2018年3月17日

自動で走る住居

いつの頃からか、日経新聞を読むのが苦痛で仕方がないというか、面白くないのである。その理由をつらつらと考えてみると、理由のひとつとして、あまりにも自動運転に関する記事が日々数多く掲載されていることに気がついた。

自動運転に関係して、そこでは人工知能やらIoTやら、そうした領域のことが報道されているのであるが、それらがどうも過大に取り上げられているように思えてならない。

自動運転が我々の生活にどのようなインパクト与えるのか、ということについて自分自身考えることはしばしばあるけれど、現時点での結論としてはそれほど自分の生活やましてや意識を大きく変えるものにはならないだろうというのが今の結論だ。

自動運転によって移動が楽になる、そしてそれに応じて時間の使い方もいくら変わるだろう。だが、それが何か新しい知的創造を自分の中で生み出すことの手伝いになるかというと、それは疑問である。

いってみれば、たかが自動運転である。タクシーと何が違う。何かそれによって世の中の秩序がひっくり返るかどうかと言うと、自動車会社の経営者でもない限りはそんなことはないはず。

新聞記者たちは、他にめぼしいネタが見あたらないからかなのか。もっと我々の周りに目を向け、考察を深め、行動し世間に意見を問うべきことっていうのはたくさんあるような気がするのだがどうだろう。

先日テレビのニュースで報道していたが、日本郵便がその本社がある虎ノ門から新橋にかけて自動運転の試験走行をやるらしい。

自動運転といっても自分たちの郵便局間を車で走らせるテストだ。目指しているのは、人手が足りなくなってきたこの時代に、人が運転するのではなく車が勝手に郵便局間を郵便物を乗せて移動するということだ。確かに効率性を考えるとこれはアリかもしれない。しかし、ただそれだけのことである。

ただ1つ思うのは、トレーラーハウスのようなものを生活の拠点としてそこで日々の生活をしながら移動していくライフスタイルだ。時折、そのことにについて想いを巡らす。

トレーラーハウスやそれに類似する移動物は昔からあるが、基本的には自分で運転をして目的地を渡り歩いていくのが普通である。だが自動運転が本当に可能になったならば、自分はトレーラーハウスという「住居」の中で本を読んだり料理をしたり、くつろいだり、あるいは昼寝しながら車が自分があらかじめ指定した場所に連れて行ってくれるようになるかもしれない。

これはなかなか快適かもしれない。日本中を旅をしながら普段と似た生活を送ることができる。定まった住所がなくなり、道路の上や駐車場や広場や、そうしたところが日々の居場所になる。「旅に生きる」ことが簡単に実現できる。これは、なかなか愉快な暮らし方かもしれないと考えているのだ。

ただそのためには、「レベル5」とされる最高度の自動運転技術とその適用を可能にする道交法の改正が必要。10年はかかるだろうな。