2024-03-14

みんなで叫ぼう、「クソ野郎!」

「クソ野郎」とツイッターに投稿されたことで名誉を傷つけられたと、元TBS記者山口某(ジャーナリストの伊藤詩織さんに性暴力を加えた)が、れいわ新選組共同代表の大石晃子議員を訴えていた件の判決が出た。

東京高裁は損害賠償金の支払いを認めた東京地裁の1審判決を取り消し、山口の請求を棄却した。

1審での東京地裁の裁判長は、「クソ野郎」を「攻撃的かつ激しい侮辱」だとして名誉毀であるとした。一方、2審の東京高裁の裁判長は、「直ちに人身攻撃となり、意見や論評の域を逸脱したとは断じられない」と判断した。

この違いは面白い。裁判長2人の価値観と言語感覚が、大きく異なっている。それにしてもツイッターでの「クソ野郎」との投げかけを「攻撃的かつ激しい侮辱」とまでネガティブに受け取る東京地裁の裁判長は、ずいぶんお上品な育てられ方をしてきた人物なんだろうナ。


とにかく、ある意味で「クソ野郎」に裁判所のお墨付きが出たようなもの。世の中を見回すとそこかしこに「クソ野郎」がいるじゃないか。さあ、ソイツらに向かって、みんなで叫ぼうじゃないか、クソ野郎って。

2024-03-13

映画「オッペンハイマー」

96回目になるアカデミー賞では、「オッペンハイマー」が作品賞、監督賞、主演男優賞、助演男優賞、編集賞、撮影賞、作曲賞の7部門で受賞した。

 
原爆の開発責任者だったJ・ロバート・オッペンハイマーについて描いた作品である。僕は先月、この映画を2回観た。飛行機の中、行きと帰りだ。他に観たいものがなかったからだけど。

さて、昨年7月に米国などで公開されたこの作品は、まだ日本では公開されていない。原子爆弾の本質、原爆でのヒロシマ、ナガサキでの被害や被災者の姿などがきちんと描かれていない、という批判がすでに多く寄せられていることがその理由の1つだ。

日本人の一般感情としてそれは分かるが、この映画はそれを目的に作られたものではない。「ゴジラ」とは違う。

焦点は原爆そのものではなく、その開発の中心人物で原爆の父と呼ばれた(呼ばれてしまった)人物の思いや葛藤が中心のストーリーだ。映画として世界中に配給され、商業的に成功するものをと考えたならそうなる。しかたない。だから、日本人がこの映画に「NHKスペシャル」のような作りを期待したら間違っている。

映画で描かれた原爆の「向こう側」にいたわれわれ日本人が考えるべきこと。それは、この映画がヒロシマ、ナガサキの被災者の状況をきちんと描いていないことに対して不満を募らせることではなく、なぜ原爆の投下を相手に許してしまったのか、なぜそれを止められなかったのか、つまり大戦の負けを認めるべきタイミングでそうした対応(降参)を国の中枢部が決められなかったのかだ。

僕は米国による日本への原爆投下を認めているのではない。しかし、もし日本が原爆を大戦中に先に開発していたなら、日本の軍部は間違いなくそれを敵国に対して使用していただろうこと、そして、そうした戦争にともなう開発競争のなかで、大局的にどのように国民と国を守っていくかという考えが、日本の中枢部には決定的に欠けていたことは確かである。

2024-03-12

「新感覚」の自民党青年局議員たち

自民党青年局が、同党近畿ブロック会議とやらの会合の後の懇親会で、女性ダンサーたちを余興に招いた。その余興の「趣味の良さ」はまずは置いておくとして、そのダンサーらに青年局の議員らが口移しでチップを渡したことについて書く。

事の発端は、そこにいた他のメンバーがそれをインスタに公開し、世の中が知ることになった。そして、その場にいた青年局の局長と局長代理が責任を感じて役職を辞任した。局長代理は群馬出身で、あの中曽根康弘から続く三世議員だ。
 
それにしてもよくやるな、というのが正直な感想。そうした行為を行った議員は元より、その場にいた連中は、自分たちが見ている行動が恥ずかしいとは思わなかったのだろうか。

恥ずかしいと言えば、当の議員らは当然のことながら、それらの国会議員を選挙で選んだ有権者はどう思っているのだろう。普通だったら、恥ずかしくて穴があったら入りたいような思いに駆られるはずだが。

なぜそうした議員たちが選ばれ続けるのか、不思議でならない。そうした不埒な国会議員は当然だが、そうした人物を自分たちの代表として選挙で選ぶ側にも問題がある。

議員たちに票を投じた選挙民は、自分がその議員の後援会の会員でもない限り、自分がそのとき誰に投票したかよく覚えていないんじゃないか。覚えていないから、こうした不祥事を目にしても自分は恥ずかしいと感じないし、別の選挙の時には投票所で誰にしようかと悩んだあげく、そうした議員にまた1票を投じるのかもしれない。

そうしたことを防ぐための1つの方策として、我々選挙民が自分が誰にいつ投票したかをちゃんと覚えておくことが必要だと思う。

レコーディング・ダイエットを参考にすればいいかもしれない。レコーディング・ダイエットは、ダイエットを目的とする方法の1つだが、やる事は日々の体重を記録しておくことだけ。ダイエットと言うと、どういった料理をどんなふうに食べるかとか、カロリーをどう減らすかとか、そうした具体的な手法に行ってしまうが、レコーディング・ダイエットはただ自分の体重を日々記録し、それを「意識」しておくようにすることだけである。

その潜在意識が自然とその人の行動、つまりそこでは食事の内容やその仕方を変えていき、結果としてダイエットにつながる。

それになぞらえば、私の提案は<レコーディング・エレクション>とでも言おうか。選挙に行った時は、必ず手帳や日記等に自分が投票した候補者の名前と所属政党を書き記しておく。そのことでそれが記憶に残る。

もし今回のようなことで、自分が投票した議員の名前を目にしたりすることがあれば、それらの議員を選んだ国民は自らの選択を反省し、次は異なった投票行動を取るはずである。そうしたことが、本来選ばれるべき良き候補者を議会に送ることにつながっていくのだ。

それはそうと、同党青年局長の川畑議員さんとやら、女性ダンサーを招いた理由を「多様性の重要性を問題提起しようと思った」と釈明したとか。また、そうした余興を「新感覚のおもてなし」と考えた、と述べたという。

ノータリンの軽薄さもついにここまで来たか、という印象である。

2024-03-11

「夢をカタチに」 んっ?

家の周りに組まれた骨組み掛けられた懸垂幕。

誰に向けてのメッセージなんだろう。家の持ち主が書いたのか、それともリフォーム会社のアイデアか・・・。


スマホで写真を撮りながらそんなことを考えていたら、近くにある県立高校の女子高生2人が「はずして欲しい・・・」って言って笑いながら僕の横を通り過ぎていった。通学の途上、毎日これを目にしているんだろう。

高校生の時って、<夢を実現して欲しい>とか<希望を叶えて欲しい>とか、人生のなかで一番言われる時期のような気がする。大人の目からは、これから何でもできるという可能性がもっとも詰まった輝く年頃だと見えるんだろう。

でも高校生からすれば、そういうことを言う人に限って夢や希望ともっとも縁遠い大人だったりしてね。だから、こんな風に<夢>を大書されると恥ずかしくて仕方ないのかも知れない。

2024-03-10

この国のダイバーシティ(多様性)は、多様か?

用語としての「ダイバーシティ」がいつから僕たちの生活に入って来たのか検索してみた。朝日新聞のデータベースでは、初めて「ダイバーシティ」の用語が登場したのは1997年。「ILO(国際労働機関)ダイバーシティワーク研究会」なるものを紹介した記事だった。そこではダイバーシティワークを「多様な働き方」と定義し、在宅ワークや短時間の勤務形態などのことを示していた。

次に「ダイバーシティ」が登場するのは2002年。その年には3件の記事が掲載されている。ひとつはオランダの例を引きながら「ワークシェアリング」を紹介している。それと、企業が社員に提供する福利厚生の多様化についてももの。そして、アメリカでの白人、黒人、ヒスパニック、アジア系などの人種多様性を紹介した記事である。

つまり、その時点から「ダイバーシティ(多様性)」の議論は多様なのである。

ところが今の日本では、というか、最初からだが、ダイバーシティ=女性の管理職登用と思い込むきらいがある。そして女性を管理職に登用することで、「女性ならではの感性をいかした経営を実現」などという浅薄で単純な議論がいまも大手を振っている。

その背景には、企業において見ただけでも、採用から教育、配属、評価、昇進、報酬などすべてに渡って男女の間で差別が存在しているからだ。そこは分かる。是正されなければならない。だが、そのこととダイバーシティ論議は分けて考えることが必要。

ダイバーシティが、「男か女か」といった外形的なことなら、人種、年齢、出身地などの属性をもとに機械的に多様な人材を登用すればいいということになる。

そうではないだろう。大切なことは、外形的な見た目では分からない考え方や価値観の多様性だ。その結果として、異なった(マジョリティ、つまりおじさんから見ての、だが)考えや価値観を持った人の中に女性だったり、外国籍の人だったり、自分たちの半分ほどの年齢の人がいるかもしれない、ということ。そこに目を向け、耳を傾けること。それが肝である。

Diversityの同義語には、difference、distinctiveness、diverseness、heterogeneity、multiplicity、range、varietyなどいろいろある。つまり、ダイバーシティ(多様性)とは本来多様なのである。それを忘れてはいけない。 

2024-03-09

2024-03-08

診察券

歳をとるとは、財布の中の診察券の枚数が増えていくことだと知った。

2024-03-07

「承知していない」に感じるいかがわしさ

体調を崩し、回復に向けて静かな日々を過ごしている。病院と薬局に行く以外、どこにも出かける気力が出ない。しかたなく、というわけでもないが、普段はあまり見ることのない国会中継をテレビでながめて過ごしたりしている。

今は予算委員会が開かれているが、そこで議員や官僚などの答弁においてしごく日常的に使われている言い回しに「承知していない」というのがある。

「承知」という言葉について、辞書には1)知っていること、2)聞き入れること、3)許すことの3つの意味が示されている。目的として捉えている範囲が、結構広いのである。

とすると「承知していない」は、1)知らない、2)受け入れない、3)許さないという意味になるが、国会の答弁で用いられているのはそれだけではない。4)理解できない、5)そうは思わない、のときもあるように感じる。

極めて玉虫色の言い回しなのだ。このように相手がどうとでも取れる、ということは、発言者が自分の意図や考えを相手に明確に示したくないときにとても重宝する。「・・・の件については承知しておりません」と言えば、自分は「知らなかった」から「許さない」まで多方面な言い方に使えるわけだ。

本音を知られたくない、言質を取られたくない国会議員や官僚に便利な、ある種の万能表現。だから、もしそうした言い方をする人がいたら、何かを隠し、誤魔化そうとしていると考えた方がよいだろう。

そういえば、私の周りにもこの「承知していない」を多用する人物がいた。旧大蔵省出身の元官僚で、その後天下りか知らないが、早稲田大学の教授になった。会議などの席で、彼が何かにつけてそう言っていたのが違和感として記憶の片隅に残っている。

2024-03-04

0.2%でブランドを破壊

日産が下請け企業への代金を一方的に減額したことで、下請法違反にあたるとして公正取引委員会から勧告を受ける。

日産と下請け企業各社は、当然ながら納入金額は事前に交渉の上で決めている。にもかかわらず、製品納入後に代金を「一方的に」減額して支払っていた。信じられない。下請けという相手の弱い立場につけ込んでだ。あまりにセコイ、ずるい。

今回明らかになったのは、30社あまり。金額は約30億円。平均すると一社あたり1億円ほどか。日産にとっては目くそ鼻くそでも、下請け企業にとっては存続を左右する回収すべき代金だったかも知れない。

なぜ日産の担当者は、こうしたしょうもない下請けイジメを行っていたのか。会社のためか、自分のためか。「課長、今回も〇〇社への納入代金、支払金額を減額しておきましたから」「おう、そうか、ようやった!」という日産社内の上司と部下のやり取りが聞こえてくる。

今回、この件がニュースになってから、日産は「減額分の全額を業者に返金しました」とコメントしたらしいが、もともと支払うべきものを支払っていないのだから「返金」というのはおかしいだろう。

「全額」というのも変じゃないか。遅れて支払うわけだから、最低限、金利分のペナルティを加えて支払うのがスジだ。そんなこともこの大自動車会社は理解していない。さらには、下請け企業の経営者に与えた精神的苦痛への慰謝料も支払ってしかるべきだろう。どこまでも「上ー下」でしかものを考えない愚かさが見て取れる。

日産の昨年度の売上は13兆円。彼らが違法に支払いを節約しようとした今回の30億円はその0.2%。それによって企業そのものの倫理観を問われ、ブランドを自ら傷つけ、顧客を遠くにやってしまっている。そして日産という会社はセコイ、汚い、いじましい、そして情けないことを広く知らしめた。

こうした企業は他にも多くある。例えば、私が知っているだけでも富士通は同様のことをやっている。下請けの開発会社からソフトを納入させたあとで、見積もりの金額を変更して支払金額を値切っている。こちらにも公取委の調査が入るべきだろう。

日産にしても富士通にしても、自分たちでできないから外の企業に発注してるはずだが、そのあたりが分かっていない。発注者だから自分たちの方がエライ、と考えているのだろうが。

2024-03-03

東京ガスの説明はいつ聞けるのか

1月の下旬、郵便受けに「東京ガスから大切なお知らせと、皆さまへご協力のお願い」と題するチラシが入っていた。

それによると、「当社は、環境保全の取り組みの一環として、毎月の検針時にお届けしている紙の検針票を2024年10月末をもって廃止しペーパーレス化します」とある。

検針票というのは、毎月の使用量と料金を記したスリップである。大きさはB6サイズを一回り小さくしたものだ。<環境保全の取り組みの一環>というのは、この紙を削減することで二酸化炭素の排出量が減らせると考えているからだろう。で、いったいどのくらい?

こうした大名目を謳っている以上、どのくらい二酸化炭素を減らすことができ、環境保全に役に立つのか具体的に想定しているはず、と考えて問い合わせてみた。

2月2日に東京ガスの社長さん宛に質問状を送った。ひと月以上が過ぎているが、何も回答がない。

なぜ回答しないのか、あるいはできないのか。

(追記 3月7日)
東京ガスから返答が来たヨ。その文面には「年間で40t程度のCO2排出量削減を見込んでおります」と書いてある。それがどのくらいの数値か彼らが送ってきた資料からデータをいくつか引いてみよう。

東京ガスグループによる2022年度の総排出量は、約5,800万トン。そのうちの92%は原料調達関連(電力・LNG等)と彼らが販売した製品の使用(都市ガス等)による。つまり、これらは東京ガス自体による排出量ではないので除くとする。

残りの460万トンが東京ガスによるCO2排出である。内60%が火力発電事業、34%がエネルギーサービス・地域冷暖房事業だ。残りの6%は、都市ガス製造が3.3%、事務所等が1%、その他が2%となっている。

そして、彼らが今回、毎月の紙の検針票を各戸からなくすことで削減できると言ってきた40トン分は、彼らが排出しているCO2の0.00087%にあたる。さて、どう評価したものか。

今回の彼らの手紙の末尾には「なお、これ以上の詳細な内容につきましてはお答えいたしかねますので何卒ご理解いただきますようお願い申し上げます」とあった。

2024-03-02

アマチュア無線は緩くて、深い

週末の朝、近くの土手を散歩していて見かけた風景。河川敷に3メートルくらいの細いポールを立てて何かしている男性がいた。ポールの下に何やら道具をいろいろ置いて何かしている。何してるのだろうと思いつつ、通り過ぎた。

しばらくして再度そこを通り過ぎたとき、その男性はまだそこにいて、ポールはもうなかった。男性は荷物を袋にしまうなど、何やら撤収の様子。「何かの調査ですか」と声をかけてみた。その男性には、なんとなく科学者風の雰囲気があったから。

「あ、いや、アマチュア無線です」と返ってきた。かれはこの河川敷で自作のアンテナを立て、アマチュア無線の交信をしていたらしい。聞けば、アンテナだけでなく、無線機やアンプ(50W)も自作だといい、さっき袋にしまったものを色々わざわざ取り出して見せてくれた。

聞けば僕の住まいから歩いて5分ほどのところに住んでいて、天気がいい日はこれら機材一式を載せたカートを押してこの河川敷にくるらしい。

 「お盛んですねえ」と言うと、「いま頑張るしかないんですよ」と。というのは、アマチュア無線の電波がどこまで飛ぶかについては11年周期で現れる太陽黒点の活動が大きく影響していて、今年はその大爆発の年らしい。つまり、アマチュア無線愛好家にとっては電波が遠くまで届く願ってもないタイミングで当たり年なのである。

さらに、遠くの電波を拾えるのは1日のなかでも特定の時間帯だけで、朝の7時半から9時半くらいがいいんだとか。なるほど、それで10時くらいにはもう撤収していたのか。

黒点活動が11年ぶりに活発になっているこの時期に、朝の電波状態が良好な時間帯で頑張れば地球の裏側とも交信できるらしい(一番のポイントはアンテナの大きさだとか)。その日は、ブラジルやアルゼンチンのアマチュア無線愛好家と交信できたと言っていた。

いまのSNSの原型をそこに見た気がした。ただし、インターネットと違うのは声、もしくはモールス信号だけなので、その時点で消えていくこと。

インターネットは電波さえ確保できれば、どこだっていつだって安定して使えるが、アマチュア無線はそうではない。周りに高いビルがあるかどうかで圧倒的に受信感度が変わる。天候にも左右される。また1日のなかでの時間帯でも受信感度が変わる(地球上の大気層の変化によるんだろうか)。そして、太陽黒点の活動にも影響される! そんな変化が面白いと思う。

今朝出会ったおじさんは、現在83歳。次の絶好のタイミング(つまり11年後の太陽フレア)のときはどうなっているか分からないって言ってたけど、いつまでも手作りの機器でアマチュア無線を楽しんで欲しい。

2024-02-26

規制以前の問題

東京都が条例でカスハラに関して規制を制定するらしい。

こうしたことが「カスハラ」の例だと紹介する、厚労省が作成したビデオがこれだ。

 
よく起こりそうな店頭でのやり取りだが、これが客による店や店員に対する迷惑行為という根拠は何だろうか。誰に対してどういう迷惑をかけていると認定できるのか。たぶん、この状態では無理だろう。

ではこれは許されるかというと、それはまた別の問題。相手を傷つけている点で、問題だと考えられる。ではどうしたらよいのか。

どうも今後は、こうした行為が東京都内で行われると条例違反ということになるらしいが、誰がどのようにそれを適用するのかがイメージできない。

それを適用してそうした客を規制や処罰の対象とするためには、その人物が誰かを特定し、その客が現場で何をどのように言ったか、何を行ったかを証明しなければならないはず。音声も含めて店内の出来事をすべて録画録音しておけというのだろうか。

ところでこのビデオで気になるのは、問題はレジ前の客だけじゃないことである。やりとりを背中で聞きながら黙ったままで手を貸そうとしない他の店員、割って入ろうとも口を挟もうとせず、後ろでただ顔を歪めているだけの他の客らも問題だ。

少なくともレジが止まり待たされているのだから、堂々と声を上げて注意すればいい。「都の条例」だとか面倒なことを振りかざしても現場での実効性はないに等しいんだから。

もっとシンプルに、一人ひとりがその場でおかしなことに対して声を上げ、そうした客を追い出せばいいだけの話である。そうした当たり前のことができないことが、残念なこの国を象徴している。

カスハラなんて奇妙な言葉を振り回し、しかも役所による規制に頼って問題を解決しようという考えが間違い。

2024-02-18

これが国のシンボル?

ホテルのあるClarke Quayからシンガポール川沿いの遊歩道をたどって河口へ下る。日差しがとても厳しい。なぜ帽子を持って来なかったのかと後悔する。

小1時間ほどでマリーナベイに出た。突端にシンガポールのシンボルとされているあの「有名な」マーライオン像がある(写真)。高さは7〜8メートルほどだろうか。キッチュと言えばキッチュだが、造形的にも意味的にも何も面白くない。端から期待はしていなかったが、あまりの馬鹿馬鹿しさに脱力する。

観光名所か。あたりは、中国から春節に合わせてやって来た観光客で溢れかえっている。

2024-02-17

シンガポール、チャイナタウン

シンガポール市内のチャイナタウン。路上は、旅行ケースを転がす中国人観光客がたくさん。

2024-02-16

Coca Cola

シンガポールの街中を走っていたコカコーラ社のクルマ。車体にペイントされたコークのロゴマークがやけに歪んでいる。暑さのせいという訳ではあるまい。どうしたのだろう。

2024-02-15

人気のない街中の公園は、きれいだが寂しい

ここ、シンガポールの街を歩いていると気がつくのは、意外と公園が多いということ。しかもどの公園もきちんと整備されている。それはとてもいいことだと思う。

ただいささか不思議なのは、そうした公園に誰も立ち入っていないことである。これが(日本も含めて)他の国だったら、芝の上に寝転んでいるひとがいるのは必至だし、犬を散歩がてら引いて歩いている周辺の住人やボール遊びに興ずる子どももいるはず。

それが、そうした人(や犬)をまったく見なかった。きっと公園の芝生に立ち入ったら、行政から罰金が科されることになっているんだろう(未確認)。 

街の中心部にあるホン・リム・パーク

2024-02-08

学びたければ、退職すること

「退職は一番のリスキリング(学び直し)」という言葉を新聞に見つけた。なるほどそうだな、と膝を打った。

転職などで辞めていく同僚の姿を見ていたのがきっかけで2020年に退職、その後起業し経験を積み、22年にメルカリに再就職したという女性の話が載っていた。

彼女は、会社を離れていたときに多くの事を学んだ、と語っている。そして、いまは充実した気持ちで日々の仕事に打ち込んでいる。

何をやってようが毎月給料をくれる会社というありがたい場所を辞めるのは、誰だってそれなりの覚悟がいる。不安もあることだろう。だからこそ、それを押して辞めたとなれば、ぼんやりとはしていられない。自分を見つめ直しつつ、何をやるべきか高速で考えるようになる。

そこに意味ある学び直しが存在する。会社組織に身を沈めながら言われたことをやってるようでは、本当に何を学び、どう自分を高めていけばいいかなんてそう簡単に分かるものではない。それが一般的な会社ってものだ。

成長したければ、勇気を持ってリスクを取る。多少の賭けにすら出られないようなら、どうせ今いる組織の中でも大したことはできやしないんだから。

2024-02-03

桐島聡とされる人

1月29日、自称「桐島聡」とされる人物が死亡した。70歳。1974年ごろに起こした企業爆破事件の容疑者として指名手配されていた。

彼は神奈川県鎌倉市の病院に内山洋というクールファイブのような偽名で入院していて、1月25日に病院側に「私は桐島聡だ」「最後は本名で迎えたい」と話したという。警察がそれから捜査に入って、わずか4日後になくなった。末期の胃がんを患っていたらしい。

爆破事件に関与したのは、彼がまだ20歳の学生だった頃。共犯者が海外逃亡しているために時効の適用が止まっていた。

それから逃亡生活を始め、50年である。その間、本名を誰にも明かせず、免許証や保険証、銀行口座を持たず、住民登録などもできず、裏の日常をひっそり生きてきたのだろう。

警察に出頭しようと何度も考えたに違いない。けれどそうしなかった理由は、彼にしか分からない。

ネットには「今頃になって、のこのこと出てくるな」とか「目立ちたいだけだろう」などといった言葉が流れている。本人の50年間の思いを想像したこともない他人が、一知半解な理解でものを言うべきではない。

本名を病院で明かしたのは亡くなる4日前のことになったが、その気持ちたるや察するにあまりある。日々葛藤のなかにいて、さまざまな思いのなかで生きていたはずだ。

彼が20歳の時に行ったことは明らかに犯罪である。では何がその時の彼をそうさせたのか。おそらくそれは、学生時代の人との出会いではないだろうか。もともと本人のなかにいささか歪んだ正義感のようなものがあったのだろうが、その当時の人との出会いが彼をしてこの事件に巻き込まさせ、残りの人生を決定づけたと思っている。

違う出会いがあれば、桐島はまちがいなく違う人生を歩んでいたに違いない。手配写真に写った彼の写真を見て、そう思う。

死を覚悟した彼は、50年間のあいだ封印していた本名を最後の最後に明かして、死ぬ直前にやっと表の世界へ戻ってきた。おおきな胸のつかえが取れた思いがしたことだろう。

2024-02-02

「他者」への憎しみは、自分自身への憎しみから生じる

パレスチナの人たちを殺し、痛めつけているイスラエル首相のネタニヤフが、どうにもヒトラーに思えてきてならない。イスラエルが殺傷しているのは、あきらかに戦場のウクライナ兵だけではない。街中で、学校で、病院で、なんとか生きのびているウクライナ人の子どもが女性が多数犠牲になっている。

ジェノサイド(集団殺戮)であると世界中の人たちが批判しているにもかかわらず、その発言と行動を止めることをしないのはなぜだ。

ヒトラーは、ラウシュニング(ポーランド生まれのナチス政治家)との対話の中でこう言ったとされる。「私たちの心の中にユダヤ人がいる。しかし、目に見えない亡霊と闘うよりも身体的なかたちでのユダヤ人と闘う方がやさしい」。ヒトラーの人間性の一部が「ユダヤ人」なるものであり、それゆえに彼はユダヤ人を絶滅したかった。ユダヤ人という「他者」への憎しみは、自分自身への憎しみから生じていた。

ネタニヤフのなかにも似た感情があるように思う。長い歴史のなかでユダヤ人を痛めつけてきた数々の国や民族は、今のパレスチナ人ではない。

2024-01-31

ゴッホ・アライブ

友人に誘われ、天王洲アイルの寺田倉庫で開催されている「Van Gogh Alive」を観てきた。モーショングラフィクスでゴッホの世界を見る者に近づけてくれる。

映像はすべて投影さえれたもので、実際のペインティングは一枚もない。通常の絵画展とはまったく異なった設えになっている。

壁やパネルといった垂直方向だけでなく床にも映写されていたが、せっかくなら天井も投写スペースにしてくれたら、床に寝転がって見れたのだけど。


2024-01-29

電話に勇気は必要か

作家の青山七恵さんが書いた「電話の贅沢」と題するコラムを読んだ。その中に、こんな1節があった。

・・・私はいま、電話が好きだ。電話には、スリルがある。一度つながってしまったら、やぶれかぶれでも一発勝負でどうにか乗り切るしかないという、綱渡り的、即興劇的なスリル。同じ意思伝達の手段であっても、何度でも書き直しができるメールとはぜんぜんちがう。

やぶれかぶれの一発勝負とまで力まなくてもと思うが、気持ちはよくわかる。電話にはそれなりの緊張感がある。相手が出るのか、出ないのか、話しやすい状況か、そうでないか、機嫌はいいか悪いか、そうした思いが頭を巡る。相手が電話に応えるまでわからない。

若い人たちはもう電話はしないという。理由は、相手にとって電話は突然なので失礼だからとか。それはそうだが、それが電話というものである。

実際のところは、相手のことを考えているようで、自分のことを考えているんじゃないのか。電話をかけられた方が迷惑に思うことがあれば、自分が気が利かない人と思われるのが厭なだけじゃないのかな。

そのうち、「昨日、〇〇に電話したらね・・・」なんて言ったら、相手から「あなた、勇気あるね」と感心されるようになるかもしれない。

確かに電話は突然かかってくる。だから、出られるときは出る、出られないときは出ない、でいいんじゃないのかね。メールではうまく伝えられないことだってあるはず。電話をまったくしないという人たちは、そうした思いを何も持っていない人たちなんだろう。

2024-01-27

哲学本

哲学本が人気だ。ビジネスマンを中心に、そうしたジャンルが今売れているという。ただし哲学書そのものではなく、哲学とは何かをさらっとエピソードや身近な問答を通じて分からせる入門本だ。

どこまで深く入って行くかは別として、哲学に興味を持つのは悪くない。そうした読者がどういった層なのかは詳しく知らないが、みんな悩んでいるのだ。そして、彼らはその答えが<哲学>にはあるのではないかという強い期待感というか、そこにすがっている感じがする。

「哲学とは何か」を囓ることで、悩みの解決法を手にできれば楽なんだろうけど、実際それは無理な相談だ。哲学書を数々読みあさっても無理。哲学者自身がそれを分かっているわけでもなく、また読者を救済するために書いているのではないのだから。哲学者は精神分析医ではない。

タモリは「教養なんてのは、大人のおもちゃである」と言ったらしいが、それはかなり正鵠を射ている。哲学は悩む人がすがりつくロープでもなく、天から垂れ下がった蜘蛛の糸でもない。

大人にとっての哲学というのは<おもちゃ>くらいの軽い気持ちで付き合うのが正しい付き合い方なのだろう。そうすると、とても楽しい。

2024-01-08

リーダーの判断能力

サントリーホールディングスの新浪剛史社長が記者会見で「(震災の被害は)大変厳しい状況にある」「この状況を考えれば、被災者への対応が何より優先されるべきだ」と強調し、大阪万博は延期をすべきことを示唆した。建設人材の不足が能登半島の震災復興の妨げとなってはならないとの認識を示したといえる。

一方で、三菱商事会長で日本商工会議所会頭の小林健は「万博も震災復興も両方やるべきだ」と述べた。同様に語っているのは、大阪府の吉村知事や経団連の十倉会長(住友化学会長)である。

いろんな考えが当然あっていい。しかし気になるのは、どういった前提で彼らが「万博も震災復興も両方可能」と考えているかである。

報道では被災地での死者の数は日々増えている。被害の全容は、いまだ捉えられていない。つまり被害の全体像は、現時点でわれわれが知っている状態より間違いなく大きくなる。そうした被災の全容が分かるまでまだ時間がいくらかかかる。 

意思決定の元になるはずの情報がない状態で、小林や吉村や十倉はなぜ判断できるのだろうか。そこが不思議でならない。つまりは、彼らは被災地のことなど関心がないのだろう。

こうした連中は、データにもとづく合理的な判断を行おうとせず、とにかく万博を絶対やるのだ、と声高に叫んでいるだけ。これはリーダーがやってはいけないドグマ主体の最悪な意思決定のやり方である。

万博を巡っては、建設業界の人手不足と資材価格の高騰が問題になっている。そうした人手と資金を日本はいまどう使うべきかを考えるべき時ではないのか。

2024-01-06

トイレ問題とDX

報告される能登半島地震による死者の数が日に日に増えている。国や自治体、自衛隊などの力によって全力の復旧がなされているのだろうが、なかなか進んでいないようだ。今後の天候も気になる。

避難所の様子もメディアを通じて断片的ではあるが流れてくる。水や食料、生活物資が徐々に行き渡りはじめた一方で深刻なのが避難所のトイレ問題だ。住む家を失った人たちが身を寄せる場所は地域の避難所しかないわけだが、トイレが足りない。

災害用トイレの数が足りず、また使い方がよく分からない人がいたらしい。仮設トイレが運びこまれ設置が進んでいるが、まだ数は十分ではない。また避難場所になっている学校などでは断水でトイレが使えないところも多いという。

人は食べて出すことで生きている。災害があったとき、多くの人が心配するのが排泄のことだろう。それがうまく行かなければ健康を害することになるし、ストレスも増す。その場の衛生状態を確保することも難しくなる。 

国はこの数年、デジタル・トランスフォーメーションとか、なんとかトランスフォーメーションという言葉を振りかざして日本のあるべき姿を描こうとしているが、それよりまずはトイレだ。人間、満足に糞もできず、DXでもなかろう。

2024-01-05

紀信

写真家の篠山紀信が亡くなった。83歳、老衰だった。あの、林家三平風の髪型がなつかしい。

彼は学生時代から頭角を現し、さまざまな新しい写真の表現を見せてくれた写真家の一人だった。彼の仕事でわれわれの目に触れているものとしては、女性のヌードが圧倒的に多い。彼がヌードを撮りたかったのか(もちろんそこが最初だろう)、世間のニーズがそこに強く寄っていたのか。

ある女優はその被写体経験を「魂を吸い取られるような気持ち」と言ったらしい。紀信は催眠術師か、と突っこみたくなるが、人を撮る写真家にもっとも必要な才能はそこにあるのだろう。

カメラを取り扱うテクニックは当然必要だが、それだけであれば誰にでも同じ事ができる。それなのに相手の魂を吸い取る写真が撮れるのは、相手との関係を縮めるコミュニケーション力とパーソナリティか。

ある企業でマーケティングをやっていたときのことを思い出す。ある有名な女優を当時担当していたブランドのキャラクターに据えた。その広告の撮影に立ち会ったときのこと。一度の撮影でCMとスチールの両方をすます段取りで、CMの撮影が進行している最中にスチール隊がスタジオの一角で撮影の準備をしていた。

当時、広告写真の分野で第一人者といわれる写真家と数人のアシスタントがカメラの位置やライティングを決めていた。CM撮影の休憩後、スチールの撮影にかかり、僕はその一部始終を近くで見ていたのだが、その写真家はレリーズを手にしただけで、一度もカメラのファインダーを覗くことはせず、カメラ本体に触ることすらしなかった。

彼が写真家として「写真」を撮ったのは、被写体である女優と何気ない風のおしゃべりをしながらで、広告の撮影らしいと言えば、その間に最低限のポージングを指示しただけだった。数分で撮影は終わった。数日後に僕のもとに届いた写真のあがりは、納得いくものだった。

なるほど、と思った。写真家はいい写真を撮るのが仕事で、カメラの扱いが上手いかどうかの問題ではないと。

物書きでもペンを持たず、キーボードも叩かず「しゃべること」だけで本を書いている人たちがいる。建築家には自分で図面を引くこともなく、「プレゼン」だけで仕事をとる人たちがいる。有名シェフには自分で包丁を握ることもなく、「盛り付け」だけで客を集める人がいる。それらもプロフェッショナルのひとつの姿だ。 

2024-01-04

トラヴィス

正月の昼間からやけに騒がしい。アリーナから会場整備のハンドスピーカーの声が聞こえる。町のあちこちに若い女性がたむろしている。周辺のコンビニの店頭で何やら立ち食いしている。ドトールもスターバックスもタリーズもすっかり占拠されている。

スマホで今日の公演予定を調べたら、Travis Japanとある。3日から6日まで4日間、連日1日2公演だ。

Travisときくと連想するのは、マーティン・スコセッシの映画「タクシードライバー」でデ・ニーロが演じた主人公の名前だが、それと何か関係があるのかね?

ジャニーズは社名変更をしたはずだが、そのサイト名はいまだジャニーズ(www.johnnys-net.jp)のままのようだ。商売のためか。本気では反省していないみたいだな。

2024-01-03

「万国博をかんがえる会」

昨年の年末から梅棹忠夫が書いたものと彼に関する本をいろいろと読んでいる。一般には『文明の生態史観』がもっとも馴染みのある書物だろうが、文明論をはじめ、彼が対象とした研究分野は実に多彩で、膨大な業績を残している。

アジアを中心とする探検的な調査や登山はもとより、文系理系といった枠を端から超えた多くの共同研究とその成果は量質ともにめざましい。

研究者としてだけでなく、梅棹はまた優れたプロデューサーでもあった。今日読んだ本の中にあったのだが、彼は東京オリンピックが開催された1964年ごろから「万国博をかんがえる会」という私的なあつまりをもっていたという。

会を立ち上げたのは大阪万博が開催される6年も前のこと。彼を中心に集まったメンバーは、他に林雄二郎、川添登、小松左京、加藤秀俊といった俊英たちだ。

そうしたビジョナリーたちが、いわばボランタリーに集まっては万博をどのようにするか議論を重ねていたという。その結果、やがて岡本太郎をチーフ・プロデューサーとして推薦したのも梅棹だったし、また万博開催にあたっての、当時の佐藤栄作総理の挨拶や万国博協会会長だった石坂泰三の挨拶を書いたのも梅棹だった。

そうやって自ら進んで万博について考え、多くの知恵を出した梅棹はまた、その跡地に国立民族学博物館を建てるという仕掛けをしっかり計画していたという。

翻ってその55年後にまた大阪で開催されようとしている万博は、誰が中心となって構想したかというと、大阪の日本維新のあの連中である。そして、跡地に建てられるのは・・・カジノ。

1970年に「人類の進歩と調和」というテーマで開催された万博であるが、少なくとも日本、それも大阪を見る限り、進歩も調和もなされずに来たことがよく分かる。

2023-12-30

年齢ではない

「まだまだ伸びしろや改善の余地は多いと思っていますが、10代の頃と違い、意識的に取り組んでいかないと棋力を伸ばすのは難しい」と、21歳の藤井聡太八冠

「より高いレベルで勉強することが必要と考えた(だから韓国に移籍することにした)。強くて尊敬される棋士になりたい」と、14歳の仲邑菫女流棋士

ともに今年10月の発言である。

伸びる人は違う。年齢は関係ない。

2023-12-29

著作権についてのセンス

ニューヨーク・タイムズが、自社の記事を勝手にAIの学習に利用することで著作権を侵害されたとして、オープンAIとマイクロソフトを相手に米連邦地裁へ提訴した。

具体的な損害賠償金額は訴状では特定していないが、ニューヨーク・タイムズ社は「数十億ドルにのぼる」と主張している。これは日本円に直すと数千億円だ。と同時に、ニューヨーク・タイムズの著作物を利用した学習データを破棄することも求めた。

著作権で思い出したが、先日、日経BPから1冊の本が届いた。『ビジネスマンの基礎知識としてのMBA入門』という本の中国語版である。その著者献本らしい。

日本語の書籍の内容は、2011年の東日本大震災で被災した人たちを支援するため、当時の学生たちが企画した有料セミナーの講演内容をもとにしている。ぼくたち教員の何人かが講演した。

その後、その書籍化の話が出版社から出たとき、ぼくは米国に長期滞在している最中だったが、印税はぼくたちが所属している箇所に入れるという話を聞いてすぐに反対した。

分け前を寄こせというのではない。もとは被災者への支援のために行ったセミナー・イベントだ。それを文字起こしして本にするなら、その印税もイベントと同様に震災の被災者支援に向けるべきではないかと当時の研究科長に主張したのだがスルーされた。

その後は何も連絡がないまま、本は翌年に出版された。ぼくは著作権を誰かに譲った覚えはないにもかかわらず。今度は勝手に中国語版の出版だとか。

なぜそこまで著作権意識が希薄なのか。

2023-12-28

白の集団

先日、近くのコンビニに行った折のこと、そこで雑誌を立ち読みしていると、後ろを入れ替わり立ち替わり白い影が行き来するのが気になった。

振り返ると、コンビニ店のトイレに出入りする「白い」男たち。そのなりはというと、白い靴に白いパンツ、白いジャケット、そしてパナマ帽をかぶっている。

その後、近所を歩いていて分かった。その日、矢沢永吉のコンサートが近くのアリーナで予定されていたのである。

周りの風景から完全に浮き出た男女の集団がそこにあった。彼らはその「ユニフォーム」で電車に乗ってここまでやってきたのだろうかと感心。


2023-12-26

日本は、どうやって生産性を上げるか

内閣府が2022年度の日本の一人当たりGDPを発表した。それによると、日本は先進7ヵ国のなかでとうとう最低になったらしい。数年後、G7のメンバーから日本は外れ、韓国と入れ替わるかもしれない。

OECD加盟国(38ヵ国)のなかでは順位が21位まで下がった。データを遡ることができる1980年以降で初めてだ。韓国は現在22位である。

ドル建ての名目GDPを2005年のものと比較すると、日本は12%のマイナス。一方、米国は2倍になり、ドイツも1.4倍に増加している。

円安の影響が大きいといわれているが、そこに原因を持って行って安心すべきではない。今のように円が弱い状態が常態化すれば、もう原因が円安とか言ってはいられなくなる。

人口減少が続く中で一人当たりのGDPの値が下がっているということは、国の名目GDPが減少し続けているということを示している。

一人当たりGDPとは別に、労働生産性に目を向けると別の状況が見えてくる。日本は2022年、OECD加盟国のなかで過去最低の30位。ポーランドやポルトガルにも超されている。労働生産性が低いから、一人当たりのGDPが低いのも当然。ただ労働生産性が世界30位で、一人当たりの名目GDPが世界21位なのをどう解釈するか。

そこには、低い労働生産性を長時間労働でいくらか補っている、という現状が浮かんでくる。悲惨な今の日本の姿である。

生産性を上げるためには、効果的に働くこと、効率的に働くこと、たくさん働くことが考えられる。たくさん(長く)働くことを避けたいと考えるなら、前の2つしかない。実態はどうだろうか。本来はやらなくてもいいこと、あるいはやるべきではないことに対して時間や労力を注ぎ過ぎてはいないか。これまでやってきていることややり方で、既に実際上は通用しなくなっている点はないか考えてみる必要がある。

ビジネスの面で言えば、日本企業の最大の弱点は慣性に乗ったら乗りっぱなしで、別の思考をしなくなること。特に経営者が。そして一旦できた流れをとめるのが、日本の組織ではとても困難で時間がかかる。

ビジネスだけではない、政治も同じ。個々の日本人が持つ能力の問題とは別だ。

2023-12-23

映画 PERFECT DAYSにみるエピクロス的日々

「ベルリン・天使の詩」「パリ・テキサス」「アメリカの友人」「ハメット」などの沁みる映画を数々撮ってきたヴィム・ヴェンダースが日本で、日本人キャストで制作した新作が「PERFECT DAYS」である。

主演は役所広司。寡黙な少しミステリアスな男を演じている。役作りだろうか、頬がいくぶんこけ、頬骨が浮き出ていて減量のあとが窺える。映画の中であまり喋らない。とくに最初の30分で喋ったのは、いつも行く銭湯の入口でそこの主人に軽く挨拶した一言だけだった。つまり、映画のシナリオのあたま四分の一は台詞なしだった。

この映画のもう一つの主人公が、東京の公園にある公共トイレ。普通のトイレじゃない、登場するのは謂わばDT(デザイナーズ・トイレ)だ。人が中にいないときには透明で中がみえる透明トイレを設計した坂茂の作品(?)をはじめ、槇文彦、安藤忠雄、片山正通など著名な建築家やインテリア・デザイナーの手になるトイレが登場する。役所が演じる平山は、それら公共トイレの清掃を仕事とする男である。この映画は、TOILET DAYSでもある。

映画の中での小道具がなかなか渋い。平山が聞く音楽は、ミュージック・カセットだ。早朝、仕事先に向かうダイハツの軽バンでかけるカセットから流れる最初の曲はアニマルズの「朝日のあたる家」。それ以外にオーティス・レディングの「The Dock of the Bay」やヴァン・モリソンの「Brown Eyed Girl」、パティ・スミスの曲なんかもカセットから流れてきた。ちょっと狙いすぎという感じもあるけど。

主人公が毎晩、寝しなに床で手に取る本(すべて古本屋で買った文庫本)はウィリアム・フォークナー、幸田文、パトリシア・ハイスミス(「アメリカの友人」の原作者だ)。これもいい感じ。

そうしたなかで僕が一番気に入った場面は、主人公の平山が週末だけ行く近くのスナックでのシーン。石川さゆりがママを演じている。平山は彼女に気がある。彼女も彼にまんざらではない様子。その店のなかで、彼女が客(あがた森魚!)のギターで「朝日のあたる家」を歌うシーンがいい。日本語バージョンのこの曲を初めて聴いた。新鮮な印象。演歌だ。すごくいい。

映画の中では、平山の目とカメラの両方を通して木漏れ日が描かれる。何度も、何度も。その一瞬のきらめきや儚さを通して、移りゆく自然と揺れる人の気持ちを表しているのだろうか。彼が隅田川の川縁で、三浦友和演じるスナックのママの元夫と「影踏み」に興ずるシーンもそこに通じている。そうした光と影、陰影の使い方がヴィム・ヴェンダースらしいが、黒澤の「羅生門」を連想させもした。

日本映画の巨匠とのつながりで言えば、ヴェンダースが小津安二郎の信奉者で、そして舞台が東京、主人公が初老の男性、だからといってこの映画に小津の影を無理矢理に見る必要はないと思う。評論家の先生たちの多くは、映画通らしくそのあたりをみな強調しているけど。

映画の終盤、彼の妹がアパートを訪ねてくる。そこから、彼が実は鎌倉に住むかなりの資産家の家の人間であり、父親との相克から家を継がずに出て行って今に至っているらしいことが分かる。主人公が寡黙で、自らを表に出そうとしない所以はそこにあった。表と裏、光と影、象徴としての木漏れ日の光の揺らめきがつながってくる。

ギリシャの哲学者エピクロスは、「隠れて、生きよ」(断片 その二86)と書いた断片を残したが、これは姿を世間から消すとか隠遁することではなく、自らの心の中の幸せと平穏だけを求める生き方のこと。

エピクロスが別の断片で残した「 幸福と祝福は、財産がたくさんあるとか、地位が高いとか、何か権勢だの権力だのがあるとか、こんなことに属するのではなく、悩みのないこと、感情の穏やかなこと、自然にかなった限度を定める霊魂の状態、こうしたことに属するのである」(断片 その二85)という生き方であり、本作で役所が演じた平山の生き方そのものである。あるいは、エリック・ホッファー的ホーボー的生き方といってもよい。

映画のタイトルのもとになっているのは、ルー・リードのPERFECT DAY。この曲は、デュラン・デュランなんかもカバーしていた。

2023-12-22

これは構造的な問題、つまり経営の問題である

山田養蜂場から手紙が届いた。ずいぶん前だが、一度、そこからハチミツを購入したことがあったからだろう。文書の内容というと、個人情報を流出させたことへの説明とお詫びだ。流出した件数は、ぜんぶで405万件。驚く数字だ!

経緯はというと、山田養蜂場が仕事を委託した先の(株)NTTマーケティングアクトProCXが、その仕事を関連企業のNTTビジネスソリューションズ(株)を下請けとして再委託。で、そこで働く派遣社員が客の個人情報データを持ち出した。

NTTマーケティングアクトProCXからNTTビジネスソリューションズに仕事が回された時点で、委託経費は中抜きされて削られている。そして、実際の現場の業務はというと、時給で働かされる派遣社員がすべて任されてやっているという構図だろう。

NTTの2社の社員は自分ではほとんど手を動かさず、クライアントである山田養蜂場からの支払いを手にしているわけだ。

そこに派遣されて、何の権限も与えられず、ただ命令されたことをその通りにやらされている派遣社員。彼(女)がやったことは犯罪であることは間違いないが、気持ちを推測して理解することはできる。

下請け(関連企業)に仕事を回すだけの「NTTマーケティングアクトProCX」なんて、そのご大層な社名が恥ずかしくないのかね。私はとても恥ずかしいと思う。

2023-12-21

イチローにとっての「自己肯定感」とは

元メジャー・リーガーのイチローが、自己肯定感について次のように語っていた。

自己肯定感という言葉、目にしたことなかったです。イメージですけど、すごく気持ち悪い言葉です。自己肯定でしょ。いや~、気持ち悪くないですか。

自分を肯定するのは、僕は凄く抵抗があります。僕の場合は疑問符をつけてます。自分がやったこと、やろうとすることに。これが強い人って、ストレスフリーで楽しそうに仕事するみたいな感じですか? それってどうなんですかね。いいなって思うけど、その人たちは人としての厚みが生まれるんだろうか。瞬間瞬間はいい仕事ができるんだろうけど。明らかにダメなのに否定されない。自分でもいいことしか振り返らない。第三者からも指摘されない。僕は堕落すると思いますけどね。

人が最悪になるときって、自分が偉いって思ったとき。最悪というか魅力的じゃない。それが生まれるんじゃないかと。これが強すぎる人は。

自分の軸をしっかり持っている人は、やはり違う。

自己肯定感って、いつからか当たり前のような考えになっているけど、確かになんだか気色悪いと思っていた。それが何だったか、イチローさんに教えてもらった感じだ。

彼はアスリートであって思索家というわけではないはずだが、一流の人間は物事の本質を直感的に感じる回路を持っている。

nikkansports.com から

2023-12-18

ここにも正気をなくした指導者がいる

パレスチナのガザ地区で、捕虜になっていたイスラエル人3人がイスラエル軍によって誤って射殺された。

その一人は、棒の先に白い布を付けた「白旗」を掲げていたにもかかわらず撃たれた。一体、これはどういうこと?

イスラエルのネタニヤフ首相は、それでも攻撃を止める気はないという。

かれは、歴史上に21世紀のヒットラーとして名を残したいのか。 

イスラエル国内でも、戦闘を止めて、交渉により人質の解放を優先するべきだと訴える大規模なデモが行われたらしいが、当然だろう。

2023-12-16

電車に一礼

宝塚歌劇団による団員への長時間労働や上級生から下級生へのイジメがとりだたされている。旧態依然とした古い体質の組織にはありがちだが、報道を見るにつけこれほどまでとはと驚いてしまう。

とりわけ仰天したのは、阪急電車が走っているのが見えたら、その電車に向かってお辞儀をしなければいけないという決まり。数年前に強制ではなくなったらしいが、それまで何十年にわたる不文律の伝統だった。

ぼくが仰天したと云ったのは、劇団員がそれを長年やらされていたことはもとより、それを当然のことと思って見ていた周囲の関係者たちの存在である。

歌劇団にはその団長をはじめ、制作や運営に関わる大勢の人たちがいるはず。運営元の阪急電鉄、その親会社の阪急阪神ホールディングスにも大人はいるだろう。スポンサー企業にもファンクラブにも、それぞれいい歳をした大人がたくさんいるはず。

周りのそうした大人たちは、この奇妙な習慣をどう見ていたのか。それがタカラヅカらしい、美しく、麗しい振る舞いだとして目を細めながら見つめていたのだろうか。

2023-12-15

かつて目の上のタンコブだった人たち

先日、このブログで団塊の世代の人たちのことをいささか揶揄することを書いたら、その世代である知り合いから「実はね、私もそこにいた一人で・・・」という連絡が来た。いやあ、参ったなー。そんなつもりで(じゃあ、どういうつもりだ!?)書いたんじゃないと苦しい言い訳をした。

20代のころから、僕たちにとっては団塊の世代は目の上のたんこぶのような存在だった。大きな塊が頭の上にのっているようでジャマだったのだ。

何をやろうとしても彼らの大群が前に立っていて、その数の勢いで後進であるわれわれは道を塞がれているような閉塞感を感じていた。今思えば、それはただ自分たちの力量が足らなかっただけなのだけどね。 

そうした数が多く、バラエティに富んだ人たちがいた団塊の世代のなかで、この前書いたコンサートの会場にいた人たちはある種特殊な部類だ。まずその特徴は、どこかで50年前の自分を引きずっている連中で、それゆえか世間的、特に経済面という枠の中では決して成功したタイプではない。

少なくとも若い頃、当時の世の中に異論を唱え、それを声に出していた人たちだと思う。だが、1947〜49年の3年間に生まれた人たちだけで800万人を超える塊のなかでは、それらはやはりマイノリティだった。

多くは高度経済成長期の波に乗るために既成権力に寄り添い、伝統的な日本の企業社会のなかに当たり前のように入っていった。「ニュー・ファミリー」なんて言葉も彼らを中心的な対象として生まれた。「24時間働けますか」で組織に飼われ、丸抱えにされ、横並びでマイホームを購入し、体制と寝続けた連中である。

それらに違和感を感じていた人たちもいて、そうした人たちは滅私奉公もしない代わりにカイシャではあまり評価されず、出世もそれほどせず生きてきた。だから高級車や海外ブランドやフレンチ・レストランには縁がない。その代わり、自分なりのスタイルと価値観を大切にしながらしっかり生きてきた。

ひとまとめにするのは乱暴かも知れないが、先日のコンサートで僕の周りにいた人たちは、そうしたタイプの代表的な一群だったんだ。

2023-12-14

さほど難しいことは何もない。大抵の場合は

先月、企業は退会していく客をどう扱うかについてこのブログに書いた。https://tatsukimura.blogspot.com/2023/11/blog-post_20.html

そのときは、長年利用していたNHKオンデマンドというサービスを事情があって退会したときの経験を取り上げた。NHKがあまりにお粗末な、少なくとも顧客を軽視し、自らの将来のビジネスを自分の手で閉じてしまう発想をしていたからだ。

そうしたらNHKから、その後アドバイスに従って手続きを改めたと言われた。僕自身はもうそのサービスの利用者ではないし、利害関係もない。ただ、こうして少しでも世の中のサービス対応が改善されるのは好ましい。

こうした変更にはたいしたコストがかかるわけではない、また手間もさほどかからない。内容は、意思決定者が顧客の身になって考えればわかる常識的なことを組織として常識的にやれば済むこと。世の中を見回せば、できない方がおかしいと思われることがほとんどである。

顧客の身になって経験する、感じる、考える。そこでおかしいと思ったことをすばやく改善していく。それだけで顧客との関係が歴然と変わる。それが企業にとっての顧客価値の向上につながる。つまり当たり前の事を当たり前にやるだけなんだけど、それが企業にとっての将来の成否を分ける。

2023-12-10

確かに壮大ではある「ナポレオン」

この映画を観ていると、ホアキン・フェニックスがそのままナポレオンに思えてくる。もう彼以外にナポレオンはいないほどに。それほどまでにフェニックスの見せる造形は深く、見る者をその世界に引き込む。

映画「ナポレオン」は、86歳のリドリー・スコットがおそらく長きにわたってその製作を構想していたに違いない一作。

金のかけ方が半端ではない。それもCGとかそういった先端技術への金のかけ方ではなく、もちろんそうしたシーンもかなりあるが、驚かされるのはエキストラの数とその質である。そこには登場する多数の見事な馬たちも当然含まれる。

むしろ今ならCGでやれば何でもできるものを、広大なセットと同時撮影する何台ものカメラ、それを扱う撮影スタッフ、演出の行き届いたエキストラたちと訓練された馬たちで戦闘シーンを描く監督の力量だ。

物語としては、フランス人兵士たちが全員英語をしゃべるのが観ている途中で気になって、気になって。あまりに自然で見事な英語だからなおさら。その瞬間、やはり映画、絵空事、との思いが頭をよぎったのが残念というか、もったいない。

個人的には、同監督の作品でいえば「グラディエーター」の方が没入感も陶酔感も優っている。なぜだろうと考えた。それは、先にも書いたホアキン・フェニックスのナポレオンではなく、この映画の中で描かれた彼の妻、ジョセフィーヌの役柄と存在へ感じた違和感のような気がする。

2023-12-09

この国の未来が明るくないわけ

ひと月ほど前になるが「「民度低すぎ」歌舞伎町・刺されたホストを応急処置した男性が語る真実、見て見ぬふり異様現場と誹謗中傷」という長いタイトルのニュース記事を目にした。

新宿歌舞伎町の路上で、女性にホストが刺された。たまたま、そこに医師免許をもつ男性が居合わせ、彼は周囲の人に救急車を呼ぶよう要請したあと、その場で倒れた男に対して応急処置を施すことになった。

彼はその時のことを振り返り、こう語っている。

救急車については他の方も呼びかけていたためか比較的早くに動き出してくれましたが、ほかは……。私が男性の安全確保をした後に、“AEDを持ってきてください!”と言っても、みなスマホで撮影を続けていました。(「あなたにお願いしますと」)その場にいた人を指名しても、自分を指してるのかとキョロキョロするわけでもなく、無視してスマホのカメラを向けてきて……
https://news.yahoo.co.jp/articles/cc79d214d7d69be3f604a25aeab2acd2338a2612より

これを読んだとき、現場の風景が見えるようで吐き気がした。

午前1時半の歌舞伎町にいたほとんどは、10代、20代の若者だろう。遊び疲れて、普段以上に思考能力も判断能力も衰えている彼らには、目の前の惨劇もしょせんは他人ごと。おのれに痛みがなければOKで、あとはどれだけその場を「楽しむ」かだ。

その時ばかりは、ビリー・ザ・キッド顔負けの早業で拳銃ならぬスマホをポケットから取り出し、すぐさま撮影に入る。気分はもうSNSのレポーターだ。応急処置をしている人からの「誰か手伝ってください」という声が聞こえても、端から頭には入らぬ。「おれ、カンケーねえから」

これは社会心理学でbystander effectと呼ばれる集団心理のひとつ。bystanderとは脇に立つ人、つまり傍観者。なぜ、傍観者は自ら行動しようとしないのかについては、次のような3つの理由が考えられる。

  1. 多元的無知:他者が積極的に行動しないことによって、事態は緊急性を要しないと考える

  2. 責任分散:他者と同調することで責任や非難が分散されると考える

  3. 評価懸念:行動を起こした時、その結果に対して周囲からのネガティブな評価を恐れる

誰もがこうした心理になるというわけではないが、ここで示されている「他者と同調する」や「周囲からのネガティブな評価を恐れる」は、とりわけ日本人の特性と合致しているだけに根が深い。

アメリカの慈善援助財団が調査したところでは、「最近、知らない人や困っている人を助けたことがあるか」という問いに対して「はい」と答えた日本人は21%。調査した142ヵ国で最低の数値だった(2023年)。下のグラフが示すとおり、アメリカやドイツ、韓国、英国などは半数以上が「はい」と答えているのと対照的だ。

銀杏の葉が風に舞う


キャンパスで

2023-12-08

岡林のデビュー55周年のコンサート

昨日、江東区のホールでコンサートがあった。午後5時半開場、6時開幕とかで、やけに時間が早いなと思っていたが、会場に着いてすぐに納得した。

仕事帰りで書類カバンを持っている客なんてのは、周りを見回してもぼくだけだった。他の観客は無職の(たぶんね)ジジとババばかり。だからこんなに早くったって、まったく平気。むしろ年寄りだから、終演後に早く帰れるように開幕時間が早く設定されている(たぶんね)。

客の8割以上はぼくより年長。その多くは団塊の世代だろう。それにしても、判を押したように着るものに無頓着なのが情けない。ひと目でユニクロと分かるシャツと安物のダウンジャケット。そして下はくたびれたジーンズ。

クラシックやオペラのコンサートではないのでそれで構わないのだが、それにしてもである。少しくらいはお洒落に金を使わないのか。もし金がないとしても、ならば気を遣うようにすれば少しはなんとかなる。冴えない団塊の世代の連中に囲まれた、いささか悄然とし裏さびれた夜だった。 

コンサートは、岡林が一昨年出したアルバム「復活の朝」がすごく良かったので、生の歌が聞きたくて出かけた。77歳だというが、しっかり昔通りの声で歌を聞かせてくれた。

2023-12-07

パーティー=パンツ説

パーティーによる自民党議員の裏金作りの追及を受けて、岸田首相がすべての派閥パーティーの開催自粛を指示した。

これは、あきらかな問題のすり替え。対応しなくてはならないのは、そういう事ではないはず。

それで思い出したのが、勝新の「もうパンツをはかない」発言だ。

1990年、勝新太郎がハワイ・ワイキキの空港でマリワナとコカインを所持していたことで捕まった。それらを下着に隠して日本に持ち帰ろうとしたのを見つけられたのである。

現地で記者会見が開かれたとき、勝は「なぜ、パンツの中に入っていたかわからない。今後は同様の事件を起こさないよう、もうパンツをはかないようにする」とコメントした。

彼らしい「名(迷)セリフ」である。みんな笑った。名役者らしい「芸」があった。

岸田首相も国民を目くらまそうとするなら、少しは見習ったらどうだ。

2023-12-06

130億年前を示す画像

NASAのジェームズ・ウェッブ宇宙望遠鏡での観察データをもとに、東大宇宙線研究所などが120〜130億年前の巨大ブラックホールの存在を突き止めた。

 
そうした気が遠くなるほど昔に発せられた光が、いま地球に届いたことでそれらブラックホールの存在が確認できた。遠大さに目眩がしそうである。

さらに驚く話として、今回発見されたブラックホールの重さというのは、太陽の100万倍〜1億倍と発表された。太陽の1億倍の重さって、なんなんだ!

最近のニュースによると、この国の官房長官がパー券収入から1,000万円分を自分のポケットに入れていたということらしいが、そうした小さな小さな根性が情けなくなる。

2023-12-05

キックバッカーズ

自民党の各派閥が「パーティー券」がらみで政治資金規正法違反の嫌疑をかけられている。

このパー券とやら、議員は販売のノルマを課せられており、それを超えて「頑張った」議員には超過分がキックバックとして支払われる仕組み。

キックバックというのは古くからある慣習だが、ぼくが知る限りそれは商売のうえの言葉であり、政治の世界がやることじゃない。彼らは金と利権だけしか頭にない政治屋だから仕方ないか。


それにしても、よくこれだけ国民を愚弄にした会見が開けるものである。この国ではこうした為政者によって、国民やメディアが完全にバカにされている。だが、そもそもそうした連中を選んだのも、われわれ国民(の一部)だからナ。情けなくなる。

We are Kickbackers

2023-12-02

カミュ

先日、学生たちとの呑み会が高田馬場であった。秋に担当した授業の打ち上げで、受講した学生とゲストで来てもらった学外の人たちも一緒に集まった。

ビールやワインのグラスなどを手に話題はあちこちへ飛ぶ。そんななか、ある学生が、私にむかって純粋の日本人に見えないがどこか他の国の血が入っているのですかと。

それに他の学生らも反応し、彼らもそう思っていたと首を縦にふる。まいったなー、と思いながら、どんな血が入ってると思うかと問うてみると、その学生、しばらく考えて「北アフリカの、アルジェリア辺り出身のフランス人」という。

これまでも中東のどこか、とか中南米のどこか、と言われたことは多いのだが、ここまで具体的に表現されたのは初めてだ。頭の中に、カミュの名前が浮かぶ。

アルベール・カミュ

企業に勤めていたときのことだからずいぶん昔のことになるが、一緒に出張で大阪に来ていた仕事仲間と、その日の段取りを打ち合わせておこうと宿泊先のヒルトンホテルで朝食の席についたときのこと。

テーブルにやって来たウエイターが、まず向かいに座っていた彼女にコーヒーにするか紅茶にするか訊ねた。そのあと、彼はぼくにむかい、Coffee or tea, sir? と英語で聞いてきた。

彼女は大笑いし、その日1日機嫌が良かったように思う。外国人に間違えられたのは嬉しいことではなかったけど、何か少しだけ人の役に立ったような気がした。