先日、このブログで団塊の世代の人たちのことをいささか揶揄することを書いたら、その世代である知り合いから「実はね、私もそこにいた一人で・・・」という連絡が来た。いやあ、参ったなー。そんなつもりで(じゃあ、どういうつもりだ!?)書いたんじゃないと苦しい言い訳をした。
20代のころから、僕たちにとっては団塊の世代は目の上のたんこぶのような存在だった。大きな塊が頭の上にのっているようでジャマだったのだ。
何をやろうとしても彼らの大群が前に立っていて、その数の勢いで後進であるわれわれは道を塞がれているような閉塞感を感じていた。今思えば、それはただ自分たちの力量が足らなかっただけなのだけどね。
そうした数が多く、バラエティに富んだ人たちがいた団塊の世代のなかで、この前書いたコンサートの会場にいた人たちはある種特殊な部類だ。まずその特徴は、どこかで50年前の自分を引きずっている連中で、それゆえか世間的、特に経済面という枠の中では決して成功したタイプではない。
少なくとも若い頃、当時の世の中に異論を唱え、それを声に出していた人たちだと思う。だが、1947〜49年の3年間に生まれた人たちだけで800万人を超える塊のなかでは、それらはやはりマイノリティだった。
多くは高度経済成長期の波に乗るために既成権力に寄り添い、伝統的な日本の企業社会のなかに当たり前のように入っていった。「ニュー・ファミリー」なんて言葉も彼らを中心的な対象として生まれた。「24時間働けますか」で組織に飼われ、丸抱えにされ、横並びでマイホームを購入し、体制と寝続けた連中である。
それらに違和感を感じていた人たちもいて、そうした人たちは滅私奉公もしない代わりにカイシャではあまり評価されず、出世もそれほどせず生きてきた。だから高級車や海外ブランドやフレンチ・レストランには縁がない。その代わり、自分なりのスタイルと価値観を大切にしながらしっかり生きてきた。
ひとまとめにするのは乱暴かも知れないが、先日のコンサートで僕の周りにいた人たちは、そうしたタイプの代表的な一群だったんだ。