2010年8月14日

会えようが、会えまいが。

先日の大河ドラマ「龍馬伝」のなか、京都の薩摩藩邸で西郷との面会を断られた龍馬たちが寺田屋に着く。龍馬が風呂に入っていると、そこに千葉道場師範の千葉重太郎が現れる。妹・佐那の思いを龍馬に告げるため江戸から京都までやってきたのである。

当時、江戸から京都までは約2週間かかった道のりを、相手に本当に会えるかどうかも分からずやってきた。彼のこの行動が史実かどうかは知らないが、昔は人に会うということはこういうことだったのだろう。

岩波書店版の『芥川龍之介全集』の最終巻に、芥川35年間の人生をまとめた膨大な「年譜」が収められている。芥川本人のメモや友人たちの記録、手紙をもとにして作成されたものだ。芥川のもとには頻繁に学生時代の友人たちが訪ねてきていたが、彼もよく人に会いに出かけていた。

大正8年の6月。彼はこの月に、都合14回 人に会うために出かけ、そのうち相手が在宅で会えたのが8回、待っていて会えたのが1回、あとの5回は相手が不在で会えなかったらしい。つまり、会いに行っても相手がいなかった確率は40パーセントを超えている。

東京に住んでいたと云っても今と違って交通手段は発達しておらず、相手を訪ねるのにはそれなりの時間と労力を要したのに違いない。会えても会えなくても、一日仕事だったに違いない。それでも会いに行って、会えればしかるべき話をして帰ってきたのだろう。

僕たちは事前にメールで日程の調整をし、また当日は携帯を持ってでかけるから、行っても相手がいなかったというはない。

でもどうだろう。訪ねたところ相手が不在で、しかたなく帰路に就く。帰りすがら、今日会えなかったから今度会ったときにはこんな話もあんな話もしようと思うかもしれ ない。あるいは、自分が話をしようと思っていたことを振り返り、話さなくてよかったことに気付くかもしれない。

今と比べてみれば不便極まりないが、そうして会えない相手との会話についても深く思索する時間を彼らは持っていた。