2021年2月16日

<社会>と<世間>

劇作家で演出家の鴻上尚史は、こうした例で<社会>と<世間>の違いについて指摘している。それは、例えば駅の階段で大きな荷物を手に困っている老人がいても人は見て見ぬ振りをして通り過ぎるのは、そこは<社会>だから。一方、もしそれが自分の親しい人だと分かったら、誰もが声をかけ荷物を運ぶ手助けをする。なぜなら、それが<世間>だから。

分かりやすい喩えだが、だとすると<世間>とは身内の延長、インナーサークルと言い換えることができる。

その鴻上がブレイディみかこさんとNHKの番組で対談してたのを以前見たのだけど(その後対談は本にもなっている)、彼女の旦那さん(英国人)は困っている人がいるとすぐに自然に声をかけ、手助けしようとする。


その彼が日本に来た時、駅の階段で大きなスーツケースを抱えて困っている女性を見かけ、手助けしようとスーツケースを運びかけてビックリされ、叫び声まであげられたと語っていた。

彼は別に特殊なタイプの人ではなく、一般的な英国人だと思う。英国にいた時に見た風景なのだが、信号のない横断歩道で高齢の女性が道を渡れないで困っていた。すると、たまたまそこを通りかかったパンク野郎2人が道路に飛び出し、やって来るクルマに向かって両手を挙げて道を開いた。その後、彼女が歩道を渡りきるまで(腰の曲がったお婆ちゃんなので、ほんとうに時間がかかった)その姿勢でクルマを止めていた。

彼女が無事渡りきったのを確認すると、2人のパンクは何もなかったかのように立ち去っていった。もちろんドライバーらも状況が見えているので、黙ってブレーキを踏んでいる。間違っても誰もクラクションなど鳴らさないところに、日本を思い浮かべて英国人のゆとりを感じた記憶がある。

よく典型的な個人主義の街として語られるニューヨークですら(あるいはニューヨークだからか)、普段は周りに余計なことはしないが、必要とあれば誰にでも気軽に手助けをする人が多い。

こうした感覚は、自分(個人)が社会とつながっているという意識を持っているからだ。一方で、日本人は世間(知り合いなどの限られた身の回りの集団)とはつながりを感じてはいるが、社会全体との連帯感が極めて薄い傾向があるように思う。

僕は、正直言って日本が今でもいなかだなあと思う一番の理由はそこにあった。「旅の恥はかきすて」なんて言葉があるが、旅先などで周りにまったく無頓着で仲間うちだけで大声を出したり騒いでいる日本人を見るたびにいやな気持になったものだ。

個人ー世間ー社会(ー拡大された社会)と連続する関係で、世間の役割が小さくなることが真の近代化と考えていたふしがあった。

だけど、『すばらしい世界』を観た後、単純に<世間>を捨てる思考が必ずしもあたっていないように思うようになった。三上のように、自分でいかに努力しても制度化した今の<社会>から認められず、<世間>だけが生きるよすがとなる人生もなかにはあるのだから。