2025年1月18日

生成AIの説明能力

生成AIがオフィス・ワークに急速に取り入れられていて、会議の議事録をまとめたり、販売データをもとにした報告用の資料なんかをあっという間に作ってくれたりする。

AIは文章でも図表でも、たじろぐことも戸惑うこともなく作成する。その全能感を漂わせるアウトプットのスピードに、オフィスで働く人たちは使い慣れると手放せなくなるに違いない。

ただし生成AIには、まだまだときおりギョッとさせられる。たとえばデータの解釈だ。

見せかけの相関のなかには、いろいろと笑わせてくれるものがあるが、以下のマーガリンの消費量と離婚率の推移もそのひとつ。グラフによると2000年から2009年にかけて、マーガリンの消費の減少トレンドと離婚率の減少トレンドが0.99という強い相関を示してる。

これを生成AIに説明させると、以下のような解釈がなされる。

おそらく、マーガリンの使用量が減るにつれて、人間関係もギクシャクしなくなったのだろう。人工的なスプレッドがないため、カップルがお互いにバターを塗り合うことがなくなり、全体的な夫婦喧嘩の減少につながったのかもしれない。バターでないことが信じられない現実、それは夫婦関係の成功の秘訣なのだ。あるいは、マーガリンの消費量が減るにつれて、全体的なヌルヌル状態も減り、パートナーが結婚生活をうまくコントロールできないと感じるケースが減ったということも考えられる。

おもしろい。新説である(だが意味不明)。ひょっとしたらこんな考え方もあるかも、と思うことで発想の幅を広げる役割を果たす可能性も考えられるかもしれない。

ここまで解釈がぶっ飛んでいると、さすがに小学生でも変だと気づくけど、そうじゃないAI作成の文章で専門家でも見紛うものがネット上を中心にいくらでもある。人が書いたのか、AIが書いたのか、多くの場合、その判別がつかなくなっている。

結局、今のところは説明の内容をどう判断するかは人の知識と経験、それにセンスに頼るしかない。

それこそ何でもAIに代わりに考えさせていると、ヒトの頭脳はあっという間に判断能力を失い、機械に乗っ取られてしまいそうだ。

2025年1月17日

「30年以内に80%程度」の分かりづらさ、いい加減さ

これまで、「30年以内に70〜80%」と言っていた南海トラフ地震の発生確率を、政府の地震調査委員会が「30年以内に80%程度」と変更した。

この変更から我々が感じることは、以前よりさらに地震が来る確率が高くなったということだろう。この変更は、新しいデータをもとに検討しなおした結果らしいが、どういったデータをどのように分析すればそうした数字が出てくるのか公表されていない。

「30年以内に80%程度」とは、あした南海トラフで大地震が起こることと、30年経っても何も起こっていないことの両者を含んでいる。これって、どれだけ意味があるのか?

「30年以内に80%程度」と言っている地震学者たちは、30年後にはもういないんだろう。たとえ生きていても、もう研究の表側から消えている。30年後、地震も何も起こらず、彼らが見つかり引っ張り出されることがあったとしても、「20%の確率で起こらないことを示している」と言えばそれで済む。

30年以内の発生確率を数字で言うのだったら、一緒に10年以内、5年以内、1年以内の発生確率も言ってみろと思う。科学的な視点からは、30年先の未来を予測するより、この先1年を予測する方がずっと容易なはずだ。

それをやらないのであれば、そもそも具体的な準備に役立つわけでもなく、また検証しようもない確率をさも科学的な衣を着せて発表するのはやめた方がよい。

こんなことやって、研究予算や防災予算を獲得している連中だけが納得し、ほくそ笑んでいるような気がする。

地震はいつ起きても不思議ではない。だから、つねに起きたときのことを考えて備えておく。結局は、これしかない。

2025年1月15日

女性は金塊がお好き

日本のある新聞社のウェブサイトに並んだ2つの記事。

並べて載せているのは偶然か意図したものか分からないが、どちらも女性による犯罪事件で、「金塊」にまつわるものだ。

ついマリリン・モンローが主演した、ハワード・ホークス監督の古いハリウッド映画を思い出した。

『紳士は金髪がお好き』
 
それにしても、ビットコインなど暗号資産(仮想通貨)の時代に実物の金塊とは! あのズシリとした重さと眩しい輝きに(ある種の)女は引かれるのかね。片や20キロ、もう一方は10キロときた。

2025年1月10日

スポットワークという働き方

明日の午前中だけとか、お昼過ぎから午後の遅い時間までといったちょっとしたスキマ時間(空き時間)を使って仕事をするのをスポットワークと呼ぶらしい。

要はスマホのアプリを使ってのマッチング・サービスというだけで、昔から学生が授業のない時間をバイトに費やしていたのと何ら違いはない。が、どうもバイトするのは今は学生だけではないそうで、定職をもつ30代から40代がその働き手というパターンである。そこは変わった。

リモートワークで会社に行く必要がないので、うまくやり繰りして時間をつくり、数時間だけ働いて小銭を稼いでいる、というイメージだ。仕事は物流、飲食、小売りなどの業界が多い。

どこも人手が足りていない世の中らしいので、こうした働き手も企業や店側にとってはありがたいわけだ。 

ただし、「スポットワークがお試しとなり、適職にたどり着く手段にもなりうる」とか「個人が仕事との向き合い方を再考し、組み立て直す糸口にもスポットワークはなる」といった一部の識者の考えには僕は同意しない。

空いた夕方の2時間を時間給でもって近くの飲食店で働いたのがきっかけでその道に目覚めました、っていうのがあってももちろん構わない。だが、ふつう仕事ってそんなもんじゃないだろうと思う。

そんなことより個人的には、飲食店でメニューについて訊ねてもまともに答えられなかったり、小売店で商品の棚の場所を聞いても何も案内できない店員が最近増えたと感じるのは、彼らがスポットワーカーだからなのか・・・と、そっちの方が気になる。

そもそも、そのスポットワークをやりたくてやっているのなら別だが、本来なら企業の中堅である30代〜40代のサラリーマンが技能も経験も不要だからという理由でスキマバイトをやっているのは残念なこと。

空いている時間があったら、ちゃんとした本を読む、思索を深めるなど自分の内面を磨き、高めることに時間とエネルギーを投資した方が、目先の小遣い稼ぎをやるより結局ははるかに大きなリターンが得られるのは間違いないのだから。

こうした投資についての基本的な考えを持っているかどうかが、人生の質を左右する。

2025年1月7日

年賀状は続く

日本郵便によると、今年の元旦の年賀状の枚数が昨年比で34パーセント減、3年前と比べて半数以下になったらしい。

ここ数年、毎年「今年で年賀状じまいします」という年賀状が増えた。面倒くさくなるんだろうな。そうやって、届く枚数も減っている。

それに呼応してこちらから出す年賀状の枚数も少なくなる。もうずいぶん前からだが、年賀状は手書きだ。表面の宛名書きも手書きだ。以前は年賀状ソフトで宛名を印刷していたけど、手書きしてもたいして時間がかかるわけじゃないから。

もう50年近く、年賀状だけでつながっている友人がいる。彼は、小中学校での同級生だった。高校は別の学校に進んだが、夏休みなんかは皆で集まって一緒に遊んでいた。

彼に会った最後の記憶は、彼が18になりすぐ免許をとったというので、彼の運転する車に小中学校時代の同級生たちと乗り込み、免許とり立ての危なっかしい運転で山道をぶっ飛ばしたこと。ガードレールもない田舎の山道で、死ぬかと思った。

高校を卒業し、彼は地元の電力会社に就職し、僕は大学に行くため東京へ出た。それきり会っていない。48年前のことである。

お互いまだ生きているが、もう昔の面影といったものはないかもしれない。けれど、年賀状のやり取りだけは今も続いている。会っても顔が分からないかもしれないし、会うこと自体ないかもしれないからこそ、年に一度の年賀状がお互いに必要な気がする。顔は分からなくても、彼の筆跡は分かる。

2025年1月4日

今ではおっさんは僕の方だった

毎年、年の初めに書斎のスチール・キャビネットのなかを整理する。使うことがなくなり、奥に追いやられたままのバーティカル・フォルダを取り出し、新たなテーマ・フォルダと入れかえるためである。

今年引っ張り出したフォルダの中から、古い名簿が出てきた。それは、僕が20代半ばだから40年くらい前のものだ。当時勤めていた広告代理店が社員に配ったものである。

そこには約1300人ほどの社員の顔写真と名前が印刷されている。掲載されているのはそれだけで、所属も役職も勤務地もない。それが人数分、名前の五十音順に並んで印刷された冊子になっている。

完全に忘れていた。ページをめくると、懐かしい、40年ぶりの顔が並んでいる。僕は30歳でその会社を辞めて転職したのだけど、社会人としての基礎をそこで教えてもらった。

当時、「あのおっさん」と思っていた人たちが、今見るとみな若い。今の自分の方がはるかに歳を取っているのだから当然なんだが。

そこに収められている半分とは行かなくても、三分の一くらいの人はもういないんじゃないかとふと思ったりして。

写っているのはみんな、履歴書か免許証に載せるような正面からの真面目なショット。そのなかで1人だけ、1300人のなかでたった1人だけ45度くらいの角度から顔だけこちらに向けている写真があった。ほかでもない、自分だった。

ページをめくっていると、どこかで会ったような顔が目に止まった。自分がその会社にいたときには出会ってない人のはずだけど。

優しそうな目元が、昨年10月に亡くなった漫画家の楳図かずお(本名 楳図一雄)さんによく似ている。名前も一文字違いだ。


ネットで調べたら、弟さんだった。ただそれだけなんだけどね。

2025年1月2日

正月早々からブラックジョークか

元旦の日本経済新聞、特集ページ「ニッポン2025」のリードである。

2050年は働けるまで働く「生涯現役」が常識となる。医療技術の進展により、健康で長生きする高齢者が増える。人工知能(AI)活用で、自分の能力が活かせる職場が摩擦なく見つかる。定年による労働市場からの一斉のリタイヤは過去のものとなり、誰もが能力と意欲に応じて、溌剌と社会に貢献する未来が訪れる。

「溌剌と社会に貢献」に、正月早々アホかと苦笑いしてしまった。どういった根拠でこんな荒唐無稽で、かつ身も蓋もない<未来>を勝手に決めつけるのか。

またその記事中に、こんな記述がある。

内閣府によると、60歳以上の6割が70歳までかそれ以降も働きたいとの意向を持つ。うち2割は「働けるうちはいつまでも」働きたいと考えている。三菱総研の試算では、働くシニアが増えることで2050年の税収は現状よりも5.3兆円の押し上げ効果が見込める。

人間を、企業が売上を上げるための単なる生産手段、かつ税を支払い続けるための国の奴隷と考えてる。

正月早々から読者を実に憂鬱にさせるブラックジョークだ。 

近くに市の合同庁舎がある。その1階はハローワークになっていて、そこのロビーには求人票が貼り出されている。定年退職をした高齢者が就ける仕事内容は、ビルの清掃、工事現場の交通整理員、マンションの管理員、食品会社(コンビニ弁当工場)での夜間作業、倉庫での宅配用荷物整理、スーパーの品出し業務など。

「溌剌と社会に貢献する未来」だとか書いた新聞記者は、一度、ハローワークで現実を見た方がいい。頭の中で勝手なことを想像しているだけだから、こんな記事になる。