アメリカ議会でグーグル、フェイスブック、ツイッターの経営者を呼んでの公聴会が行われた。
今年1月に発生した米連邦議会議事堂への乱入、占拠への各企業の責任はなかったのか、偽情報の伝達と拡散の検証を行うためだ。当時、これらのSNS上にはトランプ支持者を先導する偽ニュースが大量に掲載されたはず。今回、自分たちの責任を意識的に語ったのは、ツイッターのジャック・ドーシーだけ。あとの2人は責任逃れの発言。
それにしてもこの3人、なんで揃ってこんなに顔が長いんだろう。
アメリカ議会でグーグル、フェイスブック、ツイッターの経営者を呼んでの公聴会が行われた。
今年1月に発生した米連邦議会議事堂への乱入、占拠への各企業の責任はなかったのか、偽情報の伝達と拡散の検証を行うためだ。当時、これらのSNS上にはトランプ支持者を先導する偽ニュースが大量に掲載されたはず。今回、自分たちの責任を意識的に語ったのは、ツイッターのジャック・ドーシーだけ。あとの2人は責任逃れの発言。
それにしてもこの3人、なんで揃ってこんなに顔が長いんだろう。
昨日、大学の卒業式、修了式が早稲田のキャンパスで行われた。
桜は満開。着物と袴姿の女子学生もたくさんいて、大学はもちろん街全体が華やかだったよ。
大学院の僕のゼミからは7名が修了。うち2人は成績優秀者として表彰された。頑張ったね。
23日にLINE社長の会見が行われた。
同社の出沢社長は、今後は中国からデータにアクセスできないように設定し、顧客データは日本に移管すると説明した。
ほら、できるじゃない。今さら手遅れだけどね。
LINEは今月17日のプレスリリースで、自分たちが中国企業に業務委託せざるを得なかった理由を「日々の開発・運営業務上の必要性から」と説明していた。
LINEが言うところの「必要性」はコストのことじゃないのか。利用者の個人情報より費用の削減が最優先だったということなんだろう。
会見では、「情報の漏洩や流出は本当にないのか」との質問に対して、社長は「漏洩は現時点で確認していない」と応えた。やっぱり”現時点”だ。
そもそも確認作業を進めなければ、いつまでたっても「現時点では確認できない」と言い続けることはできる。世の中を小馬鹿にした典型的なプレス対応の戦術である。やがてほとぼりもさめるだろうからと、たがを括っている。
LINEを日本の社会インフラという人もいるようだけど、勘違いだ。そんなの認められるわけがない。
岡林信康の新しいCDが届いた。
アルバムタイトルになっている「復活の朝」は、YouTubeでも聞ける。それを聞いてこのアルバムを注文したのだけど、ネットで注文し届くまで10日かかった。
LINEのセキュリティに問題があるとのニュースを聞いた。
報道によれば、2018年8月から先月までの2年半以上、中国の関連会社の従業員が日本国内にあるサーバー上のユーザー個人情報にアクセス可能な状態だったという。
漏洩した可能性のある個人情報にはユーザーの氏名、電話番号などのほか、通報内容にあたる「トーク」機能内や利用者が保存したメッセージ、画像も含まれていた。
問題が明らかになった後、LINE社は「漏洩はなかった」と発表したが信用できない。実際にその期間に中国人の従業員から何十回ものユーザーデータへのアクセスがなされているのだ。漏洩はなかったとする「漏洩」の意味によるが、すっかり抜き取られてしまってる危険性は否定できない。
「ある」ことを証明するのは簡単で1つでも実例を挙げれば済むが、「ない」ことを証明するのは本来的に非常に困難なはずだ。なぜなら、それこそくまなく全件全量調査を徹底しないと「なかった」と結論づけることはできない。
その意味で、今回、運営会社が火消し目的で「漏洩していない」と早々に発表したのは、まったく納得感に欠ける。あくまで「現時点では」との含みが企業にあることは明らかで、その後不都合なことが表に出てきた際には「あの時点では・・・だった」と釈明すれば済むとの考えが潜んでいる。
日本人8600万人のLINEユーザーの個人情報は、すでに中国政府がしっかりデータベースに収めて分析していることだろう。
2017年にかの国で施行された国家情報法は、民間企業はもちろんのこと個人にも情報活動への協力を義務づけている。依頼ではなく、義務化しているのだ。LINEの利用者は、これがどういうことか、また中国人がどういった国家圧力のもとで生きているか、考えた方がいい。
お仲間(何千万人もの他のユーザー)がいるからと、そして自分だけ焦っても仕方ないと無神経に構えていると、間違いなくとんでもない目に遭うことになる。
幸い僕はLINEアプリとは無縁でやってきた。最初から何だか厭な感じがしたから。これからも関わり合いになることはない。
今日、Signal というインスタント・メッセンジャー的なアプリをダウンロードした。理由はセキュリティとプライバシーの面から信用に足りると判断したからだ(エドワード・スノーデンもSignalユーザーらしい)。
ただ、まだSignalは利用者が少ないのであまり使える機会がない。早く多くの人がこちらに切り替えてくれるといいのだけど。
あまりに天気がいいので、午後から仕事を一休みして三浦半島の観音崎へ出かけた。1時間ほどのドライブだ。
風がくすぐったい。磯のにおいがする。日差しが温かい。満ちてくる波の音が気持いい。羽田空港に向かう飛行機が見えるよ。砂浜で小一時間ほど昼寝して帰って来た。
昨年6月、カナダに本拠地をおく世界的に有名なサーカス集団であるシルク・ドゥ・ソレイユが経営破綻した。
いや、シルク・ドゥ・ソレイユをサーカスと呼ぶのは正しくないかも知れない。ジムナスティック(体操)であり、オペラであり、ロックのライブであり、いわば総合エンターテインメントと呼べる興行システムだった。
ステージに登場する人物は、サーカスがそれを芸人と呼ぶのが今もふさわしいのに対して、シルク・ドゥ・ソレイユはアスリートだろうか。そのステージは、磨き上げられた体操選手の演技を見ているような感覚が強かった。
音楽を担当する生バンドがステージに陣取り、重要なアクターとしての役割を果たす。一方、象やライオンなどサーカスにつきものの動物は一切登場しない。彼らは複数のチームを編成し、ラスベガスの常設ステージをはじめ世界各地でショーを繰り広げていた。あの石岡瑛子さんが衣装デザインを担当した演目もあった。
ビジネスモデルという言葉を用いるとするなら、シルク・ドゥ・ソレイユのそれはサーカスとは違い、近代的かつ合理的、サーカスに比べて金がしっかり儲かる仕組みができていたはずだったのに。それが半年間の新型コロナウイルス拡大によって、なぜもろくも経営破綻したのだろう。
一方のサーカスだが、先日横浜で公演中の木下大サーカスを観に行ってきた。場所は横浜みなとみらい地区。アンパンマン・ミュージアムの東隣の土地にテントが張られていた。(アンパンマンのミュージアムがあるってことを初めて知ったヨ。)
みなとみらいに設置された木下サーカスのテント |
シルク・ドゥ・ソレイユのショーは、これまでいくつも観てきた。アスリートの驚異的な身体能力と人間技と思えないような磨き込まれたテクニックに息を呑んだ経験は強く記憶に残っている。けれど、なんだか見ていてテンションが上がりすぎて疲れてしまう感じもあった。
その点、木下サーカスには息を呑ませるスゴ技もたくさんある一方、言い方は少し変かも知れないが、宴会芸的ななんだかホンワカした芸もある。それらはパフォーマンスと呼ぶより、どちらかといえば演芸なのだ。
シルク・ドゥ・ソレイユにはない、サーカスならではの動物芸も登場する。シマウマ、象、ホワイトライオンなどが現れると会場の子どもたちは大喜びだ。
猛獣を含むこうした動物を使いながらのツアーは本当に大変だろうと思うけど、120年近い歴史を持つ木下大サーカスは、動物たちが見せる芸がサーカスに欠かせない要素であることをよく知っているんだろう。
僕の席は、最前列のステージ向かって左サイド。空中ブランコで使うタワーのすぐ脇だったのだけど、ふと気づくと隣にさっきステージで芸を見せていた若い娘さんが何か小道具を手に待機していて、後の演目でステージに立つ仲間にそれを途中で手渡すなどサポートしていた。
そのほかにもステージで使うロープを脇で引っ張ったり、あらゆる事を団員が相互で手分けしてやっているのが見て取れた。
それだけで家族的というのは変かもしれないが、印象として中小企業に所属してる仲間たちがみんなでステージを盛り上げようと力を合わせてやっているという感じが強く伝わって来た。これからもずっと頑張って欲しいナ。
事務所の脇に「新人募集」の張り紙が |
フィンランドは森と湖の国だ。ステレオタイプな表現だけど、でもそれが現実のフィンランド。フィンランドの森の美しさは、奥深い神秘的な森のそれではなく、湖と一緒になった清冽なすがすがしさだ。
こればっかりは、映像では分からない。できれば実際に行ってみないとね。映像を情報としてスクリーンで見るだけでなく、その場に行きそこの空気を吸うことで、その地を本当に理解することができる。
ミカ・カウリスマキ監督の『世界で一番しあわせな食堂』の舞台はフィンランド北部の小さな村。シルカという女性が1人でやり繰りしているそこのレストランに上海で元料理人をしていたチェンが息子とを連れて、恩人だという人物を探し訪ねてやってくるところから物語は始まる。
あるきっかけで、チェンはその店でシリカを助けて料理の腕を振るうことになり、やがて彼の作る上海風薬膳料理は評判になる。
店の常連客である2人の村人がいい感じを醸し出している。70歳くらいの素朴で、でも年相応の頑固さとユーモアを漂わせた男性2人。フィンランドの田舎町を象徴するこの2人が、チェンの作る料理を通じて少しずつ変わっていくのが分かる。
映画の前半、チェンとシルカがお茶を飲む場面がある。沸騰したお湯をポットに注ごうとしたシルカに、チェンは「お湯の温度は80度くらいがちょうどいい」と言う。シルカが「お湯を沸かし直せっていうの」と反発するシーンだが、西洋と東洋の軽い文化衝突が示される。
後半、シルカは沸騰したお湯ではなく、少しぬるめのお湯でお茶を淹れる。異文化理解なんていうと大げさだけど、自分たちと異なる習慣を受け入れた彼女のちょっとした変化と、沸騰したお湯と少しぬるめのお湯の対比が彼女の気持ちの変化をうまく表している。
限られた登場人物によって描かれる、日々の生活の中の一幕。ただ、もう一つの重要な主人公が、先に述べたフィンランドの自然。登場人物やストーリーもほのぼのとしているが、透き通った自然の風景やフィンランドらしいサウナの風景からも、ゆったりした気持ちにさせてくれる映画である。
映画を観ながら、小林聡美が出ていた『かもめ食堂』を思い出した。
https://tatsukimura.blogspot.com/search/label/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89
美術家の篠田桃紅さんが亡くなった。行年107歳だった。
彼女は前衛書家として水墨による独特な抽象表現の作品で知られた。100歳を超えてからも制作に意欲的だったという。伝統的な書でもなく水墨画でもない、独自の世界を切り拓いた美術家だった。
それにしてもなぜか画家には長寿の人が多いように感じる。篠田さんの107歳は別格だが、彼女以外にも長命の画家は多い。
葛飾北斎 89歳
熊谷守一 97歳
横山大観 89歳
東山魁夷 90歳
片岡珠子 103歳
ゴヤ 82歳
モネ 86歳
ドガ 83歳
ピカソ 91歳
シャガール 97歳
ルオー 86歳
など
美術家や画家という仕事には、なにか長生きの秘訣がありそうだ。そもそも彼らの仕事は、労働なのか制作なのか。
ハンナ・アーレントは、『活動的生』で人間の活動的生活を支える3つの条件を労働、制作、行動だとしている。そして、循環的反復によって「食うために」なされている作業は労働であると述べていた。
元グラフィック・デザイナーで画家の横尾忠則さんは『創造&老年』のなかで「・・・創造の快感は完成への道程のプロセスにあるわけだから、完成はどうでもいいんです」と書いている。とても印象的な一言に思える。
いまは何もかも、特にビジネスでの仕事においては、最初から仕上がりをイメージして、それをさかのぼるようにプロセスを組み立てていくというやり方が外れがなく、しかも効率的とされている。
ビジネスマンと芸術家の違いだと言ってしまえばそれまでだが、プロセスそのものを喜びとすることを、多くの人は忘れてしまっているんじゃないか。
画家は描きたいものを描きたいように描く。それが喜び。完成した「作品」でいくら儲かるかなどとはあまり考えないのだろう。そこが歳をとっても元気な秘訣なのだろう。
加えて、画家のように日々手や体を使うことが、人がいきいきとしながら歳を重ねていく秘訣であるような気がする。彼らだってもちろんアタマを使っているわけだけど、前頭葉だけを使っている人とは違う。
何かに夢中になって、結果ではなくプロセスを日々楽しみつつ、そのことが自分を含めた広い社会とつながっているという感覚を持っていること。
画家は画家、芸術家は芸術家、課長も部長もない。肩書きや役割によって自分が構成されているのでなく、真に自由。自分のクライアントは、自分。いい意味での唯我独尊で生きている。これが大切なんだろう、きっと。
まもなく、その後東日本大震災と名付けられることになる超巨大地震(マグニチュード9)と大津波に宮城県や福島県などの東北地域太平洋沿岸が襲われて10年の月日が経つ。
明らかに人災と判断される東京電力福島第1発電所の事故が日本国民を震撼させたとき、東電の経営者層が放った言い訳と言い逃れを忘れることはできない。
そうした不快な会社から電力供給を受けるのが嫌で、その後電力会社を変えた。だけどそこも、発電そのものは東京電力が行った電気を小売りしていることが分かった。
そこで今回、再生可能エネルギーを供給する電力会社に変えた。「顔の見える電力」を謳うみんな電力だ。
同社のサイトで電気料金のシミュレーションをやってみると、ちょうどこの時期は天候などの関係もあってか料金は月々数百円程度だが上がることが分かったが、東電に少しでも加担し続けるのはいやなので変更した。
そして以来、毎日翌日の日の出の時間を調べて、その時間に起きることでなるべく日中の電気を使わないようにする生活に変更しようとしている。そうやって生活のスタイルをちょっと変えることで、電気代の増加分くらい相殺してやろうじゃないかと思っている。なにより健康のためにもいいしね。
Clubhouse の利用者が日本でも増えている。テキストの書き込みができない、音声のみ利用可能な真のチャットツールである。
その背景には、ズームなど画像を伴うコミュニケーションツールにない気楽さ、つまりカメラ画像がないのでどこにいても、どんな状態でも利用できるメリットと、テキストにはないライブ感のあるコミュニケーションを期待する利用者のニーズがあったのだろう。
僕をClubhouseに招待してくれた友人は、「クラブハウスって何」と問う僕に対して「おしゃべり中心でやっている、まあAMラジオの超ミニ版という感じですよ」と説明してくれた。以前ラジオ番組を持っていた僕のことを思い出して、そう説明してくれたのかも知れない。
ラジオと云えば、Radikoの利用者が増えているらしい。僕もほぼ毎日、ラジコでラジオ番組を聴いている。たいていは朝、歯を磨きながらだったり、掃除しながら、あるいは台所でコーヒーを入れながらなど、家の中をウロウロしながら手を動かしながらの「ながら聴取」だ。
自分の気に入ったいくつかの番組を主体的に選んで聞いているので、そもそも番組内容そのものには大きな不満はないのだが、途中ではさまれるCMが時折鬱陶しい。とりわけ、頻繁に流れる「過払い金取り戻します」という司法書士事務所のCMには辟易している。
生理的に合わないので、そのラジオCMが流れ始めると音声をオフにする。しばらくしてオンに戻すが、よく戻し忘れる。
そこで、聴取料を取る代わりにCMフリー(CMなし)で聴けるサービスを提供してくれないものかと思っている。
広告料収入が減る分は、リスナーの聴取データはすべて捕捉しているはずだからそれに合わせて各局に後で収益を配分すればいいだろう。
今ラジコで、聴取エリアにかかわらず全国の放送局が聴けるエリアフリーの利用料が350円。比較になるかどうか分からないが、WOWOWは視聴料2,300円で放送番組とオンデマンド配信のすべてを見られる。それらから考えると、僕は聴取料毎月1,000円ならラジコのCMフリーを歓迎したいと思っているがどうだろう。
欧米や中国に比べて、日本の1部上場企業のトップは高齢化している。在任期間も短く、女性や外国人もほとんどいない。多様性がない。流れの激しい時代に、遅れをとりがちになるのはこういうところに要因があるのではないか。
後任は老若男女誰であろうと、なぜその人なのか説明できなければならない。「若い女性」という人選もステレオタイプ。会長の仕事内容に照らして必要な能力の基準を示し、誰がそれを満たすのかという判断をしてほしい。
映画「天国にちがいない(It Must Be Heaven)」はパレスチナ人の監督、エリス・スレイマンが脚本・監督・主演した作品。
彼は、イスラエルのナザレ(イエス生誕の地)生まれのパレスチナ人。どういうことかと云えば、1948年に行われたユダヤ人によるイスラエル国家の設立宣言によって、パレスチナの土地にそれまで住んでいたアラブ人たちは、他の地へ逃げて難民となるか、その地にとどまることで「イスラエル人」となることを選ばされ、スレイマンは後者のひとりとして複雑な境遇で育った。
映画の主人公は、映画の出資者を探してイスラエルからパリ、ニューヨークと旅をする。どこでも彼が持ち込む映画の企画は断られてしまうのが、それは本映画の本筋とは関係ない(たぶん)。
イスラエルで、パリで、NYで、彼が目にするのは、さりげない風景でありそうで、パレスチナとイスラエルの関係を示すかのような奇妙な、そして時に不条理な風景である。
主人公の映画監督を演じるスレイマンは映画の中で始終黙ったまま。言葉を発するのは、「ナザレ」「私はパレスチナ人」という二言だけ。
言葉でなく、いくつものシーンで観る者にテーマを感じさせ、考えさせようとしている。それぞれの地で警官の集団が描かれる。そのモチーフが示すのは、理屈ではない権力の存在とその滑稽さ。その警官の集団は、パレスチナの地でのイスラエル人を現している。
警官と市民。警官と天使。そこにある対立にならない不釣り合いの権力の関係と構図。静かな、そして寡黙なユーモアとペーソス、そして深い哀しみを漂わせる作品だった。
劇作家で演出家の鴻上尚史は、こうした例で<社会>と<世間>の違いについて指摘している。それは、例えば駅の階段で大きな荷物を手に困っている老人がいても人は見て見ぬ振りをして通り過ぎるのは、そこは<社会>だから。
一方、もしそれが自分の親しい人だと分かったら、誰もが声をかけ荷物を運ぶ手助けをする。なぜなら、それが<世間>だから。
分かりやすい喩えだが、だとすると<世間>とは身内の延長、インナーサークルと言い換えることができる。そして、<世間>と<社会>は別の世界ということになる。
その鴻上がブレイディみかこさんとNHKの番組で対談してたのを以前見たのだけど(その後対談は本にもなっている)、彼女の旦那さん(英国人)は困っている人がいるとすぐに自然に声をかけ、手助けしようとする。
その彼が日本に来た時、駅の階段で大きなスーツケースを抱えて困っている女性を見かけ、手助けしようとスーツケースを運びかけてビックリされ、叫び声まであげられたと語っていた。
彼にとっての<世間>は<社会>に包含された一部なのだろう。あるいは彼にとっては<社会>そのものが<世間>であるということになる。
彼は別に特殊なタイプの人ではなく、一般的な英国人だと思う。英国にいた時に見た風景なのだが、信号のない横断歩道で高齢の女性が道を渡れないまま困っていた。すると、たまたまそこを通りかかったパンク野郎2人が道路に飛び出し、やって来るクルマに向かって両手を挙げて彼女に道を開いた。で、その老女が歩道を渡りきるまで(腰の曲がったお婆ちゃんなので、ほんとうに時間がかかった)その姿勢でクルマを止めていた。
彼女が無事渡りきったのを確認すると、2人のパンクは何もなかったかのように立ち去っていった。もちろんドライバーらも状況が分かっているので、おとなしくブレーキを踏んでいる。間違っても誰もクラクションなど鳴らさないところに、日本を思い浮かべて英国人のゆとりを感じた記憶がある。
多種多様な価値観を持つ人々で溢れ、典型的な個人主義の街として語られるニューヨークですら(あるいはニューヨークだからか)、普段は周りに余計なことはしないが、必要とあれば誰にでも気軽に手助けをする人が多かった。
こうした感覚は、自分(個人)が社会とつながっているという意識を持っているから。一方で、日本人は世間(知り合いなどの限られた身の回りの集団)とはつながりを感じてはいるが、社会全体との連帯感が極めて薄い傾向があるように思う。
正直言って、今でも日本を田舎だなあと感じる一番の理由はそこにある。たとえば「旅の恥はかきすて」なんて言葉があるが、旅先などで周りにまったく無頓着で仲間うち(つまり世間)だけで騒いで喜んでいる日本人を見るたびにいやな気持になったものだ。
個人ー世間ー社会と連続し拡張する関係性で、個人が社会化された社会が成熟社会といえるのである。
原作は1990年に刊行された佐木隆三の小説『身分帳』。本では人物の名前など変えられてはいるが、内容はノンフィクションらしい。
このストーリー、当時であれば今村昌平が監督をし、主人公に緒形拳をあてて映画化していたかもしれない。
西川美和監督は時代を現代に移し、役所広司を元殺人犯で13年の刑期を終えて娑婆に出てきたばかりの男に据え、その彼に時に近く、時に距離を置きながら寄り添う人々と彼らの関係を描いた。
役所が演じる元殺人犯の三上は、よく言えば正義感が強くてバカ正直。しかも直情径行的に行動するから、「我慢することに慣れている社会」とは折り合えない。
彼は旭川の刑務所を刑期を終えて出てきて、身元引受人である弁護士(橋爪功)とその妻(梶芽衣子)の世話で都内の下町のアパートに住むことになる。福祉事務所のケースワーカー(北村有紀哉)の支援を受けながら人生の再出発を考えるが、前科者ということで思った仕事には就けない。いろんな苛立ちが募る。
元やくざ、殺人を犯した元犯罪人に社会の仕組みは冷たい。男がはぐれ者の道に入ったきっかけは、その出生によるところが大きい。九州で芸者の母親から生まれ、父親からは認知されず、そのまま5歳で母親からも離ればなれになって施設で育った。
そうした男が生きているためにやくざの道に入るのは、意外でもなんでもない。ある種、世の中の筋書き通りなのだが、すでにその時点でそうした人間は「一般社会」から受け入れられない存在となっている。
男は最後、外出先からアパートに戻ってきて倒れ、亡くなる。彼の持病は危険なレベルの高血圧だった。映画は、男が死ぬ間際にどのようなことを考えたのか、どんな表情だったのか、はたして何か呟いたのか、画面は何も見せない。
それだけに、観る者は人生の多くの時間を刑務所で過ごし、一般社会では普通の生活には溶け込めずはじき出されていた一人の人間が、どうその生を終えたのかは想像するしかない。
男は「社会」とはうまく付き合えなかったが、根が正直で一本筋が通っている(根はいい奴である)彼の周りには温かい理解者がいた。そこが彼にとっての唯一の「世間」だった。
僕たちは一般的に、社会とうまく折り合いを付けながら生きていくことを求められている。会社で勤務すること、学校に通うことなど、すべてにそれが求められる。
だが、なかには社会とそうした関係を結べない人たちもいる。世の中の規範に添えず、はじき出され、認めてもらえないために行き場を失い、自分を失っていくしかない人たちである。
役所演じる三上は、その典型のひとり。過去を変えることができないゆえに、もうどうやっても「社会」に普通の形で身を置くことはできない。そこにあるのは、ある種の不条理である。
社会のルールに沿って日々を過ごしている我々は、旭川刑務所の刑務官が彼に諭した「我慢すること」を守り、また弁護士の妻が語った「私たちはいい加減に生きているの。自分をもっと大切に」の気持で生きることで、代わりに社会から守られている。
ただ、そうした何でもない処世術すら身につけられなくても、社会と折り合いが付けられなくても、少数でも親身に考えてくれる周りの人を得た彼にとってこの世界は「すばらしい世界」だった。
横浜美術館が3月から大規模改装に入る。閉館に先立って愛知県美術館、富山県美術館と共同でトライアローグ展という名の20世紀の西洋美術を中心にした催しを行っている。
ピカソやミロ、クレー、ダリ、ポロック、マグリット、マティスなど多くに馴染みのある20世紀の西洋美術の有名作品が集められ、横浜を皮切りに、その後愛知と富山を回っていく展覧会である。シンプルなアイデアの優れた展覧会企画だと思う。
コロナ禍での開催ということで入館は事前の予約制。現地に少し早く着いたのでその近くを散歩した後、コーヒーを飲むために美術館向かいのブルーボトルコーヒー(BBC)の店に入った。
今朝の新聞紙上、星野リゾートの社長が東京オリンピックは無観客であってもこの夏に実施すべきだとして、「(国内の)各都市を世界中の人たちにアピールする絶好の機会です。開催できたという実績は、観光面でも大きなメリットです。インバウンドの回復スピードも桁違いでしょう」と発言していた。
最大の危機において日本人は抽象的な観念論を非常に好み、具体的な理性的な方法論をまったく検討しようとしないということです。自分にとって望ましい目標をまず設定し、実に上手な作文で壮大な空中楼閣を描くのが得意なんですね。物事は自分の希望するように動くと考えるのです。
根拠がないのに「大丈夫、勝てる」だの「大丈夫、アメリカは合意する」だのということを繰り返してきました。そして、その結果まずく行ったときの底知れぬ無責任です。
米国の U.S. News & World Report とペンシルベニア大学が実施した Best Countriesを問うた調査がある。
60ヵ国についてサステイナビリティ(持続可能性)、アントレプレナーシップ、経済的な影響度合、冒険心、文化的影響度合に関して16,200人を対象に調査をして65の因子をもとにランク付けしたものだ。調査の対象になったのは経営者層、知識人、一般の市民らである。
調査主体は、データをもとにどの国が経済的成果度合とブランド・イメージによるアピールが高いか分析をしている。
その1位から10位は、1)ドイツ、2)カナダ、3)英国、4)米国、5)スウェーデン、6)オーストラリア、7)日本、8)フランス、9)オランダ、10)デンマークの順序になっている。
同じ調査をもとに、子育てをするのにふさわしいと評価されている国は、1)スウェーデン、2)デンマーク、3)カナダである。退職後に過ごしたい国としては、1)コスタリカ。2)アイルランド、3)カナダの順になっている。ここでもカナダが人気みたいだ。
その同じ年、Good Countryを問う調査が別の調査主体によってであるが世界でなされている。その調査では、先の調査が経済力とブランド・イメージによってランキングしたのと異なり、調査対象となった国をその国の大きさに比例して世界に「共通善」をどの程度与えているかが基準とされている。
測定された因子は、科学と技術、文化、国際平和と安全、世界秩序、地球環境、繁栄と平等、健康と福祉の7つだ。
163ヵ国が調査対象とされ、そのなかのグッドカントリーと評価されたトップ10は、1) スウェーデン、2)デンマーク、3)オランダ、4)英国、5)スイス、6)ドイツ、7)フィンランド、8)フランス、9)オーストリア、10)カナダだった。
これら2つの独立した調査で、どちらのランキングにも登場する国が7つある。ドイツ、カナダ、英国、スウェーデン、フランス、オランダ、デンマークだ。これらの国は経済的な発展度合とイメージが評価されているだけでなく、他国や地球全体への配慮と貢献が評価された結果である。
逆の観点からこれらの調査結果を見ると、その国の経済力に比べて「良い国」としての評価がなされていない3つの国があることが分かる。それらは米国、日本、オーストラリアである。