2019年4月4日

見えてるものと見えないものの間

日産自動車元会長のカルロス・ゴーンが東京地検特捜部によって逮捕された。4度目の逮捕である。容疑は特別背任。一連の事件捜査はずいぶん長く続いている。一体何がどうなってるのか未だ全容がよくわからない。

それにしても、なぜこのような事件が起きたのか。たまさか起こったのか、起きるべくして起こったのかが気になる。

カルロスゴーンは経営界のスーパースターだった。経営破綻の瀬戸際にあった日産自動車の業績をV字回復させた手腕は、停滞する日本経済全体の中で光輝いていた。

それがなぜこのようになってしまったのか。当時瀕死の日産自動車を立ち直すため、彼は提携先のルノーから招かれた。しかしリバイバルプランと呼ばれた彼の改革は、彼自身が策定したものではない。改革案そのものは、すでに日産自動車の中にあったのだ。

しかし当時の日産の経営者では、それらを実行することができなかった。なぜなら日本の経営者にとって最も難しいことの1つは社員や工場の整理、つまり首切りである。また、これまでの系列会社などとの関係解消も難しい。いわゆる日本人同士のしがらみという奴があるからだ。

どんなに明晰で理路整然とした人間でも、こうした点になると多くの日本人は一転して本来の自分ではなくなる。当時の日産自動車の経営者もそれがわかっていたから、自分たちの手で行うのではなく、外圧としての外国人を用いようと考えたわけだ。そして、日本人では行われなかったであろう日産自動車社内の大改革はひとまずは成功した。

ただその際、当時の日本人の経営者たちは、その出口を考えていなかったのかもしれない。つまりはポストゴーンである。ゴーンで経営を再建した後、誰がどのように日産自動車全体の旗振りをするのかというシナリオがなかったのかもしれない。あるいは、全権を掌握したゴーンがそうしたシナリオをつぶしていったのかもしれない。もちろんこれは推測である。

そして日本人の経営層は、それらの成り行きを手をこまねいて見ていたとしか今では思えない。そこがこの事件と日産自動車の不幸の始まりだった。

かつてビジネススクールでも、カルロス・ゴーンがなした日産のV字回復が優れた経営手腕の典型例として積極的に教えられていた。見えていたものと実際に組織内部で起こっていたこと、つまり見えていなかったもののギャップが経営学の教授たちにも全く見えていなかった。

内部と外部の違いと言ってしまえばそれまでだが、今にして思えばカルロスゴーンに我々日本人全体がしてやられたと言う気がしないでもない。

見えるものと見えないもの、それらを理解し、見えないものを見ようとする意志と洞察力、それが今さらながらに求められている。