2019年12月29日

ケン・ローチの新作は日本の将来を予見させる

カンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞した『わたしは、ダニエル・ブレイク』(2016年)などの秀作で知られるイギリスの監督ケン・ローチが、一旦映画界から引退したにもかかわらず、やむにやまれず取り組んで完成させた作品が『家族を想うとき』、原題はSorry We Missed You である。

  
舞台は英国のイングランド北東部に位置するニューカッスル。フランチャイズの宅配ドライバーとして独立をした一家の父親とパートタイムの介護福祉士として働くその妻アビー。彼らは2人の子供をもつ4人家族。
映画では、彼らが暮らす住居の玄関でのシーンがしばしば登場するが、そこはブレイディみかこが、『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社)の中で語っていた、家に入ってすぐのところの壁にコートや上着を掛けるフックが並んでいるという典型的な英国の労働者階級の住まいの作りである。
映画のなか、夫であるニッキーは「ゼロ時間契約」で働く独立宅配ドライバー。いくつかの仕事を経て就いた仕事だったが、彼は最初、それがどのようなものかよく理解してはいなかった。「勝つのも負けるのも、すべて自分次第だ」と言われ、人に雇われ命令されて働くのではなく、個人事業主あるいは一人親方のような自分の腕一本でかせげる仕事ーーーこれこそが自分が求めていた仕事ーーーと思ってしまった。
「契約」である以上、そこには契約関係がある。ここでの関係は雇用と被雇用で、ニッキーは被雇用者だ。しかもゼロ時間契約によって、雇用主は「仕事を提供できない期間が発生した場合においても、仕事および賃金を与える義務を負わない」という業務委託がなされている。
そこでの労働条件は過酷だ。働く者が怪我をしようが、身体を壊そうが、家族に何があろうが、仕事休むとその分の収入が途切れるだけではなく、会社に迷惑をかけたという理由で1日100ポンドのペナルティーが課せられる。
その一方で、病気をしようが怪我をしようが社会保障は何もない、まさに歪められた自己責任という奴だ。そんなシステムになかでニッキーとアビーの2人は人間的な時間をそぎ取られ、やがて4人家族の間で軋みが極限まで増していく姿は観ていて本当に辛い。
フリージャーナリストのジェームズ・ブラッドワースが企業の労働現場に潜入して書いたルポ『アマゾンの倉庫で絶望し、ウーバーのクルマで発狂した』(光文社)では、第1章:アマゾン、第2章:訪問介護、第3章:コールセンター、第4章:ウーバーが取り上げられている。

自らその職場に身を置き、そこでの実態を経験したブラッドワースが、理不尽で過酷で人を押しつぶしている再愛知賃金労働の仕事の現場を生き生きと描いてる。
想像するに、ケン・ローチは映画を製作するにあたってこの本を読んだに違いない。ニッキーの働く職場は、ブラッドワースの本の1章と4章が、そして訪問介護士として働く彼の妻アビーの仕事ぶりは、第2章で描かれた悲惨で気が滅入るような仕事環境そのものだから。
かつてはゆりかごから墓場までと言われた社会福祉の制度が隅々まで行き渡った英国が、今はまったくその見る影もない。きっかけは1970年代終わりからマーガレット・サッチャーが政権を握り、国の至る所に新自由主義的な競争原理を一気に持ち込んだこと。

そのことで多くの労働者階級が、その働く土台や拠って立つ労働組合、そして彼らの誇りや人としての自信といったものまで根こそぎ奪われ、叩き潰されていったという歴史的な背景がある。
今イギリスの労働者階級の仕事の多くは、企業から一方的に与えられたり奪われたりするもの、しかもその多くはポーランドやルーマニアといった東欧諸国からの移民あるいは出稼ぎ働者たちと簡単に首をすげ替えられる類になっている。
今回の英国での総選挙の結果、保守党が大きくその議員数を伸ばし躍進した。EU離脱を最大の争点としてこの選挙において、労働者階級の人たちのある一定割合が労働党ではなく、保守党に投票した。

背景には、自分たちの職場や生活が外国からの移民によって奪われているという状況があった。その不安感と危機感が彼らをして、本来は労働党の議員に投票すべきところを移民排斥を唱えEUからの離脱を訴える保守党を後押ししてしまった。
政治の問題といえば政治の問題ではあるが、それにも増して、これは彼らの日々の生き残りに関する問題だった。米国において、トランプ支持を表明する白人ミドルクラスの意識と重なっている。