2025-04-01

フジテレビ男子の言語感覚が示すもの

タレントの(元タレントと言うべきか)中居正広の行為にまつわる一連のフジテレビの対応に関して、第三者委員会による調査報告があった。

詳細は見ていないが、見聞きしようとしなくても報告書が指摘した内容が方々から飛び込んでくる。

たとえば「喜び組」や「スイートルーム会」といった知性を欠いたキーワードである。どちらも、その局の若い女性のアナウンサーが主要なキャストとして関係させられた所業を思い起こさせる。

こうした言葉を使う感覚をもった人たちが運営している放送局があるという不思議さ。免許制によって守られたぬるま湯で全身茹でカエル化した経営者たち、編成局や制作局の幹部社員らの魑魅魍魎さ。

もう完全に終わっているし、建て直しなど無理だろう。過去に起こしたテラスハウス問題、ジャニー喜多川問題、松本人志問題、これらからフジは何も学んでいないという報告書の指摘は重い。国は放送免許を取り上げてフジテレビをなくした方がいい。

そもそも日本には、ネットワークを持ったキー局といわれているテレビ局が5局もある(テレビ東京も入れれば)。多過ぎる。アメリカだって、ケーブルニュース局をのぞけばABC、CBS、NBC、FOXの4つしかないんだから。

それはそうと、ここまで歪んだ組織なのに、どうしてこんな会社に入社したがる若者が大勢いるのだろう。入社倍率はウン百倍とか言われていているみたいだ。

実態が外部に知られていないからか、それとも高給や見せかけのステイタス故に実態が分かっていて承知で入社したいのか。

やっぱり、この局ともう一局くらい、この機になくした方がいい。われわれ視聴者は何も困ることがない。

2025-03-31

女性誌は死なず

近くのコンビニから雑誌売場が消えた。読みたければ駅近くの書店に行けばよいだけなのだが、これまでよりちょっと面倒になった。

コンビニ本部の判断らしく、店の人も理由は判らないという。売場として儲かっていなかったのか。取次と本部の関係の問題か・・・。

「週刊現代」が、週刊から隔週刊になるらしい。もっとも、すでにもともと週刊だったのが月3回(旬刊)になった他の雑誌もあるし、一昨年は「週刊朝日」が休刊(実質的廃刊)になった。 「週朝」は創刊から101年続いた伝統誌だが、最期の頃の発行部数は8万部を切っていた。

それに比べれば「週刊現代」の現在の部数は、約28万部。かつての勢いはないが、思いのほか健闘しているともいえる。

昨年10月〜12月の平均印刷部数(一般社団法人日本雑誌協会調べ)

今後は、他の雑誌も発行頻度を調整したり、ウェブ版に絞ったりするようになるんだろう。なんだかつまらないね。僕はパッケージとしての雑誌という商品が好きだから。

休刊や廃刊、ウェブへの完全移行が続く雑誌のなかで、地味ながら今もその存在感を変えないものに女性3誌と呼ばれている「女性セブン」「女性自身」「週刊女性」がある。3誌合わせて発行部数60万部以上だ。その根強い人気を感じる。

昨年10月〜12月の平均印刷部数(一般社団法人日本雑誌協会調べ)

学生の頃、電車のなかで隣にいた同級生が、車内のある女性誌の中吊り広告を眺めながら「こんなの読んでるから、女ってのはみんなバカなんだよなァ」と呟いた。

いつも真面目な好青年だった彼が、なぜ突然そう言ったのかは分からない。女から振られたばかりだったのかもしれない。

その発言、今なら女性蔑視も甚だしいが、正直言うとそれを聞いたぼくは妙に納得してしまった覚えがある。とともに、だからこそ、これらの雑誌は早晩なくなっていくと考えていた。

あれから半世紀。芸能人のゴシップと皇室ネタを中心にするそれら雑誌の特集記事の組まれ方は、ほとんど変わっちゃいない。そして、いまもそれらの雑誌は健在である。つまり、売れ続けている。読まれ続けている。読者の本性を突いているんだろう。

この国の本質(少なくともその半分)は半世紀たっても変わってこなかったことを、その事実が示しているような気がする。

2025-03-26

犯されるべきでない「信じない自由」

旧統一教会に対して東京地裁から解散命令が出た。旧教会側は抗告するだろうが、判決を翻すことはまずできないだろう。

統一教会が韓国から日本に入って来てすでに60年あまりが過ぎている。岸信介が首相だったときに「関係」ができ、その後それら一派の政治家が資金と選挙支援を受けることでつながり続けてきた。で、国民が洗脳されようが金を搾取されようが知らんぷりだった。

この60年間、被害を負った信者とその家族は増え続けていた。僕が初めてその名を知ったのは、70年代後半の大学キャンパスでだった。半世紀ほど前だ。

宗教はおそろしい。人の心を救いもすれば、傷んだ心のすき間に忍びこんで粘り着き、その人たちや家族を破滅することがある。

長年にわたり多くの悲惨な被害者を出しながら、この団体が栄えてきたのは正体を隠して近づき、人の心の弱みにつけ込んで勧誘し人々を取り込んできたから。そして、宗教活動だからという理由で状況を無視し続けた政治家たちの存在があった。

統一教会は憲法で保障された「信教の自由」を振りかざすが、邪道な勧誘活動で人の心を操作してきた彼らのやり方について、宗教学者の島薗進さんは「信じない自由を脅かすという意味で、信教の自由を侵害している」と語っている。

「信じる自由」が認められ尊重されると同様に、「信じない自由」もまた認められ尊重されなければならないというわけだ。カルト教団を典型に、ある種の宗教団体による不誠実、不正義な勧誘は、なるほどそうした自由を侵しているという観点から許されないのである。

2025-03-19

自由を最優先に考えれば、学校はこんなにおもしろい

今年15回目になる大倉山ドキュメンタリー映画祭の最初の上映作品は「夢見る小学校」だった。

登場する小学校「きのくに子ども村学園」は、テストも宿題も通知表もない。先生もいない(らしい)。

ちょっとびっくり。でもちゃんとした小学校だ。


映画のなかに映る子どもたちは驚くほど自由で活発。もともと疲れを知らないんだから、やりたいことさえあれば、それに夢中になれるのが子どもたちの特権だ。

いつの間にかこんな学校ができたのではない。自由を最優先に、子どもたちがのびのびと楽しめる場(学校)を作ろうと考え、それを地道に実行した大人がいてできた。

とにかく自由。責任がともなわない、完全な自由だ。責任はオトナが取る。だから、子どもたちは自分が何をやりたいのかをみずから考え、見つけ、頭と体をめいっぱい使って毎日を過ごす。

一方で、それができない子には辛い場所かも知れない。先生からあれをやりなさい、これをやりなさいと言われてやっているほうがよっぽど楽だから。

だから、この学校はすべての子どもたちの場ではない。そうある必要もない。だが、こうした学校がもっとたくさんあってもいい。 

映画のなかに「卒業を祝う会」の様子が映し出される。「卒業式」ではないのがいい。卒業式になっちゃうと、先生(学校)が主体となって事が決められ、式次第がそこにあって、それに子どもたちが合わせるだけになるから。

体育館に集まった卒業生たち、てんでバラバラに並んでいる。普通だったらクラスごと一列に並ばされるけど、この学校ではそんな集まり方はしない。一列に並んだら「前が見えないでしょ」だって。

昨日、今年のセンバツ高校野球の開会式があった。ニュースでその選手入場の風景を見たけど、さっきの小学校とまったく対照的。

こちらは全員が丸坊主。ユニフォームに身を固め、ブラスバンドの音楽に合わせて整然と手を振り足を上げて進む。


まるで軍隊の行進だ。主催の高野連、毎日新聞、後援の朝日新聞など、運営している人たちは、こうした光景を見てて何も違和感を感じないのだろうか。 

昔からこうだからと言っても、だとしたら感覚が麻痺してる。

2025-03-18

映画「生きて、生きて、生きろ。」

近くの大倉山記念館で映画「生きて、生きて、生きろ。」を見る機会があった。
https://ndn-news.co.jp/dvd/4478/

東日本大震災と東電の福島原発事故に遭遇した人たちの中には、遅発性PTSDと呼ばれる精神疾患に苦しむ人たちが多い。

家族を震災でなくし、自分だけが生き残ったことを許せないと悩む人。転々と移動させられる避難所生活によって心を病んで家族が自殺してしまった人。ふるさとを追われ、それまでの日常を消し去られて急速に痴呆症が発症した配偶者を見守る人。

泣くに泣けない人たちばかりである。いずれもやり場のない無念さに、胸をかきむしられる。

誰だ、原発は安全だから問題ないと言い放ち、放射性廃棄物の処理もままならないのにそれを推し進めた奴は。誰だ、原発の建屋に達するような津波など来ることはないと住民に平然とウソをついた奴は。

自己の利益と保身だけをつねに最優先する連中は、自分たちは安全地帯にいて、アブないもの、汚いものはいつだって貧しい地方に持って行く。人々の働く場所が限られ、財政が乏しく必要なインフラすら整っていないような村を狙い、補助金という餌と甘言で絡め取る。

そして今また、政府は政策方針を転換し、原発の新増設などを言い始めている。


2025-03-13

石川さん、亡くなる

「浜松 袴田巌さんを救う市民の会」から会報No.43が届く。おそらく、これが実質的な最後の会報になるのだろう。

袴田さんの逮捕から58年を経て、昨年9月、静岡地裁において無罪判決が出て、10月にそれが確定した。人生の大半を死刑囚として監獄で過ごした彼の残りの人生が、穏やかで悦びに満ちたものになることを祈るばかりだ。 

その袴田さんと並んで冤罪を訴え続けていた石川一雄さんが、3月11日に亡くなった。86歳。

1963年、62年前だから彼が24歳の時、「狭山事件」と呼ばれる殺人事件の犯人だとして無期懲役の判決を受けた。石川さんが被差別部落出身者だったことからの、差別にもとづく冤罪事件との味方が当時から強い。その後、仮出所したあと、無実を訴え続けていた。

弁護団によると、逮捕時の証拠捏造の可能性などが指摘されていて、再審に向けて今も審理が続いていた。

僕が初めて「狭山事件」とその犯人として逮捕された石川さんのことを知ったのは、大学1年の時にキャンパス内で見たビラだった。

その後、半世紀近い時間が流れ、石川さんのことはすっかり忘れていたのだが、今回、彼が亡くなったことを知り、あの冤罪事件がまだ続いていたことを知らされた。

24歳で逮捕され判決を受け、再審を求めて62年間である。裁判所は、なぜこんなに時間をかけるのか。なぜこれほど人の人生をかえりみないまま放置するのか。

石川さんが亡くなり、当時の警察と検察関係者らは胸をなで下ろしているのだろうな。いやな気分だ。

2025-03-08

赤いポストが消えていく

デンマークでは400年続いた書簡サービスが廃止され、今年6月から町中の郵便ポストも順次撤去されることになった。

BBCのサイトから

世界のなかでもとりわけデジタル化が進展しているデンマークでは、郵便局による手紙の取扱い数量が激減している。今世紀に入ってからは、14億通だったのが昨年度は1億1千万通と9割以上の減少である。

デンマークでの手紙の取扱量

また、デンマークでは現金を使う人はほとんどおらず、人々は運転免許証や健康保険証さえもスマートフォンで持ち歩くらしい。デジタル化できるものはすべてデジタルにしちゃえ、とばかりに社会システムを変革している様子が窺える。 

運転免許証にしても健康保険証にしても重くて持ち運びが大変といったものではなく、利用者側の日常のメリットはさほどない。一方で、すべての記録がデジタルで保管できるので為政者側にとってはさまざまなメリットが考えられる。

国民がそうしたこれまでの社会インフラのデジタル化の推進に歩調を合わせられるかは、政府がどれだけ信用されているかにかかっている。その点で翻って日本はどうか、ということに思いが行く。

それはさておき、町中から郵便ポストがなくなり、手紙を書くということが日常からきえていくことは寂しい気がする。電子メールですべてが置き換えられ、やがて手紙を書いたり受け取ったりしていたことすら人は忘れていくのだろうか。

日本でもやがて、と思わせるニュースである。

2025-03-04

経済学者たちの考え方

高校の授業料無償化に関してさまざまな意見が出されているが、この政策は日本の教育をどう変えるかという発想ではなく、選挙目的の「政治化」にすぎないことをわれわれはまず念頭においておかなきゃいけない。

私立高校の授業料無償化について日本経済新聞社が経済学者47人に意見を求めたところ、7割が反対意見を示した。理由は、その政策により私立高校側に授業料を上乗せするインセンティブが働き、それを全国民が負担しなくてはならなくなるから。


経済学的に考えれば、まさにその通り。残り3割の経済学者がそのように考えなかったのがとても不思議である。

「エノミクスパネル」と題したこの意見集約・公表のやり方は、なかなかおもしろい。与えられた問いに対して、経済学者が5段階(強くそう思うー全くそう思わない)で回答するだけでなく、加えてその回答の自信度を5段階で示しているところだ。

それぞれの回答の違いを読み比べることは、非常に参考になる。

ただ、5段階の1(全くそう思わない) あるいは5(強くそう思う)の回答者でありながら、自信度が2とか3なのはなんか情けなくはないかとも思うが。

https://vdata.nikkei.com/economics-panel/education-policy/highschool-tuition-free/2/

入国時、手にしているパスポートは「輸入物」である

日本入国時、納税申告の対象がないにもかかわらず、なぜ税関の申告書を提出しなければならないのか、ということを書いた。 

空港の税関吏は、私にたいしてその根拠として関税法第67条をあげた。その条文は「貨物を輸出し、又は輸入しようとする者は、政令で定めるところにより、当該貨物の品名並びに数量及び価格(輸入貨物(特例申告貨物を除く。)については、課税標準となるべき数量及び価格)その他必要な事項を税関長に申告し、貨物につき必要な検査を経て、その許可を受けなければならない」というもの。


「貨物を輸出し、又は輸入しようとする者」の定義について東京税関に確認したところ、「すべての入国者」がそれに当たるという。入国者が手にしているものはすべて「輸入物」にあたるからだと。

なぜか。たとえスーツケースやバッグを持たず、手ぶらであってもである。すなわち、その時は入国時に身につけている物が「輸入物」とみなされるらしい。

服も着ず、靴も履かず、つまり全裸で入国したとしても(実際にありえないが)、日本に入国したということは、その手にはパスポートが握られているはずであり、そのパスポートが「輸入物」となる。 だから、すべての入国者が対象となる、というのが税関職員の説明だった。

なんという拡大解釈! 屁理屈だ。

そうであれば、「貨物を輸出し、又は輸入しようとする者」などと表現せずとも、「すべての入国者」と書けばよいではないか。が、そうはなっていない。

そもそも、いまでは入国時に税関の申告書を提出させる国は世界の中で極めて少数になりつつあり、その点は日本の税関も理解している。にもかかわらず、先述の関税法の解釈にとらわれて利用者視点の運用ができないでいるのが現実である。

顧客の声を聞かない日本のサービス企業はどうなるか

先月末、東南アジアの国々を少し回って帰国した。各地のホテルは行く先々でネットで探して予約、フライトもほぼ同様だ。便利な世の中になったものである。地上の移動はGrabを使い、実にスムーズでストレスもなかった。

そうしたホテルや航空会社、Grabなどに共通するのは、サービスを使った後、すぐにお礼メールとサービスへの評価と今後のサービス改善のためのアンケートを依頼してくること。

ところが、それらのなかで一つだけ例外があった。日本までのフライトで利用した日本の航空会社だ。とりわけ今回の利用時、さまざまな点でサービス提供に問題があり、その航空会社に伝えておきたいことが何点かあったにもかかわらず、フライト後にも何のコンタクトもしてこない。

本来、顧客の声を拾わなければサービスの改善も、新たなサービスの開発もできない。

その日本の航空会社は、サービス企業としての意識が絶対的に欠けているように感じた。実際その企業は、ここ数年で明らかにサービス品質が低下しており、これから数字の面での業績低下は避けられなくなるだろう。

2025-03-03

税関の本当の目的とは

昨日、このブログに日本入国時の空港でのことを書いた。その後ふと思ったのだが、ひょっとしたら、黄色い申告書を示しながら僕に「ここの情報が大切なんです」と言った、レーンにいた女性税関職員の言葉が彼らの本音だったのかな、と思ったりして。

繰り返しになるが、申告書には名前や住所、生年月日といったパスポートの持ち主のプロフィールを記すことになっている。もし、偽造された日本人パスポートで日本と外国を行ったり来たりしている人物がいた場合、申告書に書かれた、日本人ではないその人物の手書き文字で不審者を嗅ぎつけることができる、かも。 

それが税関の目的か? 分からない。誰か教えてほしい。

2025-03-02

税関は何のために私たちに手間をかけさせるのか

日本に再入国するときのこと。

到着した空港で手荷物受取所のカルーセルからバッグをピックアップし、そのまま税関を通り抜けようとしたら、その手前で中華系の職員に「税関申告書」を準備してくださいと止められた(この人員配置は、中国からの訪日客が多いことへの対応だろう)。

私が、申告する物は何もないからと言ったら、全員が書かなくてはいけないと言われ、仕方なく例の黄色い縦長の用紙をもらって記入した。


その用紙を手に、税関職員にパスポートを見せるレーンで、なぜ申告する物がないにもかかわらずこうした書類を強要するのか訊ねてみた。

彼女は、私が渡した税関申告書の表面の上部を指して「ここの情報が大切なんです」と回答した。名前や住所、生年月日、パスポート番号、今回のフライトの出国地などをわれわれが記す部分だ。

だが、誰が入国したかの記録なら、パスポートの情報を入国管理のところで記録してあるはずであり、その説明はおかしい。と伝えて、納得のいく説明をくれるように求めていたら、やり取りを見ていた別の職員が僕の方にやってきた。

そのまま出国ゲート脇の詰め所(のような場所)に案内され、そこの男性職員が今度は税関の申告書を提出するのは法律で決まっているからだという。それはどういった法律かと問うと、「広辞苑」と見紛う分厚い本を持って来た。背表紙に「関税六法」と書いてあり、そこに収められた第六十七条に定められていると私に開いてみせた。

彼が示した条文を読んだが、理屈がオカシイ。

関税法第六十七条とは、以下の通りである。


ここでは「貨物を輸出し、又は輸入しようとする者は」という条件が付いている。つまり、その条件に当てはまらない者にはこの条文は適用されないはずだ。

彼にそう言ったら、少し困った顔をして黙ってしまった。すると、彼から少し離れてやり取りを見ていた別の職員がやおらこう切り出した。「申告する物がないと言う人も、申告書を書くことで申告する物があったことを思い出すことがありますから」と。

ええっ。リマインドのためかよ。人を馬鹿にしてないか。だったら、別の手段を考えてくれ。たとえば、申告忘れをしないようにとのメッセージの音声を手荷物受取所で流すとか、航空会社と協力して乗客の下船時にそうしたアナウンスをしてもらうとか。もっと効果のあるシンプルなやり方があるはずだろう。

もう少しスマートにやってくれよ。

中国繁体字が表示される違和感

アマゾン・キンドルで本を読んでいるとき、指先で特定の箇所にマークを付けることができる。紙の本で横線を引いたり、アンダーラインを引くのと同じ感覚だ。 

それらはアマゾンのサーバー内に記録され、あとで呼び出して読んだり、一覧をメールに添付して送ることができるという、なかなか便利な機能。マーキングするだけでなく、メモを付けておくこともできる。

先ほど、キンドルである本を読み終え、自分がハイライトしたものをメールで送って一覧を開いたところ、なんか変だ。句読法が日本のものではなく、中国の繁体字の表記の仕方(横書きの場合、句読点が下になく、中空に浮かんでいる)になっている。

また点と丸の打ち方だけでなく、漢字の書体も微妙に日本のものとは異なっている。

これはアマゾンが海外、おそらく中国にあるサーバーを利用しているからか。

自分がどんな本を読み、その本のどういった箇所にしるしをつけたかなんてことは明らかに個人情報であり、思想信条にも関すること。

それらが中国のサーバーに記録されてしまっているというのは、実に不愉快だ。なぜそうしているのかは彼らに回答してもらわなければ理由が分からないが、不信感は収まらない。

2025-03-01

意味のない大規模修繕工事が始まる

ひさしぶりに日本に帰国したら、斜め前に建つマンション全体が黒いネットで覆われていた。 

マンションの大規模修繕らしい。建物の周りに組まれた足場を行き来する職人たちの姿がネットを透かして見える。工事は、予定では3ヵ月かけておこなわれる。その間、なかに住んでいる人たちは紗のかかった目隠しをされているようなもので、さぞ迷惑なことだろう。

ところが、僕の住む集合住宅も大規模修繕に向けた話し合いが行われていて、来週あたりには管理業者の入札があるらしいことを知った。自身は部屋のオーナーではないので、何がどうなっているのかといった詳しい話が直接は届かず、知らなかった。そもそも外国にいたし。

予定だと、本年中に大規模改修の作業が始まることになりそうで、実に憂鬱な気分だ。

始まると、騒音がうるさい、ホコリっぽい、洗濯物が干せない、中を覗かれる(気がする)。何と言っても部屋からの景観がなくなり、日差しが注がなくなる。バルコニーに寝そべり本を読んだり酒を飲むことも出来なくなるのも辛い。

いいことは何一つ考えられない。そもそもマンションの大規模修繕ってのは、通常は外壁の洗浄と塗装が中心。つまり外面(そとづら)を塗り直すことで、建物を少しでもキレイに見せることに主眼が置かれている。歳とって顔の皺が増えたのを、これまで以上にファンデーションを厚く塗って隠そうとすることと同じ。

人間の体に例えるなら、その血管や神経に相当する給排水管や通信回線などを改修しなければ、日々の生活のクオリティには影響しないのだが。

外からの見栄えを良くすることで、マンションの資産価値の減少を保とうというのだろうが、その発想がどうにもみすぼらしくて嫌だ。そんなことが資産価値の向上に寄与するという社会の価値観がバカバカしい。

僕のように賃貸で住んでいる者にとっては、外壁をきれいにすることに意味はない。それどころか、そのことで今払っている月々の家賃を引き上げられたら泣きっ面に蜂だ。

一般的に修繕業者に支払う金額は、1戸あたり100万から125万円といったところらしい。5000万円の予算があれば宅配ボックスを増やすことで住民の利便性を高め、ルーフテラスを緑化して住み心地を良くし、さらにそこでバーベキューなんかできるようにしてもお釣りがしっかり残るのに。

しかも修繕工事費用は、多くがブラックボックス化されている。施工を行う業者によって、専門用語を多用した素人には分からない工事項目とそれらの金額を並び立てた工事見積もり書が作成される。それら業者にしてみれば、赤子の手を捻るようなものである。

工事業者や管理会社などの有象無象が結託し、住民の修繕積立金を吐き出させる仕組みである。痛みを受けるのは金を積み立てた住民だけ。しかも、ほとんどの場合、一般の住民はそうしたことを知る由もない。

大規模修繕工事なんてやめればいい。わざわざなんでそんなことやるんだろうと、つくづく思う。

2025-02-28

私はアホです(ドナルド・トランプ)

ハーイ、ドナルドです。今年あめりかという国の大統領にまたなってから、以前にましてアホになりました。

その証拠に、このビデオを見てくだはい。私だけでなく、イーロンもネタニヤフも素敵でしょ。 


ホワイトハウス公式Xが流した動画

ガザからはパレスチナの連中はおん出てもらい、不動産投資したうえでリゾートにするんだからさ。

どうですか、あめりかという世界一つおい国の大統領になれば、こんなことも恥ずかしがらずにできるんだ、すごいだろー。

アメリカ大統領は米国民が選挙によって選んだその国の代表である。人口が世界で3番目に多いアメリカの3.4億人の国民は、次々続くこうした彼の言動をどう思っているのだろう。

情けなさと怒り、脱力感、苛立ち、そうしたものがないまぜになった気持ちだろう、きっと。実際、それを表明するデモが米国の各地で行われている。

一方、日本の関西地区のある県では、選挙によって選ばれた知事とその周辺によって引き起こされた策謀が問われ、その解明がいまも続いている。そう、あの兵庫県だ。現知事、元副知事、県議会議員、いったい何なんだろうと思う。兵庫県民は恥ずかしさでいたたまれないんじゃないかね。

それにしても、普通に考えれば、県庁の前で「知事も議員もええかげんにせえ、本当のことを明らかにしろよ!」というデモが日々起こって当然だとおもうのだけど、兵庫県民はどうしてこうまで行儀がいいんだろう?

2025-02-27

羨ましい仕事

世の中にこんなに愉しい仕事があるだろうか。

世界中を回りながら、各地の猫とふれあい、それらのニャンの映像を収めて番組にするという「岩合光昭の世界ネコ歩き」である。

番組に登場するのは動物カメラマンの岩合氏と各地の猫たち。それと、そうした猫らに関係する現地の人たち。

猫に演技をさせようとしても無理なわけで、番組に登場するのはまったくのところ自由で勝手気ままな猫たちである。ところが、そのニャンたちと彼は猫語で挨拶を交わし、ご機嫌を伺いながらカメラを向けると、猫たちは彼の意のままに動いてくれる(ように見える)。

いやまったく、どうして猫の動きを読んでそっちの方にカメラを向けることができるのか、いつも不思議に思っている。 

そして被写体として登場する猫たちを見ていると、猫はそこにいる人間たちの鏡だと感じる。別の言い方をすれば、その土地を映しているともいえる。不思議なものである。

撮影に際してはロケハンなどは綿密にやるのだろうけど、当然ながら予定通りの撮影などはあり得ず、現地ではその場その場での即興の動きを捉えていくのだろう。経験と直感の勝負だ。

苦労もあろうと思うが、そうした苦労ができるのが心底うらやましい。

NHKの番組サイトから

2025-02-15

米国はイカれてきてる

オバマ政権下で駐日米国大使を務めたキャロライン・ケネディが、彼女の従兄弟であるロバート・ケネディ・ジュニアの厚生長官就任を拒否するよう訴える書簡を発表した。

ニューヨーク・タイムズ紙から

その手紙は最初にワシントン・ポスト紙に掲載されたのだが、それによると彼女はロバート・ケネディ・ジュニアの人格面にも大きな問題があることを指摘している。

「彼は若かった頃、飼っていた鷹の餌にするために、ひよこやネズミをミキサーにかけ、それを周りに見せびらかすのを楽しんでいた」と彼女は書いている。

ゲゲッ。こうしたかなりいけずな人物が米国の厚生長官に13日就任した。その男は今後、約8万人の職員と1兆ドルの予算を持つ米国保健機関のトップとして指揮を執ることになる。

他国の事ながら、一般市民のことを考えると気が重い。

2025-02-14

「会社法人等番号」12桁と「法人番号」13桁

法務局の出張所に、ある法人の謄本を取りにいった。申請書類に当該法人の「会社法人等番号」を記入する欄があった。法人の登記簿に記された識別番号で12桁で構成されているものである。

先日、関連する用件で税務署に行ったおりには「法人番号」を書類に記入することを求められた。こちらは13桁で、会社法人等番号のあたまに1桁の数字が加えられたもの。

ややこしい。法務局の窓口スタッフに、この2つの数字にどういった違いがあるのか、どう使い分けているのかを尋ねてみた。

すると、会社法人等番号は法務局で使用しており、法人番号は国税庁が使用している、なぜこの2種が用いられているかは分からないので国税庁に訊ねて欲しいと。

それ以上の回答がないので、そのままそこを後にしたが、どうも釈然としない。というのは、おそらく国税庁に説明を求めたら、今度は同様に法務局に聞いて欲しいと言われるだろうと思ったから。堂々巡りだ。

法務局が設定している会社法人等番号という名称の、あほらしい無意味さ。「会社法人等」というのは、会社だけでなく他の法人も、という意味だろう。つまり、「法人」の一言で事足りる。要するに本来、会社法人等番号と法人番号という2つの呼び名の意味は同一であるにもかかわらず、管轄する省庁が違うので異なった名称を付けているわけだ。 

国は効率化を推進するためデジタル政府を目指すなどと何年か前に言っていたと思うが、役所はどこも自分たちの縄張り以外のことは知らぬ存ぜずで、われわれ国民をあいかわらず蚊帳の外に置いている。

法務局と国税庁が話し合ってこうした番号の設定の仕方を決めていれば、会社法人等番号と法人番号という似た2つの数字を使い分ける必要などなかったはずである。

2025-02-11

さすがグーグル、恥知らず

グーグルは10日、グーグルマップを米国内で使用した場合、メキシコ湾だった地名がアメリカ湾と表示されるように変更した。

トランプの意向と大統領令を踏まえたものだが、さすがグーグル、あっさり強権になびいた。

米国民はメキシコ湾のアメリカ湾への改称についてどう考えているのかと思ってたら、ロイターの調査によると支持すると答えたのは25%で、70%は支持しないと回答していた。一般の米国人は、意外とまともである。

そういえば先週、グーグルは人種や性別に基づく採用目標の設定を撤廃するという新たな方針を社内で通達したらしい。こうした職場の多様性推進の取り止めもまた、トランプの考えを汲んだもの。

関連したニュース。NHK国際放送ではグーグルのAI自動翻訳サービスを利用して各国語の字幕作成をしており、昨日、沖縄県尖閣諸島をめぐるニュースの中国語字幕に「尖閣諸島」とすべきところを、中国が主張する尖閣諸島の名称である「釣魚島」が表示されたという。 

以前にまして、グーグル社からはさまざまな見過ごせない問題が出てきている。

2025-02-10

充電できなくなったらもう終わり、というのはいろんな意味で止めにしたい

僕たちはバッテリーで生きている。といっても、生身の体の中にバッテリーが埋め込まれているという意味ではもちろんない。

先日、電話の子機のバッテリーがへたって交換した。フルに充電してるはずなのに、話の途中で突然回線が切れることを経験したからだ。ハンディタイプの掃除機のバッテリーも交換した。

アマゾン・キンドルが起動しなくなった。死んだのはこれで何台目だろう。たぶん5台目か6台目か?

モーターなどの動作部品は仕込まれてないので、使えなくなるほとんどの理由はバッテリーだ。これまでずっとそうだった。リチウム電池が入っているんだろうけど、こちらは交換不能だから。

どうして交換できないのだろう。バッテリーが交換できなきゃ捨てるしかない。新品購入の費用だけでなく、環境面でも不満だ。

そんなことを考えていたら、スマートウォッチのバッテリーも弱ってきて、日中、気がつくと画面が消えているということがある。何とかしなくては。というか、これもバッテリーの交換が出来るわけではないので、処分するしかない。嗚呼、なんとかならないものか。

強欲な米国企業の買い換え促進策とはいえ、いい加減にしてほしいね。

以前使っていたことのあるシャープ製の携帯電話は、太陽光で充電ができた。クラムシェル(折りたたみ)式のもので、その蓋の部分に太陽光を電気に変えるシートが組み込まれていた。

キンドルは本体(画面)の裏面をつかってそうすべきだ。あるいは、純正をうたうカバーに太陽光シートを貼って本体が充電できるようにしてもらいたい。

身の回りのものの多くがバッテリーで動くようになっている。乾電池の交換ですめば楽でいいのだがそうではない。そのため、場合によってはモバイル・バッテリーとケーブルをバッグに入れて持ち歩かねばならなくなっている。

そして、本体のバッテリーがダメになれば、交換(買い換え)だ。こんなこと、いつまで続けされられるんだろう。そろそろ発想を変えてもいいんじゃないか。

2025-02-08

「ファスト&スロー」

ホンダと日産が経営統合に向けての基本合意に達したとする報道を目にしたのは昨年12月半ばのこと。両社は、同年の3月から統合について検討をしていたという。

統合のやり方は、両社で持ち株会社を設立するかたちになりそうだと。そこへの三菱自動車の合流も俎上にのっていた。

ところが三菱自動車がそうした統合話から降りたと思ったら、ホンダと日産の統合の協議もいきなり破談になってしまった。ホンダが日産の子会社化を言い出したのに対して、日産の経営陣が反発して基本合意書を破棄することにしたらしい。

ここで気になるのは時間の流れだ。ホンダの三部社長は会見時、話の端々に「スピード」という言葉を発していた。その一つは中国や米国の新興自動車メーカーの驚くほどのスピード感のある経営であり、もう一つは日産側の意思決定のスピード感のなさである。 

ホンダは、日産と一緒に経営のテーブルを囲むようになったら、とんでもなくスローな会社になってしまうと危惧したのではないだろうか。 

認知心理学者でノーベル経済学賞受賞者のD・カーネマンは、『ファスト&スロー』でシステム1とシステム2という2つの思考モードについて述べている。システム1は直感によるすばやい意思決定につながるもの。一方、システム2は時間をかけて行う知的活動をともなう合理的判断である。

ホンダの社長が会見でぼやいていたように、日産側の統合に向けてのプランニングはずいぶんスローだった(システム2の利用)。ところが、ホンダが日産を子会社化するという案を出した後の、今回の日産・内田社長の「受け入れられない」という経営統合破棄にいたる決定は実にクイック(ファスト)だった(システム1の利用)。

日産の経営陣は、子会社になった場合の日産自動車の5年後、10年後の姿について情報を多角的に集め、検討、熟慮したのだろうか。

ただホンダに対しての<オレたちを馬鹿にするな!>というプライドへの感情的こだわりが、内田社長の「ノー」の背景にあったように思えた。

それって経営か? 

現在、時価総額で日産はホンダのわずか5分の1、トヨタの30分の1である。合理性でなく感情による判断を優先し、自動車会社であるにもかかわらずクルマを売れる経営ができていない今の同社の経営陣に、企業を再生する能力があるとは思えない。

今の経営陣のもとではこのまま潰れるか、どこかに買収されるしか道はないだろう。

2025-02-07

彼の自殺から7年が過ぎた

近畿財務局の元職員だった赤木俊夫さんか自らの命を絶ったのは、2018年3月だった。

妻の雅子さんは、その死の理由を知りたいという思いで、ずっと財務省に関連文書の公開を求めてきた。例の森友学園への安倍元首相による国有地の格安払い下げについての件だ。

赤木俊夫さんは、土地売却に関しての関連文書14件について上司から「改ざん」を指示された。不正行為に悩み、そのことに端を発して彼はうつ病を発症し自死した。

その不正を指示した当時の佐川宣寿という財務省理財局長は、国有地の売却について森友学園側との価格交渉を否定、さらに記録は「廃棄されている」と国会の場で答弁した。

ちょっと待てよ。そうした記録は財務省の所有物ではない。役所の文書はすべて、われわれ国民のものなのだよ。勝手なことをするなよ(まあ実際は破棄せず残っていたのだが)。 

雅子さんが求めてきた文書公開に対して、国は開示はしないと決定した。国のその決定について、当然彼女はそれを取り消すように求めていた。そして今回、赤木さんの公開せよとの訴えを認めた大阪高裁の判決にたいして、国は上告を断念した。

石破総理がそれを決めた。

強い使命感、責任感を持って仕事に当たった方が自ら命を絶たれたことは本当に重い。判決を真摯に受けとめるべきだと考えた。

と取材で語ったらしい。

英断のように評価する向きもあるが、ぼくはまったくそうは思わない。英断どころか、こんな当たり前の決定をなぜ今まで出来なかったのか。情けないこと極まりない。

これ以上世間からの風当たりが強くなったらたまらん、との不人気首相の思いがあった。

加藤財務大臣は、検察にいったん提出した文書は財務省に戻ってきていると語った。佐川は国会の場で文書は廃棄されているとしゃあしゃあと答弁したが、大臣はそれらの存在を認めたのである。

赤木さんだけではない、国民全員を財務省の元官僚は愚弄したことになる。佐川のような男がその後、国税庁長官に任命されていたと知れば知るほど、確定申告のための煩わしい書類作成がバカバカしくなる。

前置きが長くなったが、今回書きたいのは別の点にある。

先に引用した石破総理の発言「強い使命感、責任感を持って仕事に当たった方が自ら命を・・・」だ。その通りだが、赤木さんの自殺という悲しい出来事は、彼が自分の公僕としての本来あるべき職務を理解し、かつしっかりした責任感をもっていた人物だったからこそでもある。

つまり、安倍とその妻、加えて文書中に記された政治家たちを忖度した佐川から書類14件の改ざんを指示された職員が、もし赤木さんでなかったら、「改ざん文書」の存在すら世間に知られることはなかった。

上司から言われたことをただ「処理」しているだけの職員の仕事(仕業)は、これまでも、またこれからも一切おもてに出て来ない。それらが彼らに都合のいいように改ざんされていようが、いまいが。

そして、それが役所内の文書のほぼ全部だ。赤木さんの死がそれを教えてくれている。

今後のことを見据えれば、いま私たちが考えなければいけないポイントはそこにある。

2025-02-03

別冊とは如何に

学会のため、今回はシンガポール経由でマレーシアに行くことに。シンガポールまでは日本航空で、そこからシンガポール航空に乗り継ぐ予定だ。

シンガポールの空港でターミナル間の移動をする必要があり、荷物も含めてそのままスルーで行けるのかどうか確認しておこうとシンガポール航空に電話したら、おそらく問題ないが、最初のチェックインがJALなのでそちらに確認してくれと言われた。

なるほどと思い、連絡した。こうした問合せは日々よくある類のものだと思うのだが、電話にでた予約スタッフは即答ができず、繰り返し「少々お待ちください」とこちらを待たせたあと、「先ほどのベッサツでの乗り継ぎの件ですが・・・」と話し始めた。

ベッサツ? 話を聞いているうちに、他の航空会社のチケットのことを言っているのだと分かった。別冊のことらしい。

昔の航空券は、複写用のカーボン用紙が何枚も挟まれた複数枚綴りの小さな冊子のようだった。それを指して、自社便でない別のチケットということで<別冊>とこの航空会社は言っているのかと。だが、そんな航空券を使っていたのは、ずいぶん昔のこと。

顧客からの一般的な質問にも答えられない、たぶんまだ新人の社員が、別冊などという社内あるいは業界のジャーゴン(符牒)を客に対して当たり前のように使うとは、何だかやっていることがちぐはぐ。

それも含め、客の顔も姿も見えないと顧客への対応がこんなにもぞんざいで、かつ気を抜いた応対になるという見本だったナ。近年のサービスのすがたを象徴している。

2025-02-01

おじさん、生きてろよ

1月28日、埼玉県八潮市の県道が陥没し、道のまんなかに穴ができた。

トラックを運転していた男性(74歳)は、道路を左にカーブした先にあったその穴に突っこんでしまった。だってそんなもんあるとは思わないもんなァ。

(TBSテレビから)

それからまもなく100時間が経とうとしている。丸4日が過ぎているにもかかわらず、彼の安否さえ分からないらしい。一体どうなっているんだ。報道では「懸命な作業が続けられており・・・」と型どおりの原稿をレポーターが読んでいるだけで、実にイライラさせられる。 

穴が周囲に拡がっていくのを恐れ、離れた場所から土木工事によってスロープをこしらえ、それができた後、重機で穴の中に入って行って・・・というプランらしいが、運転席にいるはずのおじさん一人を救い出す他のプランは考えられないのか。

二次被害を起こさないためとか、救助隊員の安全を確保してから本格的な捜索をとか、聞いていてまどろこしくてどうも仕方ない。事故対応への初動の判断と行動が遅いから、穴が時間とともにこんなに拡大したというのもあるんじゃないか。

事故発生時の現場のビデオ映像をみると、トラックが落ちたときはまだその荷台が地面の上に出ているくらいの状況だった。

時間が経つにつれて穴が拡がり、周辺が崩落し、水が流れ込んできた。それらは予想できたこと。寸暇を惜しんで、とにかく穴に落ちたトラックから運転者を引っ張りだすことに集中してれば、今のような、やれ低気圧が近づいてきて天気がどうの、水の流入量がどうの、積み重なった瓦礫の量がどうのといった消防庁の言い訳ばかり聞かされる事態にはならなかった。

本気でおじさんを救い出そう、助けようという気持ちがレスキュー隊にないように見える。それより救助隊員に何かあったら、今時だから自分がどう責任を問われるか分からない、という消防庁幹部たちの心の声が聞こえてくるようだ。

穴に落ちたのがトラック運転手のおじさん(74歳)じゃなく、もしそれが「乗用車を運転していた八潮市内に住む主婦A子さん(35歳)と娘のB子さん(10歳)、息子のC君(7歳)の3人家族」だったら。あるいは、「ポルシェを運転していたタレントの中居正広氏」だったら。

レスキュー隊の対応もメディアの報道もまったく違っているはずだ。違う? 

理不尽である。穴に落ちたおじさんには何の瑕疵もないのに。気の毒でしょうがない。

おじさん生きてろよ、と、祈る。

2025-01-30

なぜ日本を飛び出さないのか

ネット上で見つけたある記事で、世界各地でのソフトウェアエンジニアの給料(ボーナス含む)が紹介されていた(出所は、https://www.levels.fyi/2024/)。

それによると、本年1月時点でのデータが示す世界各地でのソフトウェアエンジニアの年間報酬は、
サンフランシスコ地域 約4200万円
シアトル地域 約3800万円
ニューヨーク市地域 約3000万円
サンディエゴ地域 約2900万円
ポートランド地域 2800万円、である。

日本はというと、上記トップのサンフランシスコの3分の1ほどらしい。それでも1400万円だから、国内ではそれなりの高給取りの部類といえる。

だからなのか、少なくとも僕の周りではそうしたソフトウェアエンジニアたちが海外に飛び立ったという話は聞かない。

もちろん給料が高くても住む場所として安全ではなかったり、健康な生活が送りづらい環境であれば踏みとどまるのは当然。だが、上記の米国の各地がそれほどまで治安が悪く、住んでいるだけで健康を害してしまう土地かといえば、決してそうではない。

むしろ、日本の会社に勤めていたらいくら頑張っても届かないレベルの給与を手にでき、また日本とは違ったエキサイティングな生活を送れるかもしれない。

もし僕が腕に自信のあるソフトウェアエンジニアで団塊ジュニアより下の世代なら、さっさと渡米を考える。理由? それを考えない手はないからだ。

また、アメリカじゃなく欧州へという道もある。

チューリヒ 2800万円
ケンブリッジ 2100万円
ベルン 2100万円
ローザンヌ 2000万円
ロンドン 2000万円、である。

報酬は米国企業ほどではないが、いずれにせよ日本よりずっと高い。加えて、国内にいては得ることができない経験を積むこともできるはず。

こうした新天地へ行こうとしない方がおかしいくらいだと思うんだけどね。