2013年3月9日

無効請求は棄却されたが

一人一票、これは民主主義の基本のはずである。それが、一票の重みが住んでいる地域によって違っている。その差は、2.43倍まで拡がっている。

その是正を目的に前回の選挙無効(やり直し)を求めた訴訟の判決で、東京高裁は「最高裁が違憲状態とした選挙区割りを是正しないまま選挙が行われたことは看過できない」として、「違憲」の判決を言い渡したが、「今後、国会による格差是正が期待できる」として、選挙無効の請求は棄却した。

「期待できる」というのは可能性であるが、それを持って違憲の判決をしながら無効の請求を棄却したのは、日和っちゃってるとしか言いようがない。

選挙のやり直しは手間がかかるし多少の混乱も伴う。だからといって「今回はこのままやり過ごそう」という発想がベースにあったとしたら、正義を容易に犠牲にした事なかれ主義として批判されるべきものだ。

判決内容に沿ったかたちで選挙の無効を言い渡すか、「期待できる」なんてつかみ所のない話で済まそうとするのではなく、具体的な是正案が設定された期限内に提出されることを条件として付けるべきだったろう。そして、その内容が十分なものと判断されなかった場合、またはその通り実行に移されなかった場合は、遡って無効とする必要性があるのではないか。

2013年3月4日

自転車を鉄道に載せて運ぶ

NYでの在外研究期間を終えて日本へ帰国する日が近づいて来た。急いで身の回りのものを片付けなければならない。

日本に持って帰るもの、当地で処分するもの、誰かに譲るもの。このなかで一番手間がかかるのが、誰かに譲るものだ。

今朝は、自転車をクイーンズ地区に住む友人のところに朝食をご馳走になりがてら持っていった。朝5時に起床。5時半に地下鉄に乗り込む。日曜日の早朝ということで車両は空いていて、周りに気兼ねすることなく自転車を運び込める。

ミッドタウンのペン・ステーション(Penn Station)でロングアイランド鉄道(LIRR)に乗り換える。

地下鉄は自転車の持ち込みはタダだけど、鉄道は別に持ち込み料が5ドルかかる。そして、一つの車両に積み込みが許されているのは1台だけ。自転車を持った先客がいると、他の可能な車両を探さなければならない。それを懸念して今朝は思い切って早起きして乗り込んだのだけど、こちらも車内はがら空きだった。

LIRRの車両に載せたバイク

学生時代、サイクリングクラブに入っていた友人が、日本では鉄道で自転車を運ぶ時は分解した上で輪行袋という専用の袋に入れなければ車両に持ち込めないと言っていた。その後も日本では電車に自転車をそのまま持ち込んでいる人を見たことはないから、そうした規則は今も生きているんだろう、きっと。

ニューヨークに住んでいるからといって、決して何でもかんでも米国の方がいいと思っているわけではない。しかし、基本の発想の部分で日米が大きくことなっていることをこの1年間で痛感させられた。

米国には、基本のところで市民がやりたいと思うことが最大限認められる社会が理想だという発想と基本理念がある。一方で、日本は最初から何でもやっちゃいけないことばかりで、その後どこまで許してやるかを役所の裁量で決めていく社会になっている。だから秩序が守られていて社会は安定しているけど・・・新しいことが生まれにくい。

謂わば、米国は国民のために作られた自由型社会で、日本は役人のために作られた規制型社会だと云える。これは思考のパースペクティブの点で、空を自由に飛ぶ鳥と地面をもぐって進むモグラくらいの違いがある。

この数十年間を見て、日本でアメリカのようにイノベーションが(結果として)生まれない理由は、これでかなりの部分が説明できる。

日本人がイノベーティブではないということではない。ましてやDNAの問題ではない。人を取り巻く世の中の環境が問題なんだ。

その証拠に、日本が太平洋戦争で敗戦し、それまでの軍国主義がアメリカ式の民主主義に移行し始め、財閥が解体され、それまでの権威者たちが肩書きを剥ぎ取られ、新しい秩序が生まれつつあった混沌の時代には後のソニーやホンダが生まれている。

どうも我々は、食うや食わずの状況に追いやられて初めて、根本的なところの力が出てくるようだ。

2013年3月3日

米国ヤフーが在宅勤務を見直したわけ

米国のヤフーで、在宅勤務を見直し、6月からすべての社員に出勤を求めるという社内メモが人事部門責任者から全社員へ送られた。昨年CEOになったマリッサ・メイヤーのイニシアティブである。


チームで創造性を生むというやり方は彼女が昨年まで働いていたグーグル内で実践されている方法論だ。

「ヤフーをもう一度イノベーター集団にする」のが彼女の目的である。

ニューヨークタイムズなどの記事によると、在宅勤務によって生産性は上がったと報告されている。しかし、業務レベルの仕事の効率化が実現している一方で、仕事の質が低下したり、クリエイティブなアイデアが出にくくなっているのだろう。

社員全員が出勤していれば、自然とカフェテリアや廊下、階段の踊り場などで仲間たちと話をするようになる。そうしたところから思いも寄らなかったアイデアが出たり、コラボレーションの雰囲気が出てくることが期待できる。

もっとも、ただ在宅勤務を廃止するだけで期待通りに物事が進むわけではなく、社員たちが自由にアイデアを交わし合ったり、自然発生的にチームを作って課題にチャレンジしたりしていくような空間と時間とコミュニケーションとプロセスをどのように組織内にデザインしていくかが重要なポイントだ。

これは、在宅勤務が普通になった企業での見直し例であるが、翻って日本はどうだろう。自宅勤務で構わない仕事をさせるために、いまだ長時間の朝夕の通勤を社員に強いているところが多数だろう。

米国ヤフーの組織がどうなっているか知らないが、非製造業では今後は仕事の内容に合わせて次の3つの勤務形態に分かれてくるように思う。

研究・開発などをやっている人たちはオフィスなどの決まった場で集合的に仕事をする。営業職などは基本的に自宅から客先をまわるスタイルで、週に何日か勤務先に出勤する。 カスタマーサービスなどは自宅の作業が中心になる。

最初のタイプに優秀な人材がより多く就いている企業が、継続的にアイデアを生み、それを形にすることで競争優位を得ることができる。日本では(特に都会では)社員の通勤にともなうストレスや時間コストなどのマイナス面をどう軽減してやるかという厄介な問題の解決が鍵になる。

ところで今日の午前中、同じ建物に住むY澤さんに彼の研究留学先であるColumbia University Medical Center を案内してもらった。戦前からのビルが多く、改修に次ぐ改修で入り組んだ建物になっている。この巨大なセンターではリサーチ、教育、臨床が行われているが、重点は臨床よりリサーチに置かれている。

基礎研究を行っている棟を案内してもらいながら、興味深い話を聞いた。日本の大学病院との違いについて話をしていたのだけど、彼が言うには個々人の能力では日本の医師(リサーチャー)も遜色ないが、プロジェクトベースの研究チームで成果を出して行くのは米国人が圧倒的に勝っているとか。

おもな理由は2つ考えられる。まず、プロジェクト・マネジメントのノウハウとシステムが構築されていること。とりわけ日本に比べ、多分野の研究者が相互に協力し合いながら新たな発見に向かっていく気風がある。そして、メンバーのモーチベーションが高いこと(成果を出せないとプロジェクトが資金的に続かず、雇われている研究者は職を失う)。

日本の大学は、医学部だけではなくどこも縦割りのサイロであり、閉鎖的なムラの集合体である。だから他分野との交流などめったにない。他分野との境界や接合部分にこそ、面白い研究テーマがあるのだけど。

2013年2月21日

グッゲンハイム美術館でのGutai(具体)展

久しぶりにグッゲンハイム美術館へ行ってみた。本当の目当ては、そのすぐ近くにあるクーパーヒューイット国立デザイン美術館だったのだけど、行ってみたらそこは改装中で閉館されていて・・・。

 
グッゲンハイムでは、特別展として Gutai: Splendid Playground が開催されていた。
http://www.guggenheim.org/new-york/exhibitions/on-view/gutai-splendid-playground

1952年から1974年まで芦屋や大阪を中心として活動していた前衛美術集団である具体美術協会の活動内容を取り上げたものである。ここで紹介されている作家で元々知っていたのは元永定正だけだったけど、この集団の奇想天外な発想と思い切りのいい表現にはついうれしくなり、作品を見てて何度も声を出して笑ってしまった。

偶然かどうか知らないが、時を同じくしてニューヨークにある世界的な2つの現代美術を主に扱うミュージアムが、戦後ほとんど同じ時期に活動した関東と関西のアバンギャルド集団をテーマに特別展を開催している。
http://tatsukimura.blogspot.com/2013/02/tokyo-19551970-new-avant-garde.html

帰りしなに寄ったミュージアム・ショップで現代美術家、堀尾貞治の作品集「Sadaharu Horio」(Vervoordt Foundation)を見つけた。50ドルしたが、迷わず買って帰る。これも今日の収穫。

美術館内のトイレ(3階と4階)


2013年2月20日

ユニット WORLD ORDER

日本の知り合いが「こんなのあるよ」と、須藤元気の WORLD ORDER in New York のYouTubeサイトを教えてくれた。「ニューヨークの街で見かけた?」とか聞かれたけど、、、、ねえ。


いま日本では、子どもたちが学校であの歩き方をみんなで真似してんじゃないかなあ。

WORLD ORDER "2012" のプロモーションビデオは、メキシコシティが舞台になっている。


今年の1月に訪ねたテオティワカン遺跡や宿泊したホテル周辺の風景が出てきて懐かしい。
http://tatsukimura.blogspot.com/2013/01/blog-post_7.html


2013年2月19日

ダガンの「戦略的直観」

コロンビア・ビジネススクールで「Napoleon's Glance」というちょっと変わったタイトルの授業を担当するW・ダガン教授が書いた本に『戦略は直観に従う』(原題は、Strategic Intuition)がある。

この本でダガンは、戦略的直観は「思考」であり、「感情」の一形態である単なる直観と区別している。また、「即断」を可能にする専門的直観とも戦略的直観は異なるとしている。著者がいうところの専門的直観とはヒューリスティクスに近い。

クラウゼヴィッツの戦争論アプローチを「戦略的直観」の源流とし、ジョミニの「戦略的計画」と比較している。両者の違いは、一瞬のボールの不規則な流れからゴールラインまでの展開を瞬時にイメージしつつ、それを連続的に繰り返しながら展開するラグビーと、あらかじめゲームプランを描いた上で試合をステップ・バイ・ステップで進めるアメリカンフットボールの違いを思い起こさせる。

これまでの戦略論の文脈のなかではおおかた否定的な意味合いを持たれていた「直観(Intuition)」を正面から打ち出したのは、M・ポーター流の戦略論が戦うべき市場や競争相手を所与のものとしていることへのアンチテーゼである。

現在、企業が置かれている状況は、これまでになく速い変化の波に乗っている。あるいは、呑み込まれている。顧客の嗜好の変化や競合の戦略転換、新しいテクノロジーの登場、それらに伴う企業を取り巻く環境の変化はまるでラグビーボールのようにどこに転がっていくか分からなくなってきている。一方、これから新たにビジネスを起こそうとする連中にとっては、自分たちが未来を作るチャンスが拡がっている。

そうした状況の中で、1970代の産業組織論をベースにしたポーターの競争戦略は、静的な市場の分析には役に立つかもしれないが、そうした市場自体が年々限られてきているのが実態だ。

New Yorker誌でM・グラッドウェルが掲載していた(その後書籍化された)記事や、行動経済学の発展も戦略的直観の重要性が語られる際の背景としてある。今後、この流れに沿った戦略論が次々と現れることになるだろう。ただその際、「語り」に頼ってしまう言説をどうモデル化できるかがポイントになる。

(以下追記 2013年2月25日)
その後、この本のタイトルにある直観(intuition)という言葉に居心地の悪さというか違和感を感じていたが、その理由に今日やっと気付いた。それは、ダガンが言っているところのものは推論(チャールズ・パースが名づけたアブダクション=仮説的推論)だということ。つまりそれは認識であって、直観ではないのである。

2013年2月17日

Girls vs. Boys

OECDが3年ごとに実施している各国の15歳を対象にした科学領域のテストの結果を図示したものが新聞に載っていた。65カ国を対象に3年ごとに実施しているもので、下記の図は2009年の結果をもとにしている。

http://www.nytimes.com/interactive/2013/02/04/science/girls-lead-in-science-exam-but-not-in-the-united-states.html

いくつかの興味深い傾向が見られる。このテスト点数を見る限り、アジアでは女子が男子より優秀。ヨーロッパと米国では逆で、男子が女子に勝っている。

日本の15歳の世界の中での位置はというと、男子はフィンランド、香港、シンガポール、韓国に次いで5位。女子はフィンランドと香港に次ぐ3位である。(「上海」のスコアは一都市だけのデータしか公表されておらず、中国全体を示すものではないので検討対象から除外)

日本では大学の理系に進学するのは男子の方が圧倒的に多いのは、どういった理由なのだろうか。男子の理科系科目の高校での伸びが女子より大きいからだろうか。あるいは能力とは別に、将来仕事に付くための方向性として女子は文科系科目を、男子は理科系科目を選ぶからだろうか。

2013年2月14日

日本は計画経済国家か

日本の新聞が「電力、相次ぐ値上げ 東北電が家庭向け11%申請へ」という見出しの記事を掲載していた。

東北電力は東日本大震災で多くの設備が被災した。女川(宮城県)と東通(青森県)の両原発は停止しており、より多くの部分を火力発電に頼らざるを得ないなかで燃料費の増加が経営を圧迫していることが報告されている。

こうした状況の中では 、現実的対応として電気料金の値上げはやむを得ないと思う。しかし、僕が気になったのは記事のなかの次のところである。
電気料金は東電が昨年5月に家庭向けで平均10.28%の値上げを申請したが、経産省の審査で8.46%に圧縮し昨年9月から実施した。昨年11月に関電が同11.88%、九電が同8.51%の値上げを申請し、今年4月の実施を目指して経産省の審査を受けている。
まるで統制経済である。

一見すれば、東京電力が10.28%の料金値上げをしようとしたのを8.46%に抑えてくれた経産省は、国民にとって「正義の味方」と受け取れないこともない。しかし、元々が総括原価主義で計算された数字だ。

問題は、価格について市場のメカニズムが存在してないということである。

さらには、数字の中身が国民にはブラックボックスであるだけに、東電は経産省と前もって相談済みで10.28%増の数字を作ったと疑われたとしても不思議ではない。結果として、電力会社はもともとの目標を達成し、経産省は中身を知る由もない国民から「いい仕事をした」と評価されるというシナリオだ。

政府がやらねばならないのは、電力の地域独占体制の変更や発送電分離を着実に進める手立てを考え、電力供給と需要についての新たな制度設計をすることである。既得権を持つ勢力の「それなら、停電が頻発してもいいのか」という脅しがいつまでもまかり通るのはおかしなことだ。法人だけでなく、個人も米国のように電力供給事業者を自由に選べるようになるといい。

2013年2月11日

大臣、それとも投資家?

安倍政権の甘利経済財政大臣が、株価(日経平均)について「(本年3月末の)期末までに1万3千円をめざす」と講演会で話したらしい。

なぜ「1万3千円」なのか。その数字の算定基準は何なのかが知りたい。なんとなくそう思って言ったとしたら、大臣が話すような内容ではないはずだ。メディアがそのまま報道するだけで、金額の根拠を問わないのは認識不足。

そもそも閣僚が、市場によって決定される株価や為替レートについて「こうあるべき値」を口にすること自体が問題である。

先の大臣は、自分か家族が保有している株式の値上がりを念頭に、経済財政大臣ではなく投資家の立場で発言してしまったのか。あるいは、誰かに誘導されているか。どちらにしても、やってることがおかしいことに変わりはない。

2013年2月10日

体はアタマ

昨晩からの雪が積もりに積もった朝だった。このところ、米国北東部は雪に見舞われることが多い。


今日の午後、国連ビルの近くにあるジャパン・ソサエティで劇作家の平田オリザによるワークショップがあった。興味半分で出かけた。参加者用のチケットはすでに売り切れなので、僕が手にしているのは見学者用のチケットだ。

初めて集まった集団をどうやって一つにまとめるか、メンバー間に共感を生み出すか、自然なコミュニケーションが行き渡るようにするか。自分を他者(たち)との関係性の中でどう表現するかというコミュニケーション(デザイン)の構築を目的にした練習が多かった。彼が用いている手法は、大学でも応用できそうな感じだ。

以前、劇団「第三舞台」が行うワークショップに参加したことがある。そちらは、役者がどう脚本を読み、役作りをするかを狙いにしたものだった。

僕たち大学人がやっている仕事は、あまり身体を使わない。しかし、知性というのは頭から生まれてくるだけではなく、体からも生まれてくると思っている。正しくは体がなんとなく発見し、頭がやがてそれに気づき言語化する、という感じだ。そう、体はアタマなのだ。僕が旅をする目的のひとつは、そのもう一つのアタマに考えるきっかけを与えてやることだと考えている。

2013年2月7日

Tokyo 1955–1970: A New Avant-Garde

MoMA(ニューヨーク近代美術館)の最上階、特設会場で Tokyo 1955–1970: A New Avant-Gardeと題したエキシビションが開催されている。

日本が戦後から復興、再生を目指し馬車馬のようにかけ始めていた時代、熱気が溢れかつ混沌とした世の中でさまざまなアートのうねりが誕生していった。静かな今では、その勢いは創造もつかないほどだ。アートが時代に一撃を加え続けた15年である。

いろんな運動に赤瀬川原平が登場する。今さらながら、彼のアーティストとしての影響力の大きさを感じる。
http://www.moma.org/visit/calendar/exhibitions/1242


 
2階にThe Yoshiko and Akio Morita Media Galleryと名づけられたギャラリーがあることを今日まで知らなかった。ここで現在、Performing Histories (1) という展示会が行われていた。

作品<<作品と私>>

2013年2月6日

ゼロ・ダーク・サーティー

夜、映画「Zero Dark Thirty」を観に行った。監督は、2008年に「ハート・ロッカー」でアカデミー監督賞と作品賞を受賞したキャスリーン・ビグロー。今回の作品でも作品賞にノミネートされている。


オサマ・ビン=ラディンの居所を、アメリカのCIAがいかにして突き止め、そして米海軍特殊部隊がどう攻撃し殺害したかが描かれている。

途中、なかなか決め手の手がかりを掴めないでいることに業を煮やしたCIAの幹部が、スタッフを前に「お前らは3・11を忘れたのか。罪のない市民が3000人も殺された・・・」と檄を飛ばす。そして、スタッフたちの動きがいっそうめまぐるしく、過激に進む。

70数年前、リメンバー・パールハーバーの掛け声でアメリカ中が一つになって太平洋戦争に突入したのも、アメリカ人が持つこうしたセンチメントというかメンタリティーがあったから。今も昔も変わらない人々である。

映画の冒頭、CIAによる捕虜への執拗な拷問シーンが描かれる。米国内で「あった、なかった」と論議を生んだが、実際にそうしたことはあったのだろう。この件を巡っては、米国の有力な上院議員が配給元のソニー・ピクチャーズに抗議を行うところまで行った。ビグローがアカデミー監督賞にはノミネートされなかった理由は、このあたりにあるんじゃないかと思う。

2013年1月30日

コロンビアでのセミナー

所属している コロンビア大学の研究所のセミナーで、マーケティングの話をする機会があった。

メンバーのほとんどは、経済学を専門とする人たち。マーケティングと経営学の研究者が意見を交わすことはあるが、マーケティングと経済学の研究者が議論することは、少なくとも日本ではほとんどない。刺激的でいい経験になった。
 

2013年1月28日

Geechee Dan、72歳

彼は、いつもニューヨークの地下鉄42丁目駅(タイムズスクエア)のプラットフォームで歌っている。昔は歌手としてハーレムのコットンクラブなどでも歌っていた。


駅のホームで歌うのは、もっぱら古いR&Bの曲。その歌声に、多くの乗客が足を止めて聞き惚れる。カートにアンプとスピーカーを積んで週に7日、ハーレムからやって来る。BGMは、今ではなつかしいソニーのディスクマンから鳴らしている。少ない日でもチップは150ドルくらいになるらしい。(YouTubeのタイトルはホームレスとなっているが、彼はホームレスではない)

日本の地下鉄にこうしたおじさんがいると、みんなびっくりするだろうなあ。その見事な歌声にみんなが肝をつぶす前に、駅の係員から追い払わらわれてしまうのだろうけど。

2013年1月27日

セントラルパークが凍った



セントラルパークにある"The Lake"と呼ばれる池(湖)が完全に凍り付いていた。で、多くの人がその上を歩いて渡っていた。僕も渡ってやろうと池に降りて真ん中に向かって歩き始めたら、後ろから大声で "Off the ice!(氷から降りなさい)" と警官に注意された。

池全面が凍ってはいるが氷の厚みは6センチほどで、その下の水は対流しているので割れるかもしれないらしい。昔は自然のスケートリンクとして使われていたと教えてくれた。温暖化のせいで、今はもうそうはいかないらしい。

2013年1月23日

NYの寒さ

夜の9時頃までコロンビア大学の図書館で作業し、帰りの支度をして建物を出たところで凍り付いてしまった。ビル風のせいもあるのだろうが、ハドソン川方面から吹いてくる寒風に鼻と耳がちぎれそうになる。

手袋とマフラーはしていたが、それだけではだめだ。防寒用の帽子がなければやってられない。今日は、日中の最高気温がマイナス5度。天気予報によれば、明日は最高気温がマイナス7度、最低気温がマイナス13度だそうだ。

以前NYに住んでいたことがあるHとYから、日本を出る前に「ニューヨークじゃマイナス20度くらいになる日も珍しくないから気を付けてね」と言われたのを思い出した。

2013年1月22日

米大統領の就任式

今日はマーチン・ルーサー・キング・ジュニア・デーで米国は祝日。

朝から米ネットワークテレビはどこも大統領の就任セレモニーをライブで流していた。2期目ということで、オバマ大統領はいくぶんリラックスした様子に見えた。

式典の司会を上院議員のチャールズ・シューマーが努めており、彼が開会の挨拶の中で語った「アメリカ人はこれまでも、また今もプラクティカルで、オプティミスティックで、プロブレム・ソルビングな人たちである。そして、どんな困難な時にも立ち上がり、繁栄へ向かって進んできた」という内容のコメントが印象的だった。

ジェームズ・テイラーが登場し、ギター一本で "America the Beautiful" を歌った。こうした歌手と歌を持つ国が、とても羨ましい。



2013年1月21日

SAMSARA

住んでいるビルの1階にあるPeter Norton Symphony Spaceで映画「SAMSARA」(監督ロン・フリック)の上映があった。Samsaraは、サンスクリット語で輪廻の意味らしい。
 http://barakasamsara.com/

台詞やナレーションは一切なし。映像と音楽だけで構成されたドキュメントである。もとになった映像は、世界25カ国で撮影されたもの。日本が登場するシーンもある。増上寺や渋谷駅前のスクランブル交差点、葛西の巨大なゴルフ練習場、さらにはダッチワイフの製造工場。その導入として映し出される大阪大学石黒教授と彼のつくったヒューマノイド。

日本人としてはそれらの選択に首をかしげるところもあるが、ここは制作者たちがこれらを「撮したい」と思ったことに理解を示したい。

映像はデジタルではなく70ミリのフィルムで撮影されており、その深みと鮮やかに引き込まれる。

2013年1月20日

余計なお節介社会、ニッポン

先日、「日本の電車で聞かされる『足を組んだり投げ出したりすると周りの方への迷惑になりますので、お止めください』という車内アナウンスは何とかならないか。われわれは幼稚園児ではない」と書いたことについて、何人かから自分もそうしたアナウンスを不快に思っているというメールをもらった。

電鉄会社は、わざわざ乗客を不快にするために車内アナウンスを流している訳ではないだろう。では、なぜこうしたことになるのか。

僕は、電車の中で足を組もうが、投げ出そうが、寝っ転がろうが構わないと思う。周りに人がいなくて、他人に迷惑をかけさえしなければ。肝心なことは、他人に迷惑をかけたり不快な思いをさせないことであり、足を組むかどうかということではない。自分の行為がそうしたものかどうかは、各自が状況から判断すればよい。

個人が判断すればよいことを、わざわざルール化して守らせようとするのが日本人は好きである。「決まりをつくればみんなが従う」という意識は、役人だけのものではない。日本人全体の体のどこかに染みついた業のようなものである。

企業の顧客サービス窓口とのやり取りで「何々ということになっておりますので」と言われることがよくある。顧客にはその何々の意味も必然性も分からず、勝手にその企業の都合で決めていることをまるで法律か何かを振りかざすように言ってくる。

しかも残念なことに、そうした時の相手の口調には迷いがない。おそらくは上司から言われた、あるいはマニュアルに書かれていることを自分の頭で考える事もなくそのまま信じているのだろう。また、そうした対応を日本の顧客の多くが日々受け入れてしまっている現状があるのだと思う。

ハーバード大の教授だったアージリスらは、人間の学習にはシングルループ・ラーニングとダブルループ・ラーニングがあると規定したが、まさにその前者の典型例である。前提(governing variables)を疑うことなく、ただ言われたことをいかに実現するかということにしか目が向いていない。

「個」の特性を活かした経営だとか、個性が生きる教育や社会の構築だとか言われているが、ニッポンでは100年たってもそれは無理かもしれない。我々の生活の隅々まで行き渡っている官僚制度によって、管理し管理されるのが好きになってしまっている。管理されることを無心に受け入れれば、自分の頭で意味を考えたり、判断したり、そのための価値基準を心の中に持ったり、それをもとに行動したりといった事をしなくてもいいから。

現在ニューヨークに住んでいて、日々の移動のほとんどは地下鉄だ。NYの地下鉄では、路線の運行変更のアナウンスはあっても、車内で足を組むなとか、投げ出すなというアナウンスはない。周りに迷惑をかけている人がいた場合は、誰かがその旨注意して止めさせる。それだけである。

大げさかもしれないが、日本の駅のプラットフォームや車内でのアナウンスは、ニッポンという国全体の精神構造を実によく表していると思う。僕が生きている間に、こうしたアナウンスがされなくなる日が来るだろうか・・・。


2013年1月19日

柔軟性とマニュアル主義

日本へのフライトの際、ダラス空港の搭乗ゲートでアップグレードを申し出た。一人分2万5千マイルと450ドルが必要と言われる。連れがいたのでマイレージは5万マイル必要なのだが、2千マイルほど足りない。どうしようかと思っていたら、カウンターの米国人スタッフが「ちょっと足りないけど、いいわ」と足りないマイレージ分をオマケしてくれた。

航空会社としては、多少足りないマイレージに目をつぶってでも、出発間際の便に追加料金を払ってもらった方がいいと判断したのだろう。僕はこうしたアメリカ人やアメリカ企業の柔軟性が好きだ。時としていい加減さに映ることもあるけど、とりわけサービス業では現場の裁量に任せた柔軟な対応がいい顧客満足を生むことの方が多い。

今日、KDDIが米国で携帯電話サービスを行っているKDDI Mobileに電話した際のこと。日本への帰国時の解約手続きについて確認しておくためである。手続き自体は、電話一本で済むらしい。いま使っている携帯電話機は、日本国内では使えないので「破棄」してくれと言われた。

企業としてリサイクルを検討した方がいいと言ったところ、「上司に伝えます」との回答。ふと思うところがあって、結果を知らせてほしいとお願いした。すると、こちらの電話番号、フルネーム、パスポート番号を教えてくれと。なぜパスポート番号が必要なのか? 「お客さま確認のためにお聞きしております」だって。マニュアルにそうあるのだろうけど、もちろん教えなかった。だって、必要ないもの。