2025年1月18日

生成AIの説明能力

生成AIがオフィス・ワークに急速に取り入れられていて、会議の議事録をまとめたり、販売データをもとにした報告用の資料なんかをあっという間に作ってくれたりする。

AIは文章でも図表でも、たじろぐことも戸惑うこともなく作成する。その全能感を漂わせるアウトプットのスピードに、オフィスで働く人たちは使い慣れると手放せなくなるに違いない。

ただし生成AIには、まだまだときおりギョッとさせられる。たとえばデータの解釈だ。

見せかけの相関のなかには、いろいろと笑わせてくれるものがあるが、以下のマーガリンの消費量と離婚率の推移もそのひとつ。グラフによると2000年から2009年にかけて、マーガリンの消費の減少トレンドと離婚率の減少トレンドが0.99という強い相関を示してる。

これを生成AIに説明させると、以下のような解釈がなされる。

おそらく、マーガリンの使用量が減るにつれて、人間関係もギクシャクしなくなったのだろう。人工的なスプレッドがないため、カップルがお互いにバターを塗り合うことがなくなり、全体的な夫婦喧嘩の減少につながったのかもしれない。バターでないことが信じられない現実、それは夫婦関係の成功の秘訣なのだ。あるいは、マーガリンの消費量が減るにつれて、全体的なヌルヌル状態も減り、パートナーが結婚生活をうまくコントロールできないと感じるケースが減ったということも考えられる。

おもしろい。新説である(だが意味不明)。ひょっとしたらこんな考え方もあるかも、と思うことで発想の幅を広げる役割を果たす可能性も考えられるかもしれない。

ここまで解釈がぶっ飛んでいると、さすがに小学生でも変だと気づくけど、そうじゃないAI作成の文章で専門家でも見紛うものがネット上を中心にいくらでもある。人が書いたのか、AIが書いたのか、多くの場合、その判別がつかなくなっている。

結局、今のところは説明の内容をどう判断するかは人の知識と経験、それにセンスに頼るしかない。

それこそ何でもAIに代わりに考えさせていると、ヒトの頭脳はあっという間に判断能力を失い、機械に乗っ取られてしまいそうだ。

2025年1月17日

「30年以内に80%程度」の分かりづらさ、いい加減さ

これまで、「30年以内に70〜80%」と言っていた南海トラフ地震の発生確率を、政府の地震調査委員会が「30年以内に80%程度」と変更した。

この変更から我々が感じることは、以前よりさらに地震が来る確率が高くなったということだろう。この変更は、新しいデータをもとに検討しなおした結果らしいが、どういったデータをどのように分析すればそうした数字が出てくるのか公表されていない。

「30年以内に80%程度」とは、あした南海トラフで大地震が起こることと、30年経っても何も起こっていないことの両者を含んでいる。これって、どれだけ意味があるのか?

「30年以内に80%程度」と言っている地震学者たちは、30年後にはもういないんだろう。たとえ生きていても、もう研究の表側から消えている。30年後、地震も何も起こらず、彼らが見つかり引っ張り出されることがあったとしても、「20%の確率で起こらないことを示している」と言えばそれで済む。

30年以内の発生確率を数字で言うのだったら、一緒に10年以内、5年以内、1年以内の発生確率も言ってみろと思う。科学的な視点からは、30年先の未来を予測するより、この先1年を予測する方がずっと容易なはずだ。

それをやらないのであれば、そもそも具体的な準備に役立つわけでもなく、また検証しようもない確率をさも科学的な衣を着せて発表するのはやめた方がよい。

こんなことやって、研究予算や防災予算を獲得している連中だけが納得し、ほくそ笑んでいるような気がする。

地震はいつ起きても不思議ではない。だから、つねに起きたときのことを考えて備えておく。結局は、これしかない。

2025年1月15日

女性は金塊がお好き

日本のある新聞社のウェブサイトに並んだ2つの記事。

並べて載せているのは偶然か意図したものか分からないが、どちらも女性による犯罪事件で、「金塊」にまつわるものだ。

ついマリリン・モンローが主演した、ハワード・ホークス監督の古いハリウッド映画を思い出した。

『紳士は金髪がお好き』
 
それにしても、ビットコインなど暗号資産(仮想通貨)の時代に実物の金塊とは! あのズシリとした重さと眩しい輝きに(ある種の)女は引かれるのかね。片や20キロ、もう一方は10キロときた。

2025年1月10日

スポットワークという働き方

明日の午前中だけとか、お昼過ぎから午後の遅い時間までといったちょっとしたスキマ時間(空き時間)を使って仕事をするのをスポットワークと呼ぶらしい。

要はスマホのアプリを使ってのマッチング・サービスというだけで、昔から学生が授業のない時間をバイトに費やしていたのと何ら違いはない。が、どうもバイトするのは今は学生だけではないそうで、定職をもつ30代から40代がその働き手というパターンである。そこは変わった。

リモートワークで会社に行く必要がないので、うまくやり繰りして時間をつくり、数時間だけ働いて小銭を稼いでいる、というイメージだ。仕事は物流、飲食、小売りなどの業界が多い。

どこも人手が足りていない世の中らしいので、こうした働き手も企業や店側にとってはありがたいわけだ。 

ただし、「スポットワークがお試しとなり、適職にたどり着く手段にもなりうる」とか「個人が仕事との向き合い方を再考し、組み立て直す糸口にもスポットワークはなる」といった一部の識者の考えには僕は同意しない。

空いた夕方の2時間を時間給でもって近くの飲食店で働いたのがきっかけでその道に目覚めました、っていうのがあってももちろん構わない。だが、ふつう仕事ってそんなもんじゃないだろうと思う。

そんなことより個人的には、飲食店でメニューについて訊ねてもまともに答えられなかったり、小売店で商品の棚の場所を聞いても何も案内できない店員が最近増えたと感じるのは、彼らがスポットワーカーだからなのか・・・と、そっちの方が気になる。

そもそも、そのスポットワークをやりたくてやっているのなら別だが、本来なら企業の中堅である30代〜40代のサラリーマンが技能も経験も不要だからという理由でスキマバイトをやっているのは残念なこと。

空いている時間があったら、ちゃんとした本を読む、思索を深めるなど自分の内面を磨き、高めることに時間とエネルギーを投資した方が、目先の小遣い稼ぎをやるより結局ははるかに大きなリターンが得られるのは間違いないのだから。

こうした投資についての基本的な考えを持っているかどうかが、人生の質を左右する。

2025年1月7日

年賀状は続く

日本郵便によると、今年の元旦の年賀状の枚数が昨年比で34パーセント減、3年前と比べて半数以下になったらしい。

ここ数年、毎年「今年で年賀状じまいします」という年賀状が増えた。面倒くさくなるんだろうな。そうやって、届く枚数も減っている。

それに呼応してこちらから出す年賀状の枚数も少なくなる。もうずいぶん前からだが、年賀状は手書きだ。表面の宛名書きも手書きだ。以前は年賀状ソフトで宛名を印刷していたけど、手書きしてもたいして時間がかかるわけじゃないから。

もう50年近く、年賀状だけでつながっている友人がいる。彼は、小中学校での同級生だった。高校は別の学校に進んだが、夏休みなんかは皆で集まって一緒に遊んでいた。

彼に会った最後の記憶は、彼が18になりすぐ免許をとったというので、彼の運転する車に小中学校時代の同級生たちと乗り込み、免許とり立ての危なっかしい運転で山道をぶっ飛ばしたこと。ガードレールもない田舎の山道で、死ぬかと思った。

高校を卒業し、彼は地元の電力会社に就職し、僕は大学に行くため東京へ出た。それきり会っていない。48年前のことである。

お互いまだ生きているが、もう昔の面影といったものはないかもしれない。けれど、年賀状のやり取りだけは今も続いている。会っても顔が分からないかもしれないし、会うこと自体ないかもしれないからこそ、年に一度の年賀状がお互いに必要な気がする。顔は分からなくても、彼の筆跡は分かる。

2025年1月4日

今ではおっさんは僕の方だった

毎年、年の初めに書斎のスチール・キャビネットのなかを整理する。使うことがなくなり、奥に追いやられたままのバーティカル・フォルダを取り出し、新たなテーマ・フォルダと入れかえるためである。

今年引っ張り出したフォルダの中から、古い名簿が出てきた。それは、僕が20代半ばだから40年くらい前のものだ。当時勤めていた広告代理店が社員に配ったものである。

そこには約1300人ほどの社員の顔写真と名前が印刷されている。掲載されているのはそれだけで、所属も役職も勤務地もない。それが人数分、名前の五十音順に並んで印刷された冊子になっている。

完全に忘れていた。ページをめくると、懐かしい、40年ぶりの顔が並んでいる。僕は30歳でその会社を辞めて転職したのだけど、社会人としての基礎をそこで教えてもらった。

当時、「あのおっさん」と思っていた人たちが、今見るとみな若い。今の自分の方がはるかに歳を取っているのだから当然なんだが。

そこに収められている半分とは行かなくても、三分の一くらいの人はもういないんじゃないかとふと思ったりして。

写っているのはみんな、履歴書か免許証に載せるような正面からの真面目なショット。そのなかで1人だけ、1300人のなかでたった1人だけ45度くらいの角度から顔だけこちらに向けている写真があった。ほかでもない、自分だった。

ページをめくっていると、どこかで会ったような顔が目に止まった。自分がその会社にいたときには出会ってない人のはずだけど。

優しそうな目元が、昨年10月に亡くなった漫画家の楳図かずお(本名 楳図一雄)さんによく似ている。名前も一文字違いだ。


ネットで調べたら、弟さんだった。ただそれだけなんだけどね。

2025年1月2日

正月早々からブラックジョークか

元旦の日本経済新聞、特集ページ「ニッポン2025」のリードである。

2050年は働けるまで働く「生涯現役」が常識となる。医療技術の進展により、健康で長生きする高齢者が増える。人工知能(AI)活用で、自分の能力が活かせる職場が摩擦なく見つかる。定年による労働市場からの一斉のリタイヤは過去のものとなり、誰もが能力と意欲に応じて、溌剌と社会に貢献する未来が訪れる。

「溌剌と社会に貢献」に、正月早々アホかと苦笑いしてしまった。どういった根拠でこんな荒唐無稽で、かつ身も蓋もない<未来>を勝手に決めつけるのか。

またその記事中に、こんな記述がある。

内閣府によると、60歳以上の6割が70歳までかそれ以降も働きたいとの意向を持つ。うち2割は「働けるうちはいつまでも」働きたいと考えている。三菱総研の試算では、働くシニアが増えることで2050年の税収は現状よりも5.3兆円の押し上げ効果が見込める。

人間を、企業が売上を上げるための単なる生産手段、かつ税を支払い続けるための国の奴隷と考えてる。

正月早々から読者を実に憂鬱にさせるブラックジョークだ。 

近くに市の合同庁舎がある。その1階はハローワークになっていて、そこのロビーには求人票が貼り出されている。定年退職をした高齢者が就ける仕事内容は、ビルの清掃、工事現場の交通整理員、マンションの管理員、食品会社(コンビニ弁当工場)での夜間作業、倉庫での宅配用荷物整理、スーパーの品出し業務など。

「溌剌と社会に貢献する未来」だとか書いた新聞記者は、一度、ハローワークで現実を見た方がいい。頭の中で勝手なことを想像しているだけだから、こんな記事になる。

2024年12月29日

実感のないインチ表示はやめよう

インチ表示について考えてみる。インチキ表示ではないヨ。

手持ちのEブック(電子書籍)リーダーのバッテリーがへたってきたため、新しいものを買うことを考えている(バッテリーの交換修理サービスを提供しているところもあるようだが、僕のはモデルが古いため対象外)。

本を読むとき紙かディスプレイかというと、間違いなく紙の方が好きなのだが、海外へ行っているときはそうはいかない。電子ブックはとにかく持ち運びが便利。どこの国にいても、何語の本でもすぐに手に入れられるのですごく助かっている。手放せない。

電子書籍を読むのは、iPadのようなタブレットでもいいのだけど、kindleに代表されるEインクを用いたものの方が読みやすく、デバイスも軽くていい。

ということで、1台新調することにした。メーカーは複数ある。それぞれに機能や価格もいろいろ。大きさも複数の選択肢がある。6インチ、7インチ、8インチ、10.2インチといったぐあい。

ただそうした選択の際によく分からなくて困るのが、画面の大きさについてだ。インチの数が大きければ画面サイズが大きいのは分かるが、実際に手に取ったとき、どのくらいの画面の大きさなのかピンとこない。

電子ブックリーダーだけではない。スマホもタブレットも、デジカメのモニターも、テレビもすべてその大きさを示す単位として<インチ>が使われている。本来、インチは、主に米英で用いられている度量衡法であるヤード・ポンド法の単位である。

日本ではかつで尺貫法(長さは尺、容積は升、重さは貫)を用いていたのを1921年にメートル法(メートル、キログラム)を採用し、その後、尺貫法は1959年に廃止された。

そうやって古来用いていた尺貫法を廃止し、メートル法に移行しておきながら、なぜヤード・ポンド法の「インチ」を日本人が平気で使っているのか、なんとも不可解かつ不愉快である。

そもそも1インチが何センチかなんてことを、正確に知っている日本人がどのくらいいるのかね。100人のうち3〜5人くらいかなァ。それを知ってなければ、実際の長さを理解できないはず。正解は2.54センチ。

電子ブックリーダーのディスプレイやテレビ画面のサイズを示すのにインチが使われていることに抵抗感があるもうひとつの理由は、それらは画面の対角線の長さを示しているのであって、大きさ(画面サイズ)は表していない。

つまり、アスペクト比(画面の縦横比率)が違えばインチ数が同じでも画面の大きさは異なる。このように、現状用いられている単位は本当は分かりづらい単位なのである。

テレビやスマホ、電子ブックの画面サイズをイメージしたいときにイメージしたいのは対角線の長さではなく、その画面の大きさである面積。だとしたら、別の尺度が欲しい。

ひとつの考え方は平方センチだ。例えば32インチのワイド画面(16:9)テレビは、2,816平方センチ、64インチなら11,265平方センチになる。

うーん、これも慣れないと分かりづらい。ならば、皆が使い慣れているはがき(ポストカード)のサイズ(10センチx14.8センチ=148平方センチ)を1単位にしたらどうか。たとえば32インチのワイド画面テレビは19ps(postcards)、64インチのテレビはその4倍(2x2)の76psと表す。それぞれ、はがき19枚分、76枚分の大きさ(画面の広さ)の意味である。

この方がずっと分かりやすいと思うのだが、どうだろう。


2024年12月28日

犯人の顔になぜぼかしが必要なのか

千葉県内の企業に賊が押し入って金庫などを持ち去ったというニュース。事務所内の防犯カメラに犯行の様子が映っていて、犯人が室内を物色したり、金庫を抱えて歩いている(!)映像が番組で公開されていた。

ところが、なぜか押し入った賊の顔が視聴者に分からないよう、わざわざボカシが入れてある。防犯カメラに記録された映像がオリジナル、つまり加工されたフェイクでなければそのまま使用すればいいはず。

そうすることで犯人逮捕につながるかもしれないのに、なぜ顔にボカシを入れるのだろう。犯人たちのプライバシー保護を重視してのこと? 

 
(TBSテレビ「報道特集」から)

局の視聴者センターに電話して、犯人の顔にボカシを入れる理由を訊ねたが、担当の窓口の回答は「他のテレビ局もそうしている」とか「警察署の指名手配の犯人の張り紙には顔写真が出ている」など、ピントが完全にずれている。笑うしかない。結局、顔写真を出すことで犯人逮捕にも繋がるのではないか、とのこちらのコメントに「ではそう関係者に伝えておきます」でおわり。 

ただ、こうした映像処理は、警察などの捜査当局からの指示ではなく、テレビ局自体の判断で行っていることは確認できた。

残念ながら、これが今の日本のテレビ局の実状のようだ。

2024年12月26日

検察庁の報告書

袴田巌さんの再審での無罪判決の確定を受けて行われていた、当時の捜査に関する検証結果を最高検察庁が公表した。

その報告書のなかで、最高検察庁が奇妙なことを言っているのが引っ掛かかる。犯行時の着衣として検察が有罪の根拠とした「5点の衣類」についてのことである。

例の5点の衣類

ことし9月、静岡地方裁判所は再審で無罪の判決を言い渡し、有罪の拠りどころとされてきたこれら5点の衣類について捜査機関がねつ造したと指摘した。

だが、検察側は今回の報告書でそれは「現実的にありえない」と強く否定した。

技術的にありえないとか、時間的にありえない、といった言い方は方便としては可能かも知れないが、現実に向かって「現実的にありえない」とはどういう意味か、日本語の理解に苦しむ。

このところ検察庁内での不祥事が続いているが、ひょっとするとこうした不適切な日本語(言葉)をおかしいとも感じなくなっている感覚がそのベースにあるのかもしれない。

いや、それだけではない。捏造を認めたら、次はそれを誰が指示したかを世間から問われることになるのを怖れ、組織防衛のために嘘を承知で突っぱねていると考えるのが妥当か。

それにしても警察が袴田さんを容疑者として逮捕したのが1966年のこと。彼が死刑判決を受け、その後冤罪が明らかになり、無罪判決が確定するまでに58年がかかっている。

さすがにそこまで時間をかけてもらっては困るが、もう少しじっくり本気で検証をすべきだろう。自分たちのやった誤りはこれでさっさと幕引きとするつもりなのだろうが、国民の信頼はそれでは回復しない。

2024年12月20日

一人当たりGDPから考える

今年の年初、日本が名目GDPでドイツに抜かれたというニュースがあった。日本は4兆2106億ドル、ドイツは4兆4561億ドルだった。

それは意外なことではなく、というのも、日本の人口は減少傾向にあると言えどまだ1億2400万人もいる一方、ドイツの人口は8400万人で日本の3分の2。ずっと以前から、一人当たりのGDPではドイツは日本を越えている。

その一人当たりGDPで、一昨年に日本は韓国を下回った。さらに、今年は台湾を下回ったとの試算が出た。推計では、韓国や台湾との差は、これから年を追うごとに開いていくと見られている。ちなみに日本の2024年の実質経済成長率は、アジア・太平洋地域の18ヵ国のなかで唯一マイナス成長になる見通しである。

こうしたわが国の労働生産性の低さについて、ある種の識者と言われる連中は日本が取るべき対応としてDXの推進とリスキリングをあげる。それで問題が解決すると思っているのが実に愚かに見える。

考え方や発想、戦略的な思考を大胆に変えることなく、ただ人の手をデジタルに変えてもたかが知れている。すぐにその生産性向上の効果は逓減していく。

また、リスキリングと彼らが呼ぶものも同様。そもそもリスキングとは何なのかが不明なまま言及されている。リ・スキリングで具体的に何を学び直すのかが語られないまま、イメージだけでもっともらしく吹聴されているのが不思議でならない。

大切なことは、誰が、何を、どういう目的で、どう学び、どういった成果に結びつけるかを明確にしてからスタートしなければならないことであるのは明らかなのに。

まるでアスリートに対して、スポーツ選手なんだからとにかく体力を鍛えよ、と言っているようなもの。スポーツ選手と言ってもマラソンランナーなのか、卓球の選手なのか、ウェイト・リフティングの選手なのか、それぞれトレーニングの内容はすべて個々に異なるはず。

バカの一つ覚えで、何かあればすぐリスキリングが重要と口走るみっともなさに、いい加減辟易する。

日本経済の歯車がギシギシと軋み、やがてかみ合わなくなってきたその原因はどこにあるのだろう。経済の歯車はかみ合わずうまく廻らないだけでなく、安倍政権以来の巨額な国債の発行で借金だけが積み上がっており、やがては首が回らなくなる。

植田日銀総裁は、昨日の金融政策決定会合後に「利上げの判断に至るまでには、もう1ノッチほしい」と語ったらしいが、そもそも歯車がかみ合っていないなかで1ノッチを気にする方がおかしい。責任回避の煮え切らなさがうかがえる。


このランキングを見ると、残念ながら日本人は決してもう豊かな国民ではないなと思うとともに、海外からの旅行者(インバウンド)を受け入れることはできても、自分たちは海外に以前のように遊びに行けなくなっている状況も納得がいく。

2024年12月15日

3日かけてセーターを売りに来る

冬を控えてセーターを何枚か取り出した。これは、ペルーに行った折にクスコの町で買ったもの。

時期が8月だったので防寒など考えることなくペルーに出かけたのだが、現地は標高3400メートルの地。朝夕の冷え込みを甘く見ていた。

マルカパタという村に住む女性がベイビーアルパカの毛で編んだセーターは、なめらかな肌触りでとっても温かい。彼女は編み上がると歩いて3日かけてクスコの町へやってくるのだという。その距離は165キロだから、確かにそれくらいはかかる(東京から栃木県の那須あたりまでに匹敵する)。道中は3,000メートルを超える峠道である。 

マルタパカークスコ

マルタパカの村

マルタパカの村

僕は旅先で土産物を買うという習慣がない。理由は、旅をするときは荷物は最小限にしておきたいということと、土産物を選んで決めるというのが得意でなく、そして時間がもったいないと考えているからだ。

でもお土産ではなく、旅に必要なものを現地で調達することはよくあるし、それらは衣料品や小物、薬まで、旅から帰っても十二分に活用している。手に取るたびに旅の思い出が蘇り、懐かしい気持ちにしてくれる。

2024年12月14日

シリアとライスプディングと豊島美術館

親子2代にわたる独裁政権によって国民に対する圧政が続いていたシリアのアサド政権が崩壊した。

アサド政権に抗する反政府活動は長年続いていたが、今回はシリア解放機構(HTS)率いる反政府勢力が一気にダマスカスに入城、政府省庁や刑務所、国営放送局などを陥落させた。

長年の願いだったのだろう、市民らが心からアサド政権の終焉を喜んでいる映像が伝わって来た。ここでも前大統領の像が市民によって引き倒され、人々が喝采と雄叫びを上げていたのが印象的である。

後ろ盾だったロシアがウクライナの戦線に軍事力を注力せざるを得なかった状況を捉え、電光石火の10日間の攻防で首都を制圧したわけだ。

アサド政権の元でのシリア経済は悲惨な状況だった。かつて日産60万バレルを超えていた石油の生産は設備の老朽化などのせいで20分の1の3万バレルまで落ち込んでいた。代わりに外貨を稼ぐ手立てとなっていたのが麻薬の製造といった始末だった。 

シリアの人たちと親しく付き合っていた時があった。1980年代前半、浜松町の竹芝桟橋近くのマンションに住んでいたとき、一時、同じマンションにシリア人が10人ほど暮らしていたのである。

ある日、建物の管理人室の前で何やら揉めている様子があり、たまたま通りがかって通訳のようなことをしてやったのが、彼らと知り合ったきっかけだった。それから、彼らが日本で暮らすうえでのちょっとしたことを求められてアドバイスするようになった。

彼らは田町のNEC本社で長期研修を受けるために来日していた、シリアから派遣された通信関係のエンジニアたちだった。日本語はおろか英語もままならない人たちもなかにいて、人ごとながら日本にいる間は仕事の面でも生活の面でもさぞ大変だったと思う。

ある週末のこと、部屋のドアをノックする音に扉を開けてみると、スカーフ(ヒジャブ)を被ったシリアの女性がふたり。たいていは相手に助けを求めるような何か困ったような顔をして現れるのだが、その日はなぜかニコニコしている。で、自分たちの部屋まで一緒に来てくれという。

彼女らについていくと、そこではシリア人たちが車座になって座っていた。研修が終わる日が近づいているのだという。そうした気持のゆとりも手伝ってか、僕にこれまでのお礼を言いたいというので招いてくれたのだ。

そこで彼らにライスプディングを饗された。といっても、その時はそれが何かまったく分からなかった。目の前に出された大皿には白いかたまりがこんもり盛り付けられていて、それを好きなだけ自分の皿に掬って食べるよう勧められた。

初めて食したライスプディングはとても甘く、さらにミルクの匂いのする米粒の食感に最初戸惑ったのを覚えている。

シリアのニュースを見る度、竹芝桟橋近くのマンションの小さな一室で車座になっていたシリアの人たちの顔を思い出す。

そして、瀬戸内海の豊島に帰郷した折、近くの豊島美術館まで朝の散歩に行ったときには、あのこんもりと大皿に盛られたライスプディングを思い出すのである。

豊島美術館

2024年12月8日

銀行のいい加減な調査を問う

三菱UFJ銀行の社員が、顧客が契約している貸金庫から4年半にわたって金品をちょろまかしていた。

発覚したのは、貸金庫を利用していた客が何かおかしい、変だぞと気づいて指摘したことからだったらしい。


銀行側は、被害件数は約60人十数億円と説明している。と同時に「すべての支店の緊急点検を実施。2支店のほかに被害は確認されなかった」としているが、腑に落ちない。

被害者の数がはっきりしていないような杜撰な社内調査であるにもかかわらず、「ほかに被害は確認されなかった」とは人を馬鹿にした説明である。

いったいどうやって点検したのか。盗みの被害がなかったかどうかを完全に把握するためには、貸金庫の利用者すべてに中身を各自で点検してもらう必要があるはず。銀行預金の口座情報と違って、貸金庫の中に何が入っているかは利用者本人しか分からない。

三菱UFJ銀行はそれをやったのか、やってないのではないか。にもかかわらず、早々とほかに被害は確認されていないなんて公表して、とにかく火を早く消したいのだろうが、言っていることの筋が通っていない。

その銀行員は4年半も盗みを気づかれずにやってたんだから、他のボックス(貸金庫)からも札を抜き取ってた可能性は充分考えられるだけでなく、他にも同様の輩がいてもおかしくない。

また、10億円(!)をこえる大金が盗まれておきながら、その犯人の名前を公表しないのはなぜなのか? 自分たちは日本を代表する大銀行で、その大銀行からその社員は懲戒解雇されたのだからもうお仕置きは済んでいるとでも考えているのだろうか。

世間の常識からはずれた特権意識である。

2024年12月7日

学者と夫の距離

住んでいたマンションの火災で、政治学者の猪口孝氏とその家族の方が亡くなったという報があった。

彼のパートナーは同じく政治学者で現参議院議員の猪口邦子氏で、世間では彼女の方がよく知られた存在かもしれない。

仲の良い夫婦で、夫の孝氏はさまざまな面で妻の邦子をサポートしていたと聞く。それは大変結構なことだと思うのだが、報道された記事のなかにどうにも理解し難いところがあった。

それは、彼が政治家である妻を支援するなかで、しばしば周囲に「どうしたら邦子は総理大臣になれるでしょうか」と尋ねていたという点である。

邦子自身が一政治家として、総理大臣になりたいというのはあるだろう。しかしだ、一国の宰相にはそれなりの器というものが必要である。それが彼女にあるか。多くの人から好かれるキャラクターの持ち主のようではあるが、彼女の言動にはどこか浮世離れしたところがある。

孝氏は、その業績から日本を代表する国際的な政治学者であることに間違いはない。僕が首を傾げてしまうのは、政治についてこれまで何十年も研究してきたその専門家が、他でもない猪口邦子を「日本の総理大臣に」と願うに至る発想である。

そこにあるのは、親バカならぬ夫バカの個人的な感情のみ。その思いの前に、学者としての客観的な判断力が完全に失われてしまっている。

だが、それは猪口孝氏だけが特殊だったというわけではなく、机の上だけで学んできた専門家たちに往々にして見られる一つの特性かもしれないけどね。

2024年12月3日

石岡瑛子 I デザイン

最近の広告は面白くない。形だけ整えているだけで、表現としては死んでいるも同然。

まだ作り手の中には意欲を持ち、ビジネスの手段としての広告と表現物としての広告のせめぎ合いを買って出る志のある人もいるはず。しかし、企業(広告主)のなかからそうした度量と知性のある人間がいつの間にか消えてしまったようだ。

スマホのちっぽけな画面のなかですべてを満足させられてしまっているうちに、思考も視野も拡がりをなくしてしまったというのもある。

つまんねーなー、と思っていた矢先、石岡瑛子(1938-2012)の回顧展(石岡瑛子 I デザイン)が兵庫県立美術館で開催されているのを知り、なんとか会期の最終日に三宮の県立美術館へ足を運んだ。

彼女はグラフィック・デザイナー、アート・ディレクター、衣装デザイナー、プロダクション・デザイナーと、広告だけでなく書籍や雑誌の装丁、商品のパッケージデザイン、映画や舞台の衣装、同じく映画や舞台の舞台美術全般にわたる、アートに関しての幅広い実に多種多様な仕事をしている。
https://tatsukimura.blogspot.com/2012/07/mishima.html

そうした膨大な仕事量を沸き立つような熱量で精緻にかつ大胆に仕上げているクオリティの高さには目を見張る。

今回の展示品は60年代から80年代の広告と出版に関するものが多かった。さすがにパルコの一連の広告に添えられたコピーは今ではすっかり古くさいが、石岡のアート・ディレクションは今でも刺激的だ。






2024年11月27日

気球で成層圏に行ける

風船から大型気球へ。そしてゴンドラから気密性キャビンへ。だけどやっている基本は同じ。

7年前にラジオ番組でインタビューした岩谷圭介さんが、テレビ番組に取り上げられていた。


ぼくはその後の彼の動向をまったく知らなかったのだけど、彼はその仕事を着実に発展させ、いまはベンチャー企業の経営者としてやっぱり宇宙を目指していることを知って嬉しくなった。

2017年に話をうかがったとき、彼は風船にカメラを載せて1万メートルの高度から宇宙の写真を撮っていると言っていたのが、いまはキャビンに人が乗り込み、2万メートルの高さまで飛ぶ。

静的浮力を持つヘリウムを使って空に向かう気球は、基本的には無音のはず。世界には宇宙観光の実現を目指すロケット・ベンチャーがいくつもあるが、無音の気球を使って宇宙へ上がっていく岩谷さんのプロジェクトが宇宙の神秘性をもっとも高めてくれるのは間違いない。楽しみである。

「木村達也 ビジネスの森」ゲスト 岩谷圭介さん<前編> 

2024年11月26日

斎藤的なるもの

斎藤元彦氏が兵庫県知事に再選したとき、兵庫県庁の職員は県民からずいぶん嫌われているんだろうということは容易に察しがついた。

県職員への不信や反感が、斎藤支援に向かった。つまり斎藤への投票のベースにあったのは、敵(県庁職員)の敵(斎藤)は味方、というシンプルな感覚であり、兵庫県の有権者にとって政策論争がどうだなんて、ほとんど関心がなかったと推測せざるを得ない。そして、それが彼らの民意だった。

と思ってたら、PR会社の女社長が出てきた。突然の登場だ。これで世間がまた騒ぎ始めた。斎藤は「彼女はボランティアだった」なんて白々しいこと言っているようだが、辻褄が合っていない。

斎藤の主張は「公職選挙法違反となるような事実はないと認識している」だ。知事選の前に県職員に対して行った所業の是非を問われた際に彼が使った論法とおなじだ。

PR会社の女社長Oはサイトの内容を削除したり加工して問題がなかったようにつくろいながら、姿はまったく見せない。コミュニケーションに関わる仕事をしているにもかかわらずだ。

いまは斎藤陣営から様々な懐柔策を持ち込まれているのだろう。SNSへの書き込み内容を嘘だったと証言する代わりに、「ほとぼりが冷めたら県からの仕事をしっかり用意するからさ」とか。で、O社長は、その路線にのった発言を持って姿を見せるような気がする。あとは、警察と検察がそれにどう対応するかだ。

いつまで続くのか、斎藤劇場。公僕の親玉としてちゃんと仕事しなきゃだめなんじゃないのかね。


それにしても、このところあちこちでこうした「斎藤的なるもの」が跋扈しているのが気になる。

2024年11月25日

Customer Harassment は、本来は「顧客への嫌がらせ」

誰が言い始めたのか、顧客による店頭での迷惑行為(言動)が「カスハラ」と呼ばれるようになった。カスタマーハラスメントを縮めた新語である。

その後、「カスハラ」が市民権を徐々に持ち始めると、企業は店頭での客から店員への暴言や嫌がらせだけでなく、店あるいは企業が迷惑だと考える客による行為を「カスハラ」と呼ぶようになった。例えば、コンビニの店頭に若者たちが集団でたむろしている状態やゴミの投げ捨てなどである。

そうした行為を「カスハラ」と呼ぶことで注意を喚起して止めさせようという考えである。迷惑だと思うのであれば、自らが相手に対峙して注意をすればいい。それができないから、「カスハラ」の社会的話題に乗じて圧力をかけて自分らにとっての問題を解決しようとしている。

今年の10月、英国のFinancial Times は東京都がハラスメント防止の条例を発布したのを記事にしているが、そこでは下記のように、顧客からの迷惑行為は customer nastiness、日本のカスタマーハラスメントは "kasu-hara" と表記されている。 

Officials in the Japanese capital are drawing up guidelines to accompany the new ordinance, which was passed by the metropolitan assembly last week to tackle customer nastiness known by the abbreviation "kasu-hara".

日本で用いられているような意味で「カスタマーハラスメント」が用いられている例は、海外では極めてまれ。つまり、これもまたガラパゴス現象のひとつと言える。

同様に、学術論文に customer harassment という言葉が登場するのも、ごくわずか。そのなかのひとつ、P. Kotlerと並ぶマーケティング界の泰斗であるJ. N. Sheth が、2001年の彼の論文のなかでcustomer harassment という言葉を用いていた。

それは、その頃台頭していたEメールをツールとしたマーケティング手法に関しての内容で、企業から顧客に向けて発信される大量のセールス・メールをcustomer harassment、つまり顧客にとっての迷惑行為と表現したものだ。

「カスハラ」はコスパやタイパと同様、日本ならではの用語法なのである。

2024年11月24日

谷川俊太郎のすがすかしさ

谷川俊太郎さんは、1982年に芸術選奨文部大臣賞に選ばれたが、辞退した。彼は民間からの賞はたくさん受けているけど、国家からの褒章は何も受けていない。

日本芸術院会員にも推されたけど、それも辞退した。そんなことを誰にも話さず、相談もせず、まるで通りがかったスーパーの試食コーナーでソーセージか何か勧められ「ぼくはいいよ」と断るように。たぶんね。

谷川さんのすがすがしさは、そうした決して国家に依らない、自由ですっと立っている姿にあった。

国や都や県や、そうした「お上」から褒章めいたものを目の前にぶら下げられると、それだけで嬉嬉として尻尾をふる人が多いけど。

2024年11月22日

アルバイト、これも立派な経験だ

最近よく耳にする言葉に「闇バイト」がある。不法アルバイトといった意味か。

行われているのは、数万円から数十万円を奪うがために民家に押し入り、人を傷つけたり、時に殺したりしているネット上で告知されている「アルバイト」である。

なんてバカな行為、なんて愚かな奴ら。金額の問題じゃない。奪う金額が10億円だったら理にかなっているというようなことではない。奥にいる薄汚い悪い奴らに乗せられ、ただの兵隊としてやってはいけないことを命がけでやらされている、間違いなくどうしようもないアホな連中。

犯行後に捕まったある若者は、「税金の滞納額が数十万円になっていると言われた」ことから、割のいいバイトを探したところ、X(旧ツイッター)で一晩15万円というアルバイトを見つけて応募したと言う。

このマヌケが。何の才能もない若者が一晩で15万円稼げるアルバイトなんてのは、体と精神をボロボロにされる身を売る仕事か、犯罪の手下しかないだろう。他に何がある?

そうしたことは、普通のアルバイトをやった経験があればサルでもわかるはず。自分の「相場」を否が応でも知らされるから。それを知っておくことは、人としてとても大切なことなんだよ。

深沢七郎が、以前、こんなことを書いていたね。

質屋へ行ったことがないなんて人は、ダメ。アルバイトをやらないなんて人は、ダメ。1日働いて、いくらってこと知ったら、三島由紀夫、ハラ切らないよ。

昔に書かれたものだから、質屋なんてのが出てきている。ボンボン生まれで金の苦労を知らなかった三島を揶揄した言い方になっているが、当を得ている。

Tシャツにジャケットは似合わない

先日なくなった谷川俊太郎さんは、いつもTシャツ姿だった。自宅でくつろぐ姿はもちろん、講演会などでも同様。Tシャツ以外ではスタンドカラーのシャツ、あるいはハイネック。ぼくは、彼がワイシャツのような普通の襟の付いたシャツを着ているのは見たことがない。


どういった考えがあったのかは知らない。聞いたことも、読んだことがないから。ただ、谷川さんにはTシャツがよく似合っていた。彼のその存在のあり方そのものだった。

ところでTシャツと云えばいつからだろうか、ジャケットの下に直接Tシャツを着る人たちが現れた。圧倒的に若い男性が多いように思う。あるいは、若さを気取っているそれほど若くない男たちも。

とりわけ、起業家を自称する男たちやネット系ビジネスの経営者たちは、まるで決まったようにジャケットの下はTシャツのインナーである。しかも足下を見るとストレートチップの革靴だったりして。スタイルというものがまるでないみっともなさである。

Tシャツの持つカジュアルさを若さを示す記号として使い、その一方でジャケットを着てビジネスマンとしての「きちんとさ」も年配者相手に示さなきゃという、どうにも中途半端な折衷思考だ。

何を着ようが人の勝手なんだけどね。ただ、ぼくには彼らの首すじあたりが汗臭く、昔から不潔に見えてしかたない。

スティーブ・ジョブズは黒のTシャツかタートルネック(スタンドカラー)が決まりだったが、決してその上にジャケットを羽織るなんてダサい着方はしなかった。

2024年11月21日

不適切にもほどがある

ドラマのタイトルではないが、不適切というか不適格というか、ここまでやるかとその振り切った姿勢に驚いた。ドナルド・トランプ次期米大統領の次期政権人事案である。

個々の人物について私自身は詳細に知るところではないが、報道されている内容(起こした事件)などだけでも明らかにどうかと思う。


アメリカはどうなっちゃうのか。この調子でいくとかの国で現れるのは、第一次大戦後のドイツで拡がったアナーキズムに違いない。それは、確実な秩序崩壊である。

2024年11月20日

谷川俊太郎さんが亡くなった


先週、谷川俊太郎さんが亡くなった。92歳。ひとは生まれ、ひとは死ぬ。いつかはと思っていたが、いつかはと思っていたが。5年ほど前、横浜で彼が話をするのを聞いたのが最後になった。

 
谷川俊太郎&武満徹「死んだ男の残したものは」

2024年11月14日

嘘つきは、警察チョー幹部の始まり

毎日新聞によるスクープ。11月13日朝刊 

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大川原化工機事件 警察庁幹部「やるな」 消えた警視庁の検証アンケート

 化学機械メーカー「大川原化工機」(横浜市)の社長らの起訴が取り消された冤罪(えんざい)事件で、警視庁公安部外事1課が起訴取り消し後の2021年8月、捜査の問題点を検証するアンケートを捜査員に実施していたことが判明した。だが、アンケートの存在を知った警察庁幹部に外事1課長(当時、以下同じ)が叱責され、課長は「回答は廃棄した」とこの幹部に報告したという。捜査員にも回答は共有されず、アンケートが生かされることはなかった。
 大川原化工機の社長ら3人は20年3月、軍事転用可能な装置を不正輸出したとして、外為法違反容疑で逮捕、起訴された。しかし、東京地検は初公判4日前の21年7月30日、起訴内容に疑義が生じたとして起訴を取り消した。
 複数の捜査関係者によると、起訴取り消しを受けて、21年1月に着任した外事1課長が検証作業に着手した。当初は会議形式で意見を出し合おうとしたが、捜査を問題視していた一部の捜査員が「記録に残らないのはよくない」と反発。文書として残るアンケートで行うことになった。
 アンケートは起訴取り消しの翌月、事件を手掛けた公安部外事1課5係の捜査員(他部署に異動した人も含む)を対象に行われた。毎日新聞は関係者からこのアンケートを入手した。質問部分はA4判2ページ。冒頭で「未来志向型の検証」とうたい、「今回検証した結果が将来の我々の捜査に寄与できるよう、“今後の捜査のあり方はどうあるべきか”について、思いの丈を述べていただきたい」と記されている。
 質問は5項目あり、立件に不利な「消極証拠」が存在したのか▽(輸出規制を担当する)経済産業省や地検との関係はどうだったのか--などについて尋ねるものだった。こうした質問は、捜査を指揮した5係長の後任が作成したという。
 無記名式で回答を求めたところ複数の捜査員が「(警察官の懲罰を担当する)監察で調査すべきだ」と記した。大川原化工機の製品が輸出規制品に該当するとした公安部の法解釈に経産省が否定的だったことや、輸出規制品との判断根拠になった公安部の温度実験に不備があったことなど、捜査の問題点を詳細に記した捜査員もいたという。
 ところが関係者によると、このアンケートの存在を知った警察庁外事情報部長(当時、以下同じ)が「何をやってるんだ」「そんなことはやるな」と外事1課長を叱責したという。結果が外部に出る可能性を懸念したとみられる。
 外事情報部長は外事1課長の直属の上司ではないが、全国の外事事件を監督する立場にある。さらにこの部長は、社長らが逮捕された際は警視庁公安部長を務めていた。外事1課長はこの叱責後、回答を廃棄したと部長に伝えた。現在、外事1課にアンケートは残されていないという。
 その後に警察を退職した外事情報部長は取材に対し、アンケートや叱責について「時間がたっており、私の記憶には残っていない」と述べた。
 警視庁は取材に、大川原化工機側が起こした国家賠償請求訴訟が続いているとして「お答えを差し控える」とした。
(11月13日東京版朝刊1面)

・・・だとさ。

公安部外事1課は自分たちの捜査の問題点がどこにあったのか検証するため、アンケートを捜査員に対して行った。自らの問題点を反省するためにそれが必要だと考えたわけだ。

それに対し、大川原化工機の社長らを逮捕した際に警視庁公安部長を務めていた外事情報部長がイチャモンをつけ、アンケートを廃棄させた。それによって、せっかくの貴重な反省と学習の機会が握りつぶされた。

警察庁外事情報部長はその後、警察大学校の校長になった(その後まもなく退職)。

わずか3年前の事件にもかかわらず、その元警察庁幹部は自分の行為を「記憶には残っていない」って。なんという鉄面皮ぶり。20万人を越える全国の現場警察官たちが苦笑いしている。 

この冤罪事件では、無罪だった大川原化工機の人がひとり、勾留中に必要な治療を受けられず亡くなっている。それでも反省を拒む警察官僚というのは何なのだ。