劇作家で演出家の鴻上尚史は、こうした例で<社会>と<世間>の違いについて指摘している。それは、例えば駅の階段で大きな荷物を手に困っている老人がいても人は見て見ぬ振りをして通り過ぎるのは、そこは<社会>だから。
一方、もしそれが自分の親しい人だと分かったら、誰もが声をかけ荷物を運ぶ手助けをする。なぜなら、それが<世間>だから。
分かりやすい喩えだが、だとすると<世間>とは身内の延長、インナーサークルと言い換えることができる。そして、<世間>と<社会>は別の世界ということになる。
その鴻上がブレイディみかこさんとNHKの番組で対談してたのを以前見たのだけど(その後対談は本にもなっている)、彼女の旦那さん(英国人)は困っている人がいるとすぐに自然に声をかけ、手助けしようとする。
その彼が日本に来た時、駅の階段で大きなスーツケースを抱えて困っている女性を見かけ、手助けしようとスーツケースを運びかけてビックリされ、叫び声まであげられたと語っていた。
彼にとっての<世間>は<社会>に包含された一部なのだろう。あるいは彼にとっては<社会>そのものが<世間>であるということになる。
彼は別に特殊なタイプの人ではなく、一般的な英国人だと思う。英国にいた時に見た風景なのだが、信号のない横断歩道で高齢の女性が道を渡れないまま困っていた。すると、たまたまそこを通りかかったパンク野郎2人が道路に飛び出し、やって来るクルマに向かって両手を挙げて彼女に道を開いた。で、その老女が歩道を渡りきるまで(腰の曲がったお婆ちゃんなので、ほんとうに時間がかかった)その姿勢でクルマを止めていた。
彼女が無事渡りきったのを確認すると、2人のパンクは何もなかったかのように立ち去っていった。もちろんドライバーらも状況が分かっているので、おとなしくブレーキを踏んでいる。間違っても誰もクラクションなど鳴らさないところに、日本を思い浮かべて英国人のゆとりを感じた記憶がある。
多種多様な価値観を持つ人々で溢れ、典型的な個人主義の街として語られるニューヨークですら(あるいはニューヨークだからか)、普段は周りに余計なことはしないが、必要とあれば誰にでも気軽に手助けをする人が多かった。
こうした感覚は、自分(個人)が社会とつながっているという意識を持っているから。一方で、日本人は世間(知り合いなどの限られた身の回りの集団)とはつながりを感じてはいるが、社会全体との連帯感が極めて薄い傾向があるように思う。
正直言って、今でも日本を田舎だなあと感じる一番の理由はそこにある。たとえば「旅の恥はかきすて」なんて言葉があるが、旅先などで周りにまったく無頓着で仲間うち(つまり世間)だけで騒いで喜んでいる日本人を見るたびにいやな気持になったものだ。
個人ー世間ー社会と連続し拡張する関係性で、個人が社会化された社会が成熟社会といえるのである。