2018-05-27

フロリダの光と影

冒頭からいささか気色の悪いショットで映画は始まり、そのまま気分が乗らないままだ映画のストーリーは流れていく。

「フロリダ・プロジェクト」は、アメリカ、フロリダのディズニーランドのその塀の向こうの世界を描いた映画である。そこにはディズニーランドを訪れる客のための安いモーテルが林立し、アパートを借りることのできない貧しい連中が宿泊料週払いで住んでいる。

シングルマザーの家庭も多い。アメリカ社会の縮図というわけか。白人もいれば黒人もいるし、ヒスパニックもいる。今回の映画の主人公たちともいえる悪ガキらもそれぞれ白人、ヒスパニック、そして黒人の子供たちである。

冒頭から見ていてあまり心地良くないシーンが続いて、何度も観るのをやめようかと思いつつも最後まで踏みとどまり、やっと最後の最後の30秒の展開ですっと救われた気がした。はっきり言ってそれほど気の利いたシーンというわけでもないのだが、それまでが酷かった。

この映画で、脚本・監督のショーン・ベーカーが描いたのは今のアメリカ社会の一面。豊かで華やかなそのイメージの裏にある、人々の暮らしの現実である。その日暮らしの若いシングルマザーとその6歳になる娘が話の中心だが、それは決して特異な存在というわけではない。

アメリカには、フロリダにとどまらず全土にそうしたその日暮らしの貧しい家族らがいるはずだし、またそれはアメリカに限った話でもない。日本にも数多くこうした若く貧しいシングルマザーとその子供の家族もたくさんいることだろう。

ただ、この映画を見て思ったのは、アメリカ人のこうした底辺にうごめく人たちのアナーキーなまでのパワフルさ、身勝手で自己主張が強くあまりにも自己中心的なその姿の異様さである。そこには社会性や合理性は感じられない。ただ自分を守りたい、自分さえ良ければいいという、そうした野放図な利己心があるだけだ。

その凄まじいパワーというか、執念を感じさせるほど身勝手な主張を繰り返す強さには負けてしまう。日本ではこうはいかないだろう。だれもがそここそ社会性を持ち、常識で生きている日本人にはこうした強さはない。はたしてそれがいいのか悪いのか、この映画を観ていてわからなくなった。

子役たち(どれもすばらしい)を始め、無名の役者たちが多かったこの映画の中で、唯一僕が知っていたのは舞台となっている安モーテルの支配人を務めるウィリアム・デフォーだ。これまでエキセントリックな役柄が多かった彼が、随分と落ちついた常識的な人物像をきっちりと演じている。

その彼の落ち着いた役割と演技が、この映画の最大の清涼剤とも言えるものだったことは間違いがない。彼の役柄がなければ、僕はこの映画の途中でとっとと映画館を後にしていたことだろう。

この映画の上映の前に、是枝裕和監督の「万引き家族」の予告編があった。高層マンションの谷間に立つ平屋に住む家族を描いたこの作品とフロリダ・プロジェクトは見事に繋がっている(「万引き家族」はまだ未公開だけど)。

表からは見えない、だけどしっかりそこに息づき生きている人たちや家族の存在を観るものに突きつけ、深く考えさせる。
 

2018-05-08

ルール遵守という思考停止

パナソニックが、社員のジーンズとスニーカーでの出勤を認めることにしたという記事を目にした。津賀社長がチノパンで出勤しているという写真付きである。

あらためて、パナソニックはジーンズやスニーカーでの出勤は禁止されていたんだと知って驚いた。パナソニックほどの大企業だから詳細な服装規程があって、そのなかではっきりダメとされていたのだろう。

単なる服装と言えばそれまでだが、これまで誰もそうしたルールに異議を唱えてこなかったのか(そういう人はいたが、それにましてルールが強固だったのかもしれない)。服装に関する規則など勝手に無視して、ジーンズでも短パンでも好きな格好で出勤し仕事をするような連中はいなかったのか。

もちろんビジネスマン(ウーマン)だから、客先を訪問する際や改まった席がある日にはスーツ姿が適切なことは言を俟たない。だが、社内で仕事をしている分には、周りに不潔感を感じさせたり、不快な気分を抱かせない限り何でもいいだろう。

生まれつき髪の毛の色が茶色い女子中学生が、学校の教師から執拗に髪を黒く染めることを強要され、あげくは「染めるか、(学校を)辞めるか」と迫られた。髪を毛染め薬で何度も染めることで頭皮や皮膚がただれ、親が学校に対して説明したが「ルールはルールだから」と聞き入れられなかったいう話を思い出した。

ルールを振りかざす人たちは、往々にして権力志向と安定志向が強い。それによって守られて生きてきた人たちにとっては、どんな意味のないルールも貴重な防御壁なのだ。一方で、無用にそうしたルールで苦しめられている人たちがいるのも事実。

みんなにとってそれが必要だからルールが作られるのではなく、たいていは一部の連中が自分たちにとって「やりやすいように」やるために先にルールを作る。

私たちは、子供のころから学校で規則を守ることが大切だと繰り返しすり込まれている。誰のため、何のため、という基本的な問いは置かれたままだ。ルールはルールだからみんなきちんと守ること、みんな一緒、人と違ったことをしちゃダメ・・・。

こうした教育と社会通念が日本人と現在の日本という国を形作っている。アメリカなど海外から思いもよらなかったような発想が事業として登場し大きく成長している。

今ごろスーツをジーンズに着替えたからと言って、周回遅れの差が縮まるかどうか・・・。

2018-04-03

買いたくても買えない

最近、これほど何かを欲しいと思ったことはない。ソニーのaiboだ。
今回でその販売は何回目かになるようだが、今日4月3日の夜8時からソニーのサイトでaiboが発売になった。電話やソニーの店舗では買うことはできない。ネットでのみの販売。
夜8時からの販売開始に合わせて、パソコンを立ち上げ準備をし、指慣らし肩慣らしをして午後8時の時報とともに所定のサイトにアクセスを試みる。しかしアクセスが殺到しているのだろう。一向につながらない。 
何度も試みるが、だめだ。40分くらいか、数えくれないくらいの回数やってみるが、「ただいま混雑をしています」という表示で受け付けてはくれない。というか、つながらない。そしてそのまま、9時前に「完売しました」という表示が出た。
aiboは、本体だけで20万円を超える。それに、所定のメンテナンスサービスをつけると全部で30万円をゆうに超える買い物である。それにもかかわらず日本国中から、いや場合によっては世界中からのアクセスが殺到したのに違いない。
いまどきこんな商品があるんだなと、ふとわれに返った。欲しいものが欲しい、などと言われて久しいが、こうやって人の購買意欲をここまでかき立てる商品だって、まだ企業が作ることができるのだ。
考えてみれば、やっとこソニーはかつてのソニーらしい会社に戻ったということの証明かもしれない。もしもの話をしてもしょうがないが、2000年代から2010年代にかけてソニーの経営を率いていたイギリス人社長がリストラや間違った改革さえ行わなければ、ソニーはここまで長い間、ビジネスにおいても人々からの愛着においても回復に時間を要することはなかった。

2018-03-30

ため息しか出ないのは、われわれ読者だ

3月27日、前財務省理財局長の佐川氏の証人喚問が行われた。その内容はテレビで放映され、それを見た国民の多くは呆れ、怒りを覚え、やるせない思いになったはずだ。

森友問題をめぐる文書の改ざんは、なんと300箇所に及んでいた。ちなみに、日経新聞はそれを<改ざん>ではなく<書き換え>という表現で報じ、週一で同紙に連載を掲載する池上彰さんから紙上で「なぜ日経新聞は、改ざんを書き換えなどという言い方で報じるのか」と突っこまれる体たらくである。

それはさておき、証人喚問の翌日の同紙一面の春秋欄(朝日新聞の天声人語、読売新聞の編集手帳にあたるその新聞を代表するトップコラム)で、同紙論説委員は証人喚問に関して「結果は、半ば予想された展開ながら隔靴掻痒の極みだった。眺めていて、ため息しか出ない」と書いた。

これを読んだとき、僕は一瞬、読者の投稿欄かと持った。なんという無責任、情けなさ。ため息をつく閑があったら、本当の事を突き止め報道するのが新聞の役割だろう。

スピルバーグが監督をした「ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書」(原題は、The Post)は、1971年にワシントン・ポスト紙が当時のアメリカ国防長官ロバート・マクナマラの指示で作成された機密文書のコピー(4000ページ!)を手に入れ、それを政府から訴えられることになるだろうリスクを覚悟して紙面で報じるに至った経緯を描いている。

主演はメリル・ストリープとトム・ハンクス。それだけで観に行かないわけには行かない。話の中核は、夫の死によって突然ワシントンポストという米国でトップ級の高級紙の経営者となったストリープ演じるキャサリン・グラハムが苦悩しながら決断にいたる姿が描かれているところだ。

ベトナム戦争についての裏側が生々しく書かれている機密文書について紙面で報道するかどうか。彼女は自分が社主となったワシントン・ポスト紙の経営を安定させるため、銀行団と調整しながら上場させようとする、まさにそのタイミングにあっただけに、話はややこしく、見るものをスリリングな気持にさせる。

グラハムは苦悩する。結果、彼女は GO の指示を出すのだが、その原動力となったのは、当時の同紙の編集主幹で「ニューズウィーク」から同紙へ引き抜かれてやってきたベン・ブラッドリーのブレのない、執拗なジャーナリストとしての記者魂だったのは間違いない。

ワシントン・ポスト紙が記事を掲載したその日のうちに、大統領(ニクソン)の指示で米国司法省は同紙に対する掲載禁止令と恒久的差し止め命令を要求した。ただ、裁判の結果、連邦裁判所判事らは訴えを却下した。

米国政府がベトナム戦争終結に向けて大きく舵をきることになるきっかけとなった報道である。

ひょっとしたら自分たちの新聞社は潰れるかもしれない、訴えられた経営者と編集責任者は有罪に処せられるかもしれない、そうした重圧を最終的にはねのけて、彼らはジャーナリストとしてやるべきことをした。

日経新聞のコラム子よ、「眺めていて、ため息しか出ない」などと人ごとのような腑抜けた台詞など吐かずに、報道機関として自分たちが何をやるべきか、何ができるかすぐに考えて欲しい。

ため息しか出ないのは、読者であるわれわれ国民なのだよ。



2018-03-28

警鐘を僕たちはどう聞いてきたか

書棚を整理していて、1997年に発行された『2020年からの警鐘』という本を見つけた。本が出版されたのは20年以上前である。もとは、当時の新聞に掲載された特集記事を再編集したものだ。

何気なく手に取り、主な目次に目を通しざっと全体を眺めたが、そこに書かれている「このままだと、2020年にはこうなってしまうぞ」という警鐘の数々は、ほとんどそのまま20年後の我々が暮らす現在につながっている。

インターネットを誰でもが使えるようになり、AIが急速に進化して人の仕事を奪うのではないかとの危機感が生まれ、車の自動運転の現実化が増してきた日本の現在だけど、どれもこれも海外から押し寄せてきた潮流になんとか遅ればせながら「対応」しているだけで、日本から生まれ、世界を変えようとしているものはほとんど思いつかない。

今の日本の状況は、19世紀の終わり、ビクトリア朝時代の英国を連想させる。産業革命を世界で初めて成し遂げ、世界の工場として他国に比して豊かさを手に入れたが、その「成功体験」から構造転換に鈍感になり、やがては製造業は米国やドイツに追いつかれ抜かれた。

しかし長らく「英国病」と呼ばれる低迷期を経験したその国も、その姿を変えてまた世界の表舞台でそれなりの存在感を示すようになった。そのためには衰退から100年後、サッチャー首相のイニシアティブによる多くの痛みの伴う国を挙げての改革を待たねばならなかった。

鉄板のような官製規制、少子高齢社会に向けての漠然とした人々の不安感、変わらない学校教育、「日本はこれまでもなんとかなってきた」という日本人的盲信・・・。正直言うとどうしようもない面が多いけど、社会が変わらないなら個人だけでも変わらなければとつくづく思う。

2018-03-21

流れがない社会は滞り、腐る

報道によると、前国税庁長官(前財務省理財局長)だった佐川氏の退職金は5000万円らしい。その数字は別として、退職金額は国家公務員退職手当法に基づき算定され、定年退職に比べ自己都合での退職だと少なくなるらしい。

こうした考えは、早急に改めるべきだ。こうした規則は、職員が定年まで長きにわたって勤めあげることを推奨してるわけであるが、果たしてそれが本人のため、また組織のため、ひいては彼なり彼女が公務員であれば国民や市民のためになるのだろうか。

長く努めていさえすれば得ができるというインセンティブで人が良い仕事をするとは思えない。ましてや倒産やクビのない公務員である。人材の流動性を阻害しているだけだ。

官から民への移動、民から官への移動が日本でももっともっとあっていい。あるいは公務員だった人が定年前にさっさと辞めて起業したり、別の人生の道を歩み続けることがあっていいと思うのだ。

社会の活力が生まれない理由の一つは、人の流動性の低さにある。

2018-03-17

自動で走る住居

いつの頃からか、日経新聞を読むのが苦痛で仕方がないというか、面白くないのである。その理由をつらつらと考えてみると、理由のひとつとして、あまりにも自動運転に関する記事が日々数多く掲載されていることに気がついた。

自動運転に関係して、そこでは人工知能やらIoTやら、そうした領域のことが報道されているのであるが、それらがどうも過大に取り上げられているように思えてならない。

自動運転が我々の生活にどのようなインパクト与えるのか、ということについて自分自身考えることはしばしばあるけれど、現時点での結論としてはそれほど自分の生活やましてや意識を大きく変えるものにはならないだろうというのが今の結論だ。

自動運転によって移動が楽になる、そしてそれに応じて時間の使い方もいくら変わるだろう。だが、それが何か新しい知的創造を自分の中で生み出すことの手伝いになるかというと、それは疑問である。

いってみれば、たかが自動運転である。タクシーと何が違う。何かそれによって世の中の秩序がひっくり返るかどうかと言うと、自動車会社の経営者でもない限りはそんなことはないはず。

新聞記者たちは、他にめぼしいネタが見あたらないからかなのか。もっと我々の周りに目を向け、考察を深め、行動し世間に意見を問うべきことっていうのはたくさんあるような気がするのだがどうだろう。

先日テレビのニュースで報道していたが、日本郵便がその本社がある虎ノ門から新橋にかけて自動運転の試験走行をやるらしい。

自動運転といっても自分たちの郵便局間を車で走らせるテストだ。目指しているのは、人手が足りなくなってきたこの時代に、人が運転するのではなく車が勝手に郵便局間を郵便物を乗せて移動するということだ。確かに効率性を考えるとこれはアリかもしれない。しかし、ただそれだけのことである。

ただ1つ思うのは、トレーラーハウスのようなものを生活の拠点としてそこで日々の生活をしながら移動していくライフスタイルだ。時折、そのことにについて想いを巡らす。

トレーラーハウスやそれに類似する移動物は昔からあるが、基本的には自分で運転をして目的地を渡り歩いていくのが普通である。だが自動運転が本当に可能になったならば、自分はトレーラーハウスという「住居」の中で本を読んだり料理をしたり、くつろいだり、あるいは昼寝しながら車が自分があらかじめ指定した場所に連れて行ってくれるようになるかもしれない。

これはなかなか快適かもしれない。日本中を旅をしながら普段と似た生活を送ることができる。定まった住所がなくなり、道路の上や駐車場や広場や、そうしたところが日々の居場所になる。「旅に生きる」ことが簡単に実現できる。これは、なかなか愉快な暮らし方かもしれないと考えているのだ。

ただそのためには、「レベル5」とされる最高度の自動運転技術とその適用を可能にする道交法の改正が必要。10年はかかるだろうな。

2018-03-16

日本の大臣、大丈夫か

今日の参院予算委員会での麻生財務大臣の答弁の中で、彼が朝日新聞によって森友学園問題の財務省による文章改ざんが指摘されたことについてどう思うかと言うことに聞かれ、彼はその回答の中で「朝日新聞はめったに読まない新聞だから、よく分からないが・・・」と述べた。

どの新聞が好きか嫌いかは個人の趣味としてあるとしても、少なくとも朝日はわが国を代表する全国紙の1つである。日本の主要な言論を構成している1つである。それにそれに目を通さないというのはどういうことか。

シャレで言ったのならわかる。しかし自分の考えに沿わない、気に入らないからと言う理由である特定の新聞を読んでいないとしたらそれはあまりにもお粗末だ。

自分の考えと違う言論であればあるほど、そういったものに目配りをし、情報を集めるのが政治家として当然の行いのように思うのだがどうなのだろう。せめて主要新聞の見出しくらい読みなさよ、漫画だけじゃなく。

2018-03-06

第90回アカデミー賞授賞式


第90回目のアカデミー賞授賞式があった。

日本でもいろんな映画祭が行われていて、その中には日本アカデミー賞もあるのだが、本物(本場)のアカデミー賞授賞式に比べればそれはまるで子供だましのようで、同じ「アカデミー賞」でも彼我の違いは驚くほど。米国のエンターテインメント分野の奥深さを知る。

アメリカのアカデミー授賞式では、数年前に白人中心主義ではないかという声があがり、それがきっかけかどうか知らないが選ばれる作品や授賞式の内容もずいぶんと変わった。昨年、「ムーンライト」が作品賞を受賞したのがひとつのエポックだった。
日本では昨日、3時間ほどのアカデミー賞授賞式のダイジェスト版が放送されたのだが、それを見てて思ったのは、よくこれほど多彩な才能や人種や何やかやが集まるものだという驚きである。
日本ではいまだに「働き方」に言及するとき、女性の職場進出に関連してダイバーシティ(多様性)という言葉がきまって使われたりするが、今回のアカデミー賞の授賞式を見ていて思うのはすでにそういったものは当然のことであり、何をいまさらと言った感じがしないでもない。
しかしその一方で、女性差別やセクシャルハラスメント、同性婚、人種格差、トランプの唱えるアメリカ中心主義といった社会の中での根深い問題も確実に認識されており、授賞式の中にそれぞれがうまくテーマとして盛り込まれている構成と演出に感心する。実によく考えられ、練られていて素晴らしい。

「#MeToo」のムーブメント支持や、ミラマックスの映画プロデューサー、ハーベイ・ワインスタインへの痛烈な批判も予想どおり。

それにしても、アカデミー賞の授賞式では毎年コメディアンあるいはコメディアンヌが視界を努めているが、彼らは凄いなあと感心させられるのは、既成の権力を容赦なく笑い飛ばすことで批判し、常識をスマートな表現で揺さぶる技を持っていること。テクニックだけではない、その前にそうした社会意識を持っていることといっていい。

 

2018-03-01

ビールはサラダだ

カナダ・バンクーバーのダウンタウンの南部、グランビル橋の下、フォールスクリークに突き出た小さな島のような半島が、グランビル・アイランドだ。

ここにあるパブリック・マーケットは、鮮魚、青果、精肉、各種デリやケーキ、チョコレートなどたくさんの食料品の店がひしめく屋内マーケットである。観光客はもちろん、新鮮な食材が手に入るだけに地元の人たちで賑わっていた。

そのすぐ近くにある地ビールの店、Granville Island Brewingでは工場できたてのビールを飲むことができる。店頭にはビール・サイエンスと称して「BEER IS SALAD!!」という妙な理屈の看板があった。


できたてのビール片手に「これはサラダか?」と意見を戦わすのも一興である。

2018-02-25

ドキドキを売ろう

バンクーバーの市街地は思っていたより小さなエリアだ。徒歩でだいたい回れる規模だと言っていい。

その市街地から車で北に一時間ほど走るだけで、森林リゾート的な場所を訪ねることができる。観光地して有名なのが、Capilano Suspension Bridge Parkである。見どころはその名の通りの吊り橋とCliff Walkと名づけられた展望コース。

この公園への入場料は、42.95カナダドル。3600円ほど。安くない。


ただ歩くだけなら30秒もあれば渡りきるほどの「ちょっとした」施設だ。目を見張るほどの高さでもないし、そこを歩かなければ見ることができないといった景観もない。だが渓谷の山側の岩肌から飛び出した造作物の美しさゆえか、人気がある。


観光用の目的での同様の設置場所なら、日本でもたくさん考えられるはず。少し工夫するだけでもっと魅力的なクリフウォーク(絶壁渡り)ができる。地方の売り物になること間違いない。

問題は作れるかどうか。技術的な問題ではない、意思決定的な問題として、日本で役人がそれを決められるかどうかである。

このクリフ・ウォークを真似てでも、他より早くこうした施設をつくりPRしたところが勝ちだ。

2018-02-20

バリア有りー

2020年の東京オリンピック・パラリンピックをひかえ、都内やその周辺地域の建物や施設でバリアフリー化が進められている。結構なことだと思う。

下記の写真は、そんななかのJR新横浜駅の新幹線ホームの様子。視覚障害者のために敷かれた黄色い点字ブロックにピッタリとくっついて設置された操作盤が気になった。ホームガードのすぐ脇に、つい最近設置されたものだ。

点字ブロックにはかかっていないからセーフ、という駅の判断がここには見える。


白杖をついて、あるいは盲導犬と歩く視覚障害者が、ここをどうやってうまく通れるか。彼らはこの場所で、おそらくは体の一部をこの操作盤の角にぶつけることになる。

金属製の操作盤だ。角に膝をぶつけただけで十分イタイ。バランスをくずすと、転倒するだろう。

バリアフリーどころか、誰が見てもバリア有りーだ。

どうしてこんな簡単なことが、駅の関係者には分からないのだろうか。あるいは、分かってても面倒だから、あるいは組織の論理を乱さぬようにものを言わないようにしているのかもしれない。おそらく後者なんだろうナ。

僕がホームにいた駅員に声をかけ、このままだと視覚障害者にとって危険だと告げても「私には分からない。ほら、JRに苦情をのべる窓口というのがあるでしょう・・・。そこに電話してください」との答えが返ってきた。自分が働いている職場なのに。けが人が出るまで分からないのだろうか。

2018-02-14

早咲きのさくら

先週末に訪ねた三浦海岸の駅前ではもう桜が花開いていた。夕暮れ後、ライトアップされていた河津桜のショット。


2018-02-12

当たり前って思われてること、当たり前じゃないことがたくさんある

今朝の新聞一面から。「引っ越し難民 大量発生?」

4月の初めは学校の入学時期であり、会社への新入社員の入社時期であり、人事異動の時期でもある。3月に高校や大学を卒業して会社に入る若者たちの多くはそれまでのアパートを出て、通勤先を考えた場所に新たに部屋を借りる。

4月1日づけでの転勤の辞令を受けたサラリーマンは、3月の末から4月第一週にかけてあたふたと引っ越しの準備をしなければならない。

ただでさえ人不足のサービス業の典型である引っ越し会社では、この繁忙期に人を集めるのに苦労する。トラックのドライバーがまず不足する。

引っ越しのアルバイトは、かつて大学生の定番のひとつだったが、体力と気力を必要とするキツイ仕事だ。だから、最近は敬遠されがちらしい。

アルバイトの日給は一万円から一万三千円。他のバイトと比べ悪くはないのだろうが、それほど大きな金額ではない。僕が学生バイトで引っ越し会社の手伝いをしていたときの二倍程度にしかなっていない。もう40年近く経っているのに。同じ期間で、私立大学の初年度納付金は3倍になっている。

本当に日本の給料は世界の他国に比べてあがっていない。デフレでものの値段が上がっていないから、日々の生活感としてはまあまあという感触で来たのだろうけど、他のOECD諸国などから見れば日本人の給料は、ヤスー! と言われてもしかたがない。

生活が成り立っているのだからそれで何が困るのか、と言われるかもしれない。これからどんどん困っていくのだよ。

高齢者社会(高齢化社会という言葉があるが、人類が誕生してからずっと、例外として戦争や飢饉や伝染病が蔓延した時期を除いて人類は「高齢化」してきているのに、いまになって「高齢化社会」というのはおかしいと僕は思っている)の日本では、老人介護のために間違いなく人を外国から呼ばなければならなくなる。近いうちに。

だってそうしなければ立ちゆかなくなるのは目に見えているから。ロボットが人間の介護者と同様の事ができるようになるのは20年くらい先だろう。言葉のコミュニケーションに難があっても、やっぱり人にはかなわない。

だけど彼ら彼女らだって、わざわざ外国である日本に人類愛でもってボランティアとして来てくれる訳じゃない。賃金を求める労働力として日本に働きに来るのだ。その時に競争的な賃金が払えなければ、誰もそんな国に好きこのんでやってくるわけはない。

かといって今の総理大臣がやっているような賃金上昇の仕方、つまり経済団体の企業経営者に給料アップを要請するのは明らかにポイントがずれている。なかには総理の気持ちを「忖度」してベースアップを発表した経営者もいるが、従業員の給料をどうするか考えることは経営者の仕事の根幹のひとつで、ゼロから自分で判断すべきことだ。

日本の総理大臣も企業の経営者も、やるべき事はひとつ。生産性を上げることだ。だからといって、何も国や企業を根底から揺さぶるようなイノベーションが必要という訳じゃない。

国はつまらぬ規制を撤廃し、前例主義で安穏とするスローな仕事の仕方をあらためること。企業は、これまたつまらぬ横並びの考えを変えて、もっと自由闊達な発想と行動力を発揮すること。単純である。

新卒の4月の一括採用? いい加減に考え直す時期である。人事部にとって慣れしたんだ儀式になっているだけ。年功序列や終身雇用? ほとんどの経営者が止めたいと思っているはず。であれば、止めればいい。それでもって、何か自分たちならではの別の仕組みによって優秀な人材が集まるためのアイデアを考えることだ。それができるかどうか、これから経営者の能力と責任が問われる。

2018-02-11

上に昇るか、右に行くか

都内某所で乗ったエレベータのボタン。

誰かがイタズラで回しちゃったのかもしれない。でもこのボタン、見た誰もを一瞬「ひょっとしたら・・・」と考えさせる力を持っているように思う。

アタマのネジに油を差してくれるのは、普段の風景からちょっとズレた、こうしたさりげないものだったりする。


2018-02-06

Three Billboards Outside Ebbing, Missouri

映画「スリー・ビルボード」の舞台は、ミズーリ州の寂れた片田舎の街、エビング。架空の、しかしミズーリにはこんな典型的な場所があるんだろうなと思わせる街である。

アメリカというとニューヨークやロス、サンフランシスコ、シカゴなどを思い浮かべ、そこがアメリカと勝手に想像してしまう。しかし実際は、アメリカはひとつの大陸の大半を占めるほどの巨大な国。地理的にも歴史的にも極めて多様である。

ミズーリというと、僕がまず思い起こすのは、チャーリー・ヘイデンとパット・メセニーの1997年のアルバム「beyond the Missouri Sky」だ。ものを書く際にBGMとしてよく流していたが、そのジャケットの写真が映す荒涼とした風景が、僕にとってのミズーリだった。 

映画に登場する人物はみんな、ある意味でどこかネジが外れている連中ばかり。しかし、それらがストレートに自分を表現し、どこか深いところで、いわば人間としてつながっている。

邪悪で軽薄そうな男も、自らの深いところに何かしらの悲しみを抱いていて、ひょんなことからそれに気付き、生き方を修正していくことができることを映画は示す。悪党にも一部の善の魂があることを描くことで、観るものを思考の縁へと連れて行く。

一方で、いかにも善人として周りから思われ、自分でそれを疑うこともない教会の神父らがいかに浅薄で社会の矛盾に目をつむり、形式的にだけ生きているかも映し出す。

主人公のミルドレッドを演じたフランシス・マクドーマンドの圧倒的な力強さだけでなく、登場人物がすべてその輪郭をしっかりと持ち、確実に描かれている。練りに練られた優れた脚本があってのこと。



2018-01-30

議論のネタ

朝日新聞の文化面「語る 人生の贈りもの」欄に椎名誠の話が連載されていて、これが面白い。

中国のタクラマカン砂漠、楼蘭への道中の様子が語られていたのだが、その途中のミーランという村での以下のような話が語られている。
オアシスの村・ミーランにたどり着くと、ポプラが揺れていて風が美しかった。ただトイレが男女一つずつしかないので行列ができる。前も横も仕切りがないので並ぶ人たちに見られながら用を足す。紙で拭くときに人格が崩壊するような屈辱感を抱く。なぜなのだろうと、夜みんなで議論しました。
中国のかつての(今も田舎はそうかもしれない)トイレ事情はよく聞かされるところだが、それをネタに撮影隊の連中と「議論」をするというのが愉快だ。

近頃は大学でさえ、人が集まって熱く議論するということは珍しくなったと思う。若い人たちはもっぱらネット上で上滑りで空虚なコミュニケーションに終始しているように思える。

そこでは人が本来持っている体温のようなものがまったく伝わらない醒めたやり取りだけが流れている。

いまの若者たちの周りにだって、議論のネタなどいくらでもあるはず。時には敢えて屈辱感に身をさらし、それをネタにみんなで議論したらどうか。

1月25日付け朝刊


2018-01-21

紙と墨で1200年を超える

久々の暖かいいい天気の日曜日だった。その気候に誘われて昼食後、上野へ出かけた。

国立西洋美術館で行われている「北斎とジャポニスム」展を観に行ったのだけど、休日ということもあってか入館までの待ち時間が1時間ちかく。

そこは諦めて、東京国立博物館で 開催中の「仁和寺と御室派のみほとけ」展へ足を運んだ。仁和寺は御室桜で知られる真言密教の寺。888年に完成した寺院で、数々の国宝級の宝物が今に伝えられている。

仏像や絵画もすばらしかったが、今回とりわけ記憶に残ったのが、弘法大師(空海)が真言密教を伝える書物として中国(唐)で写経して持ち帰った経典だ。


三十冊あるところから「三十帖冊子」と呼ばれている、これも国宝である。空海の没年が835年なので、1200年近く昔に書かれ(写され)たものだ。それが今も墨のあと鮮やかに残っていて、私たちは展示ケースのガラス越しではあるけど、誰もがそこで読むことができる。

空海はそのとき、どこで何を想いながら教典を写経していたのだろうと想像させられ、またあらゆるデータがデジタルで記憶される時代ではあるが、記憶媒体としての保存性や閲覧性の面で「紙」にまさるものはないとしみじみ痛感させられた。

振り返るに、我が家には4、50枚のフロッピーディスクに加えてMOやMD、メモリースティック、スマートメディアなどが今も残っている。

早く中のデータを確認して必要なものは移行しなければと思ってはいるが、それらの中には既に再生するための機器(ドライブ)が手元になくなってしまったものがある。

はてさて、それらをどう処理するか・・・。

2018-01-16

「ヤリタイホウダイ」と「イノチガケ」

昨日、大隈講堂で「劇的なるものをめぐってⅡ」の上映会があった。

早稲田大学の演劇博物館ーー最近いろいろと旗色が悪い早稲田だが、日本の大学で演劇関係の資料をこれだけ取り揃え、また演劇を支えようとする志を持つ演劇専門の研究機関、博物館はここ以外にはないーーが主催するイベントで、SCOT(元早稲田小劇場)の鈴木忠志が登場するということで、楽しみに出かけた。


上映された「劇的なるものをめぐってⅡ」は、早稲田小劇場の舞台の練習を映像記録したもの。撮影されたのはいまから50年近い昔で、鈴木曰く、誰が撮影したか分からない・・・。

主演は当時28歳、芝居を初めてまだ3年という白石加代子である。既にその独特の怪演ぶりを十二分に発揮している。白石あっての鈴木という印象もなきにしもあらず。

鈴木は1939年生まれ。大学に6年在籍、27歳の時に自分が主催する劇団を創設、37歳の時に富山県利賀村に活動の本拠地を移し、それ以来ずっとその地で演劇活動を行っている。

30年ほど前、ある多目的ホールをオープンする仕事に携わっていた頃、鈴木が主催する演劇祭「利賀フェスティバル」を観に冨山を訪ねたことがある。人口数百人という今でいう過疎の村で、村の民家に泊めてもらったことを思い出した。

夜間に屋外劇場で行われた芝居、確か鈴木版の「ディオニソス」だったと思うが、不思議な静かな熱狂感を感じたことを記憶している。

昨日の上映会の後は、鈴木と演劇評論家の渡辺保の対談があった。鈴木は79歳にして、傍目からは衰えることを知らぬ人物である。「ま、なんでも聞いてくれ」から始まったが、実にとうとうと、かつこんこんと自説をまくし立てる。 芝居への圧倒的な知識と経験、尽きぬ情熱が伝わってくる。

鈴木には、今の歌舞伎や能の役者に対して並々ならぬ不満があるようだが、そうしたことに話が流れようとすると渡辺が巧みに路線をもどす。演劇評論家として全方位を相手にしていたい立場からの「忖度」だろうが、そこが物足りなかった。

下記のリンクは鈴木が2015年に書いた文章のひとつだが、彼流のレトリックとはいえ、そこに書かれている「ヤリチホウダイ」やり、しかし「イノチガケ」で臨むその姿勢は今も健在であることを確認した夜。命がけという言葉について何年ぶりかで考えさせられた。

http://www.scot-suzukicompany.com/blog/suzuki/2015-09/#blog000221

終わって大隈講堂から外に出たら、あたりは真っ暗だった

2018-01-14

入試で人生は決まらないよ、君

昨日と今日、全国でセンター試験が行われた。

毎年思うことなんだけど、どうしてこんな時期にやるのだろう。

今年も大寒波で各地が雪に覆われ、交通期間が麻痺して試験会場に時間通り到着出来なかったり、雪で滑って怪我をしたり、寒さで風邪を引いて試験をあきらめたり、さまざまなトラブルが聞こえてきた。

1月のなかばに日本列島が、あるはその一部が寒波に覆われるのは自然現象であって、不思議でもなんでもないのである。 もっと気候のいい11月にでもやればいいと思っている。2ヵ月早めるだけでコンディションは格段に改善する。

ところで、テレビのニュースでセンター試験の受験生が、カメラに向かい「人生を決める試験なので頑張ります!」とインタビューに応えていた。気を引き締めてしっかりやろうというのは結構だが、思わず「入試や大学で人生は決まらないよ」と画面の向こうにいる若者に声をかけたくなった。

こんな当たり前の事が18歳になっても分かってないことに、ふと残念な気分にさせられた。いや、彼のせいではないのだろう。親か高校教師か分からないが、まわりの大人がそうした完全に時代遅れな発想を信じ、受験生に吹き込んできたのだろう。

世の中の大学も(私もその一部分であるが)そうした責任の一端を担っているとも言える。


2018-01-08

写真は枚数か、手触りか

アマゾン・プライムの無料映画のなかから、映画「アンコール!!」を移動の途中で観た。

映画の原題は、Song for Marion。主演は、テレンス・スタンプとヴァネッサ・レッドグローブ。マリオンは、映画の中でのレッドグローブの役名だ。

妻のマリオンが癌で亡くなった後、アーサーは妻の衣装棚の下に置かれている小さな箱を手に取り、そっと蓋を開けてみる。その中にはアーサーとマリオンが結婚する前に交わした数通の手紙と何枚かの写真が収められていた。
2人の結婚式のスナップや幼い息子と一緒に写った写真・・・。白黒のものも何葉かあり、プリントのサイズもまちまちなのが、長い間のなか、その時々で写し現像された時間の経過を示してるように思えた。
デジタル・フォトは保存や整理は便利だけど、その規格性からは当然ながら、手触りもなければ時間の積み重ねのようなものもそこには感じることができない。
何よりもデジタルで写真を撮るようになってから数ばかり増え、これといった1枚が逆になくなった気がする。写真が本来持っていた力やありがたみがなくなった気がする。

年末年始の休みに、Google フォトで写真を整理した。使い勝手がよく、アルバムなどの編集も実に簡単にできるが、アプリが洗練されていて写真も思い出もただ流れて行ってしまうのが難点といえば難点。

2017-12-29

ダブルでもトリプルでも好きにやればいい

新聞一面トップの見出しに「副業容認で社員育成」とあった。

それによると、副業を認める企業が日本でも増えてきたというのだが、なぜ今なのか不思議である。紙面では理由として能力の開発、ネットワーキングなどとある。

ならば、なぜ今ごろになって? そうした効用があると理解しているのなら、そうした日本企業はなぜこれまで認めてこなかったのか?

他社の真似と、ブームに多少乗って「我が社は従業員重視のやさしい企業」というイメージを付けたいだけじゃないのかと勘ぐってしまう。

そもそも、時間と避ける労働時間が限られている副業で、あらたな能力を身につけるのは容易なことではない。多くの場合は、せめて現業での専門性に自信のある人が、それを場を変えるなど横展開するのがせいぜいだ。

ただ、副業で稼ぐということは、ひとつの会社の事しか知らないサラリーマンが他流試合を行うようなもので、自分の甘さや視野の狭さ、足りない点に気づくにはよい方法だと思う。

その結果、自分の能力の棚卸しをすることができ、セルフラーニングの大切さに気付き実行するようになれば、確かに能力開発につながるかも。

我が身を振り返れば、ほとんど新入社員の頃から副業をやっていた。本業である広告会社でのコピーライター業に加え、アルバイトで企業の広告制作を頼まれてコピーを書いたり、企画書をまとめていた。付加的な収入もあるが、ただただそうした仕事をたくさんやっていたかったのが理由だ。

自分が「外の世界」でどれだけ人から評価されるか、今でいうエンプロイアビリティを磨きたかったからといえる。

仕事が好きだったのは、学生時代からのことだ。大学3年の時には、日本を代表する大手通信会社の正社員として働いていた。週に3日、夜8時から12時までの仕事だった。正社員だから賞与も出たし、健康保険証ももらっていた。組合にも入り、ストの時には赤い鉢巻きを巻いてシュプレヒコールをあげていたのは爽快だった。

その時は学生の身分が本籍としてあったので、企業での仕事を醒めた目でというか、自分なりに相対化して眺めることができたのが、今にして思えば大きな収穫だったように思う。つねに「ここではないどこか」を探して複数の仕事を重層的にやってきたそのきっかけは、こうした学生時代の就労経験にある。いずれにせよ、大学の授業があまりにつまらなくて始めた仕事だったが、その自分がいま大学教授をやっているのだから、何をか言わんやである。 

 ところで、先の新聞紙面によると「人材の流動性が高い欧米では、副業が定着している。米国では労働力人口の3割にあたる約4400万人が主な仕事とは別にフリーランスとしての収入を持っている。一方で、日本では副業を持つ人は数%にとどまる」とある。

そうした米国の労働者にとって、主な仕事とは別にフリーランスでも働くことは、色々な面で重要なセーフティネットなのである。働く場所も、財布も、ネットワークもひとつに絞らないための知恵だ。

人材の流動性が確保され、働き方も自由な米国では、残業過多が理由で精神的に追い込まれた社員が自殺するといったケースはほとんどないのではないか。その方が、よっぽど人間らしい。

日本では就業規則で副業を禁止している企業が多い。週末や休日、有給休暇の間や就業時間後もなぜ社員を管理しようとするのだろう。休みの日はゆっくり休んで英気を養い、また月曜から会社でバリバリ働けるように、との経営者の考えなのかね。


2017-12-16

猫は平和の象徴のひとつ

YEBISU GARDEN CINEMAで「猫が教えてくれたこと」が上映中だ。こんなに面白い映画なのに、都内ではこの映画館を入れて今は2館、横浜で1館が上映しているだけなのが残念。


監督はトルコ人女性のジェイダ・トルン。そして舞台はトルコのイスタンブール。イスタンブールには、国際学会に出席するため今年の3月末から4月にかけて訪ねたばかり。映画にはその時の懐かしい風景がたくさん出てきたのも楽しい。

学会出張であっても、時間を見つけてはひとりでとにかく街を歩く。歩くというより彷徨うのがいつもの流儀。その時も繁華街から1本、2本と裏通りに入り、時間の許す限り地図とコンパスをポケットに歩いたが、時折野良(たぶん)猫に出会ったのを印象的に覚えている。

その時、見かけた猫たち・・・

イスタンブールの裏街で会った猫たち(にゃん1)
にゃん2
にゃん3
こちらはトルコのカッパドキアの猫
接近して。。。

この映画を観て実は初めて知ったのは、イスタンブールは他でもない「猫の街」だということ。

地面すれすれの猫視線で、イスタンブールの街で生きる猫たちがとらえられている。岩合光昭の「世界ネコ歩き」をイメージしてもらうといい。


映画の中で、「猫は神の使い」という言葉が出てくる。自立し、自由で勝手、人に媚びることもなく生きているからかな。

街に住む人たちが、実に自然に猫に接してやっているのが微笑ましく、その関係に幸せ感がにじみ出ている。

2017-12-10

鬼ヶ島とも呼ばれる青ヶ島

週末を使って青ヶ島(東京都青ヶ島村)へ行ってきた。

直通の交通手段はなく、八丈島まで全日空機で飛び、そこから東方航空のヘリコプターでわたる。なかなか人気のルート(島)らしく、ヘリの予約は取りづらい。

何年か前、取材で世話になった若者が青ヶ島小学校で先生をしていると聞き、訪ねようとしたことがあった。その時は天候のため八丈島で足止めをくらい、2日待って結局青ヶ島へは渡れず、八丈島の見学だけして本土へ帰ってきたことがあった。

雨や風はたいていのことでは平気らしいが、ヘリは有視界飛行なので霧のために視界がない日は飛行できないし。フェリーは海がしけると出港できない。

有人島としては伊豆諸島の最南端に位置し、東京都心からは360キロほどの距離。小笠原諸島などに比べればそれほどの距離ではないのだけど、アクセスがよくないために、離島中の離島といった印象がある。

島の周囲に浜辺はなく、ほとんどが垂直に近く切り立った崖で囲まれていて、近づき難いことから鬼が島とも呼ばれていたとか。


上の動画は大凸部と呼ばれる島の最高地点の展望台からの360度。ここから島最大の特徴である二重カルデラの地形がよく観察できる。北には八丈島が望める。

民宿で夕食を済ませた後、尾山展望公園に星空を眺めに出かけた。月の出が午後10時半過ぎの予定なのでそれまでは漆黒の空に星が観察できるはずだったのだが、そらの四分の一位を雲が覆っていたので、見上げる空中に満天の星とはいかなかった。

それでも冬の大三角形(おおいぬ座のシリウス、オリオン座のベテルギウス、こいぬ座のプロキオン)がきれいに見え、流れ星をいくつも観ることができた。

2017-11-19

厳然自粛?!

部屋の片付けをしていて出てきた雑誌のひとつ。2008年の「日経ビジネス」誌の別冊である。

その中に東芝の当時の社長、西田氏を取り上げた(ヨイショした)記事が掲載されていた。彼の写真のキャプションに「朝の6時半には出社して、戦略を練る。座右の銘は『厳然自粛』」とある。

厳然自粛とは、「厳然として自を粛す」との意。中村天風が好んだ「六然訓」の一節だ。

今となってはジョーク以外の何ものでもなく、即ゴミ箱に投げ入れた。

2017-11-10

「クールジャパン」はクールじゃないよ。困ったね。

今週の初め、新聞の一面に「クールジャパン過半未達」という記事が掲載されていた。

クールジャパンは、国の成長戦略の1つ。日本の文化の輸出促進のために設定されたのが、クールジャパン機構という官民ファンドだ。

記事によると、発足から丸4年が経ったが、成果が振るわないと報告されている。投資案件24件のなか、その過半が成果を上げていないか、計画を達成することができていない。

なぜこれが官民ファンドの投資対象になったか、報道資料だけでは理解できないものも多い。

例えば、スカパーJSATが6割、クールジャパン機構が4割を出資いている「WAKUWAKU JAPAN」は、赤字続きで来年3月には減損の可能性がある。そもそも出資をしたクールジャパン機構の社長は、スカパー持ち会社の社外取締役を務めていて、彼が出資案件として持ち込んできた。ガバナンス上の問題はないのか。

ワクワク・ジャパンという企業名(サービス名)が、悲しいほど貧しいセンス。真面目に会社を設立したとはにわかに信じがたいのだが。

そもそも、自分で自分のことをクールと評する「鈍感さ」は、まったくクールではないと思ってしまうのは僕だけだろうか。クールジャパン、恥ずかしい。


日経新聞11月6日朝刊一面

2017-10-30

不正そのものが競争力低下の原因ではない

日産自動車の国内のすべての工場で、無資格の従業員による新車の完成検査がなされていたことが明らかになった。

続いて神戸製鋼所で、取引先の求める基準に達していない製品の検査データを書き換えていたことも明らかになった。その後、日産と同様に、スバル自動車でも完成車の検査を無資格の検査員が行っていたことが表沙汰になった。

日本を代表する製造業メーカー各社で、そうした不祥事が相次いでいるという報道が新聞などマスコミでなされ、そうした点が国際競争力を急速失いつつある日本の製造業の一つの象徴のように語られている。モラルハザードだと取り上げ、まるで貧すれば鈍す、といった論調なのだ。

しかし、実態はそうだろうか。日産自動車、神戸製鋼所、スバル自動車、いずれの企業もこうした不適切な検査体制やデータ改ざんは最近なって行われたのではなく、以前からなされていたのである。

日産において完成検査の不正は40年前から。スバルも30年以上前からずっと無資格検査員による検査が常態化していたという。神戸製鋼での製品の性能データ改ざんは、会社発表では10年ほど前と言っているが、元社員によれば少なくとも40年以上前からやっていたとされている。

いずれの企業においても長年にわたって行われてきていたが、ただそれらがこれまでは明るみに出なかっただけ。別に最近になって日本企業のモラルが急速に低下したわけではない。むしろ、以前は公にされなかったそうした情報が表に出てくるようになったのは、その面では好ましい方向に向かっていると言うことができる。

人は金槌を手にすると、釘を探す。マスコミはこれらの企業の不正という金槌を手にし、国際競争力の低下という目先の釘に早計に飛び付いてしまった。長年にわたって不正を続けるなど、彼らのモラルダウンはもちろん褒められたものではない。しかし、もの作りの競争力とは直接の関係はなかった。現場がそれだけ実際によいものを作っていたからだ。

近年、日本の製造業が外国の同業者に追い越されているのは、経営者の能力と戦略のなさが理由である。東芝などその典型だ。そこをもっと仔細に分析していかなければ、いつまで経っても表層を撫でているだけで事の本質に迫れはしない。

2017-10-26

シリウス、輝く

このところ雨が多い。台風も次々と日本周辺を襲う。秋の長雨というが、それにしても毎日しとしとよく雨が降る。降らない日でもどんよりした曇り空の日々が続く。

今日はやっと秋らしい天気の一日だった。これがこのまま続いてくれるとうれしいのだけど、天気予報によると週末はまた雨だとか。

今夜は南の空におおいぬ座のシリウスがひときわきれいに輝き、明るい瞬きを見せている。今の季節、南向きのバルコニーからほぼ正面に見える。その右上にはオリオン座が輝いている。

天気のいい日には、毎晩寝る前にシリウスを眺めるのがここ数年来の僕の習慣。その星までの距離、8.6光年である。

2017-10-19

「演奏すれば思い出すだろう」

昨晩、今年69歳になったジャクソン・ブラウンのコンサートを、雨のなか渋谷オーチャードホールへ聴きに行った。東京公演の最終日である。

髪の毛には白いものが混じっていて、それなりに年輪を感じさせるところもあったけど、髪型も体型も同じ。声の艶も衰えてはいない。ストーンズやマッカートニーを持ち出すまでもなく、ロックミュージシャンって息が長い。

観客は、オヤジとオバサンが圧倒的だ。70年代あたりに学生時代を過ごし、その頃からJBの曲をよく聴いていたという連中だろう。そういう僕もその一人。彼のコンサートはたぶん3回目。正確には覚えていないが、最初が20年ほど前で、次は10年ほど前だったような気がする。

席は2階席の最前列。ステージ全体が見回せて、意外と良かった。1階席は、オヤジ、オバハンにもかかわらずスタンディングで声援を送る観客たちがいて、もうちょっとそういうのには遠慮したい自分のようなファンには2階がちょうどいい。

バンド(特にギターのグレッグ・リース)もいいし、コーラスの女性2人も張りがあってとても良かった。

彼は日本公演は慣れたものだし、日本のファンがどういった連中かもよく知っていて、緊張感の中にもリラックスした雰囲気が伝わってきた。「ファーザー・オン」を歌い始めるときには、「演奏すれば思い出すだろう」と言って始めたくらい。

この位のゆとり感がいい。もう半世紀近く、ミュージシャンをやってる。その経験と自信があればこそ。
 

2017-10-14

「増毛のために髪の毛を食べるようなもの」

国内の健康食品・サプリメントの市場規模は、年間1兆6000億円と推計されている。この金額は、日本の出版業界のそのを超える規模を示している。

サプリは病気を治すための薬ではないので、その効果のほどは感覚的なものになる。サプリが効くかどうかは、気分が重要である。

マーケティング的にサプリは、買い手がその商品やサービスに価値があるかどうかは、彼らがそう思うかどうか次第だという「信用財」だといえる。鰯の頭も信心から、の類だ。

だからなのか、グルコサミンサプリの販売で知られているのは、大手の製薬会社と大手のビール会社系のサプリ販売会社である。いずれも知名度だけは抜群の企業だ。それを最大限活かして、利益率もまた抜群にいいサプリを通販で売っている。

「グルコサミンは効かない!」と題する記事を目にした。グルコサミンは、膝や腰の痛みを和らげるとの効用で売られている成分サプリである。

グルコサミンが効くかどうかに関しては、以前から「効く」「効かない」の両論があった。だが、最新の研究でグルコサミンは効かないことが証明された。

研究者によれば「グルコサミンは糖分の一種で、大部分が腸内細菌のエサになって終わりです。一部が小腸で吸収されるかもしれませんが、それば損傷した関節へ到達し、軟骨成分になるとは考えられません」とある。

いわば、グルコサミンのサプリを飲んで関節痛を治そうとするのは「増毛のために髪の毛を食べるようなもの」なのである。これは、おまじないと同じ。

売れればいいのか。科学的に効果が証明されていない成分を、さも効くように表現し続けていいはずはない。病気に苦しむ多くの人たちの弱みにつけ込んでいる、まやかしビジネス。倫理的な問題を感じる。

2017-09-30

休み方改革とロケット旅行

新聞で「社員の休み方改革加速」という記事を読んだ。

ある新聞社が実施した社長100人アンケートをもとにしたもので、対象となった企業の9割が社員の有給休暇取得率を引き上げる方向性であると回答している。

長時間労働是正が目的とされているが、当時新入社員だった女性が自殺した違法残業事件が起きた電通では、有給休暇取得を義務化する方向で進めているらしい。
そもそも有給休暇は、働く人たちの権利であって義務ではないはず。電通で起きたように実際になされた残業がその通り記録されていなかったり、上司からの圧力によって無理やり残業が行われていたといった点は会社側の責任によって改善がなされなければならない。
だが、そもそも有給休暇を取るかどうかは社員次第。決して義務ではないはず。あくまでも権利である。もし会社が有給休暇取得を義務と考えるのであれば、当初から会社の就業日数を減らせばいいのである。
なぜこんなちぐはぐなことが発生するのだろう。その社長アンケートとやらによると、改善すべき項目として管理職の意識改革が79%、職場風土の改善が78%といった数字が挙げられている。管理職の意識改革は確かに企業が行うべきことかもしれない、しかし職場風土の改善をその企業が自分たちでどのように行うのだろう。
「社員の休み方改革」という名称も変だ。もし企業の視点から言うのであれば、「社員の休ませ方改革」ということになるのだろう。しかし、それもどうもしっくりこない。休もうが休むまいがそれは社員の勝手である。
有給休暇の取り方までなぜ会社が、しかも会社のトップが考えなくてはならないのだろう。これはある意味で、未だ日本の企業では、多くの社員たちの生活のほとんどが会社に依っているということの証左だろう。
同じ新聞の見開き対向面に目をやると、びっくりさせられる記事が目に飛び込んできた。

小さな囲み記事だが、そのタイトルは「ロケットで海外旅行」とある。イーロン・マスクが率いる米国の宇宙開発ベンチャー、スペース X 社が最大240人収容できる超大型ロケットを使って2022年以降に長距離旅客輸送に進出することを発表した。

最高時速は2万7000km で、宇宙空間を通過し地球上の主要都市を30分程度で結ぶ。実現すれば、東京とアジアの主要都市は約30分前後で移動できる。ニューヨークとロサンゼルス間は25分。山手線で新宿駅から新橋駅まで移動するのと同じ時間である。

今後、大都市の沿岸に小規模な海上発着台を建設するという構想である。まさに夢のような話にも聞こえるが、2022年といえばわずか5年後の話。スペース X 社の社員や経営者は、社員の休み方改革など考えてる暇は微塵もないはずだ。

経営者がやらなければならないことは、社員の有給休暇取得率を気にしたりそれをいかに上げるかに時間を割くのではなく、グーグルのエリック・シュミットらがいう「スマート・クリエイティブ」という、新しいやり方を自分でつくり出すことができる人材を社内に増殖させること。そして彼らに責任と自由と彼らが楽しめる仕事を与え、思いっきりそれに没頭させることだ。

社長が社員の勤務形態を考えることに時間を費やしたり、出退管理を気にしていてはいかんのである。そんな企業は早晩市場から消えることになる。

2017-09-29

文部科学省って天才?

今日の新聞記事から。

文科省が本日、東京23区内の私立大学は学生の定員を増やすこともはまかり成らぬという正式の告示を出した。

その理由は、彼らによると「学生の過度の東京集中により地方大学の経営悪化や、東京圏周縁で大学が撤退した地域の衰退が懸念される」からとしている。

つまり、何だ・・・、東京の大学(それもなぜか私立大学だけ)の定員を抑えることで、若者を地方に留めおくことができ、ひいてはそのことで地方創成が実現できると考えているわけだ。

冗談のような話。発想がけちくさいというか。いつもながらに、文科省の役人らの思考回路はショートしている。

都内の大学の定員増分に入らなかった受験生たちが、なぜ地元にそのまま残ると考えるのだろうか。東京でなくても京都や大阪など、大学をたくさん抱える都市はたくさんあるしね。 

そのうち、文科省からの告示で、20歳未満の人が東京以外から都内に入る際には関所か何かが設けられ、そこで都内での滞在期間が明記された通行手形を見せることを要求されたり、そこで都内滞在日数に応じて通行料が課せられたりするようになったりして。

彼らの発想を敷衍するなら、東京都内から大学を無くしていけば人口の一極集中がなくなり地方が栄えていく、という話になるが、役人はどうしてこんな勘違いに自分たちで気がつかないのだろう。

都内への人口集中をそれほどまでして減らしたいのなら、まずはさっさと文科省の役人を束にして都内から地方へ放り出すことだ。どこもいらないというだろうが。

さらに付け加えるならば、都内の大学の定員増を認めないことで影響が出るのは、その追加定員分に入らなかった受験生である。あくまで入試学力の面だけで述べるが、その程度の学力の若者たちだ。

そうした若者を、東京の大学に入学できないようにしてまで地方に留めおいて何があるのか。地方の発展や隆盛を期待するのであれば、人物、学力とも第一級の若者を東京なり外国でしっかり学ばせ、仕事なども経験させた後、彼らが地元に戻ってきて活躍したいと思えるような地元の街づくりと施策を考えるべきではないか。

いずれにせよ、こうしたことは国がああだこうだということでなく、各自治体が知恵を絞るしかない。


2017-09-18

死亡奨励金

今日は敬老の日ということで、ある新聞一面の見出しの一つは「65歳以上3514万人 過去最多、人口の27.7%」だった。
65歳以上の高齢者人口は前年より57万人増え、過去最高を記録。90歳以上は初めて200万人を超えたという。これは国勢調査を基にした人口推計である。
国立社会保障・人口問題研究所の推計では、第2次ベビーブーム世代が65歳以上になる2040年には総人口の35.3%が高齢者となる見通し。
つまり、これから20年あまり、毎年敬老の日の新聞の見出しは「65歳以上 3○○○万人 過去最多、人口の○○%」という見出しが続くことになるのだろうか。それとも新聞社がその記事のアホらしさに気づいて、途中で止めるだろうか。

本来、敬老とは老人を敬うこと。祝日法によれば、敬老の日は「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」ことが趣旨とされている。

しかし、今日の新聞記事にもあるように、高齢者人口の増加と一緒に必ず語られることは、医療費や介護にかかる費用が年々膨らみ続けていて下の世代にますますしわ寄せが来ていること、そしてこのままの制度は維持できないということ。老人への敬愛や長寿のお祝いなど、すっかり片隅に追いやられている。

人が年をとり高齢者になることは、もうおめでたいことではなく、歓迎されるものでもなくなってきている。高齢者=社会の負担ということか。

社会保障の内容が細っていくに従って自己負担額が増加し、これまでのような医療や介護を特に貧困者は受けられなくなる。 

そのうち高齢者になる65歳を境に、死んだら国から奨励金か何かが残された者に支払われるようになるかもしれない。もちろん早ければ早いほど制度的に優遇され、65歳死亡時での受給額が最大だ。

そうして「国民のみなさん、(高齢者になったら)早く死んだ方がトクですよ〜」と国が巧妙に国民へ刷り込みを始めるようになる。もちろん政治家や官僚、大金持ちは別枠で、そうした連中はいつまでも長寿を目指し権力に汲々とし続ける。

近い将来的には、金や権力を持つ者と持たない者の間で、新たな格差である寿命格差が生まれてくるに違いないと見ている。

2017-09-17

東京の観光振興を考える有識者会議 8月

先月出席した東京都の会議の様子がYouTubeに掲載されているのを見つけた。



2017-09-09

単なる欠陥駅では済まない

東横線&副都心線を通勤でよく利用する。そのため渋谷駅は通過はしているが、そこで降りることはめったにない。あまり降りたくないとも思っている。

だが、取材先の企業が渋谷にあれば、仕方なくそこで降りることになる。つい先日、ある企業を訪ねるため東横線の渋谷駅で電車を降り、構内見取り図で自分が目指す方面へ出る出口が15番であることを確認。掲示を探すと14から16の出口方面への矢印があったので、それに沿って進む。

ところが、14番出口の隣が16番になっている。15番出口がない。たまたま近くに東急電鉄の定期券売場を見つけたので、そこに飛び込みどうなっているのか聞いた。14と16とはまったくかけ離れた場所に15があることを案内された。なぜそうなっているのか尋ねたら、「この駅は迷路のようになってしまっていて、複雑すぎて僕たちにもよく分かりません」と言う。

駅員からしてこうだ。 それでも通勤や通学で毎日使用している客は、それなりに「慣れて」麻痺し、そんなものと思っているのかもしれない。

問題は、たまたまこの駅を利用した不慣れな客だ。特に、視覚障害のある人にとっては、この駅は間違いなく地獄である。

案内や表示が不備で統一感がなく、階層が地下何階にも分かれ、階段やホームが信じられないほど狭いこの駅を目が見えない状況で移動できたらオリンピックものだ。他線へのスムーズな乗換などまず不可能。初めて日本に来た海外からの観光客たちも、間違いなく途方に暮れる。

新宿駅や池袋駅、東京駅といった他のターミナル駅に比べて白杖の人や車椅子の人が極端に少ないのは、そうしたことが理由なのだ。彼らは自らのことであり、よく知っている。

構造が分かりづらく不親切なだけでない、視覚障害者用の点字ブロックの設置の仕方もおかしい。下の写真では、一般の歩行者用通路は左側通行で両方向の流れが設置されていて対面でぶつからないようにしているが、点字ブロックは片側に一本だけしかない。


しかも、杖を頼りにあるく盲人用の点字ブロックと建物の壁面は、50センチも離れておらず、危険極まりない。障害者は端っこを歩いてろ、と言わんばかりである。

バリアフリー? いちおうちゃんとやってまっせ、という電鉄会社の言い訳だけがそこに見える。

こうした駅の仕組みが視覚障害者などにとって不都合であることを具体的な例を挙げて駅員に説明したが、その時返ってきたのが先の「複雑すぎて、僕たちにもよく分かりません」という情けない返答だった。

こんなとんでもない駅が今どきあること自体が許せない気分だ。入場無料のStation Jazzも結構だが、その前にすぐにでもやることがあるだろう。

2017-09-03

月を見てから寝床に入る

しばらく前から、睡眠を管理するためのアプリを使っている。

寝入りばなは静かなBGMで眠りを誘い、朝は設定した目覚まし時間を参考にしながらレム睡眠のタイミングで起こしてくれる。睡眠中の覚醒の波(度合い)も記録し、朝目覚めたときにその日の睡眠の快眠度を数値で示してくれる。

スマホは厳密な診断機器ではないので、いずれの値もどこまで正確なものかわからないが、自分の睡眠の質を改善していくための参考にはなると思っている。

そのアプリの診断のひとつが、月齢と快眠度の関係。僕の場合は、月齢で7から23あたりが快眠度が高いことがはっきりと分かる。三日月が上弦の月になる頃から下弦の月にいたる手前あたりである。


ただし、月の満ち欠けと人体の関係についての科学的な証明はなされていない。

スイスのバーゼル大学で行われた研究では、満月の時に人間の睡眠は乱されるとの研究結果が出ている。僕の場合は、満月の頃ぐっすり眠れているらしく、それとは傾向が逆だ。


2017-09-02

民止党代表決定

民進党が臨時党大会を開き、そこで代表に前原なにがしが決まったらしい。蓮舫も政治家としての色気(女性の色気ではない)に欠けた代表だったが、それにも増して冴えないサイテーの人物を党首に選んだものである。進歩がない政党である。

2017-08-30

越えられる人間の知性、越えられない子ガメの野性

鹿児島県・屋久島の北東部にある永田集落のいなか浜は、北半球最大のアオウミガメの産卵地として知られている。今日の昼間、まぶしい日射しのなか訪ねてみた。


アカウミガメの産卵の時期のピークは、5月から7月。だから、僕が行ったこの時期はもう産卵が終わり、浜の陸地に近いあたりには砂浜に細い棒が何本も立てられていた。

ここにウミガメの卵が埋まっているから立ち寄らないでね、という意味で地元の人たちが立てた印である。

60日ほどで孵化するので、ちょうど砂の下で卵は孵化している最中のはず。一匹のアカウミガメから一度に生み付けられる卵の数は100から140個。殻を破って出てくるのは夜中だけ。外敵から身を守るためだろう。砂の表面の温度の変化から時間帯を知って、這い出てくるのだという。

3日から7日間かけて地表に出てきた子ガメたちは、夜を待って巣穴から一斉に這い出し一目散に海に向かう。その後は広い太平洋で回遊生活を送り、若い頃は海を渡った北米大陸の沿岸で過ごしているという。

30年ほどで成人ガメになり、また屋久島の浜に産卵のため戻って来るのである。いつもは海中で暮らしているので、浜に上がってくるのは産卵の時だけだ。

それにしても、彼らが生まれながらに備えているコンパスというかGPS機能はすばらしい。子ガメは海を見たことがないのに、どうやって砂から這い出した後、海の方向が分かるのか。そして30年も経ってどうやって自分が生まれた屋久島の場所を知ることができるのか、本当に不思議だ。

2045年にはAI(人工知能)が人間の知性を越えるシンギュラリティ(技術的特異点)がやって来るとか聞かされると、僕はちっぽけな子ガメの姿を思い浮かべ、ケッと思う。

2017-08-26

鹿児島桜島

ゼミ合宿で初めて訪れた鹿児島。その中心にある桜島の姿。



2017-08-20

支援します。

先日、それまでWBC世界バンタム級のチャンピオンだった山中慎介選手が、13回目の連続防衛を目指した世界タイトルマッチが行われた。結果は残念ながら、山中のTKO負けである。

相手の選手は、メキシコ人のルイス・ネリ、22歳。同ランキング第1位の選手で、23選全勝のボクサーである。ちなみに、山中選手は34歳。

第4ラウンド、残りあと30秒でセコンドにいるトレーナーから投げ入れられたタオル。本人は終わったあと、もう少しやれたと思っただろうが、それはそれで仕方がない。

話は変わるが、金曜日の新聞に全面の意見広告が掲載されていた。袴田さんの事件の再審の早期開始を求める内容だ。

一番下に記載されている広告主に目が行ったのだが、そこに日本プロボクシング協会袴田巌支援委員会という文字を見つけた。


1966年に袴田さんが、その後「袴田事件」といわれる不当逮捕でつかまったとき、彼はプロボクサーだった。彼が検察から「狙われた」理由のひとつとして言われているのが、ボクサーという職業への偏見だった。

そんな袴田さんを支援する輪の中の1つに、WBC(世界ボクシング評議会)がある。僕は知らなかったが、WBCは袴田さんに名誉チャンピオンベルトを贈り、その支援を明らかにしている。

僕も支援のいくばくかの金を送金した。

*今年5月に行われた村田ーエンダムのミドル級タイトルマッチを行い、とんでもない判定をパナマ人ジャッジが行ったWBAは、WBCとは別の団体である。

2017-08-19

情報操作

今朝の日本経済新聞の第1面は、「米労働市場に異変」という見出しの記事だった。サブタイトルは「働き盛りの男性の参加率 主要国最低」。

そこに添えられていたのが、トランプ大統領の写真と下記のグラフである。


これは、つねづね学生たちに対して注意しなければならないバイアスのかかったグラフだと示している作図の仕方の典型例である。

このグラフから言えることは、ここで示されたOECD5カ国の中で2016年では日本が最高(約95%)、米国が最低(約89%)、そしてフランス、ドイツ、英国の欧州勢がその中間(約92〜93%)であること。あと2009年から米国の数値がそれまでと比べて急に下がって来たこと。

ただ、この図を見ると、誰もが米国の近年の数値が他国に比べて極端に低いと感じるに違いない。その理由は明らかで、グラフの縦軸の数値が0から始まるところが88から始まっているからである。

新聞社が、こんな作図をしては絶対にだめ。社内で誰も指摘しないまま、こんなものが1面トップ記事に掲載されてしまう日本の新聞社のダメさ加減が出ている。

捏造ではないが、ある意味での「操作」であると捉えられてもしかたない。データの最も基本的な扱いすら分かっていないことが読者に明らかになってしまったね。

2017-08-15

日本の教育はどこへ行く

大学入試改革で、英語に関して読む、聞く、書く、話すの4技能のテストが導入されるらしい。

日本学術振興会理事長の安西祐一郎氏(前慶応大学塾長)は、その改革の意味について先日の新聞紙上で次のように述べている。
これからの時代には自分の思考内容を明確にし、それを論旨明快に相手に伝える方法の1つとして、英語力を身につけることが肝要だからである。高校や大学では、英語は主体的に思考、判断、表現する方法の1つと考えるべきであり、書く・話す鍛錬が極めて重要になる。
彼が言っている「これからの時代」とは何なのか、分からない。思考内容を明確にすることや、それを相手に伝えることと英語力はどういう関係があるのかも分からないし、なぜそれが肝要であると主張できるのかも理解できない。

英語が主体的に思考、判断、表現する手段の1つ、という彼の考えもまた意味不明である。英語は言語の1つとして表現の1つではあるが、それが思考やまして判断の手段だと述べる意図はどこにあるのだろう。

このように日本語でも何を言っているのか分からない大人が多いのに(たぶん本人はそれに気づいていないのがいっそう残念)、どうして高校生たちに入試で過大な負荷を負わせたがるのか。論理的な思考や判断、その表現は母国語で鍛えるのが基本だろう。

なぜなら、日本語で考えたり表現できない内容を外国語で伝えることができないのは明らかだからだ。

こうした奇妙な「改革」で喜ぶのは、受験業者、英会話学校、帰国子女だ。高校時代の夏休みに欧米に語学留学に出かけることができる親の経済力がある子供と、そうでない子供の格差も確実に拡がってくことが予想される。どんな阿呆でも若い時に英語環境で暮らせば、それなりに聞け、話せるようになる。話す中身は別としても。

このようなしょうもない入試改革を発想する連中は、自らが大いなる英語コンプレックスと白人コンプレックスを胸に抱えて生きてきた人たちなんだと思う。


2017-08-14

中国からの攻撃が続く

8月11日の早朝、大学のメールシステムから、まもなく割り当てのサーバー容量に達してメールが使えなくなりますというメールが来た。

もともと大学の個人割り当ての容量は2Gバイトと少ないのではあるが、それでもまだそんなはずはないはず。ところが確認してみると、何千というメールが来ている。驚いている間も次から次へと来ているではないか。

件名は長々と漢字の羅列。簡体字が多いので、どうもいずれも中国かららしいと思い調べたら、やはりそれらの多くはqq.com(テンセント)や126.comという中国のフリーメールからの発信だった。


それにしても人迷惑な。それら中国のドメインや件名の共通項をフィルタにしてメールを即時破棄にするように設定したが、どういうわけか大学のそうしたシステムの精度はあまりよくない。今もフィルタにかからず着信するメールが山のようにあるので困ったものである。

さらに困った(つまり「やられた」)のは、大学のアドレス宛のメールを転送している先のGmailのアドレスが、短期間にあまりにも大量のメールを受信したということで、メールの受信に制限をかけられてしまい、一切届かなくなった。

さらに悪いことには、8月11日から20日までは大学が一斉休業に入るため、通常であればこうしたことに対応してくれるITサポートの手助けも21日まで待つしかない。このタイミング、狙ったか?

特定の誰に文句を言えばいいというのではないのが、腹立たしい。

2017-08-05

意味のない形式主義が日本の生産性を下げている

2か月に一度送られてくる水道料金の支払いをクレジットカード払いにした。

引っ越して来てから2年近く毎回コンビニで支払いを済ませていて特段面倒というほどのこともなかったが、省けるルーティーンの手間は省こうというくらいの考えだった。

水道局の担当部署に連絡して支払い方法変更のための用紙(はがき)を送ってもらった。必要事項を記入して送付。これで完了かと思ったら、簡易書留で送り返されてきた(そのために不在配達書に日時を書き込み、後日自宅待機して受け取った)。

必要事項の記載に漏れがあるので、記入の上で再度送るようにと書かれた添え状が付いている。

記載が漏れていたのは、名前の「フリガナ」欄だった。といっても、名前の欄にはクレジットカードの名義人名を書くようになっていたので、名前はカタカタで記入しておいた。だから、あえてフリガナを振る必要は無いと判断して記入しなかったのだ。

しかし、そこが空欄だから処理できないと送り返されたきたわけだ。

単に形式的なものをそろえるために余計な時間とコストをかけていることに、どうして疑問をもたないのだろう。

「考え、判断する」ことを放棄している。これなら担当はロボットでいい。

2017-07-15

即日売り切れ

週刊文春の表紙は、長年にわたってイラストレーターの和田誠さんが描いている。独特の暖かなタッチ。和田さんの絵は、それとすぐ分かる。

際どいスクープを連発している週刊文春が、一方で常識と普遍性のようなものを読者に感じさせているとしたら、その半分くらいは和田誠の描く表紙が影響しているように思う。

その和田さんの描く表紙が、2000回を迎えた。40年間である。それが、毎週毎週だ。すごいとしか言いようがない。しかも、その表紙の絵を見る限り、和田さんは毎週頭をひねりつつ楽しみながら書いている(に違いないように僕には思える)。

2000回を記念してメモリアルクロックなるものを週刊文春と和田さんが売り出したのだが、申込をしたところ即日「完売」ということだった。

台数限定販売なのは分かっていたが、即日完売とは。全国に大勢の和田誠ファンがいることを忘れていた。しまった。

2017-07-07

バルミューダ創業者の本

著者の寺尾玄は1973年生まれ。独特の設計で知られる扇風機を生み出したバルミューダ社の創業者だ。 


彼が設計して売り出したグリーンファンという名の扇風機は、値段が3万円以上するにもかかわらず人気商品で売れている。

最小消費電力3Wという一般的な扇風機の約10分の1の消費電力。最弱運転時の動作音はわずか13dB(デシベル)、人間の耳ではほとんど認識できないような圧倒的な静音性能を持つだけでなく、送られてくる風が従来の扇風機とまるで違うらしい。木陰で涼んでいるときに吹いてくるような自然の風らしい。

寺尾は、両親の離婚や母親の死、そして高校の進路進藤のやり方に強烈な違和感を感じて学校を退学、あとはお決まりように海外放浪へ。帰国後はロックミュージシャンを目指して活動を開始。バンドを組み、やがて何とかレーベルデビューを図るという矢先に契約を破棄されるという経験をする。

生きていかなければならない。そうした差し迫った時に、たまたま奥さんが持っていた雑誌でものづくりのデザインの面白さに気がつく。
試行錯誤の末、売れるモノ、つまり必要とされる物をつくらなければと考えた彼の頭に去来したものが扇風機。「なぜ扇風機の風は人工的で気持ちが良くないんだろう」という昔から感じていたという問題意識である。そこから彼の新たな闘いが始まった。

「掃除機はどれもなぜ使っているうちに吸引力がすぐに落ちてしまうのか」という不満を持ったジェームス・ダイソンが、自らそれを解決するためにそれまで誰も不思議に思ってこなかった掃除機という超成熟製品に目を付けてそこにイノベーションを起こそうとしたのと似ている。

ものづくりはおろか、それまで会社員をしたこともなかった寺尾が、そのために身につけなければならないと思ったことを取得していくすべは、そうした技術や経験をもつ人から学ぶしかない。早速町工場をいくつも訪ね、材料のことや加工のことを体で学んでいく。切羽詰まった人間の捨て身と言えるが、これくらいやらなければ考えを形にできないことをよく知っての極めて合理的な行動である。

会社が倒れるかどうかという資金と時間のなかでの闘いは(本人には申し訳ないが)スリリングだ。

自分がやりたいことを自分の手でつかもうとする姿勢と行動には頭が下がった。今の彼はミュージシャンではないが、彼のやり方は実にロックである。


2017-06-30

ワイダの残像


アンジェイ・ワイダの遺作になった『残像』を観に神保町の岩波ホールへ。英語タイトルは、Afterimage。 


映画の主人公ストゥシェミンスキは、実在の人物。ポーランドを代表した前衛画家で、抽象画を精力的に描くかたわら、芸術大学で情熱的に教鞭を執っていた。

第二次大戦が終わり、ポーランドが旧ソ連の支配下におかれ、そこでは芸術すらも社会主義的イデオロギーを表出したものだけが認められ、社会主義リアリズム以外の芸術作品はすべからず排斥された。

視覚理論について大学の講義のなかで語るシーン、彼は残像について語る。残像に映る色は「実際に見たものの補色なのだ」と語る。

自由な創作活動を主張し、スターリン的な全体主義を標榜する政府官僚とことごとくぶつかる彼は、「無認可」の芸術家というレッテルを貼られ、そのために絵を描く画材すら店で買えなくなる。やがて大学の職を奪われ、作品を発表する場所や機会も完全に失い、日々の食事にも窮するようになる。

やがて、そうした状況は彼を心身ともに追い詰め、最後は自らの芸術家としての誇りもなげうって得た洋装店の店頭ディスプレイの仕事をしている最中に倒れ、息を引き取る。

映画は彼が倒れた後、その娘であるニカ(気丈な娘役をしているブロニスワヴァ・ザマホフスカがいい!)が息せき切って訪れる病院のベッドで、シーツにくるまれたストゥシェミンスキを彼女が見つめているシーンで映画は終わる。

ニカの頭の中には父親の残像が映っていたのだろう。

途中、彼に救いの手を差し伸べようとする政府官僚が現れる。政府への批判をやめ、政府が決めた芸術があるべきとする方針に沿って活動さえすれば、大学に復職できるし、それなりの生活が保障されると囁く。

実際、画家に限らず、詩人などその時代の多くのポーランドの芸術家は、何らかの転向を余儀なくされ、それで生き延びた。しかしストゥシェミンスキは、それを頑なに拒み、自らを貫き通し、最後は非業の死を遂げる。

その生き方の是非を誰も断定することなどできない。ワイダが描いたのは、実際にポーランドに生きた一人の芸術家の、悲惨な時代背景における苦悩と闘いと死である。

これもまた、現代人に突きつけ得られているひとつの「残像」、つまり「補色」なのだ。

全体的に舞台演出のような人物の動きが気になったが、一人の人間が巨大で強固な国家という権力にいかに抵抗しうるのか、いかにもワイダらしい骨太のテーマが描かれた本作は劇場を出た後の足取りを確実に重くするほど重厚で心にズシンとくる映画だった。


ストゥシェミンスキは、学生たちに向かってこう言う−−−「芸術と恋愛は、自分の力で勝負しなければならない」。そうなのだ、芸術と恋愛と○○は、自分の力で勝負しなければならない。誰もがそうした○○を抱えているはずだ。


2017-06-29

アマゾンとヤフー

先日、大学院のゼミにアマゾンのディレクターを務めている友人に来てもらった。アマゾンのビジネスの進め方や経営方針などについて話をしてもらったのだが、その顧客中心主義の考え方に改めて感心をした。

彼らのモットーは、「世界で最もお客様を大切にする企業であること」。他にない数々のサービスもすべていかに顧客に愛されるか、顧客の欲しいものを欲しいタイミングで欲しいように届けるか、ということを追求したことから生まれた。

かつてドラッカーが「企業の目的は顧客の創造」であると喝破したように、最終的にはどんなビジネスであろうと、一番顧客に求められている企業が勝つのである。シンプルだが、ビジネスの本質をついている。

このこと、多くの経営者が頭ではきっと分かっていてるはずだが、実際にそのために自分たちが何をなすべきか、何ができるのか、どのようにやるのかといったことを常に全力を振り絞って考え、そしてそれらを実行に移してる会社は決して多くない。

アマゾンの凄さは.そうした当たり前の考えを数十万にいる社員すべてが共有し、日々そのために頭も体もフル活動させていることなんだと思う。

先日、大手通販サイトのヤフーショッピングを運営するヤフーが出展者に対してサイト内の広告を出すように働きかけるページに「通常の検索結果と差異のないデザインで表示されるため、いかにも広告という印象を与えずにお客様にアピールできる」と記載していたことがわかった。

つまり広告である事を隠した広告である。どうも今はそうした行為を「ステルスマーケティング(ステマ)」と呼ぶらしい。フリマ(フリーマーケット)ならまだ分かるけど、ステマだって。へんてこりんな、嫌な言葉である。マーケティングの本質を何も理解しない人が作った言葉だ。こうした広告のことは、妙な横文字を使うまでもなく、詐欺広告または詐欺的広告と呼べばそれでいい。

日本で誰が使い始めたのか知らないが、「こういうのってステルスマーケティングって言うんだぜ、みんな」みたいなことを生かじりの浅薄な人物がどこかで言い始めたのだろう。それに乗る連中も連中だが。

ところで、彼からアマゾンについてゼミで話をしてもらったなかで一つ大変印象的だったのは、アマゾンは日々集まる膨大なデータを分析するに際して、決して顧客のプロフィール情報は用いないようにしているということだ。

なぜか。一つには、もしそうした個人情報が漏洩した際に受けるとてつもないマイナスのインパクトを考えてのリスクマネジメントがあるのだろう。そしてもう一つは、あくまで個人のプライバシーを尊重するという創設者であるジェフ・ベゾスの考えの表れである。

そうしたしっかりとしたポリシーがあり、それが守られているからこそ、アマゾンは信頼され続けているのだと思う。

2017-06-23

電車の中で

先日、帰宅途中の車内で見かけたサンドウィッチマン風のおじさん。


多くの日本人が同じような考えを持ち、だけどどこにその気持ちをぶつけていいか分からず、鬱屈した思いでいるはず。駅や電車の中で声高にそうしたこと叫ぶとたちまち警察に通報されるし、駅員に「ちょっとこっちへ来てください」となる。

そこでこの男性が考え出した方法が、この自己看板戦法だ。これなら誰からも迷惑だと文句をつけられない。たぶん。

2017-06-17

ボウズ1000円

土曜日の早稲田大学正門通り。大学から歩いて5分ほどのところにある床屋の店頭。男性1300円はQBハウスといい勝負だが、女性1400円はどのような仕上がりなのだろう。ちょっと気になる。