昨日、誕生日だった。カッパ年齢で36歳になった。カッパ年齢は、わが家が用いている独特な年齢の数え方。https://tatsukimura.blogspot.com/2012/11/k46.html
わが師、スピノザ |
昨日、誕生日だった。カッパ年齢で36歳になった。カッパ年齢は、わが家が用いている独特な年齢の数え方。https://tatsukimura.blogspot.com/2012/11/k46.html
わが師、スピノザ |
企業が行う採用試験のウェブテストを大学4年生の替え玉として受検したという電力会社の社員が逮捕された。
その男、ウェブテスト代行を掲げるサイトで「京都大学大学院卒/元外コン勤務/ウェブテ請負経験4年、1人で4000件以上、通過率95%以上・・・」と掲載していたが、外コンというのは外資系コンサルティングのことか。ウェブテとはウェブテストのことか。文字数の制限があるわけでもないのに妙に縮めて言うやつは、まず胡散くさい。
その容疑者の実績(?)は、4年間で4000件以上を替え玉したというからスゴイ。これだけ数をこなせば、間違いなくベテランだ。どうせテスト業者が作問する内容など似たり寄ったりだろうから、慣れてしまえば目をつむっていても解答できるに違いない。通過率95%は嘘じゃないかもしれない。
さらに驚いたのは、依頼した方の学生は企業23社のウェブテストを彼に替え玉させたこと。23社(あるいはそれ以上)も受けるんかい。たいへんだな〜。
企業での導入が始まって20年ほどになるらしい。今では上場企業の約8割がウェブテストを実施しているとか。
そして企業へのアンケートの結果によると、採用担当者の約6割がこの種のテストに関して不正行為の懸念があると回答しているが、彼らはSNS上にウェブ受検代行を謳うサイトが溢れているのも知っていながらそのやり方を延々と続けている。
テストを実施する理由を企業の担当者は、入社後の適切な配属のための貴重な情報などと言っているが、そうであれば採用後に行えばいい。
結局、問題を作成したり、その実施を請け負っている就職関連企業が儲けているだけのはなし。企業は恰好のカモになり、学生は不要で面倒な手間を負わされているのが実態だ。
人事部による4月の一括採用なんかやっているからだろうな。発想を変えて、人を必要としてる部署が人を募集する。「こんな奴が欲しい」ときちんと考えている現場担当者が候補者を選ぶようにすればいい。人事部門は面倒な手続き等のサポート業務を行う。そして採用後は、インターンとしてある一定期間その人物の働き方を見て、本採用の条件等を判断すればいい。
旧弊から抜け出せず、抜け出そうともせず、誰もがヘンだと感じながらぬるま湯から出ようとしない。採用する企業、採用されたい学生、その間で儲けようとする就職関連業者、学生につけ込むテスト代行者、どれもこれもだ。
えっ? 大学はどうなってるのかって?
そうだね、そもそも企業がこうしたテストを大学卒業予定者に課すのは、大学の成績証明書の中身が社会で信用されていないから。
確かに大学の成績など信用できないのが、昔からの一般的な日本の現状だ。わが国の大学教育の構造的問題。そこを少しずつでも変えていかないことには始まらない。
「リスキリング」って言葉が今話題らしい。用語としての「リスキリング」が文字通り意味するところは、スキルを再取得することなのかね。こうしたカタカナ言葉ってウサン臭さプンプンでいいね。
で、われらが岸田ソーリが目玉施策のひとつに掲げ、「今後5年間で1兆円を投資する」とか。つくづく何考えてるんだろうと思う。大人の学びは千差万別。だから実体があるかどうかなど関係なく何でもありになってしまい、そこに触手を伸ばす有象無象の業者による刈り取り場になる。
その1兆円、全国の小中学校の給食無料化や、介護施設で働く人たちへの所得補償に充ててくれたらいいのに。きちんとした給食は、子供たちの体だけでなく心も育てる大切なもの。日本の将来のために一番必要なことだから。
介護従事者への所得補償は、われわれの社会にとって不可欠な仕事であるにもかかわらず、全国の労働者が得ている所得に比較して低く抑えられ、しかも制度にがんじがらめにされ、またその仕事の特性から資本の論理がはたらかない領域だから。
需要と供給だけで介護ビジネスのすべての価格が決まるわけではないし、またそうなってはいけない。だから国の協力的介入が必要なのである。
さてリスキリングだが、リスキリングをいま声高に叫んでいる人ほど、日々の中で学びから遠かった人たちが多い。大人になってからの学習や読書を少なくとも意識的にやって来なかった連中だ。
一方、リ・ス・キ・リ・ン・グ、だなんて力まなくても、僕の周囲のまとも人たちはみんないつだって学んでいる。日々の読書を楽しみ、新聞に目を通し、話題になっているトピックをもとに人と議論し、映画館や美術館、劇場に時間を見つけて足を運び、一日の終わりには日記と向き合い内省を忘れない。自分に求められる具体的な技能があると気づけば、金と時間を注いで集中的に身につけることをいとわない。
こうしたことは、当たり前のこと。彼らはみんな、何十年も前から変わらずそうした習慣を続けている。朝起きて歯を磨くのとおなじ。
いまさら国が「リスキリングが重要」だなんて、まるで「健康に気を付けましょう」とか「規則正しい生活をしましょう」などと言われているようで、まったくもって大きなお世話。
新聞などでは、リスキリングは必ず括弧付きで「学び直し」と表記されている。肝心なのは、<学び直し>(Re-skilling)じゃなく、<継続的学び>(Continuous Learning)なのだ。
そもそもこの数年間、何かあるとイノベーション、イノベーションと叫んでいたのが、今ではリスキリングか。ずいぶんとスケール・ダウンしたもんだ。
見事な脚本、見事なストーリーだった。映画「ペルシャン・レッスン」。ナチスによる強制収容所を舞台に、主人公が生き延び、そこで何がなされたかを歴史の証人として語り継ぐことになる話はこれまでも数多く見てきたが、本作のようなサスペンス仕立ての映画は珍しい。
他のユダヤ人が銃殺されるなか、その本を振りかざして自分はユダヤ人ではないと彼は主張する。ペルシャ人なのだと。そこにいた兵士が思い出したのは、収容所のコッホ大尉がペルシャ人を探していて兵士たちに褒美を与えることを約束していたことだった。
結果、彼はその場での銃殺を免れて収容所へ連行され、コッホ大尉に預けられる。そして毎日、囚人としての仕事の後、彼のオフィスでペルシャ語のレッスンをすることになる。コッホには、彼がナチに入党したことで仲違いした兄がテヘランにいるからだ。彼は戦争が終わったら自分もテヘランに行き、料理店を開きたいと思っている。
毎日、ジルはペルシャ語の単語をコッホに教える。勤勉なその大尉さんはそれをカードに書き、頭に叩き込んでいく。ジルはドイツ語に対応する新しいペルシャ語を「創造」する。彼は言う、「適当な言葉を創造するのはやさしい、問題はそれらを憶えることだ」。コッホに自分がペルシャ人でないことを悟られないためには、相手に教えた、何語でもない「いいかげんペルシャ語」 がペルシャ語ではないことがばれないようにしなければならない。
生き延びるために、綱渡りをするように日々ペルシャ語を「創作」していくジル。薄々そのウソに気づいている、コッホの部下のドイツ人兵士とのヒリヒリするやり取り。
冴えないひとりの男。ひょんなことから手にした運とその場その場の機転、秘めた度胸と仲間との友情が彼の命を救った。
千を超える言葉を創作し忘れないようにするためにジルが編み出した方法が秀逸で、しかも泣かせる。映画のラストで、収容所で行われた数々の人々の処刑の事実を明らかにすることにつながるのだから。
ナチスの親衛隊と言えば、理性のかけらもないロボットのような狂人集団のようなイメージがあったが、当然ながら、実際はひとりの男性看守をめぐる女同士の恋のさや当てのようなものがあったり、良くも悪くも人間くさい集団の姿が描かれているのがおもしろかった。
先日、このブログで「日本製コロナワクチンは、どこへ行った?」という記事を書いたが、日本で新型コロナワクチンの開発が遅れているのは、開発元の製薬会社だけが原因ではないようだ。
ワクチン開発を進めていた塩野義製薬、第一三共、KMバイオロジクス(明治ホールディングス)の各社は、いずれも開発計画を見直し、延長した。またアンジェス社は、従来型ワクチンの開発自体を中止した。
その理由は、承認申請ができなくなったから。というのは、コロナ禍という未曽有の状況に対処するため、通常の申請とは異なり、治験の途中であっても安全性と有効性が推定できれば申請できる「緊急承認制度」の活用が推奨され、それにそって準備していたはずが、それができなくなったからだ。
厚生労働省が、製薬会社に対して第1〜第3段階の通常の治験手続きを終わらせたのちに申請するよう求めたのである。
なぜ方針転換がなされたのか。関係者によると、厚労省の役人が「緊急承認制度」で承認したワクチンによって万が一副作用などの被害が出て訴えられたら自分らが困る(責任を問われ、出世が止まる)と思ったから、というもの。
だから、ワクチンの有効性や必要とする症例数といった指標を何度にもわたり変更した。試験の追加も製薬会社に課した。
国産ワクチンを開発することで国民の命や健康に寄与することより、自分らが訴えられるかもしれない訴訟リスクを最小化する、あるいはリスクの完全排除が優先されたわけだ。
これはまた別の意味で、日本の国力の衰退の典型例のひとつである。
長年にわたり髪を切ってもらっているOさんが自分の店を畳んで久しい。もうそれなりの歳だからで、今は昔からのお客さんの依頼があったときだけ美容師として働いている。
お客さんから依頼があると、知り合いの店の一画を借りて髪を切る。職人だから、はさみや櫛、カットケープなど自分の商売道具が入った袋を持ち運びさえすれば仕事ができる。
「包丁一本、サラシに巻いて」ではないが、道具さえあれば腕一本でどこでも、それこそ世界中どこででも仕事ができる人たちで、そうした連中をいつも尊敬してしまう。
人間の体に対してハサミという刃物を使う仕事だから、ロボットではそうそう代替できない。人の頭に髪の毛がある限り、われわれは彼らの世話になり続ける。
先日、彼に髪を切ってもらったあと、その日の次の予定まであまり時間がないなかで昼食を済ます必要があったため、髪を切ってもらった店の近くあったカレー屋に入った。大手のカレーチェーンだ。時間をかけずに食事をするのに向いている。
カウンター席は、1席ごとアクリルの板で仕切られている。コロナ感染防止のためだが、ニワトリのケージみたい。席に着くと目の前には小型のタッチパッドが置かれていて、それで注文する。カレーの種類と好みの辛さ、ご飯も盛り具合を選ぶくらいだから、簡単といえば簡単。
店にとっては、このコロナのタイミングでオペレーションを省力化したいのだ。客としてもスッと入って、パッと頼んで、サッと料理を出されて、ササッと平らげて、またスッと出て行くことができる。
ただ当然ながら、それ以外の外食の仕方もある。
これまた先日のこと、知り合いと4人で和食の店に入った。その日はメンバーの都合で早めの時間にということで集まり、われわれがその店の予約席に着いたときにはまだ先客はひと組もいなかった。
席に通されるや、案内してきた店員は「ご注文はこれでお願いします」とテーブルにおかれたタッチパッドを指さし立ち去った。2人ずつ向かい合わせに座ったテーブルに、10インチ程度のパッドが1枚。それで飲み物と料理を一覧した上で、人数分の注文をすることになっているようだ。
先の店員はというと、店の奥で他の店員とおしゃべりをしている。最初、パッドをくるくる回して向きを変えながら4人でメニューを見ていたが、当然ながらオジサンたちは自分らがやっていることがすぐに阿呆らしくなった。
おしゃべりに夢中になっている店員を呼びつけた。通常の(手に取れる)メニューを持って来るように言う。一瞬、嫌そうな顔を見せるが、軽く睨みつけると「わかりました」と言ってメニューを1冊持って来た。
客が4人テーブルについているのに、メニューを1冊しか持って来ない。こ店にはまだ他の客はひと組もいない。メニューが足らないはずはない。客に対する気遣いが足らないのだ。足らないのではなく、完全に欠落している。
例の店員をまた呼んで、あと3冊すぐに持ってくるように言う。で、飲み物と料理の注文はパッドではなく、その者にすべて申しつけた。そもそもその時点で、誰かが注文用のパッドを掘り炬燵の下へ放り投げていたし。
最近の飲食店だけど、彼らは客商売のはずなのにそれほど客と話をしたくないのだろうか。不思議だ。メニューにある「板長の今日のお奨め」や「獲れたて鮮魚」についてパッド上でつまらない説明を読ませて、客の気持ちが動くと思っているのかね。
こっちが思わず注文せずにはいられないような生きのいい口上のひとつも聞かせてみろよ、というのは無理な注文なんだろうか。
そうしたサービス経験には、我々しっかりチップをはずんでやるんだけどね。
日本じゃ無理か。
今日夕方、地震があった。震度3で結構揺れたが、幸いに長くは続かなかった。気象庁によると震源地は三重県南東沖。震源の深さは350km。地震の規模を示すマグニチュードは6.1だった。
震源地は東海エリアだったにもかかわらず、この地震での最大震度を記録したのは福島県と茨城県で震度4。
震源が100㎞程度より深い場所で発生した地震は深発地震と呼ばれ、沈み込むプレートに沿って地震波が伝わるために、震源の近くよりも震源から離れた場所の揺れが大きくなることがあるらしい。
これじゃあモグラ叩きみたいなもんで、深発地震が起こった場合、揺れというモグラがどこに顔を出すかわからないわけだ。
地震といえば、あの関東大震災が起こって来年で100年になる。その大震災が起こって2週間後、天変地異に見舞われ世の中が動転し、しっちゃかめっちゃかになっているのに乗じて甘粕正彦率いる憲兵隊に惨殺された伊藤野枝(享年28歳)についての本『村に火をつけ、白痴になれ』(岩波書店)を読んだ。
著者の栗原康はアナキズムの研究者らしいが、野枝とその愛人だった大杉栄を中心とする人間関係や、鬱屈とした時代の中で女性の自由な生き方が初めて日本に登場したころの社会の空気がいきいきと描かれている。
その文体は奔放で自由、というか、ある意味ハチャメチャ、乱暴。心底野枝に心酔し惚れていなければ書けないような文体なのだが、それにしても岩波書店がよくこの本をこの文体のままで出版したなと妙な感心をしてしまった。岩波も変わった。
日本では1920年に第1回の国勢調査が実施されており、当時の男性の平均寿命は42歳、女性は43歳だった。現在の平均寿命はそれぞれ81歳と87歳だから、当時は今のほぼ半分の寿命である。
それを知るとなんだか納得してしまうのだが、当時の人たちのその年齢に比べての成熟度には驚嘆する。いまでは「人生100年」が叫ばれているが、長けりゃいいってもんじゃないって事を野枝の人生をしると痛感する。
今のわれわれの生き方は、まるで安さだけが売りの居酒屋のハイボールのように、どうしようもないくらい薄味に思えてくる。
広告業界世界最大手のWPP(英国)が日本での事業規模を向こう5年間で3倍にすると発表した。
同グループCEOのマーク・リードによれば「日本の消費者がデジタルに費やす時間は世界に比べて短い」とか。具体的には、「日本人の週あたりのネット利用時間は22時間38分、米国の46時間14分の半分以下」だそうだ。
だから、今後の日本の事業拡大を期待できると考えているのだろうが、このデータって本当だろうか? 週22時間38分なら、一日平均で3時間14分。そんなに普通の日本人がインターネットをやってるのだろうか。 米国人が平均一日6時間36分というのも信じられない。
いずれにせよ、国民のネット利用時間が長くなれば広告業のビジネスチャンスが拡大するというのは、今ではあまりにも発想が単純すぎる。
(追記)
国民生活時間調査(2020年度)の結果によれば、下図のように日本人のインターネット(+動画)利用時間は約1時間である。10代後半、20代が2時間を越えて他の世代に比べて長いが、それでも全体的にはテレビの視聴時間がいまだ圧倒的なのがわかる。
『写真はわからない』は、カメラマンの小林紀晴が書いた優れた写真論である。
著者は写真は分からないというが、僕はこの本を読んで写真がわかった。もちろん全てがわかったわけではないけど、これまで写真について頭の中でモヤモヤしていたものが晴れたような気がしてすっきりした。
たとえば、写真は「窓」か「鏡」かという議論は、表現としての写真を見る際の明解な視点を与えてくれるし、写真に限らず多くの表現に共通している。だからか、これを読んで岡本太郎が芸術はうまくあってはならない、きれいであってはならない、心地よくあってはならないと言った意味がわかった。
著者がわからないと言っているのに、読者の僕がわかったと言っているのは、そもそもがレベルがはるかに違うから。プロフェッショナルの彼はもっともっと高度のところで「まだ分からない」といっているのが、トーシローのカメラマンの僕は基本のキがわかっただけのはなし。
けれど本当は、何についても簡単にわかったらつまらない。簡単にわかったとしても、たぶんわかった気になっただけに過ぎない。だから、しつこくわかろうと努力を続けていくことでしか救われない。
小林は、これからも写真をわかろうとすることを続けていくという。そして、そのためには面白がることが重要だという。そしてこれもまた、面白がることが重要だというのは写真だけではない。何ごとにつけても気持ちとして分からない領域を残し、それを面白がりながら探索し続けることだと思う。
海外出張が入りそうなので、出入国に関してのワクチン接種関連のその国における規制を調べている。
ずいぶんと緩和されてきたようで、出国前72時間以内の検査証明の提出は求められておらず、以下の新型コロナワクチンの接種証明書があれば大丈夫とある。
1:ファイザー(Pfizer)/コミナティ(Comirnaty)筋注 (復星医薬(フォースン・ファーマ)/ビオンテック社製も同一とされ有効)
2:モデルナ(Moderna)/スパイクバックス(Spikevax)筋注
3:ノババックス(Novavax)/ヌバキソビッド(Nuvaxovid)筋注 (「コボバックス(COVOVAX)」も同一とされ有効)
4:アストラゼネカ(AstraZeneca)/バキスゼブリア(Vaxzevria)筋注 (「コビシールド(Covishield)」も同一とされ有効)
5:ヤンセン(Janssen)/ジェコビデン(JCOVDEN)筋注
6:バーラト・バイオテック(Bharat Biotech)/COVAXIN
ファイザー社製とモデルナ社製は、われわれ日本人にもお馴染みだが、それ以外にも4つ(上記の3〜6)がその国の大使館サイト上では挙げられていた。3〜6は、それぞれ米国、英国、ベルギー、インドの製薬企業だ。
最近ではまったく話題に上らなくなったが、日本の製薬会社が研究している新型コロナワクチンはどうなっているのだろうとふと思い、調べてみた。
厚労省のサイトにわが国の「ワクチン開発と見通し」が掲載されている。それによると、モデルナ社製、ノババックス社製、アストラゼネカ社製はそれぞれ日本企業が委託製造を行っているが、日本の製薬会社独自のワクチンはまだ開発されていない。
国内の製薬会社によるワクチン開発支援のために投入した国の予算は、これまでに約2,000億円。だがまだ成果は出ていない。
記載内容は、2022年10月27日現在 |
これは、製薬会社の研究開発能力が欠けているのか、研究補助費の投入が足りないのか、分配方法が不適切なのか、承認プロセスに問題があるのか、はたして何が問題なんだろう? これだけの資金と時間をかけて成果が出ていないのは、日本の国力の衰退の典型例のひとつだ。
日本政府が、新型コロナワクチンを購入するため海外の製薬会社の支払った金額は、これまでで2兆4千億円にのぼる。
現在はデジタル・マーケティングの第一線で仕事をしている、かつての教え子と大学近くで昼飯を一緒にとる機会があった。
彼女は僕が教えている大学院(ビジネススクール)にフルタイムの学生として2年間通った。大学院のプログラムには大きくフルタイムとパートタイムの2つがあり、その当時から学生数の上での主流は主に夜間に大学に通うパートタイムの学生だ。
パートタイムでの通学というのは仕事を辞めずに通え、学位が取れるということで彼らにとっては機会費用による損失を抑えられる選択であるが、その分必要とされる授業にただ出るだけで終わる学生も多いように思う。
以前学生たちから、パートタイムの学生は履修に関して「楽勝科目」の授業をやけにとりたがると聞いて妙な感触を持った。楽勝というのは、彼らが思うところでは単位が確実に取れ、しかもAの評価をもらいやすい科目のこと。
そうしたものがあるのかどうか知らないが、もしそうだとしたら、そうした科目の授業をとりたがるモチベーションは歪んでいると言っておこう。成績表でのA評価の数をたくさん増やして、それで有利に転職を進められるとでも考えているのだろうか。
先の修了生だが、彼女は当初、つまり入学前は仕事をしながらパートタイムで通うか、それともフルタイムの学生になるか迷ったという。が、結局、フルタイムの大学院生として早稲田に入って大正解だったと語った。
彼女はその理由として、在学中は大学の授業に出るだけではなく、大学という環境の中でゆっくり広くものを考える時間が持てたこと。そのひとつとして、時間があるときには大学の図書館で思いっきり本を読むことができたことをあげた。
以前、大学院を修了したパートタイム(つまり仕事をしながら夜間に通っていた)の学生たちに、在学中にどのくらいの頻度で大学図書館を利用したか訊ねたところ、在学中に一度も図書館に行ったことがない学生が優に半分以上いて心底驚いた。
彼らにしてみれば、図書館なんか面倒ということか。しかし、図書館では<検索>では見つからない本との偶然の出会いと発見があり、それが本当の知を広げていく重要なきっかけとなる。
ところで、大学教育の場にもDXとやらの名の下でメタバースが取り入れられはじめたようで、東大にはメタバース工学部という新設学部ができたらしい。
そこではネット環境さえあればメタバースによってどこででも学べ、さらに参加型で双方向性を持てるとしている。東大の責任者は「年間20万人を目標にデータを活用できる人材を育成したい」と言っている。(20万人とどのように、そして誰が双方向性を保つのだろうか?)
そもそも、技術的な可能性としてどこででも学べるからといって実際にどれほどの学生がそのネット上で学習するだろうか。技術的に「できること」と、人が実際に「行うこと」は必ずしも一致しない。
授業を受けている校舎から歩いて5分ほどの所にある大学図書館に足が進まないような学生が、アバターに身を委ねてメタバースで一体何を学ぶというのか。僕にはまったくのところ想像できない。
映画「アフター・ヤン」は、近未来の多様性に富んだ家族を舞台に、ヒューマニズムがどのように変わっていくかを描いた映画。監督は、韓国系アメリカ人のコゴナダ。
今朝、新幹線が信号故障のため、東京駅への到着が20分ほど遅れた。
世界で最も安全で正確な交通手段は日本の新幹線だと考えているので、そのタイムテーブルに沿って移動後のスケジュールをたてる。
普段はもちろんそれで上手くいく。だが、ときおり、その新幹線も遅延する。予定がずれ込み困ったことになったりするが、それは仕方がないことだ。
東京五輪が開催される2年ほど前からか、新幹線の車内に英語のアナウンスが流れるようになった。それまでも列車名と行き先を告げる英語の録音アナウンスはあったが、それが車掌の肉声に変わった。
当初はたどたどしい英語でけっして耳障りの良いものではなかったが、それでも最近では車掌らも英語アナウンスに慣れたのか、当初のぎこちなさはそれほど気にならなくなった。
ところが今回、信号故障で新幹線が遅延し、そのためにノロノロ運転が断続的に続けられ、あるいは先行する新幹線がつかえているからと線路上にたびたび停車した。にもかかわらず、そうした状況について英語での車内放送は一切なかった。
日本語が分からない人が乗車していたら、いったい何が起こっているのか分からず不安を感じたはずだ。
電車の遅れがどのくらいになる予定なのか、その原因が何なのかくらいは中学生英語で説明できるはず。その程度の基本的な応用力がないのだろうか。それとも典型的な日本人らしく、間違うのが恥ずかしいのか。
東京五輪が終わり、そしてコロナで外国人客が激減して、もうどうでもいいと思っているのかもしれない。
本や雑誌を探すとき、普段は駅から少し離れたK書店に足を運ぶことにしている。
駅ビルのなかには別の本屋(S堂書店)が入っていて、規模はそちらの方が大きく品揃え、特に雑誌関係は充実しているのだけど店員の態度が昔から代々よくないので(なぜだろう? 企業文化か)自然とK書店に行くようになった。
ただ今日は、駅ビル内の家電量販店に用事があって行ったついでに、そこに隣接しているS堂書店に寄ってみた。
3冊ほど本を選び、カウンターへ持っていく。店員はバーコードをスキャンした後、「このままでいいですか?」と訊いてきた。紙袋がいるかということらしい。仕事帰りでショルダーバッグを肩にかけていたが、厚めの単行本3冊はどうも入らない。
だから袋をくれといったら、カウンター上の張り紙を指さしながら「5円です」と言われた。その張り紙には「環境保全のため・・・」といつもの紋切り型の説明文句が。
袋が有料なのはいまやどこでもそうで、クリーニング店なんかでも同じ対応をされるので驚きはしないが、ついこの前までは頼みもしないのに買った本に(文庫本にまで)カバーを付けて寄こそうとした彼らの変わりようには驚く。https://tatsukimura.blogspot.com/2009/10/blog-post_26.html
そうした違和感を飲み込むのが苦手なので、つい一言。「ネット書店はパッケージングした本を無料で自宅まで送ってくれるのに、あなた方は本を入れる袋まで金を取るのですか」と。
「そういう決まりなので」と思った通りの返答が戻って来る。5円が惜しいわけではないが、どうも納得が行かないので買うのを止め、ネット書店でそれら3冊を注文した。
6,000円あまりの買い物だ。到着まで1日、2日かかるが、別に急ぐ本ではないからそれで充分。彼らはそうやって今日のいくばくかの売上を失い、顧客を失った。
そもそも、紙袋の原料となる森林資源は鉱物資源や化石資源(石油、石炭)と異なり再生可能な資源であるだけでない。森林資源として利用できる木々を伐採せずに放置してしまうと、資源として使えない木々が残り、将来的には森林資源が減少してしまう。
とりわけ森林資源に恵まれた日本においていは、森林環境の保全のために計画的な森林伐採を行うことが必要とされている。そして間伐材を有効に使用することが、国内森林伐採量の増加と環境保全の手助けにつながるのだ。
紙の使用がすべて環境破壊をもたらすわけではない。S堂書店が言っていることは、彼らのただのセコいコスト削減策の表れでしかない。
・・・なんて事にならなければと思っている。
昨日から、政府が主導する「全国旅行支援」が始まった。パック旅行で8千円、加えて買い物に使えるクーポン券が平日なら3千円付く。大盤振る舞いだ。また自民党の二階あたりが裏にいるのだろうか。
昨日、たまたまJTBの営業所の前を通ったら、さっそく長蛇の列ができていたので驚いた。並んでいたのは、ほとんどは年配者だ。
そもそも金と時間にゆとりがある人たちは、放っておいても旅行に行く。彼らは勝手に行けばよい。国や県が追加のお小遣いをやる必要はない。
一方で、非正規でしか働くことができない若い人や、子育てと仕事に追われている人たちなんかは旅行どころではない。今回の処置は泥棒に追い銭とまでは言わないが、それに近い。
コロナ禍の下で宿泊業がたいへんな状況にあったのは分かる。しかし、たいへんなのはそこだけじゃないし、観光に関して言えば、そもそも人には基本的に観光への欲求がある。この3年あまり息を詰めて暮らしていた人たちが、出かけていいよ、となると、それだけで皆どこかに行きたくなるのが自然だ。
だからこそ、税金を使って不平等な支援策を組んだりせず、まずはなりゆきを観察すればよい。そうしないのは、何かそこに政府の特別な思わくがあるからだろう。
また入国制限が解けたのを機に、間違いなく外国から大勢の人が観光目的で来日し始める。行きたくて仕方なかった日本に行けるのだから。しかも、これだけ日本円が安いというのは彼らにとっては大きなボーナスだ。
かたや、日本人はこの急激な円安によって易々とは外国旅行などに出かけられない。訪日してくる外国人観光客を横目に眺めるだけ。なんだか日本がかつての東南アジア諸国のようになった気分だ。
これから京都はもちろん、外国の人たちに人気の観光地はまた大勢の訪日観光客で埋め尽くされ混雑が避けられない。観光公害も方々で再開するだろう。
コロナで訪日観光客が途絶えた「あの頃」が懐かしい、、、と僕たちはじきに思うようになるかもしれない。
医師中村哲さんのパキスタン、アフガニスタンの活動を追ったドキュメンタリー映画を観るため、横浜のシネマ・ジャック&ベティへ。
中村さんは32歳の時に登山隊の一員としてパキスタンを訪れたことをきっかけに、3年前に不慮の死を遂げるまで実に35年間にわたってパキスタンとアフガニスタンで医療と現地の人びとの生活を支える支援を続けてきた。その彼を日本電波ニュース社のカメラマンが20年以上にわたり映像におさめていたものがこの映画だ。
ただ僕が心打たれたのは、彼がパキスタン、アフガンの支援を続ける理由を問われたとき「見捨てちゃおけないからという以外に、何も理由はないです」と答えていること。それは嘘でも衒いでもない、彼の心からの気持ちだと感じた。
最初、現地の医療支援のために行ったわけでもないところで、医療を必要としていながら見捨てられた人たちに出会って、自然と自分の役割が自分のうちに芽生えたということか。
発展途上国の人たちを救うことが正義だからとか、神の教えに沿って人助けを始めたとかではない。もっと基本のところ、誰もが人間として持つ倫理観からだ。
その後、彼は医者として人びとを救う傍ら、その地域で人びとが生き続けられるようになるには農業を続けることが不可欠であり、そのためには農業用水の確保が必須であると知る。その後は、自らが先頭に立ち灌漑工事を始めることになる。一から土木技術を学びながらだ。
その結果、砂漠だった地に水を引き入れ、赤茶けた土地を緑の大地に変えていったのである。
スランブール地区は、5年で緑の作物一面に変わった(before/after) |
ガンベリ砂漠には10年かけて畑と防風林ができた(before/after) |
目の当たりにしたその姿に「このままじゃいかんな」という怒りのような気持ちがフツフツと沸いてきたという。それをきっかけに、彼は大手化学会社のビジネスマンを辞めてNGOの活動に専念することになった。
「このままじゃいかんな」という理屈を越えた感情が彼の残りの人生を変えた。「見捨てちゃおけないから」という中村さんのシンプルな気持ちと同じだ。
僕たちは自宅にいながらパソコンやスマホでどんな情報でも手に入れられ、それによって世の中のこことを分かった気になり過ぎているかもしれない。知るだけじゃなく、感じることが必要なんだ。そして、それに時に正直にしたがい、自分を動かしていくことが不可欠ではないかと中村さんと水野さんに教えられた気がした。
昨日、ZOOMなどを用いて打合せをする際に、その相手とは初めてであるにもかかわらず画面をミュートにして参加する連中がいると不快に感じると書いた。
自分がどうしてそう感じるのか考えていたのが、分かった。ベンサムが考案したパノプティコン(panopticon)を頭のどこかで連想していたのだ。一望監視施設、あるいは一望監視塔と訳されている刑務所施設のことだ。
その監視塔にいる看守は独房内のすべての受刑者の様子を見ることができるが、看守の姿は受刑者からは見えない仕組みになっている。
フランスの哲学者ミシェル・フーコーは、『監獄の誕生』のなかでこのパノプティコンを「『見る/見られる』という一対を分離してしまう機構」であると分析している。
画面ミュートの参加者がいるZOOM打合せの不快感は、まさにそこにある。こちらからは顔の見えない看守から「監視」されている、なんとも言えない気持ち悪さだ。そうした状況、ほかの人たちは平気なんだろうか?
ベンサムの構想図 |
つい先日、あるコンサル会社とZOOMで打合せをした。その際、僕は大学の研究室かあるいは相手企業に出向いて打合せをしたかったのだけど、リモートでお願いしますと言われた。
グループ全体で30万人以上の社員を抱えるその通信会社系企業は、下記のように今も全社員が在宅勤務を続けているらしい。
それはそれで構わないが、その際にいくつか違和感を感じたことがある。
まず相手がどういった立場の社員か分からない。通常、初対面の相手と打合せを始める際には、まず名刺交換からスタートする。そこに書いてある所属部署名や肩書きでおおよそのあたりをつける。
名刺交換をしないとそれができない。相手はおそらく、ネットで私のプロフィールなどを調べているのだろう。だが、こちらは相手について知らない。初回に、相手が社内で何をしている人か尋ねたら部署名と肩書きを教えてくれはしたが、名刺を手にしていないとどうもピンとこない。
相手は複数人いたのだが、こちらと主に話すのは一人。残りは基本的にだんまり。私はそういった参加者のことを「のぞき」と呼んでいる。
そしてディスプレイに映る相手の顔は、マスクで半分隠されている。在宅勤務でいながら、いまだにマスクを外すという考えがないみたいだ。
ただ言えるのは、こうしたやり取りが打合せとして効果的とはとても思えないということ。この企業グループは、このまま今のようなやり方でリモートワークを続けたらどうなるのだろうね。人ごとながら心配になる。
一般的な話としてだが、ZOOM利用などのリモート会議においてマスク顔での参加ならまだいい方で、初回の打合せにもかかわらず相手側は一人だけが画面に顔を出して、相手企業の残りは全員が画面ミュートなんてのもよくある。
ビジネスの基本は、信頼関係。それが分かっていない。それとも、そうした会社は人様に見せられないような、よっぽど不細工な顔の集団なんだろうか。
先週末、死んでみた。いやいや、実際は病院の検査室で麻酔を打たれただけのことである。
看護師が、腕の血管に生理食塩水の袋がつながった針を刺した。そのまま診察台へ行くよう言われ、針の刺さった腕を下にしベッドに横たわり、からだの力を抜く。その後、医師が注射針の管に麻酔薬を注入すると、いつの間にか眠っていた。
意識が戻ると、(当たり前だが)検査は終了していた。その間の記憶はまったくない。普段、レム睡眠とノンレム睡眠を繰り返しながら自分のベッドで眠っているのとはまったく違う経験である。夢など見ていないし、完全に意識が止まっていた。つまり、自己の存在が消えていた。
目が覚めて思ったのは、「死んでいる」のはこうした状態であるということ。痛みも苦しみも何もないし、怖い閻魔様が出てくる訳でもない。
なあんだ、死ぬって簡単、らくちんだって思ったね。だからこそ、人は生きているあいだは生きていればいいんだ。
作家の小川糸さんが、「屈斜路湖の恍惚」と題した文章を書いていた。彼女は昨夏の終わりごろ屈斜路湖畔の宿に泊まり、そして湖を裸で泳いだという。それを目当てに出かけたわけではなく、たまたまそうした機会があったということ。
気持ちよかった。皮膚の中に埋まっているひとつひとつの細胞が弾け、歓喜の雄叫びを上げる。それは、半世紀近く生きてきた人生の中で、最大の開放感だった。
というくらいだから、その気持ちよさはよっぽどだったに違いない。そして、
私というひとりの人間が、地球に解き放たれたかのようで、自然と一体になるというのはこのことだったかと納得した。
ほとんど恍惚とした宗教観のようだ。彼女は翌朝、夜明け前に起き出してもう一度屈斜路湖に裸で入った。
自分の中にうずくまっていた野生が、じょじょに目覚めるのを実感した。
いい経験をされたと思う。湖に裸で入り泳ぐだけのこと、ただそれだけで自分の中の何かが変わるのを実感でき、周りの自然との一体感を身につけ、そして野生へと還っていけるなんて素敵だ。
信じてもらえないかも知れないが、子どもの頃は早起きだった。夏休みなんかは、とりわけ毎朝すごく早起きしていた。そして、ときおり朝靄の中、家の裏手にある山に分け入り、自由勝手に歩き回っていた。その山あいの谷間に、周囲の山からの湧き水を称えた池があった。
よくそこで裸で泳いだ。そのときの冷たい水の気持ちよさは忘れられない。快感と少しだけいけないことをしているんじゃないかという罪の意識のようなものがあった。
水はエメラルド色で、広々とした池の底は見えない。池の真ん中あたりまで泳ぎくると、下から何か得体の知れないものが現れて、足首を捕まれて池底へ引き込まれるような感覚に襲われた。
快感と開放感、自然との一体感、孤独感とちょっぴりスリルも。だから、小川さんの屈斜路湖ひとり全裸水泳の文章に僕も思わず引き込まれてしまった。