2026-09-30

イスラエルによる鬼畜以下の行為

今日観た映画は本当に辛かった。ストーリーも、何を描いた映画か、結末まで知っていながらも見続けるのがしんどかった。

『ヒンド・ラジャブの声』(原題 The Voice of Hind Rajab)はパレスチナ・ガザ地区で実際に起こった出来事を描いている。

 

ガザで、イスラエルからの攻撃を避けるために避難する途中、戦車から機銃掃射を受けた車の中でひとり生き残った6歳の少女がいた。彼女の名がヒンドだ。 

2024年1月29日、彼女の親戚からヨルダン川西岸地区にある人道支援組織「パレスチナ赤新月社」の緊急通報センターに通報が入る。ガザ地区でヒンドを含む親族7人が乗っていた乗用車が攻撃され、まだヒンドが中で生きているから救出してほしいとの依頼だった。

赤新月社はイスラム版の赤十字社だが、ガザには事務所がない。ヨルダン川西岸の緊急通報センターは現地ガザの救急部隊に連絡し、救助のため救急車を向かわせようとするがうまく事が進まない。いま救急車がある場所から8分の距離なのに。

事務所の中で「調整」という言葉が何度も何度も飛び交う。ガザでは救急車が出動するのにもイスラエル軍から砲撃されないために事前の「調整」が必要なのだ。エルサレムの赤十字社や保健省を通じて救急車を攻撃しないように事前に走行ルートなどを連絡しておかなければならない。なんてこった。

救急車を攻撃してはならないなんてのは、国際法で決まっている当たり前の事。そういったことすら守られていない。こうした「お伺い」をイスラエルに立てなければならないとんでもない理不尽さが当たり前の事実になってしまっている。そして停戦後にすら何千人もパレスチナ人が殺されている。

この映画の白眉は、車のなかに残っている唯一の生存者であるヒンドの実際の声が使われていること。録音に残っていた彼女の声をそのまま使って、それに合わせて当日のやり取りが役者によって再現される。

事件を知ったチュニジア人の映画監督、カウテール・ベン・ハニアのアイデアだ。迫真の演技などとよくいうが、演技ではない、実際に上腕、背中、足に銃弾を受け、死を間近に感じて助けを求める6歳の少女の声がスクリーンから流れてくる。

戦車がすぐ近くに来たと怯える少女、ひびく銃撃の音。車の中でスマホを握りしめていた彼女の感じていた恐怖感が観客に伝わってくる。だからこそ、観ていて辛い。

やっと「調整」できたということで、ガザにある救急車が出動することになった。だが、センターのスタッフが手に汗握りながら、GPSで現場に向かう救急車の位置を追っていたところ、突然救急車の動きが止まる。ヒンドとの通話も切れ消息が分からなくなった。イスラエル軍の攻撃を受けたのだ。 

イスラエル軍がその地を引き上げた後、12日たって彼女らの遺体が確認された。7人が乗っていた車には355発の銃弾が撃ち込まれ、救急車は戦車からの砲撃で無残に破壊されて2人の救急隊員は丸焦げで骨しか残っていなかった。戦車によって押しつぶされた跡もあったという。 

鬼畜という言葉があるが、イスラエルはそれ以下の存在だ。言葉にできない。 

普段は渋谷を歩くことはないのだけど、今日はこの映画を観るためにひさびさに渋谷へ出た。映画を見終わった後、衝撃でぼおーとした頭で今日が閉店だと聞いた渋谷西武へ行ってみたらすごい人だかりだった。

https://tatsukimura.blogspot.com/search/label/映画 

2026-09-27

ザッカーバーグの邪悪さを懸念する

米NBC Newsのインタビューに答えて、ビル・ゲイツが「悪意を持つ人間と最新のAIの組み合わせほど強力な兵器はかつてなかった」と指摘した。加えて「人工知能は10億人の死者を出すような事態を引き起こせるほど強力」だと述べた。

10億人の数字の根拠はないけど、それほど世の中をひっくり返すような大惨事を招く可能性が最新のAIにはあるという警告である。

例えばメタのマーク・ザッカーバーグのような人間が、その膨大な資産と権力と影響力と自らの自由になる高度AIを組み合わせて邪悪な考えを進めた場合、ある意味で世界は崩壊に進むことになるのは分かる。

報道によると、アンソロピックやオープンAIの経営者は開発スピードを減速させるべきだと表明しているが、一方、メタ(旧フェイスブック)は開発の減速に反対を示している。

冷静に考えれば、今ここで立ち止まることが最も理性的かつ合理的な判断であることは間違いない。

自分たちの行く先にまだはっきりは見えない、しかし巨大で深い落とし穴があると言うことは分かっている場合、人はどう行動するか。見えないからといって、そのままつき進み、その穴に落ち込み、一旦穴底に落ちてしまった場合、二度と地上に自分たちを引き上げることはできないかもしれない。

そうであれば、まずは歩みを止めて、冷静に自分たちが進む先の状況を知るように努め、どこにどのような致命的な穴があるのか、そしてその穴を回避する道筋を確認してから改めて歩みを進めた方がよいのは明らかだ。

そうした当たり前の判断を、なぜメタのザッカーバーグはしようと考えないのか。あえて人類(自分とその仲間以外)をその巨大な穴に突き落すことを意図しているとしか思えないのである。


 

2026-09-26

タワマンは、たたずんでいるか

朝刊に目を通していたら記事の冒頭、「新宿駅からJRで約2時間。山小屋風の駅がたたずんでいる」とあり、いきなり神経に障る。気持ち悪くて、もういけない。

何年か前から、詩でも小説でもない文章でこうした建物を主語にして「たたずんでいる」と書く文を目にする。

 「佇む」は本来、人が同じ場所にじっと立ち止まっている様子を表す言葉。「彼女は窓辺に佇んでいた」のように、人間の姿勢や心情(物思いにふけっている、誰かを待っているなど)を伴う場面で使われるのが基本の用法だ。

確かに「山が笑う」や「風が囁く」という擬人法と同様の用法として「駅がたたずむ」とする修辞技法は可能だ。しかし、それなら文章自体が少しは文学的、詩的なものであってほしい。

本来は人間や生物の動作を表す言葉を、無生物に借りて使うことで読み手にその対象への親しみや情緒を感じさせる効果があるが、「佇む駅」であるためにはそこに至る物語が必要なのだ。

例えば、まるでその駅自体が長い年月そこに立ち続け、長い道中を越えてきた旅人を静かに迎えているかのような、しみじみとした情景がストーリーのなかでつくり出されていれば自然であり納得はいく。

この新聞は、そのうち「〇〇駅前の不動産開発エリアには、数多くのタワマンが佇んでいる」なんて記事を平気で書きそうだ。

詩的な表現ができないのなら、記事の冒頭で「駅が佇んでいる」なんて言い回しをするなよ。本来の伝統的な用法として、「佇む」は人間(またはそれに準ずる生き物)を主語にすると心得よ。

2026-09-25

窓くらい自分の手で開ければいい

以前このブログに書いたものを新聞社に送ったら、この火曜日に掲載されてた。
https://tatsukimura.blogspot.com/2026/09/blog-post_11.html

自動車メーカーには真面目に検討してもらいたいもんだ。


2026-09-18

あおぞら銀行の報復人事から考える企業のコンプライアンス

あおぞら銀行(もとは破綻した日本債券信用銀行)の社員が、同僚社員が顧客の相続の処理に関して不適切な行為をしているのに気付き、上司に相談した。しかし、上司はその問題に取り合わなかった。そこでその社員は、銀行の内部通報窓口に状況を連絡した。 

すると、その結果、その社員は報復と言わざるを得ない会社側の嫌がらせ行動に長年あわされたという。・・・ええっ?!

あおぞら銀行は、通報したその社員に対して「10項目の問題行為」とやらを指摘しはじめ(典型的なイチャモンづけだ)、懲戒処分に踏み切った。降格と減給も行ったという。また、従来の業務フロアとは異なる8畳の広さの小部屋へその社員を配置した。

その部屋に置かれていたのはパソコンのモニター、キーボード、マウスだけだったとか。パソコンの本体はない!?

それが3年3ヵ月も続いたと言うから酷いもんだ。

さらに驚くのは、裁判で一審の東京地裁はその社員からのパワハラ請求を全面的に退けたこと。その後、東京高裁で一審判決が覆ったものの、それでも裁判所はあおぞら銀行側からの「報復」があったとは言えない、とした。

裁判の場で、あおぞら銀行側が正直に「あれは会社からの報復でした」と自白するはずはない。代わりに銀行は、あらゆる手を講じて自分たちの行為を正当化しようとし不法行為をカモフラージュした。 

しかも判決で出された慰謝料の金額は100万円。3年3ヵ月もの間、正義の社員に精神的苦痛を与え続けた慰謝料がたったそれだけだとは。米国なら1億円は下らないだろう。

この国の裁判官というのは日々何を考え、どういう生き方をしている存在なのか、強い疑問を感じる。

以下のURLは「コンプライアンス」と題した同銀行のウェブページである。
https://www.aozorabank.co.jp/corp/governance/compliance/ 
「可能性をつくる」のフレーズが聞いて呆れる。言ってることやってることが見事に違う。根本のところが腐ってるからだ。 

日債銀の経営破綻後に新しい社名(あおぞら銀行)を設定するにあたり、この銀行はこう述べている。

社名は人々が思いを寄せる青空のように思いを共有できるクリーン・オープン・フェアな銀行でありたい思いを込めたものとし、ロゴマーク「フューチャー・ストリーム」(未来への潮流)は金融業の新たな可能性に挑戦する意思を込めた象徴とし、永遠を思い願うイメージの青色「エターナルブルー」を基調に未来への希望を生み出すエネルギーをイメージした下部から右上へ伸びる白い曲線をあしらい、菱形は知性と信頼を表すものとした(https://ja.wikipedia.org/wiki/あおぞら銀行)

クリーン? オープン? フェア? 未来への希望? 知性と信頼?

どの面下げて言う。完全なジョークだ。

2026-09-16

Dropboxの利用規約、プライバシー・ポリシー変更

Dropboxから、利用規約とプライバシー・ポリシーを来年1月1日から変更するとのメールが来た。どうも最近、この手の話が多い。

メールに書かれたリンクの貼られた先には長大なテキストが。これでは誰も読まない。

AIに代わりにチェックしてもらうと、いくつか注意点があがった。なかでも一番気になったのは、Dropboxは利用者のデータにアクセスし、保存およびスキャンすることを利用者が許諾することになっているという点だ。

しかも、この許可はDropbox社のみならず、提携企業やDropboxが認定した第三者にもそれが認められている。こうしたアメリカ企業が何をどこまで考えているのか分からないが、考えてみれば不安要素が多い。

また、この利用規約のなかでは規約遵守確認のため、Dropboxは「アクティビティおよびコンテンツを調査する権限」を持つとも規定されている。

つまり、Dropboxがやろうと思えば利用者が知らないところで利用者のデータのすべてについて知り、またそれらを関連企業と共有することもあるわけだ。これは、実状が詳しく分からないだけに不安度が高い規定である。

現状では、ほぼすべてのデジタルデータをDropboxのサービスに預けているといってもよい。どうも最高度の個人情報フォルダは、クラウドから引き下ろして手元で管理した方がよさそうだ。

2026-09-14

不可能な公約を訴える県知事候補が支持される理由

今回の沖縄県知事選で、古謝玄太候補が現職の玉城デニー候補を大差で破って当選をきめた。選挙結果は民意の表れととるしかないが、はたして大丈夫だろうか。 

というのは、当選を決めた古謝が主張した「10年で(沖縄)県民所得を2倍にする」という公約の実現可能性を危ぶんでいるからだ。

選挙公報には堂々「手取りを2倍!」「子育て支援を2倍!」「観光消費を2倍!」とある。

 

10年目に一気に2倍(つまり成長率100%)になるなどあり得ないので、毎年成長を続けて複利でプラス100%になると仮定すると、そのために必要な成長率は年7.2%。これを10年間継続する必要がある。

県知事が変わったことでそれが実現されるかというと無理だ。沖縄の過去10年の年平均経済成長率は1%未満なのだ。

参考まで他県を見ても、1950〜70年代の、いわゆる戦後高度経済成長期の時期に10年で所得を2倍に伸ばした都道府県はいくつかあるが、それ以降はどこもない。

しかもより細かく見れば、手取りを2倍にするためには県民所得が2倍に増えただけでは実現できない。増えた所得の多くは企業に蓄積されたり県外の株主の方へ行き、また税金もそれだけ増えるのだから。  

古謝は東大を卒業して総務省に入省した元官僚であり、そうしたことが判らないはずはないし、複利計算ができないとも思われない。なのに平気で不可能な公約を述べて有権者を釣った。

どうせ10年後は、自分はもう知事の椅子には座っていないから平気だ、ということか。だとしたら、誠実さに欠けていないか。

念のために言っておけば、手取り額ではなく県民所得の額を、しかも実質所得ではなく名目所得のレベルで数字を2倍にすることは理論的には可能かもしれない。ただ、そのための唯一の可能性は、超スーパーインフレに持っていくこと。当然その場合、一般県民の生活は崩壊する。

だが今回、沖縄でより多くの有権者(投票者)は古謝を選んだ。 

候補者の公約が実現可能なものかどうかは数字を少し吟味すれば判ることだが、そうした理屈とは関係なく、住民としての「気分」の点で県民は足下の経済的閉塞感に耐えられない状況にあった、ということだろうな。

そうしたものが今回の投票行動に大きく影響していたとしたら、そこに沖縄県が現在抱えている最大の問題があるように思う。

2026-09-12

ノートアプリをEvernoteからJoplinに替えた

Evernoteから2倍以上という料金改定のメールを受け取り、代替となるノートアプリを探していた。
https://tatsukimura.blogspot.com/2026/08/evernote.html

いろいろ検討した結果、最終的に選んだのがJoplinというサービス。ジャニス・ジョプリンと同じ綴りのジョプリンだけど、開発者はフランス人らしい。

Joplinのダウンロードサイト


無料で使えるオープンソースのアプリである上、Dropboxを介してMacとスマホやタブレットを同期しながら一緒に使える。

十分な機能が使いやすく盛り込まれており、無料だからと何か諦めたり、我慢することもなさそうである。ただ、デザインがあまり洗練されたものとは云えないのが残念だけど、そんなことは二次的なことで、この際気にしないことに。

Webクリップもできるし、スマホで撮影したものもそのままJoplinのノートブックに送ることも可能だ。

これでEvernoteともオサラバできそうだ。

https://tatsukimura.blogspot.com/2026/06/blog-post.html

2026-09-11

手動窓開けハンドルで命を救う

先日、車の窓について書いた。

そのときは、恐ろしいほどの大雨に見舞われるようになった日本で、水没して電気系統がトラブり窓が開かなくなった車に閉じ込められて亡くなる人が出てきたことことから、パワーウインドウを昔の手動にもどそうと呼びかけた。
https://tatsukimura.blogspot.com/2026/08/confort.html

以前は雨で道路が冠水し、そのせいでドアが開けられなくなったり、パワーウインドウが動かなくなるなど「想定外」だったはず。だが、いまやそうではないのだから。 

窓の開け閉めを手動に戻すことに対して、いくつかコメントが寄せられてきた。僕が書いたように電動をやめて昔のように手動に戻すべきだという意見、さらに電動でも手動でもどちらでも開けられるように改良したらいい、とか。

いろんな考えがあるだろう。自動車会社は電動か手動のどちらかにしたいと考えるだろうし、利用者側も電動に慣れているので今さらという向きも多いかもしれない。

であれば、車の4つある窓すべてをそうする必要はないから、例えば助手席の窓は手動で操作するものにしてはどうか。ひとつでも窓が開けば、いざというときに車内から脱出できる。

水没に備えて窓を破砕するための緊急脱出用ハンマーを常備、などと言われてもすべてのドライバーがそうするわけじゃないし、いざというときにさっと取り出してちゃんと使えるかどうかも心許ない。

だいたいが、ハンマーでぶっ叩いて破砕するより、手でハンドルを回して開ければ済むのであれば、その方がずっとスマートだ。

自動車メーカーと国交省に検討してもらいたい。

2026-09-10

正しい歴史認識は政治を司る者の基本だ

自民党議員から次々出てくる天皇家に関する発言に対して、日本の歴史学者たちがとうとう堪らず批判の声を上げ始めた。

今回、自民党の小林鷹之政調会長が皇室典範の改正をめぐって「皇位の男系継承は、2600年以上にわたって先人たちが守り抜いてきた皇室の伝統」と述べたことがひとつの契機だ。

声明を発表したのは、神戸大学の古市晃教授と4人の研究者が中心となって結成した「皇室・皇位をめぐる議論に関する研究成果の尊重を求める古代史研究者の会」である。

会は小林の発言に危機感を覚え、「連綿と続けられてきた古代史研究の成果を否定するもので、到底容認できない」との声明をウェブ上で公表した。 

そりゃそうだろう。この自民党政調会長の言ってることは、歴史的事実とかけ離れためちゃくちゃな話なんだから。

古市教授らは声明の中で紀元前660年の日本の状況をこう解説する。「考古学の研究成果によれば、縄文時代晩期、または弥生時代早期にあたり、日本列島にはまだ文字を使用する文化は存在しませんでした」。その当時、天皇を中心とした国造りが行われるような段階になかったことをはっきり指摘している。

そもそも「紀元前660年」という建国の年そのものが後年に設定されたフィクションというのは定説というか、常識。日本で縄文、弥生時代に文字がなかったことくらい小学生でも知ってるし、ちょっと考えればわかること。

そうしたことすら知らない、分からない人間が政治家をやるなよ。私たちみんなが迷惑するから。

タカ市首相も同様のことを堂々と言ってたのを思い出した。
https://tatsukimura.blogspot.com/2021/09/blog-post_22.html

つくづく呆れた連中としか言いようがない。

2026-09-05

リドリー・スコット監督の『ラスト・サバイバー』

映画『ラスト・サバイバー』は、今年88歳になったR・スコットの最新作。2012年に刊行されたピーター・ヘラーのヒット小説がもとだ。小説、映画、ともに原題は The Dog Stars。


舞台は近未来(映画の中ではちらっと2035年であることが語られていた)。地球規模のパンデミックで人類のほとんどが死滅し、生き残ったごく少数の人間が「何か」を求めて生きていく物語だ。

主人公は、最愛の妻を疫病で亡くし、今はかつて2人で飼っていた犬(ジャスパー)と一緒だ。もとはメカニックの仕事をしており、1956年型のセスナを飛ばし、自分の手でさまざまな機械を直したり操作することができる。

廃れた小さな空港の格納庫に住み、やけに銃の腕が立つ元軍人のバディと共に暮らす、彼らは、襲撃してくる生き残りのクズ人間(映画の中ではroach(ゴキブリ)と総称されている)をライフルと銃で返り討ちにする。

人間がほとんど滅んでしまい、街には野犬となった犬がうろつくだけで、人間の活動は消え去ってしまった。そんな世の中で各所各所に生き残った人間がお互いをうかがいながら生きているという、どうしようもない殺伐とした世界 ーディストピアー だ。

侵入者との闘いでジャスパーもなくしてしまった主人公は、かつての静かだが満ち足りていた家族の思い出だけを頼りに生きるようになる。そして、なぜ自分が生きているのか(生き残ったのか)、その意味を考える。

主人公は途中で出会った女性、シーマと親しくなり、夜空を一緒に眺め、星座にまつわる話をする。悠久の時の中で、自分たち人間のはかない命と一生の意味を頭に思い描く。

原題のThe Dog Starsは、主人公がシーマとともに見上げる夜空に彼が見つけた、愛犬だったジャスパーの星座のことなんだろう。 

アクション・エンターテイメントでもあるが、リドリー・スコットらしい深遠なテーマを感じさせる一作。

https://tatsukimura.blogspot.com/search/label/%E6%98%A0%E7%94%BB 

2026-09-01

20年前の「今年の消費・トレンドのポイント」

本棚から昔の原稿が出てきた。2006年12月の日付けが記してある。

ある新聞社からの依頼で、たしか翌年の正月に載せる特集記事のひとつとして書いた原稿だったと思い出した。ただその原稿はあるが掲載紙がないところを見ると、その頃新聞社が始めたばかりのデジタル版用の原稿だったかも。 

今年の消費・トレンドのポイント

「今年の消費・トレンドのポイント」は何かというのが新聞社からのテーマなのだが、正直、そんなこと僕にはよくわからない。「今年のトレンド」という言葉は、何となく論理矛盾を含んでいる気もする。ただ、トレンド予想は苦手だけど、時代の流れの中でこんな変化はありそうだといった推測はいくつか立てられる。さもなければ、こうあって欲しいなあという期待みたいなものとか。

今年の市場を見た場合、そのもっとも大きな変化の一つが「2007年問題」と言われている団塊世代の第一波が定年を迎えて消費市場に本格的に登場することだろう。退職金をもらったうえ、今までにない自由時間を手にした彼らが考えることはなんだろうか。それは、まずはそのお金の置き所をどうするかではないだろうか。金融機関はどこも強迫的なまでに積極投資へ彼らの背中を押し、多くの退職者たちは慣れない投資とやらに思い悩む。せめて我も人並みにと・・・。資産があるが故に、どうにか活用せねばという深き悩み。投資のあり方は個別性が高いはずが、人並みを基準としたものの買い方・使い方に慣れている人たちが、いきなりこれぞ私の投資法といった戦略を立てられる訳もない。結局誰もが、誰もが買っている投資信託の銘柄に投資して一件落着となる。

投資だけではない。何に幾ら、どのように消費するかといったことにも多くのシニア、とりわけ日本の男性は概して自らの主張がないと言ったら彼らから怒られるだろうか。そうした意味で、案外これから最も有望なビジネスは、そうしたシニアにお金の使い道を指南するためのアドバイザーのような存在かもしれない。夫婦へのカウンセリングをもとに、あなたはまず奥さんとヨーロッパかニュージーランドへ3週間のんびり贅沢な旅行にいくのがいい。帰国後は、昔かじったギターでも買って、懐かしいフォークソングを健康維持もかねて毎日声を出して練習するのがよい、とかね。

じゃあ、彼らの奥さんたちはどうだろうか。一つ想像できるのは、これまで夫や子供など家族の面倒をみてきた彼女たちが、そこから解放されて、今度は自分が金銭を支払い誰かに「やってもらう」ことに夢中になるということではないだろうか。自らが料理するのではなく誰かに自分の好みの食事を用意してもらう、健康について人から気遣ってもらう、思いっきりわがままを聞いてもらう、などなど。亭主を会社に送り出す必要(責任)がなくなった主婦に怖いものはない。これまでできなかった「やってもらう消費」への情熱が花開く。 
彼らにとっての消費は、別荘購入など除いて圧倒的に「もの」より「こと」へ向かう。そして、そうした「時間消費」は彼らにとっては重要な「仕事」だ。だって彼らはじっとなんかしてられないんだから。どこかで読んだが、人は自分が経験したことがあるものにしか夢中になれないところがあるらしい。彼らがかつて経験したこと、例えばそれは旅行だったり、楽器の演奏や語学の勉強、学校の体育でやったスポーツ競技など、そうした昔の記憶や感覚を取り戻すための「回帰消費」が拡大するのは想像に難くない。言い換えれば、当然のことだが退職したからって誰もが蕎麦打ちに興じたり、陶芸に生き甲斐を見つけたりするわけではないということだろう。 
もう一つ忘れてはならないのが、ますます盛んになる「健康消費」。健康病と診断してもよい程の飽くなき健康追求の病をいやすための消費である。食事も健康、旅も健康、スポーツも健康、友人づきあいも健康。何はなくても健康第一。とにかく健康スパイスがふりかかっていないと触手が動かないといった、強烈な健康消費がさらに広まることだろう。 
と、ここまで先輩世代をずいぶん揶揄してしまったが、彼らの根っこは常識的な社会人であり、実は彼らが担う消費社会の特徴はバランスの良さだと僕は信じている。お金は使うが死に金は使いたくない彼らには、今の若者のような一点豪華主義的な消費性向は少ない。いわば「バランス消費」である。給料月20万円のOLが、月に一度は一泊5万円の老舗温泉旅館に出かけるとか、100円マックを頬張るもう片手にエルメスのバックが握られていたりするのは、決してそれらが悪いわけではないが、いかにもアンバランスである。それらと対照的に、身近なものに自分が納得のできるプレミアム性を求め、それにふさわしい対価を支払うのが団塊世代を中心としたバランス消費の特徴だろうと僕は期待している。
20年前はOLという言葉もまだ一般的だった。その頃、我々は日々の消費をそれなりに楽しんでいて、サラリーマンの退職後の姿にも今のような悲壮感がなかったのが分かる。 

自分が書いたものを元に言うのも変だが、ある面で今よりよっぽど明るい時代だったことがうかがえる。

「やってもらう消費」「時間消費」「回帰消費」「健康消費」そして「バランス消費」などと勝手なことを言っているが、その後の日本の消費者の行動とどのくらいマッチしていたか、自問自答の機会だ。