
こんなこと、日本でだっていつまでも認められるべきではないだろう。
3月は卒業式のシーズン。そのめでたい卒業式を毎年、赤飯で祝っている福島県いわき市内の中学校5校で給食用に用意された赤飯が,すべて廃棄された。
事の始まりは、たまたま今年の卒業式が3月11日、つまり東日本大震災が起きた日と重なったことだった。そんな日になぜ赤飯を出すのか、という指摘が保護者なる人物から学校にあったという。
そして、市の教育委員会が赤飯を出すのをやめることを決定し、用意されていた約2100食の赤飯が廃棄されることに。そんなニュースを聞いて、情けなさに力が抜ける。
確かに3月11日は、誰もが知る東日本大震災の発生した日である。しかし、卒業式とはそれは別の話だ。赤飯を用意したいわき市の給食センターは、卒業していく子供たちの門出を祝って毎年赤飯を提供しているらしい。
たまたま卒業式が3月11日にあたったからといって、そのことに疑問を呈してきたという保護者はなんなのだ。
またそれを受けて、生徒たちへ給食の赤飯を出すことを取りやめ、準備された赤飯を廃棄することを決めた教育委員会の委員たちはどういう判断基準の持ち主なのか。
さらに、いわき市の5つの中学校の校長や管理者たちは、それに対してどのように反論をしたのか、あるいはしなかったのか。
赤飯による卒業生徒への祝意が震災被害者の追悼を損なうという奇妙な理屈。それが通ってしまう不可解さ。
保護者から批判されたくない、責任を問われたくない、そのため赤飯を給食に出すことを取りやめて廃棄することにしたという「大人の判断」。
自分の頭で考え、判断し、責任を取るという基本を、卒業していく中学生たちの前できっぱりと放棄してみせた。これが市の行政と教育者たちがやるべきことだろうか。赤飯捨てて、いったい誰が喜んだ?
3月11日が震災の日と重なったから赤飯を出すのをやめたわけだが、そんなことを言えば、一年365日、どの日だって誰かの命日であり、歴史を掘り返せば、どこかで災害が起こった日に違いないのだ。
廃棄された赤飯、2100人分。もったいない。
音楽評論家の湯川れい子さんがX(旧ツイッター)に書いた「戦争ほど、理不尽で悲惨なものはありません」という投稿に対して難癖をつける書き込みがいくつも寄せられたという。
ぼく自身はXはやらないのでそのもとの投稿は読んでいないのだけど、それはウクライナやパレスチナのガザ地区、イランなどの地に住む人たちに思いをはせての湯川さんの投稿だったのではないかな。
現在90歳の湯川さん。終戦の時は9歳。それをもって、「お前は戦争に行っていないくせに」と批判された。
湯川さんも血気盛んなのか、それを受けて「私が戦争を経験していない? 寝ぼけたこと言わないで下さい」と返して論争になった。
そんなクソリプは放っておけばという向きもあろうが、黙っておけないのが昭和の生真面目さと言っておこう。
彼女は先の大戦で父親と兄を戦地でなくしている。またあの時代だから、戦後は他の人たちと同様、さまざまな生活上の困窮にも見舞われたはず。
だが、彼女にイチャモンをつけた連中は、まだ9歳で戦争に行ってないのだから戦争を知っていると言うのはおかしいとツッコんだ。
そうした彼(女)らにとっての戦争とは、兵士が機関銃を撃ち合っているようなどこかの戦場という場所で展開されていることなのだ。
自分たちがスマホやパソコンの画面で楽しんでいる戦争ゲームこそが「ザ・戦争」なんだろうが、あまりに発想が表層的で貧しい。
そうした連中に、もし「戦争じゃない状況とは、どういう状況だと思うか」と問うてみると、おそらく「戦争じゃないんだから平和なんだろう」という答えが返ってきそうな気がする。
戦争か平和か、トルストイの小説みたいだが、実際はそうした単純図式では片付けられない。S・ダスグプタは戦争と平和という二分法ではなく、平和の対極にあるのは<非平和>であると定義した。
非平和とは、別の言い方をすれば平和の不在であり、貧困や不平等、弾圧、飢餓、分断、不正義の蔓延などがそれにあたる。つまり、大砲の弾が飛んでないから平和だというわけではないということ。
人はつい物事を単純化して考えがちになるけど、AじゃないからBというのが常に当てはまるわけではない。CかもDかもしれない。あるいはA’かもしれない。
これはシンプルに想像力の問題。
申請しておいたパスポートを受け取りに市のパスポートセンターへ行った。
受け取り時、国と県にそれぞれ別個に手数料を支払う必要がある。国への手数料は10年用のパスポートが14,000円。支払いにはパスポートセンターとは別室の写真スタジオで収入印紙を購入し、それを所定の用紙に貼り付ける。
収入印紙を販売する写真スタジオ内には街角の宝くじ売り場のような専用のスタンドがあり、そこの窓口には職員の女性2人が座っていた。印紙の販売など自販機でもできるのに、典型的な税金の無駄使いに見える。
一方、県への手数料は2,300円。こちらはパスポートセンター内でクレジットカード支払いができる。
それにしても、それぞれ別の方法で支払わされるのはただ手間がかかるだけ。合計の16,300円をカードで一括支払いできないのかと思う。
日本で収入印紙制度ができたのは明治6年(1873年)だから、150年以上前のこと。それ以降変わってないらしい。収入印紙を用いる制度がいまも残るのは、世界でも日本とインド、フィリピン、スリランカくらいだ。
変わらないのは変える方、つまり国の側に変えるインセンティブがないから。これまでのやり方に慣れているから変えたくないってわけだ。国民の利便性の方には顔がまったく向いていない。
デジタル政府など、この国では実際のところ夢のまた夢ということがわかる。
ニューヨークタイムズが "100 Years of Women Who Changed History"と題する記事を掲載していた。
https://www.nytimes.com/interactive/2026/03/06/obituaries/archives/notable-women-deaths-obituaries.html
著名な女性たちの100年にわたる死亡記事を見直し、彼女たちがどのように記憶され、また歴史が語らなかったかもしれないことを明らかにする、というのがその特集記事の趣旨だ。
各国、各界の女性が取り上げられている。著名な夫(たとえば政治家や音楽家、画家)の裏には彼女たちの貢献、あるいは、実は彼女たちがその功績の主人公だったといった話も多い。
音楽分野では、マリア・カラス、ティナ・ターナー、そしてエイミー・ワインハウスが取り上げられていた。あ、それからビリーホリデーも。
彼女は13歳のとき、広島で被爆。上半身に大やけどを負い、ケロイドで口や手などを自由に動かせなくなった。その後、協力者の力によってアメリカで皮膚移植の治療を受け、その後現地で看護を学ぶ。そしてアメリカの病院で働きながら92歳で亡くなるまで、核廃絶を訴え続けた。
https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=D0009250754_00000
反戦や反核を訴えてきた女性は他にもいたはず。だけど、いまのアメリカの政権下で反戦に関わった女性をヒロイン扱いするのが難しかったのか。
広島での実際の被害者である日本人を取り上げるが精一杯だったのだろうか。
だとすると、今のアメリカの現状は何ともはやとしか言いようがない。