2013年1月20日

余計なお節介社会、ニッポン

先日、「日本の電車で聞かされる『足を組んだり投げ出したりすると周りの方への迷惑になりますので、お止めください』という車内アナウンスは何とかならないか。われわれは幼稚園児ではない」と書いたことについて、何人かから自分もそうしたアナウンスを不快に思っているというメールをもらった。

電鉄会社は、わざわざ乗客を不快にするために車内アナウンスを流している訳ではないだろう。では、なぜこうしたことになるのか。

僕は、電車の中で足を組もうが、投げ出そうが、寝っ転がろうが構わないと思う。周りに人がいなくて、他人に迷惑をかけさえしなければ。肝心なことは、他人に迷惑をかけたり不快な思いをさせないことであり、足を組むかどうかということではない。自分の行為がそうしたものかどうかは、各自が状況から判断すればよい。

個人が判断すればよいことを、わざわざルール化して守らせようとするのが日本人は好きである。「決まりをつくればみんなが従う」という意識は、役人だけのものではない。日本人全体の体のどこかに染みついた業のようなものである。

企業の顧客サービス窓口とのやり取りで「何々ということになっておりますので」と言われることがよくある。顧客にはその何々の意味も必然性も分からず、勝手にその企業の都合で決めていることをまるで法律か何かを振りかざすように言ってくる。

しかも残念なことに、そうした時の相手の口調には迷いがない。おそらくは上司から言われた、あるいはマニュアルに書かれていることを自分の頭で考える事もなくそのまま信じているのだろう。また、そうした対応を日本の顧客の多くが日々受け入れてしまっている現状があるのだと思う。

ハーバード大の教授だったアージリスらは、人間の学習にはシングルループ・ラーニングとダブルループ・ラーニングがあると規定したが、まさにその前者の典型例である。前提(governing variables)を疑うことなく、ただ言われたことをいかに実現するかということにしか目が向いていない。

「個」の特性を活かした経営だとか、個性が生きる教育や社会の構築だとか言われているが、ニッポンでは100年たってもそれは無理かもしれない。我々の生活の隅々まで行き渡っている官僚制度によって、管理し管理されるのが好きになってしまっている。管理されることを無心に受け入れれば、自分の頭で意味を考えたり、判断したり、そのための価値基準を心の中に持ったり、それをもとに行動したりといった事をしなくてもいいから。

現在ニューヨークに住んでいて、日々の移動のほとんどは地下鉄だ。NYの地下鉄では、路線の運行変更のアナウンスはあっても、車内で足を組むなとか、投げ出すなというアナウンスはない。周りに迷惑をかけている人がいた場合は、誰かがその旨注意して止めさせる。それだけである。

大げさかもしれないが、日本の駅のプラットフォームや車内でのアナウンスは、ニッポンという国全体の精神構造を実によく表していると思う。僕が生きている間に、こうしたアナウンスがされなくなる日が来るだろうか・・・。