写真家の篠山紀信が亡くなった。83歳、老衰だった。あの、林家三平風の髪型がなつかしい。
彼は学生時代から頭角を現し、さまざまな新しい写真の表現を見せてくれた写真家の一人だった。彼の仕事でわれわれの目に触れているものとしては、女性のヌードが圧倒的に多い。彼がヌードを撮りたかったのか(もちろんそこが最初だろう)、世間のニーズがそこに強く寄っていたのか。
ある女優はその被写体経験を「魂を吸い取られるような気持ち」と言ったらしい。紀信は催眠術師か、と突っこみたくなるが、人を撮る写真家にもっとも必要な才能はそこにあるのだろう。
カメラを取り扱うテクニックは当然必要だが、それだけであれば誰にでも同じ事ができる。それなのに相手の魂を吸い取る写真が撮れるのは、相手との関係を縮めるコミュニケーション力とパーソナリティか。
ある企業でマーケティングをやっていたときのことを思い出す。ある有名な女優を当時担当していたブランドのキャラクターに据えた。その広告の撮影に立ち会ったときのこと。一度の撮影でCMとスチールの両方をすます段取りで、CMの撮影が進行している最中にスチール隊がスタジオの一角で撮影の準備をしていた。
当時、広告写真の分野で第一人者といわれる写真家と数人のアシスタントがカメラの位置やライティングを決めていた。CM撮影の休憩後、スチールの撮影にかかり、僕はその一部始終を近くで見ていたのだが、その写真家はレリーズを手にしただけで、一度もカメラのファインダーを覗くことはせず、カメラ本体に触ることすらしなかった。
彼が写真家として「写真」を撮ったのは、被写体である女優と何気ない風のおしゃべりをしながらで、広告の撮影らしいと言えば、その間に最低限のポージングを指示しただけだった。数分で撮影は終わった。数日後に僕のもとに届いた写真のあがりは、納得いくものだった。
なるほど、と思った。写真家はいい写真を撮るのが仕事で、カメラの扱いが上手いかどうかの問題ではないと。
物書きでもペンを持たず、キーボードも叩かず「しゃべること」だけで本を書いている人たちがいる。建築家には自分で図面を引くこともなく、「プレゼン」だけで仕事をとる人たちがいる。有名シェフには自分で包丁を握ることもなく、「盛り付け」だけで客を集める人がいる。それらもプロフェッショナルのひとつの姿だ。