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2021年1月3日

日本は<どう>平和か

昨年の春先から、ほとんど大学に行く機会がなくなった。授業や会議、打ち合わせはおよそズームを使って行われるようになったからだ。

当初どうなるかと思った遠隔授業も、教員や学生が慣れればそれなりに効果があることも見えてきた。そして、これまで費やしていた通勤時間が自分に戻ってきたのはとても大きなメリットだと言える。

だがその一方で、大学のキャンパスに行くことで失われた最大のものは、図書館へのアクセスだ。研究室がある早稲田大学のメインキャンパスには、日本有数規模の図書館がある。もちろん分野にもよるが、大抵の本や資料はそこで手にすることができる。

大学に行くことがなくなった結果、これまでみたいに必要だと思った本を図書館へちょっと足を運んで探したり、借り出したりすることができなくなった。そしてその分、ネット書店で購入することが増えた。

新型コロナの感染が始まってからだけでも、何冊ネットで本を購入しただろうか。おそらく200冊ではきかないと思う。そうやって入手した最近の本の中で最大の収穫だと思うものが、『岩波 哲学・思想事典』である。知り合いがその事典を持っていて、ある研究会の席で紹介してくれた。それをきっかけに手に入れたのだけど、実に面白いし役に立つ。 
 
 
例えばその事典の「平和」の項。平和とは何か、ほとんど普段考えたことがなかったが、その事典によると平和には消極的平和と積極的平和の2つがある。消極的平和というのは戦争がない状態である一方で、積極的平和と言うのは発展的活動的な状態であり、消極的平和とは異なると示している。

積極的平和の構成要素は、消極的平和を前提とするが積極的平和の基本的要素は、豊かさ、秩序、安全、正義、公平、自由、平等、民主主義、人権尊重などで、これに加えて健康、福祉の充実、文化的生活、生きがい、環境保全等もそこには含まれるとしてる。なるほど、なるほど。

さらに平和を理解する際の重要なポイントとして、平和の対義語は必ずしも戦争ではなく、平和という概念の対極にあるのは非平和であるとの考えを示す。先進国では戦争がなければ平和だが、途上国では戦争がなくても平和ではないから戦争と平和と言う二項対立は当てはまらないと言うのである。

そうした非平和を形作るのは、直接的暴力と構造的暴力である。一般的に平和の対立概念として考えられる戦争は直接的暴力の代表であり、またテロなども直接的暴力の典型だ。一方で、構造的暴力には貧困、無秩序、不安定、不正義、不公平、弾圧、不平等、殺傷、飢餓、疫病、医療施設の不在、低い識字率などがそこに含まれる。

つまり、トルストイがその小説で描いた「戦争と平和」のように平和と戦争は単純な二分法で分析されるものではなく、その仕組みは複雑化していることにわれわれは目を向けなければならなくなっているということをこの辞書の記述から教えられた。

振り返って、現在の日本は平和か、どれだけ平和か。それとも非平和のひとつである構造的暴力がますます社会に広がっているのではないか、そうしたことをこの事典を読みながら考えさせられた。 
 

2020年10月11日

人は、本によってできている

部屋の片付け(つまり物を減らす作業)をしていたら、岩波書店が発行している古い『図書』がでてきた。1997年の臨時増刊号で、岩波新書創刊60周年記念と題字の上に描かれている。

特集タイトルは「私の薦めるこの一冊」。岩波書店が各界で活躍している人たちにアンケートを送り、回答を返してくれた429人の「岩波新書の一冊」についての思い出やコメントが紹介されている。

「岩波新書にこんな本があったんだ」という発見だけでなく、評者と本の意外な取り合わせが面白くて、トイレに置いてしばらく眺めていた。

劇作家の人が数学に関する本を「学生時代に読んで、忘れられない」と書いていたり、天文学者が禅の本を取り上げていたり。取り上げられている本にもまして、なぜこの人がこの本を、と創造するのがとても楽しい。

一方で、政治家が政治思想史の本を取り上げていたり、歴史学者が歴史の本をこの一冊と言っていてもなんだかね。

自分が回答するとしたら、どの一冊だろう。永六輔さんの『大往生』かな。

2020年8月10日

PSJの論文を投稿

7月最終週で大学の授業がすべて終了し(そう、今期はすべてZoomを使ってのオンライン授業だった)、その翌日からは投稿論文を書いていた。

F・ライクヘルドらが提唱しているNPS(Net Promoter Score)の問題点を修正した日本版NPSともいえるPSJ(Promoter Score Japan)に関するものである。

これまで海外の学会で一部を紹介してきたテーマだが、年初からの武漢肺炎の影響でまったく海外出張に出られなくなってしまったので、今年はしかたなく国内学会へ参加することにした。

PSJ®は、日本の消費者を対象にした顧客推奨度を測定するための独自の新たな指標だ。

早稲田大学マーケティング戦略研究所と僕でその商標を持っている。論文は締め切りまであまり時間がなくていささか忙しかったが、今日で一段落といったところ。

このあとは、ペンディングにしてしまっている前期授業の成績評価を早く終わらせなければ。

2020年5月17日

放送大学はどこへいく

僕が教えている研究科は、4月20日からリモート授業を開始した。それから4週間が過ぎた。

最初はどうなるかと思ったところもあったが、何とかなってる。確かに相手が社会人大学院生だから、というのはある。

学部の1年生(18歳)の授業を担当している先生などは、いろいろ苦労が多いという話を聞く。授業の中身をどう伝えるかという以前に、学生によってはネット環境が整っていなくて遠隔のクラスになかなか参加できないとか。

教員もほとんどが自宅からだから、相手の状況を手に取るように分かるわけではなく、そうした授業以前の問題の解決に時間と労力を取られている。

セキュリティの問題が取り沙汰されたりはしたが、Zoomがほぼ一般的なツールとして利用されているようだ。懸念はメンバー以外が紛れ込むことことで情報が漏洩するリスクがあるというのだったが、もともと所詮は大学の授業だ。秘密などない。まあ、あるとすれば、学生の個人情報(誰々は勉強ができない、とか)くらい。

遠隔教育といえば、日本では放送大学がすぐ頭に浮かぶ。それが設立されたのは1981年だから、40年の歴史がある。

しかし不思議なことに、今回日本中の大学教育機関がキャンパスを閉じ、遠隔授業の実施を迫られたとき、僕が知る限りではどこからも放送大学を手本にしようといった考えはみじんもなかった。

40年の遠隔教育の歴史があるのであれば、本来はそこが日本の司令塔として様々なノウハウを各機関に提供するのが道理なのだが。放送大学には実質的なノウハウや教育の技術は何もないのを皆が見て取っているということか。

2020年4月25日

パスカル『パンセ』から

今年1月から始めた私的研究会で、今月はパスカルの『パンセ』を読んだ。いつものように研究室に集まってというわけにはいかないので、Zoomを使っての研究会である。

多くの時間を家の中で過ごし、感染者拡大の数字の移り変わりを見聞きし、いつの間にかそうした目先の情報へ意識が振り回されていると感じているときに、こうした古典をじっくり読み、深く議論をするのは極めて良質な浄化であるように感じた。

『パンセ』は924(編纂によって異なる) の断章からなる一冊だが、そのなかにこうした一節があった。
われわれは絶壁が見えないようにするために、何か目をさえぎるものを前方に置いた後、安心して絶壁の方へ向かって走っているのである。(断章183)
この本が出版されたのは17世紀のこと。 だがこれって、今の状況と変わらない。

2018年10月16日

原因と結果との因果関係をしっかり辿るのが先だ

今朝の新聞一面の見出しに「レジ袋、コンビニも有料に 環境省が義務化方針」とする記事があった。

「環境省は小売店で配布されるレジ袋について有料化を義務付ける方針を固めた」で始まる記事によると、対象はスーパとコンビニでレジ袋1枚につき数円の支払いを店頭で消費者に義務づけるらしい。

肝心の目的に関しては、記事は次のように紹介している。「海に流出した廃プラスチックの環境問題が深刻になるなか、レジ袋を減らし汚染防止につなげる」と。

つまり、「レジ袋の有料化 → 使用量の減少 → 海への流出の減少」という図式が環境省のあたまにある。

目的がプラスチックによる海洋汚染の防止ならば、もっと集中的に力を入れるポイントは別にあるはず。海洋投棄をどう防ぐかがカギであって、コンビニやスーパーの店頭でレジ袋で金をとるかどうかはどう考えても副次的な話だ。

海岸や河川などからゴミとしてビニール袋が海に流れ出てしまうのは、個人のマナーの問題である。またゴミ箱を必要に応じて設置しない、それをきちんと管理しない行政の責任も大きい。 それ以外にも流れ出る「ルート」があるかもしれないが、それが何なのかまずはトラッキングしてみる必要がある。

いずれにせよ、店頭で金を取るにしても、それは店が判断すること。役所が義務化することではない。企業はそうした押しつけに対しては、業界で反発すればいい。

国の狙いは、例えば2円のレジ袋ならそのうち1円を海洋汚染対策税かなにかの名目で召し上げようと考えているのでは。

ところで記事では、国内で消費されるレジ袋は450億枚程度と推定されるとしている。いつのことか、またその期間が書かれていない。1年間なら人口一人当たり360枚になるが・・・。 

疑問に思い、ここで新聞社に電話。交換台から読者センターに回され、問い合わせの内容を伝えたところ担当の男性がしばらくネットで検索している雰囲気が伝わってきたのち「分かりません。書かれている以上のことは知りません」と回答。ビックリ! 

記事のなかに期間が記載されていないので問い合わせているのだと伝えたら「環境省に聞いてください」って言うし、環境省のリリースをもとに書かれた記事なんですねと尋ねると、「それを書き写して何が悪いんですか」と喧嘩を売られた。挙げ句の果てに電話を一方的に切られた。日経新聞東京本社。

ここまで常軌を逸した対応も珍しい。もう一度題字下に書かれている代表番号に電話し、記事について問い合わせしたら分からないと言われ電話を切られた旨を伝えた。読者センターの別の担当者(今度もまた年配の男性)が恐縮して電話口に出てきた。先ほどの対応時の状況を伝えたら、なにやら受話器の向こうで不穏な雰囲気が流れているのが分かった。常習者がいるのだろう。結局、「申し訳ありませんでした。よく指導しておきますので」と言われ会話を終えた。

もとは記者か何かだったのが、今は肩書きを外され読者センターに回され腐ってしまった一例にあたったようだ。