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2022年8月17日

カセットに残された声とともに

映画「長崎の郵便配達」では、長崎の今の町並みやいくつかの行事が魅力的に描かれる。以前、友人を訪ねてその街を訪れた時のことを思い出す。

ファットマンと呼ばれれるプルトニウムを使用した原爆が長崎に投下されて77年。この映画の主人公の一人は、16歳の時にその原爆で被爆し、背中一面に大やけどを負ったかつての若い郵便配達人、谷口稜曄(すみてる)さん。治療のため1年9か月にわたり、うつぶせのままで病院のベッドに横たわっていた。胸に褥瘡ができた。

その後、彼は郵便配達の仕事を続けながら、一方では原爆被害を世界に示すひとつのシンボルとされ、また彼自身もその使命のようなものを深く受け入れて死ぬまで生きた。 

その彼と、旅の途中の長崎で出会った英国の作家、ピーター・タウンゼント。第二次大戦中は英国空軍の軍人だった彼は、戦争被害者に強い関心を抱いていたことから谷口と知り合い、友人として交わることなる。やがてタウンゼントは、谷口のことを「The Postman of Nagasaki」というノンフィクション小説に書く。

タウンゼントを信頼していた谷口はその本の復刊を強く望み、そのことをこの映画の監督である川瀬美香が知る。復刊を欲する理由を、谷口は「許せないからだよ」と語ったという。いまだ世界に核兵器が無数に配備され、唯一の被爆国である日本は核拡散防止条約にも核兵器禁止条約にも参加していない。

川瀬が二人の交流を核に映画を制作しようと計画している最中に、谷口が亡くなった。

その後見つかった、タウンゼントが吹き込んだ10本のカセットテープをもとに映画はその娘イザベルを追って進行する。家族と暮らすパリから父親の足跡をたどって長崎を訪れた娘をカメラが追う。道しるべは、それら取材テープに残された父親が残したメッセージだ。

今はなき2人の男性の友情と信頼だけでなく。27年前になくなった父親を娘が再発見する物語にもなっている。

濱口竜介監督の「ドライブ・マイ・カー」が広島の街を丁寧に描いていたように、この映画では長崎が魅力的に描かれている。長崎の街は静かで美しい。ただそこに暮らす人たちは、深い悲しみを底に秘めているようにも見えた。お盆の時期、精霊流しが行われる頃の長崎の風景だからかもしれない。

映画を見終わって、僕も映画のなかに登場するのと同じ赤い自転車に乗って家路を急いだ。

2022年8月15日

タイのカクテルは、甘いか苦いか

映画「プアン」の監督、バズ・ブーンビリヤはタイ映画界の新鋭と呼ばれているらしい。そして僕はタイ人監督の映画をこれまで観たことがない(おそらく)。ではこれは観なくてはと出かけた。


前評判では、方々で「ウォン・カーウェイが才能に惚れてプロデュース・・・」なんて惹句があちこちで流れていたが、そんなことは関係なし。確かにそうしたプロモーションもうまかったんだろう。本作はタイではたいそう人気を博したらしい。

映画のトーンは、かつての日テレ日曜夜8時の学園青春ものである。プロットの中心は、2人の若者と1人の女。時間と場所の流れのなかでの三角関係。そんなどこにでもあるシチュエーションを、年代物のBMWやカセットテープの音楽(キャット・スティーブンス!)、ラジオDJなど気の利いた小道具でカラフルに組み立ててみせたサービス精神は買っていい。 

元々ニューヨークで知り合った2人の男。バンコクに戻った一方の男(ウード)が白血病で余命宣告を受ける。その彼は、今もニューヨークでバーを経営するボスに電話をする。死ぬ前に元カノを訪ねたいので運転手を頼みたいと。そして2人は、バンコクを基点にウードの父親の形見である70年代ものだと思える白いBMWでウードの昔の3人の彼女を訪ねて回る。 

昔の女との再会と別れが、ウードにとっての人生の惜別として描かれる。ヒロイズムに浸る若者の思い上がりと自己憐憫が甘酸っぱい感傷を感じさせるのは、世界共通なのだろう。ただ、ウードが本当は気にしていたのは、ボスがNYでかつて一緒に暮らしていた女、プリムだった。 

ウードとバズの両者が関わりを持っていたプリムは腕のいいバーテンダー。シェーカーを振る姿が様になっている。バズも自分のバーでシェーカーを振る。映画には気の利いた名前がつけられたオリジナルのカクテルがいくつも出てくる。

ウードの3人の元カノ、過去と未来、バンコクやチェンマイなどタイの街とニューヨーク、余命の限られたウードと未来を見つめるボス。これらがシャカシャカシャカといい音を立ててシェイクされ、いくつもの色鮮やかなカクテルとなってグラスに注がれる。

ところでここまで洒落のめすなら、映画の公開タイトルは「プアン」(タイ語で友だちの意味)というあまりに明らか過ぎるタイトルではなく、原題である「One for the Road 」(旅立ちの前の最後の一杯の意)にした方がよかった。

2022年8月14日

死と自己責任

横浜みなとみらいの映画館で「PLAN75」を観た。 早川千絵監督の初の長編映画である。

近い将来日本はこうなるかもしれないという、日本の高齢化社会の一面が描かれている。プラン75とは国の設定した制度で、満75歳以上になると申込ができる<安楽死>のための仕組みだ。

この映画で思い出すのは、1973年に公開されたリチャード・フライシャー監督の「ソイレント・グリーン」だ。舞台は2022年(今だ!)のニューヨーク。人口の急激な増加によって種々の資源は枯渇し、人々の間での格差が急拡大している。たとえば、肉や野菜を普通に食べることができるのは富める者だけで、そうでない人たちはプランクトンから作られるソイレント・グリーンと呼ばれるある種の加工食品を主食にする。

人口のさらなる拡大を抑制するため、そして貧しい人たちを日々の苦しさから救うためと称して「ホーム」と呼ばれる公営の安楽死施設が街には設けられ、そのホームでは死を選んだ高齢者たちが緑に包まれた草原や一面に広がる大海原といった映像に取り囲まれ、ベートーベンの田園交響曲が流れるなか静かな死を迎える。その後、死体は密かに工場に運ばれ・・・というものだった。

さて「PLAN75」では、倍賞千恵子さん演じるミチという78歳の女性は慎ましやかな一人暮らしを続けていたが、その年齢を理由にあるとき急に仕事を失ってしまう。その年齢ゆえに希望するような職に就くことができず思い悩む彼女。

ある時、何度電話をしても電話に応答しないかつての職場の同僚のアパートを訪ねた時、彼女はその友人が家の中で台所のテーブルにうっぷしたまま突然死しているのを発見する。明日の自分かも知れないと考えるミチ。それをきっかけに、彼女はプラン75に参加する決心をする。

映画の中で流れる、政府が作ったのであろうプラン75のCMがなかなかよくできている。人は生まれてくることは自分で決めることはできないけれど。自分の人生に幕を引く決定は自分でできるのだからとそのプランに申し込んだという女性が、おだやかな口調でにこやかに語る。実際にこんなCMが作られるかもしれないなと思わせる。

プラン75は義務ではなく、国民が該当する年齢を超えたときに自らの意思で選ぶことができる制度だ。それは緻密な計画をもとに策定され、巧妙に推奨することで人の心をその方向に徐々に押しやっていく。どうするかを選ぶのは国民であって、国が作った「姥捨て山」ではないとする、そこがポイントであり、そこが残酷だ。

現実問題として、国にしてみれば歳をとり生産性を期待できず、ただ国費支出の対象でしかない貧しい国民らは国の負担でしかなくなる。プラン75は、国家として対応が迫られた日本が考えつきそうなアイデアのひとつだ。

そうした時に我々が取るべき道は、どういったものだろう。まずは、こうした安楽死を自分で選択し一生を終えることは、現実に有り得るかもしれない。

もう一つは、国が高齢者らの面倒をみることができず、またみること拒否している以上、われわれ個人が周りの人に援助を求め、人の助けを受けながら生きていくことである。これまで人々は、その程度の違いこそあれ、年老いて社会的弱者になったときには家族や周りの人たちに頼り、その人たちからの力添えを受けながら残りの人生を過ごしていた人が多かったはずだ。

ただ、家族や周りの人に迷惑をかけるくらいなら一人でおとなしく死んでいった方がいい、と考える「自己責任」感をある頃からすり込まれるようになっているのも事実。それが日本人の一つのエートスになっていっているように思う。つくづく人のいい日本人たち。だからこそ、国はプラン75を実行することができる。

2022年7月24日

マーク・ライデルからヘンリー・フォンダ

マーク・ライデル監督の映画が観たくなり、『黄昏』を観る。描かれるのは、湖畔の山荘での家族の夏の日々。主な登場人物は、6人のみ。まるで舞台劇のようだと思ったら、やっぱりもとはブロードウェイでかかっていた芝居だった。

映画版が素晴らしかったのは、湖やそれをとりまく自然の美しさだ。原題の On Golden Pondを映し出したのも、映画ならでは。しっとりとしたデイブ・グルーシンの音楽もストーリーと映像によくマッチしていた。

この作品では、主役のヘンリー・フォンダとキャサリン・ヘプバーンの2人がそろってアカデミー主演男優賞、女優賞を受けた。キャサリン・ヘプバーンは4度目、ヘンリー・フォンダは76歳での初めての受賞だった。

で、ヘンリー・フォンダの『怒りの葡萄』を続けて観ることに。原作はスタインベックの小説で、ピューリッツァー賞を受賞し、のちにノーベル文学賞を彼が受賞する理由になった作品。

オクラホマからカリフォルニアに仕事を求めて移動する貧農の一家。いまからまだ80年足らず前のアメリカでの、土地を持たない農家がおかれた厳しい状況とそれに抗う逞しい人たちの姿は、今のアメリカからは想像できないほど。 

ただ、搾取する側と搾取される側がはっきりと線引きされた社会の構図は、いまも何ら変わってはいない。

 
ところで、スタインベックのこの小説の初版が出たのが1939年。映画が公開されたのは、翌40年。速攻でこれだけの映画を完成させたのは、名監督ジョン・フォードと20世紀フォックスの豪腕プロデューサーだったダリル・F・ザナックの力だ。

2022年6月26日

F/A-18と腕立て伏せ

「トップガン マーヴェリック」をIMAXシアターで。お話は簡単で子供にでも分かるものだが、よく練られている。

トム・クルーズ演じるマーヴェリックと、彼の教え子たちともいえる若い選りすぐりのパイロットたちが主人公。だが、本当の主人公は戦闘機F/A-18とF-14だ。これらの飛行シーンには度肝を抜かれる。

磨き抜かれた技術で最新鋭の戦闘機を扱うパイロットたちだが、かれらが何かにつけて「罰」として腕立て伏せをさせられるシーンが妙に印象に残った。このコントラストが面白い。単なるストーリー上の演出ではなく、アメリカ海軍では実際にやっているんだろうな。

映画の冒頭あたりで、今後さらに技術が進めば戦闘機乗りは不要になっていくと上官に言われたトム・クルーズが「そうだろうが、それは今日ではない」と返すシーンがあった。

肉体と意思をもった人間を忘れるべきではないという制作者のメッセージである。


2022年4月23日

1969年8月15日とは、どんな日だったか

夕方、陽気に誘われて散歩に出たついでにkino cinema 横浜みなとみらいまで足を伸ばした。そこでは映画「ベルファスト」をまだ上映していたと思ったので。

物語は、1969年8月15日のベルファストの街角からスタートする。プロテスタントの武装集団がカトリックの一般住民への攻撃を始め、ベルファストの人々、特にプロテスタントとカトリックが入り交じり暮らしているエリアでの暮らしは平穏さをなくし大きく変化していく。

英映画「ベルファスト」は、北アイルランド・ベルファスト出身の監督ケネス・ブラナーの自伝的作品である。ブラナーはこの映画の脚本で今年のアカデミー賞脚本賞を受賞した。
 
 
9歳の主人公バディはブラナー自身の少年時代がモデルになっていて、バディを演じている少年もベルファストではないものの、北アイルランド出身だ。

モノクロの画面が、ブラナーの記憶の底をなぞっている。北アイルランドでのカトリックとプロテスタントの争いはその後30年も続き、1998年に和平合意がなされるまでにおよそ3600人が闘争で命を落としている。

少年の家族の日々の暮らしは典型的な労働者階級のそれで、決して豊かではない。が、家族の絆はつよく、家族そろって映画館に行くシーンが度々出てきて微笑ましい。そこだけカラーで映し出される数々の映画は、実際にケネス・ブラナーが1969年当時のベルファストで観た映画なのだろう。

そうした暮らしに覆いかかる血なまぐさい宗派間の争いには理不尽さを超えて、寂寥感を感じる。もともと多神教で、宗教間や宗派間の激しい衝突を抱えていない現代の日本人にはちょっと理解し難いところがあるが。

ところで、ちょっと気になって調べてみたら、やっぱり1969年8月15日というのはウッドストック(ロック・フェスティバル)の初日だった。この日、この映画が示したように北アイルランドでは流血の闘争が始まり、一方でアメリカ・ニューヨーク州のウッドストックでは<ラブ・アンド・ピース>の世紀のロック・フェスが始まっていた。
 


2022年4月1日

Codaが作品賞を受賞

 
「コーダ」は劇場公開からふた月がたっているが、今回の米アカデミー賞作品賞を受賞したからなのか、近くのシネコンでいまも上映していて間に合った。Apple TV+は契約していないし、ネット配信してても映画はできれば劇場で観たいからね。

タイトルのCODAは、Children of Deaf Adultsの略。両親がろう者の子供のことを指す言葉らしい。主人公、17歳の高校生ルビーがそうだ。両親も兄もろう者で、家族の中で彼女だけが健聴者だ。
 
アメリカ東海岸の街で漁師を営む一家の物語だが、うまいキャスティングと練られたシナリオが観るもののこころを打つ物語を見せてくれる。決してお涙頂戴ではなく、まっすぐで、そしてユーモアにも支えられている。

ルビーの両親、そして兄を演じたのは実際にろう者の俳優たちだ。母親役のマリー・マトリンは『愛は静けさの中で』の主演でアカデミー賞を受賞している。そして、父親役のトロイ・コッツァーが本作品でアカデミー助演男優賞を受賞した。

この映画は、ルビーがその歌の才能を高校の音楽教師から認められて音楽大学を目指すという青春物語でもあり、また音楽映画でもある。中心に据えられている曲は、ジョニ・ミッチェルの「青春の光と影」。シックスティーズ!
 
この曲の原題は、Both Sides Now。ルビーのおかれている、ろう者の世界と健聴者の世界、一家に欠かせない「通訳」としての自分と未来を自らの手でつかみたい自分、そうした2つの領域で揺れている彼女の思いを反映しているかのようだ。
 
高校を卒業した後、ろう者の家族を支えて漁師の仕事を続けることは彼女にとって不幸な選択ではなかったが、必ずしも心底望むことではなかった。音楽教師(いいキャラクターだ)の強い勧めでバークリーで勉強をしたいと考え、ある日、家族に相談する。母親は「あなたがいないと困る」と進学に反対する。
 
母親はルビーにこんな話をもらす。ルビーが生まれたとき、母親はその赤ん坊が健聴者であると知って失望したと。なぜなら、自分たちとは違う世界に行ってしまうと感じたからだと話す。この映画の重要なメッセージがその一言に込められている。
 
映画の結末部分、ルビーは家族の祝福を受けてバークリーのあるボストンに向けて旅立っていく。映画のタイトルであるCodaは音楽記号でもあり、それは楽曲において主題とは別につくられた終結部を示す。ルビーの家族からの旅立ちのように。 
 
冒頭で流れるのはブルースシンガーだったエタ・ジェイムズの曲で、それ以外にもマービン・ゲイやデビッド・ボウイが流れる。選曲のセンスがいい。後で、この映画での音楽は LA LA LANDで音楽を担当した人だと知った。
 

2022年3月7日

プーチンも見ろ

CNNやBBCが映すウクライナの状況をライブで見ている。原子力発電所がロシア軍の手に落ちた。ウクライナから脱出してきた人たちの様子がポーランドからレポートされている。ゼレンスキー大統領が西側にさらなる軍事支援を求めている。

いったいこの戦争はどうなるのだろう。NATOが本格的に参戦すれば決着は着くのだろうが、戦域が自国に及ぶ可能性を懸念する為政者の判断で、なかなか踏み切れないでいる。一般市民が殺されているというのに。

明らかに違法な侵略行為が放置されている。国連も機能不全だ。このままウクライナはロシア軍に実効支配されて終わるのだろうか。

各国がロシアに対しての経済制裁を与えているなかで、中国は「話し合いが大切」と言って静観している。台湾へ侵攻する根拠付けができるのを期待している。 

気分を変えようと、友人に勧められた「ドント・ルック・アップ」を見た。最後(物語が始まって6ヵ月後)には地球に彗星が衝突して人類、いや生物がすべて滅亡してしまうブラック・コメディだ。このくらい毒が効いていると気持ちがいい。


いろんなボケがかまされていて笑った。メイル・スリープ演じるアメリカ大統領は、まるでトランプを戯画化している。その大統領の名前、オーリンズ(Orlean)は、土地全体が海面下で水没可能性が高いNew Orleansを示している。というわけで、地球滅亡につながる彗星は、気候変動のメタファーだろう。

ディカプリオが演じる天文学者が、人類への危機を訴えるために出演したテレビの人気番組はThe Daily rip(Rest In Peace?)だし、その番組の男性キャスターはマウナケア山山頂にあるすばる望遠鏡が確認したという話を聞いて、「スバルは望遠鏡も作っているのか?」。自動車会社のスバルのことだと思っている。

彗星衝突が避けられないと察知すると、大統領と大富豪らは自分たちだけが搭乗できるロケットで地球を脱出する。

予測通りに彗星は地球に衝突し人類は滅亡してしまう。戦争なんかやってる場合ではないのだよ、プーチン。

2022年2月19日

スピルバーグの映画作りの手堅さ

アカデミー賞受賞有力作と言われている、スティーブン・スピルバーグ監督の『ウエストサイド・ストーリー』のリメイク版をレイトショーで観た。

リメイクというのも変だな、元々の1961年製作の同映画(ロバート・ワイズ、ジョローム・ロビンズ監督)は舞台がもとで、その元々の話はシェークスピアの『ロミオとジュリエット』が下敷きになっている。

まあ、よくよく考えてみると、およそほとんどの創作物にはなんらかの下敷きがある。明らかなベースと言えるものがなくても、人が創造する限り影響を受けたものがないものはない。

今回のスピルバーグが監督したウエストサイド・ストーリーだが、冒頭に登場する土地開発中(つまり工事中)のニューヨークを映したカメラワークがいい。センスと技術と予算があるな〜、といきなり惹き込まれる。

この作品、広告には「禁断の愛の物語」などと書かれているが、禁断でもなんでなく、どこにでもある普通の男女の物語である。が、それをこのようにドラマ化して見るものの心に強く訴えるものにできる芸術性というか表現力は素晴らしい。

何よりもバーンスタインの音楽は、いまも色あせない。最初にブロードウェイのミュージカルとして公演されたのは1957年のこと。バーンスタインと言えば、『ウエストサイド・ストーリー』の翌年に常任指揮者に就任したニューヨーク・フィルやウィーン・フィルの指揮者として思い出されるが、作曲家やピアニストとしても知られた存在で、ジャズについても詳しかった。

物語の舞台は1950年代、開発が急速に進むニューヨークのアッパー・ウエストサイド。建設中らしいリンカーン・センターが出てくる。映画の撮影は、街のシーンを含めて多くはスタジオセットだろう。今から60年以上前のニューヨークを描くのだから仕方がない。

そのなかで、実際に今もニューヨークにある観光スポットが使われていた。劇中では名前など出てこなかったが、マンハッタンの北部、フォート・トライオン・パークにあるクロイスターズ(The Cloisters)だ。中世の修道院様式の美術館で、ユニコーンのタペストリーを何枚も展示した部屋や小さいながらも雰囲気のある中庭が印象的だった。今回の映画には、主人公の二人がその中庭で語らうシーンが描かれていた。

今の若者からみれば、この作品に登場する若者たちは、ちょうど自分たちのおじいちゃんとおばあちゃんの世代だ。だけど、そこで繰り広げられている、ひょっとしたら取るに足らない闘争とそれが生む分断は「今」と驚くほど似ている。米国内でトランプ的な考えが生んだ社会の分断だ。アメリカの映画界には民主党支持者が多いことも考えての映画作りだろうか。

このスピルバーグ版では、リタ・モレノがヴァレンティナという新たな役を演じた。その彼女がトニーに話す台詞 "Life matters, even more than love" には、これまでのシンプルな恋愛至上主義ではない価値観が込められている。

アカデミー作品賞受賞はどうか分からないが、いくつかの部門賞はまず獲得しそうだ。

マリア役は、なんと3万人のオーディションで選ばれた。

2022年1月23日

老年期の男と少年と動物、そしてメキシコの旅路

映画「クライ・マッチョ」は、クリント・イーストウッドが50年前に「恐怖のメロディー」で監督デビューしてから40作目になる作品である。今や誰もが認める大監督である


監督と主演をつとめるイーストウッドが演じる元ロデオ・スターのマイクは、かつての落馬をきっかけに引退し、今は静かな、そしてある意味で落ちぶれた男として暮らしている。

昔の雇用主からメキシコにいる訳ありの息子を連れて帰ってくれるように依頼されることから物語が始まり、半ば誘拐のような感じメキシコ人の少年を連れて、おんぼろ車で旅しながら彼の父親が待つメキシコとアメリカの国境に向かうと言うロードムービーである。

先日見た『マークスマン』で、リーアム・ニーソンがメキシコ人の少年を連れてメキシコ国境から中西部の街シカゴを目指すスタイルと似ている。
 
『マークスマン』では、リーアム・ニーソンは旅の途中でメキシコ人の少年に銃 (ベレッタ)の使い方を教えるシーンがあったが、本作では元ロデオのチャンピオンだったイーストウッドが国境へ向かう途中で立ち寄った村で少年に馬の乗り方を教えてやる。

それは、マイクにとっても自分自身を取り戻す再生を呼び起こす行為である。『マークスマン』では旅をするのは年老いたリーアム・ニーソン、メキシコ人の少年、そして1匹の犬だった。本作では、年老いたイーストウッドと同じくメキシコ人の少年、そしてその少年が連れている闘鶏のマッチョであるところもなんだかよく似ている。
 
かつての輝きを失った年老いた男と少年、そして動物という取り合わせは黄金のトリオだ。

途中、彼らの旅を阻む連中の存在、そして戦い。それにより少年は成長し、新たな人生への予感を漂わせる。一方、年老いた男はどうなるか。『マークスマン』のニーソンはやるべきことを成し遂げた後、すでに何にも名残はないかのように満足し安らかな表情で息途絶える。

イーストウッドは、その長身の体を少しかがめ、ゆったりとした足取りながらもちょっぴりロマンチックな新たな人生を見つけそこへと静かに入っていく。これは、91歳になったイーストウッドが眺める人生へのひとつの眼差しだ。イーストウッド節といっていい、性根の太さとペーソスを漂わせる。
 
劇場の観客は、週末だというのに僕ともう一人だけ。下の階のスターバックスは若い連中で溢れているというのに。

2022年1月15日

リーアム・ニーソンの新作

もとは米海兵隊員で名うての狙撃兵だった男が、メキシコとの国境近くの田舎町でいまは小さな農場で愛犬とだけ暮らしている。

その彼がある日、訳あってメキシコの麻薬カルテル組織から追われてアメリカに逃げ込んできた親子と出会う。母親は撃ち殺され、彼はメキシコ人の11歳の少年を連れてシカゴを目指すことになる。

ラジエーターの壊れたクルマで北へひた走る彼(リーアム・ニーソン)と少年、ワンコも乗ってる。映画『マークスマン』は、彼らに対して執拗に迫ってくる組織の殺し屋たちとの戦いを描いたロードムービー。


ストーリーはシンプルだが、登場人物の輪郭と彼らの関係がくっきり描かれている。まだ11歳とあどけなさも残るが、利発なメキシコ人少年。息子を心底愛していたその母親。リーアムが最近失った妻と、今は地元の国境警備隊の捜査官として働く娘。そして、愛犬。

本作品でのリーアム・兄さん、じゃなかった、ニーソンが演じる主人公は『グラントリノ』のイーストウッドを彷彿とさせる。

どこか親近感があると思ったプロットは、ジョン・カサベテスの『グロリア』を連想させる。

観客は50代以上がほとんどだった。

2022年1月12日

「ダークウォーターズ」は、アメリカの水俣だ

マーク・ラファロが主人公の弁護士ロブ・ビロットを演じた『ダークウォーターズ』は、ビロットも含め、映画に登場する全員がすべて実在の人物である。

ということは、ストーリーも事実に基づいているということ。アメリカの大化学企業デュポンが起こしたとてつもない環境汚染と、その被害者である多くの住民と、たまたま彼らの側で闘うことになった弁護士を描いている。


物語は1998年から始まる。ビロットが勤務する法律事務所に彼の祖母の知り合いだというウェスト・バージニア州で農場を営む中年男が訪ねてくる。物語はいつもひょんなことからスタートする。これもまた作り話ではなく事実だ。

デュポン社が生んだ巨大なイノベーションのひとつである<テフロン>が製造される段階でPFOA (PFAS) という化学物質が排出され、デュポン社はそれが持つ強い毒性を種々の実験調査で知っていながらたれ流すことで水を汚染していた。多くの住民や従業員が癌で亡くなり、女性は顔面が畸形化した子どもを産んでいた。

何十年も前からその毒性を確認しておきながら、莫大な利益を生む製品を守るために自分たちが犯している犯罪を隠蔽し、誤魔化し、政治力に訴えてもみ消そうとする世界的な巨大化学会社。その存在はどこの国にもあり、珍しい存在ではないかもしれない。

しかし、その犯罪的行為を真正面から糾弾する映画は珍しい。デュポンやテフロンは、実在する企業名、製品名。舞台とされている街(ウェスト・バージニア州パーカーズバーグ)も実在の街だ。登場人物の名前も実在の人びとだ。

アメリカには、こうした映画を作る勇気があることに敬服する。正義を求め、それを真正面から堂々と主張しなければと考えるスピリットが多くの人のなかに生きている。

この映画、僕は個人的に音楽の使い方が気に入ったところがある。たとえば、主人公の弁護士ビロットが実状を確認しようと初めてウエスト・バージニア州を車で訪れるとき、BGMにジョン・デンバーの「カントリー・ロード」が流れる。

そうだ、覚えているかな。こんな歌詞で始まる。

♪ Almost heaven, West Virginia
Blue Ridge Mountains, Shenandoah River
Life is old there, older than the trees
Younger than the mountains, growin' like a breeze

Country roads, take me home
To the place where I belong
West Virginia, mountain momma
Take me home, country roads

「♪まるで天国、ウエスト・ヴァージニア」と始まる歌で、皮肉が効いている。

ビロットは文字通りその身を掛け、デュポンというゴリアテ相手に何年もの闘いを挑み、やっと裁判に持ち込む。その裁判は、いま現在も続いているという。水俣と同じだ。

映画のラスト、懐かしい声がスクリーンから流れてきた。Johnny Cashが歌う「I Won't Back Down」である。聴いてて泣きたくなったよ。 

2022年1月4日

『ボストン市庁舎』

映画『ボストン市庁舎』(原題:City Hall)は、今年の1月1日に91歳になった映画監督、フレデリック・ワイズマンが制作したドキュメンタリー。


劇場での上映開始が今朝9時で、途中10分の休憩を挟んで終了したのが午後2時前だった。本編274分。鑑賞料2800円。半日仕事になってしまったが、時間をやり繰りして出かけた甲斐はあった。

今回の作品はワイズマンの43本目のドキュメンタリーになるが、彼の作るものはある意味で独特だ。ナレーションなし、BGMなし、インタビューなし。フリルの付いたテレビのドキュメンタリー番組に慣れた向きには素っ気ないだろうが、余計な飾りや制作者の意図を拝した姿が伝わる。

制作の場では、目の前で起こっていることをワイズマンを含めて3人という少人数のクルーが映像と音声に収めていく。監督であるワイズマンは、撮影後の編集はもちろん、現場では音声も担当しているらしい。

 

今回の彼の作品がこれまでのものと違う点は、ある特定の人物に焦点を当てていることかもしれない。それが、当時のボストン市長であるマーティン・ウォルシュ(現在はバイデン政権下の労働長官)だ。

彼が市庁舎や警察などの関係機関はもちろん、市民や各種NPOなどの集会に出かけて話をするシーンがたくさん出てくる。そこでのウォルシュのスピーチ、そして市民などのやり取りが日本人には珍しく映る。言葉の力というものを見せつけられ、実にまぶしい。

行政は何のためにあるのか、市長の存在意義は何なのか、市民との関係はどうあるべきなのか、実にフランクにそして的確に、かつ誰にでも分かりやすく説明をする。

質問や苦情を投げかける市民の方も容赦はない。ストレートに自分(たち)の考えや要望を伝え、対応を求める。成熟した民主主義ってこうなんだろうなって、観ていて感心することしきりだった。

ボストンはアメリカのなかでも歴史のある古い街。だから、さまざまな人種が交錯する。そして格差や不均衡、差別が存在している。性のありかたも多様だ。それぞれのバックグラウンドを抱えた市民やコミュニティが、自らの生を求めるなかでストレートに主張をぶつけ合う。言葉を尽くして相手に訴えかける。

忖度なんて考えていたら何も始まらない。で、当然ながら言葉には言葉で対応する。その力強さと発展性は、残念ながら日本には根本的に欠けているものだ。

ところで、この映画こそ日本の役所で働く連中にも見せなきゃ、と思ったら、今日行った映画館では市役所勤務の人を対象にした「市役所割」をやっていたよ。

いい考えだと思うけど、本当は各自治体が自分たちで上映会を行って、行政のあるべき姿に関して議論などしたらいいと思う。

2021年12月26日

立ち上がる女

映画「たちあがる女」は2019年作のめっぽう元気で、気が利いたアイスランド映画である。

主人公ハットラを演じるハルズ・ゲイルハルズドッテルを見ていて、「スリー・ビルボード」のフランシス・マクドーマンドを連想した。

現代のアイスランドを舞台に、その環境破壊を食い止めるために立ち上がった一人の女性を描いたユニークな作品で、自然にあふれたアイスランドの地にも環境汚染の波が押し寄せていることが分かる。中国資本が注がれたアルミニウムの製錬工場である。

アルミニウムの製錬には大量の電気を必要とするが、アイスランドは火山の国、すべての電力は地熱でまかなわれていて電気代が安い(タダ)からだ。

平原に延びる送電線をショートさせ、鉄塔を一人で爆破する彼女は一人で立ち上がり、戦いを続けている。

警察などから追われる彼女を赤外線カメラで執拗に追うドローンは中国の象徴だ。姿を捉えられないように死んだ羊の皮をまとって逃げるハットラ。途中、彼女を追うドローンをハットラが弓矢(!)で仕留め、手に握った石で叩き潰すシーンは「これが私たちのあんたへの回答よ」と聞こえた。その時、彼女は彼女のヒーローであるネルソン・マンデラの写真で作ったお面を被っている!

彼女にはオルガンと太鼓、スーザフォンの謎の3人からなる音楽隊が寄り添っていて、時に彼女の気持ちを象徴するように、時に彼女を励ますかのようにリズムを刻む。さらに3人の若い女性からなるコーラス隊もあちこちのシーンで登場する。不思議なユーモラスさを醸し出している。

映画のなか、自転車でアイスランドを旅するスペイン人の若者が方々のシーンで登場する。彼はその都度、ハットラが巻き起こす騒動に巻き添えを食わされる。気の毒だったり、情けなかったり。でも可笑しい。

太古の土地が残り、原始性豊かな自然のなかで暮らすアイスランドにも、外国からの資本が容赦なく流入し経済発展の名の下で環境破壊が行われていることへ、この映画は警告を発している。快作である。

2021年11月13日

ジェニファー・ハドソンがアレサ・フランクリンに乗り移った『リスペクト』

『リスペクト』は、「ソウルの女王」ことアレサ・フランクリンを描いた作品。3年前に亡くなったアレサをジェニファー・ハドソンが演じているが、とにかく歌唱がすごい。

 
『ドリーム・ガールズ』でも見る者、聞く者を魅了したが、彼女の歌はこの映画ではそれ以上だ。実際、アレサの葬儀で彼女はアレサを悼みながら「アメイジング・グレイス」を歌った。

牧師の娘に生まれ、教会でゴスペルとともに育ったアレサが「神」について歌い、語るとき、無神論者のぼくも一瞬、神の存在を信じたくなったほど。声のちから、歌のちからを今一度思い起こさせられた。

マーティン・ルーサー・キング・ジュニアとの交流や、60年代のアメリカの公民権運動のなかで彼が暗殺されたときのことなども紹介されているのは、BLMの流れが米国で定着してきたことの表れか。

劇中、アレサの父親(デトロイトの有力な牧師)をフォレスト・ウィッテイカーが演じていたが、彼がマーティン・ルーサー・キングJr. が殺されたあと、「多く(の黒人牧師)が彼の後がまを狙っている」と言ったのが妙に記憶に残った。

そうした黒人を巡る当時の世相も織り込みながらということなのだろうが、とにかくそうした時代変革の背景もあってか、60年代から70年代には素晴らしい音楽がたくさん作られたのが分かる。

映画のタイトルにもなった「リスペクト」は、元のオーティス・レディング版とはまったく印象が違うアレサ版ともいえるもの。 フリーダム♪ フリーダム♪ とシャウトするアレサのオリジナルの「シンク」。そしてキャロル・キング作の「ナチュラル・ウーマン」など、どれも素晴らしい。

この映画では、強権的だった父親やマネージャーとして彼女を支配し続けた夫など、多くの男たちからの束縛と抑圧から一人の人間として解き放たれたいと願う一人の黒人女性が描かれている。

2021年10月3日

アナザー・ラウンド

今年のアカデミー賞国際長編映画賞を受賞した作品で、映画評での評価もすこぶるいい。デンマーク人のヴィンターベアが監督したデンマークを舞台にした作品だ。アナザー・ラウンドは、酒場では「もう一杯」といった意味。

昨日観た007の映画では、ボンドとパブで飲んでいた仲間が Next is my round と言ってカウンターに2人の酒を求めに行くシーンがあった。

英国で暮らしていたとき、学生仲間と授業後に何人かでパブに繰り出すと、まずそのなかの誰かが全員分のビールを手に席に戻ってきた。みんなのグラスが空いてくると、別の誰かが It's my round と言ってみんなのビールを注文しにカウンターへ。次はまた別の誰かが。結果、こうして人数分のグラスを重ねることになる。これが英国のパブ文化。

このデンマーク映画の主人公は、 マーティンという名の歴史を教える高校教師。仕事はあまりやる気がなく、家庭でも問題を抱えて過ごしている。その彼を含む同僚4人が「人間は血中のアルコール濃度を0.05%に保つとリラックスし、やる気と自信がみなぎる」という理論を聞き、それを実践しようとする馬鹿話である。

4人はそれぞれ、ほろ酔いの時は調子がいいのだが、だんだん飲酒がエスカレートしていき、ハチャメチャへと向かう。そもそも、ほろ酔いの時に調子がよかったのは軽い酩酊状態で勝手にそう思っていただけ。酔っ払いには誰でもがそうした経験があるはず。

この4人が、どれだけ血中アルコール濃度を上げられるか挑戦してみようとバーをハシゴし、自宅の居間にボトルを並べ、飲み続ける。どこかで見た風景。そうだ、学生時代の俺たちがやっていたことと変わらない。

16歳から(ハードリカーは18歳から)飲酒が認められているデンマークの人は酒好きらしい。それにしては酒の飲み方が幼いとしか言いようがない4人のおっさんに呆れた。主人公のマッツ・ミケルセンは「北欧の至宝」と呼ばれる名優らしいが、最後まで冴えない中年オヤジにしか見えず。

ラストで、元バレエダンサーだったというミケルセンが、教え子たちの卒業を祝ってパレードで踊りまくるところがハイライト・シーンなんだろうけど、何が言いたいのかメッセージが読めず。何か見落としてるかな?  ☆☆

2021年10月2日

007/ノー・タイム・トゥ・ダイ

ただスカッとしたくて、007の新作を見に劇場に。IMAXのシアターはさすがに音がよく響き渡る。

15年間にわたってボンドを努めたダニエル・クレイグの007最終作だ。『カジノ・ロワイヤル』で彼がボンドとして登場してきたときはどうなるんだろうと思ったが(2002年の『ロード・トゥ・パーディション』で演じた、いささか情けないイメージがあったから)、ボンドの役を重ねることで役者も観客もその世界を共有することになるもんだね。

こうした映画はただ楽しめばいいので、余計な講評はしたくない。 ただ本作品の途中、ロンドンにあるのQのフラットのキッチンで彼が料理をしているとき、彼が日本の酒屋の前掛けをしているのが気になった。ほんの一瞬だったけど、そこに「酒」って漢字が見えた。

今回の悪役を演じるラミ・マレックのアジトには、なぜか畳が敷いてある。後ろには枯山水。で、正座して座っている。能面ぽいマスクが意味深長な小道具として登場する。

何でだろうと思ってたら、この作品の監督はキャリー・フジオカという名の日系人だった。だからかな、ボンドが自死を選ぶ最後のシーンに日本的な滅びの美学を感じた。

上映時間2時間44分は、007シリーズで最長。 ☆☆☆☆


2021年9月25日

映画「MINAMATA」から考えること

水俣病は過去の人災ではない。いまも多くの人が水俣病に苦しんでいる。しかも、いまだに水俣病であることを国から認められていない被害者たちがいる。

熊本県水俣市にある化学会社、チッソ株式会社は32年間にわたってメチル水銀を含む工場排水を無処理で水俣湾に垂れ流していた。32年間である。チッソと国と県の無責任さぶりを示してあまりある期間だ。

熊本大学医学部が水俣病は原因不明の奇病ではなく、チッソが垂れ流す排水が原因だと報告したのは1963年のことーー日本中が翌年の東京オリンピックに沸いていた頃。しかし、国が水俣病の原因をチッソの工場が流す排水に含まれる有機水銀が原因であると認めたのは1968年になってから。1963年以降も5年間、毎日毎日、水俣病の原因である有機水銀は水俣湾に流され続けた。

水俣病の原因は過失ではなく、見まがうことない国と県の犯罪だったわけだ。なぜそれがなされたのか。為政者が見るべきものを見ようとしなかったからだろう。もし見ていたとしたら、人間として感じるべきものを頭の中で完全に封鎖していたからだと思う。

2011年に原発事故を起こした東京電力福島第1発電所をあげるまでもなく、企業などによる人災によって被害を受けた住民への補償や原因追及においては、住民の中に被害者と加害者が混在することで地域社会が分断されるケースが多い。

産業に乏しい地域でその企業に雇用され生計を営む人たちが多く存在しているからだ。それが企業にとってはある種の安全弁となっている。住民からすれば足下を見られ、取られた人質である。

水俣病をめぐる闘争においても訴えについての賛成派と反対派のいざこざがあり、この映画でもそれが描かれている(真田クンがカッコいい)。根の所にあるのは仕事と金である。

映画の中で、ジョニー・デップが演じるユージン・スミスが妻のアイリーンの手を借りながら、あの「入浴する智子と母」を撮影する箇所がある*。日系アメリカ人で、ユージンの通訳として一緒に水俣で過ごすことになるアイリーンがいたからできた撮影であることがよく分かる。

米写真誌「LIFE」誌によって世界中に水俣病をしらしめることになった一連の写真のなかのこの一枚が、被写体となった智子の母親の強い思いから撮影されたことに強く心がふるえた。緊迫のシーンである。 

ユージンとアイリーンが日本に来たのは、1971年。三波春夫が歌う「世界の国からこんにちは」が日本国中に流れ、「人類の進歩と調和」をテーマにした大阪万博が開催された翌年のこと。

当初数ヶ月の予定だったのが、彼らはそれから3年間水俣の地に滞在して不条理としか言いようがない現地の姿を撮影した。 


化学会社であるチッソの事業は、2011年にチッソが設立したJNC株式会社という別会社に移転して運営されている。そのサイトにアクセスすると、トップページに「よろこびを化学する」というコーポレート・スローガンが表示される。悪い冗談かと苦笑するしかない。

帰宅後、書斎の本棚から彼の写真集を引っぱりだした。映画を思い出しつつ、モノクロの数々の写真にしばし見入ってしまった。 


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* その写真は1998年から新たな著作物への使用が認められていなかったのが、今年新たな写真集で使用が認められた。https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/634576

以下の西日本新聞の記事参照
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/451786/
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/451978/
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/452161/
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/452445/
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/452733/

2021年8月31日

3時間のドライブだった

入り口でチケット買い、そこに記された3番シネマに向かう。扉のところでチケット確認をしているスタッフに、CMと予告編は何分かを訊ねると「この映画は、1分です」と彼女。

時計を見ると、予定の開演時刻ちょうど。これから予告編が始まり、1分後には本編の上映がスタートする。どうせ本編上映まで十数分あるだろうから、トイレで手をゆっくり洗ってから席に着きたいと思っていたのだが、そうはいかないようでそのまま席につくことにした。

映画「ドライブ・マイ・カー」は、村上春樹の短編集『女のいない男たち』を原作にした映画。
 

映画の中で、チェーホフの「ワーニャ伯父さん」が劇中劇として登場する。ただの劇中劇として演じられるだけではなく、そのためのキャスティングから始まり、本読み、稽古、そして最後は劇場での舞台公演までが映画の中に登場する。舞台が作られていくプロセスが、この映画と併走する。

西島秀俊が演じる主人公の家福は、演出家で役者。彼は広島のある劇場から招かれ、演劇祭のためにこの芝居を作ることを依頼されている。

もう一人の主人公は、クルマで彼の送迎を担当することになった小柄な若い女性のプロドライバー、みさき。

いや、この映画にはもうひとつの主人公がいた。みさきが運転し、2人が移動に使う赤いサーブ900である。村上の原作では黄色いサーブ900になっているが、映画では赤いボディカラーで正解だったね。

この車は家福が15年乗り続けている車なのだが、芝居の製作中にもし事故があったらいけないという演劇祭の主催者の意向で、みさきが送り迎えを運転するのだ。

窓が大きく、「これぞクルマ」といった、いかにもオーソドックスなスタイルのこの車が映画にとてもよく似合ってた。

映画の終盤、家福はみさきの運転するサーブ900で、彼女が生まれ育った北海道の小さな町まで夜を徹した長距離のドライブをすることになる。

それは、2人がそれぞれに抱えてきた過去を振り返るとともに、そこにある種の諦めをも感じさせる、しかし未来へと続く価値を見いだす旅でもあった。赤いサーブ900は、その2人の再生を見届ける証人のようだ。

映画の中で「ワーニャ伯父さん」の舞台を作っていく家福。亡き妻との関係から自分を見つめ直さざるをえなくなる家福と、これまた捨てられない過去を心に潜めたみさきの2人が、まるで「ワーニャ伯父さん」の主人公たち、ワーニャとその姪のソーニャのように思えてくる。

上映が終わり、腕時計を見たら3時間が経っていた。後で調べたら、この作品の上映時間は179分とあった。つまり、上映前の予告編1分と合わせてちょうど3時間の、発見のドライブだったわけだ。

2021年8月28日

映画館は、ネットフリックスから学べ

徒歩圏には映画館はないが、2駅先にはシネコンがある。4駅先にもシネコンがあり、5駅行けばさらに3館ある。新作映画は、これらの劇場でほぼカバーできる。

それはいいのだが、劇場で映画の本編上映前につまらないCMや映画の予告編を流すのは、そろそろ止めてくれないものか。その時間、13分から15分。結構長い。

入場料を払っているのに半ば強制的にCMを視聴させられるのは不愉快だし、新作の予告編は客が興味があれば自分でネットを探して見ることができる。

劇場に足を運んだ客がそうしたものを見せられどう感じているか、調査したことあるのだろうか。映画の興行会社は、少しは客の立場になって自分たちのサービスを振り返ったほうがいい。

ネットフリックスが、視聴者を惹きつけるためのマーケティングをどれだけ懸命にやっているかを少し真面目に学んだらどうだ。このままだと、じきに手遅れになってしまうぞ。