2012年12月15日
モロッコへ 〜 エル・ジャディーダは猫の町だ(モロッコ /1)
どうしようかと思っていると、その職員が「国際電話か国内か」と聞いてくるので、国内と答える。すると彼はやにわに携帯電話を取りだし、相手の電話番号を教えろという。旅行会社にダイヤルした後、こちらに携帯を渡してくれた。ドライバーはゲートで待っているらしいので、こちらがどういった身なりをしているかなど伝え、ドライバーから僕を見つけてくれるように依頼する。
そして、空港職員に礼を言って携帯を返却して立ち去ろうとすると、前を立ちふさがれた。で、親指と人差し指をスリスリして札を数える仕草をする。礼をくれ、ということだ。もともとそれが目的だったのだと、その時に分かった。ジーンズの尻のポケットから1ドル紙幣1枚取り出し渡す。これじゃ少ない、もっとくれと言ってくる。もう1枚渡して、無理矢理押しのけまたゲートへ向かう。ひょっとしたら、公衆電話に貼ってある故障中の貼り紙はウソだったのかもしれない・・・。
これが今回のモロッコ旅行のスタートである。
その後、 カサブランカ空港から大西洋に面した港町、エル・ジャディーダへ向かう。ここはかつてポルトガルが支配していた海辺の町である。猫が多い。
2012年12月14日
12-12-12: The Concert for Sandy Relief
7時半にブルース・スプリングスティーン&Eストリートバンドの演奏で開幕され、ジョン・ボンジョビ、ビリー・ジョエル、ローリング・ストーンズ、エリック・クラプトン、ザ・フー、ピンクフロイドのロジャー・ウォーターズ、コールドプレイのクリス・マーティン、とりはポール・マッカートニー、そしてアリシア・キーという顔ぶれ。
New York Times紙の記事から |
ミック・ジャガーはコンサート前の取材に「こんなに大勢の年配の英国人ミュージシャンを集めたコンサートはなかったよ。もしロンドンが台風に襲われたら、君らは助けに来てくれなくちゃね」と冗談交じりに答えている。
コンサートが終わったのは、午前1時20分頃。6時間近く続いた長いコンサートだった。僕はテレビで見ていたが(チケットはプレミアムがつき、すごい高額になっていた)、会場に集まった観客も大変だったろう。あと、マンハッタン内のいくつかの映画館が映像を生で流した。入館料は無料にしていた。
このコンサートは、米国内だけで37局、世界中で200局ほどのテレビ局で放映された。(日本ではどうだったのだろう?) 視聴者は全世界で約20億人と見積もられている。当日の会場入場のチケット代だけで30億円の収入(募金)があった。放映中ずっと画面には募金への呼びかけが流れていた。最終的にどれくらいの募金が集まるか・・・。
ポール |
2012年12月11日
オープン・ランチセミナー『選択の科学』
今日、コロンビア・ビジネススクールでシーナ・アイエンガー教授を招いてのランチセミナーがあった。テーマは、Global Leadership Challenge for Japanese Companies。
彼女は90年代の半ば、京都大学で動機づけについて研究していた時期があり、日本についてもそれなりによく知っている感じだった。
彼女が2年前に出版したThe Art of Choosing は『選択の科学』の邦題で文藝春秋から翻訳が出ているし、またNHKの番組によっても彼女は日本人によく知られている。そのせいか、教室はほぼ一杯に埋まり、その約7割は日本人だった。
米国人の参加者は、以前日本で勤務をしていたことがあるビジネスマンなどが多かったが、彼女の研究分野についてはほとんどしらないまま、セミナーのテーマにひかれてやってきた連中が多かった。質疑応答で、今度の衆院選の結果がどうなるかなど彼女に聞いても答えられるわけがないのに。
ところで、先々週の金曜日、早朝のコロンビア大学のキャンパスで彼女とすれちがった。金曜日には補講や特別なプログラムを除き、授業は組まれていない。だから、その朝のキャンパスは人出が少なく、とても静かだった。
白杖を頼りにする彼女は、まるで周りの空気を振るわせないよう注意しているかのようにとても静かに歩いていた。その朝はかなり寒かったせいか、彼女はフード付きのコートですっぽりと頭を覆っていた。注意しないと彼女だと誰にも分からないかのように。だからその時は気がつかなかったのだけど、今日見ると、彼女の耳がとても大きいことに気がついた。(なぜか最近、耳が大きい人が気になる)
セミナーで彼女の話を聞いていて感じたのは、とても聡明で、ユーモアがあり、そして何よりも正直な人だと云うこと。知らないことは、知らないと言う。分からないことは、分からないと返答する。飾らないのである。飾っても仕方ないことを経験的によく知っているのだろう。
彼女の先の本の中に、自分が光を失ったときのことにふれて、「失明に立ち向かうことで、わたしは強い精神力を身につけたに違いない(それとも持ち前の精神力のおかげで、うまく立ち向かうことができたのだろうか?)」というくだりがある。
彼女が、質問に対して "I don't know." と、少し困ったような感じで、しかしはっきりと答えるのを聞いていてその言葉を思い出した。
2012年12月8日
真夜中のカーボーイ
リンカーンセンター内の劇場で『真夜中のカーボーイ』を観る機会があった。
公開されたのは1969年。40年以上むかし。60年代終わりから70年代にかけて作られたアメリカン・ニューシネマと呼ばれる作品の一つで、学生時代に高田馬場にある早稲田松竹で観たのが最初だったと記憶している。
監督のジョン・シュレジンジャーが英国人だということは、今日まで知らなかった。てっきり米国人と勝手に思い込んでいた。そう考えてみると、どこか Englishman in New York の視点で描かれているような気がしてくる。
ニューヨークを舞台にしていながらエンパイヤステート・ビルのショットやセントラクパークを映した場面などは登場しない。マンハッタンを上から見下ろした空撮など一つもない。ニューヨークという街に対する共感の度合いが低いのである。
ゲイの中年男性や売春婦、マリワナパーティなどの風俗も描かれているが、英国人であるシュレジンジャーがその当時のニューヨーク、あるいはアメリカに見たのは、社会の底辺で喘ぐ下層階層と中産階級の対比だったのではないかと思った。自由の国アメリカは、英国と変わらぬ階層社会だったわけだ。
この映画のなかでもっとも気持ち悪かったのは、ラストの場面で主人公の2人がマイアミ行きのバスの中で乗り合わせる、他のアメリカ人乗客たちである。異端者に向ける冷ややかで醒めた視線が、映画が撮影された当時のアメリカの一般的な「世間」なのかどうか分からないけど、シュレジンジャーにはそう写ったのだろう。
2012年12月7日
秋学期のコンサル授業終了
マッキンゼー出身の講師は、MITで数学を専攻して修士号と博士号の学位を取っているインド人。配布資料を見ても、思考がすごく緻密で論理性が高いことが分かる。インド人独特の英語のなまりが強く、話していることが時々分からないのが難だった。
もう一人は南米の出身。ブーズのNY事務所でシニアVPを勤めていたが、リタイアしようと思っていた頃コロンビアから誘われてビジネススクールに来た(米国の企業では、石を投げればVPに当たる。VPは日本企業で云えば課長あたりのレベル。日本人が思っているところの上級管理職は、頭にシニアかエグゼクティブが付くVP以上である)。
若い頃、ウォートン(ペンシルベニア大)でDoctor candidate まで進んだが、事情があって実務界に就職したと言っていたから、もともとアカデミックな世界に興味があったのだろう。新興市場参入のための市場分析の際に、マクロ経済的な指標を用いた高度な分析手法を採用していたのも頷ける。最終講義が終わった日、彼と食事を一緒しながら彼の奥さんが日本語ができることをなにげなく話された時はびっくりした。
コロンビアでは、コンサルティング会社は投資銀行とならんで学生の人気就職希望先で、コンサル関連の授業には多くの学生が集まる。大学もそのあたりのことをよく分かっていて、コンサルティングの実例を学生に講義できる講師を客員として招き、学生のニーズに応えている。開講講座は、学生と世の中にニーズに合わせて柔軟に変更される。
一方、大学の正規教員はコア(必修)科目を体系立てて教えることが求められている。それと当然ながら、彼らには研究の義務がある。正規教員と客員教員で、役割が合理的に分担されている。
2012年12月6日
衆議院選の投票を終えて
この季節、募金を集める救世軍の鐘の音が街角の方々で聞こえる。近くで夕食を済ませた後、ロックフェラーセンターへ立ち寄った。クリスマスツリーが飾られてから初めて訪れたが、ツリーは意外と地味だなあという印象。
その後、タイムズ・スクエアを経由して地下鉄の駅へ向かう。あれ、アップルストアがこんなところに、と思ったら、よく似たマイクロソフトのショールームだった。ガラス張りの店の感じ、店内のテーブルの並べ方、商品(Surface tablet)の展示の仕方、スタッフのユニフォーム、すべてがアップルの真似と言っていい。この店の存在はこれまで気がつかなかったが、10月24日からオープンしているらしい。
マイクロソフトの店を出た後、路上で名物パフォーマーのNaked Cowboyに会う。今日は陽が沈んでからは気温が下がり、手袋が必要なくらい風が冷たいにもかかわらず、彼は裸。これから、彼がパフォーマーとして真骨頂を発揮するシーズンだ。
元気だ |
2012年12月4日
Life of Pi
原作はヤン・マーテルの小説。2002年に出版され、その年のブッカー賞を受賞している。日本語訳も出ている。タイトルは『パイの物語』。2004年に竹書房から出版されているが、単行本は絶版になっているようだ。日本ではあまり読まれていない本なんだろう。
マーテルという作家は1963年にスペインで生まれ、コスタリカ、フランス、メキシコ、アラスカで育ち、成人してからはイラン、トルコ、インドで暮らしてきたという。そのなかでもとりわけインドが彼に与えた影響が大きかったということか。
この映画は、アン・リー監督にとってはCGを本格的に使った初めての作品である。かつては特殊効果と呼ばれていたCG映像は、いまでは映画制作にとって不可欠なものになってきている。リーはその効果を自分なりに試そうとしたのだろう。先月観た『クラウド・アトラス』(★★☆)もそうだが、CGを屈指しなければ作れなかった物語が、どんどん映像化されていく。
この物語を題材に選んだところは、アン・リーらしい。SFや戦争ものではきっと発揮できなかった、彼ならではの映像センスをコンピュータの力を借りて実現している。
物語も映像も音楽もすばらしい! ★★★★☆
http://www.lifeofpimovie.com/
2012年11月26日
サックスの壁面ディスプレイ
2012年11月24日
K46歳になった
* 芥川龍之介『河童』、あるいはフィッツジェラルド『ベンジャミン・バトン』。
クリスマス・シーズンの始まり
ニューヨークの街は、これからクリスマス一色になる。
2012年11月23日
Thanksgiving Dayのパレード
この日は、朝早くからパレードの会場となったセントラルパーク・ウエストとブロードウェイは身動きができないほどの人で賑わいを見せる。
僕はまず、59丁目のコロンバスサークルへ地下鉄で出かけてみたが、地上への出口の多くは閉鎖されている。なんとか人をかき分けながら地上に出るが、規制が引かれていて近くへ行くことができない。そこで、また地下鉄に潜り、今度はパレードの終点である34丁目へ。ここでもまた、すごい人出。
パレード終点の34丁目周辺の賑わい |
セガのキャラクター、Sonic the Hedgehog |
The Pillsbury Doughboy |
出番を待つ大カメ? |
2012年11月22日
ボブ・ディランのコンサート
開演前の館内の様子。
コンサートは当初午後8時開演の予定だったのだけど、一週間ほど前に7時半に変更になったという連絡がメールと電話であった。
マーク・ノップラーの演奏で幕が開き、休憩を挟んでボブ・ディランのコンサートに。その間、ディランが観客に話をしたのは、エンディング間近にバンド・メンバーの紹介をした時だけ。それ以外は、何も話さなかった。何曲かステージ中央で歌った以外は、上手側のピアノに向かったまま淡々と歌い続けた。
肉眼では米粒ほどの大きさのディランの顔を、オペラグラスで眺めていた。これほど広い会場だと、多くのコンサートはステージの両脇か上にスクリーンを設置して、ステージ上の手持ちカメラが捉えたアーティストのアップ映像を映し出すのだが、そうした趣向はなし。ディランなら、「俺はミック(ジャガー)とは違う」と言うのかもしれない。
コンサートが終了したのは午後11時過ぎ。帰宅した時には、日付けが変わっていた。
それにしても、ロックミュージシャンは息が長い。ボブ・ディランは71歳である。ニール・ヤングとピート・タウンゼントは67歳、スティーブン・タイラーは64歳、そしてミック・ジャガーは69歳でキース・リチャーズも12月で69歳になる。いずれも老いてますます、ではないが、ロックの精神をそのままに、年輪を重ねた他に真似のできない味を醸し出していることに敬服。
2012年11月21日
大学は多すぎる
http://www.jcer.or.jp/column/otake/index422.html
彼はその中でOECDレポートを引き、以下のように高学歴社会は失業率が低いという論を展開している。
世界各国で高学歴化が進展しているのは、高学歴者に対する需要が増えていることを反映している。実際、日本でも高学歴者の失業率と低学歴者の失業率を比較すると、高学歴者の失業率の方が低い。たとえば、OECD(2012)は、 「より高い学歴を達成するほど、就業率は上昇し、失業率は低下する傾向にある。日本において、 後期中等教育が最終学歴である男性の就業率が 85.7%、失業率が 6.4%であるのに対し、大学型高等教育または大学院のプログラムを修了した場合、就業率は 92%に上昇し、失業率は 3.4%に低下 する。女性については、後期中等教育から大学型高等教育へと学歴か上がることにより、就業率 は 61.2%から 68.4%へ上昇し、失業率は 5%から 3.2%へ低下する」と指摘している。現状では高学歴者の方が失業率が低いというのは分かるが、では仮に大学進学率が100%(今の高校のように)なったとしたらどうなるのだろうか。失業率がゼロになるという考えは現実的ではなく、高学歴であろうとなかろうと失業者は発生する。
そもそも、大学卒を「高学歴」と考える古い考えをそろそろやめた方がいいと僕は思っている。これはまだ大学進学率が20%とかの時代、一部の人たちしか大学で学ぶことができなかった時の発想だ。
ところで、このコラムで大学進学率の国際比較がされている箇所で、大竹は次のような指摘をしている。
図4で示したOECDの国際比較によれば、大学進学率のOECD平均は、62%であり、日本の大学進学率はOECD平均よりも10%ポイントも低い。米国では74%であり、北欧諸国は概して高い。韓国も71%と日本より20%ポイントも高い。日本の進学率が90年代に上昇してきたことは事実であるが、そのレベルが先進国の中では低い方であるということは広く知られるべきであろう。ところが実際のところは、図4のもとになったOECDの資料Education at a Glance 2012 のTable C3.1. Entry rates into tertiary education and age distribution of new entrants (2010) では、引用されたTertiary-type Aの男女合計値ではそうなっているが、性別ごとに見ると男性ではOECD平均55%に対して日本は56%と同等以上である一方、女性はOECD平均69%に対して49%とかなり低い数値である。より大きな意味を持つのは、この男女間の数値の違いなのである。
http://www.oecd.org/edu/eag2012.htm
なお、ここでデータが示されている31カ国中で女性の進学率が男性に比べて低いのは日本とメキシコだけ。しかも、メキシコは男性33%対女性32%とほぼ同値だから、日本だけが明らかに女性の進学率が低い。
上記に則って考えれば、またOECD平均値が基準だとする価値観を採用するならば、日本が対応を考えなければならない課題は、「女性」の進学率をどのようにしてどこまで上げるかということになる。進学を希望する女性が大学へ進むことができるのは、大変結構なことだと考えている。しかし、男女間の雇用環境の格差が歴然として存在する日本でそれが実現したからといって、そのことで大竹がコラムで書いているような失業率の減少が期待できるのかどうか・・・大いに疑問が残る。
また、引用されているデータはEntry rates(入学率)であり、卒業率ではないことも注意する必要がある。日本の場合は大学進学者数と大学卒業者数がほとんど同じと考えていいだろうが、米国では学費など教育にかかる資金が続かず中退する学生が多い。米国の大学は授業料が高いうえに、大学生の多くは自分で教育ローンを組んで学費を払う。また日本の大学は入学さえすれば卒業できると言っても過言ではないが、他国ではしっかり勉強させられ、学業不振でドロップアウトさせられる学生は日本に比べてはるかに多い。つまり、Entry rate の比較がどれだけ正しいか、その確からしさも気になるところである。
米国では教育の機会が日本より重層的であり、かつそれに対する社会の許容度も高いように思う。日本では、大学とは高校を卒業したらすぐに行くところとされている。米国でも多くはそうだろうが、日本以上にいろんなルートがある。高校卒業後しばらく働いてお金を貯めてからコミュニティカレッジに行き、その後さらに大学に転入するとか。またオンライン大学などのネット教育も盛んだ。アリゾナに本拠地を置くUniversity of Phoenixは現在、50万人の学生が学ぶアメリカ最大の大学となっている。(英国のOpen Universityは、25万人の学生を抱える英国最大の大学である。)
日本の大学教育に関しての問題点だと個人的に考えている点を整理したい。
・大学は18歳で(高校を卒業したらすぐに)入るものという通念。高校生側の問題ではなく、社会がそうした圧力を持っている。企業の新卒一括採用など。
・教育の面でテクノロジーの利用度が低い。大教室で行われている一方通行の教養科目などは、オンデマンドで代替できる可能性が大きい。昨日のニューヨークタイムズ紙に掲載されていた「College of Future Could Be Come One, Come All」と題した記事が参考になるだろう。
http://www.nytimes.com/2012/11/20/education/colleges-turn-to-crowd-sourcing-courses.html?pagewanted=all
・大学数がむやみに多い。文科省役人の天下り先確保のためとしか思えない。
・学生が親がかりである。日本の大学生は勉強しなくてもすむから教養が育たないだけでなく、親元を離れないから自立心も育たない。
今年の夏、オレゴン州のポートランドにいる友人を訪ねる飛行機のなかであった女性を思い出した。僕の隣の席にいた彼女は、30歳くらいだったろうか。オレゴンの大学を中退してニューヨークに渡り、いくつかの仕事を経験した後、チェルシーのあるチョコレートショップの店長を任されて何年か働いたという。貯めた資金で、こんどはシアトルに行って栄養学の勉強を本格的にやるそうだ。シアトルの学校に入る前に、ポートランドにいる親に顔を見せに寄るのだと話していた。
大学は卒業するに越したことはないのかもしれないが、卒業証書にどれほどの価値があるか考えてみるのもひとつ。大学を自分の目で見て、やっぱり違う、と思えばいったん止めて働くなりして、また学びたい事ができたら入り直しできるような社会がいい。
2012年11月19日
今村昌平のドキュメンタリー
失踪した恋人を探す女性とインタビュアー(露口茂!)たちが話をしていた茶の間の四方の壁が倒れ、突然そこが撮影所のなかのセットであることが示される場面がある。
寺山修司の映画『田園に死す』に、主人公の少年と母親が食事をしている部屋の四方が放たれ、そこに新宿の街の雑踏が現れる衝撃的なラストシーンがあるが、これは今村の本作品からの発想だったわけだ。
2012年11月17日
The Dukes of September Rhythm Review
ロムニーへの反対意見としての代表的なものに以下の新聞記事がある。
http://www.nytimes.com/2012/10/06/opinion/blow-dont-mess-with-big-bird.html?_r=0
たまたまそれをきっかけにPBSのサイトにアクセスし、少しばかり寄附を送ったらコンサートのチケットが送られてきた。
今日、リンカーンセンターのDavid H. Koch シアターで行われた、ドナルド・フェイゲン、マイケル・マクドナルド、ボズ・スキャッグスのコンサートがそれだ。(日本でも同様のコンサートが先日、東京、名古屋、大阪で開催されたらしい。)
手元に届いたコンサートチケットは、2階席の最前列というとてもいいシートだけど、金額の欄は $0.00。なぜかというと、これは録画収録を目的としたライブ・コンサートだったからだ(僕は会場に入って、そのことを知った)。
そのためか、曲の演奏中に突然演奏をやめて、最初からやり直したり、アンコールではまたその同じ曲を演奏したのは、あとで局が行う編集のためだろう。お客さんもそのあたりは承知の上だから、不満の声もない。みんな、寄附をしたお返しにチケットを受け取ったPBSの支援者なのだろう。
夜8時から始まり、アンコールも入れて11時過ぎまで続いた長いコンサートだった。
2012年11月16日
2012年11月14日
NYの書店では犬もすっかり自由だ
午後、調査の打合せでグラマシー(おおよそ南北は18丁目から21丁目のあいだ、東西は3番街とパークアベニューのあいだ)と呼ばれているエリアへ。そのあと、ユニオン・スクエアの本屋、バーンズ&ノーブルを覗いた。
店の2階へ上がると、売場のインフォメーション・カウンターのすぐ前にいきなりゴールデン・レトリーバーが一匹、ドンと寝っ転がっていた。
実に気持ちよさそうに寝ている。飼い主は・・・たぶん、店内のどこかにいるのだろう。
時折、犬好きの客が寄ってきてからだを撫でると、眠たそうな目を少しだけ開けて振り返り、また眠りに入る。
店員も含めて誰もがそのまま放ったらかしにしてやっているのがいい。
2012年11月13日
Circle Line NY
今の季節は、出発が午後4時からの一便のみ。桟橋にはサークルライン用のドックが3つあり、それぞれ船が停泊しているのだけど、平日ということもあってか実際に出航するのは一隻だけだった。
ハドソンリバーを下る。真ん中に工事中のワン・ワールドトレード・センタービルがそびえている。 |
自由の女神像の前をかすめる。ハリケーンの影響で、まだ再公開されていない。 |
イーストリバーを上る。ブルックリン・ブリッジを抜けて。 |
帰りは逆コースを。ブルックリン・ブリッジをくぐりマンハッタンの南端方面へ。 |
右手にロウワー・マンハッタンを見ながら進む。低い雲が垂れ込めていた。 |
桟橋到着間近。真ん中のスリットが42丁目の通り。 |
2012年11月11日
木下恵介の映画
「陸軍」は、製作年が戦時中の1944年となっていたので、戦意高揚の映画かと訝しがりながら劇場を訪れた。しかも冒頭のクレジットで、「陸軍省後援」と映し出される。映画は、少年の頃から体が弱く、また気弱で母親からいつもはっぱをかけられていた少年がやがて志願して戦地へ出征する物語である。
だが、陸軍省の思惑は完全に外れたようである。当時の世間の風潮と軍部の管理統制のもとでも、木下は彼らしいセンチメンタリズムと反戦への気持ちを映画に見事に織り込んだ。ラストシーンでの田中絹代が演じる母親が涙をそそう。
もう一つの方は、壺井栄の小説を映画化したもの。1954年の作品で、高峰秀子が主役の大石先生を演じている。彼女も素晴らしい。黒澤が男を描くのが得意だったように、木下は女を描くのがほんとうにうまい。
冒頭、岬の分教場の女先生として師範学校を出たばかりの大石先生が赴任してくる。島(小豆島)の子どもたちは、早速「大石、小石。大石、小石」とはやし立てる。英語字幕は "Miss Big Stone, Miss Pebble. Miss Big Stone, Miss Pebble." で、これでは意味不明である。字幕翻訳は難しい。
壺井栄が『二十四の瞳』を書いたのは1952年。彼女が52歳の時であり、この作品で人気作家になった。彼女は同郷の壺井穣治が早大の英文科に入学すると自分も上京し、1925年に学生結婚をしている。若かった頃の彼らの生活は貧困を極めていたようである。夫がアナーキズムからマルキシズムに移行し、やがて治安維持法によって逮捕されたりしてるのだからもっともだろう。
彼らが住んでいた長屋には林芙美子や平林たい子が隣家にいたという。手塚治虫や石森(石ノ森)章太郎、赤塚不二夫ら優れた漫画家たちが住んでいたアパート、トキワ荘を連想させる。
嵐山光三郎は、壺井について「栄が書く小説は、一見平凡に見える生活に庶民のしたたかな知恵があり、ユーモアがあふれ、希望があり、故郷を深く愛しています。「思想の文学」ではなくして「生活の文学」なのです」と書いている。
『二十四の瞳』で主役の大石先生を演じた高峰秀子は5歳から子役として働き続けて(義母によって働かされ続けて)いたわけで、そのため小学校も出ていないことをその後後悔していたという。基礎的な学校教育すら受けていないので、年をとった後も数の計算が苦手だったらしい。
しかし、彼女は55歳で女優を引退してから、文筆家として数々の本を著している。どれも高峰秀子ならではの確かな眼差しとしなやかな文章である。日々の生活を見つめるなかから気づき、得るさまざまな知恵があふれている。
『二十四の瞳』の中に登場する12人の子どもたちの中にも、別の理由(貧困と家庭の理由)から高峰同様に小学校すら途中で諦めなければならなかった子どもたちが何人も描かれている。当時はそうした時代だったのだろう。
先日、大学の新設申請を田中文科大臣から不認可とされた新設予定の大学の学長や理事長らが、それに対して「学生たちの将来を潰すのか」と反論していたのを思い出した。まあ、経営責任を負っている連中の反論のための表現であろうが、メディアがそのまま同じ論調で同調するのはよした方がよかった(自分でものを考えていないのがばれてしまうからね)。
文科省や大臣を突き上げたい気持ちは分かるけど、僕はさっきの言葉には大きな違和感を感じている。新設予定の3大学がどうということではなく、一般論として日本では学生にはいくらでも進学の選択肢があり、また自らが学習する意欲があればたいていのことはどうやってでも学ぶことはできる。日本で、特定の大学に進学しなければ学べないものなどあるだろうか。ない。
Film Society of Lincoln Centerは、先の2作品のレビュー(批評)において、主役を演じた田中絹代と高峰秀子について、それぞれ the boy’s mother, the great Kinuyo Tanaka、a new teacher (Hideko Takamine, magnificent) といった表現で称賛している。
『二十四の瞳』 |