2021年10月1日

3年間、2億円の弁護士費用

東京五輪が終わり、まもなくひと月になろうとしている。その後のコロナウイルス感染拡大と収束、そして緊急事態宣言の解除などで、五輪のときの騒ぎは人々の意識から消えてしまったようだ。

だが、大切なのはこれから。膨大な予算と時間とエネルギーを国家レベルで注ぎ込んだ大イベントなのだから、しっかりとした総括がなされなければ。

例えば、9400億円という巨額な公費(税金)を結果として注ぎ込んだ、その内訳が隠さずに示されるかどうかが問われることになる。

でもおそらくそうはならないと思わせる報道があった。五輪の東京招致をめぐってJOC(日本オリンピック委員会)が賄賂を使ったとされる裁判で、捜査を受けている前JOC会長の竹田恒和の弁護士費用としてこの3年間ですでに2億円が支出されており、けれど公開用の理事会議事録からはその記載が削除されているという。

内部の限られた関係者だけが知り得る情報となっていて、すでに外部からはこうした金の使途がわからないようにされているのだ。

会場となった施設で大量の弁当がそのまま廃棄されていたとか、オリンピック村の食堂でこれまた大量の食事が無駄に捨てられていたニュースは表に出ている通りだ。もちろん五輪事務局が公表したのではなく、メディアが内部関係者から聞き取りを続けて調査した結果、あきらかになった事実である。

弁当や食堂の件は氷山の一角だろう。自分の懐から出る金ではないということで、コスト意識を持たない連中が行ったさまざまな施策は公共心の欠如の表れともいえる。

さて先の賄賂裁判だが、3年の時間と2億円の弁護士費用を注ぎ込んでいまだ無罪となってないということは、「やった」と見るのが普通だろう。JOC会長だった竹田は、フランスの司法省から訴えられて即座にその立場から辞任している。無実なら、そうやって逃げる必要はなかった。

日本政府は色んな方面から圧力を、あるいは懐柔策をフランス司法省やフランス政府に対しておこなっているかもね。フランス側がどう判断するかが見物だ。

この手の有象無象の話がどこまで透明性を持って表に出てきて、事実関係がちゃんと検証されるかが、この国の今後のカタチを決めていく重要なポイントになる。

2021年9月29日

もっと自然に語っていいんだよ

「嵐」の櫻井クンと相葉クンが、それぞれ結婚することを公開した。同じ日に事務所のホームページを通じて発表するというのは、ファンや世の中での騒ぎを最小化するための配慮なんだろうね。

相葉クンは、そこで「結婚させて頂くことになりました」「日々、状況が変化していく中で、それでも頑張れる場を頂き、そしてお仕事をさせて頂いています」と コメントしていたという。

ずいぶん丁寧だなあ。「頂く」のオンパレードだ。結婚は当事者の合意でするものだから、結婚します、でいいと思う。それが自然な表現。

2人は超有名人で社会への影響力が大きいからこそ、妙にかしこまった不自然なものの言い方などせず、当たり前の表現を心がけた方がいい。


2021年9月28日

雲間から光

 
夕刻近く、西の空。赤い光のシャワーが雲の間から降り注ぐ。

 

これからの季節、南の夜空にはシリウス

南の空に輝くシリウス

23夜の月

今日は23夜で南の夜空は結構明るいのだけど、それでも雲がないおかげでいくつもきれいな星が見える。

書斎の窓からは、真正面におおいぬ座のシリウスが輝いている。これからの季節、しばらくのあいだずっと付き合うことになる。そしてシリウスと共に冬の大三角形を形作るオリオン座のベテルギウスとこいぬ座のプロキシオンもきれいに見える。オリオン座の三ツ星もまたたきを見せている。

ベランダに三脚を持ち出し、つい撮影してしまった。

2021年9月25日

映画「MINAMATA」から考えること

水俣病は過去の人災ではない。いまも多くの人が水俣病に苦しんでいる。しかも、いまだに水俣病であることを国から認められていない被害者たちがいる。

熊本県水俣市にある化学会社、チッソ株式会社は32年間にわたってメチル水銀を含む工場排水を無処理で水俣湾に垂れ流していた。32年間である。チッソと国と県の無責任さぶりを示してあまりある期間だ。

熊本大学医学部が水俣病は原因不明の奇病ではなく、チッソが垂れ流す排水が原因だと報告したのは1963年のことーー日本中が翌年の東京オリンピックに沸いていた頃。しかし、国が水俣病の原因をチッソの工場が流す排水に含まれる有機水銀が原因であると認めたのは1968年になってから。1963年以降も5年間、毎日毎日、水俣病の原因である有機水銀は水俣湾に流され続けた。

水俣病の原因は過失ではなく、見まがうことない国と県の犯罪だったわけだ。なぜそれがなされたのか。為政者が見るべきものを見ようとしなかったからだろう。もし見ていたとしたら、人間として感じるべきものを頭の中で完全に封鎖していたからだと思う。

2011年に原発事故を起こした東京電力福島第1発電所をあげるまでもなく、企業などによる人災によって被害を受けた住民への補償や原因追及においては、住民の中に被害者と加害者が混在することで地域社会が分断されるケースが多い。

産業に乏しい地域でその企業に雇用され生計を営む人たちが多く存在しているからだ。それが企業にとってはある種の安全弁となっている。住民からすれば足下を見られ、取られた人質である。

水俣病をめぐる闘争においても訴えについての賛成派と反対派のいざこざがあり、この映画でもそれが描かれている(真田クンがカッコいい)。根の所にあるのは仕事と金である。

映画の中で、ジョニー・デップが演じるユージン・スミスが妻のアイリーンの手を借りながら、あの「入浴する智子と母」を撮影する箇所がある*。日系アメリカ人で、ユージンの通訳として一緒に水俣で過ごすことになるアイリーンがいたからできた撮影であることがよく分かる。

米写真誌「LIFE」誌によって世界中に水俣病をしらしめることになった一連の写真のなかのこの一枚が、被写体となった智子の母親の強い思いから撮影されたことに強く心がふるえた。緊迫のシーンである。 

ユージンとアイリーンが日本に来たのは、1971年。三波春夫が歌う「世界の国からこんにちは」が日本国中に流れ、「人類の進歩と調和」をテーマにした大阪万博が開催された翌年のこと。

当初数ヶ月の予定だったのが、彼らはそれから3年間水俣の地に滞在して不条理としか言いようがない現地の姿を撮影した。 


化学会社であるチッソの事業は、2011年にチッソが設立したJNC株式会社という別会社に移転して運営されている。そのサイトにアクセスすると、トップページに「よろこびを化学する」というコーポレート・スローガンが表示される。悪い冗談かと苦笑するしかない。

帰宅後、書斎の本棚から彼の写真集を引っぱりだした。映画を思い出しつつ、モノクロの数々の写真にしばし見入ってしまった。 


ーーーーー
* その写真は1998年から新たな著作物への使用が認められていなかったのが、今年新たな写真集で使用が認められた。https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/634576

以下の西日本新聞の記事参照
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/451786/
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/451978/
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/452161/
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/452445/
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/452733/

2021年9月22日

神話と歴史の境界

現在行われている自民党総裁選に私は関係ない。総裁選で投票できるのは日本国民の1%。

そう、われわれのほとんどは蚊帳の外の "We are 99%" である。アメリカの大統領選挙のような首相公選制がわが国でも本気で議論されるべきだが、ここではそれは置いておく。

僕は自民党の4人の候補が総裁になるために何を主張しようが気にしないことにしている。99%のわれわれには関係ないからね。関係があるのは、実際に総理大臣になった議員がその後何をやるかだけ。

だが、高市早苗議員が天皇家の皇位継承策について「126代続いた男系の血統は天皇陛下の権威と正統性の源であり、多くの国民の誇りと敬愛の情の源。私は男系維持で、その中でも旧ご皇族の皇籍復帰を希望いたしております」と訴えたことは聞き流せない。

天皇制を支持しようがどうしようが、それは個人の価値観。ただ、歴史と作り話(神話)の区別がつかないような人物が日本のリーダーになってはいけない。

高市が言う126代とは、初代の神武天皇から数えた歴代の天皇を言っているのだろうが、これは事実ではなく作り話である。

初代の神武から第15代の天皇と言われている応神天皇までは、実在したかどうか分かっていない。存在が確認されているのは、第16代とされている仁徳天皇以降である。

もし初代天皇から存在したと国が主張するなら、天皇墓とされている各地の古墳を考古学者に公開し、きちんと発掘させて歴史的な事実を明らかにすればいい。しかし宮内庁は調査を絶対に認めない。

そもそも紀元前7世紀から始まるとされる神武、綏靖(すいぜい)、安寧(あんねい)、懿徳(いとく)・・・と続く代々の天皇に漢字名がついているのはおかしな事である。

日本に漢字が伝えられたのは、3世紀終わり頃のこと。漢字文字が日本に伝わる1000年も前、どうやってそれらに漢字の名前がつけられたのか? 誰が考えたっておかしいことが分かるだろう。

実はこれらは江戸後期になって水戸藩が雇った中国人学者である朱舜水が徳川光圀から『大日本史』の編纂を依頼されて「整えた」もの。だから、綏靖、懿徳なんていう日本人には誰も読めないし使えない漢字が使われている。

つまり、126代というのは事実ではない。以前のこのブログで歴史(ヒストリー)と物語(ストーリー)の線引きの曖昧さについて書いたが、そのまさに典型のひとつ。

神武天皇が天照大神の子孫であると『古事記』『日本書紀』で記されているが、それらは当時の朝廷が自分らの権威を既成事実化するために作った「物語」なんだから何をか言わんやだろう。

神話と歴史の区別がつかない人は、特徴として自分が信じたいことだけを信じるようなところがある。そうしたタイプが元総理大臣に何人もいたが、もう結構、こりごりである。

2021年9月16日

私の個人情報は高い、という訳ではないが

「フォーラム」と称するものへの案内メールがたくさん来る。主催は新聞社やリサーチ会社、コンサル会社、IT企業などさまざまだ。

ほぼ全てスルーだが、ごくたまにちょっと気になるスピーカーがいたりして、予定が合うかどうか分からないが、まずは参加申込みだけでもしておこうと思うことがある。

ただ詳細を読んでみて思うのは、フォーラムと称しておきながら、まったくフォーラムらしくないものばかり。Forumとは、本来は公開討論会、討論の機会、討論の場の意味。つまり双方性の高い議論の場である。だが、開催要項に書かれているのは、完全な一方通行のプレゼンか説明である。

しかも申込時に記入を求められるのは、なぜここまで書かせるのかと頭をひねる質問事項だ。名前とメールアドレスに加えて、生年月日、性別、現住所、勤務先名、所属部署名、連絡先電話番号、携帯の番号、これらの欄がすべて<必須>となっている。

開催内容からはどう考えても郵便物を送ってくることはないし、電話でやり取りする必要もない。だから本来は、名前とメールアドレスだけで事足りるはず。

そうした主催企業の意図は、ただこちらの個人情報を「可能な限り」集めたいということだけ。一応、個人情報に関してのきまりのようなものは参照できるようにしているが、ほとんどの人は読まない。

こうした個人情報泥棒にまともに付き合う必要はないので、適当にアバターを作る。フリーメールのアドレスを追加で作成し、なりすまし用のいい加減なプロフィールをつくったうえでメールの転送設定をする。

面倒臭そうに聞こえるだろうが、慣れれば数分とかからないし、こうした別人格を何人かもっておくと他のサイトや企業相手にも使えるからね。

相手がどう感じるかよく考えて、合理的で節度のある態度でこちらに質問してくれば、それなりにちゃんと回答してやるのだけど仕方ない。

2021年9月14日

無力感

自民党総裁選が熱を帯びてきたようだ。これで日本の首相が決まる。

報道では、その現状とゆくえが第一に取り上げられている。だが実質的には、そうしたニューズ・バリューはない。

どうせ投票できるのは、自民党議員と自民党員だけ。一般の市民は完全に蚊帳の外だ。

それに候補者は、どれも似たようなもの。自殺した元財務省職員の赤木さんが関わされた公文書改ざんの実状を明らかにしようと考えるものはいないし、モリカケ問題と言われている森友学園、加計学園の開学認可に関する疑惑を再調査しようと考える候補もいない。だから、どの候補も五十歩百歩だ。

それらのなかから総裁を選ぶ自民党議員の最大の関心は、次の選挙で自分が当選できるかどうかだけだろう。それと、誰にくっつくことでより大きな権力を得られるかだけ。

まだ今は小康状態だが、これからの日本は間違いなく長期的にとんでもない状況に陥るのは明らかなのに、それに向けた議論が政府からもメディアからも出てはこない。

自らの決定権がまったく及ばないところで、自分の国にそれなりの影響を与えることがきまってしまうことに無力感のようなものを感じるいたたまれなさ。

2021年9月10日

27歳のチーフ・デジタル・オフィサー

来年度の国の予算策定に向けた概算請求の総額は、111兆円を超えた。またまた膨大な額の国債を発行してまかなうのだろう。

特に要求金額が大きいのが、9月1日に発足したばかりのデジタル庁。その要求額は5,426億円にのぼるが、なんてことはない、各省庁内の情報システムの整備と運用費用がその98%を占めるという。


役所同士がデータをやり取りできるようにするのだろう。紙をデジタルデータにし、ハンコを不要にし、どの省庁内からでもデータの検索ができるように・・・なんてことを計画している。業務効率は上がるが、そこには戦略性は感じられない。

総務省は、マイナンバーカードの普及と促進に1,230億円を要求している。金がいるのも分かるが、普及と促進に一番必要なのは知恵と工夫だ。

これらはすべて国民の税金。

先日、デジタル庁の事務方トップに72歳の女性(元大学教授)が就いた。高齢だからだめだとは言わないが、彼女が自分のサイトで商用イラストを無断利用していたと報じられた記事を読むと、そうした感覚の人でほんとに大丈夫かなと思う。

2012年、僕がニューヨークのコロンビア大学で在外研究をしてた時のこと。マイケル・ブルームバーグ市長(当時)によって、ニューヨーク市の初代CDO(チーフ・デジタル・オフィサー)が任命された。当時27歳の女性、レイチェル・スターンだった。


その後、彼女はニューヨーク市での仕事を評価され、3年後の2015年にはニューヨーク州のクオモ知事に乞われて州政府のCDOに就任した。

27歳と72歳。彼我のなんと大きな違いだろう。本人の問題というより、任命した人間(役人)のセンスの問題ともいえる。72歳の元大学教授、さてこれから1年もつかどうか。


2021年9月7日

五輪が終わった。余韻などない。

五輪は終わった。国民生活のレベルで語るならば、この時期にやる必要性はなかったのにやっちまった五輪である。

「安全安心」という言葉が何百回と念仏のように唱えられただけで、総理大臣も五輪担当相も組織委員会の責任者も、最後までそれが何かを誰もきちんと説明しないままにだった。

成田に到着する選手団や五輪関係者だけでなく、各国からのメディアへのコントロールはほとんど利かなかったと聞いた。現場にいるのはアルバイトやボランティアの人たちばかりで、正規の担当者は姿を見せないのだからそうなって当然の様相だったらしい。だからクラスターが発生したのも当然の成り行きである。

「復興五輪」とか「新型コロナに人類が打ち勝った証」とか、今にして思えば見え透いたウソで固められたオリンピックとして人々の記憶に残ることだろう。

いずれにせよ、今回のオリンピックがどうだっかかなんて、今後話にのぼるのは日本だけだ。もちろん、全体の予算や当初の目的がどう達成できたのかなどについては、ちゃんと総括をやってもらわなくては困る。

でも外国は状況がまったく違う。例えばパリではメディアや人々の口にも9月6日以降は東京五輪の話などまったく出なくなった。オリンピック・パラリンピックと云えば、パリ2024なのだ。他国も似たようなものだろう。

観客を入れずに試合が行われた数々の新設施設はこれからも残る。

2021年9月6日

ジャパニーズ・タリバン

先日、東京オリンピックの開会式に絡めてLGBTQのことを書いたら、知り合いからLGBT理解促進法案の提出が、この5月に自民党によって見送られていたことを知っているかと聞かれた。
https://tatsukimura.blogspot.com/2021/08/blog-post_11.html

調べて見ると、その法案は足かけ5年かけて議論されてきたにもかかわらず、自民党内で意見の統一が見られず提出が見送られてたものだ。

7月下旬から始まった東京オリンピックは、そのオリンピック憲章で性的指向による差別を明らかに否定している。また、同性婚やそれに準ずる法制度が国のレベルで整ってないのはG7の国の中で日本だけである。

全体の話のつじつまが合っていない。 

この法案の最終的な取扱いは、最終的に二階ら自民党の党三役の判断に一任されたとあった。それじゃあ絶望的だ。

結局、日本は性的指向による差別が法的に規制されていない、つまり差別が認められている国家の1つということになる。タリバン支配のアフガニスタンと同じだ。

2021年9月5日

この国のこれから

こんなニュースを目にした。

同じ神奈川県選出で信頼する麻生派の河野太郎行政改革担当相を要職に起用できないか―。だが、麻生氏は声を荒らげた。「おまえと一緒に、河野の将来まで沈めるわけにいかねえだろ」(西日本新聞 9月4日配信)

2日夜、菅首相が党役員人事に関して麻生副総理と話したときのやり取りだ。この記事の通りなら、一体どちらが総理大臣で、どちらが副総理か分からない。これはガバナンス上の大問題である。

もし国に万が一のことがあって最高意思決定者の総理大臣に重大な判断が求められても、こんな状況では速やかかつ適切な意思決定ができるのか。

いつ首都圏直下型の大地震なんかがが起こっても不思議ではないなかで、どうかしちゃってるね、この国は。

戦後70数年。敗戦後の混沌の中からの復興への意欲とその後の人口増加をもとに少なくとも経済的には成長してきたこの国は、今やもう完全にガス欠である。より良くなろうと高みを目指す貪欲な意欲はなく、足下の日々の些事に一喜一憂している。つまり、目的も資源も戦略も意欲もない。

今日、パラリンピックは閉幕する予定。この13日間、スーパーマン、スーパーウーマンとしか言いようのないような選手たちのパフォーマンスに目を見張った。

だが、これで祭りは終わり。これから日本の長い長い落日が始まるのだろうーー。

2021年9月4日

歴史とは、そもそもが物語

唐辛子味のとっても辛い「暴君ハバネロ」(東ハト)というお菓子がある。

その商品名は、ローマ皇帝の暴君ネロから取っているのだろうが、ネロは実際に暴君だったのか。

今、ロンドンの大英博物館で「Nero: the man behind the myth」(ネロ:俗説に隠れた男)という展示会が開催されている。さまざまな出土品をもとに、ネロが実際はどういった皇帝だったかに想像力が刺激される。

https://www.britishmuseum.org/exhibitions/nero-man-behind-myth

第5世ローマ皇帝ネロというと、稀代の暴君として歴史にその名が残っている。ただ、彼のもともとの胸像や碑文は死後に削り取られ、多くの痕跡は消されている。ネロが今日暴君とされているもとになったのは、歴史家のタキトゥスらの著作に残された記述である。

ところが、ローマのコロッセオに隣接する地から掘り起こされ、復元がなされている当時の遺跡からはネロがきわめて有能な君主だった多くの証拠が見つかっているという。

また、ベスビオ火山の噴火で埋没してしてしまったポンペイの遺跡からは、その地を訪れたことがあるネロについての落書きが見つかっていて、そこには市民がネロを称える多くの言葉が書き残されていた。

ネロがとんでもない暴君だったとして挙げられる理由に、キリスト教徒への激しい弾圧がある。また、彼は市民からの受けはよかった一方で、元老院との関係が良くなかった。

先に書いたように、彼に関する碑文などは削られ消されてしまっているが、残っている他の記録によればネロの死後には丁重な葬儀が行われ、墓前には花が途切れることなく市民から手向けられていたという。

もし、ネロが当時の誰もが認める暴君であれば、葬儀などなされなかっただろうし、絶えず花が供えられることもなかったのではないか。

ネロの公式な評価は歴史家タキトゥスの著作によるものだが、タキトゥスはネロの存在を苦々しく思っていた元老院議員のひとりだったし、その後ローマの歴史を書き残してきたのは、のちにローマの国教として認められたキリスト教徒だった。

キリスト教を公認したコンスタンティヌス大帝は聖人として歴史に刻まれているが、実は自分の長男と2番目の妻、義父を殺害したような男だった。

ネロが非道な暴君で、コンスタンティヌスは聖人というのは一体どういうことだろうか。想像するに、ネロに関しては後にフェイクニュースが作られ、それが唯一の歴史になってこれまで残ってきた可能性があるということだ。

英語のHistory(歴史)は、His story(彼、つまり時の権力者の物語)だと言われる。ギリシャ語では、「歴史」も「物語」も 同じ ιστορία(イストリア)である。さすがはソクラテスを生んだ国だけあり、ギリシャ人はそのあたりをよく分かってる。

そういえば、我々が学校で教えられてきた「歴史」のなかにも、冷静に考えてみるとありえない話がたくさんある。

2021年8月31日

3時間のドライブだった

入り口でチケット買い、そこに記された3番シネマに向かう。扉のところでチケット確認をしているスタッフに、CMと予告編は何分かを訊ねると「この映画は、1分です」と彼女。

時計を見ると、予定の開演時刻ちょうど。これから予告編が始まり、1分後には本編の上映がスタートする。どうせ本編上映まで十数分あるだろうから、トイレで手をゆっくり洗ってから席に着きたいと思っていたのだが、そうはいかないようでそのまま席につくことにした。

映画「ドライブ・マイ・カー」は、村上春樹の短編集『女のいない男たち』を原作にした映画。
 

映画の中で、チェーホフの「ワーニャ伯父さん」が劇中劇として登場する。ただの劇中劇として演じられるだけではなく、そのためのキャスティングから始まり、本読み、稽古、そして最後は劇場での舞台公演までが映画の中に登場する。舞台が作られていくプロセスが、この映画と併走する。

西島秀俊が演じる主人公の家福は、演出家で役者。彼は広島のある劇場から招かれ、演劇祭のためにこの芝居を作ることを依頼されている。

もう一人の主人公は、クルマで彼の送迎を担当することになった小柄な若い女性のプロドライバー、みさき。

いや、この映画にはもうひとつの主人公がいた。みさきが運転し、2人が移動に使う赤いサーブ900である。村上の原作では黄色いサーブ900になっているが、映画では赤いボディカラーで正解だったね。

この車は家福が15年乗り続けている車なのだが、芝居の製作中にもし事故があったらいけないという演劇祭の主催者の意向で、みさきが送り迎えを運転するのだ。

窓が大きく、「これぞクルマ」といった、いかにもオーソドックスなスタイルのこの車が映画にとてもよく似合ってた。

映画の終盤、家福はみさきの運転するサーブ900で、彼女が生まれ育った北海道の小さな町まで夜を徹した長距離のドライブをすることになる。

それは、2人がそれぞれに抱えてきた過去を振り返るとともに、そこにある種の諦めをも感じさせる、しかし未来へと続く価値を見いだす旅でもあった。赤いサーブ900は、その2人の再生を見届ける証人のようだ。

映画の中で「ワーニャ伯父さん」の舞台を作っていく家福。亡き妻との関係から自分を見つめ直さざるをえなくなる家福と、これまた捨てられない過去を心に潜めたみさきの2人が、まるで「ワーニャ伯父さん」の主人公たち、ワーニャとその姪のソーニャのように思えてくる。

上映が終わり、腕時計を見たら3時間が経っていた。後で調べたら、この作品の上映時間は179分とあった。つまり、上映前の予告編1分と合わせてちょうど3時間の、発見のドライブだったわけだ。

2021年8月30日

キャスターやるなら、ニュースとは何かよく考えた方がいい

8月30日、TBSの夜のニュース番組「ニュース23」に同局の国山ハセンというアナウンサーが、小川彩佳キャスターのサブとして登場した。

番組が始まっての第一声、彼の「国山ハセンです。みなさんに少しでもお役に立つニュースをご紹介していきたいと思っています」という自己紹介でスタートした。

おいおい、と思ったのは僕だけではないはず。頼むから「役に立つ」かどうかでニュースについて考えたり、選んだりしないでくれ。

視聴者はそうしたことを期待して、最近のタリバンによるアフガニスタン新政府発足に関するニュースに関心を向けているのではない。 

ニュース番組は、バラエティや情報番組とは違うはずだろう。えっ、今はもうそうじゃないのか。

2021年8月29日

日本の選挙は、車椅子ラグビーに倣うべし

この数日、車椅子ラグビーを見ている。

(一般社団法人)日本車いすラグビー連盟のサイトから

車椅子ラグビーには、男女別がない。一方、同じ車椅子によるコートでの団体競技でもバスケットボールは男性と女性で競技が分かれている。

コート上には各チームから4名ずつ、試合中は合計8名の選手が車椅子を器用に扱いながら走り回る。

ラグビーと言っても、元のラグビーとはルールはかなり異なる。ボールを前に投げてもいいし、当然キックはない。ボールを相手陣営のゴールに持ち込めば得点になる。ボールを運んでいる時は、10秒以内にドリブルかパスをしなければならない。

競技で忘れてはならないのは、厳密なポイント制度があること。選手たちは、それぞれの障がい度合によってポイントが決められていて、障がい度合が最も重いクラスは0.5点、最も軽いクラスは3.5点がつく。0.5点きざみになっている。

コート上に出ている4名の構成は、そのポイントの合計が8点以内でなければならない(女性選手が出場している場合は、1人あたり0.5点の追加ポイントが認められる)。https://jwrf.jp/about/ 

ゲームの公平さを担保するためである。このベースにある考え方は重要であり、他にも応用できる。

たとえば国会議員の選挙だ。まもなく衆院総選挙が行われるが、その際に立候補資格、あるいは得票数の換算にポイント制を導入するとかできると思う。

よく選挙ではジバン(地盤=支持者のいる地域)、カンバン(看板=知名度)、カバン(鞄=選挙資金)が必須と言われる。言い方を変えれば、ポッと出のボンクラ候補でも、これらがあれば当選できる確率は高い。

親が、そしてそのまた親が国会議員をやっていたケースだ。二世議員、三世議員と言われる世襲議員。

下記のサイトは、日本の政治家にいかに二世、三世(あるいは四世)が大量にいるかを示している。データは古いけど、今も状況は変わってない。
http://www.notnet.jp/data02index.htm

政治が、まるで歌舞伎や狂言のような伝統芸能と同様に世襲化している。

そこで選挙にあたっては、親が国会議員だった場合は●ポイント、じいさんがそうだった場合は■ポイント、曾じいさんは▲ポイント、またそれらが大臣経験者であった場合はポイントを2倍、そして首相経験者は3倍で計算する。

そして、選挙での候補者の得票数とそれらのポイントの逆数を掛けたものを「有効得票数」として認めることにする。

こうでもしなければ、世襲議員は選挙戦の必勝ツールであるジバン、カンバン、カバンを最初から握って選挙に出るんだから、公平公正な結果になるわけない。

2021年8月28日

映画館は、ネットフリックスから学べ

徒歩圏には映画館はないが、2駅先にはシネコンがある。4駅先にもシネコンがあり、5駅行けばさらに3館ある。新作映画は、これらの劇場でほぼカバーできる。

それはいいのだが、劇場で映画の本編上映前につまらないCMや映画の予告編を流すのは、そろそろ止めてくれないものか。その時間、13分から15分。結構長い。

入場料を払っているのに半ば強制的にCMを視聴させられるのは不愉快だし、新作の予告編は客が興味があれば自分でネットを探して見ることができる。

劇場に足を運んだ客がそうしたものを見せられどう感じているか、調査したことあるのだろうか。映画の興行会社は、少しは客の立場になって自分たちのサービスを振り返ったほうがいい。

ネットフリックスが、視聴者を惹きつけるためのマーケティングをどれだけ懸命にやっているかを少し真面目に学んだらどうだ。このままだと、じきに手遅れになってしまうぞ。

2021年8月27日

語り尽くせないホロコーストの事実

第二次世界大戦中、ナチスドイツが組織的に行ったホロコースト(ユダヤ人の大量虐殺)の犠牲者は600万人に上るといわれている。

なかでもポーランド南部にあった「アウシュビッツ強制収容所」にはユダヤ人、政治犯、ロマ・シンティ(ジプシー)、精神障害者、身体障害者、同性愛者、捕虜、聖職者などが収容され110万人が虐殺された。

アウシュビッツには一度に2,000人が入れられたという4つの巨大なガス室があって、ユダヤ人たちはそこで10人のうち9人、全体で100万人以上が殺されたとされる。

第二次大戦中は、アウシュビッツでそうした虐殺が行われていたことはナチスによって厳重かつ巧妙に隠匿され、明らかになっていなかったことを映画『アウシュビッツ・レポート』で知った。

 
映画は事実がベースになっている。主人公は2人のユダヤ系スロバキア人。彼らは1942年に強制収容所に入れられ、44年4月10日に実際にアウシュビッツを脱走した。「中」で何か行われているのかを外に知らせるため、十数日かけて命を削りながら逃げていく姿が凄まじい。

その2人、ヴルバとヴェツラーは、収容所の内実を伝える32ページのレポートを作成した。後にアウシュビッツ・レポートとして連合軍に報告されることになるこのレポートには、収容所のレイアウトやガス室に関する詳細などが描かれていた。

収容者に送られた人たちは一列に並ばされ、最初に「右!」「左!」とナチの担当者によって2分される。一方は、病弱な人、妊婦、子どもなど、その場で殺される一群。肉体労働に耐えられる男たちは重労働を強いられた後、ガス室で殺されることになる。

ナチスドイツの連中はよくこんなこと考えるなというような様々な手段で、収容者は極限まで痛めつけられる。肉体的にはもちろん、精神的にも人間がボロボロになるまで追い詰める。

収容された人たちが山中で頭だけ出して地中に埋められ(これって、自分でその穴を掘らされたんだろう)、ナチスの伍長がそれをスイカ割りをするごとく棒でめった打ちにするシーンには背筋が凍る戦慄を覚えた。

所持品はすべて奪われ、丸裸で殺され、そのままゴミのように積まれて放置されている無数の亡骸の山が方々にある。地獄絵だ。

これが歴史的事実として認識されているアウシュビッツに関する出来事である。

ナチスドイツによるこれらの行為は、語り尽くすことができない。もうこれで十分というところには、たぶん永遠に行き着くことはないだろう。 

だから今回、東京オリンピックでその開会式の前日だったにもかかわらず、予定されていたショーディレクターの小林賢太郎がホロコーストをお笑いネタにしていた過去の行いから解任されたのは当然の判断だった。

もし彼を解任せず、オリンピックが始まったあとにその事が明らかになった場合、IOCとJOCに厳しい批判が寄せられただろうことは想像に難くない。

この解任の件で記者会見に臨んだ組織委員会の橋本聖子会長は「これは外交上の問題もあると思っている。早急に対応しないといけないと解任の運びになった」と理由を説明したが、理解しておかなければならないのは、これは「外交上の問題」ではなく「倫理人道上の問題」であるということ。

そういえば、以前、麻生太郎副総理が「(改憲のために)ナチスの手法を学べばどうか」と語ったことで各方面から顰蹙を買った。なぜ解任されなかったのだろう? 不思議だ。

2021年8月26日

パラリンピックはいいね

24日のパラリンピックの開会式は、オリンピックのそれより格段によかった。

オリンピックの開会式はといえば、とにかくまとまりがなく、何を伝えたいのか分からなかった。そのコンセプトは「United by Emotion」だったとか。意味がわからない。

担当プロデューサーいわく、「世界へ向けたメッセージで、あえて和訳はつくっていない」。確かに恥ずかしくて日本語にできないよね。

例えば、唐突に海老蔵の踊りがショーに挿入されていたが、違和感しかなかった。荒事の演目を上原ひろみのピアノに合わせて演じ、途中で見得を切ってみせていたが、外連味が過ぎていて自己撞着してることに気づいていない。

それに比べて、パラリンピックの開会式はよかったよ。テーマがシンプルで、統一感が保たれていて分かりやすかった。

昨日は14歳のスイマー、山田美幸さんが競泳で銀メダルを取った。彼女は生まれつき両腕がなく、足にも障害がある。

腕がないので、足だけで泳ぐ。その力強い、彼女だけの独特の泳ぎ方はとてもクリエイティブだ。

そして何にも増して、両腕がなく身長も小さい彼女がそもそもプールに入りたい、泳ぎたいと思い、それを続けてきたことに驚かされる。半端な勇気じゃできないもの。

2021年8月25日

転がる石が、その動きを止めるとき

ローリング・ストーンズのチャーリー・ワッツが、8月24日に亡くなった。80歳。彼は50年以上にわたってストーンズの音楽を支えてきた。

ブルース・スプリングスティーンによれば、「ミックの声とキースのギター、それらに引けを取ることなくチャーリーのスネア・ドラムこそがストーンズの音だった」。

ロックバンドのドラマーは、華やかで重要なポジションだ。その音量もそうだし、ステージでは視覚的にも目立つ。曲の全体を通じてドラムは音を奏で、バンド全体を支える。だからか、髪を振り乱し、暴れ回って演奏するロック・ドラマーはたくさんいる。

チャーリーは違った。淡々とやる。かっちりと仕事をする。だからこそ、その前でミックもキースも自由にやれた。

チャーリーのドラミングの特徴に、リズムをわずかに後ろにずらす奏法がある。それがバンド全体の独特のリズム感やうねる感覚を作り出した。ソフトウェアのプログラムではできない、チャーリーのものだった。

バンドは不思議な生き物のようなものである。単なるパーツ(メンバー)の寄せ集めではない。

フレディ・マーキュリーが亡くなった後、フリーやバッド・カンパニーで活躍したポール・ロジャーズがクイーンのボーカリストとして一時参加したが、やはり「違った」。

ポール・ロジャーズが稀代のスーパー・ロック・ボーカリストであることは疑う余地がない。(僕も大好き)。だが、違ったのだ。

同様に、チャーリーなきストーンズは、もう転がり続けることはないだろう。

Amazonには、今から30年前に僕が日本に紹介した、フィリップ・ノーマンによるストーンズの本『ローリング・ストーンズ―その栄光と軌跡』(原題 The Life and Good Times of The Rolling Stones)がまだ売られていた。懐かしい。