夕刻近く、西の空。赤い光のシャワーが雲の間から降り注ぐ。
水俣病は過去の人災ではない。いまも多くの人が水俣病に苦しんでいる。しかも、いまだに水俣病であることを国から認められていない被害者たちがいる。
熊本県水俣市にある化学会社、チッソ株式会社は32年間にわたってメチル水銀を含む工場排水を無処理で水俣湾に垂れ流していた。32年間である。チッソと国と県の無責任さぶりを示してあまりある期間だ。
熊本大学医学部が水俣病は原因不明の奇病ではなく、チッソが垂れ流す排水が原因だと報告したのは1963年のことーー日本中が翌年の東京オリンピックに沸いていた頃。しかし、国が水俣病の原因をチッソの工場が流す排水に含まれる有機水銀が原因であると認めたのは1968年になってから。1963年以降も5年間、毎日毎日、水俣病の原因である有機水銀は水俣湾に流され続けた。
水俣病の原因は過失ではなく、見まがうことない国と県の犯罪だったわけだ。なぜそれがなされたのか。為政者が見るべきものを見ようとしなかったからだろう。もし見ていたとしたら、人間として感じるべきものを頭の中で完全に封鎖していたからだと思う。
2011年に原発事故を起こした東京電力福島第1発電所をあげるまでもなく、企業などによる人災によって被害を受けた住民への補償や原因追及においては、住民の中に被害者と加害者が混在することで地域社会が分断されるケースが多い。
産業に乏しい地域でその企業に雇用され生計を営む人たちが多く存在しているからだ。それが企業にとってはある種の安全弁となっている。住民からすれば足下を見られ、取られた人質である。
水俣病をめぐる闘争においても訴えについての賛成派と反対派のいざこざがあり、この映画でもそれが描かれている(真田クンがカッコいい)。根の所にあるのは仕事と金である。
映画の中で、ジョニー・デップが演じるユージン・スミスが妻のアイリーンの手を借りながら、あの「入浴する智子と母」を撮影する箇所がある*。日系アメリカ人で、ユージンの通訳として一緒に水俣で過ごすことになるアイリーンがいたからできた撮影であることがよく分かる。
米写真誌「LIFE」誌によって世界中に水俣病をしらしめることになった一連の写真のなかのこの一枚が、被写体となった智子の母親の強い思いから撮影されたことに強く心がふるえた。緊迫のシーンである。
ユージンとアイリーンが日本に来たのは、1971年。三波春夫が歌う「世界の国からこんにちは」が日本国中に流れ、「人類の進歩と調和」をテーマにした大阪万博が開催された翌年のこと。
当初数ヶ月の予定だったのが、彼らはそれから3年間水俣の地に滞在して不条理としか言いようがない現地の姿を撮影した。
帰宅後、書斎の本棚から彼の写真集を引っぱりだした。映画を思い出しつつ、モノクロの数々の写真にしばし見入ってしまった。
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* その写真は1998年から新たな著作物への使用が認められていなかったのが、今年新たな写真集で使用が認められた。https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/634576
以下の西日本新聞の記事参照
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/451786/
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/451978/
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/452161/
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/452445/
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/452733/
現在行われている自民党総裁選に私は関係ない。総裁選で投票できるのは日本国民の1%。
そう、われわれのほとんどは蚊帳の外の "We are 99%" である。アメリカの大統領選挙のような首相公選制がわが国でも本気で議論されるべきだが、ここではそれは置いておく。
僕は自民党の4人の候補が総裁になるために何を主張しようが気にしないことにしている。99%のわれわれには関係ないからね。関係があるのは、実際に総理大臣になった議員がその後何をやるかだけ。
だが、高市早苗議員が天皇家の皇位継承策について「126代続いた男系の血統は天皇陛下の権威と正統性の源であり、多くの国民の誇りと敬愛の情の源。私は男系維持で、その中でも旧ご皇族の皇籍復帰を希望いたしております」と訴えたことは聞き流せない。
天皇制を支持しようがどうしようが、それは個人の価値観。ただ、歴史と作り話(神話)の区別がつかないような人物が日本のリーダーになってはいけない。
高市が言う126代とは、初代の神武天皇から数えた歴代の天皇を言っているのだろうが、これは事実ではなく作り話である。
初代の神武から第15代の天皇と言われている応神天皇までは、実在したかどうか分かっていない。存在が確認されているのは、第16代とされている仁徳天皇以降である。
もし初代天皇から存在したと国が主張するなら、天皇墓とされている各地の古墳を考古学者に公開し、きちんと発掘させて歴史的な事実を明らかにすればいい。しかし宮内庁は調査を絶対に認めない。
そもそも紀元前7世紀から始まるとされる神武、綏靖(すいぜい)、安寧(あんねい)、懿徳(いとく)・・・と続く代々の天皇に漢字名がついているのはおかしな事である。
日本に漢字が伝えられたのは、3世紀終わり頃のこと。漢字文字が日本に伝わる1000年も前、どうやってそれらに漢字の名前がつけられたのか? 誰が考えたっておかしいことが分かるだろう。
実はこれらは江戸後期になって水戸藩が雇った中国人学者である朱舜水が徳川光圀から『大日本史』の編纂を依頼されて「整えた」もの。だから、綏靖、懿徳なんていう日本人には誰も読めないし使えない漢字が使われている。
つまり、126代というのは事実ではない。以前のこのブログで歴史(ヒストリー)と物語(ストーリー)の線引きの曖昧さについて書いたが、そのまさに典型のひとつ。
神武天皇が天照大神の子孫であると『古事記』『日本書紀』で記されているが、それらは当時の朝廷が自分らの権威を既成事実化するために作った「物語」なんだから何をか言わんやだろう。
神話と歴史の区別がつかない人は、特徴として自分が信じたいことだけを信じるようなところがある。そうしたタイプが元総理大臣に何人もいたが、もう結構、こりごりである。
「フォーラム」と称するものへの案内メールがたくさん来る。主催は新聞社やリサーチ会社、コンサル会社、IT企業などさまざまだ。
ほぼ全てスルーだが、ごくたまにちょっと気になるスピーカーがいたりして、予定が合うかどうか分からないが、まずは参加申込みだけでもしておこうと思うことがある。
ただ詳細を読んでみて思うのは、フォーラムと称しておきながら、まったくフォーラムらしくないものばかり。Forumとは、本来は公開討論会、討論の機会、討論の場の意味。つまり双方性の高い議論の場である。だが、開催要項に書かれているのは、完全な一方通行のプレゼンか説明である。
しかも申込時に記入を求められるのは、なぜここまで書かせるのかと頭をひねる質問事項だ。名前とメールアドレスに加えて、生年月日、性別、現住所、勤務先名、所属部署名、連絡先電話番号、携帯の番号、これらの欄がすべて<必須>となっている。
開催内容からはどう考えても郵便物を送ってくることはないし、電話でやり取りする必要もない。だから本来は、名前とメールアドレスだけで事足りるはず。
そうした主催企業の意図は、ただこちらの個人情報を「可能な限り」集めたいということだけ。一応、個人情報に関してのきまりのようなものは参照できるようにしているが、ほとんどの人は読まない。
こうした個人情報泥棒にまともに付き合う必要はないので、適当にアバターを作る。フリーメールのアドレスを追加で作成し、なりすまし用のいい加減なプロフィールをつくったうえでメールの転送設定をする。
面倒臭そうに聞こえるだろうが、慣れれば数分とかからないし、こうした別人格を何人かもっておくと他のサイトや企業相手にも使えるからね。
相手がどう感じるかよく考えて、合理的で節度のある態度でこちらに質問してくれば、それなりにちゃんと回答してやるのだけど仕方ない。
自民党総裁選が熱を帯びてきたようだ。これで日本の首相が決まる。
報道では、その現状とゆくえが第一に取り上げられている。だが実質的には、そうしたニューズ・バリューはない。
どうせ投票できるのは、自民党議員と自民党員だけ。一般の市民は完全に蚊帳の外だ。
それに候補者は、どれも似たようなもの。自殺した元財務省職員の赤木さんが関わされた公文書改ざんの実状を明らかにしようと考えるものはいないし、モリカケ問題と言われている森友学園、加計学園の開学認可に関する疑惑を再調査しようと考える候補もいない。だから、どの候補も五十歩百歩だ。
それらのなかから総裁を選ぶ自民党議員の最大の関心は、次の選挙で自分が当選できるかどうかだけだろう。それと、誰にくっつくことでより大きな権力を得られるかだけ。
まだ今は小康状態だが、これからの日本は間違いなく長期的にとんでもない状況に陥るのは明らかなのに、それに向けた議論が政府からもメディアからも出てはこない。
自らの決定権がまったく及ばないところで、自分の国にそれなりの影響を与えることがきまってしまうことに無力感のようなものを感じるいたたまれなさ。
来年度の国の予算策定に向けた概算請求の総額は、111兆円を超えた。またまた膨大な額の国債を発行してまかなうのだろう。
特に要求金額が大きいのが、9月1日に発足したばかりのデジタル庁。その要求額は5,426億円にのぼるが、なんてことはない、各省庁内の情報システムの整備と運用費用がその98%を占めるという。
役所同士がデータをやり取りできるようにするのだろう。紙をデジタルデータにし、ハンコを不要にし、どの省庁内からでもデータの検索ができるように・・・なんてことを計画している。業務効率は上がるが、そこには戦略性は感じられない。
総務省は、マイナンバーカードの普及と促進に1,230億円を要求している。金がいるのも分かるが、普及と促進に一番必要なのは知恵と工夫だ。
これらはすべて国民の税金。
先日、デジタル庁の事務方トップに72歳の女性(元大学教授)が就いた。高齢だからだめだとは言わないが、彼女が自分のサイトで商用イラストを無断利用していたと報じられた記事を読むと、そうした感覚の人でほんとに大丈夫かなと思う。
https://www.asahi.com/articles/ASP9354C3P93ULFA01D.html
2012年、僕がニューヨークのコロンビア大学で在外研究をしてた時のこと。マイケル・ブルームバーグ市長(当時)によって、ニューヨーク市の初代CDO(チーフ・デジタル・オフィサー)が任命された。当時27歳の女性、レイチェル・スターンだった。
27歳と72歳。彼我のなんと大きな違いだろう。本人の問題というより、任命した人間(役人)のセンスの問題ともいえる。日本の72歳の元大学教授とやら、さてこれから1年もつかどうか。
五輪は終わった。国民生活のレベルで語るならば、この時期にやる必要性はなかったのにやっちまった五輪である。
「安全安心」という言葉が何百回と念仏のように唱えられただけで、総理大臣も五輪担当相も組織委員会の責任者も、最後までそれが何かを誰もきちんと説明しないままにだった。
成田に到着する選手団や五輪関係者だけでなく、各国からのメディアへのコントロールはほとんど利かなかったと聞いた。現場にいるのはアルバイトやボランティアの人たちばかりで、正規の担当者は姿を見せないのだからそうなって当然の様相だったらしい。だからクラスターが発生したのも当然の成り行きである。
「復興五輪」とか「新型コロナに人類が打ち勝った証」とか、今にして思えば見え透いたウソで固められたオリンピックとして人々の記憶に残ることだろう。
いずれにせよ、今回のオリンピックがどうだっかかなんて、今後話にのぼるのは日本だけだ。もちろん、全体の予算や当初の目的がどう達成できたのかなどについては、ちゃんと総括をやってもらわなくては困る。
でも外国は状況がまったく違う。例えばパリではメディアや人々の口にも9月6日以降は東京五輪の話などまったく出なくなった。オリンピック・パラリンピックと云えば、パリ2024なのだ。他国も似たようなものだろう。
観客を入れずに試合が行われた数々の新設施設はこれからも残る。
先日、東京オリンピックの開会式に絡めてLGBTQのことを書いたら、知り合いからLGBT理解促進法案の提出が、この5月に自民党によって見送られていたことを知っているかと聞かれた。
https://tatsukimura.blogspot.com/2021/08/blog-post_11.html
調べて見ると、その法案は足かけ5年かけて議論されてきたにもかかわらず、自民党内で意見の統一が見られず提出が見送られてたものだ。
7月下旬から始まった東京オリンピックは、そのオリンピック憲章で性的指向による差別を明らかに否定している。また、同性婚やそれに準ずる法制度が国のレベルで整ってないのはG7の国の中で日本だけである。
全体の話のつじつまが合っていない。
この法案の最終的な取扱いは、最終的に二階ら自民党の党三役の判断に一任されたとあった。それじゃあ絶望的だ。
結局、日本は性的指向による差別が法的に規制されていない、つまり差別が認められている国家の1つということになる。タリバン支配のアフガニスタンと同じだ。
こんなニュースを目にした。
同じ神奈川県選出で信頼する麻生派の河野太郎行政改革担当相を要職に起用できないか―。だが、麻生氏は声を荒らげた。「おまえと一緒に、河野の将来まで沈めるわけにいかねえだろ」(西日本新聞 9月4日配信)
2日夜、菅首相が党役員人事に関して麻生副総理と話したときのやり取りだ。この記事の通りなら、一体どちらが総理大臣で、どちらが副総理か分からない。これはガバナンス上の大問題である。
もし国に万が一のことがあって最高意思決定者の総理大臣に重大な判断が求められても、こんな状況では速やかかつ適切な意思決定ができるのか。
いつ首都圏直下型の大地震なんかがが起こっても不思議ではないなかで、どうかしちゃってるね、この国は。
戦後70数年。敗戦後の混沌の中からの復興への意欲とその後の人口増加をもとに少なくとも経済的には成長してきたこの国は、今やもう完全にガス欠である。より良くなろうと高みを目指す貪欲な意欲はなく、足下の日々の些事に一喜一憂している。つまり、目的も資源も戦略も意欲もない。
今日、パラリンピックは閉幕する予定。この13日間、スーパーマン、スーパーウーマンとしか言いようのないような選手たちのパフォーマンスに目を見張った。
だが、これで祭りは終わり。これから日本の長い長い落日が始まるのだろうーー。
唐辛子味のとっても辛い「暴君ハバネロ」(東ハト)というお菓子がある。
その商品名は、ローマ皇帝の暴君ネロから取っているのだろうが、ネロは実際に暴君だったのか。
今、ロンドンの大英博物館で「Nero: the man behind the myth」(ネロ:俗説に隠れた男)という展示会が開催されている。さまざまな出土品をもとに、ネロが実際はどういった皇帝だったかに想像力が刺激される。
https://www.britishmuseum.org/exhibitions/nero-man-behind-myth
第5世ローマ皇帝ネロというと、稀代の暴君として歴史にその名が残っている。ただ、彼のもともとの胸像や碑文は死後に削り取られ、多くの痕跡は消されている。ネロが今日暴君とされているもとになったのは、歴史家のタキトゥスらの著作に残された記述である。
ところが、ローマのコロッセオに隣接する地から掘り起こされ、復元がなされている当時の遺跡からはネロがきわめて有能な君主だった多くの証拠が見つかっているという。
また、ベスビオ火山の噴火で埋没してしてしまったポンペイの遺跡からは、その地を訪れたことがあるネロについての落書きが見つかっていて、そこには市民がネロを称える多くの言葉が書き残されていた。
ネロがとんでもない暴君だったとして挙げられる理由に、キリスト教徒への激しい弾圧がある。また、彼は市民からの受けはよかった一方で、元老院との関係が良くなかった。
先に書いたように、彼に関する碑文などは削られ消されてしまっているが、残っている他の記録によればネロの死後には丁重な葬儀が行われ、墓前には花が途切れることなく市民から手向けられていたという。
もし、ネロが当時の誰もが認める暴君であれば、葬儀などなされなかっただろうし、絶えず花が供えられることもなかったのではないか。
ネロの公式な評価は歴史家タキトゥスの著作によるものだが、タキトゥスはネロの存在を苦々しく思っていた元老院議員のひとりだったし、その後ローマの歴史を書き残してきたのは、のちにローマの国教として認められたキリスト教徒だった。
キリスト教を公認したコンスタンティヌス大帝は聖人として歴史に刻まれているが、実は自分の長男と2番目の妻、義父を殺害したような男だった。
ネロが非道な暴君で、コンスタンティヌスは聖人というのは一体どういうことだろうか。想像するに、ネロに関しては後にフェイクニュースが作られ、それが唯一の歴史になってこれまで残ってきた可能性があるということだ。
英語のHistory(歴史)は、His story(彼、つまり時の権力者の物語)だと言われる。ギリシャ語では、「歴史」も「物語」も 同じ ιστορία(イストリア)である。さすがはソクラテスを生んだ国だけあり、ギリシャ人はそのあたりをよく分かってる。
そういえば、我々が学校で教えられてきた「歴史」のなかにも、冷静に考えてみるとありえない話がたくさんある。
入り口でチケット買い、そこに記された3番シネマに向かう。扉のところでチケット確認をしているスタッフに、CMと予告編は何分かを訊ねると「この映画は、1分です」と彼女。
時計を見ると、予定の開演時刻ちょうど。これから予告編が始まり、1分後には本編の上映がスタートする。どうせ本編上映まで十数分あるだろうから、トイレで手をゆっくり洗ってから席に着きたいと思っていたのだが、そうはいかないようでそのまま席につくことにした。
8月30日、TBSの夜のニュース番組「ニュース23」に同局の国山ハセンというアナウンサーが小川彩佳キャスターのサブとして登場した。
番組が始まっての第一声、彼の「国山ハセンです。みなさんに少しでもお役に立つニュースをご紹介していきたいと思っています」という自己紹介でスタートした。
おいおい、と思ったのは僕だけではないはず。頼むから「役に立つ」かどうかでニュースについて考えたり、選んだりしないでくれ。
視聴者はそれが役に立つことを期待して、最近のタリバンによるアフガニスタン新政府発足に関するニュースに関心を向けているのではない。
この新人キャスターは、物事を役に立つか立たないかでその価値を判断するようだが、ニュース番組はバラエティや情報番組とは性格がちがうことをまずは理解してからカメラの前に立った方がいい。
この数日、車椅子ラグビーを見ている。
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| (一般社団法人)日本車いすラグビー連盟のサイトから |
コート上には各チームから4名ずつ、試合中は合計8名の選手が車椅子を器用に扱いながら走り回る。
ラグビーと言っても、元のラグビーとはルールはかなり異なる。ボールを前に投げてもいいし、当然キックはない。ボールを相手陣営のゴールに持ち込めば得点になる。ボールを運んでいる時は、10秒以内にドリブルかパスをしなければならない。
競技で忘れてはならないのは、厳密なポイント制度があること。選手たちは、それぞれの障がい度合によってポイントが決められていて、障がい度合が最も重いクラスは0.5点、最も軽いクラスは3.5点がつく。0.5点きざみになっている。
コート上に出ている4名の構成は、そのポイントの合計が8点以内でなければならない(女性選手が出場している場合は、1人あたり0.5点の追加ポイントが認められる)。https://jwrf.jp/about/
ゲームの公平さを担保するためである。このベースにある考え方は重要であり、他にも応用できる。
たとえば国会議員の選挙だ。まもなく衆院総選挙が行われるが、その際に立候補資格、あるいは得票数の換算にポイント制を導入するとかできると思う。
よく選挙ではジバン(地盤=支持者のいる地域)、カンバン(看板=知名度)、カバン(鞄=選挙資金)が必須と言われる。言い方を変えれば、ポッと出のボンクラ候補でも、これらがあれば当選できる確率は高い。
親が、そしてそのまた親が国会議員をやっていたケースだ。二世議員、三世議員と言われる世襲議員。
下記のサイトは、日本の政治家にいかに二世、三世(あるいは四世)が大量にいるかを示している。データは古いけど、今も状況は変わってない。
http://www.notnet.jp/data02index.htm
政治が、まるで歌舞伎や狂言のような伝統芸能と同様に世襲化している。
そこで選挙にあたっては、親が国会議員だった場合は●ポイント、じいさんがそうだった場合は■ポイント、曾じいさんは▲ポイント、またそれらが大臣経験者であった場合はポイントを2倍、そして首相経験者は3倍で計算する。
そして、選挙での候補者の得票数とそれらのポイントの逆数を掛けたものを「有効得票数」として認めることにする。
こうでもしなければ、世襲議員は選挙戦の必勝ツールであるジバン、カンバン、カバンを最初から握って選挙に出るんだから、公平公正な結果になるわけない。
第二次世界大戦中、ナチスドイツが組織的に行ったホロコースト(ユダヤ人の大量虐殺)の犠牲者は600万人に上るといわれている。
なかでもポーランド南部にあった「アウシュビッツ強制収容所」にはユダヤ人、政治犯、ロマ・シンティ(ジプシー)、精神障害者、身体障害者、同性愛者、捕虜、聖職者などが収容され110万人が虐殺された。
アウシュビッツには一度に2,000人が入れられたという4つの巨大なガス室があって、ユダヤ人たちはそこで10人のうち9人、全体で100万人以上が殺されたとされる。
第二次大戦中は、アウシュビッツでそうした虐殺が行われていたことはナチスによって厳重かつ巧妙に隠匿され、明らかになっていなかったことを映画『アウシュビッツ・レポート』で知った。
その2人、ヴルバとヴェツラーは、収容所の内実を伝える32ページのレポートを作成した。後にアウシュビッツ・レポートとして連合軍に報告されることになるこのレポートには、収容所のレイアウトやガス室に関する詳細などが描かれていた。
収容者に送られた人たちは一列に並ばされ、最初に「右!」「左!」とナチの担当者によって2分される。一方は、病弱な人、妊婦、子どもなど、その場で殺される一群。肉体労働に耐えられる男たちは重労働を強いられた後、ガス室で殺されることになる。
ナチスドイツの連中はよくこんなこと考えるなというような様々な手段で、収容者は極限まで痛めつけられる。肉体的にはもちろん、精神的にも人間がボロボロになるまで追い詰める。
収容された人たちが山中で頭だけ出して地中に埋められ(これって、自分でその穴を掘らされたんだろう)、ナチスの伍長がそれをスイカ割りをするごとく棒でめった打ちにするシーンには背筋が凍る戦慄を覚えた。
所持品はすべて奪われ、丸裸で殺され、そのままゴミのように積まれて放置されている無数の亡骸の山が方々にある。地獄絵だ。
これが歴史的事実として認識されているアウシュビッツに関する出来事である。
ナチスドイツによるこれらの行為は、語り尽くすことができない。もうこれで十分というところには、たぶん永遠に行き着くことはないだろう。
だから今回、東京オリンピックでその開会式の前日だったにもかかわらず、予定されていたショーディレクターの小林賢太郎がホロコーストをお笑いネタにしていた過去の行いから解任されたのは当然の判断だった。
もし彼を解任せず、オリンピックが始まったあとにその事が明らかになった場合、IOCとJOCに厳しい批判が寄せられただろうことは想像に難くない。
この解任の件で記者会見に臨んだ組織委員会の橋本聖子会長は「これは外交上の問題もあると思っている。早急に対応しないといけないと解任の運びになった」と理由を説明したが、理解しておかなければならないのは、これは「外交上の問題」ではなく「倫理人道上の問題」であるということ。
そういえば、以前、麻生太郎副総理が「(改憲のために)ナチスの手法を学べばどうか」と語ったことで各方面から顰蹙を買った。なぜ解任されなかったのだろう? 不思議だ。
24日のパラリンピックの開会式は、オリンピックのそれより格段によかった。
オリンピックの開会式はといえば、とにかくまとまりがなく、何を伝えたいのか分からなかった。そのコンセプトは「United by Emotion」だったとか。意味がわからない。
担当プロデューサーいわく、「世界へ向けたメッセージで、あえて和訳はつくっていない」。確かに恥ずかしくて日本語にできないよね。
例えば、唐突に海老蔵の踊りがショーに挿入されていたが、違和感しかなかった。荒事の演目を上原ひろみのピアノに合わせて演じ、途中で見得を切ってみせていたが、外連味が過ぎていて自己撞着してることに気づいていない。
それに比べて、パラリンピックの開会式はよかったよ。テーマがシンプルで、統一感が保たれていて分かりやすかった。
昨日は14歳のスイマー、山田美幸さんが競泳で銀メダルを取った。彼女は生まれつき両腕がなく、足にも障害がある。
腕がないので、足だけで泳ぐ。その力強い、彼女だけの独特の泳ぎ方はとてもクリエイティブだ。
そして何にも増して、両腕がなく身長も小さい彼女がそもそもプールに入りたい、泳ぎたいと思い、それを続けてきたことに驚かされる。半端な勇気じゃできないもの。
ローリング・ストーンズのチャーリー・ワッツが、8月24日に亡くなった。80歳。彼は50年以上にわたってストーンズの音楽を支えてきた。
ブルース・スプリングスティーンによれば、「ミックの声とキースのギター、それらに引けを取ることなくチャーリーのスネア・ドラムこそがストーンズの音だった」。ロックバンドのドラマーは、華やかで重要なポジションだ。その音量もそうだし、ステージでは視覚的にも目立つ。曲の全体を通じてドラムは音を奏で、バンド全体を支える。だからか、髪を振り乱し、暴れ回って演奏するロック・ドラマーはたくさんいる。
チャーリーは違った。淡々とやる。かっちりと仕事をする。だからこそ、その前でミックもキースも自由にやれた。
チャーリーのドラミングの特徴に、リズムをわずかに後ろにずらす奏法がある。それがバンド全体の独特のリズム感やうねる感覚を作り出した。ソフトウェアのプログラムではできない、チャーリーのものだった。
バンドは不思議な生き物のようなものである。単なるパーツ(メンバー)の寄せ集めではない。
フレディ・マーキュリーが亡くなった後、フリーやバッド・カンパニーで活躍したポール・ロジャーズがクイーンのボーカリストとして一時参加したが、やはり「違った」。
ポール・ロジャーズが稀代のスーパー・ロック・ボーカリストであることは疑う余地がない。(僕も大好き)。だが、違ったのだ。
同様に、チャーリーなきストーンズは、もう転がり続けることはないだろう。
Amazonには、今から30年前に僕が日本に紹介した、フィリップ・ノーマンによるストーンズの本『ローリング・ストーンズ―その栄光と軌跡』(原題 The Life and Good Times of The Rolling Stones)がまだ売られていた。懐かしい。
昨日、横浜市長選挙があり、午後8時の投票終了とともに出口調査の結果をもとに山中竹春氏の当選が確定した。彼は48歳の元横浜市立大学の教授だ。
友人が「早稲田の感染者多いですね」といって、以下のサイトを送ってきてくれた。
https://www.waseda.jp/top/news/70079
これを見ると、8月19日現在で学生や教員、職員など同大学関係者の累積感染者数は600人程度と報告されている。総数のおよそ1%。
同日の日本国内での新型コロナ感染者数は、約123万人。総人口には乳幼児なども含まれているが、それらの約1%だ。
参考までに米国での感染者数を見ると、同じ日の集計で約3,730万人。こちらは人口比の11%になる。
新型コロナによる死者数をみると、日本は感染者数の約1.3%、米国は同約1.7%である。
米国の場合、感染者や亡くなった人を白人か黒人か、ヒスパニック、アジア系などでの内訳をみるといろんなことが見えてきそうだ。民主党支持者(バイデン支持者)と共和党支持者(トランプ支持者)の違いにも興味ある。
どこかにデータがありそうだけど、それはまた時間のあるときにでも調べてみたい。
8月4日のオリンピックのテレビ放映は、スポーツ競技についての世の中の空気を確実に変えたと思う。スケートボード女子パークの試合だ。
横尾忠則さんが書評でこんなことを書いていた。
書評は一冊の本を剽窃(ひょうせつ)する行為にも似て、創造から遠い。どんな膨大な書物も簡単に要約して気の利いたコメントを加えるが、これは絵を描くようなクリエイティブな行為ではない。クリエイティビティのカット&ペーストだ。書評は絵画における模写というコピーで、パスティーシュ(模倣や意図的に混成したもの)は創造とは言わない。自分が書く書評を、いきなりこのように書き始める横尾は実にたいしたもんだと感心。
なるほど、確かに彼が言うとおりかも知れない。でもこれは書評に限らず、他の「評」、つまり映画評や音楽評、舞踏評などあらゆるクリティークに当てはまる気もする。
たとえば映画評をとって考えてみると、どう見ても映画会社や配給会社などが試写会時に用意した資料をもとに要約をしただけと思えるような映画評が多い。
その新作映画はまだ劇場公開されていないのだから、一般客はその評をありがたく信じて参考にするしかない。そこにあるのはクリティークではなく、単なる情報の非対称性の利用だけ。
僕が今も映画を選ぶ際に参考にしているものの1つが、週刊文春に昔から連載されている Cinema Chart 欄だ。毎週、2作品を5人の評者が星の数(☆5つが最高)と60字ほどの文章で評価する。
そこで中野翠と芝山幹郎の両者が高評価を与えているものは、僕が観ての評価も高い。これは理屈でも何でもなく、これまでの長年の経験則からだ。
以前、5人の評価者のなかに映画評論家のおすぎがいて、その頃は中野と芝山が高評価、一方でおすぎによる評価が低いものはほぼ間違いなく自分の趣味で高評価の映画だった。たまに彼ら3人が揃って高評価を与えていた作品もあったが、それらは僕には「まあまあ」だったりした。
いま、映画評でかつてのおすぎにあたるのはフランス文学者で映画評も書いているC氏で、彼が高評価を与えている作品は「よした方がいい」対象である。
でもこれは、趣味が合ってないというだけの問題。彼の高評価は「観ない方がいいよ」と教えてくれる、僕には貴重な情報。
その作品がいい映画かどうかは、自分が好きになれるかどうかだけだ。
緊急事態宣言下にもかかわらず、新型コロナの感染者拡大が止まらない。医療現場の状況も逼迫したままだ。
人流を5割減らすよう、そして県境をはさんだ移動を避けるよう、政府の新型コロナウイルス対策分科会が緊急宣言を出した。
今日現在の神奈川県の重傷病床の使用率は、96パーセントである。
そうしたなか、近くの横浜アリーナではジャニーズ事務所主催のコンサートイベントが開催中だ。お盆休暇をにらんでか、昼と夕方の2回公演が組まれている。
会場運営会社に公演について訊ねたら、「感染拡大を考慮して」5,000人の観客を入れて実施することになっていると言う。一日で1万人のファンが駅から会場のアリーナまでぞろぞろ移動してくる。
今週いっぱい、この調子でコンサート・イベントが開催される。
先週終わったオリンピックはすべての会場で無観客でゲームが行われたが、この開催をどう考えるか会場担当者に訊いたら「文化イベントは、国と県の所管機関に相談した上でルールに従って実施している」という。
そこで管轄である神奈川県くらし安全防災局危機管理防災課にこの時期の実施について考えを聞いた。すると、国(内閣官房新型コロナウイルス感染症対策推進室)から収容人数の半分、あるいは5,000人を入れてのイベントの実施ができるとの通達を8月5日に受け、それにしたがって許可していると。
映画館や美術館を楽しむには言葉はいらない。だが、ジャニーズ事務所のコンサートはそうはいかないんじゃないか。
今週いっぱい、毎日5,000人+5,000人の2公演が行われる。県内はもちろん隣の東京都から多数のファンが押し寄せ、人流が一気に増え、密はどう見ても避けられない。コロナ感染者が急増しなければいいのだが・・・。
ワクチン接種の帰り、スターバックスでコーヒーを買って帰ろうと思ったら店のシャッターがおりていた。感染者が1人出たため、「お客様と従業員の安全確保を最優先とするため」一時休業していると。
今は、金儲けよりこうした姿勢が常識のはずだ。
今回のオリンピックの開会式、国歌「君が代」を歌ったMISIAが七色をあしらったドレスをまとっていたことで、それがLGBTQの多様性を表現しているとして多くの人が称賛した。
彼女の歌唱は素晴らしかったと多く人が賛辞を送り、LGBTの人たちは今回のドレスを見て感激した。
しかし、彼女が歌った歌詞の内容にあらためて意識を向けた人はいったいどれだけいたか。それは多様性とかけ離れた、むしろそれとは真逆のものだったんだよ。
歌詞、それはメッセージである。小さな時から聞かされているからと妙に納得したり、麻痺しないように気を付けなくちゃ。
注文していた本が入荷したと連絡があり、自転車で駅前のくまざわ書店へ。
ネット書店は便利だが、急がない本はできるだけ街の本屋で買うことにしている。
店のカウンターで本を受け取ったあと、いつものように書内をぐるりと回ってめぼしそうな本や雑誌をあたる。
入口近くの島には売れ筋の本がうまく並べられている。書店の中でも、おそらく売上が一番高いはずのこの売場には最新の注意を払って商品が陳列されているのが分かる。
平積みされたなかの一冊に、上野千鶴子『在宅ひとり死のススメ』(文藝春秋)があった。20万部突破とカバーに書いてある。そんなに売れている本はどんな本か、と手に取ろうとしたが、腕を引っ込めた。
だって、この著者、まだ生きてる・・・。
実際に<在宅ひとり死>をした経験から、「みなさん、やっぱ、在宅ひとり死はいいですよ!」って語ってるのなら興味あるけど。
それじゃあ落語だよな。
自分が知りもしないこと、それも人の生き死にに関わるような大切で、しかも個別性の高いことを「これが正しい」ともっともらしく説教されても困る。
先月末に厚労省が発表した生命表によると、2020年の日本人男性の平均寿命は81.6歳、女性は87.7歳と示されている。
平均寿命は、死亡状況が変化しないと仮定した場合の(つまり戦争や大災害などがなかったとして)その時の新生児(つまり0歳児)がいくつまで生きられるかの推計値である。
だから、いま生きている我々男性が、平均して82歳まで生きられるというのではない。
自分の年齢の日本人の平均余命を知るためには、自分が生まれた年の平均寿命を見ればいいことになる。
厚労省のサイトに示された下記の表によれば、僕の生まれた昭和33年では64歳といったところ。これが僕の年代の平均寿命とされてる値になる。
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このデータは平成22年にまとめられたものだろう。その年の0歳児の平均寿命(平均余命)が男性79.6、女性86.4歳になっている。
その当時の推計によると僕はあと2年で死んでもおかしくないわけだが、「平均」ということを考えると、早逝した仲間たちがいたことでもう少しは長生きできるということになる。
小学生時代、中学生時代、早くして病気で亡くなった同級生がいた。高校時代の同級生も卒業後何人か病死した。 大学時代の同級生のなかにもそれぞれ20代、30代、40代で亡くなった人がいた。長生きして欲しかった人ほど、早く逝ってしまう。
つまり、同年代の日本人が早く亡くなれば亡くなるほど、生き残った人の余命は延びるということになる。なんかあまりすっきりしない理屈だけど。
で、令和2年の簡易生命表を見てみると、僕の年齢の平均余命は20年以上と示されていた。
名古屋市長の河村氏が、選手が持ってた金メダルをガブリとやった。(写真)
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| 朝日新聞2021年8月6日朝刊 |
金メダルは、アスリートの長年にわたる、たゆまぬ努力の結晶であり、またコロナ禍においてメダル授与ですら、本人が首にかけるという状況下においての今回の不適切かつあるまじき行為は、アスリートへの敬意や賞賛、また感染予防への配慮が感じられず、大変残念に思います。河村市長には、責任あるリーダーとしての行動を切に願います。トヨタ、怒ってるねー。
メダルを見るとかじりたくなる市長さんに、名古屋市役所の誰か、アマゾンで買えるこの金メダル(380円)を替わりにプレゼントしてやってちょ。
ある会社が、自由ヶ丘で画廊のような商売をしていたときのこと。
たくさんの絵がお店にありますので、「自分の好きな絵を見つけてください」と言ったときに、外国の方は、すぐに「私はこれが好き!」と選ぶのですが、意外と日本人は見つけられず、「どの絵が売れてるんですか?」と聞く人が多い。これはひとつに自分の中に自分の好きな美の基準がない。アートのようなものは、絶対的な基準はあるわけではなく、自分の好き嫌いでいいと言えばいいと思うのですが、おそらく教育の違いなのかもしれませんが、そういう経験がなく「この絵が自分はいい!」と言い切れる人が少ないのかもしれないなということでした。
先月、日経クロストレンドという経営系のネットマガジンが、僕が提唱する PSJ(Promoter Score Japan)を取り上げていた。
以下は3回の連載記事の2回目。
https://waseda.box.com/s/xiuu0a2nhl4zsbafnib0i1f8iv0mg3z4
日本企業の経営者は、これを読んでいい加減に気づいて欲しい。いま彼らがやっているのは、自分の足に合いもしない靴(NPS)を、舶来品のお土産でいただいたからといつまでも痛いのをやせ我慢してはき続けているようなもの。
そんな無駄な痛みを黙って我慢していると、麻痺して痛みが感じられなくなるだけでなく、自分の本来の足の形まで失っていく。
そのことに日本の経営者たち、そしてマーケティングの責任者らはそろそろ気づいた方がいい。
このところ、家にいるときはテレビをつけておく機会が多い。オリンピックの競技を見るためである。日本の選手やチームが出場する試合は、どうしても気になるものだ。
どのスタジアムも会場も一般の観客はおらず、参加チームの関係者などが観客席にいるだけで実に寂しいというかなんというか。ただ、これは致し方のないこと。
一般の観客がおらず、だから普通のスポーツ中継には必ず付きものの観客の応援風景も一切映らない。すっきりしたもんだ。
だから見ていると、ふと「これ、どこでやってんだっけ?」と思う瞬間がある。
もちろん「東京」オリンピック。東京を中心に日本国内のどこかの施設でやってるんだろうけど、これならどこだって同じ。ひとつの国に、すべての競技種目の選手や関係者が集まる必要性はないんじゃないかな。
ある一国が、その後どのように使われるかも分からない競技場や選手村など、さまざまな施設を多額の費用を投じて多数建設し、維持していくのは合理的な判断といえるだろうか。
今後のオリンピックだけど、分散型で世界のいろんな場所でやったらいい。例えば、柔道については毎回日本の武道館で、野球はアメリカで、レスリングはギリシャ、ゴルフは(なぜゴルフがオリンピック競技なのか分からないが)スコットランドで、サーフィンはハワイなんて具合だ。
3時間半もの開会式や聖火リレーはなし。もし何らかのセレモニーが必要ならば、それはオリンピック発祥の地であるギリシャで行えばいい。
そうこうするうちに、今のようなIOC(国際オリンピック委員会)は不要になっていく。これが一番重要なポイント。
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| 青色の棒グラフがテレビ広告費、黄色がネット広告費の推移 |
あれから四半世紀。もうすっかり大人になったはずのネット広告のはずが、どうにも中身はいまだにガキそのままのようである。
先日、「汚染されたネット広告、大企業も関与 「バレなければ問題ない」2兆円市場の影」と題する記事を目にした。
https://www.j-cast.com/2021/07/04415242.html?p=all
25歳になり、体は父親(テレビ広告)を超えた。でも今も成熟しないばかりか、良し悪しの区別すら付かない子どものままでここまで来てしまった。
他の広告媒体にはできた単純な良し悪しの区別すら、なぜネットではできないのかが不思議でならない。そこに関わっている人間の問題か、それともネット世界が持つ独特の感覚がそうさせるのか。
量的には豊かになったネット広告。ポケット(銀行口座)には大金をジャラジャラ言わせながら、倫理的な面だけでなく質的にも痩せ細ってしまった。
広告の分野には、かつて「広告クリエイティブ」というそれなりに豊かな表現の世界があった。純粋なアートや文芸の世界とは違うところで見る人々の心の琴線に触れて、少しばかり視聴者や読者を気持ちよくさせたり、何かしら新たな気付きを与えていた。
少なくとも、僕が広告クリエイターを名乗っていたときにはそうした思いで仕事をしていた。ネット上の広告を作っている連中は、いま何を考えてクリエイティブに取り組んでいるのだろう。
この時期、ニュースのトップにオリンピックのメダリストが登場する。柔道、水泳、体操、スケートボードなど、日本選手が表彰台に立ったシーンとメダルを獲得した競技シーンが紹介される。
確かにいいもんだ。なんだか日本がメダル獲得のトップを行っているかのような気にさえなる。
だがリモコンでチャンネルをCNNに変えると、アメリカの選手が競泳や射撃、フェンシングでメダルを取ったシーンが紹介されるし、BBCでは高飛び込み、競泳、マウンテンバイクでメダルを獲得した英国の選手の活躍が紹介されている。
それらの国の人たちも、そうした自国選手の活躍を紹介する番組を見て興奮し、喜んでいるのだろう。
今回のオリンピックの競技は39、種目は339で、どちらもこれまでで最大だ。339の種目で金、銀、銅のメダルを獲得する選手がいる。つまり、1,017のメダリスト(チームを含む)が生まれる。
どこに焦点を当てて見るか、見せられるかでこのイベントの見え方はまったく異なってくる。もちろん日本、米国、英国だけではない。たとえば、中国は中国選手の活躍にフォーカスを当てた番組とその活躍の見せ方をしっかり工夫して国威高揚に余念がないはず。フランスも、ドイツも、国を問わずどこもかもがそうだろう。
これがオリンピックが各種の国際的な選手権とは違うところだ。339あるどの面に目を向けるか、それによってオリンピックというものの映り方がどうにでもなる、実に便利な装置だといえる。
もちろん、この秋に衆院解散・総選挙を控える現政権にとってもだ。
明日開幕される予定の東京五輪の開会式ショーディレクターを務めるはずだった小林なにがしが、解任された。
ホロコースト(ナチスによるユダヤ人の大量虐殺)の被害者をあざ笑うコントをやっていたことを、アメリカのユダヤ系人権団体から指摘されたことで明らかになった。
このきっかけには驚かされたが、それにしても不祥事クリエーターやディレクターが次から次へとよく出てくるもんである。
ナチスによるホロコーストといえば、つい先週亡くなった現代美術家のクリスチャン・ボルタンスキーは、その作品にホロコーストの影響を強く感じさせる作品作りをしていた。
彼は、両親からホロコーストの話を聞かされながら少年時代を過ごしたという。ユダヤ人だった父親は、ナチスに捕らわれるのを怖れて、1年半の間、床下に身を潜めていたというからその精神的圧迫たるや凄まじいものだったと思う。
そうした少年時代の記憶を背景に、ボルタンスキーの作品には生と死を感じさせるものがたくさんある。
トリエンナーレとして開催されている香川県の直島や豊島を中心とした「瀬戸内国際芸術祭」でいくつか出品されているのを観たのをきっかけに訪れた「越後妻有アートトリエンナーレ(大地の芸術祭)」(新潟県)もそうだ。
2015年に訪ねた時には、現地で廃校になった小学校を舞台として「最後の教室」などの作品展示があった。(以下はすべて同年8月30日撮影)
昔懐かしい「用務員室」なんてプレートも掛かっていた。
梅雨が明け、猛暑の夏が訪れたようだ。
日中はなかなか外を出歩けなかった分、日が沈んでから外の空気が吸いたくなる。
夜8時半、東の空に夏の大三角形が現れた。どうせ映んないだろうと思いながらiPhoneのカメラを向けてみた。
そしたら、ちゃんと映っていた。すごいね iPhone。
テレビで道北を走るモノコックボディのバスが紹介されていた。
士別市(旭川市から北へ50キロ)の士別軌道が運行する日野自動車製のバスだ。
ただ、1982年製造なのでもう交換できるエンジンはなく、エンジンがダメになったときは廃車にするしかないらしい。
それにしても、バスは普通の乗用車と違って日々の走行時間も走行距離も格段に長いはず。それが39年間走ってきたってことは凄いなと思う。
なんでこんな古い田舎のバスのことを書こうかと思ったかというと、つい先日、僕の勤める大学のITヘルプデスクから連絡があったからだ。
大学が貸与しているThinkPad を返却せよとのこと。理由はOS(確かWindows 7)のサポートが終了しているため、セキュリティ更新ができず安全な使用ができなくなっているからと。
で、返却した後はどうするのか訊ねたら、「ご返却いただいたPCは適切な管理のもと保管した後、専門業者による廃棄を行います」。廃棄処分にしちゃうんだ。
もともとそのPCはサブ的にしか使ってはいなかったが、それでも中には個人データも入っているし、PCそのものが廃棄物として処理されるというのもなんか抵抗がある。
毎日北の大地を元気に走り回っているバスが40年間近く現役で使われているのに、研究室に置いたままのPCがなぜ十数年で廃棄処分にされるのか。
この比較ってヘンかね?
もしマイクロソフトが、セキュリティ更新にコストがかかるからというなら、利用者にそれを課金すればよい。
PC本体はプロセッサーやメモリーを入れかえ、OSをアップデートして継続的な利用はなぜできないのだろうか。
機械音痴の素人考えなのかも知れないが、テレビで古いバスが元気に北海道を走っているのを見たら、ついそんな疑問が沸いてきた。
宇多田ヒカルが、インスタグラムのライブ配信で「日本でどれくらい広まっているか知らないけど、私はノンバイナリーってのに該当するな」と語ったのが話題になっている。
それを聞いて思いだしたのが、今年のカンヌ広告賞(カンヌライオン)で受賞したマスターカードのCMである。
このカード、True Name カードという。担当者は、どの銀行も作らないから私たちは自分でつくったと語る。カード表面にエンボス加工される名前は実名(Real Name)でなくていい、あなたが選んだ自分にとっての本当の名前(True Name)でいいと。
それらに対応するためのマスターカードの試みは、真に多様性を尊重するアメリカらしい発想じゃないか。
日本の社会でも「ダイバーシティー」や「インクルージョン」と言ったカタカナ言葉が跋扈しているが、そこには思想はない。いつものとおり、口先だけだ。日本の金融機関で同様のやり方を取り入れるところがはたして出てくるかどうか・・・まずない。
先月末、日本の最高裁は夫婦別姓を認めない民法の規定が憲法に違反しないという判断を示した(裁判官15人のうち11人が合憲とした)。この国では、選択的夫婦別姓制度の導入すら認められなかった。
この日米の感覚の違いは、ほぼ永遠に埋まることはないんだろう。永遠とまで行かなくても、僕が生きている間には無理だろうな。
試しに、日本で同様のカードを発行する予定があるのかどうか、カード会社に問い合わせてみた。回答は「情報がない」、「分からない」だった。それ以上は話にもならなかった。
今日、東京都に緊急事態宣言が発令された。
といっても、文字通りの緊急性を感じる人は少ないように見受ける。
だってそれはそうだろう。「緊急」事態宣言が出されるのが決まったのは、先週の木曜日のこと。あらかじめ 4日も前もって決められた政策を「緊急」と呼ぶのが奇妙だ。
だから都民が緊急性を感じないのは当然のこと。政府や役人らは、自分たちが「緊急」と名付けたのだからこれは緊急なんだよ、分かってんのかお前らは、と思っているんだろうけどそれは無理ってもんだ。
今日から40日間あまり、飲食店は酒の提供ができない。その間、閉店することになった店は多い。今回もだが、なぜアルコールの提供が目の敵になるのか。
テレビのニュースに映る居酒屋の店主や酒店の社長などが「こんなやり方、どう考えてもおかしい。理不尽だよ。だけど我慢するしかない」と怒りを押し込めて語る。
先の戦時中に大政翼賛会が国民の間に広めた「欲しがりません勝つまでは」という標語を思い起こす。もちろん、僕自身はそのときはいなかったけど。
みんな不条理な我慢を強いられ、自由を謳歌できるその日を夢見て自分を殺し、人間性も普通の常識も曲げて、ただひたすら非人間的な日常を生きていた。
僕には今がそれと同じように見える。将来はよくなるはずと期待して不条理な我慢を重ねたあげく、われわれ国民を待ち受けていたのは敗戦後の別な不条理な毎日だった。
今の僕らを待ち受けているのも、同じように思えてならない。
このところ雨が多い。梅雨の季節だからといっても、九州での例年にない大雨続きは心配である。
天気予報で、線状降水帯という言葉をよく聞くようになった。
気象庁によれば、それは「次々と発生する発達した雨雲(積乱雲)が列をなした、組織化した積乱雲群によって、数時間にわたってほぼ同じ場所を通過または停滞することで作り出される、線状に伸びる長さ50 - 300 km程度、幅20 - 50 km程度の強い降水をともなう雨域」となっている。
簡単に言うと、それは複数の積乱雲の集合体。なぜ発生するかというメカニズムは解明されていないらしいが、日本ではとりわけ九州と四国で多く発生している。もちろん日本国中どこでも発生する。
そんな雨模様がつづくなか、昨夜は久しぶりに空が晴れていたおかげで星が見えた。といっても見えるのは、一等星だけだが。南の空に木星が大きく輝き、その西には土星が。
さらにその西にはベガを頂点として、アルタイル、デネブが形づくる夏の大三角形が見えた。
ベガは織姫星、アルタイルは彦星と呼ばれている七夕の星である。
五輪の組織委員会が作成した観客の行動ルールについての指針に首をかしげる。
一都三県の会場は、無観客での試合運営をすると決まったが、他県で観客を入れで実施する際には種々の制約が観客に与えられるようだ。
例えば、マスクの着用。大きな声で応援しない(応援に行ってるのに) 。アルコール類の持ち込みは厳禁で、会場内でも販売しない(真夏の空の下での観戦なのにビールが飲めない)、グループで食事しない、通路で食事しない、、、
なかでも一番あきれたのは、直行直帰をするようのとにお達しである。
小学生の時、学校の先生から、買い食いをしちゃだめとか、寄り道をしないでまっすぐ家に帰りなさいと言われたのを思い出したよ。
応援している選手やチームが振るわなかったら直行直帰した方がいいかしれなけど、そうじゃなかったら誰が直行直帰なんてできるんだろう。
そんな必要以上に折り目正しいというか、生真面目すぎるというか、阿呆な行動を国民がとれると彼らは思っているのだろうか。
東京五輪の組織委員会が、東京及び首都圏三県での競技場を大会中も無観客にすると決めた。
いろんな考えや思わくがあって決定が遅れたのだろうが、種々の連鎖的影響を考えればあまりに遅すぎ、身勝手である。各自治体はもちろん、競技場周辺の施設や店舗は一様に戸惑っている。
無観客での五輪大会開催は、当然外国のメディアでも大きく報道されていた。それらのなかでは、聖火が東京に今日着いたとのニュースもあわせて報道されてたのだが、それらのニュースで聖火は Olympic Flame(オリンピックの炎)って呼ばれていた。あるいは Torch(松明)と。
そこには「聖」(sacred, holy)の意味付けはない。
いったい日本でいつからOlympic flame が聖火と呼ばれるようになったのか知らないが、そうした妙なニュアンス付けが単なるスポーツゲームであるオリンピックに添えられてしまったことで、それを意味もなく神聖化し、合理的で速やかな意思決定を始終阻んでいるように思うのは僕だけだろうか。
辞書によると、聖火とは「神に捧げる神聖な火」らしいが、今の政府や五輪組織委員会にとっての「神」とはいったい何を指すのか。
それは、今回の大会によって全世界で少なくとも約30~40億ドル(3300億円~4400億円)という途方もない放送権料を得る国際オリンピック委員会(IOC)だ。
映画「ブラックバード」の登場人物は8人。スーザン・サランドンとサム・ニールの夫婦とその2人の娘の家族、そしてサランドンの学生時代からの友人。これら8人以外は誰も画面に登場しない。
まるで舞台を見ているような感じで、3日間の物語が進む。海辺近くの瀟洒な一軒家とその周辺の風景だけが描かれる。デンマーク映画のリメイクらしい。本作の脚本は、オリジナル映画の脚本家であるデンマーク人が務めた。
主人公はスーザン・サランドン演じるベビーブーマー世代の女性。60年代から70年代に青春を送ってきたんだろう。いまもやけに威勢がいい。子供らにも小さなときから「創造的に生きろ、自由に生きろ、強く生きろ」と檄を飛ばしてきたみたいだ。それが娘たちには、心の傷にもなっている。
話の途中で彼女は「あの頃、自分も気持だけはウッドストックに行った」と話したり、食事の最後にみんなにマリファナを回したり、きっとあの頃ラブ&ピースの洗礼を受けて、いまもその残滓を胸に生きているだろう。彼女の学生時代からの親友がレッド・ツェッペリンのTシャツを着ていたのは、演出的にはちょっとやり過ぎに思えたけど。
当時の世の中に反抗し、自由と平和と愛を謳いながら、結果として社会的に成功したかつてのフラワーチルドレンがどう人生に幕を下ろすか。
スーザン・サランドン演じるリリーは、今はまだ元気だが不治の病を患っており、近いうちに体の自由がきかなくなり、寝たきりになると告げられている。まだしっかり意識があって、なんとか自分の足で歩けるうちに自分で自分の人生に幕を下ろすと決め、そのために家族を自宅に呼んだ。
最後まで自由で、自分のことには自分で落とし前を付ける主人公には、見るからに意思の強そうなスーザン・サランドンは適役だった。これがメリル・ストリープならいささかメロドラマ的になっただろうし、ダイアン・キートンならもっとセンチメンタルになっただろう。
そうした意味で、この映画はキャスティングがとても上手くいった作品。
ちなみにアメリカではワシントン州やオレゴン州で安楽死が認められているそうだ。
ついうっかりしていた。手帳を開いて、今日がタイガー立石の展覧会「大・タイガー立石展」最終日だと気づいた。
雨が降っている。でも見逃すと、次の開催地へ遠路出かけなきゃならなくなる。そう思い、急いで千葉市美術館へ向かった。
タイガー立石。1941年生まれ、1998年に56歳で亡くなっている。本名、立石紘一。その後、名前をタイガー立石と変え、またその後に立石大河亞と名前を変えた。
絵画だけでなく、イラスト、マンガ、立体、絵本、陶芸、掛け軸、巻物まで、さまざまなものを対象にして奇想天外な表現を続けた。
彼の作品のアイコンのひとつは、頭の上にひらめき電球をのせた緑色の虎。時に、その手にコーラのボトルをしかと握っている。それは、シュールな独特なキャラクターを数々描いた杉浦茂をどこかで彷彿とさせる。
デ・キリコやダリ、アンリ・ルソーなんかの影響もたくさん受けている。歌川国芳の作風を拝借したレコードジャケットなんかもあったりして。見ててほんと飽きない。
展示会場では「新型コロナ感染防止のため、会話はお控えください」というプラカードを係の人が持っているのだが、方々でクスクスと笑い声が漏れ聞こえてくる。僕もタイガーの絵に何度も思わず笑ってしまった。
ちょうど1年前の今日、それまでTBSラジオで土曜日の昼間にやっていた「久米宏 ラジオなんですけど」がほとんど唐突に番組を終了した。
辛辣で真っ当な政権批判、五輪開催への疑問などをほぼ毎週繰り返していたせいだろう。当時の安倍首相を正面からこき下ろしていたからね。僕ですら、これじゃあ官邸が黙ってるはずないと番組に耳を傾けながら思っていたくらいだ。
タイプはまったく違うが、久米は日本のマイケル・ムーアと言えるような存在だと思っている。マイケル・ムーアはジャーナリスト感覚に優れた映画監督、久米は同様にジャーナリスト感覚のあるラジオ・パーソナリティ。どっちにしても、知性と勇気、筋が通った姿勢がないとなかなか務まらない。それとユーモアのセンス。
ジャーナリズム不在の現在の日本のメディア状況。僕が目にする限りにおいてだけど、これはというのがTBSの「報道特集」くらいしかないのは情けない気がする。
それぞれの現場には知性と勇気のある記者やレポーターはいるんだろうけど、筋を通せるプロデューサーがいないってことなのかね。
昨日のゼミでの学生らの議論の中で「サブスク」がトピックスのひとつとしてに出ていた。トヨタのKINTOが成功か、それとも失敗かなんて話題だ。
KINTOというサービスについては、そのプロジェクトのそもそもの目的とゴールが何なのかが分からなければ、はたから眺めてただ現時点で利用客数が伸びてないとか売上高がいくらだとか、そうした理由で失敗と勝手に判断するのはピントがずれている。
それはそうとして、なぜ「サブスク」? 原語はSubscription。もとは雑誌の定期購読のこと。
デジタル財の分野では各種のインターネットプロバイダーはもちろん、ネットフリックスやスポティファイがそうなんだろうが、サブスクは会費制と何が違うのか。NHKの受信料(視聴料)もその一種だ。
基本的にサービス業で用いられることの多い商売のやり方(気取った奴はそれを「ビジネスモデル」とか言う)で、限界コストが低い場合に採用され、それによって企業は継続的な売上を期待する。
なにもサブスクなんて言わなくても、<定額制サービス>と言えば誰にでも分かる。
月に何回行っても追加費用がかからないスポーツジムなんかもそう。ずっと昔からあったサービスだ。でもサブスクなんて分かったような分かんないような言葉で言われると、何か新しいものが登場してきたかのように聞こえるのかも知れない。
ただ気を付けて欲しいのは、英語でも日本語でもないカタカナ用語を疑問もなく使っていると、正確な意味の理解が欠落したままになってしまうぞ。
そもそも「サブスク」という言葉、日本語として美しくない。
おそらくインターネットを使うほとんどの人が、Facebookなんかの「いいね! ボタン」(Like Button)を押したことがあるに違いない。
ただクリックするだけ。手間もコストもかからない。それで、なんだかその書き手とつながった気になれる。押された方も厭な気はしない。それでささやかな承認欲求を満たすことができる。
誰が最初に考えたのか知らないが、本当に良くできた仕組みだ。
これもコミュニケーションのやり方のひとつ何だろうけど、そうやって表面的形式的なやりとりで安心したり、少しばかりいい気分になることで無くしていっているものもある。
何も言葉を発することなく、画面のボタンを押すだけなら猿でもできる。何も考えずにテレビなど見ながらでもできる。思考ではなく条件反射。
こうして「見せかけのコミュニケーション」にわれわれは益々乗っかっていくのだろう。本音の話、簡単に答えなど出ないややこしい議論自体が時代遅れになっていっている。その原因の一端が、あの小さな「いいね!ボタン」にあるんだよ。
小林亜星さんが亡くなった。
ひと月前には、日立のCMで今も使われている「この木なんの木」を小林さんと一緒につくった伊藤アキラさんも亡くなった。二人ともきら星のような才人だった。
小林亜星さんがつくったブリジストンのCM曲「どこまでも行こう」は、僕がその後広告の世界に行こうと思ったきっかけとなった一曲。それと、サントリーの「夜が来る」。
伊藤さんとはラジオCMの仕事で何回かご一緒した。言葉を限られた時間の中で音にのせる術をスタジオで見せてもらい、学ばせてもらった。
亜星さんとは雑誌の仕事で、ご自宅に取材に伺ったことがある。奥さんともども丁寧に対応してもらったのを昨日のことのように思い出したヨ。
才能が輝くスゴイ2人だった。広告という小さな世界に、こんな人たちがいたという僥倖を感じる。そうした時代だったということだろう。高度経済成長期に現れた、夢のような時間の一コマだ。
国が行ったアプリの開発事業に応札し、開発を請け負ったNECへの支払いに関してデジタル改革大臣の平井氏が妙な発言をしたと報じられている。
https://www.asahi.com/articles/ASP6B73PZP67TIPE01M.html?oai=ASP6C3GDKP6CULFA001&ref=yahoo
73億円で発注したものを、後に自分らの都合で予算を38億円の契約に変更した。
もともとの発注金額が妥当だったかどうか知らないが、すでに開発が終了しているプロジェクトについて、周りからの圧力があったからとか、野党から金額について問いただされたからという理由で一方的、超高圧的に契約をねじ曲げるのはおかしなはなしだ。
その際の相手企業を「徹底的に干す」とか「脅しておけ」とか、まともな大人が吐く台詞ではない。
後にその大臣は、自分の言葉について「 ラフな表現になった」と、それこそ大臣としては実にラフな表現で釈明したが、ラフ(rough)には「ありのままの」「未加工の」といった意味がある通り、本心からの言葉を言ったと受け取っておこう。
本格的な梅雨の季節が訪れる前に京都へ。錦小路通りの膳處漢ぽっちりで冷やし中華と点心の昼食を済ませた後、四条通りを東へ散策。
途中でタクシーを拾い、東山・八坂神社の裏手にある青龍殿にのぼると裏手に広い木製のテラスがあり、そこから京都の町を一望に見下ろすことができる。
時節がらだろう、人はほとんどいなくて実に静か。山上の庭園には大隈さんが植樹した松と、その記念碑があった。
見晴らし台でしばらく静かな風を楽しむ。駐車場近くにコーヒーを販売しているバンが駐まっていて、そこでハイネケンとエスプレッソを注文。
コロナ禍でバスの運行が止まっていると聞き、山道を歩いて下ることにする。知恩院か円山公園へおりるのだろうと思ったら、やっとたどり着いたのは東大谷墓地という広大なお墓だった。これもまた京都らしい風景。