2018年6月15日

「多様化」をもっと多様な視点で理解する必要がある

今朝の新聞の記事。視覚障がい者を対象にした調査で、彼らのなんと6割以上が飲食店で補助犬を連れて入店するのを断られた経験があると言う。

法律によって店舗などで補助犬(盲導犬、聴導犬、介助犬)を断ることは禁止されたが、記事ではそれが徹底されておらず、そのためにこうしたことが発生してると述べている。

法律が制定されたことが関係者に知られていないこともあるだろうが、基本的にそれ以前の問題。つまり、飲食店で働く人の意識の問題だ。

世を挙げて、やれ多様性だダイバーシティーだと言われながら、身体に障害のある人たちに対するまなざしは未だに冷ややかであり、時に差別的であったりするのは変わりがない。女性を管理職に登用することだけが社会の多様性ではない。そうした問題の矮小化がとても気になる。

今さらながら、いろんな人が世の中にはいるという、しごく当たり前のことにもっと意識を向けることから始める必要性を感じる。

2018年6月11日

今日は新聞全休日

今日は朝刊の配達がなかった。朝日も毎日も読売も産経も日経も・・・。見事な横並びだ。

新聞を休刊するのはその新聞社の勝手だが、読者無視の業界内申し合わせは止めてはどうか。

休刊日が新聞社ごとに異なっていれば、いつも自分が読んでいる新聞の休刊日には普段は手に取ることのない他紙を駅の売店やコンビニで手に取るかもしれない。

きっとそれは何かのきっかけになる。それを契機に複数紙を読み比べるようになったり、購読紙を変えてみることにもつながる。読者にとっては新たな視野を獲得するチャンスだ。

新聞社は、そうした一般紙内での購読者の移動が起こらないようにまったく同一の休刊日を設定している。専売所の店員に休暇を与えるためというのが彼らの言い分なのだろうが、それは半分でしかない。

スポーツ紙は休刊日なくちゃんと(?)新聞を発行している。一般紙はいつになったら、顧客の視点で自分たちのビジネスを考えるようになるのだろう。永遠に休刊する前に経営者たちが気がつけばよいけどね。

2018年6月10日

犬ヶ島

「犬ヶ島」は、「グランド・ブタペスト・ホテル」を作ったウェス・アンダーソンによるストップモーション・アニメ映画の傑作だ。


ストップモーション・アニメーションは、その名の通り、人形など制止している物体をひとつひとつコマ撮りして製作するアニメーションである。膨大な時間がかかるのことは、容易に想像できる。その一方で、有りモノの俳優やキャラクターに拠らない自由な発想と造形でストーリーを流していくことができる。

この映画、見れば分かるが妙なバイアスがいっぱいかかっている。日本人の観客にはうれしいバイアスだけど。

まず舞台が日本。メガ崎市という街がひとつの舞台。そして、昭和の時代をもとにした近未来での出来事。黒澤明の映画のモチーフがたくさん登場する。人(犬)物構成もそうだし、早坂文雄が作曲した「七人の侍」の音楽はそのまま用いられている。

アンダーソンは黒澤だけでなく、沈黙の使い方や自然の描き方などについて宮崎駿からも多大に影響を受けているらしい。 沈黙のなか、アップの犬の表情が映る。その毛が風に揺れる。確かに宮崎映画を彷彿とさせるシーンがたくさん出てくる。さらには、本多猪四郎の東宝特撮怪獣映画からの影響も見て取れる。

ヨーコ・オノという名の科学者助手の声は、あのオノ・ヨーコが。全編を通じて登場する通訳者ネルソンという女性の声が、あの「スリー・ビルボード」のフランシス・マクドーマンドだとは最後まで気がつかなかったけど。


2018年6月9日

社会や家族から捨てられた人たちの物語

映画「万引き家族」の舞台は、林立するマンションの谷間にぽつんと残された古びた一軒家である。そこに集まり、また拾われてきて暮らすようになった5人+ひとりが主人公である。


この映画は、すでに死亡している親の年金を、遺族たちが黙ったまま不正に受給し続けていたという事件から是枝監督が着想したという。新聞社のデータベースで検索してみると、そうした事件は2010年の夏頃から報道され始めている。
当時、非倫理的だとか様々な批判がなされたが、なぜそういった事件が起こったのか、また続けられてきたかについての深い考察はほとんど聞くことはなかった。ただ、けしからん、悪い事やってる、と言った報道しかなされていなかったように記憶している。誰も深く知ろうとしなかった。
是枝は、そうした小さな事件(といっていい)と世の中にはびこっているもっと大きな社会的犯罪との差、そしてそれらの報道にまつわる違和感や居心地の悪さから発想をスタートしたのだ。
是枝監督には「そして父になる」という映画があったが、今回の映画はその延長にあるものだと思う。どちらもリリー・フランキーが主演だ。タイトルは「万引き家族」だが、「そして家族になる」というタイトルでもいいくらいだ。
ほとんど血のつながらない連中が、擬似的に家族を構成し、そこでお互いを家族だと思って生きている。これははたして家族か家族ではないのか。家族とは何なのか、そんなことを深く考えさせられる映画だ。 

彼らは社会の谷間の中で、周りとさほどつながることなく生きている。しかし考えてみれば彼らの近くのマンションの住人たちだって、同じように社会とそれほど深くつながらないままに生きているである。そういう意味で、彼らはわれわれ一般の日本人の一つの縮図かもしれない。

拾われてきて、この「家族」と一緒に暮らすようになった少女がいい。「フロリダ・プロジェクト」の少女もよかった。どちらも監督の技が光る。


2018年5月27日

フロリダの光と影

冒頭からいささか気色の悪いショットで映画は始まり、そのまま気分が乗らないままだ映画のストーリーは流れていく。

「フロリダ・プロジェクト」は、アメリカ、フロリダのディズニーランドのその塀の向こうの世界を描いた映画である。そこにはディズニーランドを訪れる客のための安いモーテルが林立し、アパートを借りることのできない貧しい連中が宿泊料週払いで住んでいる。

シングルマザーの家庭も多い。アメリカ社会の縮図というわけか。白人もいれば黒人もいるし、ヒスパニックもいる。今回の映画の主人公たちともいえる悪ガキらもそれぞれ白人、ヒスパニック、そして黒人の子供たちである。

冒頭から見ていてあまり心地良くないシーンが続いて、何度も観るのをやめようかと思いつつも最後まで踏みとどまり、やっと最後の最後の30秒の展開ですっと救われた気がした。はっきり言ってそれほど気の利いたシーンというわけでもないのだが、それまでが酷かった。

この映画で、脚本・監督のショーン・ベーカーが描いたのは今のアメリカ社会の一面。豊かで華やかなそのイメージの裏にある、人々の暮らしの現実である。その日暮らしの若いシングルマザーとその6歳になる娘が話の中心だが、それは決して特異な存在というわけではない。

アメリカには、フロリダにとどまらず全土にそうしたその日暮らしの貧しい家族らがいるはずだし、またそれはアメリカに限った話でもない。日本にも数多くこうした若く貧しいシングルマザーとその子供の家族もたくさんいることだろう。

ただ、この映画を見て思ったのは、アメリカ人のこうした底辺にうごめく人たちのアナーキーなまでのパワフルさ、身勝手で自己主張が強くあまりにも自己中心的なその姿の異様さである。そこには社会性や合理性は感じられない。ただ自分を守りたい、自分さえ良ければいいという、そうした野放図な利己心があるだけだ。

その凄まじいパワーというか、執念を感じさせるほど身勝手な主張を繰り返す強さには負けてしまう。日本ではこうはいかないだろう。だれもがそここそ社会性を持ち、常識で生きている日本人にはこうした強さはない。はたしてそれがいいのか悪いのか、この映画を観ていてわからなくなった。

子役たち(どれもすばらしい)を始め、無名の役者たちが多かったこの映画の中で、唯一僕が知っていたのは舞台となっている安モーテルの支配人を務めるウィリアム・デフォーだ。これまでエキセントリックな役柄が多かった彼が、随分と落ちついた常識的な人物像をきっちりと演じている。

その彼の落ち着いた役割と演技が、この映画の最大の清涼剤とも言えるものだったことは間違いがない。彼の役柄がなければ、僕はこの映画の途中でとっとと映画館を後にしていたことだろう。

この映画の上映の前に、是枝裕和監督の「万引き家族」の予告編があった。高層マンションの谷間に立つ平屋に住む家族を描いたこの作品とフロリダ・プロジェクトは見事に繋がっている(「万引き家族」はまだ未公開だけど)。

表からは見えない、だけどしっかりそこに息づき生きている人たちや家族の存在を観るものに突きつけ、深く考えさせる。
 

2018年5月8日

ルール遵守という思考停止

パナソニックが、社員のジーンズとスニーカーでの出勤を認めることにしたという記事を目にした。津賀社長がチノパンで出勤しているという写真付きである。

あらためて、パナソニックはジーンズやスニーカーでの出勤は禁止されていたんだと知って驚いた。パナソニックほどの大企業だから詳細な服装規程があって、そのなかではっきりダメとされていたのだろう。

単なる服装と言えばそれまでだが、これまで誰もそうしたルールに異議を唱えてこなかったのか(そういう人はいたが、それにましてルールが強固だったのかもしれない)。服装に関する規則など勝手に無視して、ジーンズでも短パンでも好きな格好で出勤し仕事をするような連中はいなかったのか。

もちろんビジネスマン(ウーマン)だから、客先を訪問する際や改まった席がある日にはスーツ姿が適切なことは言を俟たない。だが、社内で仕事をしている分には、周りに不潔感を感じさせたり、不快な気分を抱かせない限り何でもいいだろう。

生まれつき髪の毛の色が茶色い女子中学生が、学校の教師から執拗に髪を黒く染めることを強要され、あげくは「染めるか、(学校を)辞めるか」と迫られた。髪を毛染め薬で何度も染めることで頭皮や皮膚がただれ、親が学校に対して説明したが「ルールはルールだから」と聞き入れられなかったいう話を思い出した。

ルールを振りかざす人たちは、往々にして権力志向と安定志向が強い。それによって守られて生きてきた人たちにとっては、どんな意味のないルールも貴重な防御壁なのだ。一方で、無用にそうしたルールで苦しめられている人たちがいるのも事実。

みんなにとってそれが必要だからルールが作られるのではなく、たいていは一部の連中が自分たちにとって「やりやすいように」やるために先にルールを作る。

私たちは、子供のころから学校で規則を守ることが大切だと繰り返しすり込まれている。誰のため、何のため、という基本的な問いは置かれたままだ。ルールはルールだからみんなきちんと守ること、みんな一緒、人と違ったことをしちゃダメ・・・。

こうした教育と社会通念が日本人と現在の日本という国を形作っている。アメリカなど海外から思いもよらなかったような発想が事業として登場し大きく成長している。

今ごろスーツをジーンズに着替えたからと言って、周回遅れの差が縮まるかどうか・・・。

2018年4月3日

買いたくても買えない

最近、これほど何かを欲しいと思ったことはない。ソニーのaiboだ。
今回でその販売は何回目かになるようだが、今日4月3日の夜8時からソニーのサイトでaiboが発売になった。電話やソニーの店舗では買うことはできない。ネットでのみの販売だ。
夜8時からの販売開始に合わせて、パソコンを立ち上げ準備をし、指慣らし肩慣らしをして午後8時の時報とともに所定のサイトにアクセスを試みる。しかしアクセスが殺到しているのだろう。一向につながらない。 
何度も試みるが、だめだ。40分くらいか、数えくれないくらいの回数やってみるが、「ただいま混雑をしています」という表示で受け付けてはくれない。というか、つながらない。そしてそのまま、9時前に「完売しました」という表示が出た。
 悔しいの一言である。aiboは、本体だけで20万を超える。それに、所定のメンテナンスサービスをつけると全部で30万円をゆうに超える買い物である。それにもかかわらず日本国中から、いや場合によっては世界中からのアクセスが殺到したのに違いない。
いまどきこんな商品があるんだなと、ふとわれに返った。欲しいものが欲しい、などと言われて久しいが、こうやって人の購買意欲をここまでかき立てる商品だって、まだ企業が作ることができるのだ。
考えてみれば、やっとこソニーはかつてのソニーらしい会社に戻ったということの証明かもしれない。もしもの話をしてもしょうがないが、2000年代から2010年代にかけてソニーの経営を率いていたイギリス人社長がリストラや間違った改革さえ行わなければ、ソニーはここまで長い間、ビジネスにおいても人々からの愛着においても回復に時間を要することはなかった。

2018年3月30日

ため息しか出ないのは、われわれ読者だ

3月27日、前財務省理財局長の佐川氏の証人喚問が行われた。その内容はテレビで放映され、それを見た国民の多くは呆れ、怒りを覚え、やるせない思いになったはずだ。

森友問題をめぐる文書の改ざんは、なんと300箇所に及んでいた。ちなみに、日経新聞はそれを<改ざん>ではなく<書き換え>という表現で報じ、週一で同紙に連載を掲載する池上彰さんから紙上で「なぜ日経新聞は、改ざんを書き換えなどという言い方で報じるのか」と突っこまれる体たらくである。

それはさておき、証人喚問の翌日の同紙一面の春秋欄(朝日新聞の天声人語、読売新聞の編集手帳にあたるその新聞を代表するトップコラム)で、同紙論説委員は証人喚問に関して「結果は、半ば予想された展開ながら隔靴掻痒の極みだった。眺めていて、ため息しか出ない」と書いた。

これを読んだとき、僕は一瞬、読者の投稿欄かと持った。なんという無責任、情けなさ。ため息をつく閑があったら、本当の事を突き止め報道するのが新聞の役割だろう。

スピルバーグが監督をした「ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書」(原題は、The Post)は、1971年にワシントン・ポスト紙が当時のアメリカ国防長官ロバート・マクナマラの指示で作成された機密文書のコピー(4000ページ!)を手に入れ、それを政府から訴えられることになるだろうリスクを覚悟して紙面で報じるに至った経緯を描いている。

主演はメリル・ストリープとトム・ハンクス。それだけで観に行かないわけには行かない。話の中核は、夫の死によって突然ワシントンポストという米国でトップ級の高級紙の経営者となったストリープ演じるキャサリン・グラハムが苦悩しながら決断にいたる姿が描かれているところだ。

ベトナム戦争についての裏側が生々しく書かれている機密文書について紙面で報道するかどうか。彼女は自分が社主となったワシントン・ポスト紙の経営を安定させるため、銀行団と調整しながら上場させようとする、まさにそのタイミングにあっただけに、話はややこしく、見るものをスリリングな気持にさせる。

グラハムは苦悩する。結果、彼女は GO の指示を出すのだが、その原動力となったのは、当時の同紙の編集主幹で「ニューズウィーク」から同紙へ引き抜かれてやってきたベン・ブラッドリーのブレのない、執拗なジャーナリストとしての記者魂だったのは間違いない。

ワシントン・ポスト紙が記事を掲載したその日のうちに、大統領(ニクソン)の指示で米国司法省は同紙に対する掲載禁止令と恒久的差し止め命令を要求した。ただ、裁判の結果、連邦裁判所判事らは訴えを却下した。

米国政府がベトナム戦争終結に向けて大きく舵をきることになるきっかけとなった報道である。

ひょっとしたら自分たちの新聞社は潰れるかもしれない、訴えられた経営者と編集責任者は有罪に処せられるかもしれない、そうした重圧を最終的にはねのけて、彼らはジャーナリストとしてやるべきことをした。

日経新聞のコラム子よ、「眺めていて、ため息しか出ない」などと人ごとのような腑抜けた台詞など吐かずに、報道機関として自分たちが何をやるべきか、何ができるかすぐに考えて欲しい。

ため息しか出ないのは、読者であるわれわれ国民なのだよ。



2018年3月28日

警鐘を僕たちはどう聞いてきたか

書棚を整理していて、1997年に発行された『2020年からの警鐘』という本を見つけた。本が出版されたのは20年以上前である。もとは、当時の新聞に掲載された特集記事を再編集したものだ。

何気なく手に取り、主な目次に目を通しざっと全体を眺めたが、そこに書かれている「このままだと、2020年にはこうなってしまうぞ」という警鐘の数々は、ほとんどそのまま20年後の我々が暮らす現在につながっている。

インターネットを誰でもが使えるようになり、AIが急速に進化して人の仕事を奪うのではないかとの危機感が生まれ、車の自動運転の現実化が増してきた日本の現在だけど、どれもこれも海外から押し寄せてきた潮流になんとか遅ればせながら「対応」しているだけで、日本から生まれ、世界を変えようとしているものはほとんど思いつかない。

今の日本の状況は、19世紀の終わり、ビクトリア朝時代の英国を連想させる。産業革命を世界で初めて成し遂げ、世界の工場として他国に比して豊かさを手に入れたが、その「成功体験」から構造転換に鈍感になり、やがては製造業は米国やドイツに追いつかれ抜かれた。

しかし長らく「英国病」と呼ばれる低迷期を経験したその国も、その姿を変えてまた世界の表舞台でそれなりの存在感を示すようになった。そのためには衰退から100年後、サッチャー首相のイニシアティブによる多くの痛みの伴う国を挙げての改革を待たねばならなかった。

鉄板のような官製規制、少子高齢社会に向けての漠然とした人々の不安感、変わらない学校教育、「日本はこれまでもなんとかなってきた」という日本人的盲信・・・。正直言うとどうしようもない面が多いけど、社会が変わらないなら個人だけでも変わらなければとつくづく思う。

2018年3月21日

流れがない社会は滞り、腐る

報道によると、前国税庁長官(前財務省理財局長)だった佐川氏の退職金は5000万円らしい。その数字は別として、退職金額は国家公務員退職手当法に基づき算定され、定年退職に比べ自己都合での退職だと少なくなるらしい。

こうした考えは、早急に改めるべきだ。こうした規則は、職員が定年まで長きにわたって勤めあげることを推奨してるわけであるが、果たしてそれが本人のため、また組織のため、ひいては彼なり彼女が公務員であれば国民や市民のためになるのだろうか。

長く努めていさえすれば得ができるというインセンティブで人が良い仕事をするとは思えない。ましてや倒産やクビのない公務員である。人材の流動性を阻害しているだけだ。

官から民への移動、民から官への移動が日本でももっともっとあっていい。あるいは公務員だった人が定年前にさっさと辞めて起業したり、別の人生の道を歩み続けることがあっていいと思うのだ。

社会の活力が生まれない理由の一つは、人の流動性の低さにある。

2018年3月17日

自動で走る住居

いつの頃からか、日経新聞を読むのが苦痛で仕方がないというか、面白くないのである。その理由をつらつらと考えてみると、理由のひとつとして、あまりにも自動運転に関する記事が日々数多く掲載されていることに気がついた。

自動運転に関係して、そこでは人工知能やらIoTやら、そうした領域のことが報道されているのであるが、それらがどうも過大に取り上げられているように思えてならない。

自動運転が我々の生活にどのようなインパクト与えるのか、ということについて自分自身考えることはしばしばあるけれど、現時点での結論としてはそれほど自分の生活やましてや意識を大きく変えるものにはならないだろうというのが今の結論だ。

自動運転によって移動が楽になる、そしてそれに応じて時間の使い方もいくら変わるだろう。だが、それが何か新しい知的創造を自分の中で生み出すことの手伝いになるかというと、それは疑問である。

いってみれば、たかが自動運転である。タクシーと何が違う。何かそれによって世の中の秩序がひっくり返るかどうかと言うと、自動車会社の経営者でもない限りはそんなことはないはず。

新聞記者たちは、他にめぼしいネタが見あたらないからかなのか。もっと我々の周りに目を向け、考察を深め、行動し世間に意見を問うべきことっていうのはたくさんあるような気がするのだがどうだろう。

先日テレビのニュースで報道していたが、日本郵便がその本社がある虎ノ門から新橋にかけて自動運転の試験走行をやるらしい。

自動運転といっても自分たちの郵便局間を車で走らせるテストだ。目指しているのは、人手が足りなくなってきたこの時代に、人が運転するのではなく車が勝手に郵便局間を郵便物を乗せて移動するということだ。確かに効率性を考えるとこれはアリかもしれない。しかし、ただそれだけのことである。

ただ1つ思うのは、トレーラーハウスのようなものを生活の拠点としてそこで日々の生活をしながら移動していくライフスタイルだ。時折、そのことにについて想いを巡らす。

トレーラーハウスやそれに類似する移動物は昔からあるが、基本的には自分で運転をして目的地を渡り歩いていくのが普通である。だが自動運転が本当に可能になったならば、自分はトレーラーハウスという「住居」の中で本を読んだり料理をしたり、くつろいだり、あるいは昼寝しながら車が自分があらかじめ指定した場所に連れて行ってくれるようになるかもしれない。

これはなかなか快適かもしれない。日本中を旅をしながら普段と似た生活を送ることができる。定まった住所がなくなり、道路の上や駐車場や広場や、そうしたところが日々の居場所になる。「旅に生きる」ことが簡単に実現できる。これは、なかなか愉快な暮らし方かもしれないと考えているのだ。

ただそのためには、「レベル5」とされる最高度の自動運転技術とその適用を可能にする道交法の改正が必要。10年はかかるだろうな。

2018年3月16日

日本の大臣、大丈夫か

今日の参院予算委員会での麻生財務大臣の答弁の中で、彼が朝日新聞によって森友学園問題の財務省による文章改ざんが指摘されたことについてどう思うかと言うことに聞かれ、彼はその回答の中で「朝日新聞はめったに読まない新聞だから、よく分からないが・・・」と述べた。

どの新聞が好きか嫌いかは個人の趣味としてあるとしても、少なくとも朝日はわが国を代表する全国紙の1つである。日本の主要な言論を構成している1つである。それにそれに目を通さないというのはどういうことか。

シャレで言ったのならわかる。しかし自分の考えに沿わない、気に入らないからと言う理由である特定の新聞を読んでいないとしたらそれはあまりにもお粗末だ。

自分の考えと違う言論であればあるほど、そういったものに目配りをし、情報を集めるのが政治家として当然の行いのように思うのだがどうなのだろう。せめて主要新聞の見出しくらい読みなさよ、漫画だけじゃなく。

2018年3月6日

第90回アカデミー賞授賞式


第90回目のアカデミー賞授賞式があった。

日本でもいろんな映画祭が行われていて、その中には日本アカデミー賞もあるのだが、本物(本場)のアカデミー賞授賞式に比べればそれはまるで子供だましのようで、同じ「アカデミー賞」でも彼我の違いは驚くほど。米国のエンターテインメント分野の奥深さを知る。

アメリカのアカデミー授賞式では、数年前に白人中心主義ではないかという声があがり、それがきっかけかどうか知らないが選ばれる作品や授賞式の内容もずいぶんと変わった。昨年、「ムーンライト」が作品賞を受賞したのがひとつのエポックだった。
日本では昨日、3時間ほどのアカデミー賞授賞式のダイジェスト版が放送されたのだが、それを見てて思ったのは、よくこれほど多彩な才能や人種や何やかやが集まるものだという驚きである。
日本ではいまだに「働き方」に言及するとき、女性の職場進出に関連してダイバーシティ(多様性)という言葉がきまって使われたりするが、今回のアカデミー賞の授賞式を見ていて思うのはすでにそういったものは当然のことであり、何をいまさらと言った感じがしないでもない。
しかしその一方で、女性差別やセクシャルハラスメント、同性婚、人種格差、トランプの唱えるアメリカ中心主義といった社会の中での根深い問題も確実に認識されており、授賞式の中にそれぞれがうまくテーマとして盛り込まれている構成と演出に感心する。実によく考えられ、練られていて素晴らしい。

「#MeToo」のムーブメント支持や、ミラマックスの映画プロデューサー、ハーベイ・ワインスタインへの痛烈な批判も予想どおり。

それにしても、アカデミー賞の授賞式では毎年コメディアンあるいはコメディアンヌが視界を努めているが、彼らは凄いなあと感心させられるのは、既成の権力を容赦なく笑い飛ばすことで批判し、常識をスマートな表現で揺さぶる技を持っていること。テクニックだけではない、その前にそうした社会意識を持っていることといっていい。

 

2018年3月1日

ビールはサラダだ

カナダ・バンクーバーのダウンタウンの南部、グランビル橋の下、フォールスクリークに突き出た小さな島のような半島が、グランビル・アイランドだ。

ここにあるパブリック・マーケットは、鮮魚、青果、精肉、各種デリやケーキ、チョコレートなどたくさんの食料品の店がひしめく屋内マーケットである。観光客はもちろん、新鮮な食材が手に入るだけに地元の人たちで賑わっていた。

そのすぐ近くにある地ビールの店、Granville Island Brewingでは工場できたてのビールを飲むことができる。店頭にはビール・サイエンスと称して「BEER IS SALAD!!」という妙な理屈の看板があった。


できたてのビール片手に「これはサラダか?」と意見を戦わすのも一興である。

2018年2月25日

ドキドキを売ろう

バンクーバーの市街地は思っていたより小さなエリアだ。徒歩でだいたい回れる規模だと言っていい。

その市街地から車で北に一時間ほど走るだけで、森林リゾート的な場所を訪ねることができる。観光地して有名なのが、Capilano Suspension Bridge Parkである。見どころはその名の通りの吊り橋とCliff Walkと名づけられた展望コース。

この公園への入場料は、42.95カナダドル。3600円ほど。安くない。


ただ歩くだけなら30秒もあれば渡りきるほどの「ちょっとした」施設だ。目を見張るほどの高さでもないし、そこを歩かなければ見ることができないといった景観もない。だが渓谷の山側の岩肌から飛び出した造作物の美しさゆえか、人気がある。


観光用の目的での同様の設置場所なら、日本でもたくさん考えられるはず。少し工夫するだけでもっと魅力的なクリフウォーク(絶壁渡り)ができる。地方の売り物になること間違いない。

問題は作れるかどうか。技術的な問題ではない、意思決定的な問題として、日本で役人がそれを決められるかどうかである。

このクリフ・ウォークを真似てでも、他より早くこうした施設をつくりPRしたところが勝ちだ。

2018年2月20日

バリア有り

2020年の東京オリンピック・パラリンピックをひかえ、都内やその周辺地域の建物や施設でバリアフリー化が進められている。結構なことだと思う。

下記の写真は、そんななかのJR新横浜駅の新幹線ホームの様子。視覚障害者のために敷かれた黄色い点字ブロックにピッタリとくっついて設置された操作盤が気になった。ホームガードのすぐ脇に、つい最近設置されたものだ。

点字ブロックにはかかっていないからセーフ、という駅の判断がここには見える。


白杖をついて、あるいは盲導犬と歩く視覚障害者が、ここをどうやってうまく通れるか。彼らはこの場所で、おそらくは体の一部をこの操作盤の角にぶつけることになる。

金属製の操作盤だ。角に膝をぶつけただけで十分イタイ。バランスをくずすと、転倒するだろう。

バリアフリーどころか、誰が見てもバリア有りーだ。

どうしてこんな簡単なことが、駅の関係者には分からないのだろうか。あるいは、分かってても面倒だから、あるいは組織の論理を乱さぬようにものを言わないようにしているのかもしれない。おそらく後者なんだろうナ。

僕がホームにいた駅員に声をかけ、このままだと視覚障害者にとって危険だと告げても「私には分からない。ほら、JRに苦情をのべる窓口というのがあるでしょう・・・。そこに電話してください」との答えが返ってきた。自分が働いている職場なのに。けが人が出るまで分からないのだろうか。

2018年2月14日

早咲きのさくら

先週末に訪ねた三浦海岸の駅前ではもう桜が花開いていた。夕暮れ後、ライトアップされていた河津桜のショット。


2018年2月12日

当たり前って思われてること、当たり前じゃないことがたくさんある

今朝の新聞一面から。「引っ越し難民 大量発生?」

4月の初めは学校の入学時期であり、会社への新入社員の入社時期であり、人事異動の時期でもある。3月に高校や大学を卒業して会社に入る若者たちの多くはそれまでのアパートを出て、通勤先を考えた場所に新たに部屋を借りる。

4月1日づけでの転勤の辞令を受けたサラリーマンは、3月の末から4月第一週にかけてあたふたと引っ越しの準備をしなければならない。

ただでさえ人不足のサービス業の典型である引っ越し会社では、この繁忙期に人を集めるのに苦労する。トラックのドライバーがまず不足する。

引っ越しのアルバイトは、かつて大学生の定番のひとつだったが、体力と気力を必要とするキツイ仕事だ。だから、最近は敬遠されがちらしい。

アルバイトの日給は一万円から一万三千円。他のバイトと比べ悪くはないのだろうが、それほど大きな金額ではない。僕が学生バイトで引っ越し会社の手伝いをしていたときの二倍程度にしかなっていない。もう40年近く経っているのに。同じ期間で、私立大学の初年度納付金は3倍になっている。

本当に日本の給料は世界の他国に比べてあがっていない。デフレでものの値段が上がっていないから、日々の生活感としてはまあまあという感触で来たのだろうけど、他のOECD諸国などから見れば日本人の給料は、ヤスー! と言われてもしかたがない。

生活が成り立っているのだからそれで何が困るのか、と言われるかもしれない。これからどんどん困っていくのだよ。

高齢者社会(高齢化社会という言葉があるが、人類が誕生してからずっと、例外として戦争や飢饉や伝染病が蔓延した時期を除いて人類は「高齢化」してきているのに、いまになって「高齢化社会」というのはおかしいと僕は思っている)の日本では、老人介護のために間違いなく人を外国から呼ばなければならなくなる。近いうちに。

だってそうしなければ立ちゆかなくなるのは目に見えているから。ロボットが人間の介護者と同様の事ができるようになるのは20年くらい先だろう。言葉のコミュニケーションに難があっても、やっぱり人にはかなわない。

だけど彼ら彼女らだって、わざわざ外国である日本に人類愛でもってボランティアとして来てくれる訳じゃない。賃金を求める労働力として日本に働きに来るのだ。その時に競争的な賃金が払えなければ、誰もそんな国に好きこのんでやってくるわけはない。

かといって今の総理大臣がやっているような賃金上昇の仕方、つまり経済団体の企業経営者に給料アップを要請するのは明らかにポイントがずれている。なかには総理の気持ちを「忖度」してベースアップを発表した経営者もいるが、従業員の給料をどうするか考えることは経営者の仕事の根幹のひとつで、ゼロから自分で判断すべきことだ。

日本の総理大臣も企業の経営者も、やるべき事はひとつ。生産性を上げることだ。だからといって、何も国や企業を根底から揺さぶるようなイノベーションが必要という訳じゃない。

国はつまらぬ規制を撤廃し、前例主義で安穏とするスローな仕事の仕方をあらためること。企業は、これまたつまらぬ横並びの考えを変えて、もっと自由闊達な発想と行動力を発揮すること。単純である。

新卒の4月の一括採用? いい加減に考え直す時期である。人事部にとって慣れしたんだ儀式になっているだけ。年功序列や終身雇用? ほとんどの経営者が止めたいと思っているはず。であれば、止めればいい。それでもって、何か自分たちならではの別の仕組みによって優秀な人材が集まるためのアイデアを考えることだ。それができるかどうか、これから経営者の能力と責任が問われる。

2018年2月11日

上に昇るか、右に行くか

都内某所で乗ったエレベータのボタン。

誰かがイタズラで回しちゃったのかもしれない。でもこのボタン、見た誰もを一瞬「ひょっとしたら・・・」と考えさせる力を持っているように思う。

アタマのネジに油を差してくれるのは、普段の風景からちょっとズレた、こうしたさりげないものだったりする。


2018年2月6日

Three Billboards Outside Ebbing, Missouri

映画「スリー・ビルボード」の舞台は、ミズーリ州の寂れた片田舎の街、エビング。架空の、しかしミズーリにはこんな典型的な場所があるんだろうなと思わせる街である。

アメリカというとニューヨークやロス、サンフランシスコ、シカゴなどを思い浮かべ、そこがアメリカと勝手に想像してしまう。しかし実際は、アメリカはひとつの大陸の大半を占めるほどの巨大な国。地理的にも歴史的にも極めて多様である。

ミズーリというと、僕がまず思い起こすのは、チャーリー・ヘイデンとパット・メセニーの1997年のアルバム「beyond the Missouri Sky」だ。ものを書く際にBGMとしてよく流していたが、そのジャケットの写真が映す荒涼とした風景が、僕にとってのミズーリだった。 

映画に登場する人物はみんな、ある意味でどこかネジが外れている連中ばかり。しかし、それらがストレートに自分を表現し、どこか深いところで、いわば人間としてつながっている。

邪悪で軽薄そうな男も、自らの深いところに何かしらの悲しみを抱いていて、ひょんなことからそれに気付き、生き方を修正していくことができることを映画は示す。悪党にも一部の善の魂があることを描くことで、観るものを思考の縁へと連れて行く。

一方で、いかにも善人として周りから思われ、自分でそれを疑うこともない教会の神父らがいかに浅薄で社会の矛盾に目をつむり、形式的にだけ生きているかも映し出す。

主人公のミルドレッドを演じたフランシス・マクドーマンドの圧倒的な力強さだけでなく、登場人物がすべてその輪郭をしっかりと持ち、確実に描かれている。練りに練られた優れた脚本があってのこと。