2013年3月4日

自転車を鉄道に載せて運ぶ

NYでの在外研究期間を終えて日本へ帰国する日が近づいて来た。急いで身の回りのものを片付けなければならない。

日本に持って帰るもの、当地で処分するもの、誰かに譲るもの。このなかで一番手間がかかるのが、誰かに譲るものだ。

今朝は、自転車をクイーンズ地区に住む友人のところに朝食をご馳走になりがてら持っていった。朝5時に起床。5時半に地下鉄に乗り込む。日曜日の早朝ということで車両は空いていて、周りに気兼ねすることなく自転車を運び込める。

ミッドタウンのペン・ステーション(Penn Station)でロングアイランド鉄道(LIRR)に乗り換える。

地下鉄は自転車の持ち込みは無料だけど、鉄道は持ち込み料が5ドルかかる。しかも、一つの車両に積み込みが許されているのは1台だけ。自転車を持った先客がいると、他の可能な車両を探さなければならない。それを懸念して、今朝は思い切って早起きして乗り込んだのだけど、こちらも車内はがら空きだった。

LIRRの車両に載せたバイク

学生時代、サイクリング・クラブに入っていた友人が、日本では鉄道で自転車を運ぶ時は分解した上で輪行袋という専用の袋に入れなければ車両に持ち込めないと言っていた。その後も日本では電車に自転車をそのまま持ち込んでいる人を見たことはないから、そうした規則は今も生きているんだろう、きっと。

ニューヨークに住んでいるからといって、決して何でもかんでも米国の方がいいと思っているわけではない。しかし、基本の発想の部分で日米が大きくことなっていることを、この1年間で痛感させられた。

米国には、基本のところで国民がやりたいと思うことが最大限認められる社会が理想だという基本理念がある。一方で、日本は最初から何でもやっちゃいけないことばかりで、その後どこまで許してやるかを役人が裁量で決めていく社会になっている。だから秩序が守られていて社会は安定しているけど・・・新しいことが生まれない。

謂わば、米国は国民のために作られた自由型社会で、日本は役人のために作られた規制型社会。これは思考のパースペクティブの点で、空を自由に飛ぶ鳥と地面をもぐって進むモグラくらいの違いがある。

この数十年間を見て、日本でアメリカのようにイノベーションが(結果として)生まれない理由は、これでかなりの部分が説明できる。

日本人がイノベーティブではないということではない。ましてやDNAの問題ではない。人を取り巻く世の中の環境が問題なのである。

その証拠に、日本が太平洋戦争で敗戦し、それまでの軍国主義がアメリカ式の民主主義に移行し始め、財閥が解体され、それまでの権威者たちが肩書きを剥ぎ取られ、新しい秩序が生まれつつあった混沌の時代には、後のソニーやホンダが生まれている。

どうも我々は、食うや食わずの状況に追いやられて初めて、根本的なところの力が出てくるようだ。