2025-10-19

教壇に立つ教師の半分は不要になっていくんだろう

「KDDIがAI上司 実在人物を再現、販売も」という記事を見かけた。

同社が開発したのは、社内の特定の人物の考え方を身につけて再現したというAIエージェント。AIで再現された彼が部下の書いた提案書をチェックしてアドバイスを与えたり、指示を出したりするらしい。

生命保険会社が、各営業部員にAI秘書を持たせるようにした話をこの前紹介したばかり。企業の中にAI上司、AI部長、AI取締役などがすでに登場している。
https://tatsukimura.blogspot.com/2025/09/aiai.html
https://tatsukimura.blogspot.com/2025/08/ai.html

教育の場にもまもなくAI教師が現れる事だろう。中等教育以上の場で、生徒や学生一人ずつにAIエージェントがつけば、大方の勉強は学校に行かなくても済むようになる。学ぶ者一人ひとりに合わせて最適なカリキュラムと指導を24時間いつでも提供してくれるからだ。

大学の講義なども、今のように同じ科目の担当を複数の教授が分け合ってやるようなことは不要になる。AIエージェントを元にしたAIプロフェッサーが一つあればそれで済むはず。

そういえば、先日、僕の授業を一番前の列で聞いている学生がPlaud Noteを使って録音しているのに気づいた。

このサービスは録音した音声データを発話者別に分けて文字起こしできるだけでなく、内容を要約したり、会議であれば自動的に議事録を作成してくれたりする。

これで僕の授業をすべてデータ化しているとすれば、それをもとに僕の授業用AIを作ることは可能だ。

教室ではスクリーンに映し出された僕のアバターが代わりに講義を行い、クラスの学生たちからの質問などにもその場でAIが回答したり、アドバイスするようになるだろう。

これは楽チンだ。早くそうならないものか。ハハハ。

2025-10-17

SNSなんか止めればいいだけ

9月末、文化庁は「国語に関する世論調査」の結果を発表した。そのなかで、SNSが日本語に多大な影響を与えていることが示されている。

朝日新聞紙上で歌人の俵万智さんがそうした現状についてインタビューに応えていた。彼女は、「『悪い二極化』が起きている」と語る。

SNSでは、投稿でちょっと角が立つと、誰かから揚げ足を取るような「クソみたいな返信」、通称「クソリプ」が飛んでくる。場合によっては炎上する。私も色々と経験しています。そんな返信を読むたび、少し傷つく。たぶん、こうしたことで、みんな少しずつ傷ついて、防御的になっているのでしょう。
 SNSを意識した日本語の表現は、波風を立てず、人から攻撃されないような無難な言葉と、わざと過激な表現で耳目を集め、投稿や動画の視聴回数を増やそうとする言葉の「悪い二極化」が進んできていると思います。どうしてこうなってしまったのか。 

「クソリプ」と呼ばれるものについては、彼女は今年4月に出版した『生きる言葉』(新潮新書)でも詳しく取り上げている。よほど「クソリプ」は彼女のこころに棘のように刺さったのに違いない。

同書で彼女は「クソリプ」の言語学的分析を試み、その内容を8つに類型化している。神奈川県立高校の元国語教師でもある彼女らしい。

このことは取りも直さず、彼女が匿名の、つまり返す先の宛のない相手からの数々の言葉に「傷ついた」ことを示している。とにかく悔しかったんだろう。そして、いまも悔しいと感じているに違いない。

それら8つのタイポロジーは本を読んでもらうとして(その箇所だけでなく、この本全体がとてもよい本である)、僕がいささか解せないのは、俵さんがそうした酷い目に遭いながらなぜいまだSNSを続けているのかということ。

彼女はSNS(X、旧ツイッター)で短歌を発信しているらしいが、Xを使わなくても彼女であれば少し数がまとまれば短歌雑誌でも新聞でも雑誌でも掲載してもらえるんじゃないのないのかな。違ってる?

それはそうと、彼女が先の朝日の記事の最後に書いてる「二極化」は、実際にいまぼくたちの周りで確かにそうなってきているのだろうと思っている。

そして、それら2つの方向性。つまり、読み手に最大限の注意を払って少しでも波風を立たないように超フラットな言葉遣いをした表現を心がけるするものと、敢えて炎上を承知の上で荒波を起こそうとする2つのやり方は、実際は二極化ではなく根本のところで軌を一にしたコインの表と裏。

そのコインで日々の生活を送っている限りは、コインの表か裏かどちらかを必ず相手にみせなければならない。びくびく震えながら物を言うか、あえて炎上を狙ってかき回すか。

だからこそ、いっそのことそうしたコインなど投げ捨ててしまえと言いたくなる。そんなものなくたって毎日は過ごせる。

解決法は簡単。SNSなんか止めればいいだけ。クサい臭いは元から絶つのが基本だ。そうした簡単なことが、なぜ皆できないのかネ。

2025年10月15日付の朝日新聞紙面。SNSが日本語に及ぼす影響と「悪い二極化」を扱う記事の見出し
朝日新聞 2025.10.15

2025-10-13

ダイアン・キートンと「アニー・ホール」

ダイアン・キートンが79歳で亡くなった。死因などは公表されていない。

彼女が出演した映画を最初に観たのは、中学時代に友人と行った「ゴッドファーザー」。だが、あの男の群像を描いた映画のなかに登場した女優は、誰一人ぼくの印象に残らなかった。ダイアンもそのなかのひとり。彼女の影が薄かったとかではなく、そういう映画だったからだと思う。

強烈に覚えているのは学生時代に観た「アニー・ホール」。彼女がアカデミー主演女優賞を獲得した、ウディ・アレンが監督した映画である。

この映画は面白かった。アレンとキートンが劇場の入口で開場を待っているシーンは忘れられない。当時のメディア界を一世風靡していたマーシャル・マクルーハンが本人として登場した、あのシーン。こんな演出もあるのかと、たまげた。 


彼女の出演作ですぐ思い出せるのは、「アニー・ホール」以外に「マンハッタン」「インテリア」「ミスター・グッドバーを探して」「レッズ」など、どれも学生時代に観た作品だ。 

90年代以降も彼女は多くの作品に出演し、それらはどちらかというとシリアスなものではなくロマンチック・コメディと言われる類の作品で、ぼくの個人的な印象は薄かった。

これは彼女の女優性の問題ではなく、プロデューサーなど作品の作り手側の問題だったと思っている。 

つばの大きな帽子がトレードマークだった、個性的で魅力的な女優さんだった。

 

2025-10-12

皇室関係者のデタラメ発言を嗤う

金と政治の問題となると、まずその名が出てくる萩生田という自民党の裏金政治家がいる。

今回、高市自民党総裁が裏金疑惑の中心だったその人物を自民党の幹事長代行というポストに就けたことに関して、各所から批判の声が上がっている。

それに対して、明治天皇の玄孫(やしゃご)だかなんだか知らないが、T田という男が萩生田起用を疑問視する巷の声を批判している。

T田は、萩生田光一は小選挙区(八王子市の一部)で当選しているのだからその役員起用を疑問視するのは間違っているとし、「民意の決定を侮辱し民主主義を否定する公明党や評論家には猛省を促したい」とまで語る。

猛省すべきはそっちの方ではないのか。

選挙で当選しているから(ということは、議員であれば誰もがということになるが)どんなポストに就けようがそんなの勝手じゃん、ということを言っているようだが、その考えは真っ当ではない。

選挙で当選したのは「議員になった」というだけのことで、その人物の能力や人格や高潔さを示す尺度ではないのだよ。

昨年の衆院選で私が住む神奈川7区から立候補した鈴木馨祐という自民党麻生派の候補は、小選挙区で落選した。が、比例区で復活当選し、石破首相によって法務大臣に起用された。

つまり、選挙民の民意を得られなかった人物が大臣になっているわけだ。T田が民意の尊重を振りかざし利いた風な口を叩くのであれば、鈴木の法相就任をなぜ批判しないのか。
 
言っていることに筋が通っておらず、デタラメなのである。

2025-10-06

今日は中秋の名月

朝夕やっと涼やかになり、秋の訪れを感じるようになった。



スチール写真も撮ったが、月はいつも同じだから面白くないので動画も撮ってみた。
 
夜空に雲が流れる感じに、なんだか映画館で本編上映前に見るアメリカの製作会社のオープニング映像を思い出した。あれはどこの会社のだっけ・・・ 

2025-10-05

40年間未公開。馬鹿げた日本の映画興行界

ポール・シュレイダーの「MISHIMA」(1985年製作)が、今月から日本で初公開されることになったらしい。
https://www.yomiuri.co.jp/culture/cinema/20251001-OYT1T50022/

新聞では今回の初公開が三島の生誕100年の年だからとか、人を小馬鹿にした説明がされているが、なんだそれは。
https://tatsukimura.blogspot.com/2012/07/mishima.html

もしそんなことで初公開するのだったら、さっさと日本でも公開すればよかったわけでね、東宝が怠慢こいてただけじゃないのかね。 

1985年製作の映画『MISHIMA』日本初公開の報道を参照中に撮影したデスクトップのスクリーンショット

お願いだから、働かないでくれ

自民党の新総裁になった高市があいさつで「働いて、働いて、働いて、働いて、働いてまいります」と発言した。

お前さん、今までよっぽど働かなかったんだなと、思わず突っ込みを入れてしまいたくなるが、新総裁になったからといって急変するのもどうかと思うよ。

たぶんこのまま新首相指名を受けるのだろうが、彼女にはぜひこれまで通り働かないでいて欲しいと願っている。

物事をよくするために必要なことは、能力のある人が正しい選択をして、それを実現するためにハードワークすることだ。 

逆に、最も悲惨な結果を招くのは能力のない人物が間違った選択をして、それを全力で推し進めていってしまうことである。その結果、当然ながら破綻を招くことになる。

名門と言われてきた企業が凋落するのは、だいたいこのケースである。
https://tatsukimura.blogspot.com/2017/11/blog-post_19.html

お願いだから、働かないで、頑張らないで。日本のために。

2025-09-28

リン・シュンロンの新作

所用で瀬戸内海の豊島を訪ねた。午後、三輪バイクのTUKTUKを港でレンタルして島内を少し廻る。

島の南側にある甲生(こう)の漁港をたずねたら、そこにアート作品の新作があった。


台湾出身のアーティスト、リン・シュンロンによる「国境を越えて・祈り(Beyond the Border - Prayer)と題した作品だ。

197体の子どもの像が海のすぐ近くに並んで立っているもので、今年の夏に展示を始めたばかりらしい。

197体は世界197国・地域をそれぞれ象徴し、それぞれの像の胸にはこの島からそれぞれの国の首都までの距離が、背中にはその都市の座標(緯度経度)が印字されていて、個々の像はそれらの国が位置する方角を向いている。

 


この静かな島の、静かな漁港に、もの言わぬ200体近くの子どもたちが夕刻近くの西日を浴びながら、両手を胸の前で組みじっと佇んでいるさまは、世界の各地で引き起こされているさまざまな不条理と惨劇を悲しむとともに、その終わりを祈っているかのように見えた。 

2025-09-27

モグリを追い出し、ますます管理が進む大学に未来は作れるか

新学期が始まるのに際して大学の事務所から「授業実施に向けたご案内」と称する文書が送られて来た(実際のところは、パスワード保護された大学サイトのページだが)。

その中に聴講禁止の項目があった。曰く「大学全体のルールとして、履修登録をせずに授業に参加すること(聴講)は禁止されております」。

これまでも聴講の学生を認めちゃダメよと言われてきたが、それはビジネススクールというちょっと他の学部や研究科と違う性格があるからだと思っていたが、大学全体のルールだったとはね。

自分が大学生の頃はニセ学生なんてのは珍しくなかった。自身も友人に誘われ、他学部や他大学の授業にモグリで参加したことも多々あった。

同様に他の大学の学生が早稲田の授業にモグリで参加していたのだから、行ったり来たりでまったく自由なものだった。

それが、いつからか大学全体のルールとして禁止されていたとはーー。その理由は何だろう。そうした学生が教室に存在することで授業の妨げになるのなら別だが、一般的にモグリで授業に参加している学生は一般の学生以上に真剣に取り組んでいるので、むしろ歓迎のはずだと思うのだけど。

推測するに、教師側の理由ではなく(もしそうであれば、それらの学生を教室から追い出せばいいだけ)、正規の履修学生が大学側に苦情を言ったからじゃないかという気がする。

「自分たちは授業料を払っているのに、非正規の学生はそれを払っていないのは不公平だ」とか何とか。

それに対して大学当局が反応して、個々の実状などにお構いなしにモグリ(聴講)を不可にした、というのが実際の話のような気がする。

だけど、もしそうだったらどうなんだろう・・・。大学は本来のところ、もっと大らかでいい加減でいいんじゃないのか。

知りたい、学びたい、議論したいという学生が方々から集まり、同じ時間を共有することで刺激が生まれ、互いに影響を与えながら新たな知と関係が生まれてくるというものだ。

いろんな類の学生が教室にいた方が、絶対にオモシロイ。新しい発想を生む活力は、本当はそうしたところからしか生まれないんだけどね。

知の創造の場として日本の大学が弱体化している一要因だ。 

2025-09-26

相変わらずひとを馬鹿にしたMicrosoftのやり方に怒る

Skype(Microsoft)から「クレジットは7日後に無効になります」とのメールが届く。例によって返信不可のメールで。
 



クレジット残高をアクティブにする方法が記されているので、一応それを行おうとすると「Skypeは廃止されました」というメッセージが出て意味をなさない。

 


お手上げである。大した金額ではないが、金額の大小の問題ではないと思う。

一方的にそれまで提供していたサービスを廃止し、そのサービスを利用するためのクレジット、つまりデポジットをそのまま吸い上げるという、マイクロソフトらしい利用者を見下した乱暴でけしからん態度。

自社の都合でサービスを廃止するのだから、事前に受け取っていた金額は顧客が何も言わなくても一旦返却するのが筋だろう。それをかすめ取ってまで利益を上げたいのか、マイクロソフトという企業は。

世の中では、これを詐欺と呼ぶ。 

私はスカイプをこれまで13年間使ってきた。その利用者に対し、よくこのようなやり方がとれるものだ。

2025-09-24

なぜ大屋根の保存が「レガシー」なのか、理解不能

関西の複数の大学人がそろって「万博会場の大屋根(リング)をできるだけ多く保存すべきだ」とする意見書を万博協会、大阪府、大阪市に提出した。

提出したのは大阪大学、近畿大学、大阪公立大学、関西大学、関西学院大学、同志社大学、立命館大学という関西の主だった大学の総長ないし学長、あるいは理事長である。

理由は、リング(大屋根)は万博のレガシーであり極めて貴重な文化的・歴史的な価値があるからと言っているが、よく分からない。

あの建造物の文化的な価値とは何なのか?  具体的に何がどう文化的なのかまったく不明だ。まして、歴史的な価値があるかどうかなど、なぜ分かるのか。ぼくには理解がむずかしい。

彼ら関西の大学人によると、解体すると「文化的損失として後生に大きな禍根を残す」らしいが、何が彼らをしてそう言わせているのだろう。

7つの大学のトップが揃っていきなり「意見書」を提出するという重々しさはどう考えてもヘン。裏には何があるのかナ。 

岡本太郎による<太陽の塔>は残してくれてよかったと思っている。あれは、ただの建造物ではなく、 確実にあの時代(高度成長期の60〜70年代)の日本の空気を今に残すモニュメントになっているから。

しかし、いま開催中の万博の大屋根と言われている建造物はどうか? 太陽の塔とはまったく意味が異なっていると思う。

それにしても、ある種の人たちは何かというと「レガシー」という言葉を振り回したがるみたいだ。そうした人たちに共通するのは、どうもアタマの中味がすでにレガシー(時代遅れ)だということやな。 

2025-09-21

やっと開花

2か月ほど前に手に入れた赤以外(黄色とピンク)のハイビスカス。ずっと蕾のままだったのが、お彼岸を迎えていまごろ開花した❗️

今年の猛暑が理由で咲くに咲けなかったのかもしれない。

2025-09-20

人をつくづく馬鹿にした説明をする日本の外相

日本政府は、パレスチナの国家承認をしないことを決定した。

https://www.47news.jp/13178329.html  

ギョロ目の岩屋外相が19日の記者会見でそれを語った際、理由として述べた「承認によりイスラエルが態度を硬化させ、パレスチナ自治区ガザ情勢の好転にはつながらないと判断した」は明らかにロジックがおかしくはないか。

彼が記者会見で言わんとしていることが、もし、日本政府はパレスチナ自治区ガザ情勢の好転を望んでいる→そのためには、イスラエルが態度を硬化させるのは好ましくない→そのためには、パレスチナを国家として認めないことが好ましい、だとしたら、ギョロ目に訊ねたい。

日本政府がマジにパレスチナ情勢を好転させること(好転という表現が曖昧だが)を狙いにパレスチナを国家として承認しないのであれば、22日の国連総会でパレスチナを国家として承認することを明らかにしているフランスや英国、オーストラリア、カナダなどの国に対しても国会承認すべきではないと日本は働きかけるべきだ。

また、既にパレスチナを国家として承認している世界147国に向けても承認取り消しを求めるのか、ニッポンは。
https://tatsukimura.blogspot.com/2025/09/blog-post_13.html

ギョロ目は、「パレスチナ側はしっかりとした統治体制を構築する必要がある」とも記者会見で強調したらしいが、冷静に考えれば、連日激しい空爆を受けて街中が瓦礫に埋まり、日々餓死者が出ているような状況で今それができるわけがないことくらい誰にだって分かるはず。

そうした状況を早期に変えるためにもパレスチナを国家として承認することで国際社会がイスラエルに圧力を加え、これ以上の悲惨な攻撃を止めさせなければならないはずなのに。

親分(米国)に言われるまま追従を続けるのでは主権国家とはとても呼べない。同盟国といった関係ではなく、これではまさに51番目の州である。

日本の外交は根底から世界の信頼を失うことになった。 

2025-09-19

企業がやりたいこと、顧客がやらされたくないこと

中国地方のある地を訪ねることになったのだが、そこは地方ゆえ現地の交通機関がままならない。そこで、移動のための足としてレンタルバイクの店が駅前にあるのを知り、予約することにした。

サイトで日にちと利用時間を入れて予約しようとすると、クレジット・カード情報の入力を求められた。料金全額先払いらしい。気が進まなかったが、そのとおりカード情報を送ったら、支払い完了と予約完了のメールが届いた。

翌日、その会社からメールが来て、指定のサイト上から運転免許証の画像を送付せよと言ってきた。事前にその手続きをしない場合は、レンタルバイクの利用ができないと書いてある。

そうした条件を設けているのであれば、客に利用代金を支払わせる前にそのことを案内すべき。

免許証の画像情報を、信頼に足らない企業に渡すのも気が引けるので放っておいたら、同様の内容のメールがまた来た。またしてもnoreply@XXXXXのメールアドレスから送られてきている。

記されているURLを試しにクリックすると、今度はいきなり会員登録のページが現れた! まず、名前などの個人情報を記入させて自社サービスの「会員」にしたいらしい。こっちは現地でその日に数時間レンタルで使うだけなのだが。

こうした顧客対応の手法は、まったく的外れであると思う。こんな不愉快なやり方で客に会員登録させたって、その企業に対しての満足感もロイヤルティも感じるわけがない。むしろ逆なのは明らか。

電話番号を調べ、免許証の事前送付に関して問い合わせたら、システム上そうなっているので仕方ないと言う。が、そのシステムとやらを導入したのは、お前たちだろうと。

不安感は払拭できるはずがなく、その企業にPマーク認証は取得しているのか問うたら、「何ですか、それは?」と訊かれてしまった。 

この会社だけの特殊な例ではない。近年は、顧客の個人情報管理も含めてこの手の野放図なビジネスが横行している。

顧客の気持ちをまったく無視した、不出来な顧客管理システムを作っているIT屋がいるのだろうが、結局、何も価値を創造していない。そうしたシステム会社も、そのシステムを採用する会社もお粗末すぎる。

2025-09-14

高畑勲と手考足思

麻布台ヒルズギャラリーで開催されている「高畑勲展」では、彼が60年近く携わってきたアニメーションを中心とする、ほぼすべての作品についての軌跡を見ることができる。

作品の完成に至る途中の圧倒的な数のスケッチ、コンテ、アイデアメモなどだが、とりわけなかでも印象に残っているのは、映画「火垂るの墓」の脚本作成のための高畑のノートだ。

野坂昭如の原作本を全文コピーしたものを数セット用意し、場面、時間、人物にマーキングしたうえで時系列ごとに分けてノートに切り貼りしている。そして、その余白には彼が映画で描こうとしている各シーンの状況説明や台詞、カメラワークなどが書き込まれている。

 

野坂の原作にはなかった「死んだ兄妹が物語を見つめている」という映画での二重構造は、高畑がこのノートを作りながら構想していくなかから生まれた。

「手考足思」という河井寛次郎の言葉があるが、高畑の仕事はまさにそうだ。作品を作るに際しては画で考え、文字で考えるのはもちろん、可能な限りその舞台となる地を内外を問わず訪ねて、その地の歴史や人物に関することなどを渉猟することで企画書をまとめていった。

高畑のこのノートを見ることができただけでも、出かけた甲斐がある。「ものをつくるということ」を、あらためて考えさせられた。 

2025-09-13

日本が独立した主権国家であるということ

国連加盟国193ヵ国のうち147ヵ国が、パレスチナを国家として承認している。

また非人道的攻撃を続けるイスラエルへの圧力を目的に、新たにフランスや英国、オーストラリア、カナダなどが今月の国連総会での国家承認を準備している。

一方で米国は日本に対して「パレスチナ国家承認は情勢を悪化させる」「日本が国家承認すれば、日米関係に重大な影響がでる」などとして承認しないよう圧力を加えている。

国連総会は今月22日、ニューヨークの国連本部で行われる。石破政権が決断できるかどうかだ。 

東京新聞 2025. 9. 13
 
昨年12月、トランプ大統領が「カナダは米国の51番目の州になるべきだ」と発言したとき、他国の事ながら実に嫌な気分になった。

今回、日本政府が米国の圧力を受け、いつもように腰砕けになり、パレスチナの国家承認を見送れば、名実ともに日本は主権国家ではなく米国の属国、あるいはその一部(51番目の州)となる。

終わりが決まった石破政権がどう踏ん張れるか。これまでの政権と同じく米国の尻を舐めるのか、それともパレスチナ人の命を救うために当たり前の人道的国際協調行動をとるのか、その意思決定に注目している。 

2025-09-10

議事録は誰が何のために作成するか

大学3年の時、学生の身分のままある企業の正社員になった。それから20年間にわたって日英米の複数の企業に勤め、その後フリーランスのコンサルタントなどをやった後に学界に移り25年が過ぎようとしている。

大学という世界にすっかり慣れているはずだが、今だに面食らうことがある。その一つが会議の議事録だ。

新型コロナ以来、すべての会議はリモートで行われている。事前に議題と基礎資料が送付され、それにそってZOOMで行われるので対面でやっていた以前よりずっと会議の進行が早くなった。

会議内容は事務局によって全部収録がなされているので、本来であれば議事録などあっという間に作成できるはずなのだが、実際はそうではない。

場合によっては会議からひと月近くたって議事録のドラフトが送られてきたりする。

しかも、そこに記載された内容はこれ以上ないほど削られた、ほとんど議題一覧と変わらぬような代物である。まるで空腹の猫にしゃぶり尽くされた魚の骨のようだ。

ほんとうは何も記さない白紙文書をして「議事録」にしたいと思っているのだろうと思ってしまう。明文化した記録を残したくない考えが底にある。

半年ほど前から仕事で、文字起こしを自動でやってくれるボイスレコーダーを使っている。会話を文字に起こしてくれるだけでなく、AIが録音データから議事録も作成してくれる。その精度は、気になったところをちょちょっと手直しすれば問題ないくらいの高レベルだ。 

あるとき、友人たちとAIによる議事録作成についての話になった。そこにいた人たちの共通の認識として、誰もが会社に入って初めの頃は会議での発言など期待されることなどなく、ただひたすら会議室の後ろの方で記録を取らされていたとーー。

そして、会議が終わってからが仕事の本番。どれだけ早く、そして正確に会議の議事録をまとめあげられるか上司から求められた。

そうやって下積み仕事として議事録作りをすることで、結果として自分たちの仕事の具体的な内容、仕事全体の進め方、参加者それぞれの立場や考え方など多くのことを学び、身につけていったという点で僕たちの意見は一致した。

生成AIが登場してきたことで、そうした若いときならではの貴重なトレーニングを積む機会がなくなったことを考えると、今の若い連中は可哀相だと思う。

2025-09-08

3年ぶりの皆既月食

9月8日の未明、というか深夜に南西の空に3年ぶりの皆既月食がみられた。太陽と月の間に地球が入って月が欠ける現象である。

予定では部分食が始まるのが午前1時27分、皆既月食の始まりは2時半。今回は、満月が地球の影の中の中心からわずかに南側を通る深い皆既月食であり、皆既が1時間半近く続くすばらしい月食だったのだが、いかんせん時間帯が悪すぎた。

食分が0.53である2時まではなんとか起きていたのだが、結局赤銅色の皆既月食は見ずに寝てしまった。残念。次回の皆既月食を楽しみにしよう。

ベランダに三脚を持ち出し、カメラを向けてみた。 

午前1時(満月)
 
午前2時(食分0.53)

2025-09-06

「バード ここから羽ばたく」

主人公は12歳の少女ベイリー(先日観たラッセ・ハルストレムの映画の主人公犬と同じ名前だ)。舞台は特定できないが、海が近くにあるイングランドのとある町。

彼女の父親は、今は離婚した女性との間に彼が14歳の時にベイリーをつくった。お気楽な不良上がりで定職にも就いていない。元の母親は幼子を抱えながら、これまたクズの男と暮らしている。

登場人物全員が金がなく、教育も受けておらず、感情の赴くまま荒れた日常をただ過ごしているように見える。そこにバードと名乗る奇妙な男が現れ、ベイリーは彼の親探しを手伝うようになる。

今の英国の一面を描いた社会派リアリズムの映画かと思って見ていたら、終盤になって一気に寓話の世界へストーリーが展開し驚いたが、それはそれで12歳という「これから何でもあり」のベイリーの未来を反映してるようだった。

映画には鳥はもちろん、馬や犬、猫、魚などの生き物が出てくる。どれも無垢な自然を象徴しているようだ。そして明日を思い煩わずに「今」を生きている存在として描かれている。

映画を見終わって劇場を出たあと、頭の中でずっとジョン・レノンの「フリー・アズ・ア・バード」が鳴っていたのはなぜだろう。


2025-09-05

「AI秘書」が「AI部長」になる時

つい先日、職場におけるAIエージェントの登場について書いたら、早速そのとおりの記事が現れた。 

生命保険会社の明治安田が、社員にAIエージェントを使えるようにするという新聞記事。見出しは、「明治安田「AI秘書」5万人」「指示待たず営業提案や助言」とある。

営業職の社員が持って帰ってきた客の面談データを元に、「AI秘書」が客の好みに合わせたイベントの案内文を作成したり、保険の提案書をまとめてくれるのだ。

日経 2025.9.5


便利この上ない。だが、ちょっと待てよ。

今後その会社では、営業マンがお客さん個人についてのデータ、例えば趣味や健康状態などをAIに伝えると、AIエージェントが自律的に効果的な営業アプローチを考え、同時に適切な保険の提案書を作成して持たせてくれるというのは、何か変じゃないか。

それだけ聞いて感じるのは、仕事を実際に仕切っているのはAIエージェントであって営業職の社員じゃないってこと。営業マンたちがやるのは、ただの御用聞きの仕事だ。 

つまり「AI秘書」は、実際は「AI課長」「AI部長」で、人間はその小間使いをやることになる。

明治安田生命の経営者はそれを分かっていながらも正直にそうとは言えないから「AI秘書」と呼んでいるのである。

その先に何があるかというと、提案書をAIが作成していることくらい客にもすぐ分かるので、やがて「人抜き」がなされるようになる。

つまり、顧客が保険会社のAIエージェントと直接やり取りすることで、最も気に入る生命保険の提案を受けるようになるのが一般的になるはずだ。

結果、明治安田生命の場合では現在3万7千人いる営業職の多くは不要となる。 

これが経営者の狙いだろう。なんせ圧倒的な費用削減が実現できるのだから。

社員は自分にも秘書が付いた、などと喜んでいる場合ではないのである。 

2025-09-03

名前が大切なのは分かるが

書留郵便を受け取る際、名前の本人確認ができないから「郵便物を渡せない」と配達員に執拗に言い張られてしまった。 

三井住友系の金融機関がカードを送ってきたのだが、その登録名を姓名ともにカタカナにしてあったので、郵便物の宛先もカタカナ表記になっていた。

僕の名前は名字も漢字も読み方はひとつだ。確かに「達也」は「タツナリ」と読むことも可能だが、そう読む達也さんにあったことはない。

ところが書留を持って来た日本郵便の社員は、封書の宛名と同様のカタカナ名が表記された身分証明書がないとそれを渡せないことになっているというではないか。

運転免許証もパスポートも示したが「名前のカタカナ表記がないのでダメ」だと言う。お手上げである。パスポートにはアルファベットで名前が表記されているので、それをカナにすれば照合できると言っても聞かない。

いつまで経っても埒があかず、最終的に彼から手渡された携帯電話で郵便局の彼の上司と怒鳴り合いをした挙げ句、やっと封筒を手渡された。ホントばかばかしく、ほとほと疲れてしまった。

なぜそんな事を思い出したかというと、昨年5月施行の改正戸籍法で戸籍名へのフリガナの表記基準が変更になったという記事を目にしたから。この場合の変更というのは、読み方に制限をかけるという変更である。

名前には親などの思いが込められているだけに扱いが一筋縄ではいかないことは理解できるが、なかにはどうやっても読めない名前の「読み」がある。そうした名前の漢字と読みのアンマッチングも名付け親にしてみれば子供の大切な個性の一つなのかも知れないが、そうした名前を付けられた方はそれを感謝するだろうか。

いつも間違って名前を呼ばれる、あるいは読めないので一度では呼ばれない、などの社会生活上の戸惑いに一生煩わされることになる。 

2024年に生まれた男の子に付けられた名前で最も多かったのが「陽翔」らしい。ただ、この名前(漢字)の読み方はとっても複雑。

ハルト
ヒナト
ハルカ
ヒナタ
ヒロト
アキト
ハルヒ
ヒュウガ
ヒビト
ヤマト
ヒカル
という11種の読み方、つまり11種の名前があるというからビックリ。親(名付け親)が何を考えてのことかは推測するしかないが、正確には名前(呼び名、呼ばれ名)がどうというより、「陽」「翔」の漢字を使いたかったわけだな、これは。

名前は大切である。その人にとっての欠かせない重要なブランド要素であることは間違いない。だが、期待されるとおりに読まれない、呼ばれないではそもそも名前としてきちんと機能していないとも考えられる。

名前の重要性と個別性を承知の上で言うが、名前とは結局は記号なのだ。記号として役立たなくては意味をなさない。

例えば太郎や次郎など、たとえ名前が平凡で古風だからといって、その子が凡人になるかということとはまったく無関係。名付け親はよくよく考えた方がいいと思う。

2025-09-01

AIを使うか、AIとともに働くか、AIに働かされるか

経済産業省が発表した試算によると、今から15年後の2040年に「AIなどの活用を担う」人材が498万人必要となり、そのうち326万人が不足するらしい。

だが、その498万人という具体的な数字の内訳は分からない。この場合、分からないというのは、いくら調べても出てこないってこと。それこそ生成AIに徹底的に探索させたが見つからない。つまりは、経産省が元々それについて発表していないのだ。

中味を発表せずに、そうした数字だけを示す意味があるのかどうか首を傾げる。塊としての498万人という数字は、産業連関表などを用いて産業構造の今後の変化を予測して編み出したものらしい。

15年後に産業構造がどう変化しているかを過去のデータをもとにどこまで推定できるかだ。それこそ今から15年前に、生成AIの登場と社会への浸透が急速に進む現在の姿を予測した人がいたか。いやしないよな。

頼るものが他にないのかもしれないが、役人が産業連関表で未来の社会を予測して政策を立案するのはもう止めにした方がいい。もっともらしく聞こえるだけで、当たりはしないのだから。そんなこと、自分たちも分かっているはずなのに続けている。

「AIを活用できる」人の育成が急務だとの考えは文科省も同様に指摘しているようだが、ここでもAIを活用するとは何なのかははっきりしない。またしても役人がよく分かってないのだ。 

思い出すのは、いまから30年前。ウィンドウズ95が発売され、爆発的に売れた。そしてパソコンのブームが到来した頃のこと。当時はパソコンを使える、具体的にはワープロソフトで文書作成ができるとか、スプレッドシートで計算ができるといったことが、ビジネスマンの特殊技能として通用した。

いま、あなたはどんなスキルがあるかと聞かれて、パソコンが使えますと言ってもお話にならないが、当時はそれが通用した。現在、そのパソコンに当たるのがAIなんだろう。

パソコンができる、が技能として認められていた時期は間もなく過ぎ去り、それはただのツールでしかないことを社会が理解していった。

今の時代のAIは30年前のパソコンと同じと考えた方がよいように思う。肝心なことはそれを活用できるかどうかといったテクニカルなことではなく、どれだけオリジナルな発想をアウトプットできるかどうかなのである。

何をやろうかという意思と評価はつねに人間側にあるべきもの。どうやるかは、やりたければAIの助けを借りてやればいいだけの話だ。 

話を戻すと、2040年、「AI活用人材」が国内で300万人不足するなどありえないと考えている。情報処理全般は、そのころには間違いなく意思決定も含めてAIがまかなっているはず。ここで言う情報処理全般とは、仕事そのものである。

最後まで人の手に残されるのは、包丁やハサミ、メスを扱う仕事、つまり調理、理容、外科手術といったものだ。それとスポーツ競技と芸術活動(の一部)、建設現場、そして第一次産業である。

まもなくAIは、エージェントとして自律的に考えて仕事をするようになる。それらを指揮するのは一部の人間と、そのアシスタントとなるマスターAIエージェントだ。 

そう考えれば300万人が不足するどころか、数百万人の労働者が仕事をなくしていくことになる。

AIを使うか、AIとともに働くか、AIに働かされるか、いずれかの選択を迫られる時代に私たちはまもなく向かう。

私がいる大学の現場も、AIとロボットであらかた事足りるようになるのだろうな。  

2025-08-29

フジの50億円損害賠償請求

タレントだった中居正広を巡る性暴力一連の問題で、フジテレビは同社の前社長と元専務だった二人対し計50億円の損害賠償を求めて提訴した。

50億円の根拠は、今年6月末までに被った損害額の総額が約453億円だったことにあるとしている。そうであれば、損害賠償請求額は今後のさらなる影響を加味して500億円ほどにしなくては理屈が立たない。

個人として支払えるかどうかではない。彼ら経営者は、経営責任を問われ損害賠償請求されたときに備えて専用の保険(役員賠償責任保険)に加入しているはずである。しかも、掛け金は企業持ちで。

見方によれば「マッチポンプ」みたいな感じだけどね。いや、もう経営者ではないから役員賠償責任保険の対象にはならないか。

すでにフジの親会社であるフジ・メディア・ホールディングスに対しては旧現経営陣に対して230億円あまりの賠償を求める株主代表訴訟が起こされている。一方、フジテレビに対しては株主代表訴訟が起こされないので、会社が原告となって提訴したのかね。

経営責任という観点から言えば、訴えの理由が「適切な対応を怠ったこと」なら、他の役員の責任も問われるべきだろう。そのあたりが釈然としない。

フジの件については、以前にも書いたかもしれないが、辣腕の番組プロデューサーだったことと組織の経営者としての能力は別だということ。そんな当たり前の考えが、この会社にはなかった。

言葉を換えれば、そうした当たり前の経営常識すらなくても、日本のテレビ局は成り立っているという事実に驚く。しかも上場企業ときている。

これもまた、新規参入がない規制業種の典型的腐敗の一例である。 

2025-08-28

企業の本音は利用規約に表れる

新幹線予約の際に用いている「エクスプレス予約」「スマートEX」のサービスを変更するというメールがそれぞれ届いた。日常的に利用している関係上、メールに一応目を通す。

これまで使えたカード(EX-ICカード)を使えなくするというだけでなく、改札の際に自動改札機から発行されていた「利用票(座席の案内)」の発行をやめるといったことが記されていた。

前者はプラスチックカードの発行を今後中止するということ、後者は機器からの印字して発行してた6x8センチほどの紙(カード)をなくすことでのコストカットである。

実に発想がセコイ。利用者の利便性などお構いなしである。それらのメールは例によって「本メールは送信専用アドレスからの送信のため、そのまま返信されないようお願いいたします」だ。

残念ながら新幹線はそれしかないので、こちらが否が応でもそれに合わせて適応するしかない。念のために現在のそれら2つの登録がどうなっているか確認しようとしたら、サイトにまず「会員規約等の変更」画面が出た。

で、そこに記された3つの文書、会員規約、特約、同意条項を<読んだ>として <同意>しないとログインができない仕掛けにしてある。 


試しに、そのなかの一つの規約とやらを生成AIに読ませて内容確認をやらせてみた。各条項についての利用者側のリスクと注意事項が表示される。以下は、そのまとめの部分。


例えばネットの通信上のトラブルがあっても何があっても責任はすべて「利用者」、規約等に変更が加えられてもJR東海はそれを自社HPに載せるだけでOK、など徹底的に一方的な契約内容。

サイトではそうした規約や同意事項に「同意」しない限り、利用者が自分の登録内容すら見ることができないようにしてある。

まともな競争に晒されているまともな企業なら、ここまではやらない。そうしたところに、この企業の黒い裏の顔が見えている。 

2025-08-25

ネットは嘘の世界だから

勝手なところから勝手なメールが日々送られてくる。

そのなかでも不愉快なのが、「このメールは送信専用アドレスからお送りしています。ご返信いただいても回答はできませんので、あらかじめご了承ください。」 なんて文末で言いながら、自分たちの言いたいこと(セールス・メッセージ)だけ書き連ねているメールだ。

そうしたメールが増えていっているように感じる。実に不愉快な世の中。すべて迷惑メールに放り込んでいる。

それと同時に、なんでんもかんでも「会員登録」を求め、その際に氏名、住所、電話番号、メールアドレス、生年月日、職業等々を「*必須事項」として記入させるサイトがあまた増えているのも気に入らない。何のためにそれらに回答させるのか分からないし、説明もない。

顧客の個人情報を集めておけば、そのうち何か自分たちの役に立つかもしれないと考えている。あるいは、売れば金になるとでも考えているのだろうが、そうした企業は頭が悪くて厭になる。

正直に「申告」する人も中にはいるのだろうが、多くはそうじゃない。ぼくはそういう時は自分のプロフィールについてはデタラメしか書かないし、友人たちに聞いてもばか正直に書く人は一人もいなかった。これが現実。

ならば、そうしたつまらないことさっさと止めればいいのに、と思う。あまりに浅薄な連中が絶えない。それがネットの世界。 

2025-08-24

LION/ライオン 25年目のただいま

「スラムドッグ$ビリオネア」や「ニューズルーム」(HBO)のデブ・パテルが主演した映画「LION/ライオン 25年目のただいま」の始まりは1986年のインドの小さな村である。

それはいまから40年ほど前だが、それにしても当時の日本とは比較にならないほどの貧しさのなかで人々が生きていたのが描かれている。

兄の仕事を手伝うために鉄道駅に向かった5歳のサミーが、ひょんな事から回送の長距離列車によってコルカタ(カルカッタ)に運ばれてしまう。帰りたいと思っても、彼は自分が生まれ育った村の正しい名前すら知らない。

やがてオーストラリアの夫婦のもとに養子として迎えられ、豊かな愛情の元で25年の日々を過ごす。だが、もちろん彼の心の中には分かれたインドの村の母親と兄がいた。

鉄道駅の近くに給水塔が建っていたとか、町の裏には母親が石運びとして働いていた岩山があったなどの数少ない断片的な記憶をもとに、Google Earthで自分の生地を探り当てて訪ね返るという話である。

ひょんな出来事で家族から離れてしまった彼だが、映画で描かれているその後の人生は極めて恵まれた幸せなものと言っていいものだ。

ただ心のなかでくすぶっているのは、インドでまだ生きているだろう母親と兄の消息。映画の終盤、彼はネット上の地図で見つけた村を訪ね、いまもそこで彼の帰りを待っていた母親と25年ぶりに感動的な再会を果たす。

ストーリーが美しすぎるが、これは実話をもとにした話が映画化されたものらしい。描かれた人物にはおそらく演出上のフィクションも含まれているはずだが、とにかくGoogle Earthで彼が育ったインドの村を探し出したという点は本当の事なのだろし、そのテクノロジーに感嘆した。

養母役のニコール・キッドマンがいい。 

 
(後記)なぜこの映画が気になったのか、分かった。この映画のしばらく前に観た「火垂るの墓」の少年・清太とサミーを頭の中で重ねていた。清太は14歳、サミーは13歳でほぼ同じ年齢だ。共に雑踏の中(それぞれ神戸とコルカタ)にひとりぼっちで放り出され、清太は誰からも救いの手を差し伸べられることなく駅の構内で餓死する。一方、サミーはコルカタで見知らぬ人によって救助されて生き延びるだけでなく、その後、生家の母親と再開を果たす。時代も場所も違うとは云え、これら二人の少年の運命の差の大きさとその理由を考えさてしまった。