原作は1990年に刊行された佐木隆三の小説『身分帳』。本では人物の名前など変えられてはいるが、内容はノンフィクションらしい。
このストーリー、当時であれば今村昌平が監督をし、主人公に緒形拳をあてて映画化していたかもしれない。
西川美和監督は時代を現代に移し、役所広司を元殺人犯で13年の刑期を終えて娑婆に出てきたばかりの男に据え、その彼に時に近く、時に距離を置きながら寄り添う人々と彼らの関係を描いた。
役所が演じる元殺人犯の三上は、よく言えば正義感が強くてバカ正直。しかも直情径行的に行動するから、「我慢することに慣れている社会」とは折り合えない。
彼は旭川の刑務所を刑期を終えて出てきて、身元引受人である弁護士(橋爪功)とその妻(梶芽衣子)の世話で都内の下町のアパートに住むことになる。福祉事務所のケースワーカー(北村有紀哉)の支援を受けながら人生の再出発を考えるが、前科者ということで思った仕事には就けない。いろんな苛立ちが募る。
元やくざ、殺人を犯した元犯罪人に社会の仕組みは冷たい。男がはぐれ者の道に入ったきっかけは、その出生によるところが大きい。九州で芸者の母親から生まれ、父親からは認知されず、そのまま5歳で母親からも離ればなれになって施設で育った。
そうした男が生きているためにやくざの道に入るのは、意外でもなんでもない。ある種、世の中の筋書き通りなのだが、すでにその時点でそうした人間は「一般社会」から受け入れられない存在となっている。
男は最後、外出先からアパートに戻ってきて倒れ、亡くなる。彼の持病は危険なレベルの高血圧だった。映画は、男が死ぬ間際にどのようなことを考えたのか、どんな表情だったのか、はたして何か呟いたのか、画面は何も見せない。
それだけに、観る者は人生の多くの時間を刑務所で過ごし、一般社会では普通の生活には溶け込めずはじき出されていた一人の人間が、どうその生を終えたのかは想像するしかない。
男は「社会」とはうまく付き合えなかったが、根が正直で一本筋が通っている(根はいい奴である)彼の周りには温かい理解者がいた。そこが彼にとっての唯一の「世間」だった。
僕たちは一般的に、社会とうまく折り合いを付けながら生きていくことを求められている。会社で勤務すること、学校に通うことなど、すべてにそれが求められる。
だが、なかには社会とそうした関係を結べない人たちもいる。世の中の規範に添えず、はじき出され、認めてもらえないために行き場を失い、自分を失っていくしかない人たちである。
役所演じる三上は、その典型のひとり。過去を変えることができないゆえに、もうどうやっても「社会」に普通の形で身を置くことはできない。そこにあるのは、ある種の不条理である。
社会のルールに沿って日々を過ごしている我々は、旭川刑務所の刑務官が彼に諭した「我慢すること」を守り、また弁護士の妻が語った「私たちはいい加減に生きているの。自分をもっと大切に」の気持で生きることで、代わりに社会から守られている。
ただ、そうした何でもない処世術すら身につけられなくても、社会と折り合いが付けられなくても、少数でも親身に考えてくれる周りの人を得た彼にとってこの世界は「すばらしい世界」だった。