ジョージタウン(マレーシア・ペナン島) |
入り江に向かって突き出た桟橋にかかった5つの赤い提灯。日本の鳥居のようなものだろうか。
桟橋の先には、マラッカ海峡の静かな海がひろがっていた。
俳優の山口崇さんが亡くなった。山口さんと言えば平賀源内である。安田顕扮する源内も悪くないが、やはり山口さんである。
ところで、「べらぼう」のなかで蔦屋重三郎は蔦重(つたじゅう)と呼ばれているが、であれば、平賀源内は平源(ひらげん)であろう。
4月13日、大阪で万博が始まった。その2日後、4月15日付の日経新聞で「万博、経済効果3兆円 訪日客が消費押し上げ」という見出しの記事があった。
そこでは、えらく景気がいい話が踊っていた。関西万博は予想来場者数が2800万人(おかしな予想はよそうよ)で経済効果が2.9兆円。来場者一人あたりにすると、10万4千円となる。経済産業省が作った数字である。
20年の前の愛知万博は、来場者一人当たり12万7千円と試算している。こちらは博覧会協会自体が作った数字。博覧会協会によれば、広域のインフラ整備なども含めれば、その経済効果は7.7兆円に上ったと試算しているので、来場一人当たり35万円の経済効果だとか。
その記事のなか、大阪府のアルバイトとパートの平均時給が東京を上回る伸び率を示しているので「すでに効果が出始めている」としているが、それは経済効果というより、ただの短期的な需給逼迫だろう。
また4月5日の同紙でも関西万博の経済効果についての記事が掲載されていた。そこでは経産省が産業連関表を用いて推定した、大阪・関西万博の経済効果2.9兆円の内訳を示していた。
しかも万博はまだ開幕したばかりだ。(3)の数字はあくまで「こうなったらいいなあ」という希望的観測値と考えるべきなのだが、それにもまして国民の視点からはヘンだと思ってしまうのが、土地の取得やパビリオンや各種会場内の施設・設備の建設にかかる費用、各種の運営費用が「経済効果」とされていることだ。
つまり、それらの費用がかさめばかさむほど、「経済効果」の数字は大きくなる。
例えば今回の万博の会場建設費は、当初予算では1250億円だった。それが途中で1850億円に修正され、最終的に2350億円と言われている。増加した建設費の補填をどこが負担するか、どう按分するかまだはっきりしていないが、われわれ国民の税金がそこに投入されるのは明らかだ。
そうした杜撰な予算作成もふくめ、費用が増せば増すほど、「経済効果」の数字は大きくなるなんて、そんなアホな、であろう。だが計算上はそうなのだ。
そもそも産業連関表が誤って用いられているのではないかーー。以前スタンフォード大で教えていて、今は東大の教授を務める経済学者の星岳雄さんは、先の記事の3日前の4月2日に同紙上で「経済波及効果の計算 産業連関表の誤用やめよ」と指摘している。
大阪・関西万博がもうすぐ開幕する。その経済波及効果は2兆円とも3兆円とも計算されているが、そのような大きな効果は実現しないだろう。計算の前提となる入場者数の予想などが外れるからではない。経済波及効果の計算方法そのものが間違っているからだ。
(中略)産業連関表を使った経済波及効果の計算は意味がない。さらに計算から導かれたありもしない経済効果が政策を正当化するように使われれば有害ですらある。様々な省庁で政策の経済波及効果を計算することが増えているようだが、無意味な計算はやめるべきである。政策がその政策目的を達成するために効果的かどうかの分析に集中すべきだ。(29面)
万博のような立地型建設物主導イベントは、土建屋に支払う費用が増せば増すほど「経済効果」があがると計算され、しかも全体を通じて「効果」にしか目が行っていない。
今回のように、大阪での万博会場建設のために建設資材も人手もそちらに取られてしまったため、地震被災地の能登地域の災害復旧に人も物も回らなくなってしまった「負の効果」のようなものは完全にネグられているのも気になるところだ。
今回の万博開催にとどまらず、先のオリンピックや日本各地での地域開発、インバウンド推進計画などの理由付けとして語られる「期待される経済効果」は、行政によるムダ使いを誤魔化すための言い訳である。
「経済効果」という耳障りのよい言葉に惑わされず、数字の実態とその背景にある国や政党、特定団体の思わくにしっかり目を向ける必要がある。
比較分析は、研究法の基本中の基本である。だから正しく行わなければならない。
先日、このブログで僕が食する場合のご飯一杯の値段を示した。
今日のNHKのニュースが同様のデータを示していた。「三菱総合研究所調べ」とかなんとか言っていたが、小学生でも調べられるだろうに。無駄にもったい付けてて笑える。
比較を行う際にやってはいけない典型例がこうしたものである。というのは、ここではごはん茶碗一杯分と6枚切り食パン1枚を等価と考えているが、その根拠が分からないから。
カロリーが違えば、質量も違う、食べ方も違う。茶碗一杯のご飯と6枚切り食パン1枚を代替可能としている理由が分からない。ご飯は朝でも夜でも食べるが、食パンは朝食べる事があっても夜食べることは通常ない。
食パンを食べるときに、普通、バターとかジャムとかはちみつなどを塗って食べる人が多いのではないか。それらスプレッドの類のコストは無視されているのも気になる。
そもそも大人の男が6枚切り食パン1枚で食事を済ますだろうか。番組では米飯が高くなったと言いたいのだろうけど、食パン2枚と比較したら、いまもそっちの方が高いことは一目瞭然。
こんな恣意的な(ばかばかしい)比較はやってはいけない、という見本である。
米の小売価格が上がり、「高い高い」という声がテレビなどから聞こえてくる。街の声として「おいしいお米を安く食べたいのに」と訴える主婦などの声が。
だけどね、おいしいものは高いのだよ。当たり前じゃないのか。それは米だけでなく、肉だって野菜だって魚だってそうだろう。それなのに、米だけがおいしくて、しかも安くて当然という考えがおかしい。
小売店で米が2キロいくらとか、5キロいくらでどれだけ値上がりしたかが取りだたされているが、あらためて言うが、そんなに高いだろうか。
以前から買っているあるブランド米は、これまでと同じ店舗で5キロで1000円ほど値上がりした。試しに自分が食しているのが、一食分でいくらほどか計算してみたら100円ほどだった。1日2食の生活をしているのを割り引けば、普通の食生活ではもっと安い計算になる。
安いもんだと思うヨ。外国から日本に帰ってきて、自宅でご飯を炊いて食べるとその旨さに感激する。アジアの各国にいたときは現地で炊かれたライスを普通に食べていたが、それに比べて日本のご飯は格段においしいと思う。
ただ、もっとバリエーションはあってもいいかもしれない。多少味や香りが劣っても価格が安い品種などだ。肉や魚、その他のほとんどの食品に高価な物から廉価なものまであるように、米にももっと価格差が欲しい。
農水省が長年にわたって作付面積を減らすように仕向けてきた政策は、いい加減方向転換が必要だろう。穫れすぎると価格が下がるから、という理屈だが、穫れすぎた分は海外に輸出したり、人の食料以外の用途(酒や麺などの加工食など)に用いればいい。頭をちょっと使えば解決できる類のことばかりだ。
あとはJA全中が自分たちのあり方を見直すとともに、農業(米作)を志す人たちの扉を閉ざすようなことは止めること。自民党の票田として異常に保護され、政策によって改革が遅れに遅れた分野である。この機会に、そろそろ解き放ってもらいたい。
先日、日経のニュースで「デジタル赤字、訪日客で取り返す」という見出しの記事があった。インバウンド(訪日外国人観光客)の増加による収支の黒字拡大のおかげで、デジタル赤字が相殺されるまでになったというのだ。
新型コロナウイルス禍後の訪日客の回復を受け、24年10月以降の旅行収支は6,000億円(月額)前後の黒字で推移しているという。一方、2024年のデジタル赤字は約6.6兆円(財務省データ)だから、確かに数字を比べればその通りだ。
だが、だからといって安心するのは間違っている。訪日外国人が日本国内で消費するもの、たとえば宿泊、飲食、ショッピング、移動に使う支払いと、日本人のクラウドサービスやNetflixなどのストリーミング・エンターテイメントに対する支払いは性格が異なる。
違いはいろいろあるが、ここではその最大のものとして社会的費用を指摘しておく。われわれが毎月クレジットカードから課金される米IT企業への支払いは、そのまま限界利益として彼らの収入になる。すべて実体のない、デジタル上の取引だからだ。
ところが、観光客には実体がある。当たり前だ。だからその出と入りを上手くコントロールしないとオーバーツーリズムをはじめとする各種問題が発生する。たとえば、観光地で住民の人たちが日常の足として使っているバスからはじき出されたり、周辺にゴミを散らかされたり、深夜に騒音に悩まされたり、場合によっては物理的な被害(破壊や犯罪)にあうことすらある。
こうした観光地を中心とした数々の生活環境の悪化、住民らのストレスの増大をどう見るか。インバウンドによる国の収支を語るとき、こうした社会的コストは計算に入れられていない。訪日外国人観光客数の増加を無邪気に喜ぶだけでは、社会の中にひずみが増していっているだけだ。
このままでは間違いなく、「冗談じゃない、何が観光立国だ」という反発がさらに強まるのは必至だろう。
世界各国で株価が続落している。主な理由はもちろん米国の関税政策だ。トランプは「経済を正常な状態に戻すための『薬』だ」などと言っているが、そんなわけはない。
それにしてもトランプの大統領就任からの世界の株価推移を指数で比較すると、日本(日経225)の値がもっとも落ち込みが激しい。
この理由をどう解釈するか。
トランプ就任以来の株価市場動向
それはそうと、ジェームズ・オースティン・ジョンソンが扮するトランプが各国に課する関税について説明していた。そこでトランプが唱えるのは、MAGDAだ。そう、Make America Great Depression Again である。これは、先週末のS.N.Lでのはなし。
やることなすこと、まるでマンガの世界をそのまま行っている現在のトランプだが、アメリカのコメディ界は怯むことなくやり返そうとしている。
タレントの(元タレントと言うべきか)中居正広の行為にまつわる一連のフジテレビの対応に関して、第三者委員会による調査報告があった。
報告書を読んでいるわけではないが、見聞きしようとしなくても報告書が指摘した内容が方々から飛び込んでくる。
たとえば「喜び組」や「スイートルーム会」といった、みっともないキーワードだ。どちらも、その局の若い女性のアナウンサーが主要なキャストとして関係させられた所業を思い起こさせる。
こうした言葉を使う感覚をもった人たちが運営している放送局があるという情けなさ。免許制によって守られたぬるま湯で全身茹でカエル化した経営者たち、編成局や制作局の幹部社員らのみすぼらしさ。
もう完全に終わっているし、建て直しなど無理だろう。過去に起こしたテラスハウス問題、ジャニー喜多川問題、松本人志問題、これらからフジは何も学んでいないという報告書の指摘は重い。国は放送免許を取り上げて、フジテレビをなくした方がいい。
そもそも日本には、ネットワークを持ったキー局といわれているテレビ局が5局もある(テレビ東京も入れれば)。多過ぎる。アメリカだって、ケーブルニュース局をのぞけばABC、CBS、NBC、FOXの4つしかないんだから。
それはそうと、ここまで歪んだ組織なのに、どうしてこんな会社に入社したがる若者が大勢いるのだろう。入社倍率はウン百倍とか言われていているみたいだ。
実態が外部に知られていないからか、それとも高給や見せかけのステイタス故に実態が分かっていて承知で入社したいのか。
やっぱり、この局ともう一局くらい、この機になくした方がいい。われわれ視聴者は何も困ることがない。
近くのコンビニから雑誌売場が消えた。読みたければ駅近くの書店に行けばよいだけなのだが、これまでよりちょっと面倒になった。
コンビニ本部の判断らしく、店の人も理由は判らないという。売場として儲かっていなかったのか。取次と本部の関係の問題か・・・。
「週刊現代」が、週刊から隔週刊になるらしい。もっとも、すでにもともと週刊だったのが月3回(旬刊)になった他の雑誌もあるし、一昨年は「週刊朝日」が休刊(実質的廃刊)になった。 「週朝」は創刊から101年続いた伝統誌だが、最期の頃の発行部数は8万部を切っていた。
それに比べれば「週刊現代」の現在の部数は、約28万部。かつての勢いはないが、思いのほか健闘しているともいえる。
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昨年10月〜12月の平均印刷部数(一般社団法人日本雑誌協会調べ) |
休刊や廃刊、ウェブへの完全移行が続く雑誌のなかで、地味ながら今もその存在感を変えないものに女性3誌と呼ばれている「女性セブン」「女性自身」「週刊女性」がある。3誌合わせて発行部数60万部以上だ。その根強い人気を感じる。
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昨年10月〜12月の平均印刷部数(一般社団法人日本雑誌協会調べ) |
いつも真面目な好青年だった彼が、なぜ突然そう言ったのかは分からない。女から振られたばかりだったのかもしれない。
その発言、今なら女性蔑視も甚だしいが、正直言うとそれを聞いたぼくは妙に納得してしまった覚えがある。とともに、だからこそ、これらの雑誌は早晩なくなっていくと考えていた。
あれから半世紀。芸能人のゴシップと皇室ネタを中心にするそれら雑誌の特集記事の組まれ方は、ほとんど変わっちゃいない。そして、いまもそれらの雑誌は健在である。つまり、売れ続けている。読まれ続けている。読者の本性を突いているんだろう。
この国の本質(少なくともその半分)は半世紀たっても変わってこなかったことを、その事実が示しているような気がする。
旧統一教会に対して東京地裁から解散命令が出た。旧教会側は抗告するだろうが、判決を翻すことはまずできないだろう。
統一教会が韓国から日本に入って来てすでに60年あまりが過ぎている。岸信介が首相だったときに「関係」ができ、その後それら一派の政治家が資金と選挙支援を受けることでつながり続けてきた。で、国民が洗脳されようが金を搾取されようが知らんぷりだった。
この60年間、被害を負った信者とその家族は増え続けていた。僕が初めてその名を知ったのは、70年代後半の大学キャンパスでだった。半世紀ほど前だ。
宗教はおそろしい。人の心を救いもすれば、傷んだ心のすき間に忍びこんで粘り着き、その人たちや家族を破滅することがある。
長年にわたり多くの悲惨な被害者を出しながら、この団体が栄えてきたのは正体を隠して近づき、人の心の弱みにつけ込んで勧誘し人々を取り込んできたから。そして、宗教活動だからという理由で状況を無視し続けた政治家たちの存在があった。
統一教会は憲法で保障された「信教の自由」を振りかざすが、邪道な勧誘活動で人の心を操作してきた彼らのやり方について、宗教学者の島薗進さんは「信じない自由を脅かすという意味で、信教の自由を侵害している」と語っている。
「信じる自由」が認められ尊重されると同様に、「信じない自由」もまた認められ尊重されなければならないというわけだ。カルト教団を典型に、ある種の宗教団体による不誠実、不正義な勧誘は、なるほどそうした自由を侵しているという観点から許されないのである。
今年15回目になる大倉山ドキュメンタリー映画祭の最初の上映作品は「夢みる小学校」だった。
映画に登場する小学校「きのくに子ども村学園」は、テストも宿題も通知表もない。先生もいない(らしい)。
ちょっとびっくり。でもちゃんとした小学校だ。
いつの間にかこんな学校ができたのではない。自由を最優先に、子どもたちがのびのびと楽しめる場(学校)を作ろうと考え、それを地道に実行した大人がいてできた。
とにかく自由。責任がともなわない、完全な自由だ。責任はオトナが取る。だから、子どもたちは自分が何をやりたいのかをみずから考え、見つけ、頭と体をめいっぱい使って毎日を過ごす。
一方で、それができない子には辛い場所かも知れない。先生からあれをやりなさい、これをやりなさいと言われてやっているほうがよっぽど楽だから。
だから、この学校はすべての子どもたちの場ではない。そうある必要もない。だが、こうした学校がもっとたくさんあってもいい。
映画のなかに「卒業を祝う会」の様子が映し出される。「卒業式」ではないのがいい。卒業式になっちゃうと、先生(学校)が主体となってもの事が決められ、式次第がそこにあって、それに子どもたちが合わせるだけになるから。
体育館に集まった卒業生たち、てんでバラバラに並んでいる。普通だったらクラスごと一列に並ばされるけど、この学校ではそんな集まり方はしない。<前へならえ>で一列に並んだら「前が見えないでしょ」だって。ははは、そのとおりだ。
昨日、今年のセンバツ高校野球の開会式があった。ニュースでその選手入場の風景を見たけど、さっきの小学校とまったく対照的で別の意味で驚かされた。
こちらは全員が丸坊主。ユニフォームに身を固め、ブラスバンドの音楽に合わせてイチニ、イチニと整然と手を振り足を上げて進む。
まるで軍隊の行進だ。
大会を主催している高野連、毎日新聞、後援の朝日新聞など、運営している大人たちは、こうした光景を毎年見てて何も感じないのだろうか。
だとしたら感覚が麻痺してる。
近くの大倉山記念館で映画「生きて、生きて、生きろ。」を見る機会があった。
https://ndn-news.co.jp/dvd/4478/
東日本大震災と東電の福島原発事故に遭遇した人たちの中には、遅発性PTSDと呼ばれる精神疾患に苦しむ人たちが多い。
家族を震災でなくし、自分だけが生き残ったことを許せないと悩む人。転々と移動させられる避難所生活によって心を病んで家族が自殺してしまった人。ふるさとを追われ、それまでの日常を消し去られて急速に痴呆症が発症した配偶者を見守る人。
泣くに泣けない人たちばかりである。いずれもやり場のない無念さに、胸をかきむしられる。
誰だ、原発は安全だから問題ないと言い放ち、放射性廃棄物の処理もままならないのにそれを推し進めた奴は。誰だ、原発の建屋に達するような津波など来ることはないと住民に平然とウソをついた奴は。
自己の利益と保身だけをつねに最優先する連中は、自分たちは安全地帯にいて、アブないもの、汚いものはいつだって貧しい地方に持って行く。人々の働く場所が限られ、財政が乏しく必要なインフラすら整っていないような村を狙い、補助金という餌と甘言で絡め取る。
そして今また、政府は政策方針を転換し、原発の新増設などを言い始めている。
「浜松 袴田巌さんを救う市民の会」から会報No.43が届く。おそらく、これが実質的な最後の会報になるのだろう。
袴田さんの逮捕から58年を経て、昨年9月、静岡地裁において無罪判決が出て、10月にそれが確定した。人生の大半を死刑囚として監獄で過ごした彼の残りの人生が、穏やかで悦びに満ちたものになることを祈るばかりだ。
その袴田さんと並んで冤罪を訴え続けていた石川一雄さんが、3月11日に亡くなった。86歳。
1963年、62年前だから彼が24歳の時、「狭山事件」と呼ばれる殺人事件の犯人だとして無期懲役の判決を受けた。石川さんが被差別部落出身者だったことからの、差別にもとづく冤罪事件との味方が当時から強い。その後、仮出所したあと、無実を訴え続けていた。
弁護団によると、逮捕時の証拠捏造の可能性などが指摘されていて、再審に向けて今も審理が続いていた。
僕が初めて「狭山事件」とその犯人として逮捕された石川さんのことを知ったのは、大学1年の時にキャンパス内で見たビラだった。
その後、半世紀近い時間が流れ、石川さんのことはすっかり忘れていたのだが、今回、彼が亡くなったことを知り、あの冤罪事件がまだ続いていたことを知らされた。
24歳で逮捕され判決を受け、再審を求めて62年間である。裁判所は、なぜこんなに時間をかけるのか。なぜこれほど人の人生をかえりみないまま放置するのか。
石川さんが亡くなり、当時の警察と検察関係者らは胸をなで下ろしているのだろうな。いやな気分だ。
デンマークでは400年続いた書簡サービスが廃止され、今年6月から町中の郵便ポストも順次撤去されることになった。
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BBCのサイトから |
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デンマークでの手紙の取扱量 |
運転免許証にしても健康保険証にしても重くて持ち運びが大変といったものではなく、利用者側の日常のメリットはさほどない。一方で、すべての記録がデジタルで保管できるので為政者側にとってはさまざまなメリットが考えられる。
国民がそうしたこれまでの社会インフラのデジタル化の推進に歩調を合わせられるかは、政府がどれだけ信用されているかにかかっている。その点で翻って日本はどうか、ということに思いが行く。
それはさておき、町中から郵便ポストがなくなり、手紙を書くということが日常からきえていくことは寂しい気がする。電子メールですべてが置き換えられ、やがて手紙を書いたり受け取ったりしていたことすら人は忘れていくのだろうか。
日本でもやがて、と思わせるニュースである。
高校の授業料無償化に関してさまざまな意見が出されているが、この政策は日本の教育をどう変えるかという発想ではなく、選挙目的の「政治化」にすぎないことをわれわれはまず念頭においておかなきゃいけない。
私立高校の授業料無償化について日本経済新聞社が経済学者47人に意見を求めたところ、7割が反対意見を示した。理由は、その政策により私立高校側に授業料を上乗せするインセンティブが働き、それを全国民が負担しなくてはならなくなるから。
「エノミクスパネル」と題したこの意見集約・公表のやり方は、なかなかおもしろい。与えられた問いに対して、経済学者が5段階(強くそう思うー全くそう思わない)で回答するだけでなく、加えてその回答の自信度を5段階で示しているところだ。
それぞれの回答の違いを読み比べることは、非常に参考になる。
ただ、5段階の1(全くそう思わない) あるいは5(強くそう思う)の回答者でありながら、自信度が2とか3なのはなんか情けなくはないかとも思うが。
https://vdata.nikkei.com/economics-panel/education-policy/highschool-tuition-free/2/
日本入国時、納税申告の対象がないにもかかわらず、なぜ税関の申告書を提出しなければならないのか、ということを書いた。
空港の税関吏は、私にたいしてその根拠として関税法第67条をあげた。その条文は「貨物を輸出し、又は輸入しようとする者は、政令で定めるところにより、当該貨物の品名並びに数量及び価格(輸入貨物(特例申告貨物を除く。)については、課税標準となるべき数量及び価格)その他必要な事項を税関長に申告し、貨物につき必要な検査を経て、その許可を受けなければならない」というもの。
なぜか。たとえスーツケースやバッグを持たず、手ぶらであってもである。すなわち、その時は入国時に身につけている物が「輸入物」とみなされるらしい。
服も着ず、靴も履かず、つまり全裸で入国したとしても(実際にありえないが)、日本に入国したということは、その手にはパスポートが握られているはずであり、そのパスポートが「輸入物」となる。 だから、すべての入国者が対象となる、というのが税関職員の説明だった。
なんという拡大解釈! 屁理屈だ。
そうであれば、「貨物を輸出し、又は輸入しようとする者」などと表現せずとも、「すべての入国者」と書けばよいではないか。が、そうはなっていない。
そもそも、いまでは入国時に税関の申告書を提出させる国は世界の中で極めて少数になりつつあり、その点は日本の税関も理解している。にもかかわらず、先述の関税法の解釈にとらわれて利用者視点の運用ができないでいるのが現実である。
先月末、東南アジアの国々を少し回って帰国した。各地のホテルは行く先々でネットで探して予約、フライトもほぼ同様だ。便利な世の中になったものである。地上の移動はGrabを使い、実にスムーズでストレスもなかった。
そうしたホテルや航空会社、Grabなどに共通するのは、サービスを使った後、すぐにお礼メールとサービスへの評価と今後のサービス改善のためのアンケートを依頼してくること。
ところが、それらのなかで一つだけ例外があった。日本までのフライトで利用した日本の航空会社だ。とりわけ今回の利用時、さまざまな点でサービス提供に問題があり、その航空会社に伝えておきたいことが何点かあったにもかかわらず、フライト後にも何のコンタクトもしてこない。
本来、顧客の声を拾わなければサービスの改善も、新たなサービスの開発もできない。
その日本の航空会社は、サービス企業としての意識が絶対的に欠けているように感じた。実際その企業は、ここ数年で明らかにサービス品質が低下しており、これから数字の面での業績低下は避けられなくなるだろう。
昨日、このブログに日本入国時の空港でのことを書いた。その後ふと思ったのだが、ひょっとしたら、黄色い申告書を示しながら僕に「ここの情報が大切なんです」と言った、レーンにいた女性税関職員の言葉が彼らの本音だったのかな、と思ったりして。
繰り返しになるが、申告書には名前や住所、生年月日といったパスポートの持ち主のプロフィールを記すことになっている。もし、偽造された日本人パスポートで日本と外国を行ったり来たりしている人物がいた場合、申告書に書かれた、日本人ではないその人物の手書き文字で不審者を嗅ぎつけることができる、かも。
それが税関の目的か? 分からない。誰か教えてほしい。
日本に再入国するときのこと。
到着した空港で手荷物受取所のカルーセルからバッグをピックアップし、そのまま税関を通り抜けようとしたら、その手前で中華系の職員に「税関申告書」を準備してくださいと止められた(この人員配置は、中国からの訪日客が多いことへの対応だろう)。
私が、申告する物は何もないからと言ったら、全員が書かなくてはいけないと言われ、仕方なく例の黄色い縦長の用紙をもらって記入した。
彼女は、私が渡した税関申告書の表面の上部を指して「ここの情報が大切なんです」と回答した。名前や住所、生年月日、パスポート番号、今回のフライトの出国地などをわれわれが記す部分だ。
だが、誰が入国したかの記録なら、パスポートの情報を入国管理のところで記録してあるはずであり、その説明はおかしい。と伝えて、納得のいく説明をくれるように求めていたら、やり取りを見ていた別の職員が僕の方にやってきた。
そのまま出国ゲート脇の詰め所(のような場所)に案内され、そこの男性職員が今度は税関の申告書を提出するのは法律で決まっているからだという。それはどういった法律かと問うと、「広辞苑」と見紛う分厚い本を持って来た。背表紙に「関税六法」と書いてあり、そこに収められた第六十七条に定められていると私に開いてみせた。
彼が示した条文を読んだが、理屈がオカシイ。
関税法第六十七条とは、以下の通りである。
彼にそう言ったら、少し困った顔をして黙ってしまった。すると、彼から少し離れてやり取りを見ていた別の職員がやおらこう切り出した。「申告する物がないと言う人も、申告書を書くことで申告する物があったことを思い出すことがありますから」と。
ええっ。リマインドのためかよ。人を馬鹿にしてないか。だったら、別の手段を考えてくれ。たとえば、申告忘れをしないようにとのメッセージの音声を手荷物受取所で流すとか、航空会社と協力して乗客の下船時にそうしたアナウンスをしてもらうとか。もっと効果のあるシンプルなやり方があるはずだろう。
もう少しスマートにやってくれよ。
ひさしぶりに日本に帰国したら、斜め前に建つマンション全体が黒いネットで覆われていた。
マンションの大規模修繕らしい。建物の周りに組まれた足場を行き来する職人たちの姿がネットを透かして見える。工事は、予定では3ヵ月かけておこなわれる。その間、なかに住んでいる人たちは紗のかかった目隠しをされているようなもので、さぞ迷惑なことだろう。
ところが、僕の住む集合住宅も大規模修繕に向けた話し合いが行われていて、来週あたりには管理業者の入札があるらしいことを知った。自身は部屋のオーナーではないので、何がどうなっているのかといった詳しい話が直接は届かず、知らなかった。そもそも外国にいたし。
予定だと、本年中に大規模改修の作業が始まることになりそうで、実に憂鬱な気分だ。
始まると、騒音がうるさい、ホコリっぽい、洗濯物が干せない、中を覗かれる(気がする)。何と言っても部屋からの景観がなくなり、日差しが注がなくなる。バルコニーに寝そべり本を読んだり酒を飲むことも出来なくなるのも辛い。
いいことは何一つ考えられない。そもそもマンションの大規模修繕ってのは、通常は外壁の洗浄と塗装が中心。つまり外面(そとづら)を塗り直すことで、建物を少しでもキレイに見せることに主眼が置かれている。歳とって顔の皺が増えたのを、これまで以上にファンデーションを厚く塗って隠そうとすることと同じ。
人間の体に例えるなら、その血管や神経に相当する給排水管や通信回線などを改修しなければ、日々の生活のクオリティには影響しないのだが。
外からの見栄えを良くすることで、マンションの資産価値の減少を保とうというのだろうが、その発想がどうにもみすぼらしくて嫌だ。そんなことが資産価値の向上に寄与するという社会の価値観がバカバカしい。
僕のように賃貸で住んでいる者にとっては、外壁をきれいにすることに意味はない。それどころか、そのことで今払っている月々の家賃を引き上げられたら泣きっ面に蜂だ。
一般的に修繕業者に支払う金額は、1戸あたり100万から125万円といったところらしい。5000万円の予算があれば宅配ボックスを増やすことで住民の利便性を高め、ルーフテラスを緑化して住み心地を良くし、さらにそこでバーベキューなんかできるようにしてもお釣りがしっかり残るのに。
しかも修繕工事費用は、多くがブラックボックス化されている。施工を行う業者によって、専門用語を多用した素人には分からない工事項目とそれらの金額を並び立てた工事見積もり書が作成される。それら業者にしてみれば、赤子の手を捻るようなものである。
工事業者や管理会社などの有象無象が結託し、住民の修繕積立金を吐き出させる仕組みである。痛みを受けるのは金を積み立てた住民だけ。しかも、ほとんどの場合、一般の住民はそうしたことを知る由もない。
大規模修繕工事なんてやめればいい。わざわざなんでそんなことやるんだろうと、つくづく思う。
世の中にこんなに愉しい仕事があるだろうか。
世界中を回りながら、各地の猫とふれあい、それらのニャンの映像を収めて番組にするという「岩合光昭の世界ネコ歩き」である。
番組に登場するのは動物カメラマンの岩合氏と各地の猫たち。それと、そうした猫らに関係する現地の人たち。
猫に演技をさせようとしても無理なわけで、番組に登場するのはまったくのところ自由で勝手気ままな猫たちである。ところが、そのニャンたちと彼は猫語で挨拶を交わし、ご機嫌を伺いながらカメラを向けると、猫たちは彼の意のままに動いてくれる(ように見える)。
いやまったく、どうして猫の動きを読んでそっちの方にカメラを向けることができるのか、いつも不思議に思っている。
そして被写体として登場する猫たちを見ていると、猫はそこにいる人間たちの鏡だと感じる。別の言い方をすれば、その土地を映しているともいえる。不思議なものである。
撮影に際してはロケハンなどは綿密にやるのだろうけど、当然ながら予定通りの撮影などはあり得ず、現地ではその場その場での即興の動きを捉えていくのだろう。経験と直感の勝負だ。
苦労もあろうと思うが、そうした苦労ができるのが心底うらやましい。
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NHKの番組サイトから |
オバマ政権下で駐日米国大使を務めたキャロライン・ケネディが、彼女の従兄弟であるロバート・ケネディ・ジュニアの厚生長官就任を拒否するよう訴える書簡を発表した。
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ニューヨーク・タイムズ紙から |
その手紙は最初にワシントン・ポスト紙に掲載されたのだが、それによると彼女はロバート・ケネディ・ジュニアの人格面にも大きな問題があることを指摘している。
「彼は若かった頃、飼っていた鷹の餌にするために、ひよこやネズミをミキサーにかけ、それを周りに見せびらかすのを楽しんでいた」と彼女は書いている。
ゲゲッ。こうしたかなりいけずな人物が米国の厚生長官に13日就任した。その男は今後、約8万人の職員と1兆ドルの予算を持つ米国保健機関のトップとして指揮を執ることになる。
他国の事ながら、一般市民のことを考えると気が重い。
法務局の出張所に、ある法人の謄本を取りにいった。申請書類に当該法人の「会社法人等番号」を記入する欄があった。法人の登記簿に記された識別番号で12桁で構成されているものである。
先日、関連する用件で税務署に行ったおりには「法人番号」を書類に記入することを求められた。こちらは13桁で、会社法人等番号のあたまに1桁の数字が加えられたもの。
ややこしい。法務局の窓口スタッフに、この2つの数字にどういった違いがあるのか、どう使い分けているのかを尋ねてみた。
すると、会社法人等番号は法務局で使用しており、法人番号は国税庁が使用している、なぜこの2種が用いられているかは分からないので国税庁に訊ねて欲しいと。
それ以上の回答がないので、そのままそこを後にしたが、どうも釈然としない。というのは、おそらく国税庁に説明を求めたら、今度は同様に法務局に聞いて欲しいと言われるだろうと思ったから。堂々巡りだ。
法務局が設定している会社法人等番号という名称の、あほらしい無意味さ。「会社法人等」というのは、会社だけでなく他の法人も、という意味だろう。つまり、「法人」の一言で事足りる。要するに本来、会社法人等番号と法人番号という2つの呼び名の意味は同一であるにもかかわらず、管轄する省庁が違うので異なった名称を付けているわけだ。
国は効率化を推進するためデジタル政府を目指すなどと何年か前に言っていたと思うが、役所はどこも自分たちの縄張り以外のことは知らぬ存ぜずで、われわれ国民をあいかわらず蚊帳の外に置いている。
法務局と国税庁が話し合ってこうした番号の設定の仕方を決めていれば、会社法人等番号と法人番号という似た2つの数字を使い分ける必要などなかったはずである。