入り口でチケット買い、そこに記された3番シネマに向かう。扉のところでチケット確認をしているスタッフに、CMと予告編は何分かを訊ねると「この映画は、1分です」と彼女。
時計を見ると、予定の開演時刻ちょうど。これから予告編が始まり、1分後には本編の上映がスタートする。どうせ本編上映まで十数分あるだろうから、トイレで手をゆっくり洗ってから席に着きたいと思っていたのだが、そうはいかないようでそのまま席につくことにした。
入り口でチケット買い、そこに記された3番シネマに向かう。扉のところでチケット確認をしているスタッフに、CMと予告編は何分かを訊ねると「この映画は、1分です」と彼女。
時計を見ると、予定の開演時刻ちょうど。これから予告編が始まり、1分後には本編の上映がスタートする。どうせ本編上映まで十数分あるだろうから、トイレで手をゆっくり洗ってから席に着きたいと思っていたのだが、そうはいかないようでそのまま席につくことにした。
8月30日、TBSの夜のニュース番組「ニュース23」に同局の国山ハセンというアナウンサーが小川彩佳キャスターのサブとして登場した。
番組が始まっての第一声、彼の「国山ハセンです。みなさんに少しでもお役に立つニュースをご紹介していきたいと思っています」という自己紹介でスタートした。
おいおい、と思ったのは僕だけではないはず。頼むから「役に立つ」かどうかでニュースについて考えたり、選んだりしないでくれ。
視聴者はそれが役に立つことを期待して、最近のタリバンによるアフガニスタン新政府発足に関するニュースに関心を向けているのではない。
この新人キャスターは、物事を役に立つか立たないかでその価値を判断するようだが、ニュース番組はバラエティや情報番組とは性格がちがうことをまずは理解してからカメラの前に立った方がいい。
この数日、車椅子ラグビーを見ている。
![]() |
| (一般社団法人)日本車いすラグビー連盟のサイトから |
コート上には各チームから4名ずつ、試合中は合計8名の選手が車椅子を器用に扱いながら走り回る。
ラグビーと言っても、元のラグビーとはルールはかなり異なる。ボールを前に投げてもいいし、当然キックはない。ボールを相手陣営のゴールに持ち込めば得点になる。ボールを運んでいる時は、10秒以内にドリブルかパスをしなければならない。
競技で忘れてはならないのは、厳密なポイント制度があること。選手たちは、それぞれの障がい度合によってポイントが決められていて、障がい度合が最も重いクラスは0.5点、最も軽いクラスは3.5点がつく。0.5点きざみになっている。
コート上に出ている4名の構成は、そのポイントの合計が8点以内でなければならない(女性選手が出場している場合は、1人あたり0.5点の追加ポイントが認められる)。https://jwrf.jp/about/
ゲームの公平さを担保するためである。このベースにある考え方は重要であり、他にも応用できる。
たとえば国会議員の選挙だ。まもなく衆院総選挙が行われるが、その際に立候補資格、あるいは得票数の換算にポイント制を導入するとかできると思う。
よく選挙ではジバン(地盤=支持者のいる地域)、カンバン(看板=知名度)、カバン(鞄=選挙資金)が必須と言われる。言い方を変えれば、ポッと出のボンクラ候補でも、これらがあれば当選できる確率は高い。
親が、そしてそのまた親が国会議員をやっていたケースだ。二世議員、三世議員と言われる世襲議員。
下記のサイトは、日本の政治家にいかに二世、三世(あるいは四世)が大量にいるかを示している。データは古いけど、今も状況は変わってない。
http://www.notnet.jp/data02index.htm
政治が、まるで歌舞伎や狂言のような伝統芸能と同様に世襲化している。
そこで選挙にあたっては、親が国会議員だった場合は●ポイント、じいさんがそうだった場合は■ポイント、曾じいさんは▲ポイント、またそれらが大臣経験者であった場合はポイントを2倍、そして首相経験者は3倍で計算する。
そして、選挙での候補者の得票数とそれらのポイントの逆数を掛けたものを「有効得票数」として認めることにする。
こうでもしなければ、世襲議員は選挙戦の必勝ツールであるジバン、カンバン、カバンを最初から握って選挙に出るんだから、公平公正な結果になるわけない。
第二次世界大戦中、ナチスドイツが組織的に行ったホロコースト(ユダヤ人の大量虐殺)の犠牲者は600万人に上るといわれている。
なかでもポーランド南部にあった「アウシュビッツ強制収容所」にはユダヤ人、政治犯、ロマ・シンティ(ジプシー)、精神障害者、身体障害者、同性愛者、捕虜、聖職者などが収容され110万人が虐殺された。
アウシュビッツには一度に2,000人が入れられたという4つの巨大なガス室があって、ユダヤ人たちはそこで10人のうち9人、全体で100万人以上が殺されたとされる。
第二次大戦中は、アウシュビッツでそうした虐殺が行われていたことはナチスによって厳重かつ巧妙に隠匿され、明らかになっていなかったことを映画『アウシュビッツ・レポート』で知った。
その2人、ヴルバとヴェツラーは、収容所の内実を伝える32ページのレポートを作成した。後にアウシュビッツ・レポートとして連合軍に報告されることになるこのレポートには、収容所のレイアウトやガス室に関する詳細などが描かれていた。
収容者に送られた人たちは一列に並ばされ、最初に「右!」「左!」とナチの担当者によって2分される。一方は、病弱な人、妊婦、子どもなど、その場で殺される一群。肉体労働に耐えられる男たちは重労働を強いられた後、ガス室で殺されることになる。
ナチスドイツの連中はよくこんなこと考えるなというような様々な手段で、収容者は極限まで痛めつけられる。肉体的にはもちろん、精神的にも人間がボロボロになるまで追い詰める。
収容された人たちが山中で頭だけ出して地中に埋められ(これって、自分でその穴を掘らされたんだろう)、ナチスの伍長がそれをスイカ割りをするごとく棒でめった打ちにするシーンには背筋が凍る戦慄を覚えた。
所持品はすべて奪われ、丸裸で殺され、そのままゴミのように積まれて放置されている無数の亡骸の山が方々にある。地獄絵だ。
これが歴史的事実として認識されているアウシュビッツに関する出来事である。
ナチスドイツによるこれらの行為は、語り尽くすことができない。もうこれで十分というところには、たぶん永遠に行き着くことはないだろう。
だから今回、東京オリンピックでその開会式の前日だったにもかかわらず、予定されていたショーディレクターの小林賢太郎がホロコーストをお笑いネタにしていた過去の行いから解任されたのは当然の判断だった。
もし彼を解任せず、オリンピックが始まったあとにその事が明らかになった場合、IOCとJOCに厳しい批判が寄せられただろうことは想像に難くない。
この解任の件で記者会見に臨んだ組織委員会の橋本聖子会長は「これは外交上の問題もあると思っている。早急に対応しないといけないと解任の運びになった」と理由を説明したが、理解しておかなければならないのは、これは「外交上の問題」ではなく「倫理人道上の問題」であるということ。
そういえば、以前、麻生太郎副総理が「(改憲のために)ナチスの手法を学べばどうか」と語ったことで各方面から顰蹙を買った。なぜ解任されなかったのだろう? 不思議だ。
24日のパラリンピックの開会式は、オリンピックのそれより格段によかった。
オリンピックの開会式はといえば、とにかくまとまりがなく、何を伝えたいのか分からなかった。そのコンセプトは「United by Emotion」だったとか。意味がわからない。
担当プロデューサーいわく、「世界へ向けたメッセージで、あえて和訳はつくっていない」。確かに恥ずかしくて日本語にできないよね。
例えば、唐突に海老蔵の踊りがショーに挿入されていたが、違和感しかなかった。荒事の演目を上原ひろみのピアノに合わせて演じ、途中で見得を切ってみせていたが、外連味が過ぎていて自己撞着してることに気づいていない。
それに比べて、パラリンピックの開会式はよかったよ。テーマがシンプルで、統一感が保たれていて分かりやすかった。
昨日は14歳のスイマー、山田美幸さんが競泳で銀メダルを取った。彼女は生まれつき両腕がなく、足にも障害がある。
腕がないので、足だけで泳ぐ。その力強い、彼女だけの独特の泳ぎ方はとてもクリエイティブだ。
そして何にも増して、両腕がなく身長も小さい彼女がそもそもプールに入りたい、泳ぎたいと思い、それを続けてきたことに驚かされる。半端な勇気じゃできないもの。
ローリング・ストーンズのチャーリー・ワッツが、8月24日に亡くなった。80歳。彼は50年以上にわたってストーンズの音楽を支えてきた。
ブルース・スプリングスティーンによれば、「ミックの声とキースのギター、それらに引けを取ることなくチャーリーのスネア・ドラムこそがストーンズの音だった」。ロックバンドのドラマーは、華やかで重要なポジションだ。その音量もそうだし、ステージでは視覚的にも目立つ。曲の全体を通じてドラムは音を奏で、バンド全体を支える。だからか、髪を振り乱し、暴れ回って演奏するロック・ドラマーはたくさんいる。
チャーリーは違った。淡々とやる。かっちりと仕事をする。だからこそ、その前でミックもキースも自由にやれた。
チャーリーのドラミングの特徴に、リズムをわずかに後ろにずらす奏法がある。それがバンド全体の独特のリズム感やうねる感覚を作り出した。ソフトウェアのプログラムではできない、チャーリーのものだった。
バンドは不思議な生き物のようなものである。単なるパーツ(メンバー)の寄せ集めではない。
フレディ・マーキュリーが亡くなった後、フリーやバッド・カンパニーで活躍したポール・ロジャーズがクイーンのボーカリストとして一時参加したが、やはり「違った」。
ポール・ロジャーズが稀代のスーパー・ロック・ボーカリストであることは疑う余地がない。(僕も大好き)。だが、違ったのだ。
同様に、チャーリーなきストーンズは、もう転がり続けることはないだろう。
Amazonには、今から30年前に僕が日本に紹介した、フィリップ・ノーマンによるストーンズの本『ローリング・ストーンズ―その栄光と軌跡』(原題 The Life and Good Times of The Rolling Stones)がまだ売られていた。懐かしい。
昨日、横浜市長選挙があり、午後8時の投票終了とともに出口調査の結果をもとに山中竹春氏の当選が確定した。彼は48歳の元横浜市立大学の教授だ。
友人が「早稲田の感染者多いですね」といって、以下のサイトを送ってきてくれた。
https://www.waseda.jp/top/news/70079
これを見ると、8月19日現在で学生や教員、職員など同大学関係者の累積感染者数は600人程度と報告されている。総数のおよそ1%。
同日の日本国内での新型コロナ感染者数は、約123万人。総人口には乳幼児なども含まれているが、それらの約1%だ。
参考までに米国での感染者数を見ると、同じ日の集計で約3,730万人。こちらは人口比の11%になる。
新型コロナによる死者数をみると、日本は感染者数の約1.3%、米国は同約1.7%である。
米国の場合、感染者や亡くなった人を白人か黒人か、ヒスパニック、アジア系などでの内訳をみるといろんなことが見えてきそうだ。民主党支持者(バイデン支持者)と共和党支持者(トランプ支持者)の違いにも興味ある。
どこかにデータがありそうだけど、それはまた時間のあるときにでも調べてみたい。
8月4日のオリンピックのテレビ放映は、スポーツ競技についての世の中の空気を確実に変えたと思う。スケートボード女子パークの試合だ。
横尾忠則さんが書評でこんなことを書いていた。
書評は一冊の本を剽窃(ひょうせつ)する行為にも似て、創造から遠い。どんな膨大な書物も簡単に要約して気の利いたコメントを加えるが、これは絵を描くようなクリエイティブな行為ではない。クリエイティビティのカット&ペーストだ。書評は絵画における模写というコピーで、パスティーシュ(模倣や意図的に混成したもの)は創造とは言わない。自分が書く書評を、いきなりこのように書き始める横尾は実にたいしたもんだと感心。
なるほど、確かに彼が言うとおりかも知れない。でもこれは書評に限らず、他の「評」、つまり映画評や音楽評、舞踏評などあらゆるクリティークに当てはまる気もする。
たとえば映画評をとって考えてみると、どう見ても映画会社や配給会社などが試写会時に用意した資料をもとに要約をしただけと思えるような映画評が多い。
その新作映画はまだ劇場公開されていないのだから、一般客はその評をありがたく信じて参考にするしかない。そこにあるのはクリティークではなく、単なる情報の非対称性の利用だけ。
僕が今も映画を選ぶ際に参考にしているものの1つが、週刊文春に昔から連載されている Cinema Chart 欄だ。毎週、2作品を5人の評者が星の数(☆5つが最高)と60字ほどの文章で評価する。
そこで中野翠と芝山幹郎の両者が高評価を与えているものは、僕が観ての評価も高い。これは理屈でも何でもなく、これまでの長年の経験則からだ。
以前、5人の評価者のなかに映画評論家のおすぎがいて、その頃は中野と芝山が高評価、一方でおすぎによる評価が低いものはほぼ間違いなく自分の趣味で高評価の映画だった。たまに彼ら3人が揃って高評価を与えていた作品もあったが、それらは僕には「まあまあ」だったりした。
いま、映画評でかつてのおすぎにあたるのはフランス文学者で映画評も書いているC氏で、彼が高評価を与えている作品は「よした方がいい」対象である。
でもこれは、趣味が合ってないというだけの問題。彼の高評価は「観ない方がいいよ」と教えてくれる、僕には貴重な情報。
その作品がいい映画かどうかは、自分が好きになれるかどうかだけだ。
緊急事態宣言下にもかかわらず、新型コロナの感染者拡大が止まらない。医療現場の状況も逼迫したままだ。
人流を5割減らすよう、そして県境をはさんだ移動を避けるよう、政府の新型コロナウイルス対策分科会が緊急宣言を出した。
今日現在の神奈川県の重傷病床の使用率は、96パーセントである。
そうしたなか、近くの横浜アリーナではジャニーズ事務所主催のコンサートイベントが開催中だ。お盆休暇をにらんでか、昼と夕方の2回公演が組まれている。
会場運営会社に公演について訊ねたら、「感染拡大を考慮して」5,000人の観客を入れて実施することになっていると言う。一日で1万人のファンが駅から会場のアリーナまでぞろぞろ移動してくる。
今週いっぱい、この調子でコンサート・イベントが開催される。
先週終わったオリンピックはすべての会場で無観客でゲームが行われたが、この開催をどう考えるか会場担当者に訊いたら「文化イベントは、国と県の所管機関に相談した上でルールに従って実施している」という。
そこで管轄である神奈川県くらし安全防災局危機管理防災課にこの時期の実施について考えを聞いた。すると、国(内閣官房新型コロナウイルス感染症対策推進室)から収容人数の半分、あるいは5,000人を入れてのイベントの実施ができるとの通達を8月5日に受け、それにしたがって許可していると。
映画館や美術館を楽しむには言葉はいらない。だが、ジャニーズ事務所のコンサートはそうはいかないんじゃないか。
今週いっぱい、毎日5,000人+5,000人の2公演が行われる。県内はもちろん隣の東京都から多数のファンが押し寄せ、人流が一気に増え、密はどう見ても避けられない。コロナ感染者が急増しなければいいのだが・・・。
ワクチン接種の帰り、スターバックスでコーヒーを買って帰ろうと思ったら店のシャッターがおりていた。感染者が1人出たため、「お客様と従業員の安全確保を最優先とするため」一時休業していると。
今は、金儲けよりこうした姿勢が常識のはずだ。
今回のオリンピックの開会式、国歌「君が代」を歌ったMISIAが七色をあしらったドレスをまとっていたことで、それがLGBTQの多様性を表現しているとして多くの人が称賛した。
彼女の歌唱は素晴らしかったと多く人が賛辞を送り、LGBTの人たちは今回のドレスを見て感激した。
しかし、彼女が歌った歌詞の内容にあらためて意識を向けた人はいったいどれだけいたか。それは多様性とかけ離れた、むしろそれとは真逆のものだったんだよ。
歌詞、それはメッセージである。小さな時から聞かされているからと妙に納得したり、麻痺しないように気を付けなくちゃ。
注文していた本が入荷したと連絡があり、自転車で駅前のくまざわ書店へ。
ネット書店は便利だが、急がない本はできるだけ街の本屋で買うことにしている。
店のカウンターで本を受け取ったあと、いつものように書内をぐるりと回ってめぼしそうな本や雑誌をあたる。
入口近くの島には売れ筋の本がうまく並べられている。書店の中でも、おそらく売上が一番高いはずのこの売場には最新の注意を払って商品が陳列されているのが分かる。
平積みされたなかの一冊に、上野千鶴子『在宅ひとり死のススメ』(文藝春秋)があった。20万部突破とカバーに書いてある。そんなに売れている本はどんな本か、と手に取ろうとしたが、腕を引っ込めた。
だって、この著者、まだ生きてる・・・。
実際に<在宅ひとり死>をした経験から、「みなさん、やっぱ、在宅ひとり死はいいですよ!」って語ってるのなら興味あるけど。
それじゃあ落語だよな。
自分が知りもしないこと、それも人の生き死にに関わるような大切で、しかも個別性の高いことを「これが正しい」ともっともらしく説教されても困る。
先月末に厚労省が発表した生命表によると、2020年の日本人男性の平均寿命は81.6歳、女性は87.7歳と示されている。
平均寿命は、死亡状況が変化しないと仮定した場合の(つまり戦争や大災害などがなかったとして)その時の新生児(つまり0歳児)がいくつまで生きられるかの推計値である。
だから、いま生きている我々男性が、平均して82歳まで生きられるというのではない。
自分の年齢の日本人の平均余命を知るためには、自分が生まれた年の平均寿命を見ればいいことになる。
厚労省のサイトに示された下記の表によれば、僕の生まれた昭和33年では64歳といったところ。これが僕の年代の平均寿命とされてる値になる。
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このデータは平成22年にまとめられたものだろう。その年の0歳児の平均寿命(平均余命)が男性79.6、女性86.4歳になっている。
その当時の推計によると僕はあと2年で死んでもおかしくないわけだが、「平均」ということを考えると、早逝した仲間たちがいたことでもう少しは長生きできるということになる。
小学生時代、中学生時代、早くして病気で亡くなった同級生がいた。高校時代の同級生も卒業後何人か病死した。 大学時代の同級生のなかにもそれぞれ20代、30代、40代で亡くなった人がいた。長生きして欲しかった人ほど、早く逝ってしまう。
つまり、同年代の日本人が早く亡くなれば亡くなるほど、生き残った人の余命は延びるということになる。なんかあまりすっきりしない理屈だけど。
で、令和2年の簡易生命表を見てみると、僕の年齢の平均余命は20年以上と示されていた。
名古屋市長の河村氏が、選手が持ってた金メダルをガブリとやった。(写真)
![]() |
| 朝日新聞2021年8月6日朝刊 |
金メダルは、アスリートの長年にわたる、たゆまぬ努力の結晶であり、またコロナ禍においてメダル授与ですら、本人が首にかけるという状況下においての今回の不適切かつあるまじき行為は、アスリートへの敬意や賞賛、また感染予防への配慮が感じられず、大変残念に思います。河村市長には、責任あるリーダーとしての行動を切に願います。トヨタ、怒ってるねー。
メダルを見るとかじりたくなる市長さんに、名古屋市役所の誰か、アマゾンで買えるこの金メダル(380円)を替わりにプレゼントしてやってちょ。
ある会社が、自由ヶ丘で画廊のような商売をしていたときのこと。
たくさんの絵がお店にありますので、「自分の好きな絵を見つけてください」と言ったときに、外国の方は、すぐに「私はこれが好き!」と選ぶのですが、意外と日本人は見つけられず、「どの絵が売れてるんですか?」と聞く人が多い。これはひとつに自分の中に自分の好きな美の基準がない。アートのようなものは、絶対的な基準はあるわけではなく、自分の好き嫌いでいいと言えばいいと思うのですが、おそらく教育の違いなのかもしれませんが、そういう経験がなく「この絵が自分はいい!」と言い切れる人が少ないのかもしれないなということでした。
先月、日経クロストレンドという経営系のネットマガジンが、僕が提唱する PSJ(Promoter Score Japan)を取り上げていた。
以下は3回の連載記事の2回目。
https://waseda.box.com/s/xiuu0a2nhl4zsbafnib0i1f8iv0mg3z4
日本企業の経営者は、これを読んでいい加減に気づいて欲しい。いま彼らがやっているのは、自分の足に合いもしない靴(NPS)を、舶来品のお土産でいただいたからといつまでも痛いのをやせ我慢してはき続けているようなもの。
そんな無駄な痛みを黙って我慢していると、麻痺して痛みが感じられなくなるだけでなく、自分の本来の足の形まで失っていく。
そのことに日本の経営者たち、そしてマーケティングの責任者らはそろそろ気づいた方がいい。
このところ、家にいるときはテレビをつけておく機会が多い。オリンピックの競技を見るためである。日本の選手やチームが出場する試合は、どうしても気になるものだ。
どのスタジアムも会場も一般の観客はおらず、参加チームの関係者などが観客席にいるだけで実に寂しいというかなんというか。ただ、これは致し方のないこと。
一般の観客がおらず、だから普通のスポーツ中継には必ず付きものの観客の応援風景も一切映らない。すっきりしたもんだ。
だから見ていると、ふと「これ、どこでやってんだっけ?」と思う瞬間がある。
もちろん「東京」オリンピック。東京を中心に日本国内のどこかの施設でやってるんだろうけど、これならどこだって同じ。ひとつの国に、すべての競技種目の選手や関係者が集まる必要性はないんじゃないかな。
ある一国が、その後どのように使われるかも分からない競技場や選手村など、さまざまな施設を多額の費用を投じて多数建設し、維持していくのは合理的な判断といえるだろうか。
今後のオリンピックだけど、分散型で世界のいろんな場所でやったらいい。例えば、柔道については毎回日本の武道館で、野球はアメリカで、レスリングはギリシャ、ゴルフは(なぜゴルフがオリンピック競技なのか分からないが)スコットランドで、サーフィンはハワイなんて具合だ。
3時間半もの開会式や聖火リレーはなし。もし何らかのセレモニーが必要ならば、それはオリンピック発祥の地であるギリシャで行えばいい。
そうこうするうちに、今のようなIOC(国際オリンピック委員会)は不要になっていく。これが一番重要なポイント。
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| 青色の棒グラフがテレビ広告費、黄色がネット広告費の推移 |
あれから四半世紀。もうすっかり大人になったはずのネット広告のはずが、どうにも中身はいまだにガキそのままのようである。
先日、「汚染されたネット広告、大企業も関与 「バレなければ問題ない」2兆円市場の影」と題する記事を目にした。
https://www.j-cast.com/2021/07/04415242.html?p=all
25歳になり、体は父親(テレビ広告)を超えた。でも今も成熟しないばかりか、良し悪しの区別すら付かない子どものままでここまで来てしまった。
他の広告媒体にはできた単純な良し悪しの区別すら、なぜネットではできないのかが不思議でならない。そこに関わっている人間の問題か、それともネット世界が持つ独特の感覚がそうさせるのか。
量的には豊かになったネット広告。ポケット(銀行口座)には大金をジャラジャラ言わせながら、倫理的な面だけでなく質的にも痩せ細ってしまった。
広告の分野には、かつて「広告クリエイティブ」というそれなりに豊かな表現の世界があった。純粋なアートや文芸の世界とは違うところで見る人々の心の琴線に触れて、少しばかり視聴者や読者を気持ちよくさせたり、何かしら新たな気付きを与えていた。
少なくとも、僕が広告クリエイターを名乗っていたときにはそうした思いで仕事をしていた。ネット上の広告を作っている連中は、いま何を考えてクリエイティブに取り組んでいるのだろう。
この時期、ニュースのトップにオリンピックのメダリストが登場する。柔道、水泳、体操、スケートボードなど、日本選手が表彰台に立ったシーンとメダルを獲得した競技シーンが紹介される。
確かにいいもんだ。なんだか日本がメダル獲得のトップを行っているかのような気にさえなる。
だがリモコンでチャンネルをCNNに変えると、アメリカの選手が競泳や射撃、フェンシングでメダルを取ったシーンが紹介されるし、BBCでは高飛び込み、競泳、マウンテンバイクでメダルを獲得した英国の選手の活躍が紹介されている。
それらの国の人たちも、そうした自国選手の活躍を紹介する番組を見て興奮し、喜んでいるのだろう。
今回のオリンピックの競技は39、種目は339で、どちらもこれまでで最大だ。339の種目で金、銀、銅のメダルを獲得する選手がいる。つまり、1,017のメダリスト(チームを含む)が生まれる。
どこに焦点を当てて見るか、見せられるかでこのイベントの見え方はまったく異なってくる。もちろん日本、米国、英国だけではない。たとえば、中国は中国選手の活躍にフォーカスを当てた番組とその活躍の見せ方をしっかり工夫して国威高揚に余念がないはず。フランスも、ドイツも、国を問わずどこもかもがそうだろう。
これがオリンピックが各種の国際的な選手権とは違うところだ。339あるどの面に目を向けるか、それによってオリンピックというものの映り方がどうにでもなる、実に便利な装置だといえる。
もちろん、この秋に衆院解散・総選挙を控える現政権にとってもだ。
明日開幕される予定の東京五輪の開会式ショーディレクターを務めるはずだった小林なにがしが、解任された。
ホロコースト(ナチスによるユダヤ人の大量虐殺)の被害者をあざ笑うコントをやっていたことを、アメリカのユダヤ系人権団体から指摘されたことで明らかになった。
このきっかけには驚かされたが、それにしても不祥事クリエーターやディレクターが次から次へとよく出てくるもんである。
ナチスによるホロコーストといえば、つい先週亡くなった現代美術家のクリスチャン・ボルタンスキーは、その作品にホロコーストの影響を強く感じさせる作品作りをしていた。
彼は、両親からホロコーストの話を聞かされながら少年時代を過ごしたという。ユダヤ人だった父親は、ナチスに捕らわれるのを怖れて、1年半の間、床下に身を潜めていたというからその精神的圧迫たるや凄まじいものだったと思う。
そうした少年時代の記憶を背景に、ボルタンスキーの作品には生と死を感じさせるものがたくさんある。
トリエンナーレとして開催されている香川県の直島や豊島を中心とした「瀬戸内国際芸術祭」でいくつか出品されているのを観たのをきっかけに訪れた「越後妻有アートトリエンナーレ(大地の芸術祭)」(新潟県)もそうだ。
2015年に訪ねた時には、現地で廃校になった小学校を舞台として「最後の教室」などの作品展示があった。(以下はすべて同年8月30日撮影)
昔懐かしい「用務員室」なんてプレートも掛かっていた。
梅雨が明け、猛暑の夏が訪れたようだ。
日中はなかなか外を出歩けなかった分、日が沈んでから外の空気が吸いたくなる。
夜8時半、東の空に夏の大三角形が現れた。どうせ映んないだろうと思いながらiPhoneのカメラを向けてみた。
そしたら、ちゃんと映っていた。すごいね iPhone。
テレビで道北を走るモノコックボディのバスが紹介されていた。
士別市(旭川市から北へ50キロ)の士別軌道が運行する日野自動車製のバスだ。
ただ、1982年製造なのでもう交換できるエンジンはなく、エンジンがダメになったときは廃車にするしかないらしい。
それにしても、バスは普通の乗用車と違って日々の走行時間も走行距離も格段に長いはず。それが39年間走ってきたってことは凄いなと思う。
なんでこんな古い田舎のバスのことを書こうかと思ったかというと、つい先日、僕の勤める大学のITヘルプデスクから連絡があったからだ。
大学が貸与しているThinkPad を返却せよとのこと。理由はOS(確かWindows 7)のサポートが終了しているため、セキュリティ更新ができず安全な使用ができなくなっているからと。
で、返却した後はどうするのか訊ねたら、「ご返却いただいたPCは適切な管理のもと保管した後、専門業者による廃棄を行います」。廃棄処分にしちゃうんだ。
もともとそのPCはサブ的にしか使ってはいなかったが、それでも中には個人データも入っているし、PCそのものが廃棄物として処理されるというのもなんか抵抗がある。
毎日北の大地を元気に走り回っているバスが40年間近く現役で使われているのに、研究室に置いたままのPCがなぜ十数年で廃棄処分にされるのか。
この比較ってヘンかね?
もしマイクロソフトが、セキュリティ更新にコストがかかるからというなら、利用者にそれを課金すればよい。
PC本体はプロセッサーやメモリーを入れかえ、OSをアップデートして継続的な利用はなぜできないのだろうか。
機械音痴の素人考えなのかも知れないが、テレビで古いバスが元気に北海道を走っているのを見たら、ついそんな疑問が沸いてきた。
宇多田ヒカルが、インスタグラムのライブ配信で「日本でどれくらい広まっているか知らないけど、私はノンバイナリーってのに該当するな」と語ったのが話題になっている。
それを聞いて思いだしたのが、今年のカンヌ広告賞(カンヌライオン)で受賞したマスターカードのCMである。
このカード、True Name カードという。担当者は、どの銀行も作らないから私たちは自分でつくったと語る。カード表面にエンボス加工される名前は実名(Real Name)でなくていい、あなたが選んだ自分にとっての本当の名前(True Name)でいいと。
それらに対応するためのマスターカードの試みは、真に多様性を尊重するアメリカらしい発想じゃないか。
日本の社会でも「ダイバーシティー」や「インクルージョン」と言ったカタカナ言葉が跋扈しているが、そこには思想はない。いつものとおり、口先だけだ。日本の金融機関で同様のやり方を取り入れるところがはたして出てくるかどうか・・・まずない。
先月末、日本の最高裁は夫婦別姓を認めない民法の規定が憲法に違反しないという判断を示した(裁判官15人のうち11人が合憲とした)。この国では、選択的夫婦別姓制度の導入すら認められなかった。
この日米の感覚の違いは、ほぼ永遠に埋まることはないんだろう。永遠とまで行かなくても、僕が生きている間には無理だろうな。
試しに、日本で同様のカードを発行する予定があるのかどうか、カード会社に問い合わせてみた。回答は「情報がない」、「分からない」だった。それ以上は話にもならなかった。
今日、東京都に緊急事態宣言が発令された。
といっても、文字通りの緊急性を感じる人は少ないように見受ける。
だってそれはそうだろう。「緊急」事態宣言が出されるのが決まったのは、先週の木曜日のこと。あらかじめ 4日も前もって決められた政策を「緊急」と呼ぶのが奇妙だ。
だから都民が緊急性を感じないのは当然のこと。政府や役人らは、自分たちが「緊急」と名付けたのだからこれは緊急なんだよ、分かってんのかお前らは、と思っているんだろうけどそれは無理ってもんだ。
今日から40日間あまり、飲食店は酒の提供ができない。その間、閉店することになった店は多い。今回もだが、なぜアルコールの提供が目の敵になるのか。
テレビのニュースに映る居酒屋の店主や酒店の社長などが「こんなやり方、どう考えてもおかしい。理不尽だよ。だけど我慢するしかない」と怒りを押し込めて語る。
先の戦時中に大政翼賛会が国民の間に広めた「欲しがりません勝つまでは」という標語を思い起こす。もちろん、僕自身はそのときはいなかったけど。
みんな不条理な我慢を強いられ、自由を謳歌できるその日を夢見て自分を殺し、人間性も普通の常識も曲げて、ただひたすら非人間的な日常を生きていた。
僕には今がそれと同じように見える。将来はよくなるはずと期待して不条理な我慢を重ねたあげく、われわれ国民を待ち受けていたのは敗戦後の別な不条理な毎日だった。
今の僕らを待ち受けているのも、同じように思えてならない。
このところ雨が多い。梅雨の季節だからといっても、九州での例年にない大雨続きは心配である。
天気予報で、線状降水帯という言葉をよく聞くようになった。
気象庁によれば、それは「次々と発生する発達した雨雲(積乱雲)が列をなした、組織化した積乱雲群によって、数時間にわたってほぼ同じ場所を通過または停滞することで作り出される、線状に伸びる長さ50 - 300 km程度、幅20 - 50 km程度の強い降水をともなう雨域」となっている。
簡単に言うと、それは複数の積乱雲の集合体。なぜ発生するかというメカニズムは解明されていないらしいが、日本ではとりわけ九州と四国で多く発生している。もちろん日本国中どこでも発生する。
そんな雨模様がつづくなか、昨夜は久しぶりに空が晴れていたおかげで星が見えた。といっても見えるのは、一等星だけだが。南の空に木星が大きく輝き、その西には土星が。
さらにその西にはベガを頂点として、アルタイル、デネブが形づくる夏の大三角形が見えた。
ベガは織姫星、アルタイルは彦星と呼ばれている七夕の星である。
五輪の組織委員会が作成した観客の行動ルールについての指針に首をかしげる。
一都三県の会場は、無観客での試合運営をすると決まったが、他県で観客を入れで実施する際には種々の制約が観客に与えられるようだ。
例えば、マスクの着用。大きな声で応援しない(応援に行ってるのに) 。アルコール類の持ち込みは厳禁で、会場内でも販売しない(真夏の空の下での観戦なのにビールが飲めない)、グループで食事しない、通路で食事しない、、、
なかでも一番あきれたのは、直行直帰をするようのとにお達しである。
小学生の時、学校の先生から、買い食いをしちゃだめとか、寄り道をしないでまっすぐ家に帰りなさいと言われたのを思い出したよ。
応援している選手やチームが振るわなかったら直行直帰した方がいいかしれなけど、そうじゃなかったら誰が直行直帰なんてできるんだろう。
そんな必要以上に折り目正しいというか、生真面目すぎるというか、阿呆な行動を国民がとれると彼らは思っているのだろうか。
東京五輪の組織委員会が、東京及び首都圏三県での競技場を大会中も無観客にすると決めた。
いろんな考えや思わくがあって決定が遅れたのだろうが、種々の連鎖的影響を考えればあまりに遅すぎ、身勝手である。各自治体はもちろん、競技場周辺の施設や店舗は一様に戸惑っている。
無観客での五輪大会開催は、当然外国のメディアでも大きく報道されていた。それらのなかでは、聖火が東京に今日着いたとのニュースもあわせて報道されてたのだが、それらのニュースで聖火は Olympic Flame(オリンピックの炎)って呼ばれていた。あるいは Torch(松明)と。
そこには「聖」(sacred, holy)の意味付けはない。
いったい日本でいつからOlympic flame が聖火と呼ばれるようになったのか知らないが、そうした妙なニュアンス付けが単なるスポーツゲームであるオリンピックに添えられてしまったことで、それを意味もなく神聖化し、合理的で速やかな意思決定を始終阻んでいるように思うのは僕だけだろうか。
辞書によると、聖火とは「神に捧げる神聖な火」らしいが、今の政府や五輪組織委員会にとっての「神」とはいったい何を指すのか。
それは、今回の大会によって全世界で少なくとも約30~40億ドル(3300億円~4400億円)という途方もない放送権料を得る国際オリンピック委員会(IOC)だ。
映画「ブラックバード」の登場人物は8人。スーザン・サランドンとサム・ニールの夫婦とその2人の娘の家族、そしてサランドンの学生時代からの友人。これら8人以外は誰も画面に登場しない。
まるで舞台を見ているような感じで、3日間の物語が進む。海辺近くの瀟洒な一軒家とその周辺の風景だけが描かれる。デンマーク映画のリメイクらしい。本作の脚本は、オリジナル映画の脚本家であるデンマーク人が務めた。
主人公はスーザン・サランドン演じるベビーブーマー世代の女性。60年代から70年代に青春を送ってきたんだろう。いまもやけに威勢がいい。子供らにも小さなときから「創造的に生きろ、自由に生きろ、強く生きろ」と檄を飛ばしてきたみたいだ。それが娘たちには、心の傷にもなっている。
話の途中で彼女は「あの頃、自分も気持だけはウッドストックに行った」と話したり、食事の最後にみんなにマリファナを回したり、きっとあの頃ラブ&ピースの洗礼を受けて、いまもその残滓を胸に生きているだろう。彼女の学生時代からの親友がレッド・ツェッペリンのTシャツを着ていたのは、演出的にはちょっとやり過ぎに思えたけど。
当時の世の中に反抗し、自由と平和と愛を謳いながら、結果として社会的に成功したかつてのフラワーチルドレンがどう人生に幕を下ろすか。
スーザン・サランドン演じるリリーは、今はまだ元気だが不治の病を患っており、近いうちに体の自由がきかなくなり、寝たきりになると告げられている。まだしっかり意識があって、なんとか自分の足で歩けるうちに自分で自分の人生に幕を下ろすと決め、そのために家族を自宅に呼んだ。
最後まで自由で、自分のことには自分で落とし前を付ける主人公には、見るからに意思の強そうなスーザン・サランドンは適役だった。これがメリル・ストリープならいささかメロドラマ的になっただろうし、ダイアン・キートンならもっとセンチメンタルになっただろう。
そうした意味で、この映画はキャスティングがとても上手くいった作品。
ちなみにアメリカではワシントン州やオレゴン州で安楽死が認められているそうだ。
ついうっかりしていた。手帳を開いて、今日がタイガー立石の展覧会「大・タイガー立石展」最終日だと気づいた。
雨が降っている。でも見逃すと、次の開催地へ遠路出かけなきゃならなくなる。そう思い、急いで千葉市美術館へ向かった。
タイガー立石。1941年生まれ、1998年に56歳で亡くなっている。本名、立石紘一。その後、名前をタイガー立石と変え、またその後に立石大河亞と名前を変えた。
絵画だけでなく、イラスト、マンガ、立体、絵本、陶芸、掛け軸、巻物まで、さまざまなものを対象にして奇想天外な表現を続けた。
彼の作品のアイコンのひとつは、頭の上にひらめき電球をのせた緑色の虎。時に、その手にコーラのボトルをしかと握っている。それは、シュールな独特なキャラクターを数々描いた杉浦茂をどこかで彷彿とさせる。
デ・キリコやダリ、アンリ・ルソーなんかの影響もたくさん受けている。歌川国芳の作風を拝借したレコードジャケットなんかもあったりして。見ててほんと飽きない。
展示会場では「新型コロナ感染防止のため、会話はお控えください」というプラカードを係の人が持っているのだが、方々でクスクスと笑い声が漏れ聞こえてくる。僕もタイガーの絵に何度も思わず笑ってしまった。
ちょうど1年前の今日、それまでTBSラジオで土曜日の昼間にやっていた「久米宏 ラジオなんですけど」がほとんど唐突に番組を終了した。
辛辣で真っ当な政権批判、五輪開催への疑問などをほぼ毎週繰り返していたせいだろう。当時の安倍首相を正面からこき下ろしていたからね。僕ですら、これじゃあ官邸が黙ってるはずないと番組に耳を傾けながら思っていたくらいだ。
タイプはまったく違うが、久米は日本のマイケル・ムーアと言えるような存在だと思っている。マイケル・ムーアはジャーナリスト感覚に優れた映画監督、久米は同様にジャーナリスト感覚のあるラジオ・パーソナリティ。どっちにしても、知性と勇気、筋が通った姿勢がないとなかなか務まらない。それとユーモアのセンス。
ジャーナリズム不在の現在の日本のメディア状況。僕が目にする限りにおいてだけど、これはというのがTBSの「報道特集」くらいしかないのは情けない気がする。
それぞれの現場には知性と勇気のある記者やレポーターはいるんだろうけど、筋を通せるプロデューサーがいないってことなのかね。
昨日のゼミでの学生らの議論の中で「サブスク」がトピックスのひとつとしてに出ていた。トヨタのKINTOが成功か、それとも失敗かなんて話題だ。
KINTOというサービスについては、そのプロジェクトのそもそもの目的とゴールが何なのかが分からなければ、はたから眺めてただ現時点で利用客数が伸びてないとか売上高がいくらだとか、そうした理由で失敗と勝手に判断するのはピントがずれている。
それはそうとして、なぜ「サブスク」? 原語はSubscription。もとは雑誌の定期購読のこと。
デジタル財の分野では各種のインターネットプロバイダーはもちろん、ネットフリックスやスポティファイがそうなんだろうが、サブスクは会費制と何が違うのか。NHKの受信料(視聴料)もその一種だ。
基本的にサービス業で用いられることの多い商売のやり方(気取った奴はそれを「ビジネスモデル」とか言う)で、限界コストが低い場合に採用され、それによって企業は継続的な売上を期待する。
なにもサブスクなんて言わなくても、<定額制サービス>と言えば誰にでも分かる。
月に何回行っても追加費用がかからないスポーツジムなんかもそう。ずっと昔からあったサービスだ。でもサブスクなんて分かったような分かんないような言葉で言われると、何か新しいものが登場してきたかのように聞こえるのかも知れない。
ただ気を付けて欲しいのは、英語でも日本語でもないカタカナ用語を疑問もなく使っていると、正確な意味の理解が欠落したままになってしまうぞ。
そもそも「サブスク」という言葉、日本語として美しくない。
おそらくインターネットを使うほとんどの人が、Facebookなんかの「いいね! ボタン」(Like Button)を押したことがあるに違いない。
ただクリックするだけ。手間もコストもかからない。それで、なんだかその書き手とつながった気になれる。押された方も厭な気はしない。それでささやかな承認欲求を満たすことができる。
誰が最初に考えたのか知らないが、本当に良くできた仕組みだ。
これもコミュニケーションのやり方のひとつ何だろうけど、そうやって表面的形式的なやりとりで安心したり、少しばかりいい気分になることで無くしていっているものもある。
何も言葉を発することなく、画面のボタンを押すだけなら猿でもできる。何も考えずにテレビなど見ながらでもできる。思考ではなく条件反射。
こうして「見せかけのコミュニケーション」にわれわれは益々乗っかっていくのだろう。本音の話、簡単に答えなど出ないややこしい議論自体が時代遅れになっていっている。その原因の一端が、あの小さな「いいね!ボタン」にあるんだよ。
小林亜星さんが亡くなった。
ひと月前には、日立のCMで今も使われている「この木なんの木」を小林さんと一緒につくった伊藤アキラさんも亡くなった。二人ともきら星のような才人だった。
小林亜星さんがつくったブリジストンのCM曲「どこまでも行こう」は、僕がその後広告の世界に行こうと思ったきっかけとなった一曲。それと、サントリーの「夜が来る」。
伊藤さんとはラジオCMの仕事で何回かご一緒した。言葉を限られた時間の中で音にのせる術をスタジオで見せてもらい、学ばせてもらった。
亜星さんとは雑誌の仕事で、ご自宅に取材に伺ったことがある。奥さんともども丁寧に対応してもらったのを昨日のことのように思い出したヨ。
才能が輝くスゴイ2人だった。広告という小さな世界に、こんな人たちがいたという僥倖を感じる。そうした時代だったということだろう。高度経済成長期に現れた、夢のような時間の一コマだ。
国が行ったアプリの開発事業に応札し、開発を請け負ったNECへの支払いに関してデジタル改革大臣の平井氏が妙な発言をしたと報じられている。
https://www.asahi.com/articles/ASP6B73PZP67TIPE01M.html?oai=ASP6C3GDKP6CULFA001&ref=yahoo
73億円で発注したものを、後に自分らの都合で予算を38億円の契約に変更した。
もともとの発注金額が妥当だったかどうか知らないが、すでに開発が終了しているプロジェクトについて、周りからの圧力があったからとか、野党から金額について問いただされたからという理由で一方的、超高圧的に契約をねじ曲げるのはおかしなはなしだ。
その際の相手企業を「徹底的に干す」とか「脅しておけ」とか、まともな大人が吐く台詞ではない。
後にその大臣は、自分の言葉について「 ラフな表現になった」と、それこそ大臣としては実にラフな表現で釈明したが、ラフ(rough)には「ありのままの」「未加工の」といった意味がある通り、本心からの言葉を言ったと受け取っておこう。
本格的な梅雨の季節が訪れる前に京都へ。錦小路通りの膳處漢ぽっちりで冷やし中華と点心の昼食を済ませた後、四条通りを東へ散策。
途中でタクシーを拾い、東山・八坂神社の裏手にある青龍殿にのぼると裏手に広い木製のテラスがあり、そこから京都の町を一望に見下ろすことができる。
時節がらだろう、人はほとんどいなくて実に静か。山上の庭園には大隈さんが植樹した松と、その記念碑があった。
見晴らし台でしばらく静かな風を楽しむ。駐車場近くにコーヒーを販売しているバンが駐まっていて、そこでハイネケンとエスプレッソを注文。
コロナ禍でバスの運行が止まっていると聞き、山道を歩いて下ることにする。知恩院か円山公園へおりるのだろうと思ったら、やっとたどり着いたのは東大谷墓地という広大なお墓だった。これもまた京都らしい風景。
若山弦蔵さんが亡くなった。今年は2月に森山周一郎さんも亡くなった。
ふたりとも80代後半だったから、しかたないね。お二人は昭和の時代からいぶし銀の声を聞かせてくれた。
ショーン・コネリーの声は若山弦蔵さん以外あり得なかったし、テレビで見る映画のジャン・ギャバンの声は森山周一郎さん以外考えられなかった。
森山さんにはあるラジオの仕事でご一緒したことがある。30年以上も前のこと。若造のぼくの演出にも真摯に耳を傾けてくれた。
ラジオから聞こえてくるその「声」だけで、いろんな人や風景を思い起こさせてくれる人というのが、もういなくなってしまったように思う。
ラジオというのはイマジネーションのメディア。僕の耳には、吉本のお笑いコンビがいくら早口でまくし立てても、若者に人気のなんとか坂46のムスメらがマイクの前ではしゃいでも、何も浮かんでこない。
ところで、今日で5月は終わり。1年前の今日、日記にこんなことを書いていた。「今日で5月はおわり。明日から緊急事態宣言が部分的に解かれることで、人の移動が少しずつ始まるのだろう。何が変わり、何が変わらないのか見ものである」
あれからちょうど一年が過ぎたが、なんにも変わってない!
裏の鶴見川沿いの土手を散歩してたら、ご近所のSさんに会った。今日は天気がよくて、風が気持ちいい。Sさんとは久しぶりで、立ち止まり挨拶をかわした。
その僕たちの横を、マスクを着けた20代のランナーが駆け抜けていった。
それを横目で見て、Sさんが「あれ、苦しそうですね」と言った。吹きさらしの土手の上をマスクをきちんとつけて息を切らせてジョギングしている、いま走りすぎた男性のことだ。
その通りである。僕が「コロナ対策なんだろうけど、ここでマスクなんかしなくてもいいのにね」と笑うと、Sさんの足下に立っていた小学2年生のヒロシ君が、「そんなの考えればわかるじゃん」と呟いた。
そうなんだよ、ヒロシ君。でもね、ヒロシ君よりたくさんのことを知っているはずの大人たちが、ヒロシ君にも簡単に分かることが分からなくなっている。
年齢じゃない、知識の量でもない、考え方なんだ。これを「シコーテイシ」って言うんだよ、ヒロシ君。
東京都など9都道府県で新型コロナウイルス対応の緊急事態宣言が延長されるようになった。
それにあわせたかたちで、都内などで休業要請がなされていた映画館は午後9時までの営業が可能になる。今さら何を。どういう理屈か分からない。これまでなんで自粛が必要だったのか。
再開を認める映画館の営業については、収容人数の50%を上限にするという。誰が決めたのか知らないが、劇場に足を運んでみろよ。
今日、横浜市内にある東宝系の映画館(シネコン)に行ったが、実に閑散としていた。こんな時期だからさ、しょうがないよな。僕が観た映画なんか、今回のアカデミー賞受賞作であるにかかわらず、客の入りは収容人数に対して3%(100席あたり3人)くらいか。
これが映画興行ビジネスの今の現状。わざわざ上限50%を設定するなんて、映画館に足を運ぶことなどしていない連中の考えだと分かる。ここのところずっと映画館は、いつ、どこの劇場に足を運んでもガラガラだよ。気の毒になる。
ところが、劇場に向かうために利用する電車や地下鉄はいつも満席・密で、厭な感じだ。こっちの方こそなんとかするべきだろう。政治家や高級官僚は、電車やバスで移動するわけじゃないからそれがわかんないんだろうな。
そういえばJRは、緊急事態宣言が出されたとき山手線の運行本数を削減し、その結果、電車内がいっそうの密になったという。当たり前のこと。
だがそれを要請した国土交通省はそのことに対して、「運行本数を減らせば利用者が減ると考えた・・・」と語ったとか。
明らかに論理が間違ってるが、小学生でも分かるその程度のことが役人には分からないのだろうか。
ベルリン在住の作家である多和田葉子さんが、ドイツの公共放送局(ZDF)が3・11後に製作した「フクシマの嘘」と題された番組について書いていた。
YouTubeで探したら、幸いなことに日本語字幕付きで掲載されていた。
あらためて実に悪質な東電の姿勢に呆れかえる。自己保身の塊であり、形を変えたある種のテロとも言える。
そして日本には「原子力ムラ」という、とんでもない奴らが跳梁跋扈している。
婚活アプリの利用者がこんなにたくさんいるなんて・・・。
Omiai という名の婚活アプリの会員情報が「流出した可能性が高い」という。ということは、なんのことはない。流出したということだろう。訳の分からないマーケットに渡ったその個人情報の数、171万人分。
会員の年齢構成を仮に25〜55歳とすると、その年代の日本の人口は約4,770万人なので、その3.6%、28人に1人の情報が流れ出たことになる。
漏れたのは運転免許証や保険証、パスポートなどの画像データ。暗号化されてなかったというから、丸見えだ。
そのアプリを運営するネットマーケティングという会社によれば、トラブルなどに備えて退会後も10年間は保存しておく社内規程にしているといい、すでに退会した元会員のデータも含まれているというから呆れる。
トラブルに備えてというのであれば、サーバーなどにデータ保管しておかず、オフラインで、そして何よりも暗号化しておけばよかったはず。
ネット企業の考え違いのお粗末な企業姿勢であり、ほかでもない自分らがトラブル発生の元凶になった。
お客さんが気の毒。
政治家や官僚が話しているのを聞いていて、何が言いたいのかよく分からず、ついイライラすることがある。
理由はたくさんあるが、そのひとつが彼らが頻繁に使う「承知」という言葉にある。
例えば、LINE利用者の個人情報が長年にわたって中国にある業務委託先企業でアクセス可能になっていたことを巡っての政府会見で、加藤勝信官房長官は政府高官の情報が中国側に流出したかどうか問われ、「事実関係をまず確認しており、必要に応じ適切に対応していくことになると承知している」と述べた。
ヘンな日本語。普通なら彼の回答は「事実関係をまず確認しており、必要に応じ適切に対応していく」でよい。
また、菅首相がLINEを利用しているか記者団から問われた際には、「使っておられるか承知していない」と回答した。
辞書によれば、「承知」の意味には以下の3つ。
①知っていること。例えば「いきさつは承知している」
②聞き入れること。例えば「解約の件は承知できない」
③許すこと。例えば「そんなことしたら承知しないぞ」
さて官房長官の「承知」はどれだろう。
政治家や官僚が「承知していない」を使っている際は、要注意だ。「知らない」ことを言っているのか、「聞かされてない」と言っているのか、聞かされてるが「よく理解していない」と言いたいのか、理解しているが「自分は聞き入れてない」と言ってるのか、あるいは「許さない」と言ってるのか。
どれも「承知」の一言で彼らは表現する。きわめて曖昧で玉虫色だ。真に意味するところは、われわれ国民には到底分からない。
そういえば、「桜を見る会」に関係する懇親会について、政治資金収支報告書に3000万円ほどの収支を記載しなかったとして、安倍前首相の公設第1秘書が政治資金規正法違反の罪で略式起訴された際、安倍前首相はその3000万円の原資について「承知していない」と言い張った。
自分の事務所内で3000万円の金が動いているのを一切知らないとは考えにくい。だから彼は、「知らない」ではなく「承知していない」と繰り返した。政治家や官僚が昔から使う「記憶にありません」を繰り返すのと同じレトリック。
相手に分かりやすく、普通のことばで考えを伝えること。それが当たり前だと思うのだけど。
政治家や役人から「承知」という言葉が出たら、何かを隠そうとしているとみて間違いない。
日本政府はいまだに東京五輪を開催するつもりらしい。ただ、首相や五輪関連の大臣の答弁からは、そこにどういった道義があるからという説明は聞こえてこない。
一旦決めたことだから、決まったことだから、やる。自分たちではどう「中止」していいか分からないから進めるしかない。そんな感じがする。
世論調査では、日本人の7割以上がこのコロナ禍での五輪へ反対もしくは延期を希望している。これに耳を貸さない政府も政府だが、こうした調査結果をニュースとして流すだけでメディアとしての主張をはっきり述べない日本のマスコミは何なんだろう。
大手の新聞社、テレビ局のことだ。個々の番組では、出演者が開催への反対意見を述べているのを見るし、新聞では反対への投書意見の掲載や外部論者のコラムを掲載している。
だが、だからといって、それで済むものではないだろう。ジャーナリズムを生業とする新聞社、あるいはテレビ局としての意見をはっきり出すべきだ。
その理由を僕なりに考えると、ひとつには新聞、テレビといったマスメディア企業の事なかれ主義。色んな意見を紙面で「紹介」するだけで、自分たちの明確な考えは示さないことによって非難を受けたりしないようにしている。
ふたつめは、いまの時流の中で五輪賛成を表立って謳うことはできないが、実は開催を願っているから。開催されればテレビも新聞も五輪報道で活気づくのは明らか。自分らのビジネスへの影響を考えると、このままやって欲しいと願っている。
反対をはっきり述べているのは、いくつかのラジオ局だけだ。彼らには、テレビや新聞ほどの影響力がなくて政府から強く睨まれることがないことと、直接的な大きな利益関係もないからだろう。
テレビも新聞も、僕が主に外国のメディアを通じて情報を得るようになったのは、こうしたことからなんだ。
3G回線の携帯電話機を新しいものに交換しませんかという案内パンフが届いた。そこで、そろそろ切り替えようと思い通信会社に電話した。
機種交換だと言うと別の係に回され、送られてきたパンフレットに記載のお勧めの料金プランで決めようと思ったが、一点、そこに記されている「2年縛り」の言葉が引っ掛かった。
その方が経済的なんだろうが、通信会社ごときに縛られたくない。別に物理的に体を縛られるわけではないし、いつでも違約金さえ払えばそれで済むのは分かっているが、これは気分の問題。
2年縛りでない<普通の料金>はいくらかと電話の向こうの男性に尋ねたら、「分からない」という。「自分たちは2年縛りの料金しか知らされていない」がその理由だ。
ヘンに思い、あなたはKDDIの社員ですよね、と尋ねると、auの者です、と返ってくる。繰り返し尋ねても同じ返答。auはサービス名称であって企業名ではない、
ちゃんと会社名を言うように言ったら、「それは言えません、上から言うなと言われているから」と繰り返す。通信会社の非常識はここまで来たかと思った。
KDDIが業者を使っているのだろうが、こんなことやってるからユーザーからの苦情が絶えないんだと納得。
もう少し上手にできないものかね。
鹿児島で実施された五輪の聖火リレーの現場で、新型コロナウイルス感染者が6名でた。
なぜこんなことを今も続けているんだろう。聖火リレーがなぜ必要なのか分からない。
オリンピックはスポーツ競技のためのもの。聖火リレーがあろうとなかろうと、出場する選手たちの競技上のパフォーマンスには何も関係ないはず。 あるのはオリンピックといえば聖火、で、聖火と言えば聖火リレーという固定観念。
加えて言えば、スポーツの競技会なのに、なぜ3時間もの開会式が必要なのか。
佐々木宏という、森元総理大臣の友人が務めている大手広告代理店の人物がその演出責任者に選ばれ、タレントの渡辺直美をブタにして面白がるという演出プランが内部からバラされた。その発想は、表現することで禄を食んでいる人間としての品性に欠けている。
https://www.theguardian.com/sport/2021/mar/18/tokyo-olympics-ceremonies-chief-hiroshi-sasaki-sexism
そんな演出プランを考えることがスポーツ競技と何の関係があるのか。テレビ中継のためだけの単なる浅薄なショーだ。
そういえばその人物は、サントリーの缶コーヒーのCMでトミー・リー・ジョーンズを耳の尖った宇宙人に仕立てたり、トヨタのCMではジャン・レノをドラえもんにし、ソフトバンクモバイルでは北大路欣也さんに犬の吹き替えをさせるなどしている。
視聴者が面白がってくれるからと、有名俳優の顔をスポンサーの札束でひっぱたたいて「俺が動かしてる」と悦に入っているんだろう。そのメンタリティーが渡辺直美をブタに変えるという下卑た演出プランに結びついている。
五輪に話を戻せば、いまの時期に日本中を走る聖火リレーなど即刻止めてもらいたい。そして、開会式もクサい演出やショー的要素は一切無用。巨額の放映権料が入ることになっているテレビ中継にしか関心のないIOCと同じ轍を踏むことはない。
そしてそもそも、五輪は来年の秋にでも持ち越すことだ。
東京、大阪、兵庫、京都の4都道府県で明日から多くの商業施設が営業を休止する。3度目で、短期集中とか言ってるが、なぜ短期集中なのか理屈は分からない。何のデータの裏付けも証明もない。「精神」だけだ。
そもそも、前首相の安倍晋三が新型コロナ感染拡大による東京五輪の延長を2年でなく1年に決めたとき、その理由として「ワクチンの開発はできる。日本の技術は落ちていない。大丈夫」と語ったそうだ(朝日新聞4月24日)。「日本はアメリカに負けない」と主張した先の大戦中の大本営と同じ。
科学的なデータや冷静な分析はそこにはない。こうあって欲しい、だからそうなるに違いない、という希望的観測のみ。
ひょっとすると、今やこれは日本という国のレガシーか?
ニュースによると、都内にある4つの寄席は25日に発令される宣言後も興行を継続することを決めたらしい。
都内の寄席は昨年6月以降に定席を再開後、場内の換気をするため、休憩を増やしたほか、フェースガードをつけて高座に上がる漫才師もいるなどの対策をとってきたという。興行を続ける理由について、浅草演芸ホールは、都からの無観客開催の要請文に「社会生活の維持に必要なものを除く」とあると指摘したうえで、「(落語や漫才などの)大衆娯楽である寄席は『必要なもの』に該当すると判断した」と説明する。都や政府がこれを取り締まるには、寄席が「不必要なもの」であることを証明しなければならない。自分たちがはっきり線引きもせず、責任逃れで曖昧なことしか言わないからこうした声が出る。
寄席に携わる人たちの声には自信と矜恃を感じる。それと強い危機感も。必要なものか、不必要か、役人が寄席についての議論で寄席やってる連中にかなうわけない。「おととい来やがれ!」だろう。
今日、昨年亡くなったチャドウィック・ボーズマンが主演する「21ブリッジズ」を観に行ったのだけど、映画の始まる前に売店で生ビールを頼んだら、申し訳なさそうに「午後7時以降はビールはお売りできないんです・・・」と言われた。
あ、そうか、と思い踵を返したが、考えてみると、映画を観賞しながら劇場内でビールを飲むことで感染が拡大するのだろうか。7時以降はダメというのは単なる形式。
形式にこだわっているから、日本のワクチン接種率はいまだ1%にも届かない。一方、下図のようにイスラエルは60%を超え、あれだけ一時は感染者数の爆発的な増加で苦しんだ英国は50%近い接種率を実現している。
英国はワクチン開発に成功したことに加え、NHSが主導してボランティアを募ってワクチンの接種を広く、素早くやった。医療に従事した経験があるなしを問わず、大卒で(基礎的な知識の証明)かつ犯罪歴がないことを条件に誰でも応募できるようにした。
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| 椅子に座り注射を受けているのは練習台の人形 |
ボランティアたちは研修を受けたのち、全国各地の施設で人々のワクチンの接種にあたった。その結果、いまでは国民全体の半数がワクチン接種を終えて、通常に近い生活を取り戻すことにつながった。
日本では今も注射をすることが認められてるのは医師と看護師に限られているが、何が本当の課題なのかを考えれば、これまでの政府の多くの対応がいかに焦点がぼけているものの連続だったかが分かるはず。保健所でのPCR検査を始め、GO TOなんとかやら。
戦略的な思考はそこになく、場当たり的なことばかり。これまでも、そしてこれからもそれが続くと思うと暗い気持になる。
ところで、高度な外科手術を支援するロボットが既に世の中にあるなか、いまだ注射ひとつロボティクス技術でできないのはどうしてなのだろう。
LINEってのは、面白い会社だなあ〜。懲りないし、反省もしない。自分たちがそれこそ面白そうだと思ったことは、後先考えないで「やっちゃえ」って発想なんだろうか。
https://bunshun.jp/articles/-/44933 (文春オンライン)
同社の社員が、それも30代半ばの男性が女子高生に扮してサクラ投稿を続けることで、高校生限定としたチャットを盛り上げていた。
チャットでは誰にだってなりすますことが可能。確かに分かりゃしないよナ。で、分かりゃしなければ何やっても構わないという感覚。
その理由について、文春によれば同社の幹部は「ユーザーの民度が低いから手本を見せているんだ」と開き直ったというからご立派! これぞ「いまや日本のインフラ」と呼ばれる企業にふさわしい。
そして担当者は、その一連のヤラセによってユーザーの参加率を4倍に増やしたことが認められて、めでたく社内表彰されたとか。
不登校の高校生が悩みを打ち明けるトークルームでもLINEの社員が不登校生を演じていた。スゴイねー、お前ら何だって演じられるんだなあ〜〜
ところで、利用者の個人情報を中国に流した件は、その後どうなったのか? 何も報告なしか。知らぬ存ぜずで、そのうち日本人はすぐ忘れるから、って。
それにしても日本のユーザーは、実におとなしいというか、鈍感だと思うナ。自らの個人情報にあまりに無頓着で、いまだLINEを使いつづけている。
かつて茨木のり子さんは、「自分の感受性くらい」という詩の中で
自分の感受性くらいと書いたが、それとともに、僕たちはすでに起こっている危機感を感じる感性ぐらい身につけた方がいい。
自分で守れ
ばかものよ
・・・ということは、皮肉にも先のLINE社の幹部は慧眼の持ち主ということかもしれないナ。