2018年3月28日

警鐘を僕たちはどう聞いてきたか

書棚を整理していて、1997年に発行された『2020年からの警鐘』という本を見つけた。本が出版されたのは20年以上前である。もとは、当時の新聞に掲載された特集記事を再編集したものだ。

何気なく手に取り、主な目次に目を通しざっと全体を眺めたが、そこに書かれている「このままだと、2020年にはこうなってしまうぞ」という警鐘の数々は、ほとんどそのまま20年後の我々が暮らす現在につながっている。

インターネットを誰でもが使えるようになり、AIが急速に進化して人の仕事を奪うのではないかとの危機感が生まれ、車の自動運転の現実化が増してきた日本の現在だけど、どれもこれも海外から押し寄せてきた潮流になんとか遅ればせながら「対応」しているだけで、日本から生まれ、世界を変えようとしているものはほとんど思いつかない。

今の日本の状況は、19世紀の終わり、ビクトリア朝時代の英国を連想させる。産業革命を世界で初めて成し遂げ、世界の工場として他国に比して豊かさを手に入れたが、その「成功体験」から構造転換に鈍感になり、やがては製造業は米国やドイツに追いつかれ抜かれた。

しかし長らく「英国病」と呼ばれる低迷期を経験したその国も、その姿を変えてまた世界の表舞台でそれなりの存在感を示すようになった。そのためには衰退から100年後、サッチャー首相のイニシアティブによる多くの痛みの伴う国を挙げての改革を待たねばならなかった。

鉄板のような官製規制、少子高齢社会に向けての漠然とした人々の不安感、変わらない学校教育、「日本はこれまでもなんとかなってきた」という日本人的盲信・・・。正直言うとどうしようもない面が多いけど、社会が変わらないなら個人だけでも変わらなければとつくづく思う。

2018年3月21日

流れがない社会は滞り、腐る

報道によると、前国税庁長官(前財務省理財局長)だった佐川氏の退職金は5000万円らしい。その数字は別として、退職金額は国家公務員退職手当法に基づき算定され、定年退職に比べ自己都合での退職だと少なくなるらしい。

こうした考えは、早急に改めるべきだ。こうした規則は、職員が定年まで長きにわたって勤めあげることを推奨してるわけであるが、果たしてそれが本人のため、また組織のため、ひいては彼なり彼女が公務員であれば国民や市民のためになるのだろうか。

長く努めていさえすれば得ができるというインセンティブで人が良い仕事をするとは思えない。ましてや倒産やクビのない公務員である。人材の流動性を阻害しているだけだ。

官から民への移動、民から官への移動が日本でももっともっとあっていい。あるいは公務員だった人が定年前にさっさと辞めて起業したり、別の人生の道を歩み続けることがあっていいと思うのだ。

社会の活力が生まれない理由の一つは、人の流動性の低さにある。

2018年3月17日

自動で走る住居

いつの頃からか、日経新聞を読むのが苦痛で仕方がないというか、面白くないのである。その理由をつらつらと考えてみると、理由のひとつとして、あまりにも自動運転に関する記事が日々数多く掲載されていることに気がついた。

自動運転に関係して、そこでは人工知能やらIoTやら、そうした領域のことが報道されているのであるが、それらがどうも過大に取り上げられているように思えてならない。

自動運転が我々の生活にどのようなインパクト与えるのか、ということについて自分自身考えることはしばしばあるけれど、現時点での結論としてはそれほど自分の生活やましてや意識を大きく変えるものにはならないだろうというのが今の結論だ。

自動運転によって移動が楽になる、そしてそれに応じて時間の使い方もいくら変わるだろう。だが、それが何か新しい知的創造を自分の中で生み出すことの手伝いになるかというと、それは疑問である。

いってみれば、たかが自動運転である。タクシーと何が違う。何かそれによって世の中の秩序がひっくり返るかどうかと言うと、自動車会社の経営者でもない限りはそんなことはないはず。

新聞記者たちは、他にめぼしいネタが見あたらないからかなのか。もっと我々の周りに目を向け、考察を深め、行動し世間に意見を問うべきことっていうのはたくさんあるような気がするのだがどうだろう。

先日テレビのニュースで報道していたが、日本郵便がその本社がある虎ノ門から新橋にかけて自動運転の試験走行をやるらしい。

自動運転といっても自分たちの郵便局間を車で走らせるテストだ。目指しているのは、人手が足りなくなってきたこの時代に、人が運転するのではなく車が勝手に郵便局間を郵便物を乗せて移動するということだ。確かに効率性を考えるとこれはアリかもしれない。しかし、ただそれだけのことである。

ただ1つ思うのは、トレーラーハウスのようなものを生活の拠点としてそこで日々の生活をしながら移動していくライフスタイルだ。時折、そのことにについて想いを巡らす。

トレーラーハウスやそれに類似する移動物は昔からあるが、基本的には自分で運転をして目的地を渡り歩いていくのが普通である。だが自動運転が本当に可能になったならば、自分はトレーラーハウスという「住居」の中で本を読んだり料理をしたり、くつろいだり、あるいは昼寝しながら車が自分があらかじめ指定した場所に連れて行ってくれるようになるかもしれない。

これはなかなか快適かもしれない。日本中を旅をしながら普段と似た生活を送ることができる。定まった住所がなくなり、道路の上や駐車場や広場や、そうしたところが日々の居場所になる。「旅に生きる」ことが簡単に実現できる。これは、なかなか愉快な暮らし方かもしれないと考えているのだ。

ただそのためには、「レベル5」とされる最高度の自動運転技術とその適用を可能にする道交法の改正が必要。10年はかかるだろうな。

2018年3月16日

日本の大臣、大丈夫か

今日の参院予算委員会での麻生財務大臣の答弁の中で、彼が朝日新聞によって森友学園問題の財務省による文章改ざんが指摘されたことについてどう思うかと言うことに聞かれ、彼はその回答の中で「朝日新聞はめったに読まない新聞だから、よく分からないが・・・」と述べた。

どの新聞が好きか嫌いかは個人の趣味としてあるとしても、少なくとも朝日はわが国を代表する全国紙の1つである。日本の主要な言論を構成している1つである。それにそれに目を通さないというのはどういうことか。

シャレで言ったのならわかる。しかし自分の考えに沿わない、気に入らないからと言う理由である特定の新聞を読んでいないとしたらそれはあまりにもお粗末だ。

自分の考えと違う言論であればあるほど、そういったものに目配りをし、情報を集めるのが政治家として当然の行いのように思うのだがどうなのだろう。せめて主要新聞の見出しくらい読みなさよ、漫画だけじゃなく。

2018年3月6日

第90回アカデミー賞授賞式


第90回目のアカデミー賞授賞式があった。

日本でもいろんな映画祭が行われていて、その中には日本アカデミー賞もあるのだが、本物(本場)のアカデミー賞授賞式に比べればそれはまるで子供だましのようで、同じ「アカデミー賞」でも彼我の違いは驚くほど。米国のエンターテインメント分野の奥深さを知る。

アメリカのアカデミー授賞式では、数年前に白人中心主義ではないかという声があがり、それがきっかけかどうか知らないが選ばれる作品や授賞式の内容もずいぶんと変わった。昨年、「ムーンライト」が作品賞を受賞したのがひとつのエポックだった。
日本では昨日、3時間ほどのアカデミー賞授賞式のダイジェスト版が放送されたのだが、それを見てて思ったのは、よくこれほど多彩な才能や人種や何やかやが集まるものだという驚きである。
日本ではいまだに「働き方」に言及するとき、女性の職場進出に関連してダイバーシティ(多様性)という言葉がきまって使われたりするが、今回のアカデミー賞の授賞式を見ていて思うのはすでにそういったものは当然のことであり、何をいまさらと言った感じがしないでもない。
しかしその一方で、女性差別やセクシャルハラスメント、同性婚、人種格差、トランプの唱えるアメリカ中心主義といった社会の中での根深い問題も確実に認識されており、授賞式の中にそれぞれがうまくテーマとして盛り込まれている構成と演出に感心する。実によく考えられ、練られていて素晴らしい。

「#MeToo」のムーブメント支持や、ミラマックスの映画プロデューサー、ハーベイ・ワインスタインへの痛烈な批判も予想どおり。

それにしても、アカデミー賞の授賞式では毎年コメディアンあるいはコメディアンヌが視界を努めているが、彼らは凄いなあと感心させられるのは、既成の権力を容赦なく笑い飛ばすことで批判し、常識をスマートな表現で揺さぶる技を持っていること。テクニックだけではない、その前にそうした社会意識を持っていることといっていい。

 

2018年3月1日

ビールはサラダだ

カナダ・バンクーバーのダウンタウンの南部、グランビル橋の下、フォールスクリークに突き出た小さな島のような半島が、グランビル・アイランドだ。

ここにあるパブリック・マーケットは、鮮魚、青果、精肉、各種デリやケーキ、チョコレートなどたくさんの食料品の店がひしめく屋内マーケットである。観光客はもちろん、新鮮な食材が手に入るだけに地元の人たちで賑わっていた。

そのすぐ近くにある地ビールの店、Granville Island Brewingでは工場できたてのビールを飲むことができる。店頭にはビール・サイエンスと称して「BEER IS SALAD!!」という妙な理屈の看板があった。


できたてのビール片手に「これはサラダか?」と意見を戦わすのも一興である。

2018年2月25日

ドキドキを売ろう

バンクーバーの市街地は思っていたより小さなエリアだ。徒歩でだいたい回れる規模だと言っていい。

その市街地から車で北に一時間ほど走るだけで、森林リゾート的な場所を訪ねることができる。観光地して有名なのが、Capilano Suspension Bridge Parkである。見どころはその名の通りの吊り橋とCliff Walkと名づけられた展望コース。

この公園への入場料は、42.95カナダドル。3600円ほど。安くない。


ただ歩くだけなら30秒もあれば渡りきるほどの「ちょっとした」施設だ。目を見張るほどの高さでもないし、そこを歩かなければ見ることができないといった景観もない。だが渓谷の山側の岩肌から飛び出した造作物の美しさゆえか、人気がある。


観光用の目的での同様の設置場所なら、日本でもたくさん考えられるはず。少し工夫するだけでもっと魅力的なクリフウォーク(絶壁渡り)ができる。地方の売り物になること間違いない。

問題は作れるかどうか。技術的な問題ではない、意思決定的な問題として、日本で役人がそれを決められるかどうかである。

このクリフ・ウォークを真似てでも、他より早くこうした施設をつくりPRしたところが勝ちだ。

2018年2月20日

バリア有り

2020年の東京オリンピック・パラリンピックをひかえ、都内やその周辺地域の建物や施設でバリアフリー化が進められている。結構なことだと思う。

下記の写真は、そんななかのJR新横浜駅の新幹線ホームの様子。視覚障害者のために敷かれた黄色い点字ブロックにピッタリとくっついて設置された操作盤が気になった。ホームガードのすぐ脇に、つい最近設置されたものだ。

点字ブロックにはかかっていないからセーフ、という駅の判断がここには見える。


白杖をついて、あるいは盲導犬と歩く視覚障害者が、ここをどうやってうまく通れるか。彼らはこの場所で、おそらくは体の一部をこの操作盤の角にぶつけることになる。

金属製の操作盤だ。角に膝をぶつけただけで十分イタイ。バランスをくずすと、転倒するだろう。

バリアフリーどころか、誰が見てもバリア有りーだ。

どうしてこんな簡単なことが、駅の関係者には分からないのだろうか。あるいは、分かってても面倒だから、あるいは組織の論理を乱さぬようにものを言わないようにしているのかもしれない。おそらく後者なんだろうナ。

僕がホームにいた駅員に声をかけ、このままだと視覚障害者にとって危険だと告げても「私には分からない。ほら、JRに苦情をのべる窓口というのがあるでしょう・・・。そこに電話してください」との答えが返ってきた。自分が働いている職場なのに。けが人が出るまで分からないのだろうか。

2018年2月14日

早咲きのさくら

先週末に訪ねた三浦海岸の駅前ではもう桜が花開いていた。夕暮れ後、ライトアップされていた河津桜のショット。


2018年2月12日

当たり前って思われてること、当たり前じゃないことがたくさんある

今朝の新聞一面から。「引っ越し難民 大量発生?」

4月の初めは学校の入学時期であり、会社への新入社員の入社時期であり、人事異動の時期でもある。3月に高校や大学を卒業して会社に入る若者たちの多くはそれまでのアパートを出て、通勤先を考えた場所に新たに部屋を借りる。

4月1日づけでの転勤の辞令を受けたサラリーマンは、3月の末から4月第一週にかけてあたふたと引っ越しの準備をしなければならない。

ただでさえ人不足のサービス業の典型である引っ越し会社では、この繁忙期に人を集めるのに苦労する。トラックのドライバーがまず不足する。

引っ越しのアルバイトは、かつて大学生の定番のひとつだったが、体力と気力を必要とするキツイ仕事だ。だから、最近は敬遠されがちらしい。

アルバイトの日給は一万円から一万三千円。他のバイトと比べ悪くはないのだろうが、それほど大きな金額ではない。僕が学生バイトで引っ越し会社の手伝いをしていたときの二倍程度にしかなっていない。もう40年近く経っているのに。同じ期間で、私立大学の初年度納付金は3倍になっている。

本当に日本の給料は世界の他国に比べてあがっていない。デフレでものの値段が上がっていないから、日々の生活感としてはまあまあという感触で来たのだろうけど、他のOECD諸国などから見れば日本人の給料は、ヤスー! と言われてもしかたがない。

生活が成り立っているのだからそれで何が困るのか、と言われるかもしれない。これからどんどん困っていくのだよ。

高齢者社会(高齢化社会という言葉があるが、人類が誕生してからずっと、例外として戦争や飢饉や伝染病が蔓延した時期を除いて人類は「高齢化」してきているのに、いまになって「高齢化社会」というのはおかしいと僕は思っている)の日本では、老人介護のために間違いなく人を外国から呼ばなければならなくなる。近いうちに。

だってそうしなければ立ちゆかなくなるのは目に見えているから。ロボットが人間の介護者と同様の事ができるようになるのは20年くらい先だろう。言葉のコミュニケーションに難があっても、やっぱり人にはかなわない。

だけど彼ら彼女らだって、わざわざ外国である日本に人類愛でもってボランティアとして来てくれる訳じゃない。賃金を求める労働力として日本に働きに来るのだ。その時に競争的な賃金が払えなければ、誰もそんな国に好きこのんでやってくるわけはない。

かといって今の総理大臣がやっているような賃金上昇の仕方、つまり経済団体の企業経営者に給料アップを要請するのは明らかにポイントがずれている。なかには総理の気持ちを「忖度」してベースアップを発表した経営者もいるが、従業員の給料をどうするか考えることは経営者の仕事の根幹のひとつで、ゼロから自分で判断すべきことだ。

日本の総理大臣も企業の経営者も、やるべき事はひとつ。生産性を上げることだ。だからといって、何も国や企業を根底から揺さぶるようなイノベーションが必要という訳じゃない。

国はつまらぬ規制を撤廃し、前例主義で安穏とするスローな仕事の仕方をあらためること。企業は、これまたつまらぬ横並びの考えを変えて、もっと自由闊達な発想と行動力を発揮すること。単純である。

新卒の4月の一括採用? いい加減に考え直す時期である。人事部にとって慣れしたんだ儀式になっているだけ。年功序列や終身雇用? ほとんどの経営者が止めたいと思っているはず。であれば、止めればいい。それでもって、何か自分たちならではの別の仕組みによって優秀な人材が集まるためのアイデアを考えることだ。それができるかどうか、これから経営者の能力と責任が問われる。

2018年2月11日

上に昇るか、右に行くか

都内某所で乗ったエレベータのボタン。

誰かがイタズラで回しちゃったのかもしれない。でもこのボタン、見た誰もを一瞬「ひょっとしたら・・・」と考えさせる力を持っているように思う。

アタマのネジに油を差してくれるのは、普段の風景からちょっとズレた、こうしたさりげないものだったりする。


2018年2月6日

Three Billboards Outside Ebbing, Missouri

映画「スリー・ビルボード」の舞台は、ミズーリ州の寂れた片田舎の街、エビング。架空の、しかしミズーリにはこんな典型的な場所があるんだろうなと思わせる街である。

アメリカというとニューヨークやロス、サンフランシスコ、シカゴなどを思い浮かべ、そこがアメリカと勝手に想像してしまう。しかし実際は、アメリカはひとつの大陸の大半を占めるほどの巨大な国。地理的にも歴史的にも極めて多様である。

ミズーリというと、僕がまず思い起こすのは、チャーリー・ヘイデンとパット・メセニーの1997年のアルバム「beyond the Missouri Sky」だ。ものを書く際にBGMとしてよく流していたが、そのジャケットの写真が映す荒涼とした風景が、僕にとってのミズーリだった。 

映画に登場する人物はみんな、ある意味でどこかネジが外れている連中ばかり。しかし、それらがストレートに自分を表現し、どこか深いところで、いわば人間としてつながっている。

邪悪で軽薄そうな男も、自らの深いところに何かしらの悲しみを抱いていて、ひょんなことからそれに気付き、生き方を修正していくことができることを映画は示す。悪党にも一部の善の魂があることを描くことで、観るものを思考の縁へと連れて行く。

一方で、いかにも善人として周りから思われ、自分でそれを疑うこともない教会の神父らがいかに浅薄で社会の矛盾に目をつむり、形式的にだけ生きているかも映し出す。

主人公のミルドレッドを演じたフランシス・マクドーマンドの圧倒的な力強さだけでなく、登場人物がすべてその輪郭をしっかりと持ち、確実に描かれている。練りに練られた優れた脚本があってのこと。



2018年1月30日

議論のネタ

朝日新聞の文化面「語る 人生の贈りもの」欄に椎名誠の話が連載されていて、これが面白い。

中国のタクラマカン砂漠、楼蘭への道中の様子が語られていたのだが、その途中のミーランという村での以下のような話が語られている。
オアシスの村・ミーランにたどり着くと、ポプラが揺れていて風が美しかった。ただトイレが男女一つずつしかないので行列ができる。前も横も仕切りがないので並ぶ人たちに見られながら用を足す。紙で拭くときに人格が崩壊するような屈辱感を抱く。なぜなのだろうと、夜みんなで議論しました。
中国のかつての(今も田舎はそうかもしれない)トイレ事情はよく聞かされるところだが、それをネタに撮影隊の連中と「議論」をするというのが愉快だ。

近頃は大学でさえ、人が集まって熱く議論するということは珍しくなったと思う。若い人たちはもっぱらネット上で上滑りで空虚なコミュニケーションに終始しているように思える。

そこでは人が本来持っている体温のようなものがまったく伝わらない醒めたやり取りだけが流れている。

いまの若者たちの周りにだって、議論のネタなどいくらでもあるはず。時には敢えて屈辱感に身をさらし、それをネタにみんなで議論したらどうか。

1月25日付け朝刊


2018年1月21日

紙と墨で1200年を超える

久々の暖かいいい天気の日曜日だった。その気候に誘われて昼食後、上野へ出かけた。

国立西洋美術館で行われている「北斎とジャポニスム」展を観に行ったのだけど、休日ということもあってか入館までの待ち時間が1時間ちかく。

そこは諦めて、東京国立博物館で 開催中の「仁和寺と御室派のみほとけ」展へ足を運んだ。仁和寺は御室桜で知られる真言密教の寺。888年に完成した寺院で、数々の国宝級の宝物が今に伝えられている。

仏像や絵画もすばらしかったが、今回とりわけ記憶に残ったのが、弘法大師(空海)が真言密教を伝える書物として中国(唐)で写経して持ち帰った経典だ。


三十冊あるところから「三十帖冊子」と呼ばれている、これも国宝である。空海の没年が835年なので、1200年近く昔に書かれ(写され)たものだ。それが今も墨のあと鮮やかに残っていて、私たちは展示ケースのガラス越しではあるけど、誰もがそこで読むことができる。

空海はそのとき、どこで何を想いながら教典を写経していたのだろうと想像させられ、またあらゆるデータがデジタルで記憶される時代ではあるが、記憶媒体としての保存性や閲覧性の面で「紙」にまさるものはないとしみじみ痛感させられた。

振り返るに、我が家には4、50枚のフロッピーディスクに加えてMOやMD、メモリースティック、スマートメディアなどが今も残っている。

早く中のデータを確認して必要なものは移行しなければと思ってはいるが、それらの中には既に再生するための機器(ドライブ)が手元になくなってしまったものがある。

はてさて、それらをどう処理するか・・・。

2018年1月16日

「ヤリタイホウダイ」と「イノチガケ」

昨日、大隈講堂で「劇的なるものをめぐってⅡ」の上映会があった。

早稲田大学の演劇博物館ーー最近いろいろと旗色が悪い早稲田だが、日本の大学で演劇関係の資料をこれだけ取り揃え、また演劇を支えようとする志を持つ演劇専門の研究機関、博物館はここ以外にはないーーが主催するイベントで、SCOT(元早稲田小劇場)の鈴木忠志が登場するということで、楽しみに出かけた。


上映された「劇的なるものをめぐってⅡ」は、早稲田小劇場の舞台の練習を映像記録したもの。撮影されたのはいまから50年近い昔で、鈴木曰く、誰が撮影したか分からない・・・。

主演は当時28歳、芝居を初めてまだ3年という白石加代子である。既にその独特の怪演ぶりを十二分に発揮している。白石あっての鈴木という印象もなきにしもあらず。

鈴木は1939年生まれ。大学に6年在籍、27歳の時に自分が主催する劇団を創設、37歳の時に富山県利賀村に活動の本拠地を移し、それ以来ずっとその地で演劇活動を行っている。

30年ほど前、ある多目的ホールをオープンする仕事に携わっていた頃、鈴木が主催する演劇祭「利賀フェスティバル」を観に冨山を訪ねたことがある。人口数百人という今でいう過疎の村で、村の民家に泊めてもらったことを思い出した。

夜間に屋外劇場で行われた芝居、確か鈴木版の「ディオニソス」だったと思うが、不思議な静かな熱狂感を感じたことを記憶している。

昨日の上映会の後は、鈴木と演劇評論家の渡辺保の対談があった。鈴木は79歳にして、傍目からは衰えることを知らぬ人物である。「ま、なんでも聞いてくれ」から始まったが、実にとうとうと、かつこんこんと自説をまくし立てる。 芝居への圧倒的な知識と経験、尽きぬ情熱が伝わってくる。

今の歌舞伎や能の役者に対して並々ならぬ不満があるようだが、そうしたことに話が流れようとすると渡辺が巧みに路線をもどす。演劇評論家として全方位を相手にしていたい立場からの「忖度」だろうが、そこが物足りなかった。

下記のリンクは鈴木が2015年に書いた文章のひとつだが、彼流のレトリックとはいえ、そこに書かれている「ヤリチホウダイ」やり、しかし「イノチガケ」で臨むその姿勢は今も健在であることを確認した夜。命がけという言葉について何年ぶりかで考えさせられた。

http://www.scot-suzukicompany.com/blog/suzuki/2015-09/#blog000221

終わって外に出たら、あたりは真っ暗だった


2018年1月14日

入試で人生は決まらないよ、君

昨日と今日、全国でセンター試験が行われた。

毎年思うことなんだけど、どうしてこんな時期にやるのだろう。

今年も大寒波で各地が雪に覆われ、交通期間が麻痺して試験会場に時間通り到着出来なかったり、雪で滑って怪我をしたり、寒さで風邪を引いて試験をあきらめたり、さまざまなトラブルが聞こえてきた。

1月のなかばに日本列島が、あるはその一部が寒波に覆われるのは自然現象であって、不思議でもなんでもないのである。 もっと気候のいい11月にでもやればいいと思っている。2ヵ月早めるだけでコンディションは格段に改善する。

ところで、テレビのニュースでセンター試験の受験生が、カメラに向かい「人生を決める試験なので頑張ります!」とインタビューに応えていた。気を引き締めてしっかりやろうというのは結構だが、思わず「入試や大学で人生は決まらないよ」と画面の向こうにいる若者に声をかけたくなった。

こんな当たり前の事が18歳になっても分かってないことに、ふと残念な気分にさせられた。いや、彼のせいではないのだろう。親か高校教師か分からないが、まわりの大人がそうした完全に時代遅れな発想を信じ、受験生に吹き込んできたのだろう。

世の中の大学も(私もその一部分であるが)そうした責任の一端を担っているとも言える。


2018年1月8日

写真は枚数か、手触りか

アマゾン・プライムの無料映画のなかから、映画「アンコール!!」を移動の途中で観た。

映画の原題は、Song for Marion。主演は、テレンス・スタンプとヴァネッサ・レッドグローブ。マリオンは、映画の中でのレッドグローブの役名だ。

妻のマリオンが癌で亡くなった後、アーサーは妻の衣装棚の下に置かれている小さな箱を手に取り、そっと蓋を開けてみる。その中にはアーサーとマリオンが結婚する前に交わした数通の手紙と何枚かの写真が収められていた。
2人の結婚式のスナップや幼い息子と一緒に写った写真・・・。白黒のものも何葉かあり、プリントのサイズもまちまちなのが、長い間のなか、その時々で写し現像された時間の経過を示してるように思えた。
デジタル・フォトは保存や整理は便利だけど、その規格性からは当然ながら、手触りもなければ時間の積み重ねのようなものもそこには感じることができない。
何よりもデジタルで写真を撮るようになってから数ばかり増え、これといった1枚が逆になくなった気がする。写真が本来持っていた力やありがたみがなくなった気がする。

年末年始の休みに、Google フォトで写真を整理した。使い勝手がよく、アルバムなどの編集も実に簡単にできるが、アプリが洗練されていて写真も思い出もただ流れて行ってしまうのが難点といえば難点。

2017年12月29日

ダブルでもトリプルでも好きにやればいい

新聞一面トップの見出しに「副業容認で社員育成」とあった。

それによると、副業を認める企業が日本でも増えてきたというのだが、なぜ今なのか不思議である。紙面では理由として能力の開発、ネットワーキングなどとある。

ならば、なぜ今ごろになって? そうした効用があると理解しているのなら、そうした日本企業はなぜこれまで認めてこなかったのか?

他社の真似と、ブームに多少乗って「我が社は従業員重視のやさしい企業」というイメージを付けたいだけじゃないのかと勘ぐってしまう。

そもそも、時間と避ける労働時間が限られている副業で、あらたな能力を身につけるのは容易なことではない。多くの場合は、せめて現業での専門性に自信のある人が、それを場を変えるなど横展開するのがせいぜいだ。

ただ、副業で稼ぐということは、ひとつの会社の事しか知らないサラリーマンが他流試合を行うようなもので、自分の甘さや視野の狭さ、足りない点に気づくにはよい方法だと思う。

その結果、自分の能力の棚卸しをすることができ、セルフラーニングの大切さに気付き実行するようになれば、確かに能力開発につながるかも。

我が身を振り返れば、ほとんど新入社員の頃から副業をやっていた。本業である広告会社でのコピーライター業に加え、アルバイトで企業の広告制作を頼まれてコピーを書いたり、企画書をまとめていた。付加的な収入もあるが、ただただそうした仕事をたくさんやっていたかったのが理由だ。

自分が「外の世界」でどれだけ人から評価されるか、今でいうエンプロイアビリティを磨きたかったからといえる。

仕事が好きだったのは、学生時代からのことだ。大学3年の時には、日本を代表する大手通信会社の正社員として働いていた。週に3日、夜8時から12時までの仕事だった。正社員だから賞与も出たし、健康保険証ももらっていた。組合にも入り、ストの時には赤い鉢巻きを巻いてシュプレヒコールをあげていたのは爽快だった。

その時は学生の身分が本籍としてあったので、企業での仕事を醒めた目でというか、自分なりに相対化して眺めることができたのが、今にして思えば大きな収穫だったように思う。つねに「ここではないどこか」を探して複数の仕事を重層的にやってきたそのきっかけは、こうした学生時代の就労経験にある。いずれにせよ、大学の授業があまりにつまらなくて始めた仕事だったが、その自分がいま大学教授をやっているのだから、何をか言わんやである。 

 ところで、先の新聞紙面によると「人材の流動性が高い欧米では、副業が定着している。米国では労働力人口の3割にあたる約4400万人が主な仕事とは別にフリーランスとしての収入を持っている。一方で、日本では副業を持つ人は数%にとどまる」とある。

そうした米国の労働者にとって、主な仕事とは別にフリーランスでも働くことは、色々な面で重要なセーフティネットなのである。働く場所も、財布も、ネットワークもひとつに絞らないための知恵だ。

人材の流動性が確保され、働き方も自由な米国では、残業過多が理由で精神的に追い込まれた社員が自殺するといったケースはほとんどないのではないか。その方が、よっぽど人間らしい。

日本では就業規則で副業を禁止している企業が多い。週末や休日、有給休暇の間や就業時間後もなぜ社員を管理しようとするのだろう。休みの日はゆっくり休んで英気を養い、また月曜から会社でバリバリ働けるように、との経営者の考えなのかね。


2017年12月16日

猫は平和の象徴のひとつ

YEBISU GARDEN CINEMAで「猫が教えてくれたこと」が上映中だ。こんなに面白い映画なのに、都内ではこの映画館を入れて今は2館、横浜で1館が上映しているだけなのが残念。


監督はトルコ人女性のジェイダ・トルン。そして舞台はトルコのイスタンブール。イスタンブールには、国際学会に出席するため今年の3月末から4月にかけて訪ねたばかり。映画にはその時の懐かしい風景がたくさん出てきたのも楽しい。

学会出張であっても、時間を見つけてはひとりでとにかく街を歩く。歩くというより彷徨うのがいつもの流儀。その時も繁華街から1本、2本と裏通りに入り、時間の許す限り地図とコンパスをポケットに歩いたが、時折野良(たぶん)猫に出会ったのを印象的に覚えている。

その時、見かけた猫たち・・・

イスタンブールの裏街で会った猫たち(にゃん1)
にゃん2
にゃん3
こちらはトルコのカッパドキアの猫
接近して。。。

この映画を観て実は初めて知ったのは、イスタンブールは他でもない「猫の街」だということ。

地面すれすれの猫視線で、イスタンブールの街で生きる猫たちがとらえられている。岩合光昭の「世界ネコ歩き」をイメージしてもらうといい。


映画の中で、「猫は神の使い」という言葉が出てくる。自立し、自由で勝手、人に媚びることもなく生きているからかな。

街に住む人たちが、実に自然に猫に接してやっているのが微笑ましく、その関係に幸せ感がにじみ出ている。

2017年12月10日

鬼ヶ島とも呼ばれる青ヶ島

週末を使って青ヶ島(東京都青ヶ島村)へ行ってきた。

直通の交通手段はなく、八丈島まで全日空機で飛び、そこから東方航空のヘリコプターでわたる。なかなか人気のルート(島)らしく、ヘリの予約は取りづらい。

何年か前、取材で世話になった若者が青ヶ島小学校で先生をしていると聞き、訪ねようとしたことがあった。その時は天候のため八丈島で足止めをくらい、2日待って結局青ヶ島へは渡れず、八丈島の見学だけして本土へ帰ってきたことがあった。

雨や風はたいていのことでは平気らしいが、ヘリは有視界飛行なので霧のために視界がない日は飛行できないし。フェリーは海がしけると出港できない。

有人島としては伊豆諸島の最南端に位置し、東京都心からは360キロほどの距離。小笠原諸島などに比べればそれほどの距離ではないのだけど、アクセスがよくないために、離島中の離島といった印象がある。

島の周囲に浜辺はなく、ほとんどが垂直に近く切り立った崖で囲まれていて、近づき難いことから鬼が島とも呼ばれていたとか。


上の動画は大凸部と呼ばれる島の最高地点の展望台からの360度。ここから島最大の特徴である二重カルデラの地形がよく観察できる。北には八丈島が望める。

民宿で夕食を済ませた後、尾山展望公園に星空を眺めに出かけた。月の出が午後10時半過ぎの予定なのでそれまでは漆黒の空に星が観察できるはずだったのだが、そらの四分の一位を雲が覆っていたので、見上げる空中に満天の星とはいかなかった。

それでも冬の大三角形(おおいぬ座のシリウス、オリオン座のベテルギウス、こいぬ座のプロキオン)がきれいに見え、流れ星をいくつも観ることができた。