2026-09-26

駅前のタワマンはたたずんでいるか

朝刊に目を通していたら記事の冒頭、「新宿駅からJRで約2時間。山小屋風の駅がたたずんでいる」とあり、いきなり神経に障る。気持ち悪くて、もういけない。

何年か前から、詩でも小説でもない文章で、こうした建物を主語にして「たたずんでいる」と書く文を目にする。

 「佇む」は本来、人が同じ場所にじっと立ち止まっている様子を表す言葉。「彼女は窓辺に佇んでいた」のように、人間の姿勢や心情(物思いにふけっている、誰かを待っているなど)を伴う場面で使われるのが基本の用法だ。

もちろん、「山が笑う」や「風が囁く」という擬人法と同様の用法として「駅がたたずむ」とする修辞技法は可能だ。しかし、それなら文章自体が少しは文学的、詩的なものであってほしい。

本来は人間や生物の動作を表す言葉を、無生物に借りて使うことで読み手にその対象への親しみや情緒を感じさせる効果があるが、「佇む駅」であるためにはそこに至る物語が必要なのだ。

例えば、まるでその駅自体が長い年月そこに立ち続け、長い道中を越えてきた旅人を静かに迎えているかのような、しみじみとした情景がストーリーのなかでつくり出されていれば自然であり納得はいく。

この新聞は、そのうち「〇〇駅前の不動産開発エリアには、数多くのタワマンが佇んでいる」なんて記事を平気で書きそうだ。

詩的な表現ができないのなら、記事の冒頭で「駅が佇んでいる」なんて言い回しをするなよ。本来の伝統的な用法として、「佇む」は人間(またはそれに準ずる生き物)を主語にすると心得よ。