2018-06-19
混乱は夜まで続いた
高槻市内では、倒れてきた学校の塀の下敷きで少女が亡くなった。そのことはとても残念だが、今回の地震ではビルや橋など建造物の倒壊や大規模なインフラの寸断はなかった。そう言う意味で、我々は今回の地震を来たるべき大地震の予行演習と考えるべきだ。
用事があり、昨日から岡山に来ていた。朝の散歩を終え、何時の新幹線で東京へ帰ろうかと考えてた矢先の地震だった。
心配したのは、新幹線が止まること。そしてその心配通り、新幹線が上下線で「運転見合わせ」ということですべて止まった。いつ運行が再開するか、ニュースをじっと注視していたがまったくその気配はない。
状況が分からないので、駅まで行って現場で状況を確認して行動することにした。しかし、駅構内に行っても何もわからない。運行表示はブランクのまま。アナウンスも断続的で的を得ていない。
ネットで予約しようとしても、指定席の予約がシステムで入らないようになっている。運行スケジュールが立たないからだ。
大阪では夜になっても電車の運行が再開されず、多くの人たちが歩いて帰宅に向かったらしい。
鉄道会社では地震などがあった際には、職員が線路を巡回し、目視で安全を確認しないと運行の再開ができない規則になっている。安全運行の目的のもとでの決まりだろうが、何とかして欲しい。
線路の具合を走行しながら調べる調査用車両をすばやく走らせるとかできると思う。できるけど、やらない。お陰で、利用客が大変な目にあう。日本のお客は真面目で黙って我慢する。
僕はと言えば、その後JR東海のアプリで新幹線の予約が取れたので、スマホを片手に改札に向かった。けれど、駅員によればグリーン車両を除くすべての車両は自由席で運行されているとか。
まあいいや、とホームへのエスカレータを昇ってから、僕がJR東海のアプリでさっき予約した新幹線はそもそも運行されないことが判明。
次に来た新大阪止まりの新幹線を見送り、その次の東京行きに乗り込んだ。間引き運転のうえ、各駅停車で、しかも低速走行である。
新神戸を過ぎた後、車掌がやってきて、僕が座っているあたりには新大阪から団体の予約が入っているのでどいてくれと言う。さっき乗車した駅では普通車両はすべて自由席だといっていたのだが。しかも、僕は運行されなかった当日の新幹線の指定席券を持っている。
そうした説明をしたが、彼女は「ダブルブッキングなんです」とだけ言い残して、自分は次の新大阪で仕事が終わるからと立ち去った。
しかし新幹線は、次の停車駅である新大阪で新幹線が2台待っているため入構できないとかで、30分ほど駅の手前で停車してしまった。しかも、通常ならある車内販売は行われていないので、飲み物を買うことすらできない。
とにかく昨日を振り返って感じたのは、JRという組織は情報の流れがすごく悪いということ。客と接する現場には若い駅員が出されて、説明できるだけの情報や指示も与えられないまま、ただただ立ち往生している。可哀相に。管理職は奥に隠れたままで、客がいるところには出てこない。
改札とホームと新幹線の車内で、それぞれ駅員のいうことがバラバラだった。JRの職員というのは、何もないときは決められたことをきちんとやれるのだろうが、普段とは異なる何かが起こった有事の際の対応の体たらくには怒りを越えて情けなくなり、利用者として心底心配になった。
今回は鉄道網に物理的な損傷がなかったが、地震などの災害で実際に線路が寸断されたりしたら、我々はいったいどうすればいいのか考えておく必要はある。
それはとりもなおさず、いつになったら運行が再開されるのかも分からず、知らされず、ただ疲れをためるのではなく、その時にどうやって他の移動手段をさっさと確保できるように頭と体を動かす準備をしておかなければ。
2018-06-15
「多様化」をもっと多様な視点で理解する必要がある
法律が制定されたことが関係者に知られていないこともあるだろうが、基本的にそれ以前の問題。つまり、飲食店で働く人の意識の問題だ。
2018-06-11
今日は新聞全休日
新聞を休刊するのはその新聞社の勝手だが、読者無視の業界内申し合わせは止めてはどうか。
休刊日が新聞社ごとに異なっていれば、いつも自分が読んでいる新聞の休刊日には普段は手に取ることのない他紙を駅の売店やコンビニで手に取るかもしれない。
きっとそれは何かのきっかけになる。それを契機に複数紙を読み比べるようになったり、購読紙を変えてみることにもつながる。読者にとっては新たな視野を獲得するチャンスだ。
新聞社は、そうした一般紙内での購読者の移動が起こらないようにまったく同一の休刊日を設定している。専売所の店員に休暇を与えるためというのが彼らの言い分なのだろうが、それは半分でしかない。
スポーツ紙は休刊日なくちゃんと(?)新聞を発行している。一般紙はいつになったら、顧客の視点で自分たちのビジネスを考えるようになるのだろう。永遠に休刊する前に経営者たちが気がつけばよいけどね。
2018-06-10
犬ヶ島
ストップモーション・アニメーションは、その名の通り、人形など制止している物体をひとつひとつコマ撮りして製作するアニメーションである。膨大な時間がかかるのことは、容易に想像できる。その一方で、有りモノの俳優やキャラクターに拠らない自由な発想と造形でストーリーを流していくことができる。
この映画、見れば分かるが妙なバイアスがいっぱいかかっている。日本人の観客にはうれしいバイアスだけど。
まず舞台が日本。メガ崎市という街がひとつの舞台。そして、昭和の時代をもとにした近未来での出来事。黒澤明の映画のモチーフがたくさん登場する。人(犬)物構成もそうだし、早坂文雄が作曲した「七人の侍」の音楽はそのまま用いられている。
アンダーソンは黒澤だけでなく、沈黙の使い方や自然の描き方などについて宮崎駿からも多大に影響を受けているらしい。 沈黙のなか、アップの犬の表情が映る。その毛が風に揺れる。確かに宮崎映画を彷彿とさせるシーンがたくさん出てくる。さらには、本多猪四郎の東宝特撮怪獣映画からの影響も見て取れる。
ヨーコ・オノという名の科学者助手の声は、あのオノ・ヨーコが。全編を通じて登場する通訳者ネルソンという女性の声が、あの「スリー・ビルボード」のフランシス・マクドーマンドだとは最後まで気がつかなかったけど。
2018-06-09
社会や家族から捨てられた人たちの物語
この映画は、すでに死亡している親の年金を、遺族たちが黙ったまま不正に受給し続けていたという事件から是枝監督が着想したという。新聞社のデータベースで検索してみると、そうした事件は2010年の夏頃から報道され始めている。
彼らは社会の谷間の中で、周りとさほどつながることなく生きている。しかし考えてみれば彼らの近くのマンションの住人たちだって、同じように社会とそれほど深くつながらないままに生きているである。そういう意味で、彼らはわれわれ一般の日本人の一つの縮図かもしれない。
2018-05-27
フロリダの光と影
「フロリダ・プロジェクト」は、アメリカ、フロリダのディズニーランドのその塀の向こうの世界を描いた映画である。そこにはディズニーランドを訪れる客のための安いモーテルが林立し、アパートを借りることのできない貧しい連中が宿泊料週払いで住んでいる。
この映画の上映の前に、是枝裕和監督の「万引き家族」の予告編があった。高層マンションの谷間に立つ平屋に住む家族を描いたこの作品とフロリダ・プロジェクトは見事に繋がっている(「万引き家族」はまだ未公開だけど)。
表からは見えない、だけどしっかりそこに息づき生きている人たちや家族の存在を観るものに突きつけ、深く考えさせる。
2018-05-08
ルール遵守という思考停止
あらためて、パナソニックはジーンズやスニーカーでの出勤は禁止されていたんだと知って驚いた。パナソニックほどの大企業だから詳細な服装規程があって、そのなかではっきりダメとされていたのだろう。
単なる服装と言えばそれまでだが、これまで誰もそうしたルールに異議を唱えてこなかったのか(そういう人はいたが、それにましてルールが強固だったのかもしれない)。服装に関する規則など勝手に無視して、ジーンズでも短パンでも好きな格好で出勤し仕事をするような連中はいなかったのか。
もちろんビジネスマン(ウーマン)だから、客先を訪問する際や改まった席がある日にはスーツ姿が適切なことは言を俟たない。だが、社内で仕事をしている分には、周りに不潔感を感じさせたり、不快な気分を抱かせない限り何でもいいだろう。
生まれつき髪の毛の色が茶色い女子中学生が、学校の教師から執拗に髪を黒く染めることを強要され、あげくは「染めるか、(学校を)辞めるか」と迫られた。髪を毛染め薬で何度も染めることで頭皮や皮膚がただれ、親が学校に対して説明したが「ルールはルールだから」と聞き入れられなかったいう話を思い出した。
ルールを振りかざす人たちは、往々にして権力志向と安定志向が強い。それによって守られて生きてきた人たちにとっては、どんな意味のないルールも貴重な防御壁なのだ。一方で、無用にそうしたルールで苦しめられている人たちがいるのも事実。
みんなにとってそれが必要だからルールが作られるのではなく、たいていは一部の連中が自分たちにとって「やりやすいように」やるために先にルールを作る。
私たちは、子供のころから学校で規則を守ることが大切だと繰り返しすり込まれている。誰のため、何のため、という基本的な問いは置かれたままだ。ルールはルールだからみんなきちんと守ること、みんな一緒、人と違ったことをしちゃダメ・・・。
こうした教育と社会通念が日本人と現在の日本という国を形作っている。アメリカなど海外から思いもよらなかったような発想が事業として登場し大きく成長している。
今ごろスーツをジーンズに着替えたからと言って、周回遅れの差が縮まるかどうか・・・。
2018-04-03
買いたくても買えない
2018-03-30
ため息しか出ないのは、われわれ読者だ
ひょっとしたら自分たちの新聞社は潰れるかもしれない、訴えられた経営者と編集責任者は有罪に処せられるかもしれない、そうした重圧を最終的にはねのけて、彼らはジャーナリストとしてやるべきことをした。
2018-03-28
警鐘を僕たちはどう聞いてきたか
何気なく手に取り、主な目次に目を通しざっと全体を眺めたが、そこに書かれている「このままだと、2020年にはこうなってしまうぞ」という警鐘の数々は、ほとんどそのまま20年後の我々が暮らす現在につながっている。
インターネットを誰でもが使えるようになり、AIが急速に進化して人の仕事を奪うのではないかとの危機感が生まれ、車の自動運転の現実化が増してきた日本の現在だけど、どれもこれも海外から押し寄せてきた潮流になんとか遅ればせながら「対応」しているだけで、日本から生まれ、世界を変えようとしているものはほとんど思いつかない。
今の日本の状況は、19世紀の終わり、ビクトリア朝時代の英国を連想させる。産業革命を世界で初めて成し遂げ、世界の工場として他国に比して豊かさを手に入れたが、その「成功体験」から構造転換に鈍感になり、やがては製造業は米国やドイツに追いつかれ抜かれた。
しかし長らく「英国病」と呼ばれる低迷期を経験したその国も、その姿を変えてまた世界の表舞台でそれなりの存在感を示すようになった。そのためには衰退から100年後、サッチャー首相のイニシアティブによる多くの痛みの伴う国を挙げての改革を待たねばならなかった。
鉄板のような官製規制、少子高齢社会に向けての漠然とした人々の不安感、変わらない学校教育、「日本はこれまでもなんとかなってきた」という日本人的盲信・・・。正直言うとどうしようもない面が多いけど、社会が変わらないなら個人だけでも変わらなければとつくづく思う。
2018-03-21
流れがない社会は滞り、腐る
長く努めていさえすれば得ができるというインセンティブで人が良い仕事をするとは思えない。ましてや倒産やクビのない公務員である。人材の流動性を阻害しているだけだ。
社会の活力が生まれない理由の一つは、人の流動性の低さにある。
2018-03-17
自動で走る住居
ただそのためには、「レベル5」とされる最高度の自動運転技術とその適用を可能にする道交法の改正が必要。10年はかかるだろうな。
2018-03-16
日本の大臣、大丈夫か
シャレで言ったのならわかる。しかし自分の考えに沿わない、気に入らないからと言う理由である特定の新聞を読んでいないとしたらそれはあまりにもお粗末だ。
自分の考えと違う言論であればあるほど、そういったものに目配りをし、情報を集めるのが政治家として当然の行いのように思うのだがどうなのだろう。せめて主要新聞の見出しくらい読みなさよ、漫画だけじゃなく。
2018-03-06
第90回アカデミー賞授賞式
それにしても、アカデミー賞の授賞式では毎年コメディアンあるいはコメディアンヌが視界を努めているが、彼らは凄いなあと感心させられるのは、既成の権力を容赦なく笑い飛ばすことで批判し、常識をスマートな表現で揺さぶる技を持っていること。テクニックだけではない、その前にそうした社会意識を持っていることといっていい。
2018-03-01
ビールはサラダだ
ここにあるパブリック・マーケットは、鮮魚、青果、精肉、各種デリやケーキ、チョコレートなどたくさんの食料品の店がひしめく屋内マーケットである。観光客はもちろん、新鮮な食材が手に入るだけに地元の人たちで賑わっていた。
そのすぐ近くにある地ビールの店、Granville Island Brewingでは工場できたてのビールを飲むことができる。店頭にはビール・サイエンスと称して「BEER IS SALAD!!」という妙な理屈の看板があった。
できたてのビール片手に「これはサラダか?」と意見を戦わすのも一興である。
2018-02-25
ドキドキを売ろう
その市街地から車で北に一時間ほど走るだけで、森林リゾート的な場所を訪ねることができる。観光地して有名なのが、Capilano Suspension Bridge Parkである。見どころはその名の通りの吊り橋とCliff Walkと名づけられた展望コース。
この公園への入場料は、42.95カナダドル。3600円ほど。安くない。
ただ歩くだけなら30秒もあれば渡りきるほどの「ちょっとした」施設だ。目を見張るほどの高さでもないし、そこを歩かなければ見ることができないといった景観もない。だが渓谷の山側の岩肌から飛び出した造作物の美しさゆえか、人気がある。
観光用の目的での同様の設置場所なら、日本でもたくさん考えられるはず。少し工夫するだけでもっと魅力的なクリフウォーク(絶壁渡り)ができる。地方の売り物になること間違いない。
問題は作れるかどうか。技術的な問題ではない、意思決定的な問題として、日本で役人がそれを決められるかどうかである。
このクリフ・ウォークを真似てでも、他より早くこうした施設をつくりPRしたところが勝ちだ。
2018-02-20
バリア有りー
下記の写真は、そんななかのJR新横浜駅の新幹線ホームの様子。視覚障害者のために敷かれた黄色い点字ブロックにピッタリとくっついて設置された操作盤が気になった。ホームガードのすぐ脇に、つい最近設置されたものだ。
点字ブロックにはかかっていないからセーフ、という駅の判断がここには見える。
白杖をついて、あるいは盲導犬と歩く視覚障害者が、ここをどうやってうまく通れるか。彼らはこの場所で、おそらくは体の一部をこの操作盤の角にぶつけることになる。
金属製の操作盤だ。角に膝をぶつけただけで十分イタイ。バランスをくずすと、転倒するだろう。
バリアフリーどころか、誰が見てもバリア有りーだ。
どうしてこんな簡単なことが、駅の関係者には分からないのだろうか。あるいは、分かってても面倒だから、あるいは組織の論理を乱さぬようにものを言わないようにしているのかもしれない。おそらく後者なんだろうナ。
僕がホームにいた駅員に声をかけ、このままだと視覚障害者にとって危険だと告げても「私には分からない。ほら、JRに苦情をのべる窓口というのがあるでしょう・・・。そこに電話してください」との答えが返ってきた。自分が働いている職場なのに。けが人が出るまで分からないのだろうか。
2018-02-14
2018-02-12
当たり前って思われてること、当たり前じゃないことがたくさんある
4月の初めは学校の入学時期であり、会社への新入社員の入社時期であり、人事異動の時期でもある。3月に高校や大学を卒業して会社に入る若者たちの多くはそれまでのアパートを出て、通勤先を考えた場所に新たに部屋を借りる。
4月1日づけでの転勤の辞令を受けたサラリーマンは、3月の末から4月第一週にかけてあたふたと引っ越しの準備をしなければならない。
ただでさえ人不足のサービス業の典型である引っ越し会社では、この繁忙期に人を集めるのに苦労する。トラックのドライバーがまず不足する。
引っ越しのアルバイトは、かつて大学生の定番のひとつだったが、体力と気力を必要とするキツイ仕事だ。だから、最近は敬遠されがちらしい。
アルバイトの日給は一万円から一万三千円。他のバイトと比べ悪くはないのだろうが、それほど大きな金額ではない。僕が学生バイトで引っ越し会社の手伝いをしていたときの二倍程度にしかなっていない。もう40年近く経っているのに。同じ期間で、私立大学の初年度納付金は3倍になっている。
本当に日本の給料は世界の他国に比べてあがっていない。デフレでものの値段が上がっていないから、日々の生活感としてはまあまあという感触で来たのだろうけど、他のOECD諸国などから見れば日本人の給料は、ヤスー! と言われてもしかたがない。
生活が成り立っているのだからそれで何が困るのか、と言われるかもしれない。これからどんどん困っていくのだよ。
高齢者社会(高齢化社会という言葉があるが、人類が誕生してからずっと、例外として戦争や飢饉や伝染病が蔓延した時期を除いて人類は「高齢化」してきているのに、いまになって「高齢化社会」というのはおかしいと僕は思っている)の日本では、老人介護のために間違いなく人を外国から呼ばなければならなくなる。近いうちに。
だってそうしなければ立ちゆかなくなるのは目に見えているから。ロボットが人間の介護者と同様の事ができるようになるのは20年くらい先だろう。言葉のコミュニケーションに難があっても、やっぱり人にはかなわない。
だけど彼ら彼女らだって、わざわざ外国である日本に人類愛でもってボランティアとして来てくれる訳じゃない。賃金を求める労働力として日本に働きに来るのだ。その時に競争的な賃金が払えなければ、誰もそんな国に好きこのんでやってくるわけはない。
かといって今の総理大臣がやっているような賃金上昇の仕方、つまり経済団体の企業経営者に給料アップを要請するのは明らかにポイントがずれている。なかには総理の気持ちを「忖度」してベースアップを発表した経営者もいるが、従業員の給料をどうするか考えることは経営者の仕事の根幹のひとつで、ゼロから自分で判断すべきことだ。
日本の総理大臣も企業の経営者も、やるべき事はひとつ。生産性を上げることだ。だからといって、何も国や企業を根底から揺さぶるようなイノベーションが必要という訳じゃない。
国はつまらぬ規制を撤廃し、前例主義で安穏とするスローな仕事の仕方をあらためること。企業は、これまたつまらぬ横並びの考えを変えて、もっと自由闊達な発想と行動力を発揮すること。単純である。
新卒の4月の一括採用? いい加減に考え直す時期である。人事部にとって慣れしたんだ儀式になっているだけ。年功序列や終身雇用? ほとんどの経営者が止めたいと思っているはず。であれば、止めればいい。それでもって、何か自分たちならではの別の仕組みによって優秀な人材が集まるためのアイデアを考えることだ。それができるかどうか、これから経営者の能力と責任が問われる。
2018-02-11
上に昇るか、右に行くか
誰かがイタズラで回しちゃったのかもしれない。でもこのボタン、見た誰もを一瞬「ひょっとしたら・・・」と考えさせる力を持っているように思う。
アタマのネジに油を差してくれるのは、普段の風景からちょっとズレた、こうしたさりげないものだったりする。
2018-02-06
Three Billboards Outside Ebbing, Missouri
アメリカというとニューヨークやロス、サンフランシスコ、シカゴなどを思い浮かべ、そこがアメリカと勝手に想像してしまう。しかし実際は、アメリカはひとつの大陸の大半を占めるほどの巨大な国。地理的にも歴史的にも極めて多様である。
ミズーリというと、僕がまず思い起こすのは、チャーリー・ヘイデンとパット・メセニーの1997年のアルバム「beyond the Missouri Sky」だ。ものを書く際にBGMとしてよく流していたが、そのジャケットの写真が映す荒涼とした風景が、僕にとってのミズーリだった。
映画に登場する人物はみんな、ある意味でどこかネジが外れている連中ばかり。しかし、それらがストレートに自分を表現し、どこか深いところで、いわば人間としてつながっている。
邪悪で軽薄そうな男も、自らの深いところに何かしらの悲しみを抱いていて、ひょんなことからそれに気付き、生き方を修正していくことができることを映画は示す。悪党にも一部の善の魂があることを描くことで、観るものを思考の縁へと連れて行く。
一方で、いかにも善人として周りから思われ、自分でそれを疑うこともない教会の神父らがいかに浅薄で社会の矛盾に目をつむり、形式的にだけ生きているかも映し出す。
主人公のミルドレッドを演じたフランシス・マクドーマンドの圧倒的な力強さだけでなく、登場人物がすべてその輪郭をしっかりと持ち、確実に描かれている。練りに練られた優れた脚本があってのこと。
2018-01-30
議論のネタ
中国のタクラマカン砂漠、楼蘭への道中の様子が語られていたのだが、その途中のミーランという村での以下のような話が語られている。
オアシスの村・ミーランにたどり着くと、ポプラが揺れていて風が美しかった。ただトイレが男女一つずつしかないので行列ができる。前も横も仕切りがないので並ぶ人たちに見られながら用を足す。紙で拭くときに人格が崩壊するような屈辱感を抱く。なぜなのだろうと、夜みんなで議論しました。中国のかつての(今も田舎はそうかもしれない)トイレ事情はよく聞かされるところだが、それをネタに撮影隊の連中と「議論」をするというのが愉快だ。
近頃は大学でさえ、人が集まって熱く議論するということは珍しくなったと思う。若い人たちはもっぱらネット上で上滑りで空虚なコミュニケーションに終始しているように思える。
そこでは人が本来持っている体温のようなものがまったく伝わらない醒めたやり取りだけが流れている。
いまの若者たちの周りにだって、議論のネタなどいくらでもあるはず。時には敢えて屈辱感に身をさらし、それをネタにみんなで議論したらどうか。
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1月25日付け朝刊 |
2018-01-21
紙と墨で1200年を超える
国立西洋美術館で行われている「北斎とジャポニスム」展を観に行ったのだけど、休日ということもあってか入館までの待ち時間が1時間ちかく。
そこは諦めて、東京国立博物館で 開催中の「仁和寺と御室派のみほとけ」展へ足を運んだ。仁和寺は御室桜で知られる真言密教の寺。888年に完成した寺院で、数々の国宝級の宝物が今に伝えられている。
仏像や絵画もすばらしかったが、今回とりわけ記憶に残ったのが、弘法大師(空海)が真言密教を伝える書物として中国(唐)で写経して持ち帰った経典だ。
三十冊あるところから「三十帖冊子」と呼ばれている、これも国宝である。空海の没年が835年なので、1200年近く昔に書かれ(写され)たものだ。それが今も墨のあと鮮やかに残っていて、私たちは展示ケースのガラス越しではあるけど、誰もがそこで読むことができる。
空海はそのとき、どこで何を想いながら教典を写経していたのだろうと想像させられ、またあらゆるデータがデジタルで記憶される時代ではあるが、記憶媒体としての保存性や閲覧性の面で「紙」にまさるものはないとしみじみ痛感させられた。
振り返るに、我が家には4、50枚のフロッピーディスクに加えてMOやMD、メモリースティック、スマートメディアなどが今も残っている。
早く中のデータを確認して必要なものは移行しなければと思ってはいるが、それらの中には既に再生するための機器(ドライブ)が手元になくなってしまったものがある。
はてさて、それらをどう処理するか・・・。
2018-01-16
「ヤリタイホウダイ」と「イノチガケ」
早稲田大学の演劇博物館ーー最近いろいろと旗色が悪い早稲田だが、日本の大学で演劇関係の資料をこれだけ取り揃え、また演劇を支えようとする志を持つ演劇専門の研究機関、博物館はここ以外にはないーーが主催するイベントで、SCOT(元早稲田小劇場)の鈴木忠志が登場するということで、楽しみに出かけた。
上映された「劇的なるものをめぐってⅡ」は、早稲田小劇場の舞台の練習を映像記録したもの。撮影されたのはいまから50年近い昔で、鈴木曰く、誰が撮影したか分からない・・・。
主演は当時28歳、芝居を初めてまだ3年という白石加代子である。既にその独特の怪演ぶりを十二分に発揮している。白石あっての鈴木という印象もなきにしもあらず。
鈴木は1939年生まれ。大学に6年在籍、27歳の時に自分が主催する劇団を創設、37歳の時に富山県利賀村に活動の本拠地を移し、それ以来ずっとその地で演劇活動を行っている。
30年ほど前、ある多目的ホールをオープンする仕事に携わっていた頃、鈴木が主催する演劇祭「利賀フェスティバル」を観に冨山を訪ねたことがある。人口数百人という今でいう過疎の村で、村の民家に泊めてもらったことを思い出した。
夜間に屋外劇場で行われた芝居、確か鈴木版の「ディオニソス」だったと思うが、不思議な静かな熱狂感を感じたことを記憶している。
昨日の上映会の後は、鈴木と演劇評論家の渡辺保の対談があった。鈴木は79歳にして、傍目からは衰えることを知らぬ人物である。「ま、なんでも聞いてくれ」から始まったが、実にとうとうと、かつこんこんと自説をまくし立てる。 芝居への圧倒的な知識と経験、尽きぬ情熱が伝わってくる。
鈴木には、今の歌舞伎や能の役者に対して並々ならぬ不満があるようだが、そうしたことに話が流れようとすると渡辺が巧みに路線をもどす。演劇評論家として全方位を相手にしていたい立場からの「忖度」だろうが、そこが物足りなかった。
下記のリンクは鈴木が2015年に書いた文章のひとつだが、彼流のレトリックとはいえ、そこに書かれている「ヤリチホウダイ」やり、しかし「イノチガケ」で臨むその姿勢は今も健在であることを確認した夜。命がけという言葉について何年ぶりかで考えさせられた。
http://www.scot-suzukicompany.com/blog/suzuki/2015-09/#blog000221
終わって大隈講堂から外に出たら、あたりは真っ暗だった |
2018-01-14
入試で人生は決まらないよ、君
毎年思うことなんだけど、どうしてこんな時期にやるのだろう。
今年も大寒波で各地が雪に覆われ、交通期間が麻痺して試験会場に時間通り到着出来なかったり、雪で滑って怪我をしたり、寒さで風邪を引いて試験をあきらめたり、さまざまなトラブルが聞こえてきた。
1月のなかばに日本列島が、あるはその一部が寒波に覆われるのは自然現象であって、不思議でもなんでもないのである。 もっと気候のいい11月にでもやればいいと思っている。2ヵ月早めるだけでコンディションは格段に改善する。
ところで、テレビのニュースでセンター試験の受験生が、カメラに向かい「人生を決める試験なので頑張ります!」とインタビューに応えていた。気を引き締めてしっかりやろうというのは結構だが、思わず「入試や大学で人生は決まらないよ」と画面の向こうにいる若者に声をかけたくなった。
こんな当たり前の事が18歳になっても分かってないことに、ふと残念な気分にさせられた。いや、彼のせいではないのだろう。親か高校教師か分からないが、まわりの大人がそうした完全に時代遅れな発想を信じ、受験生に吹き込んできたのだろう。
世の中の大学も(私もその一部分であるが)そうした責任の一端を担っているとも言える。