今日は十六夜。
雲がかかっている月も、それはそれで風情を感じる。月の左上(11時の方向)には木星が写っている。見えるかな?
日本の人口は、2010年以降一貫して減少している。1世帯当たりの人数が減ることで増え続けていた世帯数も、国立社会保障・人口問題研究所の推計で2023年に5420万世帯を記録したのち減少に転じる。
一方、日本の住宅総数は増えてづけている。2023年には、国内の住宅総数は6550万戸になる。つまり2023年には、国内で1100万戸の住宅が余っている計算になる。日本国中、空き屋だらけだ。
英国で生活していたときに驚いたのは、なんとヴィクトリア朝の頃に立てられた建物がいまもたくさん残っており、内部だけ近代的な設備に入れかえて当たり前のように利用されていることだ。石造りの建物だからできることなんだろう。
一方、日本の多くの家屋は構造が全く違う。日本の気候風土に合わせてということもあるのだろうが、概して耐久性に劣る。田舎にある良くできた古民家などは別として、戦後にこの国に建てられた家はスクラップ&ビルドを前提にして安く、早く、見かけだけそれなりを目的に開発され立てられてきたからだ。
そのツケが回ってきている。空き屋は放置すれば、あっという間に建物は荒れて傷む。誰も住まなくなった家屋をどうするかという対応策は大きく3つ。居住者を見つけるか、改築して店舗や事務所などに転用するか、さもなければ解体して一旦更地にするか。
ただ、店舗など商業用に転用できる空き屋はごく1部だろう。また解体して更地にももどすには費用がかかるだけでなく、地目が変わり固定資産税が増す。二の足を踏む土地所有者が多い。
そして今後増え続ける空き屋をどうするかは、相続する所有者だけでなく、地域社会や自治体にとっても頭の痛い問題になっている。
まずは自治体が安く借り上げて、借りたい人に貸し出してはどうだろう。もちろん立地や環境にもよるが、セカンドハウスとして多住居生活をしてみたいと考えている日本人は増えているようだし、今後日本が移民を本格的に受け入れるようになれば、そうした人たちに使ってもらえる。移民政策の本格的導入は絶対に必要になるはずだ。
一旦建物の基礎がダメになった住居を修繕するのは大変だ。急いで官民で対応に動く必要がある。
政府が昨日公表したところによると、安倍元首相の国葬費用が当初の予算額の6.6倍になった。
世論や野党からのやいのやいのという批判を受けて金額が今回公表されたわけだが、これとて多くの国民は信用していない。政府主催のこれまでの種々の儀礼にかけられた費用から推測すると、今回はさらに何倍にもなるはずだ。
僕は安倍元首相の国葬には反対だ。岸田首相がどうしてもというなら、われわれの税金以外でやって欲しい。
国葬開催費用をまかなうためのスポンサー企業でも募ればいい。ワールドワイド国葬パートナー、国葬ゴールドパートナー、国葬オフィシャルパートナー、国葬オフィシャルサポーターの4レベルできめ細かく選定すればいいんじゃないのかね(下図参照)。
![]() |
| 出所:大会組織委員会公式サイト |
協賛したスポンサー企業へ向ける国民(消費者)からの注目度は、今回の東京オリンピックの比ではないはず。
そのスポンサー獲得活動の総責任者は、電通の専務だった高橋治之元組織委員会理事(受託収賄罪容疑者)に任せたらどうだ。
↑ゴールドパートナー以上には、こんな感じの記者会見もありだ。
とにかく、円安の問題、コロナの問題、景気の減速、国民生活の逼迫、エネルギー確保など政治が取り組まなければならない問題が山積するなかで、こうした個人に係る儀式をやるやらないかの議論に必要以上の時間を費やすのやめてくれ。
先日このブログで「紙で読むか、デジタルで読むか」と書いたが、今日届いた郵送物の中にある証券会社からの「郵送通知廃止等のご案内」という文書があった。
そこには「〇〇証券では環境保護や紙資源節約等の観点から・・・に係る通知の郵送廃止を実施致します」と書いてある。
そして今後は、必要ならその証券会社のサイトにログインして取引履歴画面で確認するようにとのお達しだ。
環境保護? 紙資源節約? だったら今回のA4用紙2枚の文書はなぜ両面印刷にしないのだろう。そうするだけで紙の量は1/2で済む。
環境保護などただの建前で、実は費用を削減したいだけという本音が見える。
教育の現場では、生徒1人に1台のデジタル端末が導入されつつあるらしい。そして教科書は、まずは英語を皮切りに紙のものからデジタル教科書に移行していくとか。
広島大学などの研究チームが、今回デジタルと紙でどちらが読解力が発揮できるかの調査を小学生を対象に行った。https://www.saga-s.co.jp/articles/-/908299
結果は学年によって異なったものがでた。調査の精度がどの程度のものか分からないのでなんとも言えないが、今回、小学生を対象に紙とデジタルの読解力の差を初めて調べたというのにはちょっと驚いた。
というのも、教科書をデジタルに移行していくことを文科省は決定しているにもかかわらず、こうした基本的な効果検証に係る調査すら行っていなかったから。
では紙の教科書をデジタル教科書へという方針の根拠は何だったのか? 教科書が重そうで子供たちがかわいそうだから? デジタル版だと印刷や製本コストがかからないから? 紙を使わないことで地球環境保全を推し進めるため?
教科書というのはもっとも重要な教材なんだから、教育上の効果がどうなるかくらいの事前調査をしてから紙かデジタルかの議論をしなくちゃいけない。文科省らしく、ここでも理屈が抜けている。日本の子供たちの教育を真剣には考えてなんかいないんだろうな。
教科書は何度も何度も繰り返し読むもの(だったと思う)。何がどこに書いてあったかは、その書かれている(印刷されている)場所で覚えていたりする。しかもマーカーで線を引いたり書き込みをしたり。デジタルでもできるが、紙の方が簡単。
子供たちの教科書はまだ紙の教科書を基準にした方がいいと思っているのだが、自分が活字を読むとなるとデジタルも手放せなくなっている。
kindleは、旅先で読書をする際には欠かせないツールだ。本を何冊もバッグに入れて行くとそれなりに重いが、kindleなら何冊入っていようが重さに関係なし。それと、湯船に浸かりながら本を読むときはキンドルじゃないと。お風呂で紙の本を読むこともあるけど、その時は濡れないようにとか、指先が湯船につからないようにとか、気を遣うので疲れてしまう。
またiPadは画面拡大できるので、地図やガイドブックは紙のものより便利。もちろんデジタルだと検索できたり、辞書で言葉の意味をすぐに引けたりするメリットもある。
紙とデジタル、うまく使い分けていくしかない。
たまたま通りがかった大型商業施設内の屋外広場に、週末らしく子供連れの家族を中心に大勢の人が集まっている。人々が目を向ける先では、大道芸人がパフォーマンスを行っていた。
今はまだコロナのせいで帽子を持って観客の人たちのところを回れない、だからもしショーが気に入ったのであれば、ここにおく帽子のところに持って来て欲しいと訴える。そして自分らは観客からいただけるそのお金で大道芸人として生活しているのだと。
話し方が深刻にならないように気を遣っているのが、声の調子から伝わってくる。こうした場面に遭遇すると、いつも胸が少し締め付けられるような気持ちになる。
彼はいくら集めることができるんだろうか、それは生計を立てるに十分な額だろうか、ここにいる人たちのどのくらいが投げ銭を出すのだろうか、と気になってしまうからだ。
見ていると(見ないでそのま去ればよかったのだけど)、週末で家族連れが多かったこともあるのだろう、子供にお金を持って行かせている親が結構いた一方、大人でお金を入れている人は数えるほど。
子供たちが親から手渡されたものは、だいたいは小銭のように見えた。みんな「赤い羽根募金」のような感覚が根強いようだ。でも大道芸人が期待するのはもちろん紙幣だ。
やがて、芸人がいくぶん哀切を感じさせるように、その場を立ち去ろうとしてる観客らにもう一度マイクで語りかけるも反応はあまりなかった。
以前ニューヨークに住んでいたとき、公園や広場、地下鉄のホームや地下通路などで演奏しているストリート・ミュージシャンは、いわば日常の光景の一部だった。
そこを通りかかるほとんどの人は足早に(ニューヨーカーはみな歩くのが速い)過ぎ去るが、チップを置いていく人は10ドルとか5ドル紙幣を楽器ケースに置いていく。僕も10ドル紙幣を自分のルールにした。なかには、こう言っては失礼かも知れないが、路上生活者とおぼしき連中までがしっかり紙幣をポケットから取り出し置いていく。
ひょっとしたら、人から施しを受けている路上生活者らしき人たちは「仲間」を放っておけないという意識が働いているのかも知れない。実際のところは、確かめたことがないので分からない。
一方で、立派なブリーフケースを下げ、仕立てのいいスーツを着たエリートビジネスマンらしき人は、まるでそうした路上ミュージシャンなどいないかのように完全に無視して通り過ぎる人が大半だったように思う。
日本との違いとしてチップの習慣があげられる。何かをしてもらったとき、相手の「サービス」に対して満足した気持をあらわすためにお金を払う。日本のようにサービスは決して「タダ」の別名ではない。
サービスに対する考え方、チップの習慣、そういったものが米国などとは異なる日本で、大道芸人が投げ銭(おひねり)で生きていくのはほんとうに大変なことだと思う。
もちろん小銭の投げ銭でもないよりはマシなんだろうが、今どきは集めた小銭を自分の預金口座に入れようとすると金融機関から手数料を取られるしね。コロナで芸を披露する場自体が激減しているはずだし、大道芸人にとって受難の時代だ。昔からずっとだ、と言われそうだが。
俳優の山崎努さんが、いま新聞で自分の来し方を振り返って語っている連載が面白い。
先週末、書棚を片付けていた際に見つけた一冊が『2020年からの警鐘 〜日本が消える〜』(日本経済新聞社)という古い本である。
処分する本を選んでいたのだが、つい手に取ってしまい、そうすると読みたくなるもので(いつものことなのだが)読み始めてしまった。同書の内容は、日経で連載していた特集記事がもとになっている。時期は1997年。橋本龍太郎が首相の頃だ。
眼を通して驚いた。そこに何か目新しいこと書かれていたからではない。内容のほとんどは既知のことばかり。驚いたのは、25年前にそこで問題として書かれたことが、見事にそのまま今も解決されないで残っていることである。
人口減少、経済成長率の低下、自然環境の悪化、エネルギー価格の上昇、労働力の不足、財政建て直しのために増す国民負担、日本社会の閉塞性、個人の格差ならびに地域格差の拡大、既得権益が妨げる日本の改革、リーダーの不在、調整型の政治のほころび、などなどである。
四半世紀前に、あらかたの診断はついていた。やるべきことは、具体的な解決策を策定して、責任者をはっきりさせ、期限を区切って実行することだった。そうすれば、間違いなく現在の日本の姿は今の実際のそれとは異なった(もっとマシな)ものになっていたはず。
問題が分かっていたのに、なぜ対応できなかったのか。改革しなければならない点が明らかだったのに、どうしてそのままで来てしまったのか。
クレイジーキャッツの植木等が「♪ 分かっちゃいるけど、やめられない ♪」とスーダラ節(青島幸男作詞)を歌い大ヒットしたのが1961年。今から60年前。
もうその頃から、あるいはそれ以前からずっと、日本人は分かっちゃいるけどやめられないままだったのがよく分かった。
いまこの国で皆してやっているのは、ゆで蛙の我慢くらべだ。
ブライアン・ウィルソン、80歳。ビーチ・ボーイズの創設メンバーで「グッド・バイブレーションズ」「サーフィン U.S.A」「神のみぞ知る」など、そのほとんどのヒット曲を書いている。
映画「ブライアン・ウィルソン 約束の旅路(原題 Brain Wilson: Long Promised Road)」は、その彼に密着したドキュメンタリー映画。
雑誌「ローリング・ストーン」元編集者のJ・ファインがインタビュアーとなり、2人はファインが運転するクルマでかつての録音スタジオやアルバム・ジャケットの写真撮影場所、そのほかウィルソンゆかりの場所を巡りながらさまざまな会話を交わす。
若き天才ウィルソンがアルバム「サーフィン・サファリ」を出したのは、弱冠20歳のとき。ただ、その反面で彼は精神を病み、やがてドラッグに身を浸していく。長い苦闘の時間ののちに復活して音楽活動を再開。今も仲間たちとバンドで活動している。
インタビューのほとんどは、クルマの中でのやりとりだ。いいシチュエーションを考えたなと感心した。クルマのなかという2人だけの閉ざされた空間。2人は対面するのではなく、目の前に現れる光景を並んで眺めながら話をする。
寡黙なブライアンも車窓に流れる西海岸の方々の風景と、カーステレオから流れる自分たちの音楽を次々に聞きながら昔を思い浮かべ、ときに饒舌に、ときに思いに浸りつつ自分たちの音楽づくりについて、バンドの仲間について、亡くなった弟について語る。
最近だと「プアン」でも主人公2人がクルマでタイの方々を巡りながら車内で語り合うシーンが多用されていた。これらの状況、AIによる自動運転なんかじゃ生まれない空間である。
新聞の社説欄に顔写真が挿入されていた。同紙の一面にもまったく同じ写真(こちらはカラー)が掲載され、それには「高橋治之容疑者」のキャプションがついている。
東京五輪・パラリンピック組織委員会の元理事が、受託収賄罪(7年以下の懲役)で逮捕された件だ。
やっぱりそうだったんだろうなと、大会組織委員会にはまったく縁のない僕ですら想像していた。先の五輪は噂にたがわず、不正な金まみれだったことがほぼ確定したようなものだ。
だとすると、あの年を何年にも跨いだ大騒ぎは我々にとって何だったんだろうと振り返らざるを得ない。もう終わったんだからいいじゃないか、と日本人らしさ全開で済ましてはならない。
オリンピックという誰もが知る世界最大の「お祭り」を利用して巨大なブラックボックスの中で一部の特権的な人間が金と欲を思う存分に啜っていた、その姿に気分が悪くなる。
有象無象のコネと政治力を盾に、まともなビジネスとはほど遠い傍若無人の金の儲け方をしていた広告代理店の存在が、昭和から続く日本の構造的腐敗臭を漂わせている。
そして、大会スポンサーとなった大手紳士服メーカーは、本来は企業のブランド価値を高めたかったのだろうが、前会長の贈賄容疑で世間からの信用は地に落ちた。巨額をかけ、労力をかけ、確かにAOKIという会社名は日本国中に知られることになったが、その結果、売上や利益が今後どうなるかはやがて分かるはずだ。
とまれ、大会後、こうして司直の手が入るまで事が公にならなかったのは、それを「見て見ぬ振りをする」のが周りの官僚やサラリーマンにとって常識になっていたことを示している。
ということは、またどこかで(これまで以上に巧妙に)同様のことがこの国では行われ続けるのだろう。
夕刊に「日本社会 なるか「脱・昭和」」という見出しの記事が掲載されていた。
ベースになっているのは、内閣府が6月に公表した「男女共同参画白書」。そこには「もはや昭和ではない」というフレーズが織り込まれ、昭和からの脱却が叫ばれている。
記事によれば、今の若い人たちが昭和について強い違和感や嫌悪感を感じている風潮がうかがえる。
全国の20歳から59歳の男女に訊ねたところ、昭和的な働き方のイメージとして「休暇が取りづらい」とか「働く時間が長い」「会社の飲み会は必ず参加しなければならない」「残業が評価される」「社内の飲み会が多い」といったものが挙げられた(下図参照)。
映画「長崎の郵便配達」では、長崎の今の町並みやいくつかの行事が魅力的に描かれる。以前、友人を訪ねてその街を訪れた時のことを思い出す。
ファットマンと呼ばれれるプルトニウムを使用した原爆が長崎に投下されて77年。この映画の主人公の一人は、16歳の時にその原爆で被爆し、背中一面に大やけどを負ったかつての若い郵便配達人、谷口稜曄(すみてる)さん。治療のため1年9か月にわたり、うつぶせのままで病院のベッドに横たわっていた。胸に褥瘡ができた。
その後、彼は郵便配達の仕事を続けながら、一方では原爆被害を世界に示すひとつのシンボルとされ、また彼自身もその使命のようなものを深く受け入れて死ぬまで生きた。
その彼と、旅の途中の長崎で出会った英国の作家、ピーター・タウンゼント。第二次大戦中は英国空軍の軍人だった彼は、戦争被害者に強い関心を抱いていたことから谷口と知り合い、友人として交わることなる。やがてタウンゼントは、谷口のことを「The Postman of Nagasaki」というノンフィクション小説に書く。
タウンゼントを信頼していた谷口はその本の復刊を強く望み、そのことをこの映画の監督である川瀬美香が知る。復刊を欲する理由を、谷口は「許せないからだよ」と語ったという。いまだ世界に核兵器が無数に配備され、唯一の被爆国である日本は核拡散防止条約にも核兵器禁止条約にも参加していない。
川瀬が二人の交流を核に映画を制作しようと計画している最中に、谷口が亡くなった。
その後見つかった、タウンゼントが吹き込んだ10本のカセットテープをもとに映画はその娘イザベルを追って進行する。家族と暮らすパリから父親の足跡をたどって長崎を訪れた娘をカメラが追う。道しるべは、それら取材テープに残された父親が残したメッセージだ。
今はなき2人の男性の友情と信頼だけでなく。27年前になくなった父親を娘が再発見する物語にもなっている。
濱口竜介監督の「ドライブ・マイ・カー」が広島の街を丁寧に描いていたように、この映画では長崎が魅力的に描かれている。長崎の街は静かで美しい。ただそこに暮らす人たちは、深い悲しみを底に秘めているようにも見えた。お盆の時期、精霊流しが行われる頃の長崎の風景だからかもしれない。
映画を見終わって、僕も映画のなかに登場するのと同じ赤い自転車に乗って家路を急いだ。
映画「プアン」の監督、バズ・ブーンビリヤはタイ映画界の新鋭と呼ばれているらしい。そして僕はタイ人監督の映画をこれまで観たことがない(おそらく)。ではこれは観なくてはと出かけた。
映画のトーンは、かつての日テレ日曜夜8時の学園青春ものである。プロットの中心は、2人の若者と1人の女。時間と場所の流れのなかでの三角関係。そんなどこにでもあるシチュエーションを、年代物のBMWやカセットテープの音楽(キャット・スティーブンス!)、ラジオDJなど気の利いた小道具でカラフルに組み立ててみせたサービス精神は買っていい。
元々ニューヨークで知り合った2人の男。バンコクに戻った一方の男(ウード)が白血病で余命宣告を受ける。その彼は、今もニューヨークでバーを経営するボスに電話をする。死ぬ前に元カノを訪ねたいので運転手を頼みたいと。そして2人は、バンコクを基点にウードの父親の形見である70年代ものだと思える白いBMWでウードの昔の3人の彼女を訪ねて回る。
昔の女との再会と別れが、ウードにとっての人生の惜別として描かれる。ヒロイズムに浸る若者の思い上がりと自己憐憫が甘酸っぱい感傷を感じさせるのは、世界共通なのだろう。ただ、ウードが本当は気にしていたのは、ボスがNYでかつて一緒に暮らしていた女、プリムだった。
ウードとバズの両者が関わりを持っていたプリムは腕のいいバーテンダー。シェーカーを振る姿が様になっている。バズも自分のバーでシェーカーを振る。映画には気の利いた名前がつけられたオリジナルのカクテルがいくつも出てくる。
ウードの3人の元カノ、過去と未来、バンコクやチェンマイなどタイの街とニューヨーク、余命の限られたウードと未来を見つめるボス。これらがシャカシャカシャカといい音を立ててシェイクされ、いくつもの色鮮やかなカクテルとなってグラスに注がれる。
ところでここまで洒落のめすなら、映画の公開タイトルは「プアン」(タイ語で友だちの意味)というあまりに明らか過ぎるタイトルではなく、原題である「One for the Road 」(旅立ちの前の最後の一杯の意)にした方がよかった。
横浜みなとみらいの映画館で「PLAN75」を観た。 早川千絵監督の初の長編映画である。
近い将来日本はこうなるかもしれないという、日本の高齢化社会の一面が描かれている。プラン75とは国の設定した制度で、満75歳以上になると申込ができる<安楽死>のための仕組みだ。
この映画で思い出すのは、1973年に公開されたリチャード・フライシャー監督の「ソイレント・グリーン」だ。舞台は2022年(今だ!)のニューヨーク。人口の急激な増加によって種々の資源は枯渇し、人々の間での格差が急拡大している。たとえば、肉や野菜を普通に食べることができるのは富める者だけで、そうでない人たちはプランクトンから作られるソイレント・グリーンと呼ばれるある種の加工食品を主食にする。
人口のさらなる拡大を抑制するため、そして貧しい人たちを日々の苦しさから救うためと称して「ホーム」と呼ばれる公営の安楽死施設が街には設けられ、そのホームでは死を選んだ高齢者たちが緑に包まれた草原や一面に広がる大海原といった映像に取り囲まれ、ベートーベンの田園交響曲が流れるなか静かな死を迎える。その後、死体は密かに工場に運ばれ・・・というものだった。
さて「PLAN75」では、倍賞千恵子さん演じるミチという78歳の女性は慎ましやかな一人暮らしを続けていたが、その年齢を理由にあるとき急に仕事を失ってしまう。その年齢ゆえに希望するような職に就くことができず思い悩む彼女。
ある時、何度電話をしても電話に応答しないかつての職場の同僚のアパートを訪ねた時、彼女はその友人が家の中で台所のテーブルにうっぷしたまま突然死しているのを発見する。明日の自分かも知れないと考えるミチ。それをきっかけに、彼女はプラン75に参加する決心をする。
映画の中で流れる、政府が作ったのであろうプラン75のCMがなかなかよくできている。人は生まれてくることは自分で決めることはできないけれど。自分の人生に幕を引く決定は自分でできるのだからとそのプランに申し込んだという女性が、おだやかな口調でにこやかに語る。実際にこんなCMが作られるかもしれないなと思わせる。
プラン75は義務ではなく、国民が該当する年齢を超えたときに自らの意思で選ぶことができる制度だ。それは緻密な計画をもとに策定され、巧妙に推奨することで人の心をその方向に徐々に押しやっていく。どうするかを選ぶのは国民であって、国が作った「姥捨て山」ではないとする、そこがポイントであり、そこが残酷だ。
現実問題として、国にしてみれば歳をとり生産性を期待できず、ただ国費支出の対象でしかない貧しい国民らは国の負担でしかなくなる。プラン75は、国家として対応が迫られた日本が考えつきそうなアイデアのひとつだ。
そうした時に我々が取るべき道は、どういったものだろう。まずは、こうした安楽死を自分で選択し一生を終えることは、現実に有り得るかもしれない。
もう一つは、国が高齢者らの面倒をみることができず、またみること拒否している以上、われわれ個人が周りの人に援助を求め、人の助けを受けながら生きていくことである。これまで人々は、その程度の違いこそあれ、年老いて社会的弱者になったときには家族や周りの人たちに頼り、その人たちからの力添えを受けながら残りの人生を過ごしていた人が多かったはずだ。
ただ、家族や周りの人に迷惑をかけるくらいなら一人でおとなしく死んでいった方がいい、と考える「自己責任」感をある頃からすり込まれるようになっているのも事実。それが日本人の一つのエートスになっていっているように思う。つくづく人のいい日本人たち。だからこそ、国はプラン75を実行することができる。
ボリス・ジョンソンが7月に辞任し、その後任を決める英国与党保守党選の選挙活動でトラス外相が大差でリードしている。
![]() |
| トンデモ首相だったジョンソン |
そうした英国民への大盤振る舞いだが、財源はどうするのか。テレビ討論の際に司会者から問われると、彼女は「それでも日本やカナダより少ない」と英国はまだ健全なレベルなので心配ないと強調。
今後英国だけでなく世界のいろんな国で、国民からの支持を得たい候補者が「減税」を強調するに違いない、日本を引き合いに出して。日本を見ろ、それに比べればまだまだ俺たちは健全だというわけだ。ある種のモラルハザードが広がっていく。
今朝、お隣のドアに張り紙を見つけた。小学1年生のケイタ君が書いたものだ。
家族でお盆で帰省するのだろうか。その間、朝顔の水やりを代わりにお願いしますというメッセージだ。彼がベランダで育てていたはずの鉢が2つ、水がいっぱいに入ったじょうろと一緒に玄関前の廊下におかれていた。
お安い御用だ。たくさん花が咲くといいね。
「国の借金」が6月末時点で1,255兆億円を越えた。国債や借入金、政府短期証券の残高は、日本の全人口で割って1人1,000万円では収まらなくなっている。
つまり今の赤ちゃんらは、自分が生まれた時からそうした借金を背負わされているということで、それは「財政的幼児(児童)虐待」と呼ばれる。尋常でない名称だが、そのくらい深刻な状況だということだ。
コロナ対策や東日本大震災への援助、復興のための予算が必要で国債を大量に発行してるのは理解できる。しかし政府は、その後なんでもかんでも国債を発行し、それを中央銀行に引き受けさせれば済むと考えているようにしか見えない。
調子よく引用するMMT(現代貨幣理論)を言い訳にして、国債を打出の小槌と考えている。下図は2001年と2021年の債務残高(GDP比率)を日本と他国で比較したものだ。国名の右の%は、この20年間でどのくらい経済成長したかの数値である。
日本は20年前(東日本大震災もコロナもまだ発生していない)、既に国の借金はGDP比150%と先進国でダントツだったわけだが、それが今では250%を越える。
それだけの借金をしながら、経済成長率は20年たってもわずか12%にとどまっている。経済政策の面だけから云えば、日本は発展性のないことに延々と金を借金して注ぎ、そしてその考えを改める姿勢もない。財務省によると、本年末に国の借金は1,411兆4,000億円まで増える。1人当たり1,130万円強だ。
虐待の度合は、ますます強化され続ける。「こんな国にどうして生まれてしまったのか」と子供たちが将来恨み言を吐くようにならなければよいと願う。
第2次岸田改造内閣が昨日発足した。今朝の新聞の第1面に20人の顔写真が並んでいた。どの省の大臣に誰が任命されたかなど、正直言うともう関心はない。
ただ、朝食をとりながら新聞を眺める習慣があるので、それらの写真が目に入ってくるとメシがまずくなるので困る。後ろの方の紙面に掲載を移してもらえないものだろうか。
ところで、前の内閣(第2次岸田内閣)は昨年11月10日から昨日までの9ヵ月だった。今度の内閣で何をやるか掲げる前に、まずは昨日までの内閣でそれぞれの大臣が何をどう成し遂げたのかを示す「成績簿」を公表してもらえないか。
われわれ国民は誰が大臣になるかではなく、その人物が何をやり遂げてくれるかに期待しているのだから。
ちなみに、第1次岸田内閣は昨年10月4日から同11月10日の38日間だった。日本の憲政史上もっとも短い内閣だった。38日間でも大臣だった政治家は、元大臣となる。
だが、実際はそうした期間で大臣としての自分なりの政策を考え実行することなど不可能。自分が担当する分野に関して正確な状況を理解するだけでも、それなりの時間はかかるはずだ。
大臣に誰がなったかなど(もちろん顔写真も)、実質どうでもいい。
20代、30代が中心を占める社会人大学院生が自分らをどう見ているか、あるクラスで学生らへのアンケート項目に「あなたを示す言葉として、以下のどれが最もフィットしていると思いますか? 1つだけ選択してください」という設問を入れてみた。
結果、62人中58名の回答(回答率94%)で一番多かったのが「ビジネスパーソン」の27.6%。続いて「会社員」25.9%、「ビジネスマン」20.7%、「サラリーマン」8.6%、「ビジネスウーマン」6.9%の順だった。
自分のことを「ビジネスなんたら」と答えた人の割合は、都合55.2%で半数を超えている。これって一般社会といささか、いや、かなり違っているんじゃないかという印象を受けた。
そこで、組織で働く人を示す「会社員」「サラリーマンまたはOL」「ビジネスマンまたはビジネスウーマン」「ビジネスパーソン」がメディアでどのように使われているか、ためしに朝日新聞のデータベースを用いて2000年から2021年までの年度ごとの掲載頻度の割合を調べた。
ただこれでは先の学生らが自分はそうだといった「ビジネスパーソン」の姿がまったく見えないので、「会社員」を除いて図にしてみたらこうなった。
「サラリーマンまたはOL」(グレー)が8割以上を占める。続いて「ビジネスマンまたはビジネスウーマン」(オレンジ)。ここ数年になってやっと「ビジネスパーソン」(青)がちょこっと現れてきた。日本語でも看護婦を看護師に、保母さんを保育士さんにというように性差を示さない用語に呼び変える流れのなかで、ビジネスマンがビジネスパーソンと呼ばれるようになってきたのだろう。
そもそもビジネスマンって何か。オックスフォード英語辞典によれば、businessman (businesswoman, business person) とは、a man(woman, person) who works in business, especially at a high levelとある。またケンブリッジ英語辞典では、some one who works in business, usually having an important job と示されている。
本来の意味は、「実業(ビジネス)に携わる人で、特に経営者層」である。
実態とイメージの乖離だ。
新型コロナの感染が始まって以来受診していなかった市のガン検診を受診することにした。
市のサイトで、対象となる医療機関を調べ予約の電話をしたところ、検査日の予約をするためにまず来院して欲しいと言われた。窓口で問診票に記入してから実際の検査日の予約ができるとか。
事務的な手続きなのでネット上で済ませられるはずだと思いながらも、仕方ないので病院まで出向いた。今回、検診を受けることにしたガンは4種。そしたら病院の窓口で問診票が挟まれたクリップボードを4つ渡された。
それぞれ胃や肺などの検査用の問診票なのだが、それら4つすべて最初に名前、住所、連絡先、生年月日、年齢、性別を記入する欄がある。で、これまでの病歴や現在治療を受けている病気などの記入欄が続く。
なぜ名前や住所などの記入が1つで済まないのか看護師に訊ねると、「それぞれ担当機関がちがうんです」と。
解決法はそれほど難しくはないと思う。受診者は数年に1回しか利用しないからそのままになっているんだろうけど、なんとかした方がいい。
旧統一教会との関係を指摘された政治家らが記者会見などで示す、誠実さの欠片もない受け答えにゲンナリとさせられる。聞いていると蒸し暑さが増してくる。自民党を中心とする数々の国会議員、なかには現役の防衛大臣や環境大臣、さらには国家公安委員長までいる。
政治家としての身分を守るための言い逃れに、平気で国民のまえでウソをつける人たちである。安倍元首相以来、この国ではウソをつくことが一層軽くなった。
そうした政治家の胡散臭さ満載の姿を小さな時から見て育った日本の若者たちが、今の政治も政治家も信用せず、やがて選挙権者になっても投票所に行かない理由がわかるような気がする。
ウソと言えば、電通の元常務で五輪組織委員会の理事だった人物が受託収賄罪で捜査をうけているが、それでつい昨年だったにもかかわらずすっかり記憶から消えかかっていた東京オリンピックをにわかに思い出した。
オリンピック実施に当たって、当時の菅首相は何と言ったか。開催の大義として、こともあろうか「人類が新型コロナを克服した証として」と表明した。明らかにウソ八百だった。
コロナ克服どころか、WTOによれば今の日本はこの2週間続けて新型コロナの感染者数が世界最多を記録している。
ところで岸田首相は、来週の内閣改造に合わせて党名を自由民主党から自由統一党へ変更すると決めたらしい。 ウソ
寝屋川市の女性市議が、コロナ禍で収益が減った福祉・医療関係施設向けの公的融資を利用し、仲介を装って施設側に融資を受けさせ手数料を詐取したとして逮捕された。
その詐欺の経緯などは報道されているとおりだが、僕が気になったのは「美し過ぎる市議」というメディアでの表現。
美しいかどうかは個人の主観だけど、はっきり言ってあの程度で「美し過ぎる」と言われたのでは、全国の他の女性市議に失礼じゃないのかね。
そもそもこうした報道記事の根底には、議員になろうなんていう女が美しいはずがない、という偏見意識が見える。
メディアに携わる人たちは、そうした紋切り型の魯鈍な表現をいい加減にあらためるべきだ。よほど彼らの周りには不細工な女性しかいないのだろうナ。
2002年、政府の閣議決定をもとに国土交通省がグローバル観光戦略を立ち上げた。そして「ビジット・ジャパン・キャンペーン」の名の下で、海外から観光客を呼び込む活動が国を挙げて開始されたのが2003年だった。
かつて世界を席巻した半導体産業など日本の製造業はすでに見る影もなく、政府は外貨を稼ぐ最後の砦として観光産業に目を付けたわけだ。
しかしその後、訪日客数は10年間さほど伸びず、2012年頃まで日本を訪れる外国人観光客は多くてせいぜい年間800万人(フランスの10分の1)ほどだった。その後、とうとう外務省が中国人へのビザ発給要件を徐々に緩めるのにしたがって、その数は急上昇。つまり、増えた訪日客のおおかたは中国人観光客だった。
銀座の中央通りに中国人観光客を乗せた観光バスが何台も停車し、大勢の客が銀座の街に一挙に買い物に繰り出していた風景がいまでは懐かしいほどだ。
そして2019年に訪日客は3200万人弱を記録したが、2020年初頭からの新型コロナウイルス感染拡大で2020年は410万人、2021年は25万人にまで激減した。
![]() |
| JNTOのデータを元に作成 |
夢よもう一度ではないが、コロナが定常化したあかつきには、また「インバウンド」と呼ばれた外国からの観光客誘致策を検討していることだろう。
だが、それはかなり難しい。今のような感じで円安が進んでも難しいと僕は見ている。その理由のひとつは、場所によっては40度を越え、熱帯ともいえる日本の夏の暑さだ。
中国などアジア諸国からの観光客は知らないが、欧米人が夏のバカンスシーズンを利用してこの殺人的暑さの国にはるばる観光に来るとは考えられない。
実際、ヨーロッパでは人びとの旅行行動に顕著な変化が現れている。日本の猛暑のことを言ったが、暑いのは日本だけではない。英国で歴史上初めて40度を超える気温を記録したなど、各地がヒートウェイブに襲われている。
そのため人びとは、暑いローマではなく、比較的涼しいストックホルムやコペンハーゲンを選ぶ。暑さで避けられるようになったのは、なにもイタリアだけではない。スペイン、ポルトガル、ギリシア、フランスといった著名な観光地が軒並み敬遠される傾向がでている。
だが、「暑さ」ゆえに観光の目的地から外されるようになったローマの最高気温は華氏100度、つまり摂氏38度弱。確かに涼しくはないが、日本よりマシ。夏のバケーション・シーズンに、高温多湿の日本に観光にくる欧米人はいない。
春や秋といった過ごしやすい季節はあるが、それらの時期に訪れるのは中国や韓国といった近隣諸国からの短期の観光客だけ。
一般の日本人は、円安で海外旅行に出かけづらくなる一方、海外から観光旅行客を呼び込むのもこれまでのようには行かなくなるのがこれからの日本だ。
日本では第7次の感染拡大が止まらない。医療現場は逼迫し、治療を受けようとしても対応がままならなくなっている。高齢陽性者の介護の現場もこれまでになく疲弊している。
ところでこのおっさん、2020年3月に新型コロナの感染について、新聞のインタビューでこんなことを語っている。
「SARSは2002年11月に確認され、ピークは03年3~4月で同7月に終息宣言が出た。その例を考えると、今回は19年12月に始まったことから、20年4~5月がピークで、8月まで続くと推測する」

2年前の3月6日の記事
何言っているんだろう。「その例を考えると」って、類推の仕方が根本的に間違っている。いまも勝手な思い込みをもとに医療行政をミスリードしているんだろうか。
参照:https://tatsukimura.blogspot.com/2020/03/blog-post_5.html
IMDが調査、発表している各国のデジタル競争力ランキングで、日本は64ヵ国中の28位。3年で6つ下がった。
原因はどこにあるのか?
大企業の役員や管理職を対象にした調査では、7割以上がデジタル化とDXの違いを「説明できない」と回答したとあった。
これって、すごく象徴的だ。
DXが「デジタル・トランスフォーメーション」の略だということくらいは、先の調査対象者は知っているはず。なのに、なぜデジタル化との違いすら自分で説明できなかったのか。
それは、自分の言葉になっていないものを人は理解しないし、できないからだ。デジタル化とDXの違いを「説明できない」と答えた被験者に、トランスフォーメーションって何?って聞いてみると分かる。彼らはまた、う〜ん、と唸るだけだ。
言葉が分かっていないのだ。だから、本来の意味が分かるはずもない。意味が分からなければ、説明できるはずがない。
じゃあ、どうするか。僕からの提案はすこぶる簡単。<横文字を使うのを止めてみる>に尽きる。DXだ、トランスフォーメーションだ、なんて聞かされた段階で、ほとんどの人は本人が意識しないうちに思考停止になっている。
だからこそ、苦労してでも日本語で言い換え、表現する。そこでやっと彼らはそれが何なのか理解できる。少しずつだろうが、問題や課題を自分のものにしていける。
よく聞く「DXが掛け声倒れになっている」という批判は、批判になっていない。実態は掛け声にすらなっていない、そして何も届いていないのが現実だからである。
訳も分かっていない役人や経営者や半端者のコンサルがDXだGXだ、SDGsだESGだなどと口先で吹聴している風潮を笑い飛ばすことから始めるしかないんじゃないかと思っている。
そのほかにも、パーパスだ、ウェルビーングだ、リスキリングだなど、薄っぺらい横文字をありがたがって振り回していても何も始まらない。
都内に出るとき、たいていは新幹線を利用する。東京駅まで18分ほど。ゆったり新聞を広げて読むことができる。車中で飲食もできる。
だから、これまでどのバッグにも新幹線のポケットサイズ時刻表を入れてあった。だが、コロナ以来、JR東海はその時刻表の作成と配布を止めてしまった。
新型コロナ感染拡大が始まった頃は、国中で不要不急の外出を止めようという機運があったから新幹線のダイヤも間引きされ、通常の運行ができなくなったためそれも仕方なかった。
でも今は通常の運行に戻っているにもかかわらず、その時刻表の製作はしないらしい。同じJRでもJR西日本は作っているんだけどね。
JR東海は、それを一旦なくして以来、客はなくてもそれに慣れていると思っているようだ。そして、費用の節約にもなると考えているのだろう。
だが、この小さなポケットサイズの時刻表は、新幹線を走らせる鉄道会社にとって顧客との最大のタッチポイントとなるメディアであることを、どうもJR東海は知らないらしい。
魂になぜ鬼がいるのか、いまも考え続けていて答えが分からない。そしたら、本で目についた栖(すみか、ねぐら)はどうして西なのか不思議に思いはじめた。
『字統』では、栖は形声文字で「西は、鳥、巣上に在るなり」という記述がある。また「栖・棲は声義ともに同じ字であるが、栖の字を用いることも多く、またねぐらの意にはこの字が適している」とある。
だがよく分からない。 どうして西なんだろう。ねぐらは日が昇る東じゃなくて、古来日が沈む西に作られていたってことなんだろうか。
どうでもいいことなんだけど、昨日、布団の中で寝る前に本を読んでいるとき、「魂」という字に目が行って、とくに旁(つくり)の部分の鬼が気になってその後なかなか寝付かれなかった。
今朝起きた後すぐ、白川静さんの『字統』で調べてみた。
魂は会意文字、つまり二字以上の漢字を組み合わせて作られた漢字で、「云(うん)と鬼に従う」とあるがよく分からなかった。云は運気につながるらしい。そして魂の説明として「人の魂は運気となって浮遊すると考えられていた」と述べられているが、なんで「鬼」なのか分からなかった。
別の事典が必要みたいだ。
先週、本年度上半期(第167回)の芥川賞および直木賞が決定した。芥川賞は高瀬隼子さんの『おいしいごはんが食べられますように』(群像1月号)だ。
34歳の勤め人(事務職)である高瀬さんの受賞会見を見た。とても落ち着いていて、きちんとした方だ。小説執筆の原動力は「むかつき」だという。もちろん、単にむかついた感情の発露として小説を書いているのではなく、こうした言い方をしている。
むかつきからスタートしているが、「これってむかつくよね」という愚痴だけで終わりたくない。このむかつきにはこんな理由もある、こんな考え方の人もいる、と受け取ってもらえたら。とても分かりやすくて納得感がある。正直な意見だと思う。
最近の風潮として、ムカつきや怒りの気持を表に出すことは、とりわけ若い連中にとっては恥ずかしいことだったり、みっともないことになっているように感じていた。
それを受けて、どうやって怒らない気持ちを持つかについてコツを語った本なんかがベストセラーになっていた。
でもそれって、つまんない我慢を自分に強いているようで違和感があった。
だから、むかつくことからスタートして小説を書いている高瀬さんには大きな拍手を送りたいと思っている。
そういえば、前回(第167回)芥川賞を『ブラックボックス』で受賞した砂川文次さんは、受賞会見でこんなスピーチをした。
海の向こうで戦争が起こっていて! くそみたいな政治家がたくさんいて! そういうものに怒りを感じながら書いていたような気もしますし、そうじゃない気もします。よく聞かれるんですけど、怒ってない気持ちがないわけないじゃないっすかあ! っという気持ちです。
そのほかにも、壇上で国際情勢や政治への怒りを絶叫した。
とみにわれわれの日常から真っ当な怒りやムカつきが(少なくとも表面では)消し去られているなか、表現者が正当な怒りをこうしたストレートな形で口にするのを見てほっとする。
この写真は、ロンドンのトラフィルガー広場でのスナップだ。
この夏、英国では歴史上経験したことのない40度という気温を記録した。
英国の普通の家には冷房器具、つまりエアコンがない。夏と言ってもそれほど暑くなんかならないからだ。少なくとも、僕が以前英国で暮らしていたころはそうだった。
パブで飲むビールも、年中生ぬるい。日本のようなキンキンに冷えた生ビールなど出さない。それも、マイルドな暑さの英国の天候が理由だ。
だが、今年は違う。
英国の友人に「大丈夫か?」と連絡したら、「生きている」と返ってきた。
異常気象が世界中で続く。
上のタイトルは、今朝のある新聞記事の見出しだ。
昨日、政府は萩生田経産相をGX担当大臣に兼任で任命すると発表した。<カーボンニュートラル>を実現するために「総合的な対策を推進すべく、行政各部の所管する事務の調整を担当する」という。
GXのGは、グリーンらしい。つまり政府が意図するGXは「グリーン・トランスフォーメーション」だとか。
岸田首相は、「GXの実行は、新しい資本主義実現のための最重要の柱の1つ」と関係閣僚らが集まる「GX実行会議」でぶち上げた。そんなに重要なものなら、国民の前でしっかりと説明してほしい。
また、先の新聞記事によると、記者が経産省にGXの意味を問うた際の担当者の答えはというと、「一言で表すのは難しい」だった。首相が最重要項目の1つと言っているの一方で、所管官庁の担当者が定義すら分かってない。
またこれだよ。やれDXだとかGXだとか、口先だけで意味を説明することすらできない用語を振り回して、「やってる感」だけを見せて空回りしてる。つまりは、ただの目くらましだ。国民を心底バカにしてる。
そもそも環境保護に関することなら、本来は経産省ではなくて環境省が考えて推進することなんじゃないのか。そこに岸田政権の本音(原発の再開と推進)がはっきり浮かんでいる。
3年ほど前に学生たちとゼミ合宿で中国の深圳を訪れた。現地のBYD(EVの大手企業)のショールームを見る機会があったのだが、その時印象的だったのはEVカーのバリエーションの多さだった。今思えば、そこに彼らの並々ならぬ本気度が現れていたのだと気づく。
日本の公共交通機関でエコカーの導入が急速化しているが、その中核を占めているのがその中国BYD製のEVバスである。
日本は、経済産業省が先導してEVバスではなく水素バスの開発に舵を切ってきた。バス製造メーカー各社は開発を急いでいるようだが、実現できていない。結果、戦略が完全に裏目に出た。
経産省が2017年に説明した水素基本戦略では、2020年までに100台、30年までに1200台程度の導入とある。水素は燃料充填の時間が短くて済み、航続距離が長い点が優位だと説明されていた。
しかし、水素は調達コストが高く、燃料供給のインフラ整備にも時間を要するなど、EVの充電設備設置の方が現時点ではコスト面でも時間の面でも優れている。
結果、水素バスは思わく倒れとなり、世界中で中国メーカー製のEVバスが席巻している現状になった。わが国においてもそうだ。
技術力の差というより、発想力(長期的な戦略思考)の差の表れの典型例だ。
駅前に野暮用があって出かけ、それらを片付けたあと、あるチェーンの定食屋に寄った。
隣のテーブルで学生らしき娘がスマホを塩と胡椒の容器に立てかけて、イヤホンを耳にYouTubeの映像を見ながらメシを食っている。
目の前のテーブルのOLらしき女性は、ヴィトンのバッグをテーブルのうえにドンと置き、それを鎮座させたままテーブルに両肘をついて背中を丸めた格好で生姜焼き定食を食らっている。小さい時、親から食事の仕方を教わらなかったのか。
それはそうと、店員が午後7時半で店を閉めると言ってきた。ずいぶんと早い。
さっきから店内を見ていると、結構広い店のフロアで注文を取ったり、配膳、下げ膳、テーブルの片付けしているのは男女の二人しかいないのに気づいていた。まったく人手が足りないのだ。
迷惑にならないよう、店員が近くに来たおりに、なぜそんなに早い閉店なのか聞いてみた。「(働く)人がいないんです」と言う。やはりそうか。
「私もたまたま友人から紹介されてここでバイトしているんですけど、人が入ってこないんです」「隣のマクドナルドに取られて・・・」
その店の隣には24時間営業のマックがあって、いつもけっこう賑わっている。だからか、時給はそちらの方がいくぶん高い。
マーク・ライデル監督の映画が観たくなり、『黄昏』を観る。描かれるのは、湖畔の山荘での家族の夏の日々。主な登場人物は、6人のみ。まるで舞台劇のようだと思ったら、やっぱりもとはブロードウェイでかかっていた芝居だった。
映画版が素晴らしかったのは、湖やそれをとりまく自然の美しさだ。原題の On Golden Pondを映し出したのも、映画ならでは。しっとりとしたデイブ・グルーシンの音楽もストーリーと映像によくマッチしていた。
この作品では、主役のヘンリー・フォンダとキャサリン・ヘプバーンの2人がそろってアカデミー主演男優賞、女優賞を受けた。キャサリン・ヘプバーンは4度目、ヘンリー・フォンダは76歳での初めての受賞だった。
で、ヘンリー・フォンダの『怒りの葡萄』を続けて観ることに。原作はスタインベックの小説で、ピューリッツァー賞を受賞し、のちにノーベル文学賞を彼が受賞する理由になった作品。
オクラホマからカリフォルニアに仕事を求めて移動する貧農の一家。いまからまだ80年足らず前のアメリカでの、土地を持たない農家がおかれた厳しい状況とそれに抗う逞しい人たちの姿は、今のアメリカからは想像できないほど。
ただ、搾取する側と搾取される側がはっきりと線引きされた社会の構図は、いまも何ら変わってはいない。
今晩は、南南東の木星から火星、月、そして東北東の金星まで、なんと4つの星がほぼ直線に並んでいるのを見つけた。また、南西の空には土星も見える。だけど、その他に見えるのはカペラ、くらいか。
もっと空が暗ければ、天気がいいので天の川やカシオペア座なんかも見えるはずなんだけど。街の夜は、肉眼ではこれが精一杯。
先の記事を書いたあと、有罪判決を受けた元文部科学省科学技術・学術政策局長佐野太が出したコメントを読んだ。
「明らかに不当な判決。後日、控訴に対する態度をあきらかにする」
だとか。
自分と息子を守るためだろうが、文科省の官僚が大学から利益供与として裏口入学を受けたことがどういうことか、分からないはずはないだろう。
すっかり忘れていた事件の判決を読み、当時の記憶を新たにした。
発生したのは、2018年の2月。4年前の大学入試の時期のこと。東京医科大学が、当時の文部科学省局長の息子に入試でゲタを履かせて合格させたという一件である。
そもそもの発端は、文科省が起案した「私立大学研究ブランディング事業」の募集に東京医大が選定されたくて、大学の理事長が文科省の局長に飲食の場で自分らが選ばれるための申請書の書き方を局長に教えてくれるように依頼したことから始まっている。
実に身も蓋もない話だが、さらにそれに輪を掛けたのが、その見返りとして文科省のその局長が、当時浪人中だった息子の入学を求め、便宜を受けたといういきさつだ。
私立大学の入試では、ある特定の学生の入学を優先するということはある。たとえば女性を優先するとか、地方出身者を優先するなど、多様な考えがあっていいと思う。
だが、世話になった文科省官僚の息子を見返りに合格させるのは、大学の専権事項にはならない。その元官僚は裁判期間中、自身の無実を一貫して主張していたらしいが、社会常識と照らし合わせればそれがどういうことかは明らかだろう。
この事件で皮肉だったのは、ことの発端が同省の「私立大学研究ブランディング事業」だったこと。名前を読むだけでも首を傾げて笑ってしまうような事業(*)だけど、それで名前を一気に全国に知らしめた医大理事長は立派というか阿呆というか。
* https://www.mext.go.jp/a_menu/koutou/shinkou/07021403/002/002/1379674.htm
文科省とそのプロジェクトに対して下心見え見えで参画を狙った医科大学。双方のトップが裏でそれぞれの利益しか考えてなかったところに問題の核心はあった。そもそもが、この官僚の浪人中の息子のためにこの事業が文科省で組まれたのかも知れないとすら思える。
この事件があって以来、僕は初めて診察を受けるお医者さんには、少々失礼だと思いながらも問診の時に「先生は、どちらで医学を学ばれたのですか?」と聞くようにしている。
偏差値の高い医大の出身者だからといって、優秀で良い医者だとは思っていない。ただその時の彼(女)の返答の仕方は、その医師について多くを語ってくれるので大いに参考になる。
先日、ある親しい友人とひさびさに話す機会があった。
彼曰く「なんだか、早稲田のビジネススクールって、金の匂いが強いよね」。うっ、返答に困った。
「金の匂い」がすべて悪いわけではないけど、やっぱり大学なんだからできれば「金の匂い」より「文化の香り」がするって言われる方が100倍うれしいんだけどネ。
今の状況じゃあ、到底ムリか・・・
夕方、大学正門前の大隈講堂で「村上春樹 presents 山下洋輔トリオ 再乱入ライブ」と題した催しがあった。
開演15分前の午後6時15分、研究室のある11号館の11階でエレベータに飛び乗ろうと思ったら、エレベータホールでN先生とばったり。実は彼とは大事な打合せがあってそれに誘われたのだけど、時間が迫っていたので失礼させてもらった。
このイベント、ネットで申込み、抽選そして当選、チケット引き取りなんかをして9千数百円はたいて出かけたが、何のことはない。普通のコンサートだった。
それとは別に、今回のチケット購入のプロセスはまったくの噴飯物だった。いま思い出しても腹が立つ。客を何だと考えているのかと。
クレジットカード情報を含む個人情報をサイトに打ち込んでチケットの申し込みをすると、「仮登録」という返信メールがシステムがら届き、そこにあるリンクから今度は「キョードー東京メンバーズ」とやらに登録を求められる。当選した際にチケット受け取るため、メールとパスワードを登録して「マイページ」を作らされる。
抽選にするという理由のひとつは、一人でも多くの個人情報を取ることだろう。小銭稼ぎにどこかに流すつもりか。そうでもなければ、当選するかどうか分からない申込者全員のクレジットカード番号を含む個人情報を取得する必要はないはず。
チケットはといえば、抽選結果の連絡を待たされ、当選の連絡を受けたあとはコンビニでの引き取りの準備ができるまで連絡待ちをさせられ、その後、イベント直前にチケット販売業者指定の特定コンビニでチケット実券を受けとることになる。
コンビニ店頭ではいったん店内の機器に予約情報を入力し、プリントされてきた用紙を今度は同店のカウンターまで持参して、やっとチケットが手渡される。あまりにまどろっこし過ぎる。
本来はこれまで通り、申込の先着順で席を決めてチケットを客に郵送する。それで済むはずだ。郵送料なら84円で済むなのに、システム利用料(なんだこれ?)220円とコンビニの発券手数料110円がチケット代金に加算される。客に不必要な手間をかけ、不必要な個人情報をはき出させ、時間を無駄に使わせ、余計な支出をさせている。
キョードー東京が客に負わせたこの一連の手続きは、数々の点で間違いなく最低かつ悪質だと言っておく。
イベントを大隈講堂でやれば、学生を含めて大学関係者が観客として多数来ることは容易に予測できるし、またそれをひとつの目当てにして「早稲田大学共催」となっているはず。大学も安易な名義貸しをせず、もう少ししっかりを吟味しなくてはいけない。
当日の演奏自体は良かった。第一次山下洋輔トリオのメンバーであるドラマーの森山威男とサックスの中村誠一の演奏もすこぶるパワフルで、フリージャズの面白さとダイナミックさを満喫させてもらった。前座の早稲田大学モダンジャズ研究会の演奏も愉しめた。
だが期待したイベント性はほとんどなく、仕掛け人の東京FMがその番組用にカラ宣伝したとしか思えなかったのが残念。観客席に京大元総長の山極寿一さんがいて、山下さんが山尾三省さんと知り合ったいきさつについて質問したのが興味深かったくらいで、他にイベントらしきものは見るものなし。主催者の企画力のお粗末さが露呈していた。
それはそうと、山下洋輔さんには1989年に、中村誠一さんにはそれ以前の1987年ごろか、僕が広告代理店に勤務していた頃にそれぞれあるイベントとCMの仕事をご一緒したことがあり、それから30年以上になるけど、お二人とも「古びてなかった」。
選挙が行われるたびに思うのだが、当選者やその関係者はなぜ「バンザイ」をするのだろう。子どもの頃からの疑問であり、いまだその違和感はなくならない。
選挙に当選したということは、これから議員として国会で国民の代表として仕事をすること。そこできっちり仕事を成し遂げてから「バンザイ」してくれよ、と子供の時から思っていた。
テレビ画面に映る「バンザイ」当選者とその取り巻きの心の中は、「一仕事終わりや」という気分でいるようにしか見えない。
そうしたなかで「今はバンザイはしない」と言った当選者もいた。どちらが今後に向けて本気かは明らかだ。
ジェームズ・カーンが亡くなった。彼の映画はいくつか思い浮かぶが、僕は彼がアカデミー賞候補にあがった「ゴッドファーザー」より、その翌年に公開された「シンデレラ・リバティー」の方が記憶に残っている。
彼の役どころはアメリカ海軍の水兵。真夜中で時間切れとなる「シンデレラ休暇」である港に上陸した際、酒場の玉突場でキューをあやつっている女と知り合い、恋に落ちる。その娼婦役を演じていたのは、ニール・サイモンの奥さんだったこともあるマーシャ・メイソン。
実直で頑固で不幸な境遇の親子を放っておけないアメリカ男が、カーンに似合っていた。
監督はマーク・ライデル。「ローズ」や「黄昏」といった秀作を撮っている。
ブルームバーグの報道によると、中国で最大10億人分の個人情報が当局からハッキングされた。具体的には上海警察のデータベースから住民の氏名、住所、出生地、身分証番号、電話番号、犯罪歴情報などを含むデータが盗まれた。
https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2022-07-04/REHL1MDWRGG201?srnd=cojp-v2
紙に印刷された10億人分の情報なら大変な量でちょっとやそっとでは運び出せやしないが、デジタルデータなら手元のキーボード操作だけで済む。警察が管理しているデータですら、ハッカーの手にかかればたやすいものなんだろう。
と思ったら、国内では日経BPの会員情報が不正にアクセスされて、データが外部に持ち出された可能性があるとニュースで流れた。
マイナンバー・カードに収められた日本人のまとまった個人情報は、世界中のハッカーらの垂涎の的。使い方次第で膨大な利益を得られる。だから、そのうちハッカーらのターゲットになるのは間違いない。
あるいは、そうなる前に役所が作業を丸投げした業者から情報が漏れるか、もしくは紛失するか。先日、尼崎市の全市民46万人の個人情報が入ったUSBメモリーが紛失したように。
それを手に入れてやろうとする専門家集団がひしめいている限り、どうやったって100%安全なデータ管理はできないのである。だとしたら、政府が考えているような個人情報の集中的な一元管理でなく、分散管理を行うことが必須なのではないか。
情報漏洩が発覚した際、政府は「今後のセキュリティ対応を強化します」といえば済むが、自分の情報を漏洩させられた個人は、不安をかかえたまま泣き寝入りするしかない。
ピーター・ブルックがパリでなくなった。
オックスフォード大の学生だった17歳で演出家としてデビュー、20歳でRSC(ロイヤル・シェークスピア・カンパニー)の演出家に。22歳でロイヤル・オペラハウスの制作主任に抜擢されたという、英国出身の天才演出家だ。
昔、銀座セゾン劇場で観た「マハーバーラタ」の昂奮を思い出す。
手元にある彼の『秘密は何もない』(早川)は、僕の愛読書のひとつ。クリエイティブであるということはどういうことか、クリエイティブなものを創造するということはどういうことか、深く考えさせてくれる本だ。
彼は「秘密は何もない」というが、僕には秘密だらけだ。
「トップガン マーヴェリック」をIMAXシアターで。お話は簡単で子供にでも分かるものだが、よく練られている。
トム・クルーズ演じるマーヴェリックと、彼の教え子たちともいえる若い選りすぐりのパイロットたちが主人公。だが、本当の主人公は戦闘機F/A-18とF-14だ。これらの飛行シーンには度肝を抜かれる。
磨き抜かれた技術で最新鋭の戦闘機を扱うパイロットたちだが、かれらが何かにつけて「罰」として腕立て伏せをさせられるシーンが妙に印象に残った。このコントラストが面白い。単なるストーリー上の演出ではなく、アメリカ海軍では実際にやっているんだろうな。
映画の冒頭あたりで、今後さらに技術が進めば戦闘機乗りは不要になっていくと上官に言われたトム・クルーズが「そうだろうが、それは今日ではない」と返すシーンがあった。
肉体と意思をもった人間を忘れるべきではないという制作者のメッセージである。
コラムニストの小田嶋隆さんがなくなった。65歳。面識はないが、同じ時期に大学の同じキャンパスにいたはずである。
コロナ前の2020年1月、ハンガリーのブタペストにいた。学会発表のためだった。
現地では学会後にサーカスを観に行った会場で、現地駐在の日本人夫婦の方と偶然に知り合い、その後食事を一緒したり、帰国後もメールのやり取りをしたりで、思いがけず記憶に強く残る旅になった。
それは一例だが、日本を出て海外に行くと、たいていは新たな出会いや発見がある。それもあって海外の学会に出かけることを続けていた。
だが、中国武漢発のコロナウイルスが一気に拡がり、海外への渡航は一切禁じられた。その後のことはここに書くまでもない。人の移動が制約され、ネット上で展開するヴァーチャルなコミュニケーションにいつの間にかわれわれは違和感を感じることがなくなった。
それから2年半が過ぎて、やっとまあまあ普通に海外に出かけられるようになった。最初は欧州の学会へ出かけようと思ったが、ここはまずはリハビリを兼ねて距離の近いアジアの国にしようと思った。
そこで今回のマレーシアである。マレーシアを訪ねるのは初めてだし、英国留学中に一緒だった友人がいることも背中を押した。
日本からの出国と現地への入国。そして、現地出国と日本への再入国。一番大変だった、というか翻弄されたのは現地からの出国の際の手続きだ。
今回のフライトはJAL。現地への直通フライトを飛ばしているからだ。ただ、現地空港での乗客の搭乗手続きなどグラウンド作業は、提携先のマレーシア航空が受け持っていて、それが今回大きな問題のもととなった。
これはあくまでも個人的な評価だが、マレーシア航空のスタッフはとても真面目なのだが柔軟性に欠け応用力がなかった。しかも、以前の古い日本政府の感染防止策とその規制手段をいまも適用しようとするので、当然のようにこちらとは押し問答になる。
MySOSとかいう日本政府のアプリをスマートフォンにインストールしていないという理由で搭乗手続きを拒否された。ワクチン接種証明書も、さっき済ませたばかりのPCR検査の証明書があってもである。
そもそもMySOSというのは、もし機内で感染者が出た場合に、日本政府の検疫所がその飛行機に乗っていた他の乗客に連絡を取ることを目的としたもの。住所や名前、連絡先をデータをしていれるだけのアプリのようだ。感染拡大やその防止と関係ない。紙の用紙に渡航で利用した航空便と座っていた座席番号、日本での連絡先を記入して提出すれば済む。実際、最終的には僕はアプリをインストールするなどせず、成田空港で1枚の紙を記入しただけで済んだ。
こうしたことが、その目的を一切知らされず、また彼女らも考えることをしないので、ただただ教条的に以前言われたとおり、そのアプリがないと搭乗手続きを行わないと言い張るだけ。
結局、カウンター周辺にいた、つい10日ほど前に日本からやって来たという日本航空社員が取りなしてくれて搭乗手続きができて機内に入ることができた。彼がいなければ、僕はその便には乗機できなかった。
コロコロ変わる日本の厚労省の政策と未徹底な通達。意味を理解しようとせず、機械的にしか仕事をしない現地スタッフ。日本から着任したばかりで、そうした現地スタッフをまだ掌握できていない日本の航空会社の社員。と、今回の問題の所在は多層で多岐にわたっていた。
最後の最後、現地の空港でのやり取りは、今思い出しても腹がたつことばかり。もともとコロナがなければこんなこともなかったと自分を慰めるしかない。
ところで今回の学会では、最終日のセレモニーで僕の研究発表に対してDistinguished Academic Award(4名が受賞)が与えられた。こうしたことがなければ、もう2度と彼の地は踏んでやるかと怒り心頭だったはず。せめてもの救いかな。
| ペトロナス・ツインタワー。観光デッキに昇る予約は今も一週間待ち |
| ホテルの部屋から見えたKLタワー |
| ヒンドゥー教の聖地「バトゥ洞窟」から見下ろす |
| 日本への直通便は夜便のみ。昼間の時間を使ってマラッカへ足を伸ばした。 |
日本の話ではない。まずはEU(欧州連合)を中心とした話をしよう。
EU各加盟国と欧州議会が、それらの地域において上場企業の女性取締役比率を増やすための規制案に合意した。
対象となる企業は、2026年6月末までに社外取締役での女性比率を40%以上にしなければならない。このことは、各国で2年以内に法制化することになっている。
また、社外取に限らず全取締役の枠組みで見ると、男女それぞれの取締役の比率を33%以上にするという方針になった。
男女平等、機会均等の考えのもと、女性が企業の取締役にとどまらず、あらゆる場で責任のあるポジションに就くのは大いに結構だと思う。
だが同時に、こういった単純極まりないクオータ(割り当て)の発想には、大いに疑問がある。
先のEUと欧州議会の合意だが、形式的に数字を作るのは阿呆でもできる。たとえば、社外取締役をすべて女性にする。そうすれば、社外取締役の女性比率40%以上も、また全取締役の女性比率33%以上もクリアできる。だが、それが果たして企業経営にとってプラスになるか。
なぜか。今回、そもそも上場企業に限ってのルール設定をしているのが、それが納得いかない。上場企業と非上場企業でなぜ線引きするのかの説明がなされていない。
また、日本企業の社外取締役に見る女性の状況は、以前から極端なインフレ状態にあると言われている。東証の基準をクリアすることを目的としているため、その多くは取締役の内実を伴わない形式優先との批判はあながち間違いではないだろう。
以前、建設機械メーカーであるコマツの相談役、坂根正弘さんと対談したときのことを思い出した。彼は「取締役に女性をつけるのは、難しいことではないんです。社外取締役は、どこかから探してくればすむ」「だが執行役員に女性をつけるのは、社員の採用から始まって、時間をかけて育成しなければならならず、一朝一夕にはいかない」と話してくれた。まさに正論だと思う。
形式要件を満たすために女性の社外取締役を増やす企業があとを絶たないが、その結果、そうした企業が今後どうなっていくか。
IMDなどの調査結果を見るまでもなく、日本企業の国際的な競争力が急低下してる状況の下で、こんな発想で見せかけのガバナンスを行っていることを「経営」だと思っているマネジメントが実に多い。