欧米や中国に比べて、日本の1部上場企業のトップは高齢化している。在任期間も短く、女性や外国人もほとんどいない。多様性がない。流れの激しい時代に、遅れをとりがちになるのはこういうところに要因があるのではないか。
後任は老若男女誰であろうと、なぜその人なのか説明できなければならない。「若い女性」という人選もステレオタイプ。会長の仕事内容に照らして必要な能力の基準を示し、誰がそれを満たすのかという判断をしてほしい。
欧米や中国に比べて、日本の1部上場企業のトップは高齢化している。在任期間も短く、女性や外国人もほとんどいない。多様性がない。流れの激しい時代に、遅れをとりがちになるのはこういうところに要因があるのではないか。
後任は老若男女誰であろうと、なぜその人なのか説明できなければならない。「若い女性」という人選もステレオタイプ。会長の仕事内容に照らして必要な能力の基準を示し、誰がそれを満たすのかという判断をしてほしい。
映画「天国にちがいない(It Must Be Heaven)」はパレスチナ人の監督、エリス・スレイマンが脚本・監督・主演した作品。
彼は、イスラエルのナザレ(イエス生誕の地)生まれのパレスチナ人。どういうことかと云えば、1948年に行われたユダヤ人によるイスラエル国家の設立宣言によって、パレスチナの土地にそれまで住んでいたアラブ人たちは、他の地へ逃げて難民となるか、その地にとどまることで「イスラエル人」となることを選ばされ、スレイマンは後者のひとりとして複雑な境遇で育った。
映画の主人公は、映画の出資者を探してイスラエルからパリ、ニューヨークと旅をする。どこでも彼が持ち込む映画の企画は断られてしまうのが、それは本映画の本筋とは関係ない(たぶん)。
イスラエルで、パリで、NYで、彼が目にするのは、さりげない風景でありそうで、パレスチナとイスラエルの関係を示すかのような奇妙な、そして時に不条理な風景である。
主人公の映画監督を演じるスレイマンは映画の中で始終黙ったまま。言葉を発するのは、「ナザレ」「私はパレスチナ人」という二言だけ。
言葉でなく、いくつものシーンで観る者にテーマを感じさせ、考えさせようとしている。それぞれの地で警官の集団が描かれる。そのモチーフが示すのは、理屈ではない権力の存在とその滑稽さ。その警官の集団は、パレスチナの地でのイスラエル人を現している。
警官と市民。警官と天使。そこにある対立にならない不釣り合いの権力の関係と構図。静かな、そして寡黙なユーモアとペーソス、そして深い哀しみを漂わせる作品だった。
劇作家で演出家の鴻上尚史は、こうした例で<社会>と<世間>の違いについて指摘している。それは、例えば駅の階段で大きな荷物を手に困っている老人がいても人は見て見ぬ振りをして通り過ぎるのは、そこは<社会>だから。
一方、もしそれが自分の親しい人だと分かったら、誰もが声をかけ荷物を運ぶ手助けをする。なぜなら、それが<世間>だから。
分かりやすい喩えだが、だとすると<世間>とは身内の延長、インナーサークルと言い換えることができる。そして、<世間>と<社会>は別の世界ということになる。
その鴻上がブレイディみかこさんとNHKの番組で対談してたのを以前見たのだけど(その後対談は本にもなっている)、彼女の旦那さん(英国人)は困っている人がいるとすぐに自然に声をかけ、手助けしようとする。
その彼が日本に来た時、駅の階段で大きなスーツケースを抱えて困っている女性を見かけ、手助けしようとスーツケースを運びかけてビックリされ、叫び声まであげられたと語っていた。
彼にとっての<世間>は<社会>に包含された一部なのだろう。あるいは彼にとっては<社会>そのものが<世間>であるということになる。
彼は別に特殊なタイプの人ではなく、一般的な英国人だと思う。英国にいた時に見た風景なのだが、信号のない横断歩道で高齢の女性が道を渡れないまま困っていた。すると、たまたまそこを通りかかったパンク野郎2人が道路に飛び出し、やって来るクルマに向かって両手を挙げて彼女に道を開いた。で、その老女が歩道を渡りきるまで(腰の曲がったお婆ちゃんなので、ほんとうに時間がかかった)その姿勢でクルマを止めていた。
彼女が無事渡りきったのを確認すると、2人のパンクは何もなかったかのように立ち去っていった。もちろんドライバーらも状況が分かっているので、おとなしくブレーキを踏んでいる。間違っても誰もクラクションなど鳴らさないところに、日本を思い浮かべて英国人のゆとりを感じた記憶がある。
多種多様な価値観を持つ人々で溢れ、典型的な個人主義の街として語られるニューヨークですら(あるいはニューヨークだからか)、普段は周りに余計なことはしないが、必要とあれば誰にでも気軽に手助けをする人が多かった。
こうした感覚は、自分(個人)が社会とつながっているという意識を持っているから。一方で、日本人は世間(知り合いなどの限られた身の回りの集団)とはつながりを感じてはいるが、社会全体との連帯感が極めて薄い傾向があるように思う。
正直言って、今でも日本を田舎だなあと感じる一番の理由はそこにある。たとえば「旅の恥はかきすて」なんて言葉があるが、旅先などで周りにまったく無頓着で仲間うち(つまり世間)だけで騒いで喜んでいる日本人を見るたびにいやな気持になったものだ。
個人ー世間ー社会と連続し拡張する関係性で、個人が社会化された社会が成熟社会といえるのである。
原作は1990年に刊行された佐木隆三の小説『身分帳』。本では人物の名前など変えられてはいるが、内容はノンフィクションらしい。
このストーリー、当時であれば今村昌平が監督をし、主人公に緒形拳をあてて映画化していたかもしれない。
西川美和監督は時代を現代に移し、役所広司を元殺人犯で13年の刑期を終えて娑婆に出てきたばかりの男に据え、その彼に時に近く、時に距離を置きながら寄り添う人々と彼らの関係を描いた。
役所が演じる元殺人犯の三上は、よく言えば正義感が強くてバカ正直。しかも直情径行的に行動するから、「我慢することに慣れている社会」とは折り合えない。
彼は旭川の刑務所を刑期を終えて出てきて、身元引受人である弁護士(橋爪功)とその妻(梶芽衣子)の世話で都内の下町のアパートに住むことになる。福祉事務所のケースワーカー(北村有紀哉)の支援を受けながら人生の再出発を考えるが、前科者ということで思った仕事には就けない。いろんな苛立ちが募る。
元やくざ、殺人を犯した元犯罪人に社会の仕組みは冷たい。男がはぐれ者の道に入ったきっかけは、その出生によるところが大きい。九州で芸者の母親から生まれ、父親からは認知されず、そのまま5歳で母親からも離ればなれになって施設で育った。
そうした男が生きているためにやくざの道に入るのは、意外でもなんでもない。ある種、世の中の筋書き通りなのだが、すでにその時点でそうした人間は「一般社会」から受け入れられない存在となっている。
男は最後、外出先からアパートに戻ってきて倒れ、亡くなる。彼の持病は危険なレベルの高血圧だった。映画は、男が死ぬ間際にどのようなことを考えたのか、どんな表情だったのか、はたして何か呟いたのか、画面は何も見せない。
それだけに、観る者は人生の多くの時間を刑務所で過ごし、一般社会では普通の生活には溶け込めずはじき出されていた一人の人間が、どうその生を終えたのかは想像するしかない。
男は「社会」とはうまく付き合えなかったが、根が正直で一本筋が通っている(根はいい奴である)彼の周りには温かい理解者がいた。そこが彼にとっての唯一の「世間」だった。
僕たちは一般的に、社会とうまく折り合いを付けながら生きていくことを求められている。会社で勤務すること、学校に通うことなど、すべてにそれが求められる。
だが、なかには社会とそうした関係を結べない人たちもいる。世の中の規範に添えず、はじき出され、認めてもらえないために行き場を失い、自分を失っていくしかない人たちである。
役所演じる三上は、その典型のひとり。過去を変えることができないゆえに、もうどうやっても「社会」に普通の形で身を置くことはできない。そこにあるのは、ある種の不条理である。
社会のルールに沿って日々を過ごしている我々は、旭川刑務所の刑務官が彼に諭した「我慢すること」を守り、また弁護士の妻が語った「私たちはいい加減に生きているの。自分をもっと大切に」の気持で生きることで、代わりに社会から守られている。
ただ、そうした何でもない処世術すら身につけられなくても、社会と折り合いが付けられなくても、少数でも親身に考えてくれる周りの人を得た彼にとってこの世界は「すばらしい世界」だった。
横浜美術館が3月から大規模改装に入る。閉館に先立って愛知県美術館、富山県美術館と共同でトライアローグ展という名の20世紀の西洋美術を中心にした催しを行っている。
ピカソやミロ、クレー、ダリ、ポロック、マグリット、マティスなど多くに馴染みのある20世紀の西洋美術の有名作品が集められ、横浜を皮切りに、その後愛知と富山を回っていく展覧会である。シンプルなアイデアの優れた展覧会企画だと思う。
コロナ禍での開催ということで入館は事前の予約制。現地に少し早く着いたのでその近くを散歩した後、コーヒーを飲むために美術館向かいのブルーボトルコーヒー(BBC)の店に入った。
今朝の新聞紙上、星野リゾートの社長が東京オリンピックは無観客であってもこの夏に実施すべきだとして、「(国内の)各都市を世界中の人たちにアピールする絶好の機会です。開催できたという実績は、観光面でも大きなメリットです。インバウンドの回復スピードも桁違いでしょう」と発言していた。
最大の危機において日本人は抽象的な観念論を非常に好み、具体的な理性的な方法論をまったく検討しようとしないということです。自分にとって望ましい目標をまず設定し、実に上手な作文で壮大な空中楼閣を描くのが得意なんですね。物事は自分の希望するように動くと考えるのです。
根拠がないのに「大丈夫、勝てる」だの「大丈夫、アメリカは合意する」だのということを繰り返してきました。そして、その結果まずく行ったときの底知れぬ無責任です。
米国の U.S. News & World Report とペンシルベニア大学が実施した Best Countriesを問うた調査がある。
60ヵ国についてサステイナビリティ(持続可能性)、アントレプレナーシップ、経済的な影響度合、冒険心、文化的影響度合に関して16,200人を対象に調査をして65の因子をもとにランク付けしたものだ。調査の対象になったのは経営者層、知識人、一般の市民らである。
調査主体は、データをもとにどの国が経済的成果度合とブランド・イメージによるアピールが高いか分析をしている。
その1位から10位は、1)ドイツ、2)カナダ、3)英国、4)米国、5)スウェーデン、6)オーストラリア、7)日本、8)フランス、9)オランダ、10)デンマークの順序になっている。
同じ調査をもとに、子育てをするのにふさわしいと評価されている国は、1)スウェーデン、2)デンマーク、3)カナダである。退職後に過ごしたい国としては、1)コスタリカ。2)アイルランド、3)カナダの順になっている。ここでもカナダが人気みたいだ。
その同じ年、Good Countryを問う調査が別の調査主体によってであるが世界でなされている。その調査では、先の調査が経済力とブランド・イメージによってランキングしたのと異なり、調査対象となった国をその国の大きさに比例して世界に「共通善」をどの程度与えているかが基準とされている。
測定された因子は、科学と技術、文化、国際平和と安全、世界秩序、地球環境、繁栄と平等、健康と福祉の7つだ。
163ヵ国が調査対象とされ、そのなかのグッドカントリーと評価されたトップ10は、1) スウェーデン、2)デンマーク、3)オランダ、4)英国、5)スイス、6)ドイツ、7)フィンランド、8)フランス、9)オーストリア、10)カナダだった。
これら2つの独立した調査で、どちらのランキングにも登場する国が7つある。ドイツ、カナダ、英国、スウェーデン、フランス、オランダ、デンマークだ。これらの国は経済的な発展度合とイメージが評価されているだけでなく、他国や地球全体への配慮と貢献が評価された結果である。
逆の観点からこれらの調査結果を見ると、その国の経済力に比べて「良い国」としての評価がなされていない3つの国があることが分かる。それらは米国、日本、オーストラリアである。
先日横浜に出かけ、駅近くの百貨店と大型書店を回ってノートをいろいろ買ってきた。ネット以前の手書きに戻ってみようと思ったからだ。
今日現在、世界で新型コロナによる死亡者の数は213万人。昨日に比べ、8500人増だ。
日産自動車のカルロス・ゴーン元会長。忘れっぽい日本人なら、「それ誰だっけ?」と一瞬考え込む人もいるかもしれない。
そのゴーンが金融商品取引法違反罪に問われた事件の公判が12日に行われた。日産の元最高執行責任者(COO)の志賀俊之氏が出廷し証言したらしい。
報酬隠しの方法を自らゴーンに提案したという志賀は、証言のなかで「私は10年間代表取締役の立場にあった。ガバナンスが機能していないと認識していながら改善できなかったのは痛恨の極みだ」と述べたという。
10年間!!
その間、認識していた!!
今さら痛恨の極み??
ゴーンの行動が異常かつ違法なことは置いておいても、ゴーンを「絶対君主だった」と語ることで手をこまねいていた自分を庇護しようとするこの元経営者の姿には呆れる。
他人(組織)を導くより自分を導く方が難しいと言われるが、それにしても10年間は常軌を逸している。
日産という会社、現場はいい車をつくるのに、どうしてそこの経営者は代々ネジが外れているんだろう。悲惨な企業というしかない。
昨日のブログで、通勤がなくなり、朝1時間ゆとりができたという友人のことを書いた。
ニューノーマルとか言われているが、この機にサマータイム、夏時間の導入を真剣に考えてはどうか。海外では Daylight saving time と呼ばれ、3月頃から10月頃まで時計の針を1時間早めている。つまり、1時間はやく仕事や学校が始まり、1時間はやく終わる。
武漢型肺炎(COVID-19)の影響で通勤がなくなった多くの日本の勤め人にとって、1時間始業を早めるのは造作もないこと。いっそのこと、本来の夏時間適応に合わせてもう1時間早めると良い。
つまり、朝7時に仕事を始め、午後3時にはあがる感じだ。
その後の時間の過ごし方は個人個人が考えればいい。子どもの面倒を見たり、畑仕事をしたり、ゆっくりお天道さんの下で本を読んだり・・・。
せっかくなので、そのくらいの生活の変化をしてはどうだろう。
緊急事態宣言の発令で、首都圏に加えて大阪、兵庫、京都でも飲食店の営業が午後8時までに制限されるようになった。しかも酒類の提供は7時までで、居酒屋など飲食店はたいへんである。
午後8時閉店であろうが12時閉店であろうが、仕込みは同様にしなければならない。店内で働く人手の確保も必要になる。そうした手間を払った上での8時閉店営業では、利益はまともに出ないだろう。
お客さんに「開けてます」と伝え、なじみ客のこころを少しばかり動かすだけの営業である。飲食店は厳しい状況だ。
自分も含めて周りの勤め人たちは、通勤がなくなって時間的なゆとりができている。
例えば往復2時間かけて都内のオフィスに通っていた友人のAくんは、リモートワークのおかげで朝1時間ゆっくり起きることができるようになり、また夕方の犬の散歩に1時間早く出かけられていると喜んでいた。
以前、9時から5時まで会社で勤務していた彼は、朝8時前に自宅を出て、午後6時過ぎに帰宅していた。多くの方とさほど違わないんじゃないか。
だったら、自宅で朝8時に仕事に取りかかり、4時に仕事をしまえばいい。そして、それから近くに呑みに行くのだ。
これまでの会社帰りの一杯のようなサラリーマン飲みではない。一人で静かにやればいい。これなら、8時閉店でも別に困ることはない。店も助かる。
さあ4時になったら、呑みに出ようよ。
誰もが知る日本の大企業の経営者(とその出身者)は、政策決定者でもあり得るのか。答えはノーだ。
「経団連会長、コロナ対応の罰則容認 「強制力しかるべき」」というタイトルの記事が目に入った。この会長さん、勘違いしている。これをウェブに掲載した新聞社の編集者もまた同様。
経団連の中西宏明会長は12日、オンラインによる記者会見で、新型コロナウイルス感染拡大の中で、営業時間の短縮要請に応じない店の名前の公表などの罰則を政府が検討していることについて、「強制力は持たせるという議論はしかるべきだ」と述べ、罰則導入を容認する考えを示した。
中西氏は感染が拡大している中で、「今の感染者数や病院の状況を考慮すれば、企業が(社員の)7割を出社させないことだけでなく、個人でもさまざまな感染対策が必要だ」と指摘。現時点では感染防止を優先させるべきだと訴えた。
また、今回の緊急事態宣言で「経済的に影響を受けるのは午後8時に営業をやめなくてはならない飲食店で、これらの店舗に対する補償はきっちりやっていくべきだ」とし、補償が罰則導入の前提だとした。
また、経団連は同日開催した会長・副会長会議で、春闘方針である経営労働政策特別委員会(経労委)報告を決定。中西氏はコロナの影響で「個別の労使交渉での賃上げは難しい」としながらも、「日本の所得水準が低いことが問題で、(ここ数年の)賃上げのモメンタム(勢い)は重要だ」と方向性を説明した。
これは産経新聞のサイトから。
日立製作所の会長を務めた経団連の現会長が市中の飲食店の閉店時間設定について講釈している。なぜ? また、補償はきっちりやるべきとご託宣を述べてる一方で、自分がいるのはあくまで外野。
それなりの社会的立場の者が補償について言及するなら、自らがその責任の一端でも負うのかと思いきや、立場は完全な評論家だ。
自分たちは自ら努力することなく、負担もすることなく、講釈だけ述べている。普通、こんなしょうもない談話、ニュース記事にならないはずだが。
先月、日本政府は2030年代半ばに日本国内の新車販売のすべてを電気自動車にするという方針を打ち出した。つまり、あと15年ほどで国内では「ガソリン車販売ゼロ」にもっていくと言っている。
50年までに二酸化炭素(CO2)など温室効果ガスの排出を実質ゼロとする政府目標の実現に向けての発想だが、相変わらず深くものを考えず、ただ米国・欧州・中国の動きを見て自分らも何かやっとかなきゃならないからという感じだ。
今回の北陸の大雪は、豪雪と呼ぶにふさわしい。新潟県上越市では、7日以降の総降雪量が1.8メートルに達した。1500台の車が立ち往生し多数の負傷者を出した2018年の「福井豪雪」に匹敵するという。陸上自衛隊が出動して車両を牽引したり、食料や携帯トイレを配布するなどの活動を続けている。
路上で車が進まないまま中に閉じ込められた人たちは不安だろう。車はエネルギーがなければ動かないだけでなく、暖房も効かないし、スマホも充電できないのだから。
特にこうしたとき、電気自動車の利用者はいっそう心配だろう。排気熱を車内に送ることで車内を暖めることができるガソリン車に比べ、暖房のためのエネルギー効率が悪い。バッテリーが切れたら、車が動かないだけでなく暖房もすべて切れ、生死に関わることになる。
ガソリンなら携行タンクで持ち運びできるし、救助隊から手渡しで配布を受けることもできるが、電気自動車は充電スタンドが設置されている場所まで自走するか、充電車両に来てもらわなければアウトだ。
このような豪雪に見舞われるのは、日本のごく一部の話ではない。北陸、東北、北海道をはじめ、気象条件次第でこうした大雪災害に遭うのは日本の常識だ。
日本の車がオールEVになりガソリン車が駆逐されたとき、どのようなことが起こるのだろう。自分たちの足下を見れば、「ガソリン車販売ゼロ」など軽々に世界向けて謳う必要性がないことは分かるはずなのだが。
そもそも、ガソリン車か電気自動車かという選択肢が疑問だ。先日、近くの幹線道を走行する車を観察した。昼間の10分、片車線だけであるが通行車両数とその車の乗客が一人(つまり運転者のみ)の台数をチェックした。
通行した車両が251台、そのうち乗車ひとりの車両(バスやトラックを除く)は192台(76.5%)。つまり4台に3台は、運転するドライバーひとりしか乗っていない。
1人で移動するのなら今のような乗用車はやめるようにできないか。公共交通機関を利用するか、自転車やモーターバイクを使うか、相乗りするか。
自動車メーカーには、今のクルマが当たり前だと考えるのではなく、一人用の省エネに優れた新しい発想の移動用機器を早く開発してほしい。
動力源がガソリンか電気かという2者択一の問題を解く前の、われわれが解決すべき課題だ。
新型コロナウイルスに感染すると、嗅覚と味覚を失うことがあるらしい。味覚がなくなった場合はもちろんだが、嗅覚を失った場合も食事は一気に味気なくなる。何を食べてもおいしくなくなる。
「シュウマイ」は弾力のある“ソースなし豆腐ハンバーグ”のような感じ。「ポテサラ」は微妙に素材の甘味を感じるものの、何を食べているのか不明。中濃ソースをかけても同じ味。「野菜の黒酢炒め」は酢が強いのだろうとは何となく感じられるが、その程度。サツマイモが本来以上に甘い。「白米」はほのかな甘味がある何かの食べ物。「海苔」は何の味もしないし、あっても気づかないレベルだった。
米国は正常軌道に戻り始めた。
この4年間のアメリカが抱えてきた最大の危機は、地球温暖化でもBLMでも中国でもなかったと思っている。それは何か。トランプだ。
大統領自体が国家の最大のリスクをなっていた米国という国は、実に複雑で興味深い国家だと言える。
それが突然、大きく転換し始めた。ツイッター社が今日、トランプのアカウントを永遠に使用禁止にしたことが、象徴でもある。
今月20日に予定されているバイデン次期大統領の領就任式に向けての連邦議会議事堂への攻撃、暴力的仲介を示唆したトランプのツイートがその理由とされている。
ツイッター社の経営者はその反社会的メッセージの危険性にやっと注意を向け、トランプをツイッターの利用者から追放するという意思決定をした。
昨日、トランプ支持者が議事堂へ乱入し死者が出た事件で、共和党の議員の中からも現大統領と袂を分かつ連中が出てきた。
これまでの4年間、目をつぶっていた共和党の議員からもさすがにこれ以上は見て見ぬ振りはできなくなった。自分はそれを見ようとしなくても、支持者の目はそうはいかない。
今の世界の経済を引っ張っているのはやはりアメリカだ。トランプの間違った施策で世界最多のコロナ感染者と死者を出しながらも、他国に先がけて製薬会社が続けてワクチンを開発したのもアメリカだ。
この4年間、大統領がどれほどクソでも人々が知恵と力を合わせて世界のどこよりも早く変化を遂げ、新しい価値を創造してきた気概とダイナミズムがあの国にはある。 それは紛れもない事実だ。
翻って日本はどうだ。総理大臣のお粗末さ、多くの政治家の無定見さ、官僚のあさましさ。昭和の栄華を忘れられないジジイらが今も表舞台にいる不可解さ。僕たちは早くそうしたものに頼ることなく、自分で考え、自分たちで力を知恵を合わせて少しでもまともな社会を造っていくしかない。
武漢型肺炎に対応するための非常事態宣言が1都3県で発令されたが、ついこの前までGoToトラベルやGoToイートだとかに、膨大な税金を流し込んでいたのは誰だ。
国家的な戦略的視点を欠き、目先の既得権と利害関係で成り立っている政権の寒々しさを、先日来の大陸からの寒波ともに肌に感じる。
今は自宅のなかで仕事をすることが多い。
ついついオンとオフの区切りがなくなり、メリハリを欠いた日常になってしまいがちだ。そこで単純だが、タイマーを机の上に置いて仕事に集中することにした。
先週手に入れたのは、ゼンマイ仕掛けのアナログ・タイマー。60分まで計れ、時間になると5秒ほどベルが鳴る。残り時間が赤く表示板に示される。タイマーを50分にセットし、集中する。
昨年の春先から、ほとんど大学に行く機会がなくなった。授業や会議、打ち合わせはおよそズームを使って行われるようになったからだ。
ハッキングの勢いが止まらない。企業はもちろん、我々が使用するパソコンに対してのハッキングも急速に増えてきている。
濃厚接触、外出自粛、分散参拝、、、どれも今の社会に根付いた格言かスローガンのように聞こえる。