2012年11月11日

木下恵介の映画

リンカーンセンターで、先週の水曜日から木下恵介監督の映画15作品が上映されている。今夜は、「陸軍」と「二十四の瞳」が上映された。

「陸軍」は、製作年が戦時中の1944年となっていたので、戦意高揚の映画かと訝しがりながら劇場を訪れた。しかも冒頭のクレジットで、「陸軍省後援」と映し出される。映画は、少年の頃から体が弱く、また気弱で母親からいつもはっぱをかけられていた少年がやがて志願して戦地へ出征する物語である。

だが、陸軍省の思惑は完全に外れたようである。当時の世間の風潮と軍部の管理統制のもとでも、木下は彼らしいセンチメンタリズムと反戦への気持ちを映画に見事に織り込んだ。ラストシーンでの田中絹代が演じる母親が涙をそそう。

もう一つの方は、壺井栄の小説を映画化したもの。1954年の作品で、高峰秀子が主役の大石先生を演じている。彼女も素晴らしい。黒澤が男を描くのが得意だったように、木下は女を描くのがほんとうにうまい。

冒頭、岬の分教場の女先生として師範学校を出たばかりの大石先生が赴任してくる。島(小豆島)の子どもたちは、早速「大石、小石。大石、小石」とはやし立てる。英語字幕は "Miss Big Stone, Miss Pebble. Miss Big Stone, Miss Pebble." で、これでは意味不明である。字幕翻訳は難しい。

壺井栄が『二十四の瞳』を書いたのは1952年。彼女が52歳の時であり、この作品で人気作家になった。彼女は同郷の壺井穣治が早大の英文科に入学すると自分も上京し、1925年に学生結婚をしている。若かった頃の彼らの生活は貧困を極めていたようである。夫がアナーキズムからマルキシズムに移行し、やがて治安維持法によって逮捕されたりしてるのだからもっともだろう。

彼らが住んでいた長屋には林芙美子や平林たい子が隣家にいたという。手塚治虫や石森(石ノ森)章太郎、赤塚不二夫ら優れた漫画家たちが住んでいたアパート、トキワ荘を連想させる。

嵐山光三郎は、壺井について「栄が書く小説は、一見平凡に見える生活に庶民のしたたかな知恵があり、ユーモアがあふれ、希望があり、故郷を深く愛しています。「思想の文学」ではなくして「生活の文学」なのです」と書いている。

『二十四の瞳』で主役の大石先生を演じた高峰秀子は5歳から子役として働き続けて(義母によって働かされ続けて)いたわけで、そのため小学校も出ていないことをその後後悔していたという。基礎的な学校教育すら受けていないので、年をとった後も数の計算が苦手だったらしい。

しかし、彼女は55歳で女優を引退してから、文筆家として数々の本を著している。どれも高峰秀子ならではの確かな眼差しとしなやかな文章である。日々の生活を見つめるなかから気づき、得るさまざまな知恵があふれている。

『二十四の瞳』の中に登場する12人の子どもたちの中にも、別の理由(貧困と家庭の理由)から高峰同様に小学校すら途中で諦めなければならなかった子どもたちが何人も描かれている。当時はそうした時代だったのだろう。

先日、大学の新設申請を田中文科大臣から不認可とされた新設予定の大学の学長や理事長らが、それに対して「学生たちの将来を潰すのか」と反論していたのを思い出した。まあ、経営責任を負っている連中の反論のための表現であろうが、メディアがそのまま同じ論調で同調するのはよした方がよかった(自分でものを考えていないのがばれてしまうからね)。

文科省や大臣を突き上げたい気持ちは分かるけど、僕はさっきの言葉には大きな違和感を感じている。新設予定の3大学がどうということではなく、一般論として日本では学生にはいくらでも進学の選択肢があり、また自らが学習する意欲があればたいていのことはどうやってでも学ぶことはできる。日本で、特定の大学に進学しなければ学べないものなどあるだろうか。ない。

Film Society of Lincoln Centerは、先の2作品のレビュー(批評)において、主役を演じた田中絹代と高峰秀子について、それぞれ the boy’s mother, the great Kinuyo Tanaka、a new teacher (Hideko Takamine, magnificent)  といった表現で称賛している。

『二十四の瞳』