2026-08-30

『左利きの少女』

台北を舞台にした映画『左利きの少女』(監督:ツォウ・シーチン)は、シングル・マザーのシューフェン、優秀なのに家庭の経済的理由で大学に進学できなかった娘のイーアン、まだ5歳の少女・イージンの親子3人が主人公。(後に普通の親子関係ではなかったことが明らかになる)

 
映画の冒頭、万華鏡の中の弾ける色と模様が映し出される。それは、3人が生活を立て直すために台北に向かう車の中でイージンが手にした万華鏡が見せる映像。これから始まる台北の夜市での日々の賑やかさを象徴しているみたいだ。 

台湾と聞くと、ついTSMCをはじめとする世界的な半導体企業の隆盛、そして勢いのある経済成長が思い浮かぶ。2024年、一人当たりのGDPで台湾は日本を上回った。 

が、考えてみれば当たり前なのだが、台湾人の誰もが半導体産業やIT産業でスマートに働いているわけではないし、企業組織を核とした経済秩序のなかで生きているわけでもない。

普通の人々の生活の多くは高層オフィスビルのなかではない、もっと低い、地べたを這うようなところにある。

この映画は、強い因習社会のなかで虐げられながらも自分を失うことなく生きる女性、そして家族の再生を描く。

わだかまりを抱えた親と娘、シューフェンとイーアンの間で自由気ままにふるまう明るいイージンの姿が印象的だ。視点をまだあどけない5歳の少女 ー実際のカメラのアングルも少女の目の高さで描いているー に置くことで、観る者が出来上がったオトナの目線で見ようとするのを押しとどめている。 

映画は、(僕はよく知らなかったのだが)台湾社会にはまだ古風な家父長制の考えが根強く残っていて、女性が社会の中で地位を認められていない様子を見せつける。女性たちの恨み節が聞こえてくるようだ。

エンドタイトル間近にスクリーンに映るのも、万華鏡の中のきらめきだった。それはまるで台湾に生きる人たちのさまざまな人生を映し出し、多様性を応援しているかのように思えた。 

台湾系米国人の監督が自らのルーツである台湾を外側から眺め、そこに生きる女と男、若い世代と高齢者たち、それらの間に横たわる違いと軋轢、そしてそれらをもととする不自由さを描いた作品である。 

https://tatsukimura.blogspot.com/search/label/%E6%98%A0%E7%94%BB 

2026-08-29

横浜市長の辞任で「組織」について考えた

地元・横浜市の市長がパワハラの責任を取って職を辞することを発表した。そのため、10月には市長選挙が行われることになった。

今回の出来事についてはメディアの報道でいきさつを知ることになったが、どうも釈然としない。

ひとつは、いつもながら言葉が勝手に一人歩きしている点で、「パワハラ」が今回のキーワードなのだが、その吟味が弱いように感じる。

メディアが報道しているような山中市長の行為を認めるわけではない。ただ、彼が日々やり取りしていたのは、大組織である横浜市役所の局長や部長という幹部職員である。みんな組織経験の長い「大人たち」のはず。

それが、市長が叱責するときに机を叩いたとか、提出した書類を投げて返したとか、ポンコツと言われたらとか、そんな子供じみたことでパワハラなんて言うなよ。指鉄砲を向けられたからといって、そんなことで精神的に傷つくなよ。ポンコツと言われて侮辱されたというのであれば、言い返してやればいい。

すべて器の問題。

それを反映するように、第三者調査報告書ではどの幹部が、なぜ、どういった文脈で「ポンコツ」とか「頭が悪い」とか言われたかは明らかにされてない。そこを知りたい。そこが分からなければ論評が難しいはずだから。

ふたつ目は、長期にわたって行われてきたとされる市長の一連の行為を、なぜ誰も止められなかったのかという疑問である。

下記はAIがまとめた、今回の出来事の概要。 


2023年の6月にはすでに問題が発生していたとされる。少なくともそれから3年間も市庁舎のなかで続いていたのは、普通の組織だったらありえない気がする。

副市長や局長が、市庁舎内での出来事として何も知らなかったはずはない。にもかかわらず、根本的な対応が取られていなかった。とりわけ、副市長の責任は重いと思う。

第三者委員会も地方自治法167条をもとに、副市長を「市長を補佐して職員の事務を監督する最高補助機関」と位置づけ、市長本人によるパワハラを防止・是正する重大なガバナンス上の役割を負うとしている。実際、副市長は横浜市役所で統括コンプライアンス責任者の職責を負っていた。

組織内で対策を取るべきだった副市長や局長が、何年にもわたって対応を怠った。自分に対する人事権を握られていたことに恐怖を感じたためか。だとすると、つまりは保身。

そうした彼らにとっては、市長に立ち向かうことではなく、黙ってやり過ごすことが合理的な行動だった。そのことで、組織的沈黙と呼ばれる状況が蔓延したということだろう。 

結果、別の問題が発生していた。第三者委員会の調査によって分かったことだが、職員たちの声として、市長の行為が局長への精神的な負荷となり、それが増幅されて部長、またその部下へと降りてくるという趣旨の証言が寄せられている。

経営心理学の分野で言う「虐待的監督の下方伝播」が起こっていたのである。

今回の横浜市役所の組織としての失敗の流れを整理すると、次のようになる。 
① 市長が圧倒的な人事権を持つ

② 反対した者が異動などの対象になるとの認識が生じる

③ 副市長、局長、部長などの幹部が市長を諫めることを放棄する

④ 市長への悪い情報・反対意見が上がらなくなる

⑤ 市長自身は自分のマネジメントの問題を認識しないままになる

⑥ 幹部は市長の要求圧力を部下に向けて転嫁し、順に下へ伝播する

⑦ 組織全体の心理的安全性が低下する

⑧ 内部通報も行われなくなる

⑨ 問題は解決されず、さらに長期化する 

⑩ 組織内では問題の解決が不能で、最後に人事部長が外部に向けて会見を行い告発。社会が知ることとなった。  

最悪である。

市長も悪いが、副市長など幹部職員の責任も問われるべきだ。そこが報道ではすっかり抜け落ちている。僕が釈然としなかったのはそこだ。

メディアはフォーカスを絞って分かりやすく伝えた方がニュース価値が上がると思っているのかもしれないが、問題を単純化しすぎてはいけない。全体が分からないまま終わらせてしまう。

2026-08-25

「売る側」「買う側」の向こうにいる「売らせる側」こそがもっとも悪

法務省の有識者検討会が、売買春について売春側だけでなく買春側にも罰則を与えるべきだとの意見をとりまとめた。

罰則規程が当てはまる対象は「勧誘行為」であり、それは売春者を物色する目的での徘徊(つまり歩き回りか?)らしい。しかし「行為自体」には罰則はない。なんだ、それ?

こうした件が議論されたのは「売る側の勧誘行為が処罰される現行法に対して、不均衡を是正する必要がある」からだと。つまり、不公平だからそれを調整して条件を「合わせる」ことが目的らしい。なんだ、それ?

路上で(多くは)女性が売春目的で客を見つけるために立ちん坊していることが周囲の風紀を乱す迷惑行為と考える「良識人」から出た発想だ。中学校の風紀委員会かい。

政府がこうした法律の見直しに動いたきっかけは、性売春を目的に来日する外国人観光客が目立って増えてきたことを懸念するようになった面が強い。今や、歌舞伎町界隈での日本の少女による売春は世界的に(特にアジア方面で)知られるようになっているということなんだな。貧しくなるニッポン。

政府は、そうした国としての見た目の悪さを気にしてる。だから、お上は路上での売買春を迷惑行為だとして取り締まりを強化したい。

だがこれは、問題の本質から逸脱している。売買春のための「勧誘行為」を適法とするか違法とするかなど、どうでもいい。というか、路上で勧誘ができなければ、場が路上からスマホ上に移るだけ。それで周囲の人の目に見えなくなるが、消えた訳じゃない。

ここでの重要な問題のひとつは、ホストクラブなどで女性(多くは未成年だったりする)が多額の借金を背負わされて、その返済の為に強制的に性労働させられている現実なのである。これは周囲の風紀を乱す迷惑行為をなくすためとか、道徳的であるためとかではなく、もっと本質的な真に解決すべき人権に関する問題だ。

そうしたことが行われている構造を取り払おうとせず、表面上の性売買、しかも「勧誘行為を処罰」というところにしか頭が行ってないとしたら情けなさ過ぎる。

裏で糸を引き、女性を逃げられない状態に追い込んで性搾取している悪党らこそ、まずは集中的に処罰されなければならないはずだ。そこをちゃんとやって欲しい。 

2026-08-24

人生の最盛期

探検家の角幡唯介は、その著書の中で「43歳が人生の全盛期」と主張する。

現在50歳の彼が自身の20代から40代を振り返って感じた実感からで、彼の『43歳頂点論』ではそれは体力の横溢さと経験の深さの双方から得られる総体としての探検者能力を示している。

角幡は大学の探検部にいたときから<探検>を続けている。探検はオリジナルでなければならず、まだ誰も足を踏み入れたことのない地へ踏み込んでいく。あるいは、まだ誰もそのルートでたどり着いたことのない道筋を選んで進む。

そのためには体力や肉体の強靱さが求められるが、それは歳とともに衰えていくのは避けられない。一方で、場を踏めた踏むほど、また歳を取ることからの人間としての経験は深くなる。

角幡の場合、その2つの総合力がピークに達していたと振り返って感じたのが、43歳だった。

探検家でも冒険家でもない身としては「へえ、そうかいな」としか思わないわけだが、植村直己や長谷川恒男、星野道夫などが43歳で命を落としていると聞かされると、妙に真実味を帯びてくるから不思議だ。

この本を読んだ読者は、たぶん誰もが「自分の全盛期はいつだったのかな?」と考えたに違いない。この問いは深い。基準をどこに置くかですべての判断が変わってくるから。そこに、その人の人生観と価値観がはっきり現れる。

そんなことを思っていて、ふと頭に浮かんだのは、一昨日の夏の甲子園大会の決勝戦である。

智弁和歌山高校が優勝した場面は、その日のテレビ局の各ニュースで流れ、スポーツ紙だけでなく、すべての一般紙でも取り上げられたはず。その選手たちが高校野球で日本一になった感動的で晴れやかなシーンだ。 

気になったのは、その選手たちは優勝の熱が冷めた後、何を考えるのだろうということ。下級生たちは来年以降の大会を目指すのかもしれないが、来春に卒業する3年生はどうなんだろう。

スカウトされて大学の野球部やプロ球団に進む3年生もいるだろうが、それは一部の選手だ。残りの選手たちはこれから何を目指すのだろうか、と余計なことを考えてしまった。

人生は長い。彼らにとって「18歳が人生の最盛期だった」とならなければいいと思う。 

2026-08-22

Evernoteの利用料金が2倍以上に値上げされることに

サブスクリプション料金の改定と題したメールが来た。

最近、こうしたメールを送ってくるサービスが多いので、またか、という感じなのだが、それにしてもEvernoteは大胆にも2倍以上の新料金を言ってきた。

 

日本じゃ普通あり得ない。  

自分たちはユーザーをロックインしていると考え、利用者の足下を見た価格政策をとっている。とっても厭な感じ。

Evernoteを使い始めたのは2009年だから、今年で17年になる。最初は無料サービスを利用していて、その後、有料サービスに変更。料金は月額2.50ドルだった。


2013年から年額払いに変更したが、その頃は年4,000円だったから新料金はその当時の4倍の金額になる。

会社の経営者が変わったことも影響してるのだろう。最近はやたらと頻繁に細かいアップデイトの通知ばかり送ってきて、ただ煩わしいだけでなく、肝心のデータの同期に時間がかかるのが気になっていた。

このタイミングで解約するに限るようだ。これまでのデータを人質にされて一方的なビジネスをされるのは実に不愉快。

2026-08-17

京都五山の送り火

毎年8月16日には京都五山の送り火が行われる。お盆にこの世に戻って来た先祖の霊を「また来年まで」とあの世へお送りする。

東の大文字から点火され、5分ほどの時間をおいて妙法、船形、左大文字、鳥居形と西の方の山へと順に続く。今年は、特別にしつらえられた京都駅最上階の展望ラウンジからそれらを眺めた。  

大文字

妙法の妙
妙法の法

船形

左大文字

最後の鳥居形のみ捕らえられず。

 

2026-08-16

60万キロ越えのトヨタ・コンフォート

お盆の帰省客の流れに逆行して京都へ。

お昼過ぎ、歌川国芳展が開催されている京都市京セラ美術館へ着いた。向かいの京都国立近代美術館は何度か行ったことがあったが、この美術館に入ったのは初めて。


京セラが主体となって竣工した美術館だと勝手に思って訪ねたところ、やけに建物が重厚で歴史を感じさせる。しかも、名前が京セラ美術館ではなく、よく見ると京都市京セラ美術館だ。

調べて見ると、京都市がネーミングライツの契約を結んだ先が京セラで、だからこの名前の美術館になっている。市と結んだ契約金は50年間で50億円。半世紀にわたる契約を結べたのは、稲盛さんの意向が働いたからだろう。

歌川国芳展はこれまでに何度も見ているので、実はそれほどわくわくしながら訪ねたわけではなかったのだが、思いのほか展示作品が充実していて、知らない作品がたくさんあった。大漁だった。

いつもそうなのだけど、美術展を見終わるとぐったりと疲れてしまう。立ちっぱなしで1時間以上歩くこともあるが、ずっと集中しているから頭がしびれてしまうのだ。リラックスして楽しめばいいのに、と連れ合いから言われるが、どうもつい。

美術館の前にやけに昭和なタクシーが駐まっていた。ずいぶん前に生産中止になっているトヨタ・コンフォートだ。

乗り込んで行き先を告げ、シートに体を預けて見回すと、ドアに窓を開けるハンドルがついている。嬉しくなる。

彌榮自動車という京都市の老舗のタクシー会社で、運転手にその車の営業歴を尋ねたら、「16年くらい使ってますかね」と。さすがに昭和からではなかったけど、営業用の車にしてもずいぶん長い。そして、その車の走行距離は60万キロ越えていた。地球15周分の距離だ! ますます嬉しくなる。

窓のハンドルで思ったのが、先日の千葉での豪雨とそれによるクルマの水没事故だ。今回、道路の水かさが増してドアが開かなくなったケースが続出した。そして車の電気系統がやられて窓が開かないまま脱出できず、人が亡くなった。

そんな事故のことを聞いて思ったのが「なぜパワーウインドウが必要なのか!」といういつもながらのアナクロな罵りだ。 

昔から、車の窓くらい電気の力じゃなく人が手で開ければいいと思っていた。その方が開き具合の調整が楽だし、エンジンをかけてなくても開け閉めでき、ずっと便利だと思うんだけどね。

グローブボックスには窓ガラス破砕用のハンマーが一応入っているけど、窓が開きさえすればそんなもの使う必要なしだ。 

そもそも、何が嬉しくて車にパワーウインドウが付いているのか。何でも電動にすれば、そっちの方がいいという感覚がわれわれの中にあると自動車会社は考えているようだ。

今度車を買い換えるときは、パワーウインドウのスイッチをオプションで窓開けハンドルに変更してくれるようディーラーに話してみよう。

2026-08-09

背中に馬のぬいぐるみ

駅の上りエスカレーター。ふと見上げるとウマが。

頭絡とサドルパッドを付けているので乗馬用のウマみたいだ。それがリュックから半分からだを見せている。 

別にぬいぐるみが好きなわけではないのだが、なんか面白いので一枚撮った。

2026-08-07

もうこれはシンギュラリティの一歩手前かも

人工知能が人間の知能を超えるシンギュラリティ(技術的特異点)が2045年頃に訪れるかどうかといった議論がなされていたのはつい先頃だと思ったが、実はもうすでに状況はその域に達しつつあるように感じる。

数学の分野で1946年にハンガリーの著名な数学者が提示した問題があり、彼自身がその解答を予想したものの、答えは解かれないままになっていた。

ところが、AIがその問題に取り組み、これまでの予想を覆す新発見をした。これまで多くの数学者がおそらく正しいと信じていたそれまでの予想を見事に裏切った。その事実は、数学の世界に強い衝撃を与えた。

とりわけ注目しなければならないのは、人間がそれまで思いつかなかった異分野の手法を組み合わせて今回の解答を導き出した点である。

なぜ人にはそれができなかったかというと、数学に限らずどの分野もそうだが、今では研究の細分化が極度に進んでいるために違う分野の知識を組み合わせる研究が難しくなっているからだ。

 

AIは人間と違い、いくら考えても疲れるということがない。しかも幅広く様々な分野の知識や知見を無数に組み合わせて答えを導き出すことが可能だ。

だとすると、今後、数学者の多くはこれまでの役割を失うということになるかもしれない。AIに問題を出したり、AIが示した解答を確認するという限られた数の数学者がいればそれで済む。


これはなにも数学分野に限った話ではない。まずは自然科学の分野でこうした状況が進んでいくのだろう。そして早晩、社会科学の領域においても人文科学の領域においても、AIが人間の研究者を凌駕するようになるに違いない。

それまで何年かかるか? 10年もかからないんだろうなぁ〜。

2026-08-06

利用規約変更が意味するもの

マイクロソフト社から「利用規約更新」の件名のメールが来た。

いまではマイクロソフトの製品はといえば、hotmailのアカウントを保持しているだけのぼくの所にもきた(笑
https://tatsukimura.blogspot.com/2026/06/blog-post.html 

そのメールには、同社のサービス規約と「プライバシー・ステートメント」のリンクが貼られており、試しにどんなものかサービス規約を生成AIにチェックさせた。

AIは、一般的な大手クラウドサービスの利用規約としては標準的だとしながらも、注意すべき点をいくつか挙げた。

それらのなかで一番気になったのは、同社の規約では「サービス提供、安全確保、製品改善」といった目的で、マイクロソフト社は利用者のコンテンツを

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することができる権利を利用者から与えられているという点。これって、大丈夫か? ぼく個人はマイクロソフトのサービスはほとんど使わないから、ま、いいけど。

それにしてもこの規約、文字数にして71,326文字もある。AIが本人の代わりに内容を精査してあっという間にコメントしてくれるからいいものの、そうでなければ誰も読まない(読めない)。

顧客のことを少しでも考えたら、何か他にやりようはあるはずだと思うんだけどね。そうしたことを何も考えないところがこの会社らしい。

マイクロソフトだけでなく、我々は気を付けないと彼らにケツの穴まで覗かれることになりそうだ。・・・もうそうなっているかもしれない。 

2026-08-04

嘘くさいSNS規制反対論者の主張に反対する

先月末にも同様の趣旨のことを書いた。

繰り返しになるが、子どもたちをどうSNSから保護するかということをあらためて考えておきたい。

世界各国で子どものSNS利用を年齢によって制限する方向性が打ち出されているが、そのなか日本は一向に具体的な指針が定められないままだ。

大人として実に無責任だと思わざるを得ないのだが、子どもの保護を目的としたそうした規制に反対する慶応大の准教授の談話が新聞に掲載されていた。

日経新聞、2026年8月3日朝刊

この御仁、総務省のネット上の未成年保護に関する有識者会議のメンバーだそうだが、規制に反対する主な理由が2つあるとしている。

ひとつは過剰規制。年齢でSNSの利用を規制することは「憲法が保障するこどもの知る権利に対して過剰規制」という考えである。

憲法の「知る権利」まで持ち出して子どものSNS利用の規制に反対するという向きだが、どういう神経をしているのだろう。

知る権利の侵害と言っても何について知る権利を侵害するというのか。それを具体的に示してほしいものだが、肝心のそうした点はまったく明らかにしてない。 

日本は、子どもが知る権利が十分補償されているとボクは思っているんだけどね。アメリカのある州の学校では、未だに「神」が世界を創造したとされ、現在も天動説が教えられている。だが、日本では学校でそんなことを教えられている子どもはいない。

宇宙の起源についての最新理論であろうと生殖の仕組みであろうと、日本の子どもたちは自分が知ろうと思えば、そして調べようと思えば何だって知ることができる。

にもかかわらず彼は、SNSの利用をある一定の年齢まで制限することによって、子どもは憲法で保障された知る権利を侵害されるから反対だという。こうした過剰な配慮意識はどこから来るのかね。

もし彼が指摘する、子どもの「知る権利」が気になるのなら、SNS利用を年齢によって制限した後、実の当事者である子どもが「自分たちの知る権利が奪われた!」と苦情を言ってくるのを待ってその内容に耳を傾けたらいい(万が一、そうした声があるとしたらだが)。それから真摯に検討してみたらいい。先走って、ありもしないことを心配するのは賢明な態度ではない。

彼が挙げているもう一つの反対の理由は、もし年齢による規制を設けても抜け道があるので合理性に欠けるから、という点。

だけどね、それはしょうがないだろう。大きな声では言えないが、大抵の規制には抜け道があるのがこの世の常。例えば、未成年は飲酒や喫煙が認められていないけど、飲もうと思えば飲めるし、吸おうと思えば吸える。大学近くの居酒屋で新入生が新歓コンパで楽しそうに飲んで騒いでいるのを見るのは例年のことだ。

だからといって未成年による飲酒や喫煙の規制が無為だとも不要だともボクは思わない。

同様に速度制限を守らない走行車があるからといって、一般道での速度規制が非合理的とも思わない。

この慶大准教授さんは、ルールは100%徹底されなければ意味を持たないというタイプみたいだが、現実の世の中はそうはできちゃいない。徹底されなくたって、それがあることで国民の意識は変わるし、抑止の方向に社会は進んでいくのが現実の世の中だ。どうもそのあたりが分かっちゃいないようだ。 

ところで、今日、文部科学省が行っている小学6年と中学3年を対象にした全国学力・学習状況調査の結果が発表になった。

授業以外に1時間以上勉強している子どもの割合は、前回調査に比べて10ポイント以上減少した。そして、SNSに割く時間は増加傾向にあって、実施された学力テストではSNSの閲覧や動画視聴の時間が長い子ほど全科目で正答率が低いことが示された。

この調査結果は驚くような内容でなく、日常の観察からわれわれが感じていることが間違ってはいないことをファクトとして示したに過ぎない。 

年齢によるSNSの利用規制についてだが、日本の子どもたちの未来を少しでも豊かにしたいなら、子どもの知る権利を侵害する過剰規制だとか、抜け道があるルールだから不合理だとか、そうしたつまらぬ屁理屈を弄んでいる場合ではないだろう。 

規制反対をもっともらしい顔をして主張する学者は、もしメタやXといった米国のSNSプラットフォーム運営企業がSNSサービスを停止すると言ったらどうするのか。それらの企業に対して、「知る権利を奪う憲法違反」だと主張するのか。

冷静に考えれば分かる話だ。

2026-08-02

石油元売り会社の経営者の出番だ

熊本地震への対応と支援は、多くの方が不断の努力を続けている。

そんななか、車中泊をしていた女性がガソリン切れでクーラーが効かないまま車内で熱中症によって亡くなっているのが発見されたというニュースを聞いた。辛い。

 

なぜガソリンが足りないのか。なぜ必要な量のガソリンが被災地に運ばれないのか。

「朝5時半から並び、4時間待ってやっと給油できました」という熊本の被災者の声を聞いた。ここはパレスチナのガザ地区か?

石油元売り会社の経営者は何をやってるんだ。日本でガソリンを運ぶためのタンクローリーを一番多く所有しているのは、君たちだろう。全国からそれをかき集めて、さっさとガソリンを被災地に運べよ。

今それをやらなくて、いつやる。

今回は興味深いマーケティングの実証実験になった

ホルムズ海峡紛争の影響を受け、ナフサ不足からカルビーがポテトチップスなど自社製品のパッケージの印刷を白黒に変更すると発表したのが5月12日だった。
https://tatsukimura.blogspot.com/2026/05/blog-post_13.html

実際にパッケージを変更した商品を出荷し始めたのが5月22日の週。北海道内のコンビニから順次、それらの商品が店頭に並び始めた。

小売店は当然、在庫があるうちは現行品を販売するので、実際に都内の小売店で白黒印刷されたパッケージのカルビー製品が商品棚に並んだのは6月中旬だった。

下記は新聞に掲載されてたカルビー・ポテトチップスの売上推移のグラフである。6月下旬に話題性と物珍しさでポーンと売り上げが急上昇。その後、急降下している。


これはいわば予想通りなのだが、一方で日本経済新聞は「カルビー 白黒ポテチの誤算」という見出しを掲げた記事を掲載した。

マーケティングのマの字も知らない、あきらかな見当違いである。

また、この売上動向をもって、リピート販売につながっていないからとカルビーに対して批判的なコメントをしている(知ったかぶりの)マーケティング専門家がいるが、これもお門違いだ。

マーケティングで一時の熱狂をFadと呼ぶが、これは謂わば突風(Gust)を狙ったマーケティング戦術である。

ナフサ不足で不本意な(本来やるべきでない)モノクロ・パッケージへの変更をやらざるを得ないなら、それでせめて話題を盛り上げて売上を作る、という考えである。

そして、その背景には社会が自社の政策を理解してくれる理由(今回の場合は原油供給の逼迫)があること、そして時間が経てば根本の問題は解決されるとの読みがあった。 

黙ってモノクロにパッケージを変更したのでは、顧客が該当商品をただ「みすぼらしくなった」と感じるだけで100%マイナス。それを逆手にとって、カルビーは堂々と事前にアナウンスしたわけだ。

カルビーは各商品でしっかり追加分の売上を手にしている


さらに、水木さんが描くところの子泣き爺 (こなきじじい)のような顔をした農林水産大臣からの「ナフサは足りている!」アピールは白黒化の話題性をさらに高めるのに役立った。


カルビー、Good job!
 


2026-08-01

ガス・ヴァン・サント『デッドマンズ・ワイヤー』

ガス・ヴァン・サント監督の映画『デッドマンズ・ワイヤー』(原題 Dead Man's Wire)を横浜で観た。

1977年に米国インディアナポリスで実際に起こった人質事件をもとに作られた作品である。

この事件は、発生時当時、テレビで全米に中継され大騒ぎになったらしい。当時の記録映像を挟みながら、その再現フィルムのような形でストーリーは進んでいく。 

不動産投資会社から騙され、土地と全財産を失うことになった1人の男がその会社に乗り込み、社長の息子を人質に取る。テレビで全米に中継することを求め。そしてその不動産投資会社の社長に彼らの不正を認め、謝罪することを求める。

彼が人質を取った手口の1つが、映画のタイトルになっているデッドマン・ワイヤーと呼ばれる仕掛け。ライフルと自分をワイヤーで人質の首につなぎ、もしそのワイヤーが引っ張られるようなことがあれば、銃弾が発射される。 そのワイヤーは人質である社長の息子につながれ、そのため警察も手を出すことができない。

当時の記録映像を挟みながら、その再現フィルムのような形でストーリーは進んでいくのだが、この映画には1970年前後に制作されたアメリカン・シネマの匂いがする。本作のモチーフは犯罪であるが、テーマは犯罪そのものではなく、デッドエンドの状況に追い詰められて犯罪に走らざるを得なくなった若者の心情とその行動が描かれている。

アーサー・ペンの『俺たちに明日はない』やジョージ・ロイ・ヒルの『明日に向かって撃て』とトーンが似ているのはそのせいだろう。この映画の終わり、B.J. トーマスが歌う「雨にぬれても」が流れる。いかにも象徴的なラストだ。

この映画も含めて、いずれも主人公は<犯罪者>(本作の主人公トニー・キリシスは、裁判で陪審員の判決で無罪となったが)なんだけど、彼らが行った犯罪は、社会からは批判されてしかるべきものである一方、映画の観客たちは犯罪を犯した人間の状況と心情を理解し心の中で喝采した。

今なぜガス・ヴァン・サントがこの作品を作ったのか、その理由を推察するのは決して難しいことではないように思う。

帰宅して、少し気になってガス・ヴァン・サントが以前監督した『グッド・ウィル・ハンティング』(1997)を観直してみた。

エンドクレジット、すっかり忘れていたが最後に画面にこんな献詞が映った。

In Memory of 
Allen Ginsberg and William S. Burroughs  

やはり彼は確信犯だった!

ところで「デッドマンズ・ワイヤー」の配給元(KADOKAWA)は、この映画を「クライム・スリラー」と呼んでいるが、まったく違う。それは、『俺たちに明日はない』や『明日に向かってい撃て』がそうではないように。むしろ、ユーモアすら漂わせている。
 
そういえば、今年はアレン・ギンズバーグの生誕100年である。